『旦那様、朝です。起きてください』
「ん……」
惰眠を貪っていた頭に届いた念話によって、俺の意識は一気に浮上した。
目を擦りつつ身を起こせば、そこにはいつの間にか日常となってしまった光景が広がっている。
俺が寝床としていた場所は、布団の敷かれたフローリングだ。
以前まで使っていたベッドでは今、なのはとヴィヴィオが寝息を立てている。
彼女らの方に視線を向けてみれば、なのはの胸元に不自然なふくらみがある。
そこにいるのはヴィヴィオだろう。猫みたいに丸くなって眠るのがあの子の癖だ。
そんな状態でなのはのほうに擦り寄っているんじゃないか。小さく笑みを浮かべて、俺は布団から這い出ると着替えを始めた。
俺の部屋が領土侵犯されてから個別の部屋はなくなって、着替えも何もかもここで行う羽目になっている。
俺が着替える場合には別に良いのだけれど、なのはたちが着替えるときは外に追い出されたり。その度に女所帯に一人だけ存在している男の哀愁を感じたり。
寝ぼけ眼でジーンズに足を通して柄物のシャツを着ると、ぺたぺたとフローリングを踏みながら、そっとリビングに移動した。
時刻は五時半。まだ誰も起きていない我が家はしんと静まり返っている。
外から聞こえてくる音は微かな車の騒音と、新聞屋の原付が上げる排気音ぐらい。
今日の代わり映えのしない一日が始まる。
そんなことを思いながら、俺はあくびをかみ殺してキッチンに立った。
「Seven Stars」
『はい』
Seven Starsの名を呼べば、勝手知ったるなんとやら。
念話と同じ要領で俺にだけ聞こえるよう調整すると、Seven Starsはウィンドウを開いてニュースを流し始めた。
耳に流れ込んでくるのは、各朝刊の記事紹介。特に気になる内容もない、か。
キャスターの言葉を聞き流しながら準備を進めて、よし、と小さく頷く。
今日はスクランブルエッグで良いか。
パンかご飯かに迷うけれど……なのは、シャマルは日本で暮らしていたからパンより米の方が喜ぶ。
シグナムも小さい頃から俺と暮らしていたせいでご飯。ヴィヴィオはどれでも良いから問題はない。強いて言えばコーンフレークが好きだったか。お子様め。
……だったら和風の方が合うんじゃないの? という疑問は聞こえない。
洋食のおかずをご飯で食べるのは俺の趣味だ。
蛇口を捻りつつ米を人数分用意すると、じゃぶじゃぶと研いで炊飯器へ。
急速炊き込みボタンを押すと、今度はフライパンにバターを乗せつつうむむと唸った。
出来たてを用意するならまだ少し早いか。連中が起き出すのは六時半だ。時間は台所に立ってからまだ十分ほどしか経ってない。
仕方ない、と思いながら俺は肩をすくめてベランダへと。
リビングの大窓を開けて出られるベランダは、八畳ほどの広さがある。
今まではここでシグナムが木刀やら竹刀やらレヴァンテインを気分で持ち替えて素振りをしたりしていたけれど、現在は洗濯物スペース。
昨日は乾ききってなかったから取り込み損ねた衣類に触れてみれば、どうやら今度こそ取り込めそう。
隅に寄せておいた洗濯籠を片手で持ちつつ、せっせと洗濯物をまとめ始めた。
俺の下着やらなんやらもあるものの、所帯が所帯なので女物が圧倒的に多い。
シグナムのはまぁ慣れてるから抵抗はなかったものの、なのはとシャマルのは……と思いつつも、身に着けられてもいない下着にリビドー感じるほど青くもないので機械的に洗濯籠へと放り込む。
ヴィヴィオの女児パンツは色気もへったくれもないので論外である。
洗濯物を一式取り込むと、再びリビングに戻って今度は畳む。
服は普通に畳めるものの、下着は……まぁ、無双の境地に至って処理。
取り込むときと畳むのでは、色々と違うのである。
『慣れましたね』
「いい加減に慣れないと駄目だろ」
『初々しさがなくなって悲しい限りです。
最初の頃は顔を強張らせつつ作業していましたのに』
「うっさい」
それは失礼、とからかってくるSeven Starsを一蹴しつつ溜息を付いて、畳み終わった服をソファーの上に並べるとキッチンに舞い戻った。
時間もちょうど良い頃合。もう起きてくるだろう。
ソーセージを茹でてスクランブルエッグの卵を溶きつつ人数分の皿を用意して、と。
同時進行で作業を進めていると、蝶番の軋む音が響いた。
目を向ければ、そこにいたのはシグナムだ。流石に朝が早い。
もし俺が主夫やってなかったら、この子は今よりもっと早く起きていただろう。
「おはようございます、父上。
朝ごはんはなんですか?」
「スクランブルエッグ」
「……好きですね、スクランブルエッグ」
「……卵料理は楽だし美味しいじゃないか」
「否定はしません。
それに父上の料理は好きですから。
何か、手伝いましょうか?」
「……そうだな、料理の方は良いや。面倒ってわけでもないから。
洗濯物を畳んでおいたから、それを持って行ってくれるか?」
「分かりました」
小さく頷いて、シグナムはソファーに乗せられた洗濯物を手に自室へと戻ってゆく。
ちなみにシャマルはシグナムと同室だ。元々仲の良かった二人だから、特に反発もなく相部屋に納得してくれた。
ちなみに俺は自分の部屋がなくなることに徹底抗戦したけれど、ヴィヴィオに駄々こねられたなのはに負けてご覧の有様。
邪魔な私物は全部レンタル倉庫行きだよ。
そんなことを思っているとシグナムがリビングへと戻ってくる。
彼女はソファーに座るとテレビの電源をつけ、ぼーっと画面に視線を注ぎ始めた。
俺は視界の隅でシグナムを見ながらも手を止めず朝食の用意を進める。
そうして言葉を交わさずに過ぎた時間はどれぐらいだろうか。
それほど長くはなかったと思う。
「父上」
「なんだ?」
投げかけられた言葉に視線を向けず、声だけを返す。
俺が忙しいと分かっているのか、シグナムは気にせず先を続けた。
「父上は今の生活をどう思っていますか?」
「どう、って? 楽しいけど、それがどうかしたか?」
「……いえ、それなら良いのです。
嫌気が差していたら、と少し心配で」
「なんでまた」
思わず苦笑して、シグナムへと視線を投げた。
俺と同じように彼女も苦笑している。
「父上がこういった細かいことを好きなのは分かっています。
それに、戦うことが別に好きでないことも。
ただそれとは別に、求められているのならば応えたくなる……なんと云うか、良い人であることも知っているので」
「男に良い人って云うのは駄目だぞー」
「……あ、いえ、父上はそれプラス格好良いので大丈夫です!」
何故だか慌てたようなシグナム。
そんな娘の姿に苦笑をより濃くして、スクランブルエッグのでき具合を匂いで判断。
更に盛り付けつつ、フライパンにバターを乗せてもう一回。
今まで二人分しか作ってこなかったから、五人分を一気に作るのは不慣れなのだ。
ともあれ、少し意地悪だったかもしれない。
冗談だよ、と零すと、シグナムは微かに頬を膨らませた。
「……一応、真面目な話ではあったのです」
「悪い悪い。続けてくれよ。黙って聞いてる」
「よろしい。
……ヴィヴィオや高町さんに求められたから今の状態を続けている、と私は思っていました。
父上が望んだわけではなく、と」
要はノーと云えない日本人、ってことなんだろう。
好き好んで主夫生活をやっているわけではない、と。
確かに魔導師として復帰しようとは思っていたし、ヴィヴィオのベビーシッターを続けて俺は何をやっているんだろうと思わないこともない。
けれど――楽しいことは、確かだから。
これが俺の望んだ平穏だ。
確かに以前までの生活は刺激的で、満たされる感覚は存在していた。
けれど、それを求め続けるのはどうなのだろう。
あの状況は異常であり、足掻き続けているという自負があったからこそ満足できていたのだと思う。
一生懸命、自分のできることを尽くしていた。そんな風に毎日を過ごしていたから。
けれど、それはそれだ。
飢えているなら飢えていれば良い。満たされないなら満たされないで良い。
望んだ毎日を甘受している今、閃光のように進み続けた過去の日々は必要ない。
「……俺は幸せだよ、シグナム。
お前がいて、皆がいて。切羽詰った状況なんて何も起こらない日々だけど、それで充分だ。
もどかしさは確かにあるよ。けれど、無駄とは思わない。
それに、こうして主夫やってると色んな発見があったりして楽しいからさ。
……お前には、悪いと思うけれど」
「……えっ?」
「俺の守護騎士になりたい。それが、シグナムの夢だっただろ?
けど俺は現場から離れてこうしてるし」
「……そんなことですか」
安堵したような響が声には籠もっていた。
シグナムは苦笑を浮かべて、柔らかな視線を俺へと向けてくる。
「……確かに、父上の側で守り、戦うことができないのは残念かもしれません。
私の本分を発揮できるのは、それですから。
しかし今の日々でも、私にはできることがあります。
父上の選び掴んだ日々を守る。それが守護騎士である私の使命です。
……そう思っていたから、少し驚きました。
何を謝られたのだろうか、と」
「……そっか。良い娘を持ったもんだな、俺も」
「はい。こんな娘はそうそういません。大事にしないとバチが当たるというものです」
「おお怖い。じゃあシグナム大明神様の朝食は大盛りにしてあげましょう」
「よきに計らえ」
小芝居が途切れると、俺とシグナムは二人でくすくすと笑い出した。
そうしていると、俺の部屋から二つの人影が出てくる。
寝ぼけ眼を擦っているヴィヴィオと、しっかりと目を開いているなのはだ。
二人はリビングに入ってくるなり笑っている俺たちを不思議に思ったのか、同時に首をかしげる。
その様子がさっきから続いている笑いを加速させて、同時に俺たちは噴き出してしまった。
リリカル in wonder
―After―
薄いぼんやりとした意識の中で、なのはは自分が誰かに電話をかけているのだと思った。
何故かは分からない。自分はこれからそうしなければいけないという、意味の分からない義務感があったのだ。
しかし固い意志とは裏腹に、思考は掠れて酷く現実味が薄い。
どうしてだろう、と疑問に思った瞬間、ふと思い出す。
これは夢だ。まだ自分が子供と云って良い歳だった頃の夢。
それはいつのことだったか。
はっきりと覚えているわけではない、と思う。
過ごしてきた毎日の中に自然と埋没した、平凡な日々だったと――
いや、違う。
この日のことは、あまり思い出したくない類の代物として、なのはは記憶していた。
なのはの手にした携帯電話。それがずっと上げていたコール音が止むと。
もしもし、と疲れた様子の声が上がったとき、彼女は息を呑んだ。
どんな言葉を彼に向ければ良いのか分からない。確かこの時、自分の頭は真っ白になっていたと思う。そんな風に、なのはは覚えていた。
これはもう十年近く前の出来事。確か、正月を少し過ぎた頃のことだったか。
戦闘機人事件を切っ掛けに出世し、魔導師としての実力を認められ、どんどん先に行ってしまうエスティマに対して焦りを覚えていた時期の自分だ。
今から見れば、その時の焦りはとんでもなく幼稚だと思える。子供の癇癪それそのものだとすら。
しかし視野が狭まっていた当時の自分はそれに気付くこともできず、猪のように彼へと模擬戦を挑み、引き分け。
私は何もできないんじゃないか、なんて漠然とした不安を抱えて――けれど、友人たちに電話をし、話を聞いて貰って、これからエスティマに謝ろうとしている瞬間だ。
なんでそんな時のことを、とも思う。
有り体に云えば、なのはにとっての黒歴史。
夢ではなく目を覚ました状態で誰かからその時のことを聞かされたら、真っ赤になってやめて! と云うぐらいには。
が、夢の中の出来事に深く考えることなどできはしない。
意識が覚醒に――夢から覚めるのが近いと思いながら、なのはは過去の出来事を反芻していた。
『……なのは、だよな?
どうした? さっきまで顔を合わせてただろ?』
「……あ、うん」
頷き、幼い自分は声を止めてしまう。
謝らなければならないと思って電話したのは良いものの、やはり口にするのは躊躇ってしまうのか。
どうしてだっただろう、となのはは思う。
プライドが高くて云えない、というわけではないはずだ。
確かに自分は人より少しだけ頑固だとは思う。
けれど自らの非を認められないほどじゃないはずで、それは幼くても変わっていないだろう。
『……なんだよ。まだどっかおかしいのか?』
「お、おかしいって、酷くない!?」
エスティマに対して頬を膨らませる幼い自分。
すると電話口からは、くつくつと笑い声が聞こえてきた。
『じゃあほら。とっとと用事を云えよ』
「むぅ……」
さっきまでの緊張はどこに行ったのか、幼いなのははややムキになりながら携帯電話を握り締めた。
が、それを客観的に見ているなのはは、ああ、と思う。
エスティマがあんなことを云ったのは、おそらく会話をしやすくするためなのだろう。
それは気のせい。彼は口が悪かったりするし――とは、思わない。
もし六課にいた頃ならそんな風に思ったのかもしれないが、今は違う。
ヴィヴィオと共にいる時間に、なのはの知らない彼の顔をたくさん見ることができた。
思っていた以上に家庭的だったとか、戦いだけがすべてというわけじゃなかったりとか。
それに、ヴィヴィオがあそこまで懐くのも刷り込みなんかじゃないのだろう。
ちゃんと父親として――かどうかは分からないが――ヴィヴィオに暖かく接しているからこそ、ああも仲が良い。
勿論、駄目なところはたくさんある。
細かいようでやっぱり大雑把で、リアリストだと思えば夢見がちで、さっぱりしてると思ったら根に持つ性格。
その側面は一緒に暮らすようになってより強く見えてきたけれど――
そんな駄目なところがあるからこそ、彼という人間の長所は輝いているんじゃないかな、と彼女は思うのだ。
短所は時と場合によって長所になりうる。
大雑把さは頼もしさに、夢見がちな部分は共に希望を抱かせ、根に持つ性格はひたむきさに。
そんなことを考えていると、幼いなのはは唇を尖らせつつ声を放った。
「……結局私、エスティマくんに一言も謝ってなかったから。
だから、謝ろうと思って」
『律儀だなぁ。別に気にしなくても良いのに』
「でも、それじゃ私の気が済まないの!
……エスティマくんに強引なことしたって、自覚はあるから」
『……自覚はあったのかよ』
「……ごめん」
呟き、肩を落とす幼いなのは。
それに連動しておさげもしょげたり。
が、口にした瞬間、あっ、と幼いなのはは目を見開く。
だが彼女の様子をエスティマが分かるはずもない。
「そ、そうじゃなくて!
ともかく、今は謝りたくて電話したの!」
『ああうん、どうぞ』
「うっ……さあ謝れ、って風に構えられたら言いづらいよ」
『ワガママだな……』
「ひどー! っていうか、人としてその反応はどうなの!?」
ぷんすかと怒ってなのはが声を上げると、電話からはけらけらと笑い声が届いた。
いいように遊ばれてる。そんなことを考えて、やっぱり謝らなくても良いかなー、とついついなのはは思ってしまった。
『あはは、悪い悪い。
けど、そんなに気にすることじゃないとは思ってるんだよ。
お前の気持ちが分からないわけじゃないから』
「そうなの?」
『ああ。焦りなんて、それこそ誰でも抱くもんだろ。
それが模擬戦なんて形になったのは行き過ぎだけど、まぁ、何事もなかったし、お前も反省してるみたいだから二度はない……と思いたい』
「うぅ……反省してます」
『なら、良いんじゃないか?
さっきよりも元気みたいだし、悩み、解決したんだろ?』
云われ、幼いなのはは目を瞬いた。
自分が悩んでいることをエスティマに話した覚えはないのに、なんでそんなことを、と。
対して、電話の向こうから苦笑が響いてくる。
『見え見えだったぞ』
「……うぅ」
『ま、そういうことだからさ。
今度悩むようなことがあったら、手よりも先に口を動かせよ?
それだけ分かってたらあとは良いかな、俺としては。
相談ぐらいならいくらでも乗ってやるから』
「……うん」
そう幼い自分が呟いたのを見て、そっか、となのはは思い出す。
相談ぐらいなら――とは云ってくれたものの、彼の向けてくれた心配が嬉しいと同時に悔しかった。
同い年なのにどうしてこうも――と。
自分と彼は対等の立ち位置にいると思っていたのに、この瞬間、明確な差を覚えたのだ。
そうだった。この頃から、自分は彼をずっと意識していた。
置いて行かれないように。いつまでも並んでいられるように。
なんでそんなことを思ったのかは分からない。
この時の自分はどんどん先に行ってしまう友達たちと比べ、自分が進歩していないように思っていたからなのかもしれない。
その推察はきっと正しいけれど――彼を友人として、魔導師として、男の子として認めていたからこそ、並び立っているという事実が心地良かった。
それを、なのはは今になって自覚する。
振り向いて欲しかったわけじゃない。手を伸ばして欲しかったわけでもない。
ただ、すぐ側に自分がいるということを知っていて欲しかったんだ。
……その感情は、一体なんなのだろう。
幼い自分はこの時、彼を頼りになると思っている。そんな彼と並ぼうと、志を新たにしている。
けれど、今のなのはが当時の自分を見たら、それは――
「……私」
ぽつり、と呟いた瞬間、夢は終わり眩い朝日が目を灼いた。
微かな痛みを感じる目を指で擦りつつ、なのははぼんやりとした頭で瞬きを。
気付けば、すぐ側には小さな温もりがあった。布団を開いて確認してみると、丸くなったヴィヴィオがパジャマの裾を握り締めている。
まるで離さないと云っているような姿に、なのはは小さく苦笑した。
「……レイジングハート、今何時?」
なのはの声に対して、レイジングハートは、起床時間十分前、と応えた。
ありがとう、と笑いかけて、なのははそっとヴィヴィオの指をパジャマから外す。
そして起き上がるとあくびを噛み殺しつつ、ベッドの縁に腰をかけた。
「……懐かしい夢だったなぁ」
声に出した瞬間、幼い自分のことを思い出して思わず溜息を吐いてしまった。
……止めよう。気分が沈む。恥ずかしすぎる。
頭を振って気を入れ替えると、彼女は視線を天井へと向けた。
のっぺりとした天井は一枚の画用紙のようで、見ていると、さっきまで考えていたことを思い起こされる。
それを強引にねじ曲げて、なのはは当時のエスティマを思い出していた。
無理無茶無謀をやっていたのは今と変わらないけれど、彼が大人っぽくなったのはあの頃からのような気もする。
PT事件の時は賢しいところもあったけれど、行動や言動は子供のそれ。
その彼が目に見えて成長した切っ掛けは……デバイスが壊れた時から、だろうか。
当時、そんな変化を見せたエスティマに対して、なのはは距離を置かれたと思った。
けれど実際には違う。今なら分かる。彼は、先に進んだだけだった。
最近になって知ったことだが、エスティマは闇の書事件の最中にスカリエッティから体を弄られていたという。
その事実を知ってか知らずか、彼は立ち止まることを由とせず歩き続けたのだろう。
だったら納得ができる。子供のままじゃいられなくなったから、そうするしかなかったのだ。
幼い自分はそんな彼を、皆と距離をとって――そして心の片隅では、ずるい、とすら思っていた気がする。
何がずるいのか、となると具体的には云えない。
けれど自分のように――管理外世界での生活、学生――しがらみを気にせず管理世界へ順応していった彼を、確かにずるいと思っていた。
けれど実際には違う。それは、不幸でしかなかった。
子供は子供のままでいれば良い。それが最上。
いずれ子供ではいられなくなる時間が訪れるのだから、その時まで豊かな時間を過ごすべき。
しかし子供は少しでも大人に、早く大人に、と望んでしまう。
きっと、自分がエスティマに対して焦りを抱いたのもそれだろう。
身近にいる父や兄、そんな完全な大人ではなく、今にも大人になろうとしている彼が羨ましくて。
「駄目駄目。あー思い出したくないー……!」
ばたりと後ろに倒れ込んで、布団に頭から突っ込んだ。
その衝撃のせいか、うにゅ、とヴィヴィオの呻き声が上がる。
「……起きるのー?」
「あ、うん。おはよう、ヴィヴィオ」
「おはよぅー……」
むくりと起き上がって目をゴシゴシ擦るヴィヴィオへ、声に出さずごめんね、と云った。
まさか黒歴史を思い出して悶えていたとは誰にも云えない。
丁度起きる時間が近かったのは、幸運だろう。
もぞもぞとベッドから降りると、あふ、と小さな欠伸をするヴィヴィオ。
なのはも同じようにベッドから降りると、一緒にリビングへと。
ドアを開けると既にシグナムは起きていたようで、エスティマと話しているようだった。
が、二人はリビングにきたなのはとヴィヴィオを見ると、急に笑い出してしまう。
なんでそんな風に笑われたのかとヴィヴィオは不思議そうに、なのはは朝っぱらからむっとしてしまった。
『そんなに臍曲げるようなことかよ』
『別にお臍を曲げたりなんかしてませんー』
エスティマから届いた念話に対して、やや拗ねたような調子の声を返す。
するとエスティマは溜息を吐きつつも、呆れた様子を微塵も浮かべず、きゃっきゃとはしゃぐヴィヴィオの相手をしていた。
今、三人は――否、この場には全員が揃っている。
今日は珍しくヴィヴィオが出勤時間になるとぐずり始め、仕方がない、と出送ることになっていた。
少し前までの不機嫌さはどこへ行ったのか、エスティマとなのはに挟まれ、手を繋がれたヴィヴィオの機嫌は上々だ。
道を進む珍しい車を指差したり、看板に書いてある字を読み上げて褒めて褒めてと云ってきたり。
エスティマはそれに逐一反応して、ヴィヴィオが喜ぶように言葉を選び、返しているようだ。
そんな姿に少しだけ、なのはは嫉妬を覚えてしまう。
当たり前のことだが、仕事をしているなのはとエスティマでは、ヴィヴィオと接している時間がまるで違う。
今、ヴィヴィオの遊び相手という点では、きっと誰よりもエスティマが慣れているだろう。
けれど――だからこそ、ママ仕事に行っちゃヤダー、と駄々をこねてくれたことが、少しだけ嬉しかったり。
……ふと、思う。
少し前まではヴィヴィオが駄々を捏ねたりすることなどなかった。
悲しそうな顔をしながらも頷いてくれて――と。
その時の様子が、今では嘘のようだ。
けれど、とも思う。
駄々を捏ねると云うことは、要するに甘えているというわけで。
つまり、それだけヴィヴィオに頼りにされているということだろう。……この場合は、エスティマがだけれど。
それはともかく、
『じゃあなんでそんな不機嫌なんだよ、お前は』
『だから不機嫌じゃないってば』
ヴィヴィオの相手をしているのとは違い、念話で二人は若干険悪な雰囲気になっていた。
が、それはあくまで二人だけの間であり、声に出せばまた始まったとシグナムやシャマルが苦笑するだろう。
俗に云うじゃれ合いだ。
なのはが念話で云ったことは本当だ。
別に不機嫌なんかじゃない。ただ朝夢で見たことが気になって、エスティマとまともに顔を合わせられないだけだ。
それを彼は勘違いして、起床早々笑ったことをずっと謝ってる。
今まで、なのははずっと考えていなかったこと。
エスティマが自分と対等な人と思い始めた切っ掛けの出来事であり、そして、それを客観的に見た自分が抱いた気持ち。
それがどうしても脳裏にちらついて、彼の顔を真っ直ぐに見ることができないでいた。
『おーい、なのはー。なのはさーん』
『……』
当時の自分が抱いた気持ち。
それは頼もしさと同時に憧憬を、そして、そんなことは絶対にないと思っているけれど――
『……おい、なのは? どうした?』
『…………』
思考に没入してしまい、それ以外のことが頭に入ってこない。
自分の名を呼ぶエスティマの声は確かに届いているけれど、そちらに気を回す余裕が、今のなのはにはなかった。
あの時、何か、自分には足りないものを自分はエスティマに見た気がした。
それはやっぱり大きな意味があったことじゃない。思い出さなければそのまま忘れたままだったであろう感情だ。
けれど自分は確かにあの瞬間、彼に――
「おい!」
耳をつんざく怒声によって、なのははようやく我に返る。
それと同時に強く腕を引かれて、何かにぶつかったと気付き、顔を上げる。
すると側にはエスティマの顔があって――抱き留められていると気付いた瞬間、頭に熱が昇った。
「な、ななな……!?」
熱したヤカンにでも触れたようになのはは後ずさるも、今度は腕を引かれて再び胸板へと抱き寄せられた。
「馬鹿、ぼーっとするなよ! 信号赤だろ!?」
「……あっ」
云われて、ようやく気付く。
横断歩道に差し掛かったことは分かっていたけれど、信号にまで気は配っていなかった。
「……ママ、だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫。ちょっとぼーっとしちゃってた」
エスティマと手を繋いだまま心配そうに見上げてくるヴィヴィオに笑いかける。
が、ヴィヴィオの表情は曇ったままだしシャマルとシグナムは困ったような顔をしていた。
そしてエスティマは、抱き寄せたなのはの頭を軽く叩くと、まったく、と溜息を吐いた。
「ぼーっとするのは良いけど、場所考えろよ。
……体調、悪かったりするのか? 仕事休むのは気が咎めるかもしれないけど、お前一人の体じゃないんだから無理するなよ」
「あ、その、大丈夫、だから。
本当、今のはぼーっとしてただけなの」
「本当か? 顔、紅いぞ?」
「大丈夫だってば!」
『……信じられません。
なんて……ベタな』
『Really』
デバイス二機が呆れたようにチカチカと光って、なのはは言葉に詰まってしまう。
そして、信号が青になった瞬間だ。
「み、見送り、ここまでで良いから!
それじゃあねヴィヴィオ!」
「あ、ちょ、待ってなのはちゃん!」
「むっ、それでは父上、ヴィヴィオ。行って参ります」
最後に小さくシグナムが頭を下げると、三人は――というより、先頭のなのはに釣られて、走り去ってしまった。
何やってんだアイツら、と呆然とするエスティマだったが、ヴィヴィオが心配そうになのはの背中を眺めているのに気付いて、苦笑した。
「そーら」
「わわわ!?」
繋いでいた手を離して両脇を掴むと、そのままヴィヴィオを肩車。
一気に視界が開けたヴィヴィオは驚いて、ぐらぐらと揺れ出す。
「うお、ヴィヴィオ、パパの頭を掴んで良いからじっとして!」
「じ、じっとする!」
頭を掴んでと云ったのに掴まれたのは髪の毛だったり。
痛い痛い痛い、と胸中で叫びを上げつつ我慢するエスティマ。
そしてヴィヴィオがしっかり腰を下ろしたことを確認して、声を上げた。
「ママとお姉ちゃんたちは見えるか?」
「んっ……あ、見える!」
「よしよし。それじゃ、Seven Stars。少し手伝ってやれ」
『何をですか?』
「ヴィヴィオに念話を使わせてやれよ。
で、ヴィヴィオ」
「なーにー?」
「頭の中で、ママに行ってらっしゃい、って云ってごらん」
「むむ……」
エスティマから顔を見ることはできないが、難しそうな顔をしているだろうことは、声から想像することができた。
そうして数秒経つと、やった、とぺちぺち頭が叩かれる。
「どうだった?」
「行ってきます、って! パパ、これ魔法? 魔法?」
「そう。念話、っていう魔法だよ」
「やった! ヴィヴィオも魔導師さんだ!」
「それはちょっと早いかなー……」
云いつつ、エスティマは止まっていた足を動かし始める。
どうやらなのはを心配していた様子も吹き飛んだようで、今は肩車で見える風景を楽しんでいるようだ。
「ヴィヴィオ、今日のおやつは何が良い?
お家に帰るついでに、コンビニ寄ろうか」
「えっと、アイスがいい!」
「何アイス?」
「ストロベリー!」
「そっか。じゃあパパはチョコにしようかなー」
「……やっぱりヴィヴィオもチョコ」
「じゃあパパはストロベリーにしよう」
「同じの食べるの!」
「はいはい」
「まったくもう」
苦笑しつつ、ふと気付く。
今の、まったくもう、はなんだか響きがなのはに似ていた。
やっぱり似るもんだねぇ、と思いつつ、エスティマは肩車状態のヴィヴィオと一緒にコンビニへと向かう。
なんとか職場にたどり着いたなのはは、朝の一件を反省しつつ普段通りに仕事をこなしていた。
なんであんな風にぼーっとしていたのか……は、深く考えることもない。
ただ子供の頃の自分が、あんな気持ちをエスティマに抱いていただなんて思ってもいなかっただけだ。
……その想いは、上手く形容できない。
明確な、これ、と云ったものではなかったのは事実のはずだ。
けれど少しは物事が分かる歳になった今の自分から見れば、思い起こすことで胸に熱が宿るような、あの出来事は――
……止めよう。
そこまで考え、なのはは思考を止めた。
その理由はただ一つ。考えちゃいけない、とも思う。
今の状況――なんの繋がりもない自分たちが寄り添って生活している状況は、ヴィヴィオがいるからだ。
そう、ヴィヴィオのためと云っても過言ではない。ヴィヴィオが物事を分かる歳になれば終わる茶番でしかない。
それがあとどれだけの時間、何年続けられるのかは分からないけれど――なのははそれを"許してもらっている"のだ。
制限時間がいつかは分からない、それぞれに役割を与えられた家族ごっこ。
そんな風に云ってしまうことはヴィヴィオに悪いとも思う。
あの子は今の自分たちを本当の家族だと思って毎日を過ごしているだろうから。それをごっこと吐き捨てるのは、心を踏みにじる行為に近い。
それを申し訳なく思う、けど――
「……あまり考え込まない方が良いかもね」
『Master?』
「こっちの話。ありがとう、レイジングハート」
気を遣ってくれた愛機をそっと指で撫で、なのはは席から腰を浮かせた。
昼食時間となったオフィスには、あまり人気がない。
大半の者が食堂で食事を取り、ここにいるのは弁当を作ってきたか、出前を取った者のみだ。
なのはも同居を始めた最初の頃はエスティマの弁当――とは云っても中身の半分は冷凍食品――を食べていたけれど、残念なことに量が足りず食堂を使うことに。
教導隊とは云っても魔法を使い、その消費カロリーは馬鹿にならない。
六課の前線フォワードたちほど食べるわけではないものの、世間一般の女性よく多く食べなければならないのだ。
でないと体が保たない。一回や二回はともかく、毎日微妙に腹を空かせて午後の教導を始めると考えると気が重くなるし。
財布を持ってオフィスを後にすると、そのままなのはは食堂に向かった。
廊下を進んで目的地に近付く毎に、食堂から届くであろう喧噪が聞こえてくる。
ケースの中に入れられた見本を横目で流し見ながら、なのはは足を進めた。
数多のテーブルが置かれた広場には、雑談しつつ昼食をとっている者の姿が多く見られる。
それを見回して――ふと、なのはは見知った顔を見付けた。
はやてだ。彼女もなのはに気付いたのか、控えめに手を振っていた。
……少し、気まずい。
そう思うのは、やはりさっきまで考えていたことが原因だろう。
あまり顔を合わせたくなかったけれど、そんな些細なことで無視できるほど彼女は軽くない。
気にしない気にしない、と口の中で呟いて、なのはははやてが座る席へと進んで行った。
「……はやてちゃん、どうしたの? こんなところに」
「ん、お仕事で近くまできたから寄ったんよ。
忙しいと悪いからメール送ったんやけど、気付かへんかった?」
「あ……ごめん」
「ええよええよ。ほら、早うご飯とってこんとお昼が終わってまう」
「うん。じゃあ席お願いね」
苦笑しつつ再び席を離れ、なのははポケットから携帯電話を取り出した。
画面にはメールが二件、とある。
一件ははやてから。もう一件はエスティマからだ。
『今日もヴィヴィオは元気です』
そんな本文と一緒に、肩車されたヴィヴィオが手綱のようにエスティマの髪を引っ張っている写真が。
エスティマ本人は死んだ魚の目をしている。おそらく、Seven Starsが撮ったのだろう。
「……仲が良いんだから」
呟き、はっと頬に手を当てた。
気付けばいつの間にか笑んでいて、さっきまで鬱々と考えていたことが嘘のようだ。
それを少しだけ心苦しく思いながら食事を受け取り、はやての元へ。
見れば、彼女はもう昼食の大半を食べ終わっている。
「ごめんね、遅くなって」
「気にせんでええよ。さ、ご飯食べよか」
「うん。じゃあ、いただきます」
云うと、なのはは早速食事に手を付けた。
あまり時間が残っていないのは確かだ。話すことはできても、それにかかりっきりだと昼食を食べ尽くせないかもしれないぐらい。
先に片付けよう、とやや急いでなのはは食事にとりかかる。
それに気付いているのか、はやても強引に話しかけようとはせず、ゆっくりと食事を平らげていた。
「なのはちゃん、最近はどう?」
「どうって?」
なのはが食事を食べ終わると、ゆっくりとした口調で彼女は話しかけてくる。
なのはは最後の総菜を飲み込むと、首を傾げつつ問い返した。
「私がなのはちゃんに聞くことなんて、一つしかあらへんやろ。
エスティマくんとヴィヴィオ、どうしてる?」
「あ、うん。ほら、これ」
そう云って、なのははついさっき届いた画像をはやてへと見せた。
彼女はぱちぱちと眼を瞬くと、何これ、と可笑しそうに笑い出す。
「あはは、なんやこれ!
エスティマくんも大変やなぁ」
「ヴィヴィオ、すっごく懐いちゃって。
やっぱり一日中遊んでもらっているからかな?」
「んー、それもあるんやろうけど、やっぱり甘えさせてくれるからやろうなぁ。
おじーちゃんとかおばーちゃんを好きになるみたいな」
「あはは、じゃあエスティマくんはおじいちゃん?」
「んー……甘えさせてくれるお兄ちゃん、ってところやない?」
云って、はやては携帯電話の画面に表示された画像、そのエスティマへと指を這わす。
さっきと云っていることは違うものの、気持ちが分からないわけではなかった。
……今の言葉の中に、父親という呼び方がなかったのは少し穿った考えだろうか。
「ヴィヴィオが懐いてるのはともかく、やっぱりエスティマくんも愛着湧いてるんかなぁ」
「……うん。見てれば分かるけど、エスティマくんもヴィヴィオのこと大事にしてるよ」
「そか。……うん、別にそれ自体はええことやと思う。
やっぱり愛して愛されて、ってのが何事においても一番やと思うし。
構ってくれる人が自分のことを好いてなかったら、ヴィヴィオもここまで懐いてないやろ」
「うん」
……言葉の節々に棘があるような気がするのは、少し神経過敏だろうか。
はやての表情にはなんら変化が見られない。
じっと写真に目を向けて、楽しそうに喋っている。
だから別に――責められてるわけじゃ、ないはずだ。
「……なぁ、なのはちゃん」
「……何?」
「なのはちゃんは、今の生活をどう思ってる?」
「どう、って……楽しいよ?」
「せやね。それは見てれば分かるし、そうやなかったら私もやられ損」
「……悪いとは、思ってるの。
けど、ヴィヴィオは――」
「うん。ヴィヴィオにはママとパパが必要ってことも分かっとるよ。
それはともかくとして、なぁ、なのはちゃん」
そこまで云って、はやてはずっと写真に注いでいた目を上げた。
テーブルの腕で指を絡ませると、じっと視線を向けてくる。
それを正面から見ることができずに、なのはは顔を俯かせてしまった。
……なんで、逃げるようなこと。
負い目は確かにある。はやての気持ちは知っていて、その上でエスティマを引っ張っている自覚はある。
けれどそれは、仕方がないからで――そう、負い目はあるけれど、それははやても自分も分かっているはずなのに。
……どうして私は逃げたいなんて思っているんだろう。
その理由になのはが気付くよりも早く、はやては口を開く。
ただ黙して、なのはは言葉を聞くことしかできなかった。
「なのはちゃんは、今の状況をいつまで続ける気なん?」
「いつまで、って……それは、ヴィヴィオの物わかりが良くなるまで」
「本当に? それは、なんで?」
「だって、今のヴィヴィオに本当のママやパパはいないなんて云ったら、傷付くだろうから」
「……私からすれば、後になって云った方が傷付く気がするんやけどな。
物事が分かるようになって……けど、その頃にはなのはちゃんやエスティマくんと血の繋がりがないことぐらい気付くやろ。
その時になってはいお別れ、ってなったら、きっとどんなことよりも悲しいで」
「……意地悪だよ、はやてちゃん。
だったら――」
「最初から詰んでた。
……私は、今になってそう思うようになったんよ」
詰んでた、とは何を指しているのだろう。
状況そのものが、だろうか。確かにそうだろう。
いずれ訪れると定められたタイムリミット。けれどそれを迎えて大人しく自分たちはヴィヴィオと別れることはできるのだろうか。
流石に未来のことなど分からない。だから断言はできないけれど、絶対に無理と断定してしまいそうになる。
自分で云っていることが支離滅裂なのは理解していた。感情が何よりも優先されて事実が分からなくなってくる。
……いや、それよりも。
はやてが詰んでいると云った事柄は、もっと別のことじゃ――そんなことを、なのはは思う。
それが何かは、やっぱり分からなかったが。
「なぁ、なのはちゃん。少し、もしもの話をせえへんか?」
「もしも?」
「そう、もしも。
私がエスティマくんのことを好きってことを忘れて考えてみて。
……なのはちゃんは、いつまでも皆と一緒に暮らすんか?」
「……うん」
「それは、ヴィヴィオのため?」
「当たり前だよ」
……本当に?
口にした瞬間、じくりと胸の内が疼いた。
それを振り切るようにして、なのはは強引に笑みを浮かべる。
「それに、皆と暮らすの、私も楽しいし。
それでヴィヴィオが笑ってくれるなら、一石二鳥じゃない?」
「……なのはちゃんは、エスティマくんのことが好きやないの?」
「……はやてちゃんも知ってるでしょ?
私、そんな風にエスティマくんのこと見たことないよ」
「……ふーん」
最後の言葉は、酷く興味がなさそうだった。
いや、興味が失せた、という云い方が正しいのかもしれない。
何か色を付けるならば、それは失望だろうか。
なんだろう、となのはは疑問に思う。
もしはやてがこの問題に感情を抱くのならば、それはきっと嫉妬だろうと予想していた。
しかし今まで彼女が自分に向けた言葉は、それとはまた微妙に違う気もする。
はやては腕時計に視線を落とすと、トレーを手にして立ち上がる。
「……似たもの同士、なんかな。
ううん、自分の気持ちを誤魔化さない分、まだエスティマくんの方が――」
「……えっ?」
「なんもあらへん。そんじゃ、またな」
短く切り捨てて、はやてはそのまま振り向くこともなく下げ台へと歩いて行った。
そんな彼女の背中を見ながら、テーブルの下でなのはは手を握り締める。
……そんな風に見たことはない。嘘じゃない。そのはず、なのに――
「……どうして、苦しいんだろう」
この苦しさははやてへの罪悪感か。それとも、いずれ訪れるヴィヴィオとの別離に思いを馳せたからか。
それとも、別の何かか。
なのはには分からなかった。
……分かりたくは、なかった。
「……で、どうしたんだよ」
「……え?」
不意に問いかけられた言葉に、なのはは間抜けな声を上げてしまった。
だが、すぐにその原因へと思い至る。おそらく、自分の様子がおかしいと気付かれたのだろう。
原因ははやてとの会話だ。
あれ以降、どうしてもなのはは会話の内容を考え込んでしまい、自分でも分かるぐらいに戸惑っていた。
その状態でも仕事をこなしたのは流石と云えるだろうか。
しかし親しい友人――家族にとってそんな彼女の様子は、やはりおかしく見えたのだろう。
それでも何も触れずにおいてくれたことを有り難く思ったものの、少しの寂しさを感じていた。
いつものように夕食を食べて、ヴィヴィオとじゃれ合いながら風呂に入り、眠りに就く。
床について寝入るヴィヴィオの顔を眺め、娘が完全に眠ったのを確かめ自分も――その矢先に、エスティマが声をかけてきた。
布団を敷いて床に寝ている彼の顔は、ベッドの上から見ることはできない。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが照らすのは、布団を被った彼の肩だけ。
……彼の顔を見たいような、見たくないような。
複雑な気分になりながら、なのははヴィヴィオを起こさないよう声量に気を付ける。
「……おかしかった?」
「見てれば分かる。皆、気付いてたよ。
けどまぁヴィヴィオの前でそんな話をするのもなんだから、ってことで、俺が相談係を担当することになったんだ」
「……相談係」
「俺より、そういうのはシグナムの方が向いてるんだけどな」
おどけた風に云うエスティマとは違い、なのはは相談係という言葉で、今朝の夢を思い出していた。
相談ぐらいならいつでも乗ってやるよ――そんな台詞を実行に移されているみたいな。
勿論、彼はあんな昔のことを覚えてなんかないはずだ。
……何、勝手に舞い上がってるんだろう。馬鹿みたい。
自分で浮かび自分で沈む。器用なマッチポンプを行いながら、なのはは口を開いた。
「……今日ね、はやてちゃんと一緒にお昼を食べたんだ」
「……そっか」
エスティマがはやての様子を聞いてくることはなかった。
ただ、納得したような響きを乗せて、事実を確認したように短く声を発する。
普段ならば彼女が元気かどうか、なんて当たり障りのないことを聞いてくるだろう。
けれど、今は違う。
なのはが気落ちしている原因はそれだ、と云わんばかりの前置きなのだ。
そこに水を差すほど、彼はおめでたくなかった。
「それで?」
「いつまでこのおままごとを続けるの、って云われた」
「おままごと……否定できない分痛烈だな、それ。
……それで何も言い返せなかったのか?」
「ううん。ヴィヴィオがもうちょっと大人になるまで、って。
最初に決めてたことだし、否定はしないよ。寂しいけど。
今みたいな時間はいつか終わるって分かってる。
それでも私、ヴィヴィオを甘えさせてあげたかったからエスティマくんをおままごとに引き込んだんだ」
「……止めろよ。
確かにおままごとかもしれないけど、お前がそんなこと云ったら可哀想だ。
偽善のままごとでも良いじゃないか。
それでヴィヴィオが喜んでいるのは確か。なら、無意味じゃない。
そもそもいい人ぶってそんなことをしているわけじゃないんだ。
他の誰が何を云おうと、俺はこの毎日を善だと思う」
「……ありがとう。
……ねぇ、エスティマくん」
「なんだ?」
「エスティマくんは、今の毎日が楽しい?」
「ああ、楽しいよ」
迷いなく言い切られた言葉には、どこか達観するような響きが混じっていた。
おそらく、いつかは終わる、ということを彼は――彼だからこそ良く分かっているからではないか。
そんな風に、なのはは思う。
だから、
「私も、楽しいよ」
そんな風に、呟いた。
あなたと同じことを私も感じているから。
そんな意思を乗せて。
……なん、だろう。
それを言葉にした瞬間、言葉にできない違和感が胸を襲った。
彼と同じ気持ちを抱いて、同じ日々を生きている。なのに、それが酷く虚ろなような気がしてしまった。
有り得ない。毎日は充実している。
ヴィヴィオと一緒に寝て、起きて、帰ってくれば迎えてくれて。
自分で娘と定めた少女と共に過ごす毎日は、幸福であるはずなのに。
……先ほど感じた感覚は、どこか空腹感に似ている。
満ち足りない、と云えば良いのだろうか。飢えているはずがないのに、飢えてしまっているような。
そんなはずはない、とも思う。
毎日は幸せで、これ以上を望んではいけない。
だって――それが"約束"だから。だからこの日々に詰まっている幸せは飽和状態に達し、これ以上ないぐらいに自分を満たしてくれている。
……そのはず、なのに。
何が足りない? 分からない。嘘だ、分かってる。
「も、もう寝るね……」
「良いのか? 悩みらしい悩みは聞けてないような気もするけど」
「ううん、誰かに聞いてもらっただけで、楽になったよ。
……ありがとう、エスティマくん」
「そっか。じゃあ、俺も寝ることにするよ。
おやすみ、なのは」
呟き、エスティマは布団を被り直すと寝返りを打った。
それを最後に見て、なのははぎゅっと目を瞑る。
有り得ない、有り得ない、と自己暗示のように胸中で呟いて、何も考えないように努める。
頭の中をわざと空っぽにして、思考することそのものを否定するかのように。
……私は、何も知らない。思ってない。
彼と自分は友達だ。性別を超えた友情は生まれないとどこかで聞いた覚えがあるけれど、自分と彼だけは違う。
違うんだから……!
息を殺して、必死に自らへと言い聞かせるように、なのはは念じる。
今までずっと見ていた風に、また明日から彼を見られるようにと。
それが一番良い。そのはずだからと信じて。
『旦那様』
『なんだ』
『少しばかり意地が悪いと思います。
……気付いているのではないですか?』
『何にだ?』
『本気で云っているのですか?』
『お前の質問が抽象的すぎるんだよ。
俺が、何に、気付いているんだ?』
『……失礼しました。出過ぎた真似をしたようです』
寝たふりをしながらSeven Starsと交わした念話は、それで打ち切られる。
俺が何を考えているのか、おそらくSeven Starsも分かったのだろう。
……分かってはいるさ。なんとなく、薄々とは。
けれど、それでどうなる。これはなのは本人の問題で、俺が立ち入って良いことじゃない。
そんな風に考えることは、逃げなのだろうか。分からない。
自分が流されやすい人間だってのは理解しているつもりだ。
けれど、今の状況は果たして流されていると云えるのだろうか。
勿論、客観的に見ればそうなのだろう。
始まりは俺の意思ではなく、乞われるがままに今の生活が始まった。
他にするべきことがあると分かっていながらも、俺は今の日々を続けていた。
けれど――なのはと過ごす毎日が続けば良いと思うのは、俺の本音でもある。
いつか終わると分かっていても。けれどそれが終わらなければ良いと願うことは間違いだろうか。
……願うだけなら間違いじゃないとは思う。
けれど、それが実現した場合――おそらく、間違いなのだろう。
最初から、いつかは終わると決められていたこの日々をずっと続けたいと願うことは。
……俺もなのはも、それを分かっていたはずだった。
その上で共に生活をするようになったけれど、やはり、惜しいと思ってしまう。
けれどそれは、いうなれば約束を破るようなもので――やはり、良いことではない。
なぜならば、待ってくれている彼女に申し訳が立たないからだ。
そうして、どれぐらいの時間が経った頃だろうか。
不意に、騒々しい音が部屋の中に響き渡る。
ガタガタと物を打ち鳴らす音色はただ不快で、無視しようと努めるものの、一分、二分、と続き我慢ができなくなった。
音の出所は、エスティマの携帯電話だ。
机の上に置かれたそれは画面を明滅させながら着信を告げている。
エスティマの方を見てみるも、彼に起きる気配はない。
仕方がないなぁ、と溜息を吐いてヴィヴィオとエスティマを起こさないよう、ベッドから抜け出す。
床で寝ているエスティマを踏まないように気を付けて携帯電話を手に取り、そして、ディスプレイに映っていた名前になのはは眼を細める。
八神はやて、と名前が表示され、それと一緒に彼女の写真が写っていた。
あの恥ずかしがり屋のエスティマがこんな設定をするわけがない。
おそらく、はやてに弄られて――そこまで考えた瞬間、携帯電話を握っている手が酷く強ばっていることに気付いた。
プラスチックでできた端末は、ギチ、と微かな悲鳴を上げている。
どうして自分がそんなことをしているのか分からない――ふりをした――まま、部屋の中でなのはは立ち尽くす。
暗闇の中、なのはの表情は携帯電話のバックライトによって照らし出されている。
青白く浮かび上がった輪郭。その中心にある表情は冷たいほどに無表情であり、頬を僅かも動かさず、彼女は指を端末に伸ばした。
電源ボタンを二度押して、通話をすぐに終了させる。
その動作を行った直後、なのはは震える唇を開き、
「……だって、夜、遅かったし。
エスティマくん、寝てたし」
まるで誰かに対する言い訳のよう。否、言い訳そのものを、口にした。