半ば覚醒した意識の中で、リュカは自分を包む空気への違和感を覚える。彼女が十年間を過ごしてきた世界の空気は、汗と土埃、部屋の片隅に置かれた便器代わりの壷、怪我をしても満足に治療などしてもらえない者たちの血と膿、と言った臭いが入り混じった、耐え難い悪臭が漂っていた。
しかし、今彼女は花の香りを嗅ぎ取っていた。もう何年も嗅いだ事のない、心安らぐ香り。嗅覚だけではない。聴覚は潮騒を感じている。繰り返し打ち寄せる波。子供の頃に船の上から心躍らせて見た、海の雄大なリズム。あの頃は幸せだった。旅から旅への暮らしの中で、それでも傍らには――
ドラゴンクエスト5 ~宿命の聖母~
第十五話 海辺の修道院
「……父様」
自分の発した言葉で、完全にリュカは目を覚ました。目を開けると、ぼんやりと人の顔が視界に映った。
「気がついたようですね」
優しい、暖かみのある声が聞こえた。視界がはっきりしてくるにつれて、その人がナンベールを被った、シスターだと気がつく。年の頃は三十代くらいだろうか? やや陰のある、しかし美しい女性だった。
「ここ……は?」
リュカの質問に、シスターは優しい微笑を浮かべて答える。
「ここはオラクルベリーの南にある、海辺の修道院。安心なさい。お連れの方もこちらにおられます」
「お連れ……ヘンリーの事? ヘンリーは無事なんですか?」
リュカの記憶がはっきりしてきた。そう、そうだ。兵士ヨシュアの手引きで、二人はセントベレスの大神殿から脱出した。乗り込んだ樽が激流に揉まれる間、リュカは再び傷の痛みで意識が朦朧となって……それからの事は、断片的にしか覚えていない。
何時の間にか、樽の中が静かになっていた事。ヘンリーがリュカを守るように抱きしめてくれていた事。ワインか何か、甘い飲み物を口にした事……そんな記憶が途切れ途切れに浮かんでくる。
「ええ、ヘンリー様はもうお元気ですよ。ですが、あなたは衰弱が激しく傷も深かったので、ここに辿り着いてからも三日も眠ったままでした。ですが、もう心配なさそうですね」
シスターは微笑み、ベッドの横にある窓を開ける。潮騒の音がはっきりとすると共に、潮の香りを含む爽やかな風が部屋を吹きぬけた。十年間、リュカの身体を覆っていた澱みを吹き飛ばすかのように。
助かった、と確信すると同時に、リュカの目からは涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
シスターが出て行ってからしばらくして、リュカの意識が戻った事を知らされたのであろうヘンリーがやってきた。
「リュカ! やっとお目覚めか。このまま目を覚まさないんじゃないかって、心配したぜ」
白い清潔な服に着替えたヘンリーは、満面の笑顔でリュカの頭を撫でる。
「うん、心配かけてごめんね。もう大丈夫」
微笑むリュカの顔を見下ろせる位置に、ヘンリーは椅子を置いて腰掛けると、ポケットからナイフとリンゴを取り出し、なかなか器用な手つきで剥きはじめた。四つに割って綺麗に皮を剥き、一つをリュカに差し出す。
「ほら、見舞い代わりだ」
「ありがとう、ヘンリー」
リュカはリンゴを受け取り、一口かじった。しゃくり、という歯応えと共に、甘酸っぱい味が口の中一杯に広がる。そういえばリンゴってこういう味だったんだっけ、とリュカは思い出した。奴隷たちに出される食事と言えば、雑穀と野菜の切れ端、訳のわからない肉が乱暴に煮込まれたシチューばかりで、果物など一度も口にした事がなかった。
「おいしい……」
しみじみと言うリュカに、ヘンリーがやはりしみじみと答える。
「ああ、自由の味ってやつだな」
二人は一個のリンゴを半分に分け合って食べ、どちらからともなく窓の外の海を見る。が、さすがにセントベレスの山影は見えなかった。
その時、扉をコンコンコン、とノックする音が聞こえた。リュカは扉の方を向き、どうぞ、と声をかける。入ってきたのはさっきのシスターと、それよりずっと年配の、穏やかな笑顔を浮かべた初老のシスターだった。
「院長様」
ヘンリーが姿勢を正した。院長と呼ばれたシスターはヘンリーに会釈すると、リュカのほうを向いた。
「リュカさん、でしたね。私はこの修道院の院長で、シスター・アガサと申します。本当に目が覚めたようで安心しました」
リュカも頭を下げた。
「院長様、ありがとうございます。こんなに安らかに眠ったのは十年ぶりです」
院長は微笑んだ。
「私ももう四十年近くこの修道院にいますが、生きている方を助けたのは初めてです。これも神がお二人を助け給うたからでしょう」
ここ、海辺の修道院……正確には「オラクルベリーの使徒と遭難者の修道院」は、二百年近い歴史を持つ古い修道院である。目の前に広がる海の沖合いは、海流の関係で様々なものが世界中から流れてくる。例えば南の島から来たのであろう椰子の実などだ。
だが、その中には嵐や魔物に襲われ、難破した船の乗組員たちの亡骸もある。修道院は彼らを弔うために作られ、いつしか遭難者たちの墓が丘を埋め尽くすほどに長い時を刻んできた。
リュカとヘンリーがこの地に流れ着いたのは、偶然ではなく必然だったのだ。ヨシュアの計画は、必ずしも非現実的なものではなかったのである。
「ここは本当の海ではなく、現実と言う名の荒海に進路を見失った遭難者たちも訪れる場所……聞けば、この世の地獄のようなところから逃げ出してきたそうですね。身も心も癒えるまで、ここで休んでいきなさい。何かあれば、このシスター・マリアをお呼びなさい」
シスター・アガサはそう言って横のリュカが目覚めたときにいたシスターを紹介した。
「マリアさん……というのですか?」
「はい。なんでも聞いてくださいね、リュカさん、ヘンリーさん」
シスター・マリアは頷いた。マリアを失ったヨシュアの手引きで自由を手にした二人が、マリアと言う女性に助けられる……不思議な巡り会わせだとリュカは思った。一方、ヘンリーはどこか複雑な表情でシスター・マリアを見ていた。
「それでは、私はこれで。リュカさんはまだ本調子ではないはず。まだゆっくりお休みなさい」
シスター・アガサはそう言うと部屋を出て行った。シスター・マリアも会釈して続き、部屋は再びリュカとヘンリーの二人だけになる。
「ここにいる間は、この部屋を自由に使って良いってさ。まぁ、お前の怪我もまだ完全に治ってないし、しばらくはここで厄介になろう」
ヘンリーの言葉にリュカは頷いた。
二人が修道院での生活を始めてから、一ヶ月ほどが経っていた。
リュカは目を覚ましてから三日ほどで歩けるようになり、自分自身やシスター・アガサのホイミによって背中の鞭の跡もほとんどわからないくらいに完治した。食事も一週間ほどはスープやシチューと言った流動食と果物くらいだったが、それ以降は普通の食事を摂れるようになった。
そうなると、未だ十六歳と成長期の只中にあるリュカとヘンリーの回復と成長は目覚しく、二人は十年ぶりに十分な栄養を得て、まるで若木が水を吸うようにそれを吸収した。
特に、ガリガリに痩せていたリュカは、肉が付いて思春期の少女らしい丸みを帯びた体付きになり、肌も髪も艶を取り戻していた。漂着した時の半死人のようだった彼女を見つけた、テレズという賄いの女性は、リュカを見て感心したように言う。
「まぁ、リュカちゃん綺麗になったわねぇ……若い頃のあたしみたいだよ」
本当かよ、と余計なことを言ったヘンリーが、テレズに投げつけられたテーブルナイフやフォークの雨から逃げ惑うのを見ながら、リュカは笑った。
「あはは……ありがとうございます。それでおばさま、何かお手伝いできる事はありませんか?」
リュカの言葉に、テレズは考え込む。
「手伝える事? そりゃまぁ、無い事も無いけど……あんたはお客さんで、手伝ってもらうのは悪いよ」
リュカは首を横に振った。
「いえ、お手伝いさせてください。院長様にはお許しを戴いてきました。十年も働き詰めで暮らしてきたので、何もする事がないと落ち着かないんですよ」
実際、ヘンリーは漂着の数日後から畑仕事や果樹園の手入れなどを手伝い、貴重な男手として活躍していた。この修道院は男子禁制と言うわけではないのだが、現在はシスターがアガサとマリアの二人で、後は見習いシスターが七人ほど。他にはここで花嫁修業をしていると言う少女たちに、テレズなど日々の雑用をしている女性たちが全部で十人ほどと、ほぼ女所帯だ。男性はヘンリー以外には雑用係の女性の夫と言う庭師の老人がいるだけである。
全員が毎日何かの仕事を持って働いているだけに、リュカとしても無駄に暖衣飽食しているのは気が引けた。そこで、シスター・アガサに頼んで仕事を手伝う許可を貰ってきたのである。
「そうかい。あんたも不憫だねぇ……あたしゃ亭主が乱暴者で、耐えかねて出てきたけど、あんたに比べりゃずっとマシだよ……そうさね。じゃあ、芋の皮剥きでもしてもらおうかね。フローラ、リュカにやり方を教えておやり」
「はい、テレズさん」
振り向いたのは、花嫁修業中と言う少女の一人で、フローラと言うリュカと同年代か、やや年下に見える少女だった。
「それじゃリュカさん、必要な道具とお芋はそこにありますから、私がやっているようにやってみてください」
フローラは新参のリュカにも丁寧に話す。美しい上に故郷に帰れば大変な富豪の生まれと言う事で、リュカとは育ちに天地の違いがあるフローラだが、誰に対しても礼儀正しく、自分の育ちを鼻にかける、と言うことが無い。よく出来た少女だった。
「あつっ!」
「まぁ、大変!」
フローラに教わりつつも、まだまだ慣れないリュカは指を切ってしまう。すると、フローラは慌ててその手を取って、呪文をかけた。
「ベホイミ」
たちまち傷がふさがる。
「あ、ありがとう、フローラさん……凄いですね。そんな高度な回復魔法が使えるなんて」
リュカはまだホイミどまりである。フローラは謙遜するように首を横に振った。
「いえ、何故かホイミを飛ばしてベホイミを覚えてしまいまして……院長様にも不思議がられました」
「……それは確かに不思議ですね」
リュカは笑顔で答え、それをきっかけに二人の少女は急速に友情を深めていく事になる。
一方、ヘンリーは庭師の仕事を手伝っていた。
「へぇ、じいさんカジノなんか行くんだ?」
ヘンリーに言われた庭師の老人はハサミをもつ手を止めて頷いた。
「おお。まぁ、そんなに賃金を貰ってるわけではないから、ごくたまにじゃがな。それにしても、五年前までのオラクルベリーを知っている身には、まるで違う町のようじゃよ」
「そんなに栄えてるのか? オラクルベリーって」
ヘンリーは聞いた。彼の知る十年前のオラクルベリー島は、王国の辺境地域でしかなく、ひなびた漁村が幾つかあるだけの田舎だった。それも知識として知っているだけで、行った事はない。
「そうじゃな。五年前に本土との間に橋がかかってのう。それから一気に人が流れ込んできたんじゃ。とはいえ、喜ばしい事ではないがの。皆ラインハットの横暴から逃げ出してきたようなものじゃし」
(ラインハットか)
その名前を聞くたびに、ヘンリーの胸に悔恨が過ぎる。彼が失踪してからほどなくして、跡継ぎを失ったエドワード王は失意のうちに病没したと言う。
(結局、オレは父上と話す機会を失った……今にして思えば、オレは父上に叱って欲しかったんだろうな)
他愛ないイタズラを繰り返したのも、拗ねた態度で周囲の人間を困らせたのも。だが、その機会は永遠に失われた。それも悔いの元だが、ヘンリーの後悔はそれだけではなかった。
「今のラインハットは酷いもんじゃ……王のデール様は完全に飾り物で、大后のマリエル様の言いなりよ。マリエル様は重税をかけ、兵を集めて、どこかの国を侵略するつもりらしい……あんなに賑やかだった城下の市も、今は閑散としとるよ」
「そうか」
自分が王だったら、マリエルの横暴を防いで国をまともな方向に導いていけただろうか? とヘンリーは自問し、詮無い問いだと自嘲する。あれからすぐ父王が死んだのだとすれば、六歳の子供に過ぎない自分に何が出来ただろう。
「その分、オラクルベリーは栄えとるがな。お前さんも機会があったら一度行ってみるんじゃな」
「ああ、そうするよ。爺さん」
庭師の言葉に頷くヘンリー。だが、その日聞いた話は、パパスへの誓いと共に、彼に今後どうすべきかを考えさせていく事になる。
(続く)
-あとがき-
脱出した二人は無事に修道院に到着しました。
ゲームでは早いと目覚めたその日に出て行く上に、ルーラを覚えた後は無料宿屋扱いしかされない修道院ですが、今回はゆっくりしていってね! と言うことで。
主人公たちにはもっと思い出深い場所だと思うんですけどねぇ……