地上に戻ったヘンリーは、抱えていた世界樹の花を持って、ゆっくりとリュカの亡骸のほうへ歩いていった。誰もが固唾を呑んで見守る中、ヘンリーはその花をリュカの胸の上にそっと置いた。
「頼む……帰ってきてくれ、リュカ」
そう言って、手を組んで祈りを捧げるヘンリー。横に並んで、子供たちも祈る。
「お母さん……」
「帰ってきて……!」
気がつけば、全員が手を合わせるか、あるいは目を閉じて、唯一つの願いを一心に念じていた。
帰ってきて。
帰って来い。
我らの元に。
この世界に。
ドラゴンクエスト5 ~宿命の聖母~
最終話 聖母の帰還
「ここは……」
気がつくと、リュカは見知らぬ土地に立っていた。
そこは何とも美しい世界だった。果てしなく広い大地は、色とりどりの花と緑の若草で覆われ、唯一つ、大きな川だけがその大草原を横切って流れていた。感じだけは、あのグレートフォール山の頂上台地に似ていたかもしれない。
「わたしは……どうしてこんな所に?」
記憶があやふやで、思い出すことができない。ただ、自分がすべきことはわかっていた。
行かなければならない。川の向こうへ……リュカは川に向かって一歩足を踏み出した。しかし、数歩も行かないうちに、彼女は足を止めた。
「そっちへ行ってはならん」
そう言って、リュカの前に立ちはだかった人物がいたのだ。かなりの高齢と思われる老人だった。
「……通してください。わたしは、あっちへ行かなきゃいけないんです」
リュカはそう言って、老人を避けて先へ進もうとしたが、老人は年齢に見合わぬフットワークで、リュカの行く手を塞ぎ続けた。
「行ってはならん。お前は、まだあちらへ行くべき人間ではない」
リュカは立ち止まり、彼女にしては珍しく、苛立った様子で言う。
「何でですか……わたしが行かなくちゃいけない、ってわかってるのに、どうしてお爺さんは行ってはいけない、なんて言うんですか」
老人は答えた。
「まだ、お前にはやるべき事があるだろう。それをせずに、川の向こうへ行く事はできんはずだ」
「やるべき事?」
リュカは首を傾げる。そんな事が自分に……? わたしは、自分にできることは全てみんなにしてあげたはず。
そこまで考えて、リュカはみんなって誰? と疑問を抱く。その表情の変化に気付いたのか、老人はさらに言葉を続けた。
「思い出すのだ、リュカよ。お前の運命は、まだ終わってはいない。帰るのだ。お前を待っている人々のところへ」
リュカは考える。みんな? わたしを待っている人? それは誰? 疑問が次々に頭の中に浮かぶが、川向こうを見たとたんに、その疑問は氷解する。そこに立っていたのは……
「父様、母様……」
川向こうにパパスとマーサが立っていた。そうか、待っていてくれたのは父様と母様だったんだ、とリュカは思い、再び川のほうへ歩き出した。
「待て! 行くなと言うのに!!」
老人がやはり止めようとするが、リュカは今度はそのブロックをかわし、小走りに川へ向かう。
「父様、母様……! 今そっちに行きます!」
しかし、川原のところまで来た途端、川向こうの父は厳しい声で言った。
「そこまでだ。リュカ。こっちへ来てはいけない」
「え……」
リュカは足を止めた。
「私たちはあなたを迎えに来たのではありません。止めるために来たのですよ」
マーサも言った。
「止める……? どうしてですか?」
リュカの問いに、パパスは答えた。
「ここは、死者の国だからだ。その川を渡れば、もう二度と引き返すことはできない。お前はまだこっちへ来てはいけない」
それを聞いて、リュカは思い出した。そうだ、わたしは魔王と戦い……
「戦って、死んだはず……」
倒れて散った仲間を救うために、メガザルを唱えた。だからわたしは死んでいるはず……
「違いますよ、リュカ」
リュカの心を読んだように、マーサが言った。
「あなたの宿命は、まだ終わってはいません。これからあなたは未来を担う世代を……あなたの子供たちを守り、育んでいかねばなりません。私たちがあなたにそうしてあげられなかった分まで、子供たちを可愛がってあげなさい」
「そうとも」
パパスが妻の言葉に頷く。
「お前は、親を失う辛さを知っているだろう。お前の子供たちに、そんな辛さを味あわせてはいけない。帰りなさい。子供たちやヘンリー君のところへ」
「でも、どうやって?」
リュカは両親に尋ねた。ここへどうやって来たかも覚えていないのに、どうすれば帰れるのか。すると、追いついてきた老人が言った。
「どうやら、迎えが来たようだ」
「えっ?」
リュカがその老人の方を振り向いた時、彼女の嗅覚を、今まで嗅いだ事もない、妙なる香りがくすぐった。
「これは……」
魂まで揺さぶられるようなその香りに、リュカは思わずその香りが漂ってくる方向を向く。それは、パパスやマーサのいる川向こうとは、真逆の方向だ。
「その香りを辿って行きなさい。きっと、あなたが愛する人たちの所へ導いてくれるはず」
マーサが言った。
「ヘンリー君や孫たちによろしくな、リュカ。そして、また何時か……お前が本当の意味で全てをなし終えたその時に、改めて会おう」
パパスが言った。リュカは振り向き、そして両親に頭を下げた。
「はい……父様、母様……!」
その答えを聞き、安心したように微笑むと、パパスとマーサの姿はすっと消え去った。
「やれやれ、両親の言う事は聞くのだな」
老人が苦笑したように言う。リュカは老人にも頭を下げた。
「すみません、お爺さん……疑ったりして。でも、あなたは一体?」
両親と同じくらい自分を案じてくれたその老人に、リュカは覚えがあるような気がした。老人は笑顔を浮かべると、首を横に振った。
「なに、名乗るほどの者ではない。ただの通りすがりだよ。それより、早く行け。お前を待っている人がいるのだろう?」
そうでした、とリュカは言うと、香りの来る方向に歩き始めた。何度も振り向きながら。
「さようなら、お爺さん! ありがとう!」
そう叫ぶリュカに、老人は苦笑で答える。
「良いから、早く行け!」
やがて、老人の視界からリュカの姿は消え、花の香りも消えた。
「やれやれ、余に……このミルドラースにあんな説教をしておきながら、自分が先に死にそうになるとはな。そんな事を認められるものか」
老人――ミルドラースは歩き出した。
「宿命の聖母、リュカよ……今度こそ本当にさらばだ。もう二度と会うこともあるまい」
ミルドラースが歩む道の先では、草原が消え、灼熱の荒野が広がっていく。彼は、死者の国には行けない。罪深い者が行き着く先は……地獄でしかない。
「そういえば、地獄にはエスタークがいたな。かの者が蘇らぬよう、見守るのも一興か……」
天空の勇者でも倒しきれなかった地獄の帝王を封じ込める。それもまた、自分が勇者を越える存在と示す方法だろう。そのためにはゲマやラマダを……先に行った者たちを探さねばな、と考えるミルドラース。地獄への道行きにしては軽い足取りで、最後の魔王は永遠に去って行った。
「……あっ!?」
じっと見守っていたヘンリーは驚きの声を上げた。リュカの胸に乗せていた世界樹の花が、淡い光を発したのだ。光はリュカの身体に染み渡るようにして消え、それと引き換えに、青白くなっていたリュカの身体が、暖かみのある肌色に戻っていく。傷や闘いの汚れさえも消え去り、微かな呼吸音と共に、その胸が数度上下した。そして。
「ヘンリー……?」
リュカは目を開き、そっと身体を起こした。
「リュカ!」
もう二度と聞けないと覚悟していた最愛の女性の声に、ヘンリーは彼女の身体を強く抱きしめた。
「馬鹿野郎……心配させやがって! 二度と、二度とあんな無茶はするなよ! いいな!?」
「うん……ごめんね」
リュカもまた、夫の肩にそっと手を回す。だが、次の瞬間、わあっと声を上げて、見守っていた仲間たちや人々が、リュカのところに殺到してきた。
「お母さん! お母さん!! お母さん!!!」
「お母様! 良かった、本当に良かった!!」
左右からリュカの身体に抱きついてくる子供たち。
「おかえりなさい、リュカ!」
「姫様! もうどこにも行かないでくださいよ!!」
子供を抱いたままのリュカを、胴上げでもするように担ぎ上げるビアンカとサンチョ。ヘンリーは妻から引き剥がされ、地面に落ちて尻餅を打った。
「いてぇ! おい、お前ら……せっかくの良いシーンに水を……」
抗議しようとするヘンリーの頭を、踏みつけてピエールが言う。
「うるさい! もうリュカ様はお前だけのリュカ様ではないぞ。世界のリュカ様だ!!」
さらに、そのピエールを踏み台にしてリュカの胸に飛び込むスラリン。リュカたちを担いでいるビアンカとサンチョを、さらに担ぎ上げるアンクルとゴレムス。祝砲代わりなのか、イオラやメラミなどぶっ放してみせるミニモン、サーラ。
ピピン、ヨシュアは肩を組み、調子外れに兵士たちが歌う勝利の歌を歌いながら、抑え切れない喜びを表現する。ジュエル、ブラウン、ロッキーは輪になってアンクルたちの足元で踊る。それにあわせて、頭上をくるくると飛び回り、火を吐いたりアクロバットをしたりして、溢れる喜びを表現するのは、メッキーとホイミン、それにシーザーだ。
ロビンはマーリンを肩車し、四本の足を器用に動かして、剣舞のような事をし、時々、誰かが祝砲で呪文を唱えると、あわせてレーザーを撃っていたりする。そうした光景を見て、マスタードラゴンとグランマーズは愉快そうに笑っていた。
「やれやれと……おーい、プックル」
ヘンリーはプックルを呼んだ。駆け寄ってきた彼の背中にまたがると、軽く首を叩く。
「たのむぜ、戦友」
ヘンリーの言葉に頷き、プックルは大ジャンプして、ゴレムスの頭に飛び乗った。ヘンリーもそこに立つと、ゴレムスに悪いな、と言ってから、妻を呼んだ。
「リュカ」
「ヘンリー」
普段はヘンリーのほうが頭一つ高いのだが、今は二人の顔の高さは一緒だった。
「……もう、離さないからな」
「……うん」
二人の唇がそっと重ねられ、ひときわ大きな歓声が沸いた。
「さて……リュカよ、そして一族の者たちよ」
そこへ、厳かなマスタードラゴンの声が響き渡り、一行は騒ぐのを止め、その場に畏まった。
「真に良くやってくれた。そなたらの働きで、この世界に再び平和が訪れた。心から礼を言うぞ」
リュカとヘンリー、ユーリルとシンシアは並んで頭を下げた。
「いえ、母を探す旅のついでのようなものでしたから」
リュカが答えると、マスタードラゴンは大笑した。
「はっはっは、ついでで世界を救うとは、お前も大物だな。ともかく、お前たちの働きに報いるためにも、何か褒美を与えたい。希望はあるか?」
「え? 褒美……ですか?」
リュカが顔を上げると、マスタードラゴンは頷いた。
「まぁ、我の力が及ぶ範囲ではあるがな……なんでも一つだけ、願いをかなえよう」
急な話に、リュカたちは戸惑った。周りの仲間たちと顔を見合わせる。そのうち、魔物代表でマーリンが言った。
「我らには特に願い事はありませぬ。今後も、リュカ殿と共にあることができれば」
仲間一同、大いに頷く。リュカは聞いた。
「本当にそれでいいの?」
「ええ。今のままで、我々は満足しております。それより、リュカ様のほうこそ、何か願い事はないのですか?」
ピエールに言われ、リュカはサンチョ、ビアンカとピピンを見た。真っ先に首を横に振ったのはピピンだ。
「いえ、私は何も」
「私も同じです、姫様。私は姫様にお仕えできて、ビアンカさんが傍にいてくれれば、他に何もいりません」
サンチョが言うと、ビアンカがおどけたように言う。
「あら、私はリュカの次で二番目なの?」
こほんこほんと咳払いをしてごまかすサンチョ。リュカは家族たちを見た。
「ボクも、別に何もいらないかなぁ」
「私もお兄様と同じです。お父様とお母様と、みんなと、ずっと幸せに暮らせれば……」
まずユーリル、ついでシンシアが首を横に振った。そしてヘンリーも。
「オレにはお前だけで良い。リュカ、何か願いがあるなら、言ってみろよ」
「……うん、わかった」
リュカは頷くと、マスタードラゴンの方に向き直った。
「では、わたしからお願いが一つあります……魔界の、ジャハンナの街の人々を、この世界に連れてくることは可能でしょうか?」
「なに?」
首を傾げるマスタードラゴンに、リュカは事情を説明した。マスタードラゴンは頷いた。
「良かろう。マーサの功績を考えても、その街町の住民たちは保護せねばなるまい。そうだな……住む場所を失ったエルヘブンの民のためにも、街ごとここへ転送する事にしよう」
マスタードラゴンがそう言って何事か念じると、背後の世界樹の木陰に蜃気楼のように街の像が浮かび上がり、程なくして実体化した。確かに、ジャハンナの街だ。
「わぁ……」
驚きに目を丸くするリュカたち。決して万能ではなくても、やはりマスタードラゴンは神に相応しい力の持ち主ではあった。そのマスタードラゴンは、力を使ったためか、少し疲れた様子で言った。
「それでは、リュカよ……世界を救った宿命の聖母よ。改めて礼を言おう。本当に良くやった。ありがとう……そして、さらばだ。またいつか会おう」
「はい、マスタードラゴン様もお元気で!」
「うむ、家族仲良くな!」
マスタードラゴンはリュカの別れの挨拶にそう答え、飛び去っていった。金色の神竜がやがて点になって空に消えてしまう頃、異変を悟ったのか、ジャハンナの街のほうからざわめきが聞こえてきた。
「おっと、どうやら事情説明の時間らしいな」
ヘンリーが苦笑しながら言うと、リュカは笑顔で頷いた。
「そうね。きっと驚いてるわ」
「よし、じゃあ、行くか!」
ヘンリーが差し出した手を、リュカは握った。
「ええ、ユーリル、シンシア、おいで」
子供たちが駆け寄ってくる。
「はい、お母さん!」
「今行きます、お父様!」
リュカとヘンリーは子供たちと手をつなぎ、歩き始める。その後を、仲間たちがついて歩いていく。かつて妖精だった人々が守る樹の下、魔物だった人々の住む街へ向けて。それは、人と魔物と妖精が、共に歩み暮らしていける世界を象徴する光景。
後の歴史書は語る。
天空の勇者の母、宿命の聖母リュクレツィアは、また新しい世界の母でもあった、と。
(完結)