おぎゃー!と、赤子の産声。「生まれたか!」ラ・ロッタ家現当主、クールティル・ド・ラ・ロッタは喜びの声と共に、寝室へ駈け込んでいった。「あなた、申し訳ありません。」クールティルの妻、マリー・テレーズ・ド・ラ・ロッタは、疲れきった顔に喜色を浮かべつつも夫に謝った。「女児でございます。」侍女から赤子を受け取ると、クールティルはじーっと眺める。「これで12人目か…。 いいや、12人目の可憐な花が我が家に生まれたのだ。 これはとても素晴らしい事だよ、マリー。」その少女は12回目の喜びと、ほんの少しのがっかり感とともに生み出された。今でもクールティルは『お前が男ならば…』と、残念そうに言うらしいが、娘も同感であるのは誰も知らない事だったりもする。「名前はいかがいたしましょう?」「エメロード。」「4人目ですわ。」「リュビ。」「1人目ですわ。」「ジョセフィーヌ。」「9人目ですわ。」「ジゼル。」「去年生んだばかりですわ。」クールティルは頭を傾げた。「これは、まいったな…流石に12人目ともなると。」「あなた、ケティという名はいかがでしょうか?」マリーが、微笑みながらそう提案した。「実は…もし今度も娘だったら名前をどうするか、考えていましたの。」「ケティか…うん、ケティ、良い名前だ。」 そう言って、クールティルは眠る娘を愛おしげに眺めた。「君の名前はケティ、ケティ・ド・ラ・ロッタだ! この名が君の誉れとなるよう、気高く潔く成長してくれ!」少女の名はケティ・ド・ラ・ロッタ、のちにラ・ロッタ始まって以来の天才と呼ばれる少女である。少女はそう呼ばれるのを激しく嫌がっていたが。ケティは生まれてからしばらくはごく普通の赤子だった。ただし、周囲はすぐにその子が今までの赤ん坊とは違う事に気がついた。発達が、異様に早かったからだ。はいはいの時期が殆ど無く、すぐに歩き始めた。言葉の習得は普通の子よりも若干遅かったが、覚えてからがとんでも無かったのだ。「おとうしゃま、おとうしゃま。」「ん、何だいケティ?」2歳を過ぎたある日、ケティが舌っ足らずな口調でクールディルのズボンの裾をくいくい引っ張って来た。「たかいたかいかな?それとも、甘いお菓子かい?」「んー、それもいいけど、ちょっとちがうの。」ケティはふるふると首を横に振った。「ぼく、もじをおしえてほしいの。」「文字?いや、ケティにはまだ早いよ、文字は。」クールティルは娘を抱き上げて、ほお擦りをしようとしたが、ケティは身を捩じらせて避けようとする。「おひげいたいの、やーなの。」「髭を…剃らねばならんな、うむ。」クールティルは若干傷ついた面持ちで、髭の生えた自分の顔を擦った。こうして、ラ・ロッタ家から髭を生やした人間がいなくなった…というのは、完全に余談である。「もじをおしえて、ねー、おとうしゃま。」「う…うーん、わかった。 でも、君にはまだ難しいと思うのだけれども。」しかし、クールティルの予測は完全に覆される。ケティはわずか数日で文字を全部覚えて見せたのだ。「この子は天才だ!」クールティルは娘の知性の高さに驚愕し、驚喜した。「ジョゼねえしゃまー、エトワールねえしゃまー、ジゼルねえしゃまー、ごほんよんであげるの!」「えー、ほんとに?」「ケティごほんよめるの?すごいー。」「わーい、よんでよんでー♪」ついでにケティと歳の近い三人の姉も喜んでいたという。「ねえねえおとうしゃま、せかいはたいらではてがあるって、ほんと?」文字を覚えてからのケティは、物凄い勢いで本を読み始めた。それも、子供が読むような絵本ではなくて、学術書などのかなり難しい本をである。ケティにしてみれば、意識がまだ前世と現世の間を彷徨っており、はっきりしなかったのだが、それでもこの世界を何とか認識しようとしていたようである。「うーん、私は見に行った事が無いからわからないけれども、本に書いてあるって事は、そうなんだろうね。」「でもねでもね、ちへいせんをみてほしいの。 くもがちへいせんのむこうからやってくるでしょ? むこうからやってくるのよ、たいらなはずなのに。」クールティルがまさかと思って地平線をよく見てみれば、成る程確かに雲は地平線の向こうからやってきているのだった。そう考えると普段何気なく見ていた光景がとてつもなく不思議なものに見えてきたクールティルである。「な…成る程、言われて見れば確かに…。 ケティはどう思っているんだい?」「わたしはせかいがまあるくなっているとおもうの。 ほんとうはせかいはとてもとてもおおきいまあるいたまで、とてもおおきいからたいらにみえるだけだとおもうの。 きっと、そのまあるいたまのなかにはとてもとてもつよいせいれいがいて、みんなをそこにはりつけるようにひっぱっているの。 おそらにつきがあるでしょ? たぶんつきからみると、このせかいもあんなふうにみえるとおもうの。」この頃のケティの記憶はおぼろげで、前世の人格と現在の人格が混在していた。わかりやすく言うと、前世の記憶が幼児の人格と混在していたため、無邪気な幼児の人格で高校レベルとはいえ、前世の高度な科学知識を振りかざしていた。「ケティ、駄目だよ、それは駄目だ、それは異端な考えなんだよ。」「いたん?」普通の親であれば笑い飛ばしていた所だが、クールティルはかつて同じような事を言って異端とされた男の話を知っていた。数百年前の事、その男は優れた土メイジであり、学者だった。数学と測量技術を駆使して世界が球体である事を理論的に実証して見せたが、ロマリアの異端審問官に異端であるとして処刑されている。この地には異端審問官が侵入する事が出来ない為に、彼の書籍と彼がどうなったかが記された書籍が残っていた為、クールティルはその事実を知っていたのである。「このじだいにはあわないの?」「この世界に会わないんだよ、ケティ。 理論的に正しい事でも、常識として正しいとは限らないんだ。」自分の言っている事を我が娘が完全に理解している事を、クールティルは理解した。ケティが高度な知性とそれを制御できない幼稚な理性が混在しているという、とんでもない天才娘だという事を理解したのである。「ケティ君は天才だ、だから私がきちんと教育するよ。 君がこの世界の異端とならぬように。」「うん、おねがいしますなの。 でもおとうしゃま、ちょっとくるしいの。」自分をぎゅうっと抱きしめるクールティルに、軽く眉をしかめつつ、ケティはコクリと頷いたのだった。「お父様、僕は魔法が使いたい。 だから、ジゼル姉様と一緒に、山の女王に会いに行きたいんだ。」「ケティ、確かに君ならば、山の女王も認めてくれるかもしれないが…。 山の女王への謁見は、我が家では6歳と決まっているんだよ。」ケティは4歳の時にも同じ事を言って、クールティルを困らせた。今回も年齢を条件に断ろうとしたのだが…。「え?ケティも一緒に来てくれるの? やった、嬉しいな、ケティと一緒、一緒♪」「ちょっと待ってジゼル姉さま、そんなに抱きつかないで!? 僕まだ子供で力が無いから倒れちゃう!」ケティは前世の記憶と現世の常識に上手く折り合いをつけた聡明な子として育っていたが、一方で前世の記憶と人格が一致した為か、非常に男っぽい性格と口調に育っている。普通の女の子がするような遊びはあまりしたがらない上に、ままごと遊びではいつもお父さん役である。格好も、男の子の格好を普通にして、普通に似合っていたので、領民の中にはケティが女の子だという事を忘れている人もいたくらい。「ケティ坊ちゃんなら、ラ・ロッタには何の憂いも起きないべぇ」とは、村の長老ガストン爺さんの弁である。ケティを男と勘違いしている上に、本当の跡取り息子であるアルマンの立場がまるっきり無い言葉だが…。「だってだって、ケティと一緒なら絶対安心だもん。」「いや姉さま、僕は非力な子供だし、山の女王の所に行くんだからそもそも絶対安心だよ。 ねえお父様?」ジゼルがケティにベッタリしすぎな気がするクールティルであった。まさか、我が娘は妹に初恋なのかと考えて、恐ろしいのでそれ以上考えるのをやめた。「はは、まあ確かに山の女王に会いに行く僕たちに、害を為すものなどいないと思うよ。」「うー、とにかく、ケティと離れたくないの!」「…で、お父様。 この状態のジゼル姉さまを引き剥がして連れて行くの? 絶対に泣くと思うんだけど。」姉と対比すると、この落ち着きようとこの冷静な瞳。大人と話している気分になってくるクールティルであった。「ははは…まあ、仕方が無いか。 でもケティ、山の女王が認めなかったら大人しく帰るんだよ?」「はい、お父様。」そうは言ったものの、クールティルはケティが山の女王に認められるのだろうなという確信はあった。「やったー!ケティと一緒だー♪」「だから、変な抱きつき方しないでジゼル姉さま! ちょ、首がしま…ぐぇ!」知性は高いが、体がちんちくりんの幼児だったため、体の発育が早く背も高いジゼルに抱きつかれては形無しのケティであった。山の女王とは、ラ・ロッタ領そのものといっても良い。彼女はトリステイン開闢の時代から延々と生き続けるこの地域の真の支配者。その正体は、ジャイアント・ホーネットと呼ばれる大型スズメバチ幻獣の女王である。彼女は高度な知性を持ち、体にがたが来ると自らのコピーを生み出して記憶と経験の継承を行っている。「わわわ、蜂さんいっぱいだわケティ? 怖い、怖いよケティ。」」ラ・ロッタの民は6歳になるとここに来て、山の女王の承認を受ける事が慣わしになっている。特に領主の一家は彼女から杖を賜り、それと契約してメイジとなるのである。「姉さん、虫が駄目なのはわかるけど、山の女王に粗相したら…食べられちゃうかもよ?」「やー!食べられるのやー!もうお家帰るぅ!」山の女王の宮殿、つまり物凄く大きなスズメバチの巣の中を今三人は歩いている。「しまった、薮蛇だった、く…苦しい。」「あはは、ジゼルを脅かしちゃ駄目だよ、ケティ?」周りには沢山の巨大なスズメバチがひしめき合っており、ケティたちは彼女らが本気になればいつでも八つ裂きに出来るのだが、そうされる事は無い。この地のジャイアント・ホーネットは人の子を襲わない。そして、女王の承認を受けた者の近くにいる者も襲わない。「ジゼル姉さま、首は絞めないで、苦しい。」「やー、怖い!」女王の承認が受けられるのはこの地で生まれた者か、またはその配偶者のみなので、船乗り達はこの上空を通れない。故にこの地域は絶対の守りの代わりに、交易路からも外れているのだ。「お父様も笑ってばかりいないで助けてよ?」「あはは、ごめんごめん。 ほらジゼル、お父様が抱っこしてあげよう。」クールティルがジゼルを引き剥がそうとしたが…離れない。「ケティの方が良いのっ!」「…だ、そうだよ?」「はぅ…大失敗だよ。」ケティががっくりと肩を落とすその傍らで、泣いていた筈のジゼルが幸せそうにケティに抱きつきほお擦りしているのを見て、二人の将来が少し不安になったクールティルであった。山の女王は大きい、兎に角大きい。普通のジャイアント・ホーネットは1メイル前後だが、女王は3メイルはある巨大な蜂である。肉食昆虫の頂点に君臨する女王なだけあって、視覚的なおっかなさは群を抜いていた。その周辺には1.5メイル程ある親衛隊蜂が整然と並んでいる。まさに女王の謁見の間であった。《よく来た、ラ・ロッタの子らよ。 久しぶりであるな、クールティル。》「はい、久しぶりでございます、山の女王。」「は、蜂さんが喋った!?」普通のジャイアント・ホーネットは喋らないが、彼女自身は齢数千年という幻獣である。人の言葉を思念波として送る事など、お茶の子さいさいであった。《ガチン!》「ひっ!?」親衛隊蜂の一匹が、顎を鳴らした。不敬であるとでも言いたいらしい。《よいよい、人に直接意思を伝えられるのはわらわだけなのであるから、子供が驚くのも道理である。 脅かしてすまぬな、名はなんと言う?》「ジ、ジゼル・ド・ラ・ロッタ…ですわ、山の女王。」顔を真っ青にしながら、ジゼルがスカートの裾をちょんと上げて礼をした。《そちらの小さな子供よ、そちの名は?》「ケティ・ド・ラ・ロッタと申します、山の女王。」ケティが一礼すると、女王が身を乗り出してケティの目の前までやってきた。《そなたは…おなごであるな、なのに魂からほんのりと男の香りも漂って来る、その服装のごときじゃ。 ほほほほほ、面白いのう、実に面白い。 長く生きてきたが、このような人の子に出会うのは初めてであるわ。》「そ、そうでございますか、楽しんでいただけて光栄であります、山の女王。」流石に蜂の頭のアップは怖いのか、ケティの顔は少々引きつっていた。《まあ、その男の匂いも女になり始めれば消えるであろう。 それまではせいぜい、男と女の狭間を生きるとよかろう。》そう言うと、女王は元の体勢に戻った。《ジゼルにケティ、そなたらの匂いをわらわは認識した。 これからそなたらは命果てるまで正式にこのラ・ロッタの民であり、我々はそれを妨げる事は一切しない。 そなたらは魔法を使う民であるから、杖を授けよう…杖をここへ!》女王の声に応えて、親衛隊蜂が杖を二本咥えて持ってきた。《我ら謹製の杖である、受け取られよ。》「はい、謹んでお受け取りさせていただきます。」「はい、ちゅちゅし…あぐぅ…舌噛んだよ。 お、お受け取りさせていたらきまふ。」二人が受け取った杖は、軽くてとても硬いキチン質の杖…わかりやすく言うと、ジャイアント・ホーネットの針を杖に加工したものであった。《もしもそれを失うような目にあった時は再び来るがよい。 いつでも用意して待っておるぞ。》「はい、ありがとうございます、山の女王。」「ありがとうございます。」ケティとジゼルは揃って頭を下げた。「杖を賜りまして、誠にありがとうございました、山の女王。 それでは早速下山し、契約の儀に入りたいと思います。」《ほほう、その歳で杖と契約するというか。 面白い、実に面白いのう。 そなたは将来何か大きな事を為すやも知れぬ、期待しておるぞ。》流石に表情はわからないが、女王の声はとても楽しそうなものであった。その後数日をかけ、ケティは見事に杖との契約を果たす。普通は10歳を超えてから契約するものであり、5歳で契約するなど前代未聞ではあるのだが、ケティはやり遂げて見せた。「ファイヤーボール!」そして、高々数日で炎の矢の制御どころかファイヤーボールまで使って見せて、周囲の度肝を抜くのであった。「ケティ、君はきっと凄い人になれるよ。 …でも、それだと結婚できないかもしれないなぁ、それは嫌かもしれない。」「そんな未来の事を考えても仕方が無いよ、お父様。 それよりも、魔法の制御の仕方、もっと教えて?」玩具を手に入れたての子供の瞳で、ケティはクールティルにそうねだったのだった。