トリステイン艦隊旗艦メルカトール号の甲板で、艦隊指令のニコラス・ダース・ド・ラ・ラメー伯はアルビオン王国改め神聖アルビオン帝国からの親善艦隊を出迎える為に、正装で椅子に座っていた。「遅いな…待ってやっているのに、何をのんびりやっておるのだ。」少し痺れを切らしてきたかのような口調で、ラ・ラメーは愚痴る。「先日使者と共にアルビオンに潜入した密偵からの報告によれば、アルビオン空軍は内戦で著しい数の将兵を失っている模様です。 運行要員の錬度が落ちているのやも知れませぬな。」ラ・ラメーの横で直立不動で立っているメルカトール号艦長パトラッシュ・ド・フェヴィスが、上司の愚痴に応えた。「…とはいえ、腐っても連中はハルケギニア最強と誉れ高かったアルビオン空軍だ。 性根こそ主君殺しの畜生以下だが、その力を侮る事は出来ぬ。」「やれやれ、厄介な話ですな。 姫様がお輿入れする時期とはいえ、こんな時期にアルビオンと不可侵条約を結ばずとも良いものを。 レコン・キスタが各国の内部に根を張り始めている以上、時間は奴らに味方することは間違いありませぬ。 そうであれば先手必勝、連合軍でアルビオンを征伐した後、改めて婚姻を行っても問題はありますまい。」慎重なラ・ラメーの言葉を聞いて、頷いたフェヴィスが溜息を吐いた。「あの鳥の骨の考える事だ、何を考えているのかはわからんが意味はあるのだろうさ。」ラ・ラメーは《鳥の骨》をはき捨てるように言って眉をしかめた。「おや、提督は枢機卿の事をかっておられるのですか? 私の記憶が正しければ、提督は枢機卿がお嫌いであった筈でありますが。」「もちろん大嫌いだ。 始祖より続く神聖な血統を受け継ぐ王家と何の繋がりも無いロマリアの坊主が、女王陛下が引き篭もっているのをいい事に政治を好きに動かしているのだからな。 陛下が引き篭もられているのにも関わらず、何故にラ・ヴァリエール公が摂政として取り仕切ってくれぬのか。 しかし、今のところあの鳥の骨は特に目立つ失政は犯していないのだ、奴は実に正しい政治を行っているのは間違いない。 正し過ぎてついて行ける者が殆どおらぬがな!」口からその名を出すのも嫌だといった風に、ラ・ラメーは顔を歪めた。貴族同士の情やこの国での風習を無視して、自分が正しいと思う政策を推し進めるマザリーニ枢機卿は兎に角評判が悪い。本来クッション役になる筈の女王が先王の喪に服したまま王宮の奥に引っ込んで出てこない為、マザリーニはうまくやればやるほど貴族からの反感は高まり、よりいっそう嫌われていく。絵に描いたような悪循環であった。「複雑な心中、御察し申し上げます。」「うむ…ああ忌々しい!」ラ・ラメーは眉をしかめて唸るように言った。「西北西上方、雲間より艦隊!」鐘楼に登り双眼鏡で周囲を見回していた見張りの水兵が、大声で報告した。「来たか。」ラ・ラメーは艦の西北西側にある空を見た。「あの艦隊中心にある大きな戦列艦が旗艦のインディファティガブルですな。」フェヴィスもそれを見て頷いた。「…フェヴィス、よくもまああの舌を噛みそうな艦名をすらすらと言えるな?」「練習しましたからな、実は何度か舌を噛みました。」ラ・ラメーの軽口に、苦笑しながらフェヴィスは返した。「ロイヤル・ソヴリンはアルビオン王家が直々に止めを刺したゆえ、見る事が叶わぬか。 いずれは敵に回る連中の船であるから有り難いが、見てみたかった気もするな。」「確かに噂に聞きし巨艦、一度見てみたかったものですな。 とはいえ、あのインディファティガブルですら、このメルカトール号よりも一回りは大きいようですが。」アルビオンの別名、《風の王国》の名は伊達ではなく、内戦前は空軍力においてかの大国ガリアをも上回っていた。始祖から続く家系とはいえ、数代前に国の東半分に独立され、しかもその殆どをゲルマニアに併合されたトリステインとはかなり国情が違っていたのだった。内乱を経てなおインディファティガブルのような大型の戦列艦が健在だというのはまさに脅威であった。王家も国の権威付けとしての最低限のハッタリ以外はあまり贅沢しているわけではないのに、空軍にきちんと予算が回らないトリステイン。税金はいったいどこに消えたのやら…である。「インディファティガブルから旗流信号です。 『貴艦隊ノ歓迎ヲ謝ス。アルビオン艦隊旗艦インディファティガブル号艦長。』」「ハハハ、艦隊旗艦の艦長とは見事に馬鹿にされておるな。 まあこれが貧乏空軍の悲しさか。 返信せよ『貴艦隊ノ来訪ヲ心ヨリ祝ス。トリステイン艦隊司令官。』」トリステイン側の旗流信号がはためくと、インディファティガブルから礼砲が放たれた。「礼砲の数は7発か、舐めるにも程がありますな。」「流石に腹が立ってきたな。 答礼砲は5発でよい…例の情報もあるから、こちらの最大射程外である事を記録してから撃つように。」流石に腹が立ってきたのか、ラ・ラメーの眉がひくついているのをフェヴィスは発見し、苦笑を浮かべた。「諒解、答礼砲準備!順に5発!準備出来次第撃ち方始め!」メルカトール号のカルバリン砲が5発、答礼砲の火を噴いた…と、同時にアルビオン艦隊最後尾のボロ艦に火がつき大爆発した。「まさか…。」その光景を見て、フェヴィスは絶句する。「いやはや、これはまさかか?」そう冗談めかすラ・ラメーの顔も引き攣っていた。「手旗信号ですな『インディファティガブル艦長ヨリ、トリステイン艦隊メルカトール号ヘ。《ホバート》ヲ撃沈セシ、貴艦ノ砲撃ノ意図ヲ説明サレタシ。』」「まだ信じがたいな…返答せよ。 『冗談ハ顔ダケニセヨ。本艦ノ射撃ハ答礼砲ナリ、空砲デ沈ムヨウナ船ヲ持ッテクルナ。』 …あと、発煙信号弾赤の準備をせよ。」ラ・ラメーの返答は半ば投げやりなものになった。「『空砲デ沈ムホド当方ノ艦ハ脆弱ニ非ズ。此レヨリ当方艦隊ハ旗艦ノ攻撃ニ対シ反撃ヲ開始ス。』」そう手旗信号が帰ってきた途端に、アルビオン艦隊が一斉に砲を撃ってきた…が、全てが外れて明後日の方向に落ちていく。「モット伯の冗談かと思っていたが、まさかこれほど恥知らずとは…呆れて口が塞がらんとはまさにこの事だ。」「《主君を殺す貴族は犬にも劣る》と、トリステインの故事にも申しますしな。 連中が恥知らずなのは反乱を起こした時点でわかっておりましたから、まあこんなものではないかと。」ラ・ラメーの独白じみた言葉に、フェヴィスが苦笑しながら返答した。「あの馬鹿ども、今頃奇襲が成功したものと喜んでおるようだな。 こちらは念の為に主力艦を最大射程距離圏外に離しておったのだが。 しかし連中の大砲がこちらのカルバリン砲よりも射程が長いと知った時は驚いたが、取り付けた砲をすぐに使ったのか? 至近距離であの命中率とは。」「主君の血筋を絶やすような連中の考える事は、いまいちわかりませんな?」敵の新型大砲は確かに射程こそトリステイン側の長射程を誇るカルバリン砲以上だが、命中率がいまいちだった。本来その砲を運用する筈であった《ロイヤル・ソヴリン》がウェールズによって撃沈されてしまった為に、運用の為の訓練を施されていた人員が空の藻屑と消えてしまった為だ。 「艦隊の数こそさすがアルビオン、かの風の国らしい威容ですが、兵の質は王家とともに葬り去られたようですな。」その惨状をフェヴィスが鼻で笑った。「…とはいえ、こちらは出迎えの為のわずかな手勢だからな、あの程度でも十分であろう。」ラ・ラメーは眉をしかめた。「逃げますか?」「ハッ!冗談を申すなフェヴィス、あのような素人どもに引いたとあってはトリステイン空軍史上始まって以来の恥だぞ。 それにだ、我らの後ろにあるのはトリステイン、女王陛下が治める我らが祖国だ…旦那の死に未だに泣いて引きこもるなんとも困った女王陛下ではあるが、だからと言って我らまで引きこもるわけには行くまい?」フェヴィスの提言を鼻で笑って、ラ・ラメーはアルビオン艦隊を睨みつけた。「その通りですな。 それにあの砲撃の下手糞ぶり、敵とは言えど見るに耐えませぬ…ここはひとつ、教育が必要かと。」「確かに、教育が必要だな、あれは。 …発煙信号弾弾赤を放て!敵はアルビオン貴族を名乗る犬畜生にも劣る卑怯者どもだ! 戦の作法も砲の撃ち方すらも覚束無い下品な蛮人どもに、戦争を教育してやるがよい!」 ラ・ラメーの命令により、赤色の発煙信号弾がトリステイン艦隊旗艦メルカトール号より放たれた。赤は攻撃開始の合図。出航直前にアルビオン艦隊の動向に注意せよと伝えられていた為に、大して混乱していなかったトリステイン艦隊はその合図とともに一斉に反撃を始める。曇天の雲の中に潜んでいたトリステインの竜騎士部隊もその合図を見て、出撃を始めたばかりのアルビオン竜騎士部隊に上空から襲い掛かっていった。さしものアルビオン竜騎士も思いがけず上をとられた事により算を乱して、ばたばたと撃ち落されていく。「こ、これはどうしたことだね、ボーウッド君。 我々の奇襲は成功したのではなかったのか!? 奇襲どころか、我々が奇襲されているではないか!」アルビオン艦隊旗艦インディファティガブル号の甲板上で、艦隊指令のジョンストンが激しくうろたえていた。「どこから漏れたかは知りませんが、完全にばれていたようですな、これは。」そう言って、インディファティガブル号の艦長ボーウッドは溜息を吐いた。彼はこのジョンストンが艦隊指令ではあるが完全にお飾りなせいで、自分が事実上の艦隊指令と化している上に、軍事のイロハが全くわからないジョンストンの無茶振りに何度も応えてきたので、疲れきっていたのだ。「…竜騎士隊の発艦急げ! こちらの方が数は多いのだ、数で押せばどうとでもなる!」ここに至って、アルビオン艦隊は自分達の奇襲が完全に察知されていた事にようやく気付いたのだった。「そちらが新型砲なら、こちらは新型火薬で対抗するのだ。 無煙火薬《コルダイト》による大砲の速射をとくと味わうがよいわ!」実はケティはパウルを使って、モシン・ナガンに使われていた火薬の複製と軍への売り込みを行っていた。コルダイトのパテント料やら何やらで、このあとパウル商会はかなりの大もうけをする事になるが、これはまた別の話。「撃て撃て、どんどん撃て! 周りは敵だらけだ、撃ち放題であるぞ! トリステイン空軍の誉れを見せよ!」メルカトール号の甲板上でラ・ラメーが吠えるように号令をかけたのだった。2時間後、多勢に無勢のトリステイン艦隊は刀折れ矢尽きて壊滅したが、アルビオン艦隊にも甚大な被害が発生していた。何せ、アルビオン艦隊が2発発射する間にトリステイン艦隊は7発も撃って来るのだから、標的になった艦は一方的に滅多打ちにされ撃沈されていったのだ。アルビオン側の新型砲での訓練不足もあったが、あんまりな差であった。メルカトール号は撃ち過ぎて弾が尽き、最後は艦体を全速力でぶつけて乗員ともども敵艦に切り込み、敵艦の弾薬庫を爆破して果てた。トリステイン艦隊に予想を遥かに上回る甚大な被害を与えられたアルビオン艦隊は、腹いせとばかりにラ・ロシェールに襲い掛かり壊滅させ、タルブに向かって進軍を始めたのだった。