アンリエッタは全ての公務を終え、部屋に帰ってきた。よろよろと足取りも重く、疲れ果てているのが一目でわかる。「はぁ…疲れた。」アンリエッタはベッドに力無く横たわった。「そろそろ疲れた以外の台詞も言うようにしないいといけないわね。 毎日疲れた疲れたばかりじゃあ、気が滅入るというものだわ。」最近の彼女は自室に戻るとやたらと独り言が多くなっていた、過労で脳内がハイになったままなせいかもしれない。そう、女王に就任してからというもの、彼女の毎日は公務に始まり公務に終わるだけの毎日となっていた。「ああもう、少しで良いから時間が欲しいわ、読みかけの詩集も即位以来一度も読めていないし、演劇も見られない…というよりもこの状態で演劇を見に行っても爆睡するだけだわ。 私の中の乙女成分が日に日に無くなって行く実感…そして代わりに詰め込まれる政治家としての私…さようなら私の青春、麗しき少女時代。」その仕事量たるや、彼女がまだ若いから何とかこなせているようなもので、本来一人の人間が処理しきれるようなものではないのだ。老人だったら、数日でベッドではなく棺桶で永遠に眠る事になるだろう。「そうだわ、お母様のバカー…とかはどうかしら? …駄目ね、頭の中が腐っていると、詩的な罵倒すらも困難になるのが確認できただけでも善しとしておきましょう。」全ての仕事に正面から取り組み、枢機卿や大臣や官僚達等から助言を貰って決済していくうちに、彼女は凄まじい勢いで行政に関する能力を身に着けていった。身につけていったというか、そうせねば仕事が進まないので、何が何でも覚えなければならない状況に追い込まれていたのだ。「枢機卿に『決済を代行しますか?勿論絶対に陛下の決済が必要なものの場合はそうさせて頂きますが』と言われた時に『善きに計らって下さい』と言わなかったばかりにこんな目に。 ああ、何であの時の私は『全部私がやりますわ、国王ですもの』とか言ってしまったのかしら…。 もしも戻れるなら、言い直すのに。」マリアンヌは代行承認すら『自らは王で無いのでそのような事は出来ない』と放置していたので、トリステインという国は機構として機能せず、枢機卿も大臣も官僚もそれぞれ自分の権限で出来る仕事をてんでばらばらにやっている形となっていた。アンリエッタが直々に決済するようになって、やっと国が国として統合された機能を発揮し始めたのだ。よくもまあ三年持ったものだと呆れるを通り越して感心したくなるアンリエッタであったが、実はマリアンヌの事をあまり怨んでいなかった。サドっぽい笑みを浮かべながら、目の前に絶望的な高さの書類の塔を築く枢機卿や大臣や官僚達に比べれば。実の母親でなければ即刻斬首してやるのにと時々思う程度、大したものではない。「私だって政治に一切関心を持たずに恋に恋していたのだから、ある意味同罪ですものね。 今こんな目にあうとわかっていたのなら、お父様が崩御した時に私が継ぐと即宣言しておくべきだったわ。」とは言え、連日連夜の激務も後もう少しの事。あと少しでトリステインという機構は取り敢えず形を取り戻す。アンリエッタが判断し、命令し、決済した事が官僚達によって動き出し、国が国としての個を取り戻す。そうすれば今よりは暇になり、お茶の時間や視察に名を借りた外出の時間も作れる…かもしれない。「皆がそれぞれ独自に動いていた中で、明らかな不正が大量に発生しているのが痛過ぎるわ。 不正行為でも、こんな国を何とか持たせてくれていたという事実もあるし…さて、どういう風に功罰を行使しようかしら?」国家予算がどう見てもきちんと行き渡っていない状況なのだ。多少ならまだ良いが、国家予算の3分の1が何処に出かけたのやら行方不明。そして何故だか異様に羽振りの良い大臣やら官僚やらが散見される。特に財務卿のリッシュモン。非常に能力は高いのだが、数十万エキューも国家予算から引っこ抜いて懐に入れるというのは幾らなんでも許せるものではないし、全員が殆どお咎め無しではこの状態は改善されない。他にも何やらきな臭い所があるので、今の所泳がせてはいるが…全てが判明次第、一族郎党一人残らず見せしめとして処刑せねばならないとアンリエッタは考えていた。狡賢く利に敏い者達に利を説くのだ、『命と金…さて、どちらが大事かしら?』と。「…その後で、他の者には白状すれば温情はあると示す必要もあるわね。」頭が良くて臨機応変な対応が出来る者は、その良い頭で臨機応変に狡い事も考える…優秀な大臣や官僚は貴重だ。全員処刑したら、官僚機構が機能しなくなってしまう。正直な莫迦や清廉潔白な役立たずばかりでは国は立ち行かない、多少の濁りは仕方が無い。勿論、横領した公金は家財を売り払ってでもきっちり返してもらうつもりだが、反省しているのであれば救済措置を取るつもりのアンリエッタだった。「…って、こんな事考えている暇は無いのでしたわ。 この時間は寝るのが公務なのよ、早く寝なきゃ。」もはや眠る事さえ公務のアンリエッタ…前回会った時は話の内容にいまいちピンと来ていなかった様だが、彼女の幼馴染がこの激務を実際に目の当たりにしたら、姫様を殺す気かと激怒するのは想像に難くない。「さあ寝ましょう…あら?」改めて布団を被りなおして目を瞑ったアンリエッタだったが、ドアがノックされる音が室内に響いた。「…どなた?」「…………。」しかし、返事は帰ってこない。つまり、城の者ではない可能性が高い。アンリエッタは枕の下に隠していた杖を握ると、もう一度ノックの音が。「誰であるか?ここは王の寝室です。 名を名乗りなさい、近衛騎士を呼ばれたく無ければ。」今度は国王らしく尊大な口調で言ってみるアンリエッタだった。「僕だ。」「詐欺師は間に合っています。」何となく聞き覚えのある声ではあったが、眠る寸前で頭が薄らぼんやりしているせいかいまいち思い出せない。「さ…違う、僕だよウェールズだ。」「ウェールズ…?」確かにその声は、思い出してみれば彼の声によく似ている。よく似ているが…何か違和感がある。「ウェールズ様は爆死しましたわ。 それとも、幽霊が来たとでも言うのかしら?」「幽霊でもない、レキシントンに突っ込んだのは僕の影武者だ。 僕は落ち延びたんだよ、アンリエッタ。 さあ、ドアを開けておくれ、僕の可愛い従妹殿。」あのウェールズに限ってそれはありえない…が、誰かが来ていて、それが自分の部屋の前に居るのは確かだ。(無垢で儚げなお姫様に、暫く戻ろうかしら?)明らかに罠だが、ここは乗った方が色々とわかるかもしれないし、ウェールズを騙る者は何より許し難い。そう思ったアンリエッタは、さらさらっとメモを書いて枕の下に仕舞い、数ヶ月前の自分に上っ面だけ戻ってみる事にした。「で、でも風のルビーは私の手の元に…。」動揺するふりも大変ねと思いながら、アンリエッタはもう一段階の探りを入れてみる。「敵を騙すにはまず味方からと言うだろう? 僕は君が絶対に風のルビーを持っていてくれるとわかっていたからこそ、君の手元に渡るように仕向けたんだよ。」「…わかりましたわ。 では最後に何か、身の証になるような事はございませんの?」理屈は通っているが、違和感は消えない。「風吹く夜に。」「…!?」それは、ラグドリアン湖で会う時に決め、何度も聞いた合言葉。(な…何故その言葉を知っているの?)アンリエッタは本物ではないかと思わず信じたくなってしまう自分を、どうにか抑えつける事に成功し、ドアの鍵を開けた。そしてそーっと扉を開けて、隙間から外をうかがう。「ウェールズ…様。」そこに居たのは確かに間違いなくウェールズだった。アンリエッタと目が合うと、柔和に微笑んでくれる。意識せずにドアを勝手に開いてしまう自分がいる一方で、アンリエッタの頭の中は冷め切っていた。(あの頑固な人が国を捨ててなお、柔和に微笑みながら現れはしない。 例えもし生きていたとしても、酷く悲しそうな顔をしている筈よ。)これは罠なのだ、とてつもなく残酷な罠なのだと思いながら、アンリエッタはウェールズを抱きしめていた。「ああ、ああ、ウェールズ…様、よくぞご無事で…。」演技をしなくても、アンリエッタの両目からは勝手に涙が流れてくる。願望で、絶望で、怒りで、悲しさで涙が止まらない。「君は泣き虫だね、アンリエッタ。」そう言って彼女の頭を撫でるウェールズの手が、やたらと硬質な感触なのにアンリエッタは気付いた。「ウェールズ様、その手は…?」「え?ああ…脱出の時にしくじってね、今は義手なんだ。 流石に無傷では済まなかったよ。」ウェールズは軽く引き攣った笑みを浮かべた。「アンリエッタ陛下、お久し振りで御座います。」ウェールズの後ろから、アンリエッタに敬礼をする老人が現れた。「おお、バリー卿、貴方も無事だったのね。」「はい、このバリー、恥ずかしながら落ち延びてまいりました。」ウェールズの教育係であるバリーまでもがいて、彼と行動を共にしている。どういう魔法が使われたのか、それともこの目の前の人は本当にウェールズなのか、そういう疑問がアンリエッタの脳裏に浮かんだ。「敗戦の後、我々は脱出用の偽装商船を使ってトリステインに降下し、身を隠していたのです。 王太子もご覧の通り片腕を失っておりましたし、追っ手に見つかるとまずいという事であちこちを転々としておりました。 やっと傷も癒え、我が国がご迷惑をかけた事をお詫びしようと思ったのですが…。」「…この通り追われる身だからね、白昼堂々とはいかない。 僕がこの国にいることがばれれば、レコン・キスタはまたこの国へと侵攻してくるかもしれないからね。 君が一人でいる時間を調べ上げて、こっそり来させてもらったというわけさ。」辻褄は合うし、バリーもいる。信じうるに足るだけの材料は揃っているが、それでも目の前のウェールズにアンリエッタは違和感を感じ続けていた。仕草が別人と言うか、今は思い出せないが別の顔見知りのような気がするのだ。ウェールズは基本的に柔和で癒しオーラの出ている人なのだが、このウェールズは癒し系というよりは伊達男系。トリステインによくいるタイプの気障な仕草…。「…ああもう、頭が疲れ過ぎているのかしら、思い出せないわ。」「どうかしたのかい?」思わず出た独り言を聞き返すウェールズに、アンリエッタはにっこりと微笑んだ。「貴方と会った日が何月何日だったのか…忘れるだなんて私らしくないなと思いましたの。」内心『やっちまったZE☆』と冷や汗ダラダラなアンリエッタだったが、連日の公務で鍛えた笑顔の仮面で何とか取り繕う事が出来たようだった。「そうかい?何時出会ったか…なんて事よりも、君といる今の時の方が大事だと僕は思うね。」「それは確かに…そうですわね。」ウェールズはというか、アルビオン人は嫌味以外でこんな華麗な切り返しはしない。(本当の彼なら、すこし困った顔をして『あははは』と笑う筈。)やはり中身が違うと、アンリエッタは確信したのだった。「…さて、茶番はこれくらいにしません?」アンリエッタの表情が急に消えた。いや、口だけ笑っているが、目から表情が消えた。茫洋としていながら、全てを見抜こうとする視線を、王者の視線を自分と抱き合う男に向ける。「私は確かに恋に恋する馬鹿な小娘ですわ。 でもね、だからこそ想い人の仕草や喋り方は、はっきりと憶えているのよ。」そう言って、アンリエッタは袖から取り出した杖をウェールズに向けた。「貴方は…誰?」「くっ…。」ウェールズはアンリエッタを押し退けた。「くくく…はははははは。 一度やきが回ると回りっ放しか、俺も尽くづく運の無い男だ。」笑う男の『フェイス・チェンジ』が解け、素顔が明らかになっていく。トレードマークの帽子は無いが、もうひとつの特徴である髭にはよく見覚えのあるアンリエッタだった。なぜならば、その男はたかだか数ヶ月前まで彼女の親衛隊長として働いていた男だったからだ。「ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド…私を殺しに来ましたか?」「いいや、クロムウェルが貴方を御所望だ。 同行願おうか?」彼がそう言った途端に鳩尾に強烈な衝撃を受ける。「うっ…。」あの書置きを見つければ、すぐに事は発覚する。追手が自分を助けてくれる事を願うしかないが、駄目ならルイズもいるしまあ良いかと思いながらアンリエッタの意識は暗転した。「…さて、では偽者は早々に立ち去るとしようか。 バリー、行くぞ。」「はっ。」裏切り者と生ける骸は、王宮の闇の中へと消えたのだった。