「衣装なのよ。」「衣装なのですか。」ケティの目の前にあるのは厚い胸板とモジャっとした胸毛。(スカロン近づき過ぎ…というか、スカロンから漂う薔薇のようなうっとりするほど良い香りが…。 ううぅっ…見た目も中身も変態のくせに匂いだけ良いとは、なんというフェロモンの無駄遣い。)スカロンから漂ってくるフェロモンじみたやたらといい香り。それにちょっぴりうっとりしかけた自分に対して、激しい自己嫌悪に陥るケティだった。「楽団の手配も整ったし、うちでも歌のうまい娘を選りすぐって旅芸人たちに教えてもらっている最中だけれども…。」「お酒を注ぐのとステージに立つのでは、必要な衣装の需要が違いますからね。」ケティの言葉に、スカロンはうんうんと頷く。「そういう事、もうちょっと派手目、かつ可愛らしくて色っぽいのに肝心な所は絶対に見えない…そんな感じの衣装が欲しいの。」「またそれは…なんというか、かなりの無茶振りなのですね。」トリスタニアは首都とはいえ、人口15万人ちょっとという、日本で言うならド田舎の中心都市程度でしかない。それでも、人口150万人といわれるトリステインの人口の1割が集まっているわけだが、人口30万人超の大都市なリュティスに比べると、色々な点で見劣りする。服飾職人とか、文化的な点で。「どうにかならないかしら、貴方の伝手で。」「うーん…。」とはいえ、リュティスも日本の諸都市と比べると大都市(笑)になってしまう。ケティも周辺諸国が大き過ぎて、いまいち実感が湧かなかったが、こうして比べると転生前の祖国がいかに大国であったのかというのを今更ながらに思い知るのだった。「…正直な話、服飾に関して、私はまるっきり駄目なのですが。」ケティは男装を止めて以降、ほとんどが姉達からのお下がりであり、しかもそれを何の疑問も無く着ている。止めたとはいえ、まだまだ少女初心者なケティだった。「ジェシカをつけるわ。」「なるほど、それなら何とかなるかもしれないのですね。」男心マスターのジェシカなら、ジェシカならきっと何とかしてくれる。そっち方面ではジェシカにまるで勝てる気がしないケティだった。「後は、男の視点がいるのですね。」ケティは男男…と考えた結果、才人の間抜け面が浮かんだ。「ぬぅ…。」頬がほんのり赤くなる。いまだに媚薬に頭を侵されていた頃の恥ずかしさが抜けきらないケティだった。「ああもう、あんな事をしてしまったとはいえ、いい加減に恥ずかしがるのを止めないと拙いのですよ。」恥ずかし紛れに真っ黒な事を考えて、それを弾き飛ばそうとするが…健闘空しく、さらに顔が赤くなっていく。「男の子の事を考えて赤くなるだなんて、ときどきおっかないケティちゃんもやっぱり乙女ねえ。」スカロンはそれを楽しそうに見守っている。「サイト君の事でしょ?考えているの。」「んなっ!?」ケティの顔が真っ赤になる。「ななななな、何の事でしょう?」「サイト君の事、いつも微妙に避けているわよね? ルイズちゃんとサイト君が話し始めたら、必ず聞き手に回っているし。 その上、サイト君と二人きりになったら話す時間を手短に、上手く言いくるめてささっと逃げている。 このミ・マドモワゼルには全部まとめてまるっとお見通しよ。 ルイズちゃんの為に踏み出せない乙女心、わかる、わかるわ。」そう言って、頬を赤らめながらクネクネするスカロンの姿は、果てし無くおぞましかった。「わ、私はあの二人が結ばれるのを応援しているのです。 絶対に横恋慕などするものですか。」「そう言っている時点で、認めているようなものじゃなくて?」そう言ってウインクするスカロンに、ぐっと詰まるケティ。決して、スカロンのウインクに怖気を覚えたからとかいう事ではなく、言い返す言葉が見つからないのだ。「そ…そんな事は、無いのです。」スカロンがケティを見るその視線はさながら慈母のようであった…キモいけど。「あ、そうだった!」スカロンがポンと手槌を打った。「ごめんなさいね、ジェシカは忙しいのよ、ああ見えて。 やっぱり手助けさせられないわ。 だ・か・ら、サイト君と二人きりで服を選びに行ってくれないかしら?」「それは…いくらなんでもあからさまなのでは?」顔を真っ赤にしたケティが、「うー」と唸りながら、スカロンを睨む。「わかりました、ルイズも誘って…。」「ルイズちゃんは今や、うちの稼ぎ頭の一角よ。 ちょっと特殊な趣味のお客ばかりだけれども、最近人気なんだから。 一切触れず触らず抱きつかず、可愛い猛獣を鑑賞するがごとく、微妙な距離感と緊張感を楽しむのがコツだそうよ?」ルイズがちょっと可哀想になったケティだった。「だから、ルイズちゃんもダメ。 サイト君と二人で行って来るのよ、いいわね?」「う…わ、わかりました。」顔を真っ赤にしたまま、肩を落とすケティだった。平賀才人には最近少し調子が狂う事柄がある。モンモランシーの媚薬事件から、ケティと長い間話した事がほぼ無いのだ。以前は部屋に行って話し込むなどという事もあったが、最近はそれも皆無。そもそも、滅多に部屋に入れてくれなくなった。「ええと…ひょっとして、避けられてんのか?」色々と触ってしまったのは確かだけれども、ケティは暫らくの間才人と目が合うと顔が赤かったルイズとは違い、次の日にはケロリとしていた。だから、才人はケティがきちんと割り切ってくれたのだと思っていたのだ。実際は暫らくの間、才人と会うとルイズと同様にかなりテンパっていたのを、何とか抑え込んで平静を装っていただけだったのだけれども。「あいつ、タバサとは別の意味で表情読みにくいからな…。」なにせ、ケティは笑っていても内心怒っていたり、涙を流しているのに内心ほくそ笑んでいたりする。感情表現がある意味ストレート過ぎるルイズとは真逆のタイプだ。言葉廻しとと雰囲気と目をしっかり見なければ、きちんと感情が読めない。そして才人はそういうのがものすごく苦手…ぶっちゃけると、良くも悪くも空気読めない。ケティに避けられているのに気付いたのも、ごくごく最近の話だった。「あいつ、俺が元の世界に戻るための手助けしてくれるって言ったじゃねーか。 親友…だと思ってんのに…って、色々触っちまったしなぁ。」そう言って、手をわきわきさせる才人。「むむむ胸にキスとか、しちまったし…つーか、思いきり揉んだし、揉みしだいたし!」思い出していくうちに、才人の顔が真っ赤になっていく。「うがあああぁぁっ!親友とか言っておいて、あいつに何やってんだ俺はー!」あまりのエロい記憶に耐えかねて、才人は天に向かって絶叫した。「やっぱり謝らなきゃ駄目だったんだよ、アレは! ケティは『気にする必要は無いのですよ、おあいこなのですから』とか、笑顔で言っていたけど、絶対にまだ根に持ってんだ! 俺が薬に頭やられたケティの色仕掛けに屈しかけて、色々触っちまった事!」ケティはそもそも、『断罪の業火』なんて言われるほど、男女関係には厳しい事を才人は思い出した。目の前でケティに物凄い数の炎の矢でブッ飛ばされて、塔から落ちていく男たちの姿も。「ひょっとしなくても、ケティは俺に対してかなり怒ってる? しかもそれに俺が気づかんかったから…。」才人は急にガタガタ震えだした。「ルイズの攻撃は最近慣れてきたけど、ケティの攻撃は得体が知れねえ…。 なんつうか、精神的に臓腑を抉る様な事をされそうだ…どうなるの、どうなっちゃうのよ俺!?」真っ青になって頭を抱える才人…怖がりすぎだった。ノックの音がした。「だ…誰?」才人は恐る恐るドアの向こうに向かって尋ねる。「ケティなのです。」才人は本能的にドアから遠のいた。「はい平賀です、ただいま留守にしています。 御用の方はぴーっという音の後で、お名前と御用件をお伝えください。」「なんという留守電。 才人、ふざけないで開けてください。 貴方にお願いしたい事があるのです。」才人は再びガタガタ震え始めた。一方、ケティはドアの前で不思議そうに首を傾げている。「才人、どうしたのですか、才人ー?」ケティはドアノブを回す…と、普通にドアが開いた。ルイズが店に出ているので、部屋の鍵をかけていなかったのだった。「さい…と?」「申し訳ございません。」何故か才人は土下座をしている。「ええと…何かしましたか、才人?」「い、命だけはお助けを。」ケティは何かされたのかと思ったが、全然全く欠片も思いあたる事が無いので、首を傾げるばかりだ。「…取り敢えず、何の件で謝っているのか教えて欲しいのですが?」怪訝な表情を浮かべながら、ケティは才人に尋ねてみる。「揉みしだいて御免なさい。」「はぁ?」ケティには何を揉みしだいたのか、さっぱりわからない。「胸にキスマーク残して御免なさい。」「へ?」その一言で、ケティは何の事だかようやく理解した。そして、物凄い勢いで顔が赤くなっていく。「え、ええと、でででですから、その事は仕方が無かったと言ったではありませんか? 媚薬にやられていたとは言え、わわ私の意志なのですから、お互い様なのですと。」「いやしかし、間違いなく俺は男としての誠意が足りなかった。 本当に、申し訳ない。」ケティとしてはそんな事を言われても困るというか、折角記憶が少し薄れてきた頃だったのに色々な感触とかを鮮明に思い出してしまって、えらい迷惑だ。「だいたい誠意って…私をお嫁に貰ってくれるとでも?」「え?あ…いや、それは。」誠意が足りなかった事はわかっているが、迷惑をかけたのはルイズも一緒なのだから、才人としてはケティにだけ責任を取るわけには行かない。「ほほ~う、それは嫌だと。 では、どういった方法で誠意を見せていただけるのですか?」才人が思い切り言い澱んだのに軽くカチンと来たケティは、しゃがみこんで才人の後頭部を睨みつける。「お、俺を殴ってくれ!」「それは御褒美ではありませんか。」最近の才人はちょっとマゾいので、即座にそう返すケティだった。「俺はマゾじゃねえ!」「えい!」才人が顔を上げた途端に、ケティのデコピンが才人の額を襲った。「全然痛くねえよ。」「痛かったら御褒美になってしまうではありませんか。 失敗なのです…むしろ私の指が痛いのですよ。」才人の硬い額に細い指が負けたらしく、ケティが少し涙目で人差し指に息を吹きかけている。「だから、俺はマゾじゃねえ。」「本当に?」ケティの訝しがるような視線に、才人は泣きそうになった。「ううっ、なんつー理不尽な疑惑だ。」「…こんな感じで良いですか?」ケティの声に顔を上げると、してやったりといった表情で才人を見下ろしている。「へ?」「制裁なのです。 されないと貴方の気が済まなかったのでしょう?」そう言って、ケティは立ち上がった。「パンツ見えてる。」「何故見上げるのですかっ!」才人の顔面に、ケティの靴の裏が降って来た。「ショーのコスチューム?」「はい、私一人では心配なので、才人も一緒に来てください。」才人の問い返しに、ケティはこくりと頷いた。「しかし、そんなのでついでに儲けようとしていたとは…。」「富国強兵なのですよ。」少し呆れたような視線を送ってくる才人に、ケティはそう返した。「えーと、明治時代にやったやつ?」「あー…まあ、一般的にはその認識で構わないと思うのです。」ケティはしばし空中に目を彷徨わせた後で、頷いた。「簡単に言えば…経済活動を活発にして国を富ませれば、税収も増えるのです。 税収が増えれば軍事費も増やすことが出来、軍をより精強に出来ます。 軍をより精強に出来れば他国から容易に攻められなくなるので国内の治安を安定させる事が出来、より大きな商売が可能になる…と、こういう循環を作っていくのが富国強兵なのです。 しかし我が国は商人の活動があまり活発とは言い難い…というか、クルデンホルフ商人とゲルマニア商人にいいようにあしらわれているというのが現状なのですよ。」トリステインの伝統と格式を重んじる国風は貴族のみならず臣民にまで浸透しており、それが自由な発想を必要とする商人にまで影響を及ぼしている。トリステイン商人は伝統と風習の内側に籠って商売を行い、結果として国内経済を他国の商人に半ば牛耳られるという素敵な状態になっていた。他国の商人に好きなようにやらせていては、国の富はどんどん海外に流れ出すのみ。貴族の硬直化が国の硬直化を生み、国の硬直化が国風の硬直化を生み、それが巡り巡って国内経済を弱らせるという悪循環であった。「当商会の長期的な目標は、商会でトリステイン経済をかき回して刺激を与え活性化することにあります。 姫様も官僚達を集めて経済への刺激策を色々と画策しているようですが、私は民間からそれを支援するというわけなのです。 …とはいっても、商売を始めてから改めて設定しなおした目標ではあるのですが。」ケティが一番驚いたのが、この国の商人が驚くほどチョロい事だった。御蔭であっという間にこの国の軍需経済に食い込む事は出来たが、本来彼女としてもここまでうまくいく事は予想外だったのだ。そしてその後、国内経済が他国の商人に半ば牛耳られている事を知って仰天したという経緯がある。ちなみにアンリエッタもその事を知らず、話しても最初は政治と経済の関係について理解してもらえなかったので、みっちり話しこむ事になったのは言うまでも無い。「わからん、ケティの言う事は…わからん! わかりやすく教えてプリーズ。」才人は何を言っているのだか、ちんぷんかんぷんだったが。「要するに私は大いに儲けられて、国の経済も活性化して軍隊も強くなって姫様ウッハウハという事なのです。」「おお、なるほど。」ポンと手槌を打つ才人。「まあそういうわけで、私だって無闇矢鱈に儲けようと画策しているわけではないのですよ、わかりましたか?」「半分もわからなかったけど、何か良い事しようとしているのは理解した。」ケティは少しガクッと来たが、高校生が積極的に理解するような事でもないので、それでよしとした。「そんなわけで、千里の道も一歩から。 今日は私の買い物に付き合ってください。」「おう、わかった。」才人は力強く頷くが…。「しかし、服の事なんかわかんねえぞ、俺。」「大丈夫です、才人はエッチですから。」ケティはすんごい事を言った。「ええと、なにそれ?」「男性からの視点が必要なのですよ、今回の件は。 しかも少しエッチな視点が。」言いながら、ケティの顔が真っ赤になっていく。「え、エッチな視点でありますか。」「ふ、不本意ですが、こういう事を頼める異性の友人は才人だけなのです。」漂い始めたピンク色の雰囲気。目を伏目がちに逸らし、羞恥で真っ赤に染まったケティの顔を見て、『やべえ、可愛い』とか思ってしまう才人だった。「店は!み、店は商会の者に調べさせたので、抜かりは無いのです。 で、では行きましょうか。」「お、おう。」改めて才人はケティの格好を見てみる。ケティの格好は普段の店の給仕娘の衣装でもなければ、学院の制服でもない。服が仕立てたてっぽいのを除けば、典型的な町娘の格好だった。「そういう素朴な格好、似合ってるな。」「すいませんね、田舎者ですから~。」言葉の選択肢を間違えたような気がする才人だった。「ああいや、田舎っぽいって事では無くて。」「折角仕立てた服なのに、田舎臭いとか地味とか言われてしまったのですよーっと。」ケティはすたすた歩き出した。「俺の話を聞けー!?」「5分だけなのですよ~。」とか言いながら、ケティは部屋から出て行ってしまった。「聞く気ねえ!」慌てて才人がドアを開けると…。「では才人、行きましょうか?」…廊下には何事も無かったかのように、ケティが立っていた。「また騙されたわけだが。」「うふふふふふふ、才人もすっかりダム板の常連さんなのですね。」二人は謎の会話をしてから、一緒に歩き始めた。「んで、なんて店に行くの?」「ついて来ればわかるのです。」才人はケティの後をついて行くのだが、徐々に細い入り組んだ暗い場所になってきた。そのうち、少し開けた通りに出る。そこは露天商と思しき人々が軒を並べる市場みたいな場所だった。「…ええと、ここは?」「トリスタニアの暗部の一つ、闇市というやつなのです。」才人は通りを見まわしてみる。まず商人が怪しい。フードを被ったりしていて顔がはっきり見えない者が多い上に、口元だけがニヤニヤしていたりする。顔がはっきり見える者も、どう見ても悪人面ばかりだ。売っているものも怪しい。髑髏マークの書かれた瓶とか、一体中に何が入っているのだか。変な生き物の干物…なんか柄とかがサラマンダーっぽい。フレイム乾すとあんな感じになるのかと妙な感想が浮かぶ。「…なあケティ、あのピンク色の看板、何書いてんだ?」やたらと目立つ看板を見て、才人は何気なくケティに尋ねてみる。「へ?あ…あれですか? え、ええと…ですね、あれは…ですね。」問われたケティは目を逸らして頬を赤らめた。「きょ…《強力な媚薬取り扱っております》と、書いてあるのですよ…。」「あ…いや、何かごめん。」真っ赤に茹で上がったケティを見て、可愛いと思いつつ申し訳無い気持ちになった才人は、慌てて話題をずらしてみた。「で、でもさ、それってやばくね?」「やばいものばかり取り扱っているから闇市なのですよ…。」顔を赤らめつつも、陳列される怪しさ満点の商品に目を輝かせながら、ケティは頷いた。「何でわざわざ闇市に?」「仕立て屋までの近道なのですよ。 好奇心を満たす為でもありますが。」才人はもう一度周囲を見回してみる。「確かに、好奇心をそそられるものばかりだな。」わけがわからんものばかり売っているという点で。「おお、御嬢!」急に通りの商人から声がかかる。禿頭で筋肉質で人相が悪い…どう見ても商人というよりもゴロツキだった。「ああ貴方ですか、例の仕入れの時にはお世話になりました。」「へえ、御嬢の頼みとあれば何でもそろえてみせまさぁ。」にかっと笑うが、笑顔になると更に悪人面になって余計に怖い。「だ…誰?」「武器商人なのですよ。 顔は怖いですが、支払いさえきちんとすれば、まっとうな取引をしてくれる人なのですよ。」才人は恐る恐る声をかけるが、ケティは平然としている。どうやら、危険は少ない人らしい。「ほほう御嬢、後ろの方は恋人ですかい?」「なっ…何を言うのやら、なのですよ。」思わず頬が赤くなるケティ。「か、彼は親友で、その、今日は買い物の手伝いに付き合ってもらっているだけなのです。」「ほほ~う。」そう言いながら商人は才人を見る。「御嬢に見染められるとは、なかなかやるじゃねえか、ボウズ!」「痛っ!?痛いっておっさん!」ニカッと笑うと商人は才人の背中を平手でブッ叩いた。「ガハハ悪ぃ悪ぃ、つい力が入っちまった。 御嬢はここの大事なお客さんだからよぅ、大事にしてやんな。」「あいたたた…。」筋骨隆々なその姿はハッタリではなかったようで、才人はひりひりいう背中を涙目で押さえていた。「御嬢…例の経路でこんなモンが入ってきましたぜ?」商人が長い木箱を開けると…。「でかい鉄砲だなぁ。」「Противотанковое ружьё Дегтярёва образца 1941 гола!?」ケティの顔が歓喜で紅潮する。「ぷらちばたんこーばいえ・るじよー・ぢくちょりーば・おぶらすつぁー・とぃーす・そーらく・ぴえーるばば・ごーだ? ええと…新手の魔法か?」才人はわけのわからん呪文を聞いたという感じで、首をかしげた。「PTRD1941、通称デグチャレフ対戦車ライフル。 ソ連製のボルトアクション式対戦車ライフルなのです。」今にも頬ずりしそうな勢いで、ケティはPTRD1941を見ている。「動作は?」「俺には分かりませんが、例の経路からのものですし、固定化かけてあるんで完璧じゃあねえかと。」興奮した様子で持ち上げようとしたケティだったが…。「ふんぬっ!ぐぬぬぬぬ!お、重い!?」卓上にあるのが悪かったのか、顔を真っ赤にして踏ん張っても上手く持ち上げる事が出来ない。重量15.8㎏の代物なので、少女の細腕の力だけでは文字通り荷が重かった。「ちょい貸してみ…お、凄えなこの銃。」才人はPTRD1941をひょいっと持ち上げた。ガンダールヴのルーンが光って、あっという間にこの銃の性能を解析する。「この世界じゃありえない距離から狙撃出来るじゃねえか。 しかもこの威力だと軽く掠っただけでも体削られて死ぬぞ、おっかねー。」顔を引き攣らせる才人。「うう、非力なこの身が憎い…。」 …で、弾薬は?」「2発、あとは薬莢だけでさ。」ケティの問いに店主は、14.5㎜徹甲弾2発と、空薬莢数個を差し出した。「上出来なのです、いくらなのですか?」「へえ、必要経費が結構掛かりましたんで…ひのふのみの…と、もうちょっといただきたい所ですが、御嬢ですから特別に2000エキューでどうでござんしょう?」べらぼうな額を提示する商人。「うぐぁ、すげえ値段…。」才人の顔が引き攣るが…。「安い、買ったのです。 あとで商会から使いを出しますから、その者に渡してあげてください。」「毎度あり!さすが御嬢、太っ腹!」ケティは躊躇無く買った「いや、ちょっと高くね?」「この世に一点きりのオーパーツなのです。 あとこれ、構造的に非常に単純ですから、強度の問題さえ何とか出来れば複製可能でしょうし。」銃士隊の狙撃用ライフルとしてどうかなとか考えているケティだった。強度的に複製不可能ならば、現物を渡してしまってもかまわない。ケティでは重過ぎて扱えないし、才人はインファイターなので、対物狙撃銃なんか持っていてもしょうがないからだ。「ところで、ある経路って?」「…聞きたいのですか?」そういうケティの表情はいつもの『聞くな』という笑顔ではなく、『聞きたい?ねえ聞きたい?』という、いかにも聞いて欲しそうなものだった。「ちょっと耳を貸してください。」「お、おう…。」ちょいちょいと手招きするケティ。「…ロマリアからなのですよ。」「うぉう…。」そう耳打ちするケティから甘い香りが漂って来て、言葉と一緒に吐息が才人の耳に軽くかかる。その刺激に、才人の口からは軽い呻きが上がり、体は思わず軽い身震いを起こし硬直した。「それ、どこ?」硬直が解けてから、そう聞き返した才人の言葉を聞いて、ケティはずっこけた。「ふう…才人には、最低限この世界の地理や文字や歴史を学んでもらう必要があるようですね。」「確かに、この世界の風習にもそこそこ慣れてきたし、何言われてもちんぷんかんぷんな状態は何とかした方がいいわな。」才人も、今の自分を憂慮してはいたらしい。「歴史は私が担当しましょう。 地理と文字はルイズとタバサにお願いしてみます。」ケティは自分の一番好きなものを教える事にした。せこいとも言う。「あり?ギーシュ抜きなのはわかるとして、キュルケとモンモンも抜きか?」教師にタバサが入っているのにキュルケやモンモランシーが居ない事に疑問を感じて首を傾げる才人。「…才人は想像できますか?キュルケが人にものを教える姿を。」「ああ成る程、全然想像できない。」才人は頭を左右に振った。実際にキュルケの場合、もしも話を受けたとしても、生徒として面白くなければ放り出される可能性がある。「モンモランシーの場合は…記憶力が異様に良くなる秘薬とかの実験台になりたいのであれば、頼んでみますが?」「それはぜひともお断りしたい。」絶対に次の日くるくるぱーになるだろその薬とか思いながら、才人は断固拒否した。「その点、ルイズの場合は多少暴力的かもしれませんが、頼めばきちんと教えてくれるでしょう。」「あれが多少なのか…?」アレが多少の暴力なら、世にいわれる体罰は優しく撫でられているのと一緒なのではないかと、小一時間ほど問い詰めたい気分の才人だった。「タバサはああ見えて、教えるの上手なのですよ。 座学の試験で何度か教えてもらった事がありますが、プロ並みでした。」 「俺、あんまり話した事無いんだが、きちんと会話してくれるのか…?」あまり話した事が無いというか、才人はタバサの声を殆ど聞いた事がない。才人が話しかけても、返答がほとんど『ん』とジェスチャーなのだ。実は既に何度か《アイゼ○ッハか!?》と、心の中でツッ込んでいる才人だった。「まあ色々とツッ込みたい事もあるけど、生きるための基礎知識は必要だからな。 よろしくお願いします。」勉強は好きではないが、この世界で暫らく生きていくつもりなら、最低限の知識はあった方がいい。でも出来る事ならルイズ先生の撲殺授業だけは勘弁して欲しい才人だった。そんな事を話していくうちに、暗かった細い路地を抜けて大きめの通りに出る。大きめとはいっても、道は細くてくねっているが。「前々から不思議だったんだが…何でこんなに道が細くてくねってんだ、この街?」東京の整備された道路網が普通だと思っていた才人には、トリスタニアの町のつくりは不可解過ぎた。「防衛用なのですよ。」「防衛用?」才人はきょとんとした顔で聞き返す。「トリスタニアの王城は、高く堅牢な防壁に囲まれた市街地の中心部にあります。 もちろん、王城自体にも要塞としての能力がありますが、その前に敵はトリスタニア市街地の防壁を破って市街地に入る必要があるのです。 だから、道をくねらせ細くしているのですよ。」「つまり、市街地を盾として使うってことか?」才人は納得がいったように頷いた。「お、さすが男の子、私が何を言っているのかわかりましたか。」「こんな迷路みたいな町に迷い込んだら、敵は間違いなく迷うって事だろ? そしてへろへろになったところを倒すと。」才人はエヘンと胸を張って見せる。「それだけではなく道を細くしておく事で、市街地での大軍の展開を不可能にしているのです。 道が細ければ、どんな大軍であろうが決まった数以上の兵士を展開できませんから、こちらが敵より少なくても対応可能というわけなのです。」「なるほど、そこまで考えて作ってんだな。」感慨深く才人は頷いた。「…とはいえ、経済発展の為には少々窮屈過ぎるのですよ、この街は。 王城にまで敵が迫ってきて市街地を蹂躙している状態なんて、既に完全に詰んでいるのですから。 いっその事そのあたりは潔く諦めて、町を碁盤の目状に整備しなおして都市内の交通の便を良くし、居住地域を住宅・商業・工業できちんと分けて、それぞれに最適なインフラを用意してやれば…って、わかります?」「全然わからん。」才人は自信満々な表情を浮かべて、そう言い切った。「市街地ブッ壊して作り直せば発展するのにって事なのです。」「それならなんとなく…しかしアレだ、俺って向こうで何やってたんだろって、ケティ見てて思うぜ。」才人はそう言って、寂しそうに肩を落とす。「そんな事はありません。 才人の知識を生かせる場は、今後必ずやってくる筈なのです。 才人はこの世界に来て、やっと周囲に適応出来るようになったばかり、いきなり何か出来たらそっちの方が怖いのですよ。」そう言って、ケティは才人にニコッと微笑みかけた。「そ、そんなもんかな?」「そんなもんなのです。 私だって、生まれる家を間違えていればどうなっていた事やら。 才人も最初面食らった通り、あちらの世界の常識はこちらの世界の常識とうまく合致しないのです。 ひょとすると私は今頃、頭のおかしい娘として何処かに閉じ込められていたかもしれません。」 おっかないですねーとか言いながら、ケティは身をすくめておどけて見せた。「…と、あの店なのですね。」ケティは通りの先に看板を確認すると、歩みを少し早めた。「お、見つかったのか?」「ええ、たぶんですけど。」看板を確認すると《仕立て屋のジェバンニ》と、書いてある。「どんな難題でも一晩でやってくれそうな仕立て屋さんなのですね、名前的に。」「何て書いてんだ?」ケティが感慨深げに呟くと、才人が尋ねてきた。「《仕立て屋のジェバンニ》なのです。」「ああ…確かにそれは一晩でやってくれそうだな、何でも。」才人も感慨深げにうなずいた。「…でしょう? では、店に入りましょう…か!?」ドアノブを握ろうとした瞬間、《ピキューン!》と、ケティの脳内をひらめきに似た感覚が駆け巡る。「どうした、ケティ?」才人が不思議そうに聞き返してくる。「ええと、何か嫌な予感が。」「嫌な予感?そんなわけないだろ、入ろうぜ。」そんな死亡フラグビンビンの台詞を言いながら、才人はドアを開ける。「ケティ坊ちゃん、いらっしゃいませ!」突如現れたパウルが才人に抱きついた、しかも頬ずりした。「ふむ、そういう罠でしたか。」『ふんぎゃー!?』ケティが感慨深げに頷く横で、野郎二人がお互いの気色悪い感触に悲鳴を上げていた。「…最後の最後に入れ替わるなんて、何という残酷な仕打ちっすか。」「野球で優勝したわけでもないのに、男と抱き合っちまったぃ…。」野郎二人は、店の床にくず折れている。「私に許可なく抱きつこうとした報いなのです。」「金ならあるっすよ…うぐぇ。」パウルはケティに踏んづけられた。「ここはそういう場所では無いのです。 あと、商会の金を私に渡しても、私が全く得しないという事実に気付きなさい。」「ううぅ…損しないんだから良いじゃな…痛い、痛いっす、御慈悲を、御慈悲をっす!」反省していなさそうなパウルに、ケティが足をぐりっと捻って体重をかけた。「反省していない!あと、上を見るな、なのです!」「ぎゃー!」店内にパウルの悲鳴が響き渡った。「ふ、悪は滅びたのです…。」ケティはふぅっと杖の先端に灯った火を吹き消した。「…今後はこのような邪かつ不埒な真似はしないと誓うっす。」消し炭と化したパウルが、床に転がったまま呻くように言った。「な…何で俺まで。」同じく消し炭と化した才人が、力なく倒れ込んだままでぼやく。「またパンツ見たでしょう。」「そ、そこにパンツがあれば見るのが漢というも…すいません、心の底から反省しました。」才人は反論しようとしたが、ケティの杖にまた炎が灯ったのを見て中断した。「しかしパウル、何故ここに?」「あの酒場に来ちゃあいけないと坊ちゃんが言っていたので。」パウルはそう言うと、にっこり笑って愛嬌のある笑顔を見せた。「その前に、貴方はラ・ロッタにいる筈ですが?」「ふ…人間やる気になれば、何でも出来るものっすよ。」かっこつけて見せるパウル。真面目な顔をすれば意外と男前なので、何となく似合わないでもない。「パウルがこんな所にいるという事は…。 キアラ、居るのでしょう、キアラ!?」ケティは何処に言うとでなく、大声でそう言った。「ケティ坊ちゃん、あいつはまだ俺がラ・ロッタの森の何処かに潜伏していると思い込んでい…。」「はい、坊ちゃん。」パウルが笑って否定しようとすると、物影から涼やかな声とともにキアラが現れた。「げぇっ!キアラ!?」ジャーン!ジャーン!と、銅鑼の音が響きそうな悲鳴を上げるパウル。「ど、どうしてここに?」「あんたが何処かに行くとしたら、坊ちゃんの所以外にありえません。 至って単純な推理です。 ちなみに今まで隠れていたのは、希望が絶望に引っ繰り返った後の方が人は無防備になるという、坊ちゃんからの教えを忠実に守ったからです。」わなわなと震えながら自分を指差すパウルに、淡々と返答するキアラ。「俺のことは何でもお見通しみたいな事言うなっす! あと、昔みたいにお兄ちゃんと呼びなさいっす!」「あんたを知っていれば、子供だってすぐに思いつきます。 あと、その呼び方は嫌です、無理です、断じてお断りです。」そう言いながら、倒れたままのパウルに手を差し出した。「おお、我が妹よ、俺を助け起こしてくれるっすか、持つべきものは妹っすね。」「私はあんたの妹ではありません、年下のとっても可愛くて献身的な幼馴染です。 あと、助け起こすのは単なるついでに過ぎません。」キアラはパウルの腕を取って引き起こし、そのまま腕を極めた。「か、可愛くて献身的な幼馴染は普通腕を極めたりしないっす!」「残念ながら、私は極稀な例外です。 さあ、それではラ・ロッタに帰りましょう。 あんたが脱走したので、ジゼルお嬢様が酷くご立腹です。」そう言いながら、パウルとともに店の出口に進むキアラ。「もう一つ言えば、ジゼルお嬢様が怒っているので、エトワールお嬢様は更にご立腹です。 上手い言い訳か辞世の句でも考えながら、帰途につきましょう。 たぶん何を言っても運命は変わりませんが、人生無駄な足掻きが必要な時もあります。」「ヒィ!処刑っすか、処刑決定っすか!?」パウルは逃げようとするが、余程上手く極まっているのか、全く抵抗できていない。その時、キアラが才人の方に振り返った。「すいません、申し遅れました。 私はキアラ、パウル商会の会計部長です、以後お見知りおきを。」キアラはそう言うと、ぺこりと頭を下げた。「あ…どうも、宜しく。」改めて見るとすげー綺麗な娘だなぁとか思いながら、才人も思わず頭を下げる。「そしてこの莫迦はパウル。 不本意ですが、当商会の主です。 真の主はケティ坊ちゃんですけれども。」「ケティ坊ちゃんの荷物持ちとは真にうらやまけしからん身分っすね! 頼むから代わって欲しいっす!」そう言ってパウルは才人を指差したが…。「今回ばかりはせこい事しないで私財を投入するっす!だか…。」「黙れ。」キアラがそう言うと同時にゴキッという妙な音がし、パウルが白目を剥いて気絶した。「…これでよし。」「いや、白目剥いてんぞ、そいつ。」キアラの腕の中でぐったりしているパウルを見て、指差しながら指摘する才人。「ラ・ロッタでは良くある事ですから、気にしないで下さい。」キアラがそう言いながら、パウルを引き摺り始めた。「よくある事なのか?」「まことに不本意ながら、その通りなのです。」ケティは沈痛な面持ちで頷いた。「それでは坊ちゃん、ごゆっくり。」キアラがドアから出て行く時に、ドアにパウルの頭が思い切りぶつかってかなり痛そうだったのを、才人は見なかった事にした。キアラ達の退場後、二人は当初の予定通りに衣装選びを始めたわけだが…。閉じた試着室のカーテンの向こうから、途切れがちに聞こえるシュルシュルという衣擦れの音。「進むか進まないか、それが問題だ…。」才人はぼそっと呟く。カーテンの向こうには桃源郷がある、たぶん。とはいえ、それを実行すると、たぶんプラズマ化して果てる事になる。裸を見てしまった事もあるが、アレは偶然の間違いであったから許されたのであって、能動的にそれを為したとこの薄い布の膜の向こうにいる娘が理解した場合、許してもらえる可能性は限りなく低い。そもそも、着替える前にケティが言っていた。「この国の貴族には、極端な無礼を行った平民への私的制裁権があるのです。 わかりやすく言うと、切り捨て御免なのですよ★」歴史と伝統を極端に重んじるトリステインは、反面かなりおっかない国だという事をケティの笑顔とともに才人は理解した。「考えるまでも無く、進むのは却下だ、却…か!?」とはいえ、却下したのに勝手にバサリとカーテンが落ちるというのが、才人クオリティである。「…………………。」「オー、ワタシフレテナイネ、ナンニモシテナイヨ、ムジツダヨー?」謎の外国人テイストな発音で言う才人だが、呆然とした表情で才人を見る半脱ぎのケティからは目を離さない。「はい、これはここの店主の施設保守点検がいい加減だったからなのですね。」気を取り直し錆びて破断したカーテンレールを確認して、ケティはにっこりと微笑んだ。「ええとケティ、俺のせいじゃないとわかってんのに、何で杖の先端に炎が?」「なにはともあれ、お約束なので吹っ飛びなさい!」炎の塊が才人に向かって飛んでくる。「なんじゃそりゃー!?」不条理にツッコみつつ、才人は吹っ飛んだ。「こっ、こんなのはどうでしょう?」取り敢えずのお約束イベントをこなした後、ケティは衣装を着こんで才人に見せている。「お、おおぅ…。」露出度はそれ程ではないのに扇情的という、リクエストが見事に反映されたその衣装を着込んだケティに、才人は思わず呻き声を上げる。「露出度が少ないとは言え、こ、これは少々胸を強調し過ぎでは?」「そ、それがいいんじゃないか。」照れて胸を隠す仕草が、これまた扇情的だったりする。「こ、この店すげえ、神じゃなかろうか。」才人の顔が高潮し、腰が屈みがちになり、息がハアハアと荒くなってきた。「さ、才人…?」「な、何?」才人の興奮しまくっている顔を見て、ケティは身の危険を感じたのか少し怯えた顔になる。「か…顔が、顔が凄く気持ち悪いのですが。」「がーん。」いきなり酷い事を言われて、愚息も消沈な才人。がっくり膝をついて、くず折れてしまった。「しかし、この服はある程度胸がないと、あまり意味が無いような…?」「そういう方への衣装も用意して御座います。」背後から店主の声がして、ばさっと服を何着か置く音がした。「そうなのです…か?」振り返ると何着かの服が椅子にかけられているが、居ない。というか、先程から話しかけてくるしこちらから話しかけると応えてくれるのだが、何処に居るのかわからない。「ふむ…。」ケティは服を摘み上げた。「店長、私はこれを着る事は出来ますか?」「着ることは出来るでしょうが、あまり似合わないでしょう。」ケティが尋ねると、何処からともなく声がする。しかもその声も中性的な感じで、男か女かわからない。「今度、あまり体の起伏が無い娘を連れてきますから、これはかたしてくださ…い。」一瞬白いものが横切ったような気がして…その瞬間にケティが持っていたものも含めて服が消滅した。「…なんという謎店長。」「ふふふふふふふ。」何処からとも無く聞こえてくる笑い声、本当に謎だ。「私では駄目だという事は…ルイズが必要なのですね。」「さらりと酷い事を言ってないか、ケティ?」復活した才人がツッ込んだ。「へくちゅん!」魅惑の妖精亭で現在真面目に接客している最中のルイズだったが、不意に鼻がムズムズして思い気入りくしゃみをしてしまった。両手にはワインのボトルがあったので口を塞ぐ事もできず、そのままくしゃみと一緒にいろいろなものが客の顔に降り注ぐ。「ああっ、申し訳ありませんお客さ…っくっちゅん!?」くしゃみが更にもう一発。客の顔には色々な粘液が飛び散っている。「あわわわ、御免なさい、御免なさい!」基本的に気位が高くて高慢とは言え、人様の顔に粘液ぶっかけたのにそ知らぬ顔は出来ない。そこそこ常識人なルイズだった。「ははっ、良いさぁ、これはむしろご褒美さぁ。」むしろ、客がかなり駄目な感じだった。「結局、何着選んだんだっけか?」店への帰途、才人がケティに話しかける。そのあとも店で何着かの服を視聴し、スカロンに見せる為に持って帰る事にした。「3着なのですね…とはいえ、これはある程度胸が無いと駄目みたいですが。」スタイルに合わせてデザイン諸々をきちんと揃えてくれるという良心的なお店だった。結局、店長の顔どころか姿さえ見ることが叶わなかったが。「謎な店長でした…。」「謎な店長だったな。」2人はそう言うと、深く溜息を吐いた。「兎に角、次に来る時はルイズも一緒に、なのですね。」「そうだな、ルイズなら捕まえられそうだし、店長。」才人の一言を聞いて、ケティは軽くよろける。「て、店長を捕まえてどうしようというのですか、才人?」「え?いや、だってほら、見たいだろ、店長。」ケティが聞き返すと、きょとんとした顔で才人が言った。「そりゃまあ、見たいかと聞かれれば見たいのは確かなのですが。」「だろー?」才人が暢気に頷く。「あはははは…。」そんな才人に、少し引きつった笑みを返すケティだった。帰り道、通りを暫く歩いていると、甘いような香ばしいような変わった香りがしてきた。「これは…紅茶の香りか?」「ああ、これは最近東方からの隊商が持って来るという、《茶》なのですよ。」鼻をくんくんいわせながら呟く才人に、ケティが応えた。「ほら、ミ・マドモワゼルが言っていたでしょう? 最近酒場の需要が喫茶店に持っていかれているって。」「…そんな事言っていたか?」ケティが解説するが、才人は憶えていなかったらしい。「茶葉ではなく、茶の木があればラ・ロッタでも栽培できるのですが、東方の商人は絶対に種を持ってきてくれないのですよね。」「ケティがまたなんか儲けようとしている…。」腕を組んで眉を顰めるケティを、才人は半眼で見つめた。「まあ確かに儲けようというつもりもあるのですが…飲みたくありませんか、緑茶。」「へ?いや、紅茶の話だろ?」ケティの言葉に、才人は不思議そうに首を傾げて聞き返す。「緑茶も紅茶も、元々は同じ木の葉なのですよ。 ついでに言えば、烏龍茶も。」「へ?あれ全部同じ葉っぱなのか、初めて知った。」才人は目をぱちくりさせている。「発酵させずに蒸したものが緑茶、ある程度発酵させてから蒸したものが烏龍茶、蒸さずに最後まで発酵させたものが紅茶なのです。 ですから茶の木さえあれば、紅茶ではなく緑茶が飲めるのですよ。 というか、私が飲みたいのは紅茶ではなく緑茶なのです。」「ああ、気持ちはよくわかるよ、日本人なら緑茶だよなぁ。 あー…茶啜りてぇ。」才人の目が望郷の念で遠くなっている。「り、緑茶は無理ですが、紅茶なら飲めます。 ちょっと喫茶店に寄りましょう。」慌てたケティはそう言ってぼーっとしている才人の手を握り、通りにあった喫茶店に入っていった。「いらっしゃいませ、お二人様ですか?」「はい、2人なのです。」ケティがそう言うと、壁際の席に通された。「え…ええと、何だか周囲の雰囲気が…。」頬を赤くして、ケティがきょろきょろしながら周囲を見ている。そこは二人横に並んで壁や窓に向かって座る席で、男女がやたらとイチャイチャしていた。「な、何でこんな席に…あ。」そこでケティはようやく才人の手を握っている事に気付いて、慌てて放した。「ほ、ほら才人、ぼーっとしていないで席に座ってください。」「え?ああ、うん。」才人はケティに促されるがままに席につく。「いやしかし、カップル席とはやりますね、ここの店主…。」「ん?どうしたんだ?」顔を赤らめて、ブツブツ呟いているケティに才人が尋ねた。「え?いいえ、何でもないのですよ。」向かい合わせに座る席と違って、肩が触れ合うわ顔は近いわで、一旦意識してしまったケティの顔はどんどん赤くなって行く。「どどどどドツボ、なのですか…これは?」「何かケティ、変じゃね?」才人の顔は至って平静そのものというかケティの様子が変なので、そちらのほうが気になって距離感とかをあまり意識していない才人だった。「ご注文はお決まりですか?」ウエイトレスがやってきた。「ああ、ええと、お茶とマカロンを二セットずつ。」「かしこまりました、お茶とマカロンをお二つずつでございますね。」ウエイトレスは一礼して去っていった。「マカロニ?」才人が首を傾げる。「マカロン、食べた事無いのですか?」「あー…食べた事はあるかもしれないけれども、お菓子の名前なんていちいち覚えてない。 ショートケーキくらいならわかるけど。」才人の彼女居ない暦=年齢は、伊達ではなかった。「才人があっちでモテなかった理由が、今うっすらとわかったような気がするのです…。」ケティは才人を半眼で睨みつけた。「マカロンはあちらにもあるお菓子ですよ、とても美味しいですから名前くらい憶えておいてください。」「な、何で怒られてんの、俺?」ケティの理不尽な怒りに、才人は戸惑う。「怒ってはいません、果てしなく呆れただけなのです。」呆れたせいなのか、いつの間にかケティが一方的に感じていた気まずさは消えていた。「…こういう事を、素でやるから怖いのですよね、才人は。」ケティはボソリと呟く。「お待たせいたしました、お茶とマカロンでございます。」そう言って、テーブルに紅茶とマカロンが入った皿が置かれた。「ありがとう、はい、御代なのです…後は、これは貴方へのチップ。」「ありがとうございます。」ウエイトレスは笑顔で立ち去っていった。「どうです才人、見た事はありますか?」そう言って、ケティは才人の目の前にマカロンの入った皿を持っていった。「うーん、たぶん。 食えばもっとわかると思う。」才人はそう言うとマカロンを掴み、一口齧った。「うん、美味い。 でも食ったかどうかわからん。」「はぁ…つくづく食べさせ甲斐の無い人なのですね。」才人の一言にケティは苦笑した。その後、2人は《魅惑の妖精亭》へ帰り、スカロンに衣装を見せた。ルイズは2人が喫茶店に寄った事に少々ご立腹だったが、ケティが今度はルイズも衣装選びに連れて行く事と帰りも同じように喫茶店による事を確約すると、機嫌を直してくれたのだった。ちなみに才人はボコられた後だった…。「ねえねえ才人、凄い紳士なお客さんが居たのよ。」「へえ、どんな?」店が終了した後、ルイズは店で起こった彼女的に感動した事件を才人達に語り始めた。「…というわけでね、そのお客さん、わたしがくしゃみを思いきりかけちゃったのに、終始笑顔でいてくれて、なおかつチップもたっくさんくれたの!」「すげえな、そこまで無礼な事をしたのに笑顔で許してチップまでくれるとは…確かに紳士かもしれん。」才人も感心したという風に頷いている…が、ケティは渋面のままだ。「…そのお客さん、何か言っていませんでしたか?」「ほへ?あー…うーん…えーと、なんだかよくわからないけれども『むしろご褒美だ』って。 凄いわよねえ、わたしなら泣いたり笑ったり出来なくなるまで殴るのに、それを笑顔で怒らずに『ご褒美だ』とまで言うだなんて、素晴らしい紳士だわ。」ケティの問いに、ルイズは少しうっとりした面持ちで語った。「才人、ルイズの身辺をきちんと守ってあげてくださいね。」「へ?今の会話で何かわかったのか?」ケティが才人の肩を叩きながら言うが、才人は気付いていないようだ。「ええ、ルイズは物凄く世間知らずで純粋だという事が。 性根の汚れた私には、少々眩し過ぎるかも知れないのです。」「だから、それじゃあわかんねえって。 俺にもわかるように、わかりやすく丁寧に言ってくれ。」才人がそう言うと、ケティは才人にヘッドロックをかけた。「あだだだだだ!な何をす…。」「ええいこの鈍感恋愛マシーンが!こうしてくれるのですっ! …ルイズが変態の餌食になるのを防ぎたいなら、ルイズが何しても笑顔の客が来た時には気をつけるのですよ、私も気をつけますから。 変態紳士な人達なら良いのですが、変態紳士のふりをした変態の場合が怖いのです。」ヘッドロックをしながら、ケティはぼそっと呟く。「わ、わかった、気をつける。」「わかればいいのです、わかれば。」それぞれそう言って、二人は立ち上がった。「…なんか、またわたしに分らない会話をしてる。」ルイズは少し不機嫌になった。「知らない方がいい事というのも、往々にしてるものなのですよ、ルイズ。 年をとれば否が応でもどんどん汚れていくのですから、何も進んで汚れた部分に顔を突っ込む必要は無いのです。」「そんな事を年下に言われるわたしって、一体…。」ルイズはちょっぴり落ち込んだ。ケティはルイズを守りたいが、ルイズはルイズで年下に守ってもらうのってどうよという気分がある。「ルイズ、大丈夫だ。 俺も年上なのに、フォローされてばっかだから。」才人はぽんぽんとルイズの肩を叩いた。「うー、いつかケティに『ルイズって頼りになる素敵なお姉さまなのですねっ!』と、言わせて見せるわ…。」ルイズの小さな背中にめらめらと炎が燃え上がっている。「うーん、無理じゃね?」「わたしのやる気に水を差すなぁっ!」才人は問答無用で殴り飛ばされた。「グハ…何でもかんでも殴って解決しようとすんじゃねえよ。 お前は格闘漫画の主人公かっての!」「何だか良く分からないけれども、私を莫迦にしてるでしょ犬。」ルイズは才人を睨みつける。「だったら会話に拳を使うんじゃねえ。」才人もルイズを睨み返した。「か弱い乙女の拳くらい、甘んじて受けなさいよ。」「か弱い乙女の拳はデブを空中に浮かせたりしねえよ!」才人の意見はごもっともだった。「あははははは…。」そんな2人のいがみ合いをケティは困ったような笑みを浮かべながら傍観するしかなかった。「莫迦ばっかりかーっ!」王城の執務室に、女王の怒声が響き渡る。「へ、陛下、如何なさったのですか?」アニエスが慌ててアンリエッタに駆け寄った。「ケティからの報告書よ、読んでみればわかるわ。」額を押さえながら、アンリエッタはアニエスに報告書を手渡した。「な…なっ…な!?」アニエスはその報告書を呼んで、赤くなった後一気に青ざめた。「何ですかこれはー!?」「休暇中とはいえ、王軍の士官が往来でケティとその友達の魔法学院の生徒に喧嘩吹っかけて一撃で負けた挙句、自分たちの率いる部隊を引き連れて脅しに来てもう一度コテンパンにやられた…って。」アンリエッタは机に突っ伏した。「私もう王様止めるわ、あとは野となれ山となれよ。」「いや、いきなりやめるとか言われましても…。」アニエスが顔を覗き込んでみると、いつも以上にやさぐれた女王の顔があった。「いくらケティの仲間に北花壇騎士に虚無の使い手に伝説の使い魔までいて実戦経験ありと、親衛隊でも伸してしまいかねない学生の規格外だとしてもよ、こんなコテンパンにやられるだなんて。 せめて一矢くらい報いなさいよ、正規軍なのよ、どんだけ雑魚なのよ。 いつもやっている演習は一体何の為だと思っているのよ、演習やるのもタダじゃないのよ、あいつらそこんとこわかっているのかしら? あー、やってられないわ、酒呑みてー。」アンリエッタはすっかりいじけていた。「し、しっかりしてください陛下、この国の命運は貴方にかかっているのですから。」とはいえ、アンリエッタの気持ちはよくわかるアニエスだった。「わかってるわ、どんなに辛くたってアンリエッタ負けないっ! …とまあ、冗談はこのくらいにして、ナヴァール連隊はオクセンシェルナの再教育部隊に引き渡してあげなさい。 あそこにはハルトマンとかいう恐怖の教官がいて、《海軍歩兵式軍事教練》だかで、どんなにやけた太っちょでも一流の兵士に鍛え上げてくれるらしいわ。」「それは素晴らしいです。」アニエスは感心したように頷いた。「しかし、かの国は教育部隊が充実していますな。 兵の質は戦の行方を左右するもの、我が国にもかの国のような教練機関を作る事が出来ればいいのですが。」「そうね、アニエスには何か良い知恵はない?」こういうことは武人のアニエスに聞くのが一番だと思い、尋ねてみるアンリエッタ。「ふむ…オクセンシェルナの教育部隊に優秀な人員を送り込んで、教官候補にするというのが良いのではないかなと。」「なるほど、技術を盗ませるという事ね?」アニエスの提案に、アンリエッタはうんうんと頷く。「善は急げだわ、早速銃士隊と親衛隊から何人か送り込みましょう。」決断したら躊躇わないのがアンリエッタの長所であり欠点でもある。「わかりました…ふむ、あやつなら…我が隊からはミシェルを出します。」「え?あの娘は副隊長じゃなかったかしら?」アニエスの一言に、アンリエッタが驚いた様子で聞き返す。「副隊長だからこそです。 あいつならオクセンシェルナの軍事教練技術をきっちり覚えてきてくれるでしょう。」「そういう事なら良いわ、ミシェルには頑張ってきて貰いましょう。」2人の何気ない会話で、一人の娘の勘違い復讐劇がこっそり潰えた。帰ってきたミシェルは喋り口調がめっぽう乱暴になり、心が不安定になった時には銃を抱えて「これぞ我がライフル。世に多くの銃があれど、これは我、唯一のもの…」とか唱えるようになったが、これはまた別の話である。「そういえば、例の新式銃の調子はどう?」「はっ、まだ数丁ながら、隊員には非常に好評です。 皆、新式銃が届くのを、好きな男と会う日を指折り数えるが如く待ち焦がれております。 何せ、性能が段違いですから。」そう言って、アニエスは笑顔を浮かべた。「貴方も気に入っているみたいね。」「勿論です。 銃使いにとって、あれは至高の一品ですよ。」そう言って、アニエスはうっとりした表情になった。「ああ何だか無性に撃ちたくなってきた…陛下、これから少々射撃訓練に行って参ります。」「はいはい、お仕事頑張ってらっしゃい。 私も仕事に戻るわ。」アンリエッタは部屋から退出するアニエスを見送った。「うーん、しかし困ったわ。」書類にサインをしながら、考え事を始めるアンリエッタ。「…やっぱり軍隊は一朝一夕に強くはならないものねえ。」後もう少し、もう少しでこの国の財政を食い潰していた連中を頭ごと叩き潰せる。しかし金があっても、いきなり軍が精強になることは無い。「ままならないものだわ。」何とか軍を精強にする方法が無いか考えてみるが、さっぱり思いつかない。オクセンシェルナの兵士訓練法を取り入れるにしても、実の所時間が足りない。選択と集中で、ある程度質の高い部隊を少量生産することは可能だろうが…大方の兵に質は期待できないのだ、つまり。「兎に角頭数を増やす…か。」学徒動員というのがアンリエッタの頭を過ぎる。メイジの頭数を用意できれば、若干ながらの火力強化は図れるだろう。正規軍が学生に一方的にボコられたという実例もあるし。「まあこれは最終手段よね。」人的資源の乏しいこの国で、男を片っ端から戦場に送り込んで殺してしまったら、本気で国家存亡の危機である。「やっぱりゲルマニアから皇子でも迎えるべきかしらね?」流石に40過ぎのおっさんと結婚するのは嫌だが、その息子ならまた話は別なような気がする。「結婚するのが、何と言っても一番手っ取り早いものねえ…でも。」まだウェールズの事が頭の中から消えない。「我ながら女々しいわね。 この身は国王、男でも女でもなく、この国そのものと同義だというのに。」若さゆえとはわかっているが、感情を上手く制御できない自分に苛々するアンリエッタだった。「ケティならなんと言うかしらね?」ケティ・ド・ラ・ロッタ、アンリエッタは最近ルイズから送られて来た手紙で、彼女が《ル・アルーエット》の正体だという事を知った。あの歳でハルケギニア全土に知られる政治思想家…なんとも無茶苦茶な娘である。彼女と話せば何か面白い答えが得られるかもしれない、アンリエッタはそう考えた。「ふむ…?」そう言いながら、アンリエッタは机の棚からサークレットを取り出す。「そろそろこれを、もう一度使う時が来たのかしらね?」アンリエッタはそう言うと、にんまり笑った。それはおてんば姫と呼ばれた子供の頃と変わらない、やんちゃなものだった。