「ふむ…。」タバサがプチ・トロワに消えたのを確認すると、ケティはおもむろに懐からゴキブリを取り出した。「きゅい!そ、それはゴキブリ! 腹黒娘、シルフィの好物の一つを知っているとはなかなかやるのね、褒めてあげます。」少女の懐からいきなり取り出されたゲテモノを見て、シルフィードは顔を綻ばせた。「え…ゴキブリが好物なのですか、貴方は?」「エビみたいな味で美味なのね、きゅい。 でもお姉さまは食べちゃ駄目って言うのよ、酷いのね。」珍しく顔を引き攣らせてドン引きしているケティなどお構いなしに、涎を垂らすシルフィード。「海老を食べる時に思い出しそうだから、そういう話はやめてください…。 それと、これはガーゴイルですから、食べられませんよ。」「騙したのね、シルフィを糠喜びさせるとはさすが腹黒娘。」シルフィードはがっかりしてケティの頭をぱくっと口の中に入れる。「ぬぁ、何か生臭い、生臭いのです!?」猫の口の中みたいな臭いに包まれて、ケティはじたばたと暴れた。「腹黒娘、今度シルフィを騙したら、頭から丸呑みにするから覚悟するのね。」ケティの頭を解放したシルフィードはそう言うが、流石に本気では無い。タバサの友人であるケティを食べてしまったら、流石に彼女の主人も許してくれないだろうから。「シルフィード、貴方が早合点しただけでしょう…ううう、何か顔全体が生臭い…。」ハンカチで顔を拭いてから、ケティはゴキブリ型ガーゴイルを床に置いて、眼鏡をかけた。「で、腹黒娘、そのゴキブリ型ガーゴイルは何なのね?」「これですか? トリステイン脅威の魔法技術の結晶といいますか。」ゴキブリはカサカサと動き、プチ・トロワの中に消えて行く。「こら腹黒娘、答えなさい。」言葉を濁すケティにイラッと来たシルフィードは、もう一度頭をぱくっと咥えた。「生臭い、生臭い、話しますから解放して下さい!」またもや生臭い臭いに包まれてもがき始めたケティを、シルフィードは開放する。「ウエスト子爵という方に発注していた偵察用ガーゴイルですよ。 試作品が出来たので、取り敢えず試験運用しているのです。 今回はタバサの上司の顔をいっちょ拝もうかと思ったわけでして。」「やっぱり腹黒娘は腹黒いのね、油断ならないのね、きゅい。」物見遊山に来たと言っていたのに、偵察用のガーゴイルを使ってタバサの上司を探ろうとするケティに、シルフィードは驚いた声を上げた。「これもヴェルサルテイル見物です…物見遊山ですよ、物見遊山。 見てみたいじゃありませんか、有名なガリアのデコ姫のおでことやら。」「油断ならないといったのは訂正します…腹黒娘はもの凄いアホなのね。」シルフィードにそう言われて、ケティはがっくりと肩を落とした。「シルフィードに物凄いアホとか言われる日が来ようとは…トホホ。」ケティは愚痴りつつも、プチ・トロワの中を進んでいくゴキブリを操り続ける。「タバサ発見…と。」「お姉さまを発見したのね?」ケティの操るゴキブリは、ドア型ガーゴイルが開いて、そこにタバサが入っていくのを発見した。「さてはあそこがデコ姫の執務室ですね…ええと、ドアが閉じたら何処から入れば良いのでしょうね?」「入った事無いから知らないのね、聞かれても困ります、きゅい。」ドアが魔法の自動ドアだったのが災いして、ゴキブリでも入れそうな隙間が無い。しばらくの間周囲を探し回っていると、何とか壁にゴキブリでも侵入できそうな穴を発見し、そこから何とか執務室に抜けたのだが…。「口を開けな。」「……もぎゅもぎゅ……。」そこには全裸でイザベラにケーキを食べさせてもらっているタバサという、わけの分からない光景が広がっていたのだった。「え…ええと、これは夢?それとも幻?」「どうしたのね、腹黒娘? お姉さまに何かあったの?」エスカ○ローネ的なボケは、勿論シルフィードには通用しなかった…ではなく、シルフィードが心配そうに訊ねてくる。「ケーキを食べています、ぜん…。」「お姉さまッたら、ずるい! シルフィ置いておいて、ケーキなんか食べていたのね!」一人で盛り上がるシルフィードに、『全裸で』は言わないで置こうと決めたケティだった。「あれがガリアのデコ姫…仲が悪いはずですよね…はて?」ケティには彼女のその姿が『大きくなれよ~』と言っているように見えたのだ。そもそも、嫌いな人物にあんな立派なケーキを手ずから食べさせるというのが、客観的に見てかなりおかしい。しかもイザベラの顔は凄く嫌そうにしているのに、手が何だかうずうずしている。「なるほど~…ま、参考にしておきましょう。」ケティはフッと笑って、ゴキブリを反転させたのだが…。「シルフィにも、シルフィにもケーキを持ってくるように言付けるのね! じゃないとパクッといきます、きゅい。」またもやシルフィードに頭をパクッと覆われた。「ああ、生臭い生臭い…無茶言わないでください。 これは飽く迄も偵察用であって、伝言用ではないのです。 ケーキくらい学院に戻ったら作ってあげますから、それで勘弁してください。」「分かりました、それで手を打つのね、きゅい。」ケティはシルフィードとの取引により、生臭地獄から開放されたのだった。「はふぅ…やれやれ、おかえりなさい。 ご苦労様でした。」ケティは眼鏡を外すと、足元にやってきていたゴキブリを軽く掃ってから懐にしまう。「ねえ腹黒娘、それは本当に食べられないのね?」「…原料は無機物ですから、たぶん食べられません。」シルフィードはまだゴキブリを諦め難いらしい。「ただいま。」そんなやり取りをしているうちに、タバサがプチ・トロワから出てきたのだった。「どうでしたか?」「命令書。」タバサは巻いた命令書をケティ達に見せる。「それよりもお姉さまからケーキの匂いがします、くんくん。 これは今旬の栗のクリームを使ったマロンケーキの匂いなのね。」シルフィードはわざとらしくタバサの口の周りの匂いを嗅ぐ。どうやらタバサにもケーキをねだるつもりらしい。「ずるいのね、シルフィも同じものを求めます、きゅい。」「残飯処理。」タバサ的には同性とはいえ使用人たちの前で、憎き敵の娘によって裸に剥かれてまるで愛玩動物のように扱われた事は、屈辱以外の何者でもなかった。勿論、それがイザベラの思惑通りとはいえ、悲しいすれ違いなのは間違いない。「残飯でもいいのね、ケーキ食べたい、ケーキ、ケー…痛い!痛いのね!」「……………。」タバサはシルフィードの頭をポカリと叩いてから、その背中に飛び乗りケティの方を見る。「乗って。」「はいはい~、ご一緒しますよ何処までも。」ケティがシルフィードに飛び乗る。「ケーキ…。」「今度作ってあげますから、我慢なさい。」まだ愚痴るシルフィードに、ケティはもう一度ケーキの話をした。「じゃあ、10ホールくらい寄越しなさい、きゅい。」「えと、いや、そんなに一人で作るのは困難ですから、食堂と掛け合ってみます…。」「………………。」そんなケティをタバサーはじーっと見る。じーーーーーーーーーーーー…。「…勿論、タバサにも作りますから安心して下さい。」「ん。」タバサは安心したようにコックリと頷き、ケティに寄りかかり本を開く。ケーキに関する記憶が不愉快なものではたまらないから、とっとと他の記憶で上書きがしたい気持ちだった。「じゃあ、行く。」「きゅい!」シルフィードは大きく羽を広げ、庭から飛び立ったのだった。「あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…。」暖炉の火が消えた部屋で、イザベラは盛大に落ち込んでいた。周囲はすっかり晩秋…夜は冷え込むが、最近買ったトリステイン製の魔法の懐炉と綿入り丹前があれば乗り切れる。ちなみにそれらには最近ガリアにも商圏を伸ばしてきている《パウル商会》のロゴが入っていた。「ロッテに手ずから施すにはあのくらい酷い仕打ちが必要だったとは言え、私は何て酷い事を…ああああああああぁぁぁぁぁぁ…。」タバサにケーキを食べさせる為に、その引き換えとして女性の使用人たちの前とは言え長い間裸に剥いて晒し者にした。今のイザベラがタバサに何かをする為には、必ず良い事を上回る酷い事を付け加えなくてはいけない。恨まれる事はイザベラにとって思惑通りなのだが、溺愛する従妹に酷い事をするのは物凄く辛いし、恨まれるのもやっぱり辛い。なので、タバサを呼びつけて酷い事や酷い任務を押し付け送り出した後は、何時も盛大に落ち込んでいる。完全に目が死んで魂も半分くらい抜け出しているイザベラを、使用人たちが気の毒そうに眺めていた。彼女達もこんな状態のイザベラを知っているから、やっているイザベラが誰よりも辛いのだと知っているから、彼女の命令に従うのだ。「それであれば、そろそろ本音を打ち明ければよろしいのでは?」「…これは東薔薇騎士団長殿、何処から入られたのかしら?」イザベラは死んだ目のまま、のっそりと起き上がり声の主を睨む。「風メイジには風メイジのみが見える道があります。 そこを通って貴方の元へ参りました、麗しき殿下。」少年の面影をかすかに残すその男は、そう言うとイザベラの手を取り甲に軽くキスをする。「貴方に手を許した覚えはなくてよ、東薔薇騎士団長殿。」眉を軽く顰めて、イザベラは軽く抗議した。「肩書きで呼ばれる程、我々は他人行儀でしたかな?」「では、カステルモール卿と呼べば良いのかしら? それともシャルル・バッソ・カステルモール・ダルタニャン伯爵公子と、正式名称でお呼びすれば良いかしら?」イザベラは20代前半にして東薔薇騎士団長となった出世頭のカステルモールに、皮肉交じりの声色で返答した。「シャルルとはお呼び戴けないのですか、麗しき陛下。」「二十歳も過ぎてロッテに懸想するような、ロリコンの名を呼ぶ趣味は無いわ。」イザベラはそう吐き捨てた。ぶっちゃけた話、イザベラにとって可愛い可愛いタバサに近づこうとする男は皆敵である。もっともこの男の場合はそういう話以前の問題だったりするが。「失礼な、私は人妻から幼女まで、暮らしを見つめる清く正しい騎士ですぞ!」「貴方の場合は人妻『と』幼女でしょ、『から』じゃなくて! しかも、暮らしを見つめるとか、それただの変質者だから!」出世頭で二枚目だが、カステルモールは人妻と幼女にしか反応しないという性癖が妙に偏っている残念な男だった。しかも主な求愛行動がストーキング…この作者の書く男はこんなのばっかりかよ。「愛する人の暮らしを見つめるのは純愛ゆえですよ、何をおっしゃいますか!」「ああああああああ、何でこんなのが我が国の出世頭なのかしら! しかもあまつさえ騎士団なんか任されているのかしら!」何よりも頭が痛いのが、こんなのが親シャルロット派の代表格だって事である。ついでに言うと、親シャルロット派の正式名称は『シャルロットたんを愛でる会』。色々と終わっているが、何よりも終わっていると感じるのは、イザベラ自身が実はこの会の会員だという事だろうか。とっても可愛いシャルロットたん人形に魅せられて、つい入ってしまったのはうかつだった。しかもそれを知られてしまったのが、この能力だけは高い変態だったのだ。「そんな事よりもです。 何故に何時も何時もシャルロット様を部屋に呼んでは独り占めするのですか! このカステルモール、返答次第によってはただでは済ましませんぞ!」「だー!誰かこの変態を何とかして!?」イザベラは悲鳴を上げて頭を抱える。「どうせシャルロット様を裸に剥いて、ケーキを食べさせたのでしょう。 けしからん、実にけしからん。」頬をぽっと赤くして、カステルモールはニヤニヤしている。「どうやって進入したのよ!?」「愛する人の暮らしを見つめるのは、私のライフワークですからな。」カステルモールは爽やかな笑顔でさらっと変態行為を吐いたのだった。「ふんっ!」「あがっ!?」イザベラの延髄斬りがカステルモールの首に入った。「ブッ殺すわよ!」力無く倒れ込んだカステルモールに、イザベラは追撃で腕挫十字固めをかける。「ギャース!」執務室内にカステルモールの悲鳴が響き渡ったのだった。「…酷い目に遭いました。」「折らなかっただけでも有り難いと思いなさい。」ボロボロになったカステルモールを、イザベラが物凄い視線で睨みつけている。「今後、ロッテがいる時にこの部屋に入るの絶対禁止。」「かしこまりました。 残念ですが、まこと麗しき殿下を失うわけには行きませんからな。」イザベラは慎重に慎重に、自分だとは絶対にばれない様に親シャルロット派への支援を行っている。ミョズニトニルンが湯水のように金を使うので最近はままならないが、それでも何とか四苦八苦して送っているのだ。同時に任務にかこつけて、旧シャルル派とも出会えるようにタバサを色々な場所へと送り込んで人脈を作らせていた。それをカステルモールは知っているから、こうして時々こっそりと会いに来てタバサの可愛らしさについて語り合ったり、情報交換を行っているのだ。…タバサの可愛らしさについて議論している時間の方が多すぎるような気もするが。「わかったなら、そろそろ消えなさい。 貴方と話しているのが周囲にばれるのは色々とまずいもの。」「はい、それではまたお会いしましょう、麗しき殿下。」そう言って、カステルモールは空気に溶けて消える。どうやら『偏在』だったようだ。「ふぅ…何か疲れたわ、寝よ。」叫びまくって関節技までかけたせいか、心は何時の間にかすっきりとしていた。まさか、落ち込んでいる私を心配して現れてくれたのかしら、まさかあの変態がそんな気遣い出来るわけが無いわよねえとか思いつつ、イザベラは目蓋を閉じるのであった。「エギンハイム村ですか。」タバサが読み上げてくれた命令書の内容を思い出しながら、ケティはフムフムと頷く。「そこの翼人をどうにかしちゃってくださいという話なのですね?」「ん。」タバサはコクリと頷いた。「翼人と言えば、空を飛び回り風の魔法を操る種族でしたね…。」広大な森の上を飛ぶシルフィードと、それに乗るタバサとケティ。エギンハイム村はもうすぐだった。