「では、こちらはこのように。」「はっ。」アンリエッタがサインした書類を、官僚が受け取って立ち去る。ここは何時もの執務室ではない。王城にある小さいながらも豪奢な聖堂である。アンリエッタはこの豪華な聖堂の装飾品も含めて城の装飾品を片っ端から売り払おうとしたのだが、ケティに止められた経緯がある。ケティ曰く『王城の装飾品とは、国力を誇示する為のものなのです。』つまり王城の装飾品とは『我が国ではこれだけの品を飾っておく余裕があります』という、外交上のハッタリでもあるので気安く売り払ってはいけないという事だった。まあそんなわけで、アンリエッタとしては好きで絢爛豪華に飾り立てているわけでも無かったりする。庶民には通じにくいが、見栄とハッタリは王侯貴族や金持ちやヤクザの世界では大事なのだ。「しかし陛下、わざわざこのような所で執務をなさらなくても。」マザリーニは窘めるようにアンリエッタに言った。「あら、どうしてかしら枢機卿?」そう返しつつも、アンリエッタの目と手は止まらない。ちなみにアンリエッタは現在、全身黒尽くめの喪服姿。あまり多くは語らないが、黒さが際立っていた。「始祖は『聖堂で仕事をしてはいけない』とか、仰られていたかしら?」「いえ、それはありませぬが…私も聖職者の端くれとして申させて頂けば、些か不謹慎ではないかと。」政治家としての姿が目立ち過ぎる為か、ほぼ完全に聖職者である事を忘れ去られつつあるマザリーニは溜息を吐いた。「そうは言っても、仕事を止めて日がな一日中祈っているわけにもいかないもの。」「い、祈ってらっしゃったのですか!?」アンリエッタの言葉に、マザリーニは思わずのけぞった。「あのね、私をなんだと…まあ良いわ。 これ、何だと思う?」アンリエッタはマザリーニに数枚綴りの書類を見せた。「これは…戦死者名簿ですかな?」「そう、国の為に名誉の戦死を遂げた者たちの名よ。 戦後家族に渡される戦没者名誉百合章の授与名簿にもなっているわ。 基本的にゲルマニアの後ろに隠れているとはいえ、矢張り犠牲無しというわけにはいかないのよね。」アンリエッタの手が少し震えているのをマザリーニは見つけた…が、見なかった事にした。「前途ある若者を煽てて宥めすかして死地に送って、死んだら勲章渡してハイ御終い…なんていうのは嫌なのよ。 人の命を掌で転がす立場にある身ですもの。 国の為に戦っている彼らの死を悼むくらいはしないと、私は何時か人を人とも思わなくなるわ。 私は慈悲深く、かつ情け容赦無い君主になりたいの。」「それは矛盾しているのでは?」慈悲深いと情け容赦無いは殆ど対極みたいな言葉である。「自分の中にある矛盾さえ御し得ないのであれば、臣下など到底御し得ないのではなくて?」「ふむ、そうかもしれませんな。」臣下という他人の心を御す事に比べれば、己の矛盾など大した事が無いかもしれないななどと思いつつ、マザリーニは頷く。しかし…とマザリーニは目の前の黒尽くめの少女を見ながら思う。(あの夢の世界の住人の様であられた御方が、この悪夢のような世界に足を踏み入れ、しかも極短期間でよくぞここまで御立派に育たれたものだ。)アンリエッタの母がアレだっただけに、即位して仕事をしてくれるだけでも万々歳なのに、率先して仕事をどんどんこなし、メキメキと実力をつけて行く。しかも、ケティ・ド・ラ・ロッタという掘り出し物まで見つけて来てくれたと思っている為、感動で涙がちょちょ切れそうなマザリーニだった。「枢機卿、喪服を良く見る聖職者として、私の喪服姿はどうかしら、似合っていて?」「似合うとは思いますが…。」真っ黒だと、何時も出ている妙なオーラが更に強くなる感じがするのだ。ある意味物凄く良く似合っているのかもしれないが、この歳の少女が問答無用で平伏したくなるオーラを出しているというのは、王であるとかそういう点は置いておいてどうかと思うマザリーニだった。「姫様はやはり、白の方がお似合いかと。」「そう…でも確かに常に黒尽くめの女王とか、英雄譚に出てくる悪役よね。」アンリエッタは皮肉っぽくほほほと笑った…どう見ても悪役だなぁとか、マザリーニが思ったかどうかは定かではない。「ああそうそう枢機卿、いきなり話は変わるけれども、私の夫候補は見つかったかしら?」「陛下の指定は確かに道理に適っていますが、『賢くて控え目で家柄が良くて本人含めて一族に調子に乗りそうなものが居ない』なんて、なかなか見つかるわけが無いでしょう。」アンリエッタのリクエストは無茶振り過ぎた。「だって、賢く無ければ王配として表に出せないでしょ? 女王の夫になるのであれば、ある程度の地位や名声が無いと大変だし、一族が調子に乗ったら粛清しなきゃいけないじゃない? いくら私でも、夫の親戚を処刑したり地下牢に放り込んだりするのは気が引けるのよ。」「粛清が大前提とは、相変わらず問答無用ですな…。」マザリーニの顔が思わず引き攣る。外戚が調子に乗るのは世の常なのだが、アンリエッタは調子に乗ったら即座に粛清して引き締めるつもりらしい。「どうにもならなくなってから引き締めても意味が無いのよ。 不穏な芽は芽のうちに徹底的に轢き潰しておくべきだって、ケティの本にも書いてあったし。」「彼女の本は、時々とてつもなく過激ですからな…。」もし彼女に夫が出来たら、外戚になる者たちを呼んで待遇は一切変わらない旨を伝えねばならないなと思うマザリーニだった。目障りな枝がある場合には先にこっそり剪定しておかないと、決断に躊躇しない彼の主君は木ごと切り倒してしまいかねない。だからこそ彼が官僚を手足として使って予め根回しをし、主君の目につく前に穏便に済まさねばならないのだ。まあそれが王の仕事であり、その前のクッションとなるのが大臣や官僚の本来するべき仕事なので至極当たり前なのだが。「ケティが男だったら、事は早かったのにねえ? あの子の家、家柄の古さだけで言うならトリステイン屈指だし。 良い感じに能吏が手に入るし。」「陛下は何を言っているのですか。 ケティ殿が聞いたら、本気で嫌がりますぞ。」マザリーニは頭を抱える。「…ああ、そう言えばケティにも弟がいたわね。」アンリエッタはふと思いついたように手槌を打った。「アルマン・ド・ラ・ロッタですな…彼はラ・ロッタ家の跡取り息子です。 恐らくケティ殿が大反対するかと。」「何で?」マザリーニがそう言うと、アンリエッタは首を傾げた。「ラ・ロッタ家は古来より男系相続となっています。 詳しい理由はラ・ロッタの継承権を持つ者しか知らないそうですが、『山の女王』と何か関わる理由があるそうで。」「何それ怖い。」本当に、知らない人には何処までも謎の大魔境なラ・ロッタ領だった。「ふおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」ゲルマニアの自治都市ブレーメンにコルベールの歓喜の声が響き渡る。もくもくと缶から噴出す蒸気、そしてボイラー、回るプロペラ、全部コルベールの大好物だったからだ。「先生、喜び過ぎですわ。」一緒に付いて来たキュルケは少し引きつつも、コルベールに自重を促した。「いやしかしだねミス・ツェルプストー、この光景を見て感動しない者がいるのかね? 魔法の力を一切使わない動力なんだよ!?」「そうは言われても、よくわかりませんわ。」確かに大掛かりだが、このくらいなら魔法でやって出来ない事は無いのだ。「ようこそフルカン造船所へ、お待ちしておりましたコルベール殿。 私の名はアルプレヒト・ルートヴィヒ・ベルブリンガー、当造船所の職人長です。」ベルブリンガーと名乗った男は、一礼してコルベールに握手を求める。「ジャン・コルベールです。 しかし素晴らしいからくりですな!」「いやお恥ずかしい、これはまだ全然未完成なのですよ。」頬を赤らめ、ベルブリンガーは頭を掻く。「これで、ですか?」「ええ、ケティ様が求められた出力を出せんのです。 いやまあ、出そうと思って出せん事は無いのですが…。」ベルブリンガーは途方に暮れた表情になる。「出すとどうかなってしまうんですか?」「蒸気の圧力とタービンの回転にタービン車室が耐えられんのですよ、つまり大爆発を起こします。 色々やってみたんですが、どうにも上手くいかなくて。」ケティの持ってきた進んだ技術に、冶金技術の進んだゲルマニアの職人メイジですら対処が出来ない…ここに来て動力開発はどん詰まりになっていた。「そうなのですか。 しかし素晴らしい…このような機構を誰が思いつかれたのですかな?」「アンナ・ファン・サクセン殿という、女性の職人らしいです。 彼女が作ったという機構を、ここの職人が発展させてあの機構を作ったんですよ。」ちなみに、アンナに軸流式蒸気タービンの発想を伝えて作らせたのはケティだったりする。「その方とは、一度会って話がしてみたいものですな。 どれどれ…確かにこの機構は、使用する部品にえらく強度が要りそうですな、ううむ…。」「ええ、途方に暮れております。」ベルブリンガーの言葉を聴きながら、コルベールはうんうん唸っている。「ど、どうしたんですの、コルベール先生?」その様子を見て、キュルケが声をかける。「…そうか、私の作ったアレと組み合わせて…。」しかし、コルベールはぶつぶつ呟いている。その表情が前に学園で見た、彼が戦いに赴く時に見せた表情とダブって見えるキュルケだった。「かっこいい…かも?」恋多き女、キュルケの胸がキュンと高鳴った瞬間だった。「うん、これなら強度が得られる…しかし、構造が…。」思考の海に没入しつつあるコルベール。「ぽーっ。」それに見とれるキュルケ。「変わった方々が来られたものだ。」アルプレヒトは頭を掻いた。「よっしゃ、漲 っ て き た !」コルベールは大きく頷くと吼えた。「な、何事ですか!?」「ベルブリンガー殿、設計図の図面を引きたいのですが!」コルベールはそう言いながらベルブリンガーの肩を掴んだ。「ず、図面ですか?」「はい、方式は変わりますが、蒸気を高出力の動力に変える方法、思いつきましたぞ!」コルベールは何かティンと来たらしい。「先生素敵!」そしてキュルケは何かおかしい。「それはそうとコルベール殿、こちらの女性はどなたですか? 助手?」ベルブリンガーは戸惑いながら、目をハートの形にしたキュルケを見る。「え?あ、忘れていました。 こちらの女性は…。」「初めまして、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーと申します。」コルベールの促しに正気に戻ったキュルケが、ベルブリンガーに優雅に一礼した。「ツェルプストー…まさか、ツェルプストー辺境伯家!?」ツェルプストー家の爵位は辺境伯であり、同時にゲルマニア七選帝侯の一つに数えられるゲルマニア屈指の名家である。しかも今居る自由都市ブレーメンは、ツェルプストー家の威光によって独立を保障されている都市なのだ。「あら、びっくりしていただけたようで嬉しいですわ。」「し、しかし何故にツェルプストー家の方が…?」この造船所は、機密保持の契約をしたゲルマニア人以外は、例え妻子だろうが立ち入り禁止になっている。例え大貴族と言えど、例外は無い筈だった。「あら、ケティから聞いていないの? うちも多少ながら出資する事になったのよ…もっとも、私は良く分からないのだけれどもね、あっはっは。」キュルケはあっけらかんと笑い始める。「良く分からないものに出資を?」「コルダイトを作っても作り方を一切他社に公表しないケティの商会が、技術流出の危険まで冒して冶金技術の高いゲルマニアに拠点を作ったのよ。 絶対、ゲルマニアの技術を使った面白いものに決まっているじゃない?」そう言って、キュルケは魅力的なウインクをして見せたのだった。