「バレンタイン?」香草茶を飲みながら、ケティは軽く首を傾げた。「そう、バレンタイン。」ケティの問いに、才人はゆっくりと頷く。「バレンタイン、まさか忘れたとは言わせないぜ。」「ええ、ええ、もちろん覚えていますとも、歩兵戦車Mk.Ⅲ。 バージョンアップする毎にどんどん側面装甲を薄くしていくという、あの頃の戦車の常識にあるまじき手段に踏み切った戦車ですよね。 ついには同軸機銃まで外したものの現場に文句言われたので元に戻したという、あの頃の英国の戦車開発に於ける混乱っぷりを体現していました。」ケティは才人の問いに、顔を輝かせながら語り始める…が、酷い言い様である。「知らねえよ、そんな戦車。」勿論の事ながら、才人は一言の元に切り捨てたのだった。「なんと…英国で一番沢山作られた戦車だというのに。」「…そりゃまたすげえ狂いっぷりだな。」才人はあきれた表情を浮かべる。「いやいや、正面装甲の厚さは歩兵戦車として適当でしたから。 ついでに言えば薄いとはいえ、日本の戦車みたいに側面装甲を小銃弾で抜けるなんて事は無かったようですし。」「適当だったのか…そりゃ怖いな。」ケティの言う『適当』とは『必要十分』という意味で、才人の言う『適当』は日常使われる意味での適当だったりする。つまり二人の認識は滅茶苦茶すれ違っていた…ケティがトリステイン語で喋っていれば意味は意訳されて伝わったのだろうが、才人と二人きりだという事と日本語の再学習の為に敢えて日本語で話していたのが仇となっている。まあ、歩兵戦車Mk.Ⅲのスペックの話で意味がうまく伝わらなくても、正直な話どーでも良いのだが。「あと、整備性も高かったので、レンドリース先のソ連の整備士にとっては幸いだったのです。 当時のソ連軍の整備士は平均的に技能が低かったので、より整備性の高いものが好まれました。 ついでに言えば、ソ連の戦車は多少つくりが荒くても兎に角大量生産という概念で作られたせいか故障率が高かったので、整備性が高くかつ故障率が低いというのはとても素晴らしい事だったのですよ。 車体が軽いのでロシア名物泥濘地での走破性も高かったですし…何よりもソ連兵は畑から生えて来て、その命は空気よりも軽い存在だったったというのもあります。 まあ日本相手なら、これで十分圧倒出来ましたしね。」「ヘボくても、敵が更にヘボいから問題無かったって事か…。」才人は感慨深そうにうんうんと頷いた…そしてふと正気に戻る。「って、戦車じゃねえ! つーか、何の話をしているんだよ?」ケティが突然話し始めた内容に、才人は困惑の表情を浮かべて首を傾げる「え?ですから歩兵戦車Mk.Ⅲ、通称バレンタインの話でしょう?」「バレンタインと聞いて即、戦車を思い浮かべるのか…。」才人には完全に意味不明の世界である。「俺が言っているのは、バレンタイン・デーの話。」「おお、そんな行事もありましたね。 こっちには無い行事なので、すっかり忘れていました。」ちなみに今は2月。そして14日になるのなんて、あっという間である。「いやでも昨日、節分とか言って俺にアーモンドぶつけて来たような記憶があるんだが?」「ナンノコトヤラ?」ケティはそっぽを向いた。「なのに、バレンタインの事は忘れていると。」「こちらでは聖ウァレンティヌスに相当する人物が処刑されていませんからね。 チョコどころか、バレンタインそのものが存在しません。」ケティは知らないが、元々ローマ帝国にはルペルカリアという男女が籤引きで決まった相手といちゃついたりする祭りがあり、それに殉教したっぽい聖人をくっつけて無理やりキリスト教の祭りにしたのがバレンタインデーだったりするのだが、ハルケギニアにはルペルカリア相当の祭りも無かったらしい。「いや、行事が存在しないのは、節分も一緒だろ。 それこそ影も形も無いだろ。」「ナンノコトヤラ?」ケティはまたしてもそっぽを向いた。「…はぁ、わかりましたバレンタインですねバレンタイン。 そもそもカカオが無いので、チョコなんか作れませんよ?」ケティは才人の追及に、目を逸らしながら弁解のような言葉を口走る。アーモンドはどのルートで伝わって来たのか知らないが存在するのだが、カカオは流石にハルケギニアでは栽培出来なかったらしい。まあカカオはそのままだと悶絶するくらい苦渋いので、あっても喰う物だと認識して貰えなかった可能性もあるが。「無いの!?いやまあ確かに見た事無かったけど。」「そもそもカカオはアメリカ原産なので、大航海時代どころか海に殆ど進出していないハルケギニアでは手に入りません。 あったとしても、しょっちゅうスコールが降るような湿潤な地域の熱帯植物なので、このあたりで栽培するのは至難の業なのです。」まあ、ぶっちゃけ手に入る代物では無かった。「ちょ…チョコがそもそも存在しないとは…俺のバレンタインの野望が。」「いや、野望とか言われましても。」くず折れる才人を、ケティは痛々しいものを見るような目つきで見る。「だって、ケティが飲んでいるの珈琲じゃん! 珈琲があって、何でカカオが無いんだよ!?」才人が指差したのは、ケティが飲む黒い液体。そこから漂う香りは香ばしく、まさにコーヒーそのものだった。「いや、これは香草茶の一種の蒲公英(タンポポ)茶なのですが。」「たんぽぽ?たんぽぽって、そこらへんに生えている?」才人の問いに、ケティはコクリと頷いた。「ええ、そこらへんに生えている蒲公英です。 まあこれはラ・ロッタで栽培して、きちんと焙煎した商品なのですが…飲みます?」ケティはもう一つカップを取り出すと、そこに蒲公英茶を注いだ。「はい、どうぞ。」「センキュー…やっぱりコーヒーだ。」才人が飲んだそれは匂いといい味といい、とってもコーヒーな感じだった。「蒲公英茶は別名『蒲公英珈琲』とも言いますしね。 実は珈琲の代用品としても、そこそこ有名だったりはします。」「…これでも良い。」説明するケティの声を聞きながら、才人は頷いた。「チョコが無いならコーヒーがある。」「は?」才人の言葉に、ケティは首を傾げる。「バレンタインデーに、コーヒーで作ったお菓子が食べたい。」「はあ?」才人の突然の言葉に、ケティはついていけていない。「苦節17年、それでも毎年バレンタインにはチョコを貰ってきたもんだ…親からのと義理だけど。 ああそうさ、年齢イコール彼女居ない歴さ! それでも、貰う事は出来ていたんだ。 それが今年は貰えない…この切なさ、ケティにならわかるだろ?」「いや、全然わかりませんが。 そもそも日本のバレンタインデーは、お菓子屋のはんそ…。」そう言いかけた、ケティの言葉が止まった。「…成程、その手がありましたか。 わかりました、蒲公英茶で香りづけをしたお菓子を焼きましょう。 その代り…。」ケティはニヤリと笑みを浮かべ、才人にとある事を伝えたのだった。「ねえねえケティ、サン・ヴァランタン祭って知ってる?」「ええ、才人の世界のお祭りなのだとか。」数日後ルイズの問いに、ケティはしれっと答えて見せた。「若く愛し合う二人が結婚する事を禁止するだなんて無粋な事をした国家権力に対し、愛とは無制限のものであるとしてこっそり結婚させるだなんて素敵な事をした人の記念日なのよね? 結局捕まってしまったけれども、彼は己の信念を決して曲げずに殉じたんでしょう? こういう方向で己の信念を絶対に曲げないって、素敵な事だわ。」「ですよねー。」勿論、才人がバレンタインの逸話云々を知っているわけが無く、これはケティがうろ覚え状態のバレンタインの逸話を脚色して才人に覚え込ませたものである。ちなみに才人はケティにも言われていたので、この話をシエスタ達使用人の娘にもし、それが使用人の間に広がり…ケティが援護射撃として1年生から2年生にかけて才人から聞いた話として広めて行った。何といっても才人は現在国の英雄であり、彼とお近づきになりたい女子は生徒使用人を問わずごまんといる。そこにこの『きっかけ』…学院は狭く、女子の情報網は光より早くその手のイベントを伝えるものだ。「あいつ、何でわたしに知らせないのよ。 何とかアドリブで合わせたけれども、危うく大恥かく所だったわ…。」ルイズはそう言いながら、軽く怒っていた。アドリブがド下手なルイズの事だから、ばれていた可能性は大である。「そりゃまあ、直接そういう事を伝えるのは、無粋というものでしょう。」「あいつは基本的に無粋でしょ。 何でこんな時に限って気を利かせるのよ、もう。」その辺りは何となくわかったらしく、怒るに怒れないらしい。…ちなみに、直接ルイズに伝えない方が良いとアドバイスしたのもケティだったりする。「そそそそれで、サイトの国では蒲公英のお茶によく似た香りと風味の飲み物で味付けしたお菓子を、お菓子を…いいいい意中の男性に送るお祭りなんでしょ?」ルイズが顔を真っ赤にしながら『意中の男性』とか言う風景を見て、ケティはとても微笑ましく感じつつも思わず胸元をぎゅっと押さえた。「…ええ、意中の男性では無くても、いつもお世話になっている男性に労いで送る事もあるようですが。」「そそそそれよ! サイトにはお世話になっているというか、世話しているの立場上私の筈だけど、お世話になっているもんね!」支離滅裂なセリフを口走り、何故かビシッとケティを指差しつつ、ルイズは顔を真っ赤に染めている。「それでケティ…タンポポ茶って、何処で手に入るの?」「今飲んでいますが。」そう言いながら、ケティは蒲公英茶を飲む。「何か良い香りがすると思ったら…既に手に入れていたのね。」「手に入れたというか、うちで作っているので。」ルイズの質問に返答しつつ、ケティはもう一度蒲公英茶を口に含んだ。「ふむ…やはりきちんと焙煎した蒲公英茶は美味しいのです。」「こ…これが持つものと持たざるものの差なの…ッ!?」蒲公英茶を飲むケティに、ルイズは戦慄しながら後ずさった。「空前絶後の超金持ちが、いきなり何言っていやがりますか~?」「だだだだだって、その蒲公英茶! トリスタニアでも完全に品切れ状態なのよ!? 実家にお金があると言ったってわたし自身のお金じゃないし、そもそもお金があったって蒲公英茶が無ければ買えないわ。」まあモノが無ければ、金貨なんてのはただの金属の塊にしか過ぎないのも事実。カネは無限だがモノは有限というのは、時代を問わない不変の真理なのである。「お願い、蒲公英茶を譲って!」「それは構いませんが…ルイズ、貴方お菓子を作る事は出来ましたか?」「ほへ?」ケティの質問に、ルイズの動きがぴたりと止まった。「…………………。」考えているらしい。「…………………。」なうろーでぃんぐ。「ぽぺぷー………。」えらー、ふぁいるが見つかりません。「料理は愛情!お菓子は激情! すなわち激情に身を任せればお菓子は…。」バグ発生。「才人に何を食べさせるつもりですかぃ!」「あいたっ!」ケティがルイズの頭にすかさず斜め45度の角度から鋭いチョップを叩き込んだ。昔の壊れかけテレビにやるアレと一緒の理屈である。「激情に身を任せて何を作るつもりだったのですか?」「さぁ…自分に料理技能が無いのを、すっかり忘れていたわ。」出来ない事を無理やろうとしたら、暴走したらしい。難儀な話である。「ケティは誰かにケーキ、あげるの?」「取り敢えず、日ごろの感謝を込めて才人に。 あと、水精霊騎士団の立ち上げで頑張っているギーシュ様と、早速手伝いを始めてくれたミスタ・コルナスにも。」ミスタ・コルナスことレイナールは、募集を始める前に噂を聞いてやって来てくれたうちの一人な上に、事務業務などをあっという間に覚えてくれるという脳筋が多い水精霊騎士団立ち上げメンバーの中でも数少ない頭脳労働が得意な少年である。そんなわけで、事務業務を一手に引き受けさせられていたケティにとっては、救いの神みたいな男なのだ。「ところで、マリコルヌは?」「マリコルヌに相応しいのは泥団子であって、ケーキではありません。」しょっちゅうマリコルヌにパンツを覗かれている身としては、欠片も感謝する気になれないケティだった。「それはそれで喜びそうな感じよね…。」「それが否定出来ないのが怖い所です…。」マリコルヌに死角無し、パーフェクトな変態なだけにツッ込みどころが無い。「あの変態の事は置いておいて…お菓子、ルイズも一緒に作りますか?」ケティはルイズにそう言って微笑みかける。「う、うん、ありがとう。」ルイズは素直にコクリと頷いたのだった。「……………。」ふと、ケティのマントを引っ張る者が居る。「おや、タバサ?」「ん。」タバサはケティをじーっと見つめている。「…いや、タバサは女の子ではありませんか。」「ズボン。」タバサが履いているのは、スカートでは無くズボンだった。「おや、どおりでいつもと何かイメージが違うなと思ったら…いや、服装変えてもタバサが女の子なのは変わりませんが。」「ボク、タバサ。」喋り方も男っぽくしたらしい。心なしか声も低くしているあたり、芸が細かい。「喋り方を男っぽくしても駄目です。」「無念。」タバサは軽く煤けた。余程食べたかったらしい。「ルイズと一緒に作るのを手伝って下さい。 労働の対価として、ケーキを差し上げましょう。」「合点承知。」タバサは何だか漲っていた。「タバサって、ケティとなら結構話すのね。」「いやいや、食べ物に関する時だけ…あいた!?」ケティが頭に受けた衝撃に振りかえると、少し頬を赤く染めているタバサがフルフルと首を横に振っている。「同じ殴るって行為にも拘らず、わたしとタバサで何でこんなに可愛らしさが違うのよ。 ずるい、この可愛らしさはずるいわ…なでなで。」「うーん、キャラ…でしょうか? まだ頭がくわんくわんいっているのに、怒りが湧いてきません…なでなで~。」ルイズとケティは恥じらうタバサを見てほんわかしながら、思わずタバサを撫でていた。「アレかしら、わたしも才人をブン殴った後で恥じらうべきかしら? キャッ!?血塗れにしちゃった、恥ずかしい!とか?」「それは恥ずかしがるよりも、むしろ反省してください。 そもそも、血塗れの犠牲者の前で恥じらうのは怖いです。」 加減の問題っぽい感じもしないでも無いが、そういうレベルの話じゃないって感じでもある。「では早速、練習を兼ねて一つ作ってみましょうか?」「う、うん。」「ん。」三人の少女は、互いに頷きあって厨房に向かおうとしたのだが…。「ケティ、ネタは割れているわ。 タンポポ茶を寄越しなさい!」ドアを開いた所に立っていたのは、颯爽と金髪縦ロールに巻かれた髪をなびかせる少女。「あ、モンモン。」「モンモンって言うな!」ルイズにそう呼ばれて、思わずツッコむ赤貧貴族モンモランシーだった。「主従揃って、その《モンモン》とかいう変な呼び名で呼ばないで!」「あー…サイトのが感染ったかしら?」 ルイズが首を傾げて眉をしかめる。「まあいいわ…それよりもケティ、タンポポ茶を譲って。」「おや、モンモランシーなら部屋にタンポポの乾燥した根の一つや二つ、あるのでは?」ケティが首を傾げるが…。「ちょうどストック切らしていたからいつも取りに行っている草原に行ったら、根こそぎ引っこ抜かれて全部無くなっていたのよ。 仕方無いから領地に取りに行ったら、あんたの所の蜂が飛んで来て全部引っこ抜いて行ったって…。」「…おや~?」ケティの顔が一瞬軽く引きつる。普段なら、タンポポを引っこ抜いて行っても何も言われないのだろうが、今回はちょっと旗色が悪いお話だった。「ただでさえ貧乏なうちの領地からタンポポまで引っこ抜いていくって、どういう了見よっ!? 詳しい話は聞かないであげるから、タンポポ茶を寄越しなさい!」モンモランシーは右手をグイッと差し出す。「普段は使わないくせに…。」「何か言った!?」小声で愚痴るケティを、モンモランシーがギロリと睨み付ける。「モンモランシーに譲る分くらいならありますから…。」そう言いながらケティはルイズ、タバサを見、最後にモンモランシーを見てにっこりと目配せをする。「一緒に作りましょう。」「どう見ても試食担当な二人分の負担を分かち合えって事ね…まあ、仕方ないか。」モンモランシーは軽く溜息を吐いてから、苦笑しつつ頷いた。「二人とも、私達を欠片も当てにしていないわね…。」「お荷物。」そんな光景を見ていたルイズとタバサの視線が交わる。「タバサ、頑張ってあの二人をギャフンと言わせない?」「ん。やれば出来る。」ルイズの誘いに、タバサはコクリと頷いた。「おや?二人とも何をコソコソ話し合っているのですか?」そんなケティの問いに、ルイズとタバサの二人は唇に指を当て…。『秘密。』と声をハモらせて、言ったのだった。…結果としては、ルイズとタバサはケティとモンモランシーをギャフンと言わせるのに成功した…物理的に。「…失敗。」煤けて髪がボンバーな感じになったタバサが、一言つぶやくように言う。厨房大爆発、ルイズが魔法を使ったわけでもないのに。「な…何故に爆発するのですか…ガクッ…。」ボロボロになったケティは、力尽きたように動かなくなった。「こ…これで、私が魔法に失敗した時の気持ちが少しはわかったでしょ? いっつも成功ばかりじゃ、人生に深みは出来ないものよ。」同じく髪がボンバーな感じになったルイズが、腕を組みながらやけくそじみた表情を浮かべつつ、胸を張ってそう言い切った。「何で、無理やりいい話にこじつけようとしているのよ…がく…。」金髪の縦ロールが伸びると凄まじく髪の長いモンモランシーも、ツッコミ入れて力尽きたらしく、そのまま動かなくなった。この後、ルイズとタバサは手伝える作業が、器具の洗浄と試食だけになったという…。一方こちらはラ・ロッタから、トリスタニアに向かう街道。パウル商会の商隊が、列を成してとあるものを運んでいた。「ケティ坊ちゃんに言われて、タンポポ畑だけじゃなくラ・ロッタ領とその周辺から山の女王にもお願いして蜂まで動員して、根こそぎタンポポ引っこ抜いて乾かして焙煎したっスけど、これ本当に売れるのかいな?」パウルが眺めているのは、5台の荷馬車に満載された蒲公英茶。これからトリスタニアのパウル商会の商館に届ける大事な荷物である。「おや、ケティ坊ちゃんを疑うんですか、兄さん? 私、タンポポをお茶にしたら、ここまで美味しくなるとは思いませんでした。 …うーん、良い匂いです。」袋から微かに漏れてくる蒲公英茶の匂いに、キアラはうっとりしている。「いやまあそうっスけど…学院でこれから爆発的に流行るから、持って来られるだけ持って来いっていうのは…ねえ。 大体コレ、開発したての商品だから、トリスタニアでも扱っている店は殆ど無いってのに。 あと、兄さんじゃなくて、『お兄ちゃん☆』と呼ぶっス!ちゃんと星も付けるっスよ?」「嫌ですというか、キモいです兄さん死んでください。 話を戻しますが…ケティ坊ちゃんの事だから、流行るというよりも流行らせるんでしょう。 香りが良くて美味しいお茶ですから、一旦流行れば飲む人は広がっていくでしょうし。」何処でも手に入るものだし焙煎だってそんなに難しいものではないから、あっという間にコピーされるだろうがそれはそれで構わない。普及するまでに稼げば良いだけの話だし、ブランドを確立すれば一時ほどでは無いにせよ買うものは居る筈だからだ。「ん?」その時、遥か彼方からブーンという羽音が聞こえてきた。「おや…あれはグラシャ=ラボラスじゃないっスか?」「というよりも、このあたりにジャイアントホーネットが居るとしたら、グラシャ=ラボラスしかいませんよ。」グラシャ=ラボラスというのは、山の女王の端末としてトリスタニアのパウル商会の商館に派遣されている蜂である。元々蜂に名前など無いのだが、それだと呼びにくいという事もあって、グラシャ=ラボラスなどというソロモン72柱の悪魔から取られた大層な名前を付けられることになった。商会のメンバーには、ちょっと長いという事で微妙に評判が悪い。「出迎えに来てくれたんスかね? 珍しい事もあるもんだ。」「誰かをぶら下げていますよ…?」蜂の足に捕まえられぶら下げられているのは哀れな被捕食者…ではなく、パウル商会の使用人の一人でラ・ロッタ出身のピエールだった。「おーい、パウルーキアラー大変だー!」「そうスか、そりゃ大変ッスねー?」「アホかー!」大変そうだが、長閑だった。「阿呆な事をやっていないで、きちんと話をしてください。 坊ちゃんに言いつけます。」「言いつけますよじゃなくて、警告無しで言いつけるんスか!?」「兄さんが警告くらいでは耳を貸さないのは学習済みです。」日頃の行いが、キアラに情け容赦ない行動をとらせているようだ。自業自得なのかもしれない。「いやパウル、本当に阿呆な事を言っている場合じゃあない、急いでくれ。」「タンポポ茶っスね。」ピエールが本気で焦っているのを見て、パウルは頷く。「察しが良いな、その通り…何日か前から急にタンポポ茶は無いかって問い合わせがトリスタニアの様々な小売店に入っていてな。 トリスタニア中で学院生がタンポポ茶を探し回っているらしい…十中八九、ケティ坊ちゃんが何か仕掛けたな。」「何やったんスかねぇ…? ピエール、トリスタニアには何か情報は入っていないんスか?」パウルがピエールに尋ねるが、ピエールは首を横に振った。「いんや、流石に数日で広まったっぽい流行の情報まではな。 ケティ坊ちゃんが何も言わんのは…この状況で察しろってとこか。 ま、仕掛けるにしても、わざとらしさを感じさせない為には必要最低限度しか動き回れないのだろうさ。」「たまたまタンポポ茶がこの時期に用意出来た事にするって事っスか。 うちが売る店は、飽く迄も今まで取引があった所のみ…今回の件でうちからタンポポ茶を卸して貰えなかった店は、次からはうちの営業を断りにくくなると。」頻繁にやったら顰蹙と恨みを買うだろうが、適度にやれば次からの販路確保にも繋がる。小手先技は用法容量を守って、正しく使いましょうという事である。「さすがケティ坊ちゃん、真っ黒です。 アルマン坊ちゃんにも、こういう所は見習って欲しいですね。」「ケティ坊ちゃんから毒気を抜くと、アルマン坊ちゃんって感じっスからねえ。 まあ近くで学び続ければ、いずれはケティ坊ちゃんの跡を継ぐ商会の影の主に相応しくなっていくんじゃないっスか? 血は争えないともいうし。」ちょっと感動しているらしいキアラを軽く引いた視線で見つつ、パウルは頷いた。「さあ、早く行って小売店の皆さんを安心させてあげるっスよー? パウル商会と仲良くしておけば得をする、それをトリスタニアに知らしめる為に!」『おう!』こんな感じで、パウル商会の面々は今日も元気なのであった。今度はもう一方、トリステイン王城。今日もアンリエッタは暇そうな表情を浮かべて、目覚めてから朝食昼食の時間も休み無く書類を隅から隅まで読み尽くし書類にサインをし時に官僚を呼び出し口頭で命令をしたりしつつ、溜息を吐いた。「ふぅ、暇ねぇ…。」「貴方の今の状態が暇なら、臣民の大半が暇なのに過労死します、陛下。」人間慣れって奴は怖いというか、これより少ない仕事量でガリガリに痩せていた自分って微妙に駄目じゃね?とか思いつつ、マザリーニはアンリエッタにツッ込む。最近はふっくらとしてきて、『鳥の骨』から『痩せた鶏』を経て『鶏』にランクアップしつつある。そのうち『脂の乗った鶏』とか言われる日も来るかもしれない。「失礼ね、優雅なお茶の時間をまったりと過ごしているじゃない? ケティがくれた試供品のタンポポ茶、いい香りよね。 タンポポって、引っこ抜いても引っこ抜いても生えてくる上に、大量に種をつけてばらまくんでしょ? しかも痩せた土地でも平気で育つ…素敵ね、こういう育てるのに手間がいらない作物って。」「お茶の時間をまったりと過ごすというのは、仕事の手を一旦止めてから言うものですぞ、陛下。 …それにしても、何故にそこまで決済を急がれておるのですか?」侍女にタンポポ茶を注いで貰いつつ、マザリーニはアンリエッタに訊ねた。「2ヶ月後のスレイプニィルの舞踏会に出る為よ。 暇なうちに出来る仕事を全部こなしておけば、数日くらいあけても何とかなるでしょ?」「いったい、何日開けるおつもりですか…。」アンリエッタの仕事量は、最近目に見えて減りつつある。というのもリッシュモン家への苛烈な仕置きが貴族達の緩んだ気持ちをかなり引き締めた事もあって、3年国王が政務を放っておいた事による国の混乱はだいぶ収まって来ており、官僚組織がまともに機能し始めた結果アンリエッタに凄まじい量の仕事が押し寄せるという状況は起こりにくくなってきていたのだ。抜き打ち監査という事で、アンリエッタが直接決済する事がまだまだ結構あるのだが、それでも一時期よりはかなり減っている。「うーん、まあ、他にもヴァリエール公とのアレコレも解消したいしね。 …枢機卿が下世話な事をやってヴァリエール公を怒らせなければ、枢機卿に行って貰いたかった案件なのだけれども~?」「ああいや、確かにそうですが…あの時は私も仕事の波に押し潰されかけておりまして…はい、申し開きのしようも御座いませぬ。」宮廷から『引退』と表してラ・ヴァリエール公爵が去ってしまってから、今年で3年目になる。南トリステインの実質的な支配者に近いラ・ヴァリエール家の主が、3年もトリスタニアの館にも王城にも来ていないというのは、実はかなりの非常事態だったりする。ラ・ヴァリエール空軍艦艇を借りたり、長女のエレオノールがアカデミーに所属していたり、3女のルイズがアンリエッタと懇意にして度々会っているから良いものの、下手を打てば反乱を疑われるレベルなのだ。来ないなら行って直接話をするしかないし、切羽詰っていたとはいえマザリーニがしでかした不作法も謝らねばならないだろう。頭を下げねばならぬ時に頭を下げるのは責任者の仕事でもあるし、そろそろ次の王位継承権者がルイズである事をラ・ヴァリエール公爵にきちんと伝えねばならないだろうとも、アンリエッタは考えていた。「一緒に行って、一緒に謝りましょう。 あなたがトリスタニアを一切離れられる状況に無かったのはわかるけれども、拗れまくっているでしょうねぇ…。」「は…。」マザリーニは畏まって頷いた。そんなマザリーニを見て、アンリエッタが話題を変える。「…話は変わるけれども、このタンポポ茶。 今トリスタニアでは品切れ状態らしいわよ。 何でもサイト殿の国の聖人で、国の命令に反して恋人たちの結婚を執り行ったサン・ヴァランタンとかいう人の記念日なのだとか? 結婚を禁止するだなんて、無駄な事を考える権力者もいるものねえ。」「サイト殿の国では聖人なのかもしれませんが、ロマリアに聖人認定されていない者に聖(サン)の敬称をつけて呼ぶのはやり過ぎではないかと。 下手を打てば、異端の祭りだと言われかねませんぞ?」そう言いながら、マザリーニは溜め息を吐く。枢機卿という身分を持っているだけに、そのあたりは看過出来ないらしい。「あら?枢機卿がお坊さんらしい所を見たのは、久しぶりなような気がするわ。」「私自身も結構気にしている事を、茶化さないで戴きたい…。」苦笑いを浮かべながらぼやくマザリーニを見て、アンリエッタは思わず微笑んでしまう。「まあ、本気で崇めたりしはじめていないうちは良いんじゃあない? いっそ、ロマリアに聖人認定して貰うために工作するというのも手よね。 臣民が楽しんでいる行事が、異端認定されたりしないように尽力するのも私たちの務めだし。 …それっぽい逸話を見つけて、実はこんな聖人が居たんだとでっち上げればなんとかなるでしょう。 枢機卿、ロマリアへの工作は任せます。」「これは久し振りに坊主らしい仕事になりそうですな。 うまくいけば、私が聖職者である事を思い出してくれる人も多そうだ。 かしこまりました…このマザリーニ、枢機卿という僧職の端くれである事を証明いたしましょう。」アンリエッタの願いに、マザリーニは苦笑を浮かべながら畏まって礼をしたのだった。そして、ハルケギニアにおける2月14日がやってきた。学院内にはあちこちからタンポポ茶の良い香りが漂い、タンポポ茶の香りをつけたお菓子を意中の人に手渡している光景も散見される。あのギトー師ですら、生徒からタンポポ茶クッキーを貰ってうれしそうにしているというのだから可愛いもの…かもしれない。「はいは~い、タンポポ茶ケーキが焼けましたよ~。」『うおおおお!』なんだかんだやっていたら結局、水精霊騎士団を結成するために頑張っているコアメンバーに、タンポポ茶で風味と香りをつけたケーキを焼いて振る舞うという事になってしまっていた。他と比べると色恋の空気は少々薄いが、まあ初めはそんなもので良いだろうとケティは思っている。「ケティが焼いたケーキキター!」そして何故か一番喜んでいるのがジゼル…ちなみにジゼルもケティ達と一緒にカップケーキを作っていたりする。誰に渡すかは、ケティは知らない。「わたさねぇ、このケーキは私だけのもんじゃー!」「落ち着けジゼル、お前は女の子だ!しかも貴族だから! だから、そのままケーキに顔ごとかぶりつこうとするんじゃない!」そしてそんなジゼルを才人が羽交い絞めにして、必死に抑えている。「どこ触ってんのよえっちー!?」「腕だーっ!何がエッチだ!? つか、お前の場合まかり間違って胸触っても気づかんわーっ!」それにしてもここまで出番がなかったせいなのか、ジゼルが自由すぎる。「人が気にしていることを言うかー!この!この!」「ギャー足を踏む…なぐぇ!?」才人が唐突に白目を剥いて崩れ落ちる。その後ろに立っていたのはルイズだった。「取り敢えず、胸の話をする奴には死を。」「よっしゃ、解放されたわ! これで思う存分ケティのケーキを食べ放題!」ジゼルは喜び勇んでケーキの元に駆けつけようとしたのだが…。「えいっ☆」ガッシ!ボカッ!「ぐえ…。」そんなジゼルをエトワールがピコピコハンマーみたいな形をした杖で殴りつけ、ジゼルはそのまま意識を失った。ピコピコハンマーにしては随分変わった音がしたが、気にしてはいけない。「妹がはしゃぎ過ぎちゃってごめんなさいね~。 それじゃあ、皆さんごゆっくり…。」ジゼルはそのままエトワールに引きずられて消えた。「…さ、さあ、それではケーキを切り分けますよ~。」「みんな順番に並びなさい、無くならないから!」ケティとモンモランシーがケーキを切り分け、才人、ギーシュ、マリコルヌといったいつものメンバーやレイナールやギムリのような新参メンバーがそれを受け取っていく。会場となった食堂にはタンポポ茶の香ばしいいい香りが立ち込め、皆幸せな時間を過ごしたのだった。この後、バレンタインことサン・バランタン祭りはマザリーニによってロマリアにそれっぽい話を見つけて体裁を整えた話として申請されて、ロマリアからのお墨付きを貰える事になる。ついでにこの時期になるとタンポポがそこら中から消えるようになるのだが、それはまた別のお話である。