「ななな、何奴っ!?」慌てて振り返るケティだが、相変わらず彼女の視線に入るのはめかし込んだタバサである。遠隔操作ディスプレイに使っている魔法の眼鏡は、こういう時にちょっと不便だった。「おっとっと…何奴っ!?」ケティは眼鏡を外してから、改めてびっくりして見せた。「腹黒娘、格好悪いのね。」「ほっといて下さいっ。」シルフィードのツッコミに、ケティは顔を赤くして抗議した。「はっはっは、面白い御方ですな。 お初にお目にかかる。 シャルル・ド・バッソ・カステルモールと申します。」「ああ、アルタニャン伯爵家の…。」物語に出てきた主要人物の事はある程度調べているので、カステルモールの正体に気付いてほぅっと胸を撫で下ろすケティ。物語で知っていても、幾らなんでも顔の特徴まではわからないのである…この世界のイケメンは揃いも揃って帽子に髭が基本なので、非常に分かりにくい。「おや、木っ端貴族の家に生まれた私も、随分と有名になったものですなぁ…。」カステルモールは目を丸くしながら、驚いて見せた。「ガリア宮廷内でも出世頭として有名な貴卿が、何を仰います。」「ほう、トリステインまで私の噂は届いておりますか。 ケティ・ド・ラ・ロッタ嬢と、お呼びして宜しいかな?」「おほほ、私の事を御存じなのですか?」カステルモールが自身が誰であるのを知った上で声をかけた事を知って内心仰天するケティだったが、表面上はクスクスと笑って誤魔化した。相手の意図が良く分からない以上は、容易に動揺を表に出すのは良い事ではないからだ。「ガリアに於いてラ・ロッタは、それなりの悪評をもって知られておりますからな。 かの大魔境に住まう一族にお目にかかれて、光栄の至り。」「6000年も経っているのですから、いい加減当家にもガリア貴族の爵位を賜れるのではないかと、かれこれ4000年くらいお待ちしているのですが。」 ケティは『また大魔境呼ばわりかぃ!?』とか内心で思いながら、にこやかにそう答えた。貴族が複数の国の爵位を持っている事は、珍しいが全く無いわけではない。ラ・ロッタは内情はただのド田舎だが、侵入不可能エリア全体を領地とするかなり変わった貴族なので、名目上爵位を与えて事態を終息させるという手もあるのだ。「これだけの間拘れば、それはもう伝統ですからな。 貴族としては、伝統は大事にすべきでありましょう?」「成程、これはしたりなのです。」ただそれをやるとガリアが戦ってもいない貴族家に6000年もの間何度も何度も挑んだ挙句に完全敗北した事になるという、メンツの問題がある。6000年も続けて来た事をはいそうですかと止めるには、それなりの理由もいるのだ。「それで、私に何の御用でしょうか?」「美しい御方が居たので、思わず声をかけてみた…と、言いたいところですが今回は別件です。 シャルロット様の御学友である貴方に一つ警告に参りました。」そう言って、カステルモールは真顔になる。「シャルロット様に近づき過ぎると、御身が危なくなりますぞ。」「存じておりますよ。」カステルモールの警告に、ケティはあっさり頷く。「タバサこと、シャルロット・エレーヌ・オルレアン…何事も無かったならば、ドルレアンと呼ばれるべき御方。 北花壇騎士で本来であればオルレアン婦人大公などという複雑極まりない人物と付き合うのに、命がかかっていないわけがないでしょう?」「いやはや、全て…御存知でありましたか…。」一応公的にはトリステインに留学中とされているとは言え、タバサという偽名を名乗っている身。事実それを公式ルートで把握しているのは学院に於いては学院長だけであり、それ以外はケティが媚薬にやられた時にポロッと漏らした情報を聞いた者とタバサの実家に行ったキュルケくらいのものである。本来知る人ぞ知る情報なだけに、カステルモールは目の前の少女に対して舌を巻いた。「それはシャルロット様が…?」「おほほ、タバサはそんなに自分語りをするような性質ではありませんから…」笑顔を崩さずに、ケティは鞄から取り出した扇子で口を押さえる。それでようやく、カステルモールはケティの目が全然笑っていない事に気づいたのだった。「…自分で調べました。 私は自分が『知らない』事が何よりも耐えられないという、我ながら困った気性なもので。 知らずに関わるなど、私の『名誉』に賭けて許せるものではなかったのですよ。」ケティは実際に物語の記憶を頼りにあたりをつけて調べ、タバサの境遇について物語として覚えている部分とのギャップを埋める作業を行っていた…自分の認識と世界がずれ始めていることに気づいて行った、事後作業ではあったが。「…長生き出来ない性質ですな。」「はあ…まあ、特に長生きするつもりもないので。」ケティの言葉を聞いて、カステルモールは少々首を傾げた。ケティをもう一度よく見るが、彼女が嘘をついているようには見えない。10代の少女なのにも拘らず、生に対する執着心が言動から感じられない。かといって10代の少年少女に時折見られる、死への憧れを持つ者特有の瞳の妙な輝きも無い。何の拘りも無く、ごく自然に生への執着が薄いと言えば良いのであろうか…妙な雰囲気の少女だとカステルモールは感じた。「まあ兎に角、警告はさせていただきましたぞ。」「はい、まああっさり死ぬ気も無いので、対抗手段は用意しています。 アレらをいっぺん試せるかと思うと楽しいです、誰か襲撃してくれませんかね? うふふふふふふふふのふ…。」カステルモールは、心の中でケティを『妙な雰囲気の少女』から『変な子』に修正した。一方、プチ・トロワの中では…。「あはははは!流石は王族だね、着飾りゃ立派な御姫様の出来上がりと来たもんだ! (きゃー!ロッテ可愛い!凄い可愛い!きゃーきゃー!)」イザベラが綺麗に着飾ったタバサのあまりの可愛らしさに紅潮している頬を隠しつつ、さも莫迦にしたような態度で笑い転げて誤魔化していた。笑い転げながら、タバサを着飾らせた女官達に『よくやった』と意思を込めて目配せをし、女官達もそれに対して無表情かつ微かに頷く。「ははは…はぁ…はぁ…ああ苦しい。 じゃあ人形、これも被ってみようか。」そう言いながら、イザベラは自身が被っていた冠を脱ぐと、タバサに被せた。イザベラは頬を紅潮させハァハァいっていて正直ちょいキモいというか、どう見ても『中身はみ出てます。本当にありがとうございました』という風情である。とはいえ、王冠によってイザベラの表情はタバサの視界からきっちり隠れているのだが。「あーっはっはっは!お似合いだよ人形、さすがはあたしの可愛い従妹殿! 子供子供と思っちゃいたが、その高貴な面立ちといい、青銀色の髪と言い、そのおでこと言い、紛れも無く血だけは王族だね!」下品に言いつつ本音が駄々漏れっぽいが、さも莫迦にしているような演技で何とか誤魔化せているイザベラだった。「あははははは…さて人形、着飾ったところで任務だよ。」「…ん。」イザベラは机から書類を取り出し、タバサに手渡す。「今回の任務は、このあたしの身代わり…だよ?」感情の籠もらない視線で自分を見るタバサに、イザベラはニヤリと笑みを浮かべる。「カステルモール!」そうしてイザベラは、カステルモールの名前を呼んだのだった。「…おっと、呼ばれましたな。」ケティと話していたカステルモールは、片方の眉をピクリと上げる。「呼ばれましたか。」ケティは何となく、そう聞き返した。遠くに声を飛ばすマジックアイテムは、無いわけではない。値段はそれなりに高いが、存在はする…というか、実はケティも持っている。前世の知識のお蔭で、通信に関して現代人的な概念を持つ彼女にとって、それを入手するという行為は至極当たり前の事だったのかもしれない。「ええ、貴方との知的な会話はなかなか有意義でしたが、いと麗しき淑女が私を呼んでおられるようだ。」「クスクス…それは大変、レディの誘いには速やかに応じるのが紳士というものですよ?」おどけた身振りでケティに中座を詫びるカステルモールに、ケティは少し笑いながら頷いた。「そうですな。 夢見る瞳の可愛らしき御方よ、これにて失礼いたします。」カステルモールはそう言うと同時に、風に溶け消えた。「はいはいさよなら~…って、『偏在』の応用ですか。 『偏在』は、ああ見えて結構弱点ありますからね~、ああいう使い方が一番正解というか。」例えば脳の状態が共通になるので、精神的作用のある薬物や魔法に弱い。ケティはそれを利用して、ワルドの『偏在』を一度無力化してしまった。あと、実はスタンドアローンとしての性能は、一人の意識が分割されるせいかイマイチだったりする。そのあたりは訓練にもよるらしいが、こんなのを毎日バンバン使えるメイジは、スクウェアと言えどそうはいないのだ。いるとすれば、『戦場で出会ったら、突発的な災害かなんかだと思って諦めろ』などと呼ばれた《烈風カリン》くらいであろうか。「…はて、それにしても夢見る瞳って、寝惚け眼だって言いたかったのでしょうか?」ケティはそう言って、首を傾げたのだった。「カ・ス・テ・ル・モール!」一方イザベラは、何度もカステルモールの名前を呼び続けていた。されど、いくら呼べども待てども暮らせども、カステルモールは一向に現れず。周囲にはしらーっとした空気が流れつつある。「ぜーはーぜーはー…何で呼んだのに来ないんだい、あいつは~っ!」『何時もは呼んでもいない時に現れるくせにー!』とか思いながら、イザベラは虚空に向かって絶叫する。「東薔薇騎士バッソ・カステルモール、参上仕りました。」同時に、すぐ背後からカステルモールの声が聞こえたのだった。「うひゃあああああああぁぁぁぁぁっ!?」イザベラは変な声を上げて、飛び上がる。そしてくるりと振り返って、真っ赤な顔でカステルモールを指さした。「あ、あなたねっ!?」「素が出ておりますぞ~…いと麗しき殿下。」あわてるイザベラに、カステルモールは唇を詠まれないようにイザベラの体を使ってタバサの死角としてから、タバサに聞こえないようにこっそりとそう呟いた。イザベラは一瞬口を押えてから、ガラの悪そうな声で吠える。「あ…あ、あ、あんた、無礼にも程があるよ!」「申し訳ありませぬ、魔法の誤差に御座いますれば。」澄まし顔でしれっと言ってのけるカステルモールに、イザベラは内心『後で覚えてなさいよー』とか思いつつ、チッと舌打ちをする。それを見てカステルモールは、こっそりと口の端を緩ませた。「誤差なら仕方がないね…カステルモール、この人形に化粧を。」「御意。」カステルモールは頷くと、ぶつぶつと呪文を唱え始める。風と水の作用によって光を歪め、幻の像を作り上げる魔法…ただし、顔限定。スクウェアクラス相当でもないとコントロールが難しい、物凄く高度な魔法の一つである…ただし、顔限定。「フェイス・チェンジ。」顔の容貌だけを変える事が出来る魔法で、やろうと思えば筋肉ムキムキのオッサンにルイズの可愛らしい顔を張り付けた上でダブルバイセップスとかをイイ笑顔でさせる事も出来る…誰もしないと思うが。見ただけで吐きそうな悪夢の光景だが、この魔法の欠点は文字通り顔しか変えられない点にあるのだ。高度な割に効果がショボいので、効果を絞った上で誰でも何時でも使用できるマジックアイテムを各国ともに開発済みではあったりする。「…同じ顔な筈なのに、雰囲気が随分と違うねぇ。」イザベラは鑑に映る自分のしかめっ面と、自分の顔に変化したタバサの無表情っぷりを比べて、首を傾げた。フェイスチェンジは、かけられた相手の表情をトレースするので、元々無表情なタバサをイザベラの顔にしても、矢張り無表情なイザベラになる。「人形、笑いなさい。」「ん…。」タバサが笑うと、物凄く引き攣った笑顔を浮かべたイザベラが出来上がった。そんなタバサを見て『ううっ…あの笑顔の眩しかったロッテが…』とか、心の中で涙するイザベラ。「まあ仕方が無いか…澄ましていた方が、御姫様らしく見えるだろうしね。」とはいえ、そんな心の内は表情にも出さずに、イザベラは呆れた様な表情を浮かべてタバサを莫迦にする。タバサも内心怒っているだろうに、表情を一切変えない。お互いに己の心の中を見せるべき時点以外には、一切表情にも行動にも出さないという点で、まさしく血の為せる業と言えるかもしれない。ガリア王家の純粋に濁りきった血の。「…さて。」数時間後、ケティは塩辛い干し肉をガジガジ齧りつつ、シルフィードの背中に寝転がっていた。顔にはゴキブリ型探索ガーゴイルのモニターであり操作機器でもある眼鏡をかけている。「タバサが何時まで経っても見つからないわけですが。」「きゅい?何で腹黒娘だけ干し肉食べているのね…?」恨めしそうな声で、シルフィードはケティに問いかける。「シルフィードはさっき食べたではありませんか、ザリガニを。」「干し肉を持っているとは聞いていないのね。」竜族は体が大きい分だけ、沢山食べないといけないらしい。「私だってお腹は空きます。 しかもこれ、保存性最優先なので滅茶苦茶塩辛い上に、ワインも無いのですよ? ぶっちゃけ空腹を紛らわすくらいの効果しかありません。」「空腹が紛らわせられれば構わないのね。 ほれ寄こしなさい腹黒娘、きゅいきゅい。」ケティのそばに首を回してあんぐりと口を開け、シルフィードはそう要求した。「仕方がありませんね…。」ケティは溜息を吐くと干し肉を一切れ、シルフィードの口に放り込む。「わーい、干し肉なのね…って!きゅいぃっ!? 塩辛いっ!?塩辛いというか、塩そのものなのね!」「だから言ったでしょう、保存性最優先で滅茶苦茶塩辛いって。」塩辛さに悶絶するシルフィードに、ケティは干し肉をガジガジ齧りつつ言う。「それ本当は私みたいに、ちょっとずつガジガジやるものなのですよ。 と言うか、本来は水に数時間つけて戻してから食べるものです。 そもそも食事時に手を使わない種族には、ちと向かない食べ物ですね、おほほ。」「それを先に言うのね!?」シルフィードの抗議にも、ケティは涼しい顔で干し肉を齧り続ける。「言ったでしょう?滅茶苦茶塩辛いって。 ああ、塩辛い塩辛い。」「きゅい!そんな平気な顔で食べていたら、誰でも大丈夫だと思うのね!」シルフィードはブレスでも吹きかねない勢いで怒るが、探索ガーゴイル用モニターの眼鏡を装着しているケティにはそんな彼女の表情は見えない。見えたとしても、平然としてはいるだろうが。「タバサが美味しそうにモリモリ喰らうハシバミ草は、断固として食べない癖に?」「アレが悶絶する程渋苦いのは、もとより承知なのねっ!」「おお、成程。」ケティはコクリと頷いて、シルフィードの口の中に何かを放り込んだ。「きゅい…何か、甘いのね。」「取って置きの飴ですよ、それで塩っ辛さを中和してください…とはいえ、シルフィードの口には小さ過ぎますが、それで我慢なさい。」そう言って、ケティは再びゴロリとシルフィードの背に寝転がる。「案外良い奴なのね、腹黒娘。」「ああ、ひもじい…。」ケティのお腹が『ぐー』…と鳴る。「へっへっへ、姉ちゃん。 耐えていても、体は素直だなぁ。」「くっ…悔しい、でもお腹が、お腹がっっ!?」「きゅい、何で声色変えてシルフィの背中で一人芝居やっているのね?」急に一人芝居を始めたケティに、シルフィードは呆れたような声をかける。「何とか空腹を紛らわそうかと思いまして。」「無駄な抵抗なのね…案外アホね、腹黒娘。」「ほっといて下さい…お、やっと見つかりました…。」ケティは寝転がりつつも、偵察用ゴキブリ型ガーゴイルを操っていた。実は、カステルモールと話している間にゴキブリガーゴイルがタバサの服が入った籠と一緒に別の場所に運ばれてしまい、しばらくの間何処に居るのだかわからない状態になっていたのだ。そして何とか執務室を見つけて再侵入したのだった。「ふむー?何故にデコ姫が二人?」ケティの視界に入って来たのは二人のイザベラだった。胸の有るイザベラと、見事なまでに胸の無いちっこい無表情なイザベラ…。「あー…片方は、フェイスチェンジで顔を変えたタバサですか。 しかし、何故にデコ姫に?」事情はある程度理解出来たものの、不可解な光景にタバサは首を傾げる。「デコが二人とか、嫌な光景なのね…。 これ腹黒娘、その眼鏡をちょっと貸しなさい。」 「そのでかい頭の何処に、この眼鏡をかけられる余地があるというのですか?」ケティがそう言うと、シルフィードはフフンと鼻を鳴らす。「ふっふっふ、シルフィがただの喋って歌える陽気な風竜では無いという所を見せてあげるのね。 韻竜が韻竜たる所以、とくとその身で味わいなさい。 くるるるるるるるる…きゅるるるるるるるる…。」シルフィードが不思議な囀りを始めると同時にその体が光を纏い…ケティの背中から、急に竜のごつごつとしながら微妙に柔らかい感触が消滅した。「にょわ!?」「ぐえ…。」そして、何かグニャッとしたものの上に落下したのだった。「に、人間の体で受け止めると、結構重いのね、腹黒娘…。」「重いとか失礼な。 そもそも、私を降ろしてからやれば良かったではありませんか…。」下敷きになった青銀髪の美少女に、ケティは話しかけつつ落下の衝撃で思い切りずれた眼鏡を外しながら起き上った。「きゅい…予想はしていたけど、全く動じないのね。」勿論、シルフィードが人間に変身出来る事を知っているケティは、普通のハルケギニア人ほどは驚かない。むしろ、感心していた。「いやいや、良く出来ているものですよ。 おおう、良い弾力ですね、グッドです。」「何で、人間はこれを見るとすぐ揉むのね…。」感心した表情で自分の胸を揉んで感触を確かめているケティに、シルフィードは呆れた視線を送る。「物理的、生物学的に無茶苦茶やっているのですが…。 まあ、ファンタジー世界の幻獣相手にそれを語ってもしょうがありませんよね。 文献によると、人に変身した竜と人が子を生したなんて話もありますし…自分も魔法を使っておいてなんですが、いったいどういう原理なのでしょうね、魔法って。 科学的アプローチを取り入れると威力が上がるという事は、これは物理的に起こりうる事象という事なのか、むむむ…。」「何がむむむだ…というか、腹黒娘が話している内容が、小難し過ぎてさっぱりなのね…。」自分の胸を揉みつつ頭を捻るケティを見ながら、シルフィードは首を傾げた「兎に角、その眼鏡を寄越すのね腹黒娘。」「をう!?」シルフィードはケティから眼鏡を取り上げた。「でゅわ、なのね。」そして、妙な掛け声とともに顔に装着する。「おー、確かにデコが二人なのね。 でも、あからさまにちっこいから、お姉さまってバレバレよ、きゅい。 人間が使う変身魔法はチャチいのね。」「ですよねぇ…もう良いでしょう、返して下さい。」ケティは眼鏡に手を伸ばすが、シルフィードはひょいと避けた。「きゅい、普段見られないような狭い場所に行けるのね、面白いのね、これ!」「そろそろ返し…にょ!?返して…にょわ!?なんか素早い!?」ケティが取り返そうとするが、シルフィードはささっと避けてしまう。「きゅいきゅい、お姉さまなら兎に角、魔法を使わない腹黒娘程度に後れは取らないのね。」「ふにゃ~、にゃ~、返して下さい~。」何だかんだで素体が竜なだけあって、変身してもシルフィードの動きは速い。普通よりちょっと動ける程度のケティでは、なかなか対抗できるものでは無かった。「お、デコがどっか行ったのね。 そりゃ、飛ぶのねゴキブリ!」シルフィードの掛け声とともに、ゴキブリガーゴイルは羽を広げてゴキブリそのままにブブブと飛び立った…ゴキブリ嫌いの人にとっては、悪夢の如き光景である。「おねえさま~。」シルフィードの操作するゴキブリガーゴイルは、そのままタバサの方に向かって飛んでいく。勿論それがガーゴイルである事をタバサは知らないので、何だか知らんがゴキブリが自分の所に向かって一直線に飛んで来ているようにしか見えない。「てい。」タバサは、そのゴキブリガーゴイルを問答無用で叩き落とそうとした。「きゅい!?何するのねお姉さま!?」しかし、現在ゴキブリガーゴイルはシルフィードの魔力によって稼働しており、風韻竜の魔力に呼ばれて集まった風の精霊の加護を受けていた、無駄に。その御蔭で、ゴキブリとしては有り得ない機動でタバサの杖の一撃を避ける。「…生意気。」「きゅいきゅい!何かお姉さまが闘志に燃えているのね!?」ブンブンと振りまわされる杖を必死で避けながら、シルフィードが悲鳴を上げた。「ど、どうしたのですか?」わたわたと慌て出したシルフィードに、ケティが声をかける。「お姉さまに近づいたら、いきなり杖を振り回し始めたのね!?」「ゴキブリの姿で近づいたら、そりゃ叩き潰そうとするでしょう!?」自分に向かって一直線にゴキブリが飛んできたら、叩き落とすのは当然である。潰れたらばっちいが、後で洗えば良い。「どどどどうすればいいのねっ!?」「その眼鏡の右側についている突起に触れれば、声を届けられます!」ケティにそう言われ、シルフィードは慌てて眼鏡の突起に触れた。『お姉さまっ!』「シルフィード?」ゴキブリから突如聞こえた声に、タバサは杖を振り回すのを止めた。「そ、そうなのね! だから、その物騒なものは仕舞って下さい、きゅい。」シルフィードはタバサに声が届いた事に安心し、肩を撫で下ろす。「韻ゴキブリ?」「そんな妙な生き物にはなっていないのね!」首を傾げて訊ねるタバサに、シルフィードは全力でツッコミ返した。「これは腹黒娘の持っていたガーゴイルなのね、きゅいきゅい! 韻ゴキブリとか、お姉さま酷い!」「ガーゴイル…成程。」ケティなら、そういう妙な魔法道具を持っていても不思議じゃないと、納得出来てしまうタバサだった。「ケティに替わって。」「きゅい、その前に何処かに着陸しなきゃなのね。」シルフィードは、ゴキブリガーゴイルをタバサの冠の上に着地させた。「これで良し。」「良くない。」タバサは無表情かつ即座に、ゴキブリゴーレムを冠から払い落した。冠越しとはいえ、幾らなんでもゴキブリに乗られるのは嫌だったのだろう。「きゅい…心が狭いのね、お姉さま。 んじゃ腹黒娘、変わるのね。」「はいはい…んにょわ!?」視界の上と下がいきなり入れ替わった為に、眼鏡をかけたケティが腰を抜かしてずっこけた。「何でいきなりよろめいてるのね、腹黒娘!?」「ど、どうして天地がひっくり返っているのですか~…。」ケティはずっこけたまま、ゴキブリガーゴイルの羽を広げて羽ばたかせ、軽く飛び上がって上下反転状態を修正した。「やれやれ…タバサ~?」「ん。」タバサはケティinゴキブリを摘まみ上げて、掌に乗せた。「説明願います。」「ん…少々世界の法則が乱れる。」それからタバサは今回の任務で自分がイザベラの影武者とされた事、アルトーワ伯爵ことシャルル・フェルディナン・ダルトーワという謀反の疑いがかかっている貴族の所へ視察に赴く事などを告げた。長台詞だったので、世界の法則が乱れてそのあたりは省略である。「しかしアルトーワ伯爵家とは…うちのお隣さんではありませんか。」「そうなの?」タバサは首を傾げて、ゴキブリinケティに訊ねた。アルトーワ伯爵領は、ガリア側にあるラ・ロッタ男爵領と一部を接する貴族家である。とはいえ、ガリア王国とラ・ロッタ男爵家(の領地の中に棲んでいるジャイアント・ホーネット)は継続的に6000年間に渡って戦争中な為、直接の付き合いは無いが。「ええ…そもそもあの家、タバサの親戚でしょうに。 あの家には、タバサの曽祖父であるユーグ12世王の娘が嫁いでいる筈ですよ。」「そうなの?」タバサは更に首を傾げて、もう一度ゴキブリinケティに訊ねる。ぶっちゃけ、ガリア王家は何だかんだで親戚だらけなので、タバサ自身誰が自分の親戚かなんて全然把握していなかった。そもそも今まで興味を持った事が無かったので、仕方が無いともいえる。「ええ、そんなこんなでガリアへの忠誠厚き貴族の筈です。 当代当主は宮廷でのアレコレに若い頃に巻き込まれ嫌気がさして領地に引っ込み、それ以後は領地経営に力を入れている御方ですから、シャルル派でもジョゼフ派でもない中立だとも聞いています。」「…聞いていた話と全然違う。」タバサの聞いた話では宮廷に参内しないわ、税金は払わないわでどう考えても不良貴族だったのだが、ケティの話だと領地経営に励む善良な貴族らしく、双方が持ってきた情報のギャップが酷かった。そしてここまでギャップが酷い場合、どちらかが完全に間違いの情報だという事でもある。「勿論これに関して私が知っている情報は、飽く迄表面的な情報のみで突っ込んで調べたわけではないので、全て鵜呑みにしてはいけませんよ?」「ん…でも、参考になった。」タバサはコクリと頷く。「さて…タバサがそこから自由に動けなくなった以上、私達は別行動という事になりますね。」「ん。」「仕方が無い…そのゴキブリ、通信手段として使うので大事に懐にでも仕舞っておいて下さい。」「ちょっと嫌。」ケティの言葉に、タバサの眉が微かに顰められた。「あー…その気持ちは何となくわかりますけど、我慢してください。」「ん。」タバサは眉を顰めたまま、懐にゴキブリガーゴイルを仕舞った。「では、また後で連絡します。 話す前に振動するようにしますので、駄目な時は1回突いてください。 そして、大丈夫な時は3回突いてください。 では、場所を落ち着けたらまた連絡します…。」「ん。」タバサは頷くと懐の中にあるゴキブリガーゴイルを軽く握った。感触こそ何か微妙に嫌だが、彼女にはそれが妙に心強くも感じられるのだった。「…と、まあ、そんなわけでして。」「何でシルフィの断りなく、お姉さまとのお話を打ち切ってるのね、腹黒娘?」シルフィードは、人間形態のままケティの頭に噛り付いた。「あいたたた!? どこの真っ白修道女ですか、貴方は!?」「きしゃー!修道女は大抵真っ白なのね!」キリスト教が無い為に『清貧』という概念が欧州ほどには根付いていないハルケギニアに於いて、司祭や尼に求められるものは信仰は勿論として『清潔』もある。清め祓い整える…という、微妙に日本っぽい宗教概念があるのだ。故に教会に所属する物達は風呂に入り、毎日きちんと洗濯された清潔な服に身を包むのが宗教儀式のひとつとなっている。それを示す為に、教会の人間の装束は清潔を証明する『白』なのだ。「いたたたたたた! 止めて下さい、私は『不幸だ』が口癖の矢鱈と頑丈な人じゃないんですから、禿げちゃいます!」「きしゃー!きしゃー!」そんなに強く噛んでいるわけではなく、よって傷が出来ているわけではないものの、痛いものは痛い。「タバサが暫く別行動になったから、ご飯を奢ってあげようと思ったのに!」「よし!早速行くのね!」シルフィードはケティの頭から瞬時に口を離すと、ケティを引っ張り始めた。「ちょ、待ちなさい!素っ裸でリュティスの街中を歩き回るつもりですか!?」「きゅい?」あわててシルフィードを引き留めるケティの声に、シルフィードは振り返りつつ不思議そうに首を傾げる元々韻竜には服を着る習慣が無いので仕方が無いっちゃ仕方が無いが、だからと言って素っ裸でリュティスを歩かせるわけにはいかないというか、ガリア王家の者に多い青銀色の髪の毛の少女が真っ裸でリュティスに出現したらえらい事になる。「竜の姿に戻って下さい。 幸い私はメイジですから、貴方を私の使い魔だと勝手に誤解させる事が出来ます。 ド田舎なら兎に角、リュティスでメイジが風竜を使い魔にしていても、大混乱を引き起こす程びっくりする人は居ないでしょう。」「なるほど…流石は腹黒娘、見ず知らずの人を騙す気満々なのね。」シルフィードはニヤリと笑うと、感慨深そうな表情を浮かべて頷いた。「使い魔のように見える貴方が、実は私の命令なんかまるで聞かない…なんて、衝撃の事実をわざわざ伝える必要も無いでしょう? まあ兎に角、リュティスの市場で牛か羊でも買いましょうか。」「きゅい、お肉! いっぱいいっぱい食べたいのね! るるるるるるるるるる!」シルフィードが嬉しそうに喉を鳴らすと同時に、変身魔法が解除された。「さあ腹黒娘、さっさと乗りなさい! お肉は待ってくれないのね、きゅい!」「移動する肉とか、何それ怖い…。」妙な感想を浮かべながら、ケティはシルフィードに乗るのだった。