「美味しいですか~?」「きゅい!」リュティスの外れにある上の下クラスのギリギリ貴族用である宿屋に、二人は到着していた。少々値は張るが、貴族用の宿ならば使い魔を宿泊させるスペースも存在するし、例え竜が使い魔であろうが宿の使用人達がメイジと使い魔いうものをよく理解している為、いちいち怯える者も皆無だからだ。ガタイの大きな使い魔を持つ者達は好むと好まざると、こういう宿に泊まらざるを得なかったりする。「リュティスの魚も、なかなかいけるのね。」「空腹は最高のスパイスですからねー。」そこの使い魔用の厩舎にて、ケティは市場で大量に買ってきた魚をシルフィードに食べさせていた。普通に売っている、ごく普通の魚だが、お腹が減っているシルフィードは何を食っても美味いらしい。「ミス・ロシュシュアール!どちらですか、ミス・ロシュシュアール!」「はい、何でしょうか?」宿の使用人の呼ぶ声に、ケティは応えた。ケティは現在、フランソワーズ・アテナイス・ド・ロシュシュアールという偽名でこの宿に泊まっていた。ちなみにロシュシュアール家はガリア中部に領地を構える貴族であるが、フランソワーズ・アテナイスという名の娘は実在しない。貴族を隠すには貴族の中…まあつまり、身分を拝借させて貰っているというわけだった。「矢張りこちらでございましたか、ロシュシュアール伯爵夫人がいらっしゃっております。」「あら、丁度良かった。 こちらにお通しして下さい。」ケティはロシュシュアール伯爵夫人という名前を聞いてにっこり微笑むと頷く。「かしこまりました。」使用人は深々と一礼をし、立ち去った。「…誰なのね、腹黒娘?」シルフィードはこっそりと訊ねる。「ちょっとした『根回し』ですよ。 ガリア貴族のお宅に失礼させていただくには、それなりの準備というものが必要なのです。」「きゅい、何でガリア貴族に知り合いがいるのね?」シルフィードが訝しげにケティに訊ねると、ケティは静かに微笑んだままで口を開く。「幸いな事に、私には姉が沢山居るもので。」「きゅい?」シルフィードが首を傾げると同時に、扉の陰から人影が現れた。「おお!久し振りね我が『娘』よ! 何か私が生んだとは思えないくらい大きい娘だけれども!」「久しぶりです『お母様』!何時も私を生んだとは思えないくらいお若いですわ!」ケティに抱きつきながらそう言う女性に、ケティは抱きつきながら言葉を返す。「きゅい?」シルフィードから見ても、親子というほどの歳の差は感じられない。わけがわからないよという意思を込めて、シルフィードは一声鳴いたのだった。一方、ヴェルサルテイルのプチ・トロワでは。「姫様、御綺麗ですわ~♪」「……………。」無表情なイザベラが、矢鱈とニコニコしたメイドに髪を梳かれていた。勿論、この無表情で全体的にこぢんまりとしたイザベラは、フェイスチェンジで顔を変えられたタバサその人である。「サラサラで良い髪です~♪」「……………。」タバサは表情を変えずにさりげなく体勢を変え、視線をずらして部屋中を観察している。正確には部屋の中にいる使用人を、だが。何故かというと、イザベラは部屋から立ち去る際『私は使用人に変身してあんたについていくからね』と言っていたのだ。言っていたのだが…。「るるるんるん♪こんなリボンも良いかしら~♪」「……………。」正直な話、イザベラが変身しているのがどれなのか、さっぱり見当がつかなかった。まず外していいのは、自分の髪の毛をルンルン鼻歌を歌いながら梳かしているメイドだろうと思っている。タバサにとって、あのイザベラが自分の髪を鼻歌を歌いながら梳いたり、リボンを飾ったりするわけがないのだ。あの自分を何時も可愛がってくれた優しい従姉は、もう何処にも居ない筈なのだから。「はぅん、姫様、いつも以上に愛らしいですわ~♪」「…………ん。」本当なら、ここは形だけでもイザベラらしく我儘に振る舞うべきなのだろうが、この妙なメイドの妙な迫力に押されて、為すがままのタバサであった。「支度はここまでで良い。」「はい、かしこまりました。 馬車を準備してございます、こちらへ。」メイドは恭しくかつ優雅にタバサを促す。凄まじく段取りの良い使用人だが、王宮ならばこの程度はして当たり前でもある。「ん。」タバサはメイドに促されるままに歩き始めた。「ところで。」「はい、何でございましょう、姫様?」メイドはタバサの問いに首を傾げる。「アルトーワ伯爵と領地について詳しい事を知りたい。」「流石姫様ですわ、資料は用意してございます。 馬車に持って行かせますので、中でお読みあそばして下さいませ。」笑顔で頷いたメイドが、他の使用人に声をかける。「姫様の御命令です。 アルトーワ伯領についての資料を馬車まで持ってきてください。」「はっ、姫様のご命令なれば、ただちに。」このガリア王宮に於いて、全ての作業は極めて効率的かつ優雅に執り行われるし、全ての使用人がそうであれと己に任じそのように行動している。王が愚鈍と言われようが、王女が気まぐれ屋で癇癪持ちだろうが、ガリア王国が擁する各機構は未だ健在そのものであったガリア程の大国になれば、たった一代程度王と王女が変であろうが、元々の機構がしっかりとしている為に何事も大して揺るがない。ハルケギニアの絶対的大国ガリアという巨大な機構にとって、王とは国家という機関のいち部品に過ぎないのだ。勿論重要な部品ではあるが、隣国のトリステインほど国王が絶対的に重要ではないし、もう一つの隣国ゲルマニアほど権威が低く不安定でも無い。「貴方が知っている事は?」「失礼ながら、さほど御座いません。 ガリア王家から降嫁された御方が昔いらっしゃったとは聞きますが、それくらいですわ。」その情報についてはケティから聞いていたが、タバサはコクリと頷く。「ん…他は?」「そのくらいですわ。 ガリアには沢山の貴族の御方々がいらっしゃいますし、全てを詳しく把握するのは困難でございます。」メイドは申し訳なさそうに謝罪する。「わからないものは仕方が無い。 気にしない。」タバサはメイドを安心させる為に軽く微笑んだ。「はぅん!?」メイドは胸を撃ち抜かれたかのように立ち止まる。そしてうへへへへとか笑い始めた。「どうかした?」「へ!?あ!いいえ!何もっ!」不思議そうに首を傾げたタバサに、メイドは少々慌てた風情でしらばっくれるのだった。舞台はケティが宿泊している宿に戻る。「いきなり手紙で家名を貸してくれと書いてあるのを呼んだ時には、頭がおかしくなったのかと思ったわ。 お陰で、うちの旦那が使ってる竜籠パクって乗る羽目になったのよ。 んー…久し振りの蒲公英茶だわ。」 ケティの淹れた蒲公英茶を飲みながら、ケティに《お母様》と呼ばれた女性は満足そうにうなずいた。「あはは、すいませんビアンカ姉さま。 でも取り敢えず、ガリア貴族っぽく演出する必要がありまして。」「我が妹が間諜の真似とは…まったく、女の子っぽくなったのは外見と仕草だけね。」そう言って、ビアンカ・ド・ロシュシュアール伯爵夫人は溜息を吐いたのだった。彼女はガリアのロシュシュアール伯爵家に嫁いだケティの姉である。「だいたい、うちの家名を名乗るけど、もしもの事があった時には関係無いと言い張ってくれってったってね…。」「迷惑をかける相手は最低限にしておこうと思いまして。 ビアンカ姉さまなら、予め言っておく事も出来ますしね。」王女の行啓となると祝宴がつきもの。実際にアルトーワ伯爵家ではイザベラの行啓を祝って宴を開くという事を既に様々な貴族家領に連絡していた為、ケティはそれに便乗して侵入しようとしているのだ。…とはいえ、どこの馬の骨だという家名では侵入は困難である。かといって、見ず知らずの領地持ち貴族の家名を勝手に借りるというのは非常に失礼だし、もしも実際に来ている貴族とかぶったらまずい。そんなわけで、領地持ち貴族としてはそこそこの規模を持ちネームバリューもそこそこで、かつ姉が嫁いでいるロシュシュアール家の家名を姉と調整した上で借りようと考えたのだった。「それにしても、アルトーワ伯爵家に侵入って、何する気? スパイにしたって、宮廷離れてはや数十年っていう家よ?」「そうなのですよねぇ、どう考えてもあんな家が疑われる筈が無いのですが…。」ケティの知っている情報の限り、アルトーワ伯爵家は無軌道に謀反を起こすような家では決して無い。むしろ、国境に領地を持つ貴族であるが故に、ガリアへの忠誠は非常に高い。故に、あの家が謀反を起こすから監査するなどという情報は、彼女にとって意味不明なのだ。「疑われるって、どういう事?」「あー…いや、実は友人が今回イザベラ王女殿下の影武者やっていまして。」ケティはそれからタバサというシュヴァリエの少女がケティの友人である事と、その彼女が今回王女の影武者をやっている事、今回の任務が貴族家への監査でもある事など、話せる部分だけをビアンカに伝えたのだった。「あの癇癪持ちの王女殿下の影武者…貴方もまた随分と難儀な友人を持ったわねぇ。 でもまあそういう事ならガリアの問題でもあるわね、旦那には私から言っておくわ。 頑張りなさい、フランソワーズ・アテナイス・ド・ロシュシュアール。」「有り難うございます、ビアンカ姉さ…。」「まあそんなわけで、エギンハイムの材木の件…うちにも一口かませなさい。」礼を言おうとしたケティの言葉を遮って、ビアンカはそう言ったのだった。「ありゃ、御存知でしたか?」「ええ、貴方の子分達が、あそこで色々やっているのは知っているわ。 うちも山が結構あるから、興味あるわね。」ビアンカはそう言うと、ケティに向けてニヤリと笑みを浮かべる。「言っておきますが、モノになるかはまだまだ未知数ですよ? そもそも木が出荷可能な大きさまで育つには、人の一生に近い時間が必要なのですから。」「それでもやるって事は、そのくらいの時間をかけても大丈夫な状況を作り出すんでしょう? ねえ、ガキ大将のケティくん?」そう言いながらイイ笑顔を浮かべるビアンカに、『流石我が姉、今の私の性格は間違いなく結構な部分が遺伝ですね』とか思いつつ、ケティは溜息を吐いた。「はぁ…まあ、ビアンカ姉さまのとこなら仕方がありませんか。 子孫の儲けは減りますが、ハルケギニアの森林を消滅させない為にも、何れは広めなきゃいけませんしね。」「素直でよろしい。 それにしても、『ハルケギニアの森林を消滅させない為』ねえ。 本当にそんな事が起こるとでも思っているの?」そう言ったビアンカに、ケティは重々しく頷く。「ええ、うちの書庫にあった6000年分の古地図を照らし合わせたら、仰天しますよ。 このハルケギニアは始祖光臨の頃と比べると、既に殆ど森がありません。」「この状態で殆ど無いって、昔はどんなんだったのよ?」蒲公英茶を淹れ直しながら、ビアンカはケティに訊ねる。「トリスタニアやリュティスやロマリア等の主要都市を除くと殆ど森です。 ゲルマニアなんか完全に森で、影も形もありません。 その広大な森を数百世代かけて切り倒し、その跡を畑へと変えて行って出来上がったのが、現在のハルケギニアなのですよ。」「それが限界に近付きつつあるのね?」ビアンカの問いに、ケティは首を横に振った。「いや、もう限界です。 特にガリアやトリステインに至っては、平地を切り開き、丘陵地帯を切り開き、既に山岳地帯にしか森が残っていません。 山岳で畑に出来るような場所は殆どありませんから、その大半が禿山と化します。 そして禿山が元の姿に戻るには、百年以上の時間を要しますから…このままの調子で木を切り続けると、後200年程度で商業として伐採できる森が殆ど無くなります。」「そうなると、大量の森が残っているラ・ロッタに目をつける者が出てくるわけね。」ビアンカはケティの話を聞いて、溜息を吐く。「はぁ…それは不幸な衝突になりそうね。 蜂の子達がさぞかし肥える事でしょう。」「そういう事です。 そしてその手の不幸な衝突は出来得る限り避けるべきですし、そもそも私達ラ・ロッタが山の女王と人間の双方に期待されているのもそういう役割なのですよね。 だからこその営林技術ですよ、今からやっておけば私が寿命で召される頃までには技術がモノになっている筈です。」ケティは蒲公英茶をひとくち口に含み、言葉を進める。「エギンハイムの樵たちは、現在翼人と一緒に営林事業を行っています。 ロシュシュアール領に亜人は?」「生憎、この前オークがやって来たから焼いてきたばかりよ。」ビアンカは吐き捨てるようにそう言った。オークとは《粗暴、人を食う、繁殖に人や亜人の女性を使う》と害ばかりが三点揃った、人類と…特に女性とはどうにも相容れそうにない亜人である。「亜人は亜人でも、そりゃ無理ですね…まあ、翼人が居なくても山の知識が豊富な人が居ればできます。 後で商会の人間を遣わしますので、エギンハイムに研修に行かせる人員を選定しておいてください。」「わかったわ、早めにお願いね。 それと、うちに来ている筈の招待状をここに送るから、届くまで待っていて。 あー…あと、もう一つ要求があるわ。」ビアンカはそう言うと、悪戯っぽく微笑む。「蒲公英茶、送って頂戴。」「その程度であれば、お安い御用なのです。」ケティは笑顔でにっこりと頷いたのだった。「…流石腹黒娘の姉、腹黒だったのね。 腹黒娘の家はきっと、権謀術数渦巻く悪の巣窟に決まってます、きゅい。」ビアンカが帰った後、シルフィードがそうボソリと語る。「人の家を伏魔殿みたいな表現で呼ばないでください。 私の実家は基本的に牧歌的な、平和な田舎なのですよ。」「何でそんなのんびりした家で、腹黒娘やあの腹黒姉みたいのが育つのね…?」ケティの言葉に、心底不思議そうな表情を浮かべるシルフィード。「ぐは…世の中には言葉を話す竜も居れば、牧歌的な田舎で育ったのに何故か性格が捻くれている人もいるのですよ。」シルフィードの言葉がグサッと刺さったらしく、ケティの動きが止まる。そもそもビアンカがロシュシュアール家に嫁いだのはケティがまだ幼児の頃な上に、ガリアからではそうそう遊びに来る事も出来ないので、ビアンカ自身がケティの影響を受けている可能性は、まず無い。無いのに結構黒いという事は、そういう性格になりやすい環境とか遺伝とかがラ・ロッタ自体にあるという事に他ならなかった。「きゅい、韻竜とその腹黒を同列に並べないでほしいのね。 それにしても、性格が捻くれている事は認めるのね、きゅいきゅい。」「勿論、自覚しています。」笑うシルフィードの言葉に、拗ねた表情を浮かべてケティは返答した。「さて、明日はアルトーワまでひとっ飛びして貰いますよ。 タバサの為ですから、頑張ってください。」「何か腹黒娘の使い魔みたいで癪だけど…お姉さまの為だし、仕方が無いから乗せてやるのね。」シルフィードはそう言うと、ぐるりと体を丸める。明日の為に、もう眠るつもりらしい。「おやすみ腹黒娘。」「はい、おやすみなさい、シルフィード。 …さて、トリスタニアに手紙でも書きますか。」目を閉じたシルフィードに背を向け、ケティは部屋へと戻った。部屋の明かりは暫くの間灯された後、消えたのだった。王女の旅行…行啓というものは、目的地までの行程を領地とする貴族と臣民に王族の権威と権勢を示す為の政治的ショーであり儀式である。まあ要するに、わざわざ日数をかけて馬車でゆっくり向かわなければいけないというしきたりがあるのだ。そんなわけで、かなり暇だったりする。「はい、姫様、あーんです。」「……………。」アルトーワ伯領への道中の馬車の中、タバサは相変わらず専属メイドと思われる少女に激甘接待を受けていた。「あーんしてください。」「……………。」イザベラが普段メイドにこんな事させているのかと思うと、少々背筋が寒いタバサである。まさかまさかだが、こんな事をする任務が来たら、何とか母を連れて何処かへ逃れられないかと考える。(ケティの故郷のラ・ロッタであれば、エルフだろうが追って来られないかも知れない。 あの家は嫡子が妻を迎える事で外からの血を取り入れている。 それはつまり、ラ・ロッタの生まれではなくても蜂の餌食にならない手段が存在するという事。)「あーん。」タバサがいざとなったらケティの弟に嫁ごうかとか、そんな事を考えている間にメイドが切り分けたケーキをタバサの口元まで運んできていた。「…いらない。」取り敢えず、やり過ぎだと思ったのでタバサはズバッと断ったのだが…。「えっ…。」メイドが悲しそうな顔で目を潤ませた。「…姫様、もしかして私の事がお気に召しませんか?」現在、王族用の大型馬車の中に居るのはタバサとメイドだけ、つまりタバサの他には半泣きのメイドしか居ないということである。いくらタバサと言えど、気まずい、めっちゃ気まずい。「…あーん。」涙目のメイドとのにらめっこに負けたタバサは、仕方無く口を開けた。メイドに不審に思われるのも困るし、何よりこのような場で泣きそうな娘を放って置ける程冷酷には徹せない。「はい、姫様!」さっきの涙は何処へやら、満面の笑みでメイドはタバサの口にケーキを運んだ。《騙された?》とか思いながら、タバサはケーキを咀嚼する。「お…お味はいかがでしょう?」「ん、美味しい。」美味しいだけではなく、それは何となく懐かしい感じのする味だった。何処で食べたのが思い出せないが、懐かしい味。「姫様、もう一口いかがでしょう?」「ん。」どうしてもそれが気になったタバサは、もう一度口を開ける。それを何度か繰り返し…。「…けぷ。」何時の間にやら1ホールを丸ごと平らげていた…まあ、タバサにしてみれば、いつもの出来事だが。「おかわり。」「もう、ありませんわ。」平然とした表情でおかわりを要求するタバサに、メイドは苦笑を浮かべて首を横に振る。「…残念。」もうちょっと食べたら何か思い出せそうなのになーと、そんな事を思いながらタバサは肩を落とした。一方、ケティとシルフィードは一足先にアルトーワ伯領の中心都市グルノープルに到着し、郊外の林の中でキャンプを設営していた。まあキャンプとはいっても、林の中に流れている町へと流れ込む川のそばにテントを張っただけなのだが。「何で、宿に泊まらずにこんな所で野宿なのね?」シルフィードはケティを不思議そうに見た。「ロシュシュアール家の令嬢(偽)が、グルノーブルの街中に風竜に乗って颯爽と登場したら、いくらなんでも目立ち過ぎますから。 今日は野宿してほとぼりを冷ました後、明日馬車を借りてアルトーワ伯の館に行く事にします。 シルフィードは街の上でものんびり飛んでいてください。」「何で、変身してついて行っちゃ駄目なのね?」シルフィードは小首を傾げてケティに訊ねる。「貴方を連れて行くとなると、私の随行員のフリをさせなければいけないわけですが…シルフィードじゃ無理でしょう?」「シルフィ、そのくらい出来るのね。 腹黒娘は風韻竜を舐め過ぎです、きゅい。」「ほほう。」エヘンと胸を張るシルフィードに、ケティは冷めた視線を送る。「…何なのね、その視線は?」「シルフィード、例えばセレモニーの最中、貴方の目の前に沢山の御馳走が並んでいたら、どうしますか?」ケティはにっこりと、シルフィードにそう訊ねた。「勿論、遠慮無く頂くのね。 くっちゃべる人間のおっさんになんか興味無いです、きゅい。」「ブブー!シルフィード、アウトー!」ケティは胸の前で腕をビシィとクロスさせた。「何でなのね!?」「お前のような随行員が居るかー!?なのですよ。 基本、随行員は御馳走があっても食べちゃ駄目です。」胸の前でペケの字にクロスした腕を、シルフィードの鼻先に押しつけるケティ。「きゅい!?そ、そんな殺生な!? 御馳走を前に指咥えて見ていろとか、外道、人間は外道なのね!きゅいきゅい!」「…そんなんなるから、随行員は無理なのですよ、わかりましたか?」首を振って抗議するシルフィードに、ケティは静かな口調でそう告げた。「きゅい…が、我慢するのね?」シルフィードは小首を傾げて可愛らしく宣言してみた。「おほほほほ…我慢出来るかどうか、自問してみてください。」「きゅ、きゅい…出来ません、ごめんなさい。」してみたが、ケティの何時もながら妙に迫力のある笑顔に気圧されて、素直に謝った。シルフィードにとってはちょっと齧れば、あるいは尻尾で引っ叩いてやればすぐに命を奪えるであろう相手だが、怖いものは怖いのである。「…さて、それはそれとして、です。」ケティは静かに鞄を探ると銃のようなものを取り出し、杖と一緒に構えた。マントの中に忍ばせたガンホルダーにはモーゼルC96M1932が一丁ある…が、実はケティの手には少々余る代物であった。発砲時の反動が大き過ぎて、少女の筋力と体重では吸収しきれないのだ。一度フルオートで試し撃ちした後には腕の筋肉をおかしくし、次の日に右腕を押さえながらモンモランシーの部屋に水の秘薬を買いにいったりもしていた。そんなわけで…あるのにあまり使えない、実用的なものを好むケティにしては珍しい『装飾品』と化している。では今、彼女が構えている『銃のようなもの』とは何かというと、『テイザーM-26』通称《テイザーガン》と呼ばれるワイヤーの付いた針を目標に撃ち出し感電させるスタンガンの一種だった。「これから夕食の仕込みを始めようという忙しい時間帯に、いったいどなたでしょうか?」「ああ、これは失敬。 我が名は、《地下水》と申します。」地下水と名乗った男は、優雅に礼をすると怪訝な表情を浮かべた。そして銃を指さして訊ねる。「それは銃ですか? メイジでありながら、無粋な…。」「森の中で火の魔法を使うと、今夜野営をする場所が無くなりますからね。 己の得意属性ながら、なかなか使いづらいものですよ。」そう思うなら森の中では無く草原で野営すればいいのかもしれないが、草原だと周囲から丸見えなので、色々な意味で困るのである。ケティとて、花も恥じらう乙女であるからして、色々と。「…加勢した方が良い?」「《地下水》と言えば、わざわざ目標に己の存在を知らせに来るという、不可思議な暗殺者としてそこそこ有名です。 ですよね?」シルフィードの問いには答えず、ケティは《地下水》にそう尋ねた。「おや、私も随分と有名になったものだ。」「ゲルマニアで散々大暴れしておいて、有名になったも何も無いでしょう。 名は告げるが顔がコロコロ変わる神出鬼没の暗殺者《地下水》。 あの下半身ばかりが元気なゲルマニア皇帝が貴方を重用していたという噂は、ゲルマニアのみに留まるものではありませんよ?」ゲルマニア皇帝アルブレヒト三世の即位には、血生臭い話が耐えない。もともとゲルマニア皇帝というのは、皇帝の選挙権を持った選帝侯が投票にて選ぶというものであり、アルブレヒト三世自身もライン選帝侯という肩書きを持つ。ライン選帝侯エッツォーネン伯爵家中でも決して序列が高いわけでは無かった彼が、ライン選帝侯へとのし上がった御家騒動に於いて名を残した数人の暗殺者に《地下水》という二つ名を持つ傭兵メイジが居た。水系統の使い手だが毒殺などの手段は使わずに、しかもメイジなのに何故かとどめには刃物を使って、次々とエッツォーネン家の有力者たちを屠って行ったと言われている。メイジであること以外は男なのか女なのか、若者なのか老人なのか、一人なのか複数なのか、まるでわからない…千変万化ともいえる程の定まらない印象で語られる正体不明の暗殺者。ただ一つ共通しているのは、必ず仕事の前には対象の前に姿を現し、その死を告げる事。「貴方の何時ものやり方から察するに、今日は死の宣告にやって来たのでしょう?」「依頼主によっては、それが死の宣告では無い事もあります。」そう言って、《地下水》はクスリと笑ってみせる。「暗殺者の印象が強くなり過ぎていますが、私は飽く迄も傭兵ですので。 依頼とそれに見合った報酬さえいただければ、何でも致します。」「…では、今回の依頼とは?」流石に答えはしないだろうと思いつつも、ケティは《地下水》に訊ねる。「何事も分を弁えよと。」「…ほう。」《地下水》の言葉に、ケティの目が楽しげに細められた。「忠告ありがとうございますとお伝えください。」「かしこまりました、お伝えしておきます。 では、また…。」男は踵を返すと、林の闇の中に消えて行った。「…というわけで、助けはいらないわけですよ、シルフィード?」「それを言うまでの間が長過ぎるのね。 ずーっと威嚇してたこっちの身にもなって欲しいです、きゅいきゅい。」実はケティの後ろで翼を広げて全力で威嚇していたシルフィードだった。まだ幼生とは言え、風竜の威嚇とか一般人なら泣きながら逃げていくレベルだが、流石は名の知れた暗殺者だけあるのか欠片も動揺を見せなかった《地下水》。「これまた、とんでもないのを投入してきましたねぇ…流石はガリアと言うべきか。」ケティは内心の動揺を表に出さないように表情を取り繕う事は出来たものの、背中に浮かぶ冷や汗だけはどうにもならなかった。「今回持ってきたアレコレ、さて、どれだけ役に立つものか…。」そう言って、ゴクリと喉を鳴らす。「…腹黒娘、シルフィはやっぱりついていくのね。」「いやだから、シルフィードには従者とか無理でしょうに。」急にそんな事を言い出したシルフィードに、ケティは先ほどと同じ言葉を返した。「腹黒娘は、時々そーいくふーが足りなくなるのが玉に瑕です、きゅい。 きゅいきゅい、要は人でなけりゃいいのね、喋らないのは何時もの事だし。」「人でない…ああ、あの魔法は人以外にも化けられるのですか?」ケティは合点がいったという表情になり、ポンと相槌を打った。「顔しか変えられない不器用な人間の魔法と、韻竜が行使する精霊の力を一緒にしてもらっちゃ困るのね。 そのくらい、お茶の子さいさいです、きゅい。 きゅるるるるる…くるるるるるるるるるるるる…。」歌うように呪文の詠唱を始めたシルフィードの姿が、どんどん縮んで行く。「にゃー。」そして一声鳴いた。猫だった、鳴き声も完璧に猫だった、だが…。「どうなのね、かんっぺきな変身なのね、きゅいきゅい!」「何処の世界に羽の生えた青い猫がいるというのですか…。」いくらファンタジー世界のハルケギニアとはいえ、背に蝙蝠様の翼が生えた猫という生き物は確認されていない。どう見てもそれは、猫を素体にしたキメラだった。「青い方が格好良いし、翼が生えていた方が便利なのね!」誇らしげに胸を張るような仕草をするシルフィード。青いのは兎に角として、利便性を追求する所はケティに影響されたのだろうか?「いやまあ、空を飛ぶのが普通な貴方にとっては、その方が便利なのでしょうが。」とは言え、使い魔をキメラにしたのだと言えば、それは通らないでもない。使い魔を殺さない範囲での改造を施す主人は、結構存在するからだ。実際、翼の生えた犬や猫のキメラが使い魔になっているメイジは存在する。「…ま、良いでしょう。 この歳で使い魔改造しているとか、ちょっと変な目で見られそうではありますが。」ケティは軽く溜息を吐いてから、降参といった表情で両手を挙げた。「…とりあえず、人の言葉は話さないように。」「合点承知の介なのね、きゅい!」羽の生えた青色の猫に化けたシルフィードは、嬉しそうに一声鳴いたのだった。翌日の午後、4頭立ての馬車がアルトーワ伯爵邸前の車回しを通り、ドアの前に止まる。御者がドアを開き、緑金色の髪を輝かせた少女がロシュシュアール伯爵家の家紋が飾られた馬車から降りて来て、随分と早くやってきた客を出迎えたアルトーワ伯に向かって恭しく礼をした。「ごきげんよう、アルトーワ伯爵様。 フランソワーズ・アテナイス・ド・ロシュシュアールと申します。 此度の当家への御招待、まことに感謝いたしますわ。」髪の毛の色を水の秘薬で変化させているが、そのスッ惚けた表情は間違いなくケティである。腕に抱えられているのは、翼の生えた青い猫…シルフィード。「まさかあのロシュシュアール家からいらして下さる方がいらっしゃるとは、よくぞアルトーワ伯爵領へおいでなされた。 フランソワーズ嬢、歓迎いたしますぞ。」アルトーワ伯の感激っぷりを内心ちょっと申し訳なく思いながら、フランソワーズことケティは微笑んだ。「王女殿下が御行啓あらせられるとは、まこと誉れ高き事。 羨ましゅうございます。」ロシュシュアール伯爵家は、中部ガリアに於いてはそれなりの名家である。何故にトリステインではいち田舎貴族に過ぎないラ・ロッタ男爵家の娘を娶ったのかと言えば、ラ・ロッタ家のネームバリューはむしろガリアに於いての方が高いというのが原因だった。ガリアは何だかんだで何度か両用艦隊を一方的に殲滅されたわけだからして、ラ・ロッタ家自身の低い自己評価とは裏腹に、それなりに知られているわけである。ケティ自身もラ・ロッタの名をガリアで出したら、相手の貴族が背筋をただしたという報告をパウルから受け『何故に噂の中の当家領は、そんなガリアの貴族がシャキッとするような恐怖の大魔境と化しているのですか…』と、頭を抱えていたりする。ラ・ロッタ家領の人達にとっては本当にただの変哲の無い田舎であり、特に怖い場所では無いので、そういう噂を聞くとあまりのギャップに軽いショックすら感じるほどなのだ。「しかし、翼の生えた青い猫とは…。」ケティの腕の中にいるシルフィードを見つけ、アルトーワ伯は珍妙なものを見る目つきで見るが、ケティはその視線をわざと無視して嬉しそうに話す。「おほほ…この子も、翼をとても気に入っておりますのよ。」「きゅいきゅい!」どう聞いても猫の鳴き声ではないが、ここまで変だと既に誰もツッコまないレベルである。シルフィードも嬉しそうなので、アルトーワ伯は『ま、良いか』と、気にしないことにした。「…時にアルトーワ伯爵様のお耳に入れたき事柄が、一つ御座います。 実は、早めに参らせていただいたのは、それをお伝えする為ですの。」ケティは扇子をさっと広げると口元を隠し、目元だけで微笑んでみせる。いかにも秘密の話があるぞという身振りであった。「ほう、私の耳に入れたい事、ですかな?」「はい、今回の御行啓に関しての、宮中に流れる噂に御座います。 なるべく早くお聞かせした方が宜しいかと思いまして、早めに参らせていただきましたの。 出来れば、人払いの出来る場所にて…。」興味津々居聞き返してくるアルトーワ伯に、ケティは意味深な視線を送り続ける。重大な情報だぞ~と、目で訴えかけているのである。「わかりました…こちらへ。」ケティがアルトーワ伯に直接案内された場所は、伯爵の執務室と思しき場所であった。「こちらであれば、外に声が漏れる事はありませぬ。 して、御行啓についての噂とは? 生憎私は宮廷から離れてはや十数年、すっかり宮中の噂には疎くなりましてな。」「王女殿下から税金の滞納などを叱責されたアルトーワ伯爵家が謀反を起こして、トリステインに庇護を求めようとしているという噂ですわ。」どういう話なのか、とんとわからないといった表情のアルトーワ伯に、ケティはそう告げた。「当家がトリステインに寝返るですと!?」アルトーワ伯は仰天の表情を浮かべた。そう、ただ謀反を起こすというのでは、訳が分からないのである。謀反を起こしても、ガリア軍に一瞬で轢き殺されるのは自明の理なのだ。叛乱を起こした貴族に対して派遣された国軍は、基本的に情けも容赦もしない。占領するだけではなく徹底的な略奪と破壊を行い、それによって他の貴族への見せしめとするのである。そうならない為には、隣国の庇護下に入るのが一番手っ取り早い。そしてアルトーワ伯爵家領はトリステインに接する貴族家領であり、トリステインに庇護を求めるのが常識的なのだ。「なんと、とんでもない!とんでもない噂だ! 我がアルトーワ家は、北方ガリアを代々守り続けてきた家であり、王家に杖を向ける事など天地が引っ繰り返ったとしても有得ぬ。 卿は当家を侮辱なさるか!?」「落ち着いてくださいアルトーワ伯爵様。 おかしな噂であるからこそ、誰よりも先回りして卿にお話ししたのです。 ロシュシュアール伯爵家は、遥か古からこの地を守護するアルトーワ伯爵家のガリアへの篤き忠誠を疑う気など微塵も御座いませんわ。」瞬間湯沸かし器のように激高したアルトーワ伯を、ケティはゆっくりと低い声で落ち着かせるように話しかけて宥める。「それは…確かに、そうですな。 しかし、いったい何処からそのような噂が…。」「そこまでは私も存じ上げませんわ。 そもそもガリアとトリステインは古来からの友好国であり、女王陛下も聡明な御方と聞いております。 そのような申し出には乗らないでしょう。」他国の叛乱勢力の領土を抱え込むというのは、その国に喧嘩売っているのと一緒である。ゲルマニアと伝統的に国境紛争を続けているトリステインとしては、ガリアにまで喧嘩を売るわけにはいかない。もしそんな事をすれば、トリステインはガリアにとってのゲルマニアとの間にある緩衝地帯国家という役割を失い、両国によって攻め滅ぼされる運命しかない。それはガリアの貴族であっても容易に想像も理解も出来る事であり、もし想像出来ないとしたら余程の莫迦か、切羽詰って気が触れたものだけであろう。「しかし、これで疑惑は晴れたも同然ですわ。 王女殿下には、私からも言上させて頂く事にいたします。 元々、有得ない噂ですもの、きっとわかってくださいますわ。」「有り難い、助かり申す。」少々疲れた表情で礼をするアルトーワ伯に、少々申し訳ない気持ちを抱きながらケティは頷く。「いえいえ、ガリアへの忠誠篤き貴族として、当然の事をするまでですわ。 ああそうそう、そういえば馬車に荷物を積み込んであるのですけれども、どちらに運べばいいのでしょう?」「おお、それでは部屋を用意させまする。 使用人を何人か遣わしますので、お待ちくだされ…。」ケティはこうしてアルトーワ伯爵邸への潜入に成功した。ケティの持つ数々の『荷物』とともに。