「あばばばばばばばばば!?」深夜、アルトーワ伯爵邸に妙な悲鳴が響き渡る。「おや?」ケティは、寝ぼけ顔でベッドからムクリと起き上がった。そしてドアの方に向かい、厚手のゴム手袋を装着してから、とある仕掛けを解除してドアを開ける。「今晩は。」ケティが挨拶した方向には、人っぽい形をした何かが蠢いている。「あばばばば…。」ナイフを持ち覆面を被った人物が、ピクピクいいながら伸びていた。「いやー、家庭用蓄電池って、本当に便利ですねぇ。」どうやらドアノブに、握ると同時に100V電流が流れる細工を施していたらしい。「何か一箇所だけ妙に硬いものがめり込んで来ると思ったら、そんなものを乗せていたのね。」翼の生えた青い猫に化けているシルフィードが、ケティの肩に乗って小さな声でそう囁いた。「そりゃまあ、これ一つでタバサ5人分くらいありますからね。 重いと思いますよ。」「なんつうものをシルフィの背中に乗せるのね、この腹黒娘は…。」シルフィードはジト目でケティを睨んだ。「しかし…これはいったい、何処の世界の日本から流れてきたのでしょうね? 100V大容量家庭用蓄電池って、高いでしょうに。」「無視なのね!? しかも、またわけのわからない事をブツブツと。」何か武器と一緒に世界扉に巻き込まれたものらしいが、ケティとしては大容量蓄電池が家庭で必要になる状況というものが、どういうものか理解できなかった。「それはそうとして…バインド。」ケティは紐にバインドの魔法をかけ、倒れている人物をぐるぐる巻きに拘束した。「随分と呆気無い…とは言え、一人とは限らないのでしたか?」「何事で御座いますかー!?」廊下の向こうから複数のランプの光と、駆け寄って来る人影が見える。「こちらですわー!」「ミス・ロシュシュアール、いったい如何なさいましたか!?」人影は、先程の悲鳴を聞きつけてやってきた使用人達であった。「賊のようですが、気絶させました。 バインドで縛りつけましたけれども、ナイフを持っているので気を付けて。」「賊ですと!?」ケティが指す方向にバインドで縛りつけた人物を見つけ、使用人たちはその人物を囲んだ。「覆面か、顔を改めさせてもらう。」使用人の一人で警備担当も兼ねていると思しき体格の良い男が、ぐるぐる巻きにされた人物に近づき覆面を剥ぎ取った。「不埒な奴め、いったい何も…ピエール!?」「ピエールだと!?」使用人たちが見知った人物らしく、動揺した声がケティの耳にも入ってきた。「…御知り合いでして?」「あ…ああ、はい。こやつは、うちの使用人のピエールです。 いつもひょうきんな良い奴なんですが…何故、ミス・ロシュシュアールの部屋にナイフを持って…?」首を傾げる使用人たちの姿を見て、ケティは首を傾げる。(ここの使用人…とは言え、何故かナイフを持ってこの部屋にやって来たのは事実なのですよね? はて?《地下水》といえばゲルマニアの傭兵で、実は集団であってもこんなド田舎に休眠工作員を仕込むような、そんな国家規模の諜報組織でもやらない程の暇な真似を出来ますか…?)「それは流石に、物理的に無理ですよねぇ…。」推理してみたものの思考が行き止まりに到達し、ケティは思わず一言ボソッと漏らす。「どうかなさいましたか?」「い、いいえ、何でもありませんわ、おほほ。」ケティの独り言に気づいた使用人が不思議そうに聞き返してきたのを、ケティは笑って誤魔化した。「何をしたかったのか知らんが、牢に入れてから話を聞かねばな…よし、そっち持ったな。 持ち上げるぞ、せーの。」意識が無いピエールという名前らしい使用人を、体格の良い使用人が二人がかりで持ち上げた。縛られたピエールの手から、ナイフが外れ落ちる。「おっ、ナイフが落ちたわ。」それを、若い女性の使用人が拾い上げた。そして、不思議そうなものを見る目でナイフを見つめる。「エジェリー、それを何処かに片付けておいてくれ。」「………………。」エジェリーと呼ばれた若い女性の使用人は、ナイフをじっと見詰めている。(…んー? 働けど、我が暮らし楽にならざり…と言うわけでも無さそうな雰囲気が。)ちょっとアホな事を考えつつ、ケティは目を細める。「エジェリー?」「…ああ、ごめんなさい。 かしこまりました。」エジェリーは曖昧な笑みを浮かべて、その場を立ち去った。ケティは、その後姿を興味深げに眺める。「からくりが、いまいちはっきりしませんね…そのピエールさん、これから尋問を?」「い、いいえ。 今夜は遅いので、翌朝から。」目を細めて考え込みながら尋ねてきたケティに、少し怯えた表情で使用人は答える。「そうですか、では皆様おやすみなさい。」ケティは部屋に戻り、今度は窓に仕掛けを施し始めた。「…ドアは良いのね?」ベッドの上でくるりと丸まった猫型シルフィードが、ケティにそう声をかけた。「二回同じ罠に引っ掛かってくれれば、そりゃ楽ですが。 流石にそれは無いかなーと。」「そもそも、何で一発目はドアにしたのね?」くぁ…と、欠伸をしながらシルフィードは訊ねる。「姿形がさっぱりあやふやで分からない暗殺者なのですから、一番楽なルートを通ってやって来るだろうと思いまして。 ちょっとした賭けでしたが、当たって良かったですよ。」「さすが腹黒娘、えげつない思考なら暗殺者をも上回るのね。 御陰様で、シルフィは安心して眠りにつけます、きゅいきゅい。」ケティの言葉に歯に衣着せぬ辛辣な感想を述べつつ、シルフィードは目を閉じる。「いつか泣かす…錬金で窓の一部を導線に変えて、ちょちょいのちょいと。 まさか、今夜中にもう一回という事は無いでしょうが、念入りに、念入りに。」そして、もう一度眠りについたのだった…が。「あびゃびゃびゃびゃ!」「マジですかー…。」眠ってすぐに窓の外から悲鳴が聞こえて来たかと思うと、先程エジェリーとか呼ばれたメイドが感電して伸びていたのだった。一方、タバサ達一行はのんびりと行啓の行程を進んでいた。そして現在タバサは、アルタニャンにて領主の歓待を受ける為に、貴族の館で入浴してから部屋を借りて衣装を直している。「はいはーい、姫様。 息を吐いてくださいねー。」「…ん。思い切りやって。」コルセットを装着する度に、タバサは思い切り締め付けてくれと注文する。何故か?周囲と比べてどうしても発育が遅い己の体格が気になるからだ…普段は気にしていないが、こういう時にはどうしても気になる。お洒落とかにあまり興味が無いとは言え、女性らしい服が自分の体格にはどうにも似合っていないような気がするのだ。ケティも自分と同じくらいお洒落には無頓着な性格だが、彼女は実に女性らしい曲線のある体格なので、質素な格好をしていようがどうにも女性である。胸が無い事を矢鱈と気にしているルイズでさえも、己に比べればかなりまし。ルイズは標準よりも華奢で若干小さめなだけなのに、己の理想とする体格と大幅に違うのが気に入らないという悩みで懊悩煩悶している。発育が遅くて女性らしい服そのものが自分には似合わないと思っているタバサにとって、それは実に贅沢な悩みに見えていた。だから、せめて腰の括れくらいはビシッと決めたい。お洒落にあまり頓着しない彼女の、数少ない拘りのひとつ…いわば、女の子としてのささやかな意地だった。「うふふ、かしこまりましたわ…そこの貴方、手伝って。」「あ、はい!かしこまりました。」メイドの言葉に、傍観していた他のメイドが駆け寄って来て一緒にコルセットを締め付ける。何とも息苦しい圧迫感と共に、タバサのすとーんとした体型に強制的に括れが出来上がる。「こ、こんなもので如何でしょう?」「ん、満足。」姿見で己の姿を見ると、腰にはきゅっと出来上がった括れ。時々周囲の人間に《幼女》だの《合法ロリ》だのと言われるが、これならばそんな事は言わせない。タバサは満足そうな表情になって、頷いた。「では姫様、御召し物を…。」「…ん。」侍女たちによってタバサは華やかに飾り立てられていくのだった…。カステルモールの祖父であるダルタニャン伯爵は現在病床にある為、寝室から動けない。その為、宴の前に挨拶をする為にタバサ自らダルタニャン伯爵の部屋へと出向いていた。「そなたがジャン・ド・バッソ・カステルモール・ダルタニャン伯爵か。」ダルタニャン伯爵邸にて、タバサは久々に王族っぽい喋り方をする羽目に陥っていた。久しぶりの長台詞に舌が絡まりそうになりながら、何とか話している。「は…老齢の身にて、床についたままの無作法、何卒お許し戴きたく。」ベッドから半身を起こした状態のダルタニャン伯爵が、申し訳なさそうに例を述べる。アルタニャン領主であるダルタニャン伯爵家は、カステルモールの祖父であるジャンが当主として取り仕切っている。ジャン自体は老齢であるために、本来ならば彼の息子がダルタニャン伯爵位を継いで取り仕切るべきなのだが、数年前の王家の御家騒動にて不帰の人となっていた。可愛い孫にはきちんとした青春を過ごして欲しいと考えた為、老体を押して当主の業務をこなしている。「よい、そなたの孫が王宮にて優秀なる働きが出来るのは、そなたの働きの御蔭だ。 であれば、床についている程度など無作法に非ず。 …であるな、カステルモール?」「…御意。」つまり、今回の旅行についてきたカステルモールは、じーちゃんには頭が上がらない。リュティスで人妻の尻追っかけて暮らしている事など、口が裂けても絶対に言えないのだ。ばれたら、じーちゃんショック死しかねない。「……親不孝もの~人妻好き~…。」「ぐぐぐ…。」とか、現在タバサに付きっ切りなメイドが彼だけに聞こえるようにこっそり囁いている状況に、背中から変な汗が出っぱなしなカステルモールである。「後で覚えておきなされよ…。」「おほほ、ナンノコトヤラ? 私はただの謎の女官ですわ。」そう言いながら、タバサがきちんと王女の演技が出来ている事を確認して安心した謎のメイドは、大人しくタバサの後ろへと引っ込んで行った。「姫様、うちの孫を除いた者達を人払いしていただけませなんだか?」「それは…。」タバサ自らは飽く迄も身代わりの身、勝手に人払いなど出来る筈もない。思わず言葉に詰まり、メイドを見る。「…人払いでございますね、かしこまりました。」タバサの視線を勝手に解釈したのか、メイドは人払いを了承した。「良いの?」「何を仰います? 姫様はガリア王国王女なれば、臣はその思し召しに従うのみに御座います故。」「ん。」それをかなり妙に感じつつも、タバサは頷いた。「人払いである。 皆、退出せよ。」『ははっ。』メイドの一声で、他の使用人たちは次々と退出して行った。「それでは、失礼いたしました。 ごゆるりと。」ドアが閉まり、部屋の中にいるのはタバサと、ダルタニャン伯爵と、カステルモールのみになった。「…失礼いたします。」カステルモールが杖を一振りすると、タバサが顔に微かに感じていた違和感が消失する。つまりそれは、フェイス・チェンジの魔法が解除された事を意味していた。「何を…!?」「お…おおお…矢張りシャルロット様であらせられたか…。」ダルタニャン伯爵家は表向き、ジョゼフ派の強硬派と思われている。何故かというと、先代のダルタニャン伯爵公子…つまり、カステルモールの父親が『国王は伝統慣習に従い、長子であるジョゼフ様が相続すべきである』という主張をかなり強硬に主張する人物だったからであり、なおかつ御家騒動時のごたごたの最中にシャルル派の手の者と見られる暗殺者によって暗殺されているからだ。無き先代伯爵公子の遺志とシャルル派によって暗殺されたという結果が、ダルタニャン家をジョゼフ派であると認識させていた。「お久しゅう…お久しゅう御座います…。」「…久し振り、ダルタニャン伯爵。」だが実際には彼自身がジョゼフとシャルル双方の幼馴染で共通の友人でもあり、彼本人としては伝統に乗っ取る事で相続問題を円満に片付けたがっていただけであった。彼の父親であるダルタニャン伯爵や息子のカステルモールも、何度かオルレアン大公家に招待されている身であるがゆえに、タバサとも双方面識があったりする。「どういう事?」「我がダルタニャン伯爵家は、シャルロット様のお味方という事で御座います。 シャルル様が弑された時、お二人の仲を何とか修復しようと努力していた父は既に他界していた故に出来ませなんだが、生きていれば必ずやシャルロット様を守ろうとした筈。 あの時、祖父は悲しみで弱り果て私も身動きが取れませなんだが、今であればお助け出来ます。 ジョゼフ王もイザベラ様も、あの御家騒動にてすっかり歪んでしまわれた…故にガリアを正常化するには、シャルロット様の存在が欠かせませぬ。 父は嘆くでしょうが、場合によってはジョゼフ王を弑し奉る事も厭わぬ覚悟に御座いますれば。」そう言って、カステルモールは両膝をつき杖を両手で頭上に掲げ、タバサに臣下の礼をした。「始祖ブリミルの名と我が杖に誓いまする。」 「私も床から出られぬ身ではありますが、杖に誓いまする。 ダルタニャン伯爵家は、シャルロット様の味方に御座る。」ダルタニャン伯爵も、震える両手で杖を頭上に掲げた。「こんな話をして、大丈夫?」ダルタニャン伯爵家が隠れシャルル派である事が知られれば、家の存続すら危うい。タバサはそれを心配してカステルモールに訊ねる。実際のところ彼はシャルル派では無く『シャルロットたんを愛でる会』という、残念な名前の秘密結社に属するシャルロット派なのだが。「この部屋の出来事を探れそうな場所には、我が《偏在》を忍ばせてありますが故、抜かりは御座いませぬ。 それに現在シャルロット様に付きっきりなあの女官も、我が同志に御座います。 今頃はイザベラ様を宥めすかしている頃でありましょう。」「…そんな事が出来るの?」あの矢鱈と癇癪を爆発させるようになってしまった従姉の顔を思い出し、タバサは首を傾げる。「彼女にしか出来ませぬな。 故に、お任せ下され。」カステルモールは、ニヤリと笑ってタバサにウインクして見せた。勿論彼は、一言も嘘は言っていない。「それでは、歓迎の宴に向かいましょうぞ。」そう言いながら、カステルモールは呪文を唱えてタバサに再びイザベラの顔を貼り付ける。「ダルタニャン伯爵家は、いと可憐なる姫様を心より歓迎いたしまする。」カステルモールは深々と丁寧にタバサに礼をするのだった。一方、同時刻に他の部屋で変装を解いたイザベラが、遠見の水晶越しに《地下水》を怒鳴りつけていた。珍しく、普段の阿婆擦れ王女演技では無く、素で怒っている。「きーっ!あの子狸を、とっとと怖がらせて追っ払いなさいと言ってるでしょ!?」「いやしかしですな、あの娘は魔法とは全然違う面妖な術にて私を寄せ付けないのですよ。 今の所、痺れたり、爆発に巻き込まれたり、天高くすっ飛んだりで、部屋に一歩すら踏み込めません。」「本当に貴方、ゲルマニアを恐怖の渦に巻き込んだ暗殺者なのかしら…?」何故かメイド服に身を包んだイザベラが、その報告を聞いて頭を抱える。元素の凸凹兄弟程ではないが、これでも結構な金を支払っているのだ。「単純に殺すというのであれば、色々やりようがあるのですが。 痛めつけるのはいいが、大怪我すら負わせずに追い払えとなりますと勝手が…。」「部屋に侵入出来ない奴が、何を言っても説得力無いわよ。」「ですよねー。」イザベラの言葉に《地下水》は、あっさり同意する。「そもそも私の特技は対象がある程度以上信用している人物を操れないと、あまり効果が…。 せめて、誰か彼女の見知った人物を使えませなんだか?」「ロッテを使うっていうのは、断じて没。」イザベラとしては、北花壇騎士の任務に他国の貴族の子女を巻き込むのが問題であるが故に穏便に排除したいわけであって、タバサに折角出来た友人との友情を破壊するような真似はしたくない。とは言え、このままだと埒が明かないので、眉を顰めてむむむと考え込む。「あー…一つ手はあるわね。 直接警告も出来るか…取り敢えず平民よりはましでしょうし。」「どういう手でしょうか?」おずおずと訊ねる地下水に、イザベラはニヤリと笑う。「取り敢えず、私達が到着するまでは今まで通り任務を続行して頂戴。 指示は追って出します。」「かしこまりました。」イザベラの言葉に《地下水》は、恭しく礼をするのだった。「…ね、眠れない。」ケティはベッドに横たわってグッタリとしている。理由は《地下水》による間断無き襲撃…とはいえ、全て様々な罠によって防がれていたりするが、引っかかる度に罠を解除して下手人を縛につけなくてはいけない。元々、眠気に弱いケティにって、眠れないという環境はまさに地獄だった。「きゅい…腹黒娘、そんな状態で大丈夫か?」「大丈夫じゃありません、問題なのです。」ケティは生気の無い、どんよりとした瞳で青い猫シルフィードを見る。「目が、死んだ魚のようなのね、きゅい。」「全てが終わったら、本当に死んだように眠ってやる…とはいえ、私の予測が大体当たりのようなのですよ。 相手は、自分が何されようが死なないと思っていやがります。」ケティはグッタリした状態で体を横たえると、目を閉じた。「どういう事?シルフィにはさっぱりです、きゅい。」「現在、この館の使用人は半分以上が地下牢にブチ込まれていて、なお増えつつあります。 この町とこの館が《地下水》の隠れ里でもない限り、答えは一つなので…すぅ。」そしてそのまま眠りにつくケティ。とにかく、睡眠時間を一秒でも多くとらないとまっすぐ歩く事もままならない彼女である。「きゅい!答えている途中で寝るとは何事なのね、腹黒娘。 シルフィも同じようなサイクルで起きたり眠ったりしているのに、全然元気なのに!」幼生とはいえ竜の体力と、人間の娘の体力を比べる方が無茶って感じもしないでもない。ちなみに現在この館は、王女を出迎えるどころではないものの、何とか準備は進められている。使用人が伯爵本人を弁護してくれるはずのロシュシュアール伯爵令嬢を、次々とナイフ持って襲撃しかけては入り口段階で撃退されるという意味不明な事態に際し、アルトーワ伯は体調を崩して病床についてしまったが…。「刺客は必ず一人、そして必ずナイフを持っている。 うにゅ…即ち、キーとなるのはナイフれす…すぴー。」ケティには割と何処でも眠れるという長所があるが、逆にそれはどんな状況だろうが寝てしまうという欠点でもある。ケティの体は完全に眠気によって侵食され、脳が休養を始める。「ほ、本当に良いのね…?」「すぴぴー…。」ケティは眠り続ける。「むぎゅ…。」発泡ウレタンに押し潰された刺客を残して…。「ちっ…取り逃がしましたか。」数時間後もぬけの殻となった発泡ウレタンを見て、数時間眠ったので、ちょっぴり元気になったケティが舌を鳴らす。「当たり前なのね。 これだけの時間が経てば、誰だって逃げられます、きゅいきゅい。」「見つけて誰かがしょっぴいてくれれば良かったのですが、ここの使用人には既に余裕がありませんからねぇ…とはいえ、牢に入れておいても無駄なのは、はっきりとわかりました。 伯爵にその旨を話して、全員釈放して貰いましょうか。」ケティは姿見の前にある椅子に座り、髪を梳く。鏡に映る己の顔には多少目の下にくまが出来ているが、軽い化粧で誤魔化せる程度のものであった。「…ま、こんなもので良いでしょう。」ケティはアルトーワ伯爵の部屋に向かう事にした。「当てが外れて、ここが《地下水》の隠れ里か何かだったら、どうするのね?」ケティの肩に猫型シルフィードが乗り、耳元で囁く。「より低い可能性の方が当たってしまったのならば、仕方が無いでしょう。 その場合は運命に身を任せる事にします。」「行き当たりばったりなのね…。」ケティの言葉を聞いて、シルフィードが呆れた様な声を上げる。「万全を期せる環境に無いですしね。 諦める部分は諦めて、己の予測を信じる事にするのです。 そもそもそれだと何で一斉に来ないのか、説明が付きませんし。」「戦いは数だよアニキ…なのね?」「そういう事です。 そもそも数が沢山用意出来るのであれば、一番簡単なのは飽和攻撃ですから。 では、伯爵にお目通りさせていただきましょうか。」ケティはアルトーワ伯爵の部屋のドアをノックした。「誰かね?」「フランソワーズ・アテナイス・ド・ロシュシュアールにございますわ。」「入ってくだされ。」その返答を聞いて、ケティはドアを開ける。「ロシュシュアール嬢、この度は大変申しわけない…。」「その事でアルトーワ伯爵様にひとつお話したき事が。 人手不足という事もありますし、今すぐ地下牢に入れている使用人たちを釈放する許可を与えてあげていただけませんか?」謝るアルトーワ伯の言葉を遮って、ケティはそう言った。「な、なんですと!?」「彼らは操られていただけですわ。 よって、罪を犯してはおりませぬ。」仰天するアルトーワ伯に、ケティは更に畳み掛ける。「ここ何日かずっと泳がしておりましたが、彼らが共通して持っていたナイフに何やら小細工がある様子。 私の事は構いませぬので、どうか職場に復帰させてあげて下さいませ。」「し、しかし、御行啓がある以上は何か確証が無いと…。」「問題ありませんわ。 狙われているのは飽く迄も私であって、姫様では御座いませんもの。」ケティはニコニコ笑いながら、そう断言する。「何処の無作法者かは知りませぬが、私に楯突いた報いは思い知らせますわ。 ですからどうぞ、アルトーワ伯爵様は心安らかにありますよう。」「ひぃ!? 承知仕った、使用人は釈放させまする。」寝不足で気が立っているのか、怒気が籠りはじめたケティの笑顔を見て、心安らかになるどころか逆に心を乱しまくったアルトーワ伯がコクコクと頷く。「それは良かった、これで不名誉な事態は避けられそうですわね。」「そ、そうですな…。」引き攣った表情で、アルトーワ伯は『選択間違ったような気がする…』とか思いながら、同意するのだった。大型の馬車が何台も連なり、グルノーブルのメインストリートを通り過ぎる。タバサたち一行は、グルノーブルの町にとうとう到着したのだった。『ガリア万歳!始祖の血を受け継ぐ王家に永久の栄光あれ!』市民が我先にとメインストリートに集まり、喝采を上げ始める。「姫様、お手を振ってあげて下さいませ。 皆が喜びます。」「…ん。」メイドに言われ、そんな群衆を見ながらタバサが手を振る。「うわー!馬車でかい! あれがデコ姫かー。」「あの手を振ってるちっこい女の子が王女様かな? おでこ広いなー。」特徴があるとすれば、ラ・ロッタ奪還用に大昔に造られた巨大な要塞が近くにあるという事以外、ごく普通の地方都市に過ぎないグルノーブルに王族がやって来るというのは、一大イベントである。「やっぱしお姫様は美人だなー。 そして、噂通りデコ広い。」「デコ姫様ー!」何故か、おでこの事ばかり語られているが…いるが…。『デコ姫!デコ姫!デコ姫!』「…ひどいものを見た。」満面の笑みでデコ姫コールを始めた群衆を見て、何とか表情を崩さぬように努力しながら手を振るタバサ。それでも流石に口の端が、軽くひくついている。いかに憎い仇の娘とは言え、広いおでこの事ばかりツッコまれるのはちょっと可哀想だと、自身もおでこが広いので前髪で覆っているタバサは思った。「しくしくしくしく。」一方馬車の隅では、何故かメイドがくずおれて、さめざめと泣いている。「…もう皆、デコ姫で覚えちゃってるの?ねえそうなの?本名忘れてるの? しくしくしくしくしく。」「…どうしたの?」泣きながらブツブツ呟いているメイドに、心配して声をかけるタバサ。何だかんだで世話して貰っているので、心配になったようだ。「へ!?い、いいえ、この風景を見ていたら故郷の事を思い出して無性に悲しくなってしまって、おほほほほ。」「?」誤魔化し笑いを始めたメイドに、タバサは首を傾げる。「故郷の町が似ているの?」「は、はい、もう少し大きい町ですが…オルレアンに御座います。」タバサの問いに答えながら、メイドは懐かしそうに目を細める。「…本来の姿であらせられた時の姫様も、何度かお見かけいたしましたわ。 大通りのお菓子屋さんのカトル・カールがお好きでしたでしょう?」「あの店のカトル・カールが大好きだったのはお母様。 私も、好きだったけれども。」このメイドがタバサの味方だとカステルモールから聞いた事を思い出し、タバサは本来自身の領地であるオルレアンの町の話に乗った。…母の思い出を語る事に、若干の悲しさを感じながら。「まさか、領民とは思わなかった。」「オルレアン大公家はオルレアンの民の誇りなれば、本来ドルレアンたるべき御方をお助けするのは当然の事ですわ。」そう言って、メイドはドンと自分の胸を叩く。「貴方、名前は?」「ベリータと申します。」謎のメイド改めベリータは、そう名乗る。「…さあ姫様、そろそろアルトーワ伯爵邸ですわ。」何時の間にやらタバサたちの乗る馬車はグルノーブルの大通りを通り抜け、アルトーワ伯爵邸の前庭へと進入していた。「綺麗でありそれでいて華美では無く…丁度良く整理された御庭ですわね。」「ん。庭は領主の領地に対する思いが籠っているもの。 それ故、丁寧に調和のとれた庭を整備する領主は、領地にも同じように愛情を注ぐ。」タバサは父親が言っていた事を思い出し、そう呟いた。プチ・トロワには規模に於いて届かないものの、領主の館としては広く綺麗に整理されているその庭を通り抜け、馬車は車回しへと入って行く。既に領主には連絡が行っていたらしく、アルトーワ伯と思しき男性とその家臣と思しき者たちが城館の出入り口付近で待っていた。そして出入り口前に馬車が止まると、一斉に跪く。「大げさ。」「…ですわねぇ、どうしたのかしら?」タバサとベリータは、ともに首を傾げる。扱いが王女というよりは、王へのそれであるからだ。「よくぞいらっしゃいました、姫様。 今回の御行啓、恐悦至極に御座います。」「んむ、出迎え御苦労であるアルトーワ伯爵。」跪いたままのアルトーワ伯に、タバサはそう声をかける。ちなみにタバサの口調だが、お手本となる王族が父親しか居なかった為に、かなり男っぽい喋り方となっている。普段タバサが接するイザベラの口調が全然参考にならないから、仕方が無いのだが。とはいえ、タバサ扮するイザベラが父王同様かなり変な人だという悪評は、シャルル派の手によって千里を駆け廻りまくっているのでツッコむ者は居ない。「しかし、少々大げさではなかろうか?」「はっ…。」「何ぞ、あったか?」タバサのその問いに、アルトーワ伯は顔を上げた。顔には脂汗が浮いており、顔色も良くない。ついでに言うと、少々息も荒かった。「…体調を崩しておるな、立つがよい。」何でアルタニャンと言い、自分が立ち寄った領地の領主は病気なのかと妙な感想を抱きつつ、タバサはアルトーワ伯にそう促した。「はっ、それではお言葉に甘えて…うっ。」アルトーワ伯は立ち上がろうとしたが、体調がかなり悪いらしくよろめく。「アルトーワ伯、大丈夫ですか?」そのアルトーワ伯を隣で跪いていた青色の変な猫を肩に乗せた翠金色の髪の貴族が支えた。タバサはその貴族の顔を見て、少々驚いた表情を浮かべる。そもそも、あとで連絡してくれると言ったのに、ここまで何の連絡も無かったのだ。ゴキブリを大事に懐に入れといて、激しく損した気分になったタバサであった。「!?…大丈夫か、アルトーワ伯?」「ははっ、この程度何とも御座りませぬ。」タバサは一瞬ケティの名前を出そうになって引っ込め、アルトーワ伯への労いの言葉に切り替えた。それから、少し批難の視線を込めてケティを見る。「そこな娘、久しいな…名は、何であったか?」「フランソワーズ・アテナイス・ド・ロシュシュアールですわ、姫様。 悲しいですわ、お忘れになられてしまわれたのですか?」さり気無くケティの今の偽名を確認するタバサと、それに白々しい芝居で答えるケティ。お互いちょっと吹き出しそうなのを堪えつつの猿芝居であった。「フン…ここに来ているにも拘らず、文の一つも寄越さぬ者の名など、長く憶えていられようか? (何で連絡をくれなかったの?)」「申し訳御座いませぬ。 姫様があまりにも遠くにあらせられましたゆえ、文を届ける手段が栗鼠であった事をすっかり失念しておりました。 (すいません、距離が遠くて圏外でした…。)」実は例のゴキブリゴーレムには通信範囲に限界があったらしく、通信しようが無かったようだ。タバサの冷た~い視線に、ケティは申し訳無さそうに目で謝った。「きゅいきゅい!」そして変装したケティの肩の上で、羽の生えた青い変な猫が聞いた事のある鳴き声を上げた。「変な鳴き声の猫であるな。 しかし、愛らしい。」人に化けられるという事は、猫にも化けられるという事なのかと妙に感心しながら、タバサは猫に化けたシルフィードを撫でる。「くるるるるるるる…。」「ふふふ、こういうのも悪くは無い。」タバサは自分の手に頭を擦り付けて甘える仕草をするという、まるっきり猫みたいなシルフィードを見て、目を細める。竜の状態で頭を擦り付けられると正直な話、鱗がちょっと痛いのだが…この状態であれば、ふわふわもこもこすべすべであった。「…鱗よりも、こちらの方が手触りが良いな。」「きゅい!?」ガーンといった表情で、シルフィードの動きが止まる。「きゅい!きゅいきゅい!」「すまぬ、怒るな怒るな。」タバサが謝りながらシルフィードの喉の下を撫でると、ごろごろ喉を鳴らし始めた。どう見ても猫…と思いながら、タバサは話を変える。「まあ、良い…それよりもアルトーワ伯を寝所まで連れて行くがよい。」「御意。」『タバサって、長台詞喋れるのですね~』とか思いながら、ケティは一礼するとレビテーションでアルトーワ伯を浮かせる。「すまぬな、ロシュシュアール嬢…。」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょう?」「おとっつぁん!?何で!?」そんなやり取りをしながら、二人は館の奥に引き下がって行った。髪の色も口調も違うが、あの時々変な言い回しをするさまは間違いなくケティだと、タバサはそんな感想を抱くのだった。到着当日の晩は、王女一行の休養の為にも軽い歓迎会を行った後に解散となった。それは確かに王女の為でもあるが、もう一つの理由として今晩は次の日の晩餐会に合わせて、近隣の領地からも貴族が続々と前泊に訪れている最中だからというのもある。そのため、使用人たちは休む暇無く働き続けている。そのおかげなのか《地下水》からの攻撃もピタリと止んでいた。「やれやれ、今晩は流石に《地下水》も、こちらに来られないようですね。」「今日はゆっくり眠れそうなのね、きゅい。」罠のセッティングを行いながら、ケティは少し安心した声でそう言った時、ノックの音がした。「はい、何方?」「王女殿下の使いの者に御座います。」ドアの向こうから、そんな声がする。「シルフィード…。」「きゅい。」念の為にとシルフィードに目配せをし、シルフィードも息を吸い始める。猫形態でも竜のブレスはきちんと吐けるらしい。「はいはーい、少々お待ちいただけるかしら?」ケティもドアの罠を解除してからテイザーガンを引き抜く準備をしつつ、ドアノブに手をかける。ガチャリという音に妙に緊張感を覚えつつ開けると、そこには一人のメイドが立っている。「王女殿下の女官、ベリータと申します。 王女殿下がお呼びですわ、ロシュシュアール嬢。」そのメイドは、子の行幸の最中ずっとケティと一緒にいたメイド、ベリータであった。