「心を喪わせる薬だが、明日出来る。」タバサと母がいる部屋にやってきたビダーシャルは、そう一言告げた。「ん、そう。」タバサはコクリと頷く。「自分が自分で無くなるというのに、反応が薄いな…。」「毎日告げに来ていれば、驚く気も失せる。」具体的な日付がわかってからは、毎日秘薬の出来る日を告げに来るのがビダーシャルの日課になっていた。「確かにそうだが、そなたの教えてくれた挨拶をした時のあの王の方が、よほど驚いていたぞ。 御蔭で、余計な仕事が増えたではないか。」「ん、仕事があるのはいい事。」困った表情を浮かべるビダーシャルに、淡々とそう返事をするタバサ。ビダーシャルは本当にジョゼフ王に地獄突きをぶちかましてしまったらしい。ひとしきりのた打ち回ってぐったりしているジョゼフに何でこのような事をしたのかと訪ねられたので、タバサに教えられたと告げた所、薬が出来る日をタバサに毎日告げる仕事がビダーシャルに追加の仕事として与えられたのだ。実に陰気な嫌がらせだが、まあ誰だって怒る。ジョゼフ王はめっちゃ良い笑顔だったらしいが。「とある施設に『労働は君を自由にする』という標語があると、私の友人が言っていた。 働いていれば自由になる日は来る。」「自由が減ったような気がするのだが…?」「気にしてはいけない。 ちなみに…。」「ちなみに?」「その施設で働いた人のうち150万人は過酷な労働の結果、死んで現世から自由になったらしい。」「何それ怖い。」淡々と恐ろしい話をするタバサに、ビダーシャルは身を震わせた。「何故に、仕事とは言え脅かしに来た我が怯えねばならぬのだ…。」「そういう運命?」「どういう運命なのだ、それは…。」それは例えば、すっかりイイ性格になってしまったタバサにおちょくられるという運命…。「それはそれとして、旅芸人の一座が来るらしい。 ここの隊長が言うには、リュティスでも見た事のない斬新な笑いや歌を提供してくれる一座だそうだ。」「そう。」妙な事をする集団と聞いて、タバサは真っ先に水精霊騎士団トップの面々の顔が浮かんだ。特に、何処から入手したのか知らないが、パンティを頭に被って『フオオオオオォォォォォォッ!』とか叫ぶマリコルヌの姿が。その直後に真っ赤な顔をしたケティに、下着ごと派手に燃やされていた事も。その一連の事態の衝撃に、流石のタバサも少々表情が崩れたのを思い出す。ひょっとして、ケティ達が芸人に扮してやって来たのだろうか、タバサはそう思った。「我は蛮人の芸には興味は無い。 しかし…しかしだ。 そなたが望むのであれば、この部屋から出て見物する事を許可するが? もちろん、我の監視はつくが。」「興味無い。」タバサはビダーシャルの提案を断った。外に出れば救出しやすくなるという考え方も出来ないわけではないが、今回は少数による救出作戦であろう事は間違いない。外の見物会場は人が、しかもそれなりの訓練を受けたガリアの兵士がいっぱいである以上、少数による救出は早急に露見する可能性が高く危険と言える。その点、タバサが閉じ込められている塔の近辺は侵入できる場所が一か所しかなく、警備もそれほど多くない。まあ『それほど多くない』のうちの一人がビダーシャルなので、当然とも言えるが。それでも催し物があれば、見張りの数は減るかもしれない。「しかし、蛮人にとっては楽しそうな催しではないか?」「見ての通り、騒がしいのは嫌い。」実際タバサは騒がしいのが苦手な部類に入るので、ビダーシャルの再度の提案も断った。「あー…しかしだな、音楽と踊りだ。 楽しそうとか、そう思わないのか?」「………見たいの?」矢鱈としつこく食い下がるビダーシャルに、タバサは小首を傾げて尋ねる。「…蛮人の音楽や踊りに興味はない。」「本当に?」タバサはビダーシャルをじーーーーっと見つめる。「我はエルフだ。 蛮人の文化になど興味を持つものか。」表情を変えずにビダーシャルはそう言い放つが、ビダーシャルに負けず劣らず表情のバリエーションの少ないタバサには、ビダーシャルが焦っているのが何となくわかった。「バタフライ伯爵夫人。」なので、タバサは更に追い込みをかけてみる事にした。『バタフライ伯爵夫人』は何処に持っていったんだろうという、純粋な興味もある。「…アレなら適当な置き場所を思いつかなかったので、ここの隊長室の本棚にそっと置いてきた。」ミスコール男爵、完全にとばっちりである。喜んでいるかもしれないが。「そう…ちなみにバタフライ婦人シリーズなら、他にもまだある。」そう言いながら、タバサは部屋の棚から『バタフライ婦人の優雅な昼下がり』と『バタフライ婦人の華麗なる日々』を取り出した。「…まだあったのか。」「ん。ベストセラー。」ちなみにタバサも試しに読んでみたが、破廉恥な表現が満載なのは何となくわかるものの、何が何やらさっぱりであった。エロも奥が深いのだなという感想を得たタバサは、何とか逃げられればキュルケかケティに聞いてみようと思っている。あの二人なら、何だかんだで知っているだろう。モンモランシーも知っていそうだけど、知識と引き換えにお金取られそうだから脳内で却下したタバサである。「この本は、そなたにはまだ早い、ぼ…。」本を取り上げようとしたビダーシャルの手を、タバサはひょいとかわした。「それは、まだ、そなたには、早い!」必死に本を奪おうとするビダーシャルと、それをひょいひょいとかわすタバサ。二人の攻防は暫く続いたが、軍配はちんまい体格のタバサに上がった。「はぁ、はぁ…そ、それを寄越すのだ。」先住魔法を使えば簡単に奪う事も出来るだろうが、流石にエロ本を先住魔法を使ってまで奪うというのは色々とアホっぽいと思ったのか、ビダーシャルは最後まで自分の手で奪おうとしていた。「息を乱しながら女の子ににじり寄る…変質者?」とはいえ、額に汗かき息を乱しながらエロ本を奪おうとする姿も、やっぱりアホっぽかったのは言うまでも無い。「本当に動揺しないな、そなたは。」「命だけは、命だけはお助け下され。」タバサは命乞いを始めた…無表情で。「抑揚の無い口調で命乞いをされても…とりあえず、その本は没収。」「ん。」タバサが本を差し出したので、ビダーシャルはそれを受け取った。「急に素直になったな。」「飽きた。」タバサも、本当にイイ性格になったものである。「本当に見に行かなくても良いのだな?」「貴方が下手な大道芸より面白かったから、それで良い。」「それはそれで酷い話だな…まあ良い。 それでは、また明日来る。」そう言うと、ビダーシャルは立ち去って行った。後日談だが、ミスコール男爵の本棚にてバタフライ男爵夫人シリーズが謎の増殖を遂げたらしい。フシギダナー。「てってっててて♪てってっててて♪」ビダーシャルが立ち去ってから数分の後、不意に通気口から変な鼻歌が聞こえ始めた。「こちらシルフィ、通風口を通って目的地に到達した。 これからどうすれば良い、大佐…なのね、きゅい。」ガタッと通風口の蓋が外れ、青色の猫が謎のセリフを呟く。そう、シルフィードである。「きゅい。」通風孔から出たシルフィードは、埃を体から落とす為に体をぶるぶると震わせた後、しゅたっと右前足を上げる。「ん、久しぶり。」「数日の筈なのに、何だか半年以上潜伏していたような気がするのね。」「メタ禁止。」「官憲横暴、きゅい。 るるるるるるるる…。」シルフィードは歌うように竜の言葉で先住魔法の呪文を唱え…人に姿を変えた。「お姉さま、また髪梳くのサボってるのね。 ぼさぼさなのね、鳥の巣よ、鳥の巣。」そう言いながら、シルフィードは鏡台の棚を開けるとゴソゴソ漁り始める。どうやら櫛を探しているようだ。勿論服なんか着ていないので、マッパだが。「どうせ、使用人と変なエルフしか来ない。」「駄目です、女の子は髪の毛大事と腹黒娘からの言伝なのね。 竜の鱗と一緒で、髪は女の命です、きゅい。」素っ裸のシルフィードに言われたくないなーとか思いながらも、タバサはシルフィードに軽々ひょいと持ち上げられる。重くて硬くて長い鈍器紛いの杖を振り回す彼女だが、体重は見た目通りに軽いのだ。そして一方シルフィードは変化の身とはいえ竜であり、両者のパワー差は歴然だった。「じゃあ、髪の毛を梳くのね。 ピンクのわけの分からない指導を受けつつ、ウンモセイジンとかいう金髪グルグル娘で練習したからバッチリ、きゅい。」「ウンモセイジン…?」ひょっとしてモンモランシーの事だろうかとか、ルイズのわけの分からない指導で大丈夫だったのかとか、そういう身だしなみ関係はキュルケに指導して貰った方が良かったのではなかろうかとか、シルフィードのパワーであの引っかかりそうな縦ロールの髪梳かれてモンモランシー禿げてないだろうかとか、こういう奇怪な人事をやるのはケティだろうなとか、サイトはきちんとガリア語の復習分をこなしているだろうかとか、ギーシュのアホ面とか、マリコルヌの事は考えるのやめようだとか、能弁ではないタバサだが思考は意外と長文である。口数の少ない人間というのは、結構考えすぎて喋れない人が多いものだ。「ケティたちは、元気?」「きゅい、元気なのね。 腹黒娘なんて『囚われのお姫様を助けに行くとか、何かイーヴァルディの勇者みたいですね私達。タバサお姫様ですし』とか言ってたのね。 腹黒娘、時々凄く子供っぽいの、きゅいきゅい。」タバサの髪を梳き始めたシルフィードのその言葉を聞いて、彼女はぼんやり考える。イーヴァルディの勇者といえば、一番多いのは囚われの姫を助けに行く話。彼女が今母に読み聞かせている話も典型例であり、確かに言われてみれば自分も姫と呼ばれる立場ではある。あのメンバーの中でイーヴァルディといえば誰か…ケティはまっさきに論外。あの娘は悪い魔女か狂言回しの類であり、勇者ではない。キュルケは勇敢ではあるが、勇者というよりは色気担当である。ルイズは曲がった道も一直線に進む、人と言うよりは人の形をした竜巻みたいな生き物。モンモランシーは背景でとんでもないことやってる村人A…マッドだ。男子勢のギーシュは村人Aの引き起こした爆発に巻き込まれ、薔薇の花を口に咥えて飛んでいく村人B…不幸だ、そして莫迦である。マリコルヌは押しも押されもせぬ変態、兎に角変態、大変態。最後に残ったのは才人だが…。「不本意。」タバサは微かに眉をひそめて一言そう呟く。そう、彼女にとってまこと不本意な話ながら、才人が一番イーヴァルディっぽかった。魔法は使えないが、ありとあらゆる武器を使いこなし、メイジならざる身でメイジを含む4万の敵軍を一人で潰乱に追い込んでみせたのだ。その功績はまさに英雄、新しいイーヴァルディの勇者に相応しい。それはタバサにとって、非常に困る話だった。彼女には数少ないが、『夢』があるのだ。一つは勿論母を正気に戻す事、そしてもう一つは…イーヴァルディのような偉大な英雄に、勇者に仕える事。己の認める勇者に、身も心もその他己の全てを捧げ仕える事。それはシュヴァリエとして、女として、イーヴァルディの物語を愛するものとして、おそらくは最高の幸福。大公女の身であるタバサだが、既にオルレアン大公家はほぼ取り潰し状態である。実のところ貴族として身を立てる気も特に無いのだが、シュヴァリエである以上はまともな主に仕えたいという願望は確かにあるのだ。ぶっちゃけた話、流石に平民では彼女がいくら仕えたくても仕えられない。そもそも、才人には既にルイズがいる。そしてケティも何となく、才人の事が好きそうである…。「不本意。」タバサはもう一度そう呟くと、微かに溜め息を吐いた。ちなみに才人には、彼女が文字を教えている。ケティから字を教えてやってくれと頼まれた為に渋々始めたものだったが、才人の飲み込みが早いのとルーンによる文字習得の過程が面白くて最近は結構楽しみにしてるのだ。そして才人も、タバサの長杖術の鍛錬に付き合っていた。長杖術というのは彼女が使っている重くて長い杖を用いた近接戦闘術なのだが、最近はワルドが使う剣のような形の短杖を用いた短杖術が主流になった為、すっかり廃れてしまっていた。彼女が知っていたのは、現在も使っている水に沈む珍しい木を削って作られた長杖を自分の杖に選んだ際、杖を上手に取り回すために両親に頼んで長杖術の使い手を探して貰い、教えてもらったからである。まさか特殊部隊に入れられて、その技術をここまで活かす事になる羽目になるとは、教わった時には思ってもいなかったわけだが…。まあそんな訳で使い手の滅多に居ない技術な為に正規の鍛錬が困難だったのだが、才人のガンダールヴ能力は使う者の居なくなった昔の古い杖を入手して手渡せば、それを再現することが出来るのだ。御蔭で彼女は長杖術に更に磨きをかけることが出来ていた。もっとも彼女がガリアに戻って捕まった為に、現在授業も鍛錬も休止中だが。「はい、これで終わったのね。」シルフィードの言葉を聞いて黙考から復帰したタバサが鏡を覗くと、そこには先程までボンバー状態だった髪が見事に撫でつけられた己の姿があった。ガリア王家の特徴である蒼銀色の髪が、若さを誇るように見事なキューティクルで蝋燭の光を反射している。タバサが自分でやっても、こうはいかない。そもそも、この境遇になってからあまり自分の容姿に気を配っていないのと、癖の強い髪の毛の物は羨むであろう見事なまでの直毛のせいで、ショートカットな彼女の髪の毛は、重力に逆らうように見事に真っ直ぐ伸びるのだ。重力に負ける程度に伸ばしてはいるが、それでも若い元気な髪は重力に逆らい見事にもっさりボンバーな感じに…わかりやすく言うと髪の毛が中途半端に持ち上がるので頭がデカく見え、元々小さく華奢な彼女をより幼く見せるのである。実際、キュルケと知り合うまでは『何だあの幼女は』とか、『何で幼女が学院に』とか、『タバサたんハアハアハア…』とか言われていたのだ。学院では見るに見かねた自称愛と美の伝道師であるキュルケや、キュルケに頼まれたケティが髪を軽く湿らせながら梳かして、綺麗に撫で付けていた。ちなみにルイズもやりたいと立候補したが、才人がそっと手渡したセーターという名のヒトデ型クリーチャーを見て、『ルイズがタバサの髪を勝手に梳かそうと画策した時点で、ヴァリエールからツェルプストーへの宣戦布告と見做す』と絶対禁止を告げられてしまっている。モンモランシーは髪を梳かすというより髪を溶かそうとしたので、激怒した2人の火メイジに半日以上執拗に追い掛け回され『水属性の発展に犠牲はつきものなのよおおおぉぉぉう!』とか悲鳴を上げながら逃げ回り、帰ってきたときにはあちこち焦げていたという…。「…奇跡?」「きゅい!?練習したって言ったでしょ。 失礼なのね、お姉さま。」首をかしげたタバサにシルフィードはプンスカと怒って見せるが、マッパなせいで迫力ゼロだった。むしろわけがわからない。「シルフィの仕事はお姉さまが閉じ込められている部屋を正確に割り出すことだったけど、これで戻れば終わり。 もうひとつは…お姉さま、ゴキブリ持ってる?あの脂の乗った美味しそうなゴキブリ。」「気色の悪いゴキブリなら、持っている。」タバサはそういうと、化粧台の中から宝箱を取り出して、その中からゴキブリガーゴイルを摘み上げた。「ん。」「きゅい、これこれ、これよ。 しかし何度見ても見事な造形、シルフィ思わず涎が垂れそうなのね。」所変われば人変わる。ガリア人やガリアに近い南トリステインの人間は蛙を好んで食べるが、その他の地方のトリステイン人やゲルマニア人、ロマリア人、そしてアルビオン人は基本的に食べない。ケティが市場で仕入れてきた大量の蛙を捌いて骨を全部とってそれとわからない姿にしてから衣を着けカラッと揚げて、『カラアゲ』とかいう料理として才人に食べさせていたのをタバサは思い出したが…基本的に才人も蛙は食べない筈だ。才人に何の肉かと尋ねられたケティが『肉です』とだけ、凄く楽しそうに笑顔で答えていたので、ほぼ間違いないだろうと思っている。タバサは勿論ガリア人として蛙は平気なのでご相伴に預かったが、非常に美味であったので告げ口はしていない。他にもアルビオン人は馬を食べないとか、ゲルマニア人は温かい料理をあまり食べない風習があるとか、ロマリア男の主食は女とかいわれているとか…。最後のは全然別の話のような気がするが、まあそんな感じで同じハルケギニアの人間でも食習慣に差異はあるのだ。ましてや異種族、しかも竜。味覚や好みの差異というものはあるものだと考えて、タバサはシルフィードの食べ物への好悪について今はもう気にしないようにしている。とは言え、仕事中に2メイル近くある巨大毒ムカデに遭遇した際、素早く襲い掛かり毒の牙がある頭を噛み砕いてそのまま踊り食いした時には、流石に暫くドン引きだったが…。「シルフィが先行してここに来たから、まだ話は出来ないけど、もう少ししたら腹黒娘とも連絡できるようになるわ。 お姉さまと離れるのは嫌だけど、場所の報告をしなくちゃいけないのでシルフィは一旦腹黒娘たちと再合流するのね。 くるるるるるるるる、きゅるるるるるるるるるるるる…。」シルフィードは来た時と同じように竜の言葉で歌うように呪文を唱えると、人の体がどんどん縮んで背中に蝙蝠みたいな翼が生えている青い猫となった。竜の姿ではどうにも行き来しづらい空間を、人の姿とは違い面倒な服を着ずに移動出来るので気に入ったようだ。風の精霊が常に体表面を覆っているのが普通な彼女にとって、服というのは中で風が淀むから嫌だ…ということらしい。「それじゃあお姉さま、また後で。」「ん、気をつけて。」タバサの言葉にシルフィードは頷き、通風口の中へと消えていった。「…………………。」シルフィードによれば、そろそろケティ達が来るらしい。とは言え、ここにはビダーシャルというエルフがいる。彼女らが殺されたり拘束されたりする可能性は高いだろうとタバサは思っていた。信じている・信じていない…といった話ではない。タバサ自身も己の全身全霊で立ち向かってみたが、それでも手も足も出なかった。北花壇騎士として、それなりに戦えるという自負はあるのだ。実際、親衛隊所属であったジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドという男と戦い、勝っていた。なのにその自分が刺し違える覚悟で挑んだにも拘らず、刺し違えるどころか赤子の手を捻る様に一蹴されてしまったのだ。あれはもう、複数人で勝負を挑めば何とかなるとか、友情と勇気が勝利をもたらすとか、そういう次元の強さではない。そういう相手だったのだ。「皆…。」心を押し潰されそうになるほどの心配…それでもタバサは賭けてみたい。これは、母と己があの男から解放される最後のチャンスなのだ。ケティは言っていた。『友情とは無償の愛ですが、タバサは王族で、ここはトリステインで、貴方の身柄というものには価値があります。 ならば貴族としてトリステインの利益を考える立場でもある私は、打算と利益で動く事もあるのです。 ですからタバサ、この件に於いては貴方も私達を打算と利益に基づいて利用しなさい。 母君を救い出す機会は、これが恐らく最初で最後なのですよ。』タバサは知っている。ケティは要するに『自分達を利用して母親を助ける機会を作れ』と言っていたのだ。もちろん彼女の事だから、自分の身柄を将来的な政治の駒として利用する算段も朧げにはあるのだろうが、彼女はそれすら隠す事無く伝えてくれたのである。純粋な友情ゆえに助けるなどと彼女が言っていたならば、タバサ自身もケティを信用できなかっただろう。お互いに王族・貴族であるから、個人的な友情だけでは動けないのは当たり前。だからこそタバサは、『お互いを利用しあおう』と正直かつ露悪趣味的な事を告げる友を信用できたのだ。今、彼女達は、タバサの友人達は、ここに向かっている。かつてイーヴァルディの勇者と言う名の少年が、『ありがとう』と言ってくれた少女の為に竜の元に向かったように。そんな事を思いながら、彼女は手元にあったイーヴァルディの勇者の物語の本を開き、栞を挿していた所から読むのを再開する。「イーヴァルディは竜のいる洞窟にとうとう辿り着きました。 暗く奥深く、竜の顎のようにぽっかりと開いたその洞窟に、彼についてきてくれた仲間達も怯え始めます。 『引き返そう。やはり竜は強過ぎる、そして恐ろし過ぎる。 眠っている間であれば大丈夫だと確かに私は言ったが、目を覚ましたら一巻の終わりだ。 君は竜の恐ろしさを知らない。 一太刀浴びせたと言うが、本来あれは人が太刀打ちできる類の生き物ではないのだ。』 『僕だって怖いさ。あれが火を噴いて周囲を薙ぎ払い、人を食い千切り、咆哮のみで魂を砕こうとするのを間近で見て聞いたのだもの。』 仲間の言葉に、イーヴァルディはそう答えました。 『知っているならば、正直になれば良いだろう。 誰も…そう、あの娘すらも君を責める事は出来ない。 敵はあの竜なのだから。』 『でも恐怖に負けたら、僕はあの子を守れない。 あの子を守れないならば、僕は僕で無くなってしまう。 竜の顎なんかよりも、竜の咆哮なんかよりも、竜の炎なんかよりも、あの子を守れない事、僕が僕で無くなってしまう事のほうが、僕にはその何倍も怖いのさ。 僕は臆病なんだよ、だから絶対に引けないんだ。』 そう言って、イーヴァルディは竜の洞窟に足を踏み入れます。 松明を掲げ、闇に向かって、震えながら、それでも躊躇う事無く一歩一歩進みます。 彼の後に続く者は居ませんでしたが、彼は振り向かず、恨み言を言うことも無く、一人で進んでいったのでした。」タバサは静かに、眠る母に語り聞かせるように、物語を読み続けるのだった。