1995年5月28日 1530 ニューヨーク イースト・ヴィレッジ
「かっぱらいだぁ~!!」
昼下がりのイースト・ヴィレッジ、Ave.A(A番街)と13th.St(13番通り)が交差する一角。
背後で響く、いきなりの男のだみ声。 振り向くと、肉屋のイタリー系と思しき顔を真っ赤にした親父が、店頭から飛び出し肉包丁(!)を振り回して叫んでいる。
その視線の先。 つまり俺に向かってくる方向からは、小汚い格好の小さなガキが両手一杯にソーセージやら何やらを抱えて走ってくる―――ああ、かっぱらいね・・・
「おおいっ! 誰かっ! そのガキとっ捕まえてくれぇ!!」
―――さて、どうしたものか・・・
と、考えるまでも無く。 悲しいかな訓練された身は無意識に半身を捻って、突進してくるそのガキを交わして―――足を引っ掛けていた。
「うきゃ!!」
案外可愛らしい悲鳴を上げて、そのガキが見事にすっ転ぶ。 その拍子に持っていた戦利品を盛大にばらまいた。
「お、おうっ! アンタ! そいつをとっ捕まえてくれっ! 今日こそ警察に突き出してやる!!」
―――って事は、常習犯か?
「ちっ! 誰が捕まるかっ!」
意外に俊敏に立ち上がって、走り去ろうとするその時。
「ふぎゃ!!」
またまた俺の足に引っかかって(俺が引っ掛けて)転倒する。 近づいて、その首根っこを捕まえる。
「・・・さて。 悪童はお巡りさんのお説教でも聞かせなきゃな・・・?」
「チクショウ! 離せっ! 離せってばっ! このイ〇ポ野郎! ファッ〇ン・シット!
手前ぇのお袋はファッ〇ン・ビッチだろ!? このアス野郎っ! カマ掘られて死んじまえっ!!」
―――いやはや。 見事に流暢かつ豊富な語彙の、下品な下町言葉だな。
呆れてそのガキを見る。 ―――なんだ? えらい整った顔立ちのガキだな? 声が甲高いから、まだ変声期前かな?
ジタバタ暴れるその腕を掴むが、やたら細い。 10歳前後位だろうけど、男にしちゃ華奢なガキだ・・・
などと考えている内に、肉屋の親父が追いついてきた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・ いや、アンタ、助かったよ。 このガキは辺りじゃ性悪のコソ泥でなぁ。 食いもんばっかり、チマチマ盗んで行きやがる」
「チマチマ? じゃ、今日みたいな盛大な盗み方は・・・?」
「おう、そういや、初めてだな・・・? ウチもソーセージを2本,3本とか、そんな風だったがなぁ?」
「チクショウ! 離せっ おっさんっ! 離せってばっ!!」
―――ちょっと待て。 今、何て言った・・・?
「・・・こら、誰がおっさんだ。 俺は今年でようやく21歳だぞ? 『お兄さん』だ、この小僧・・・」
「手前ぇこそ! その目玉は飾りか何かかっ!? アタシのどこが小僧だ! このファッキン・ブラディ・シット野郎っ!!」
―――段々、殺意を覚えてくるな、この語彙の豊富さには・・・
ん? 待てよ? 『どこが小僧』??
そいつが目深にかぶっている野球帽を取っ払う。 途端に綺麗な、長い金髪が現れた。 顔立ちも良く見てみると・・・
「・・・こいつぁ、驚れぇた・・・」
「お前・・・ 女か・・・?」
薄汚れてはいるが、ちゃんと風呂にでも放り込んでやれば。 かなり可愛らしい顔立ちの少女だった。
「手前ぇらのその眼は、節穴かいっ!? 河岸に上がった死んだ魚の目かよっ!? このインポ爺ぃに、ファッキンおっさん!!」
「「 んだとぉ!? 」」
思わず親父とハモる。
にしても。 外見はともかく、中身は紛れも無くアルファベット・シティのクソガキだ。
「クソッ! 今日は我慢ならねぇ! ポリに突き出して、矯正院に放り込んで貰うぜっ!」
肉屋が元々の赤ら顔を、更に顔を真っ赤にして声を荒げると、急にそのガキが焦った様な顔になった。
「ちょ! 冗談! 矯正院!? 冗談だろっ!?」
「冗談なんかじゃねぇ! 手前ぇみてぇな悪ガキ! 説教程度じゃ直らねぇっ! 覚悟しとけっ!!」
「うっ・・・! うう、うわあああぁぁん!!」
―――なんだ? 急に泣き出しやがった。 この界隈のガキどもが、矯正院送り程度で泣くか?
普通なら『三食昼寝付きの別荘だ!』とかほざくタマばかりだけどな・・・?
「なっ、なんでいっ! 泣き落としなんぞ、通用しねぇぞ!?」
「ふえぇんっ・・・ かっ、母さんが・・・ 病気なんだよぉ・・・ ソーセージ1本位じゃ・・・ 栄養付かないんだよぉ・・・ うええ・・・!」
「うっ・・・ そ、そりゃ、お前ぇ・・・ さっさと医者に診せるとかよぉ・・・」
「貧乏人にそんな金ないよぉ! そんな金あったら・・・ アタシだって、カッパライなんかやるもんかぁ・・・! ふええぇぇん!!」
「そっ、そりゃ、そうだけどよぉ・・・ でもよ、かっぱいはよぉ・・・」
「頼むよぉ・・・ おじさぁん・・・ 母さんの病気治ったら、ちゃんとお金返すよっ! 働いて返すからさぁっ!
お願い・・・ 見逃してよぉ・・・」
「う、ううぅっ・・・!!」
悪ガキとはいえ、見た目は可愛い女の子に。 上目づかいで、しかも涙をウルウルされて。
いい中年のおっさんは急に進退極まったらしい。
―――はぁ。 おい、おっさん。 あんた、見た目と違って妙に人が良すぎるぜ・・・?
「し、しかたねぇな・・・ こ、今回はよ・・・」
「ホント!? おじさん、ありがとっ・・・「で? この眼薬は何だ?」・・・っげ!!」
さっきから、左手だけ後ろに隠しているのが怪しいと思っていたら、案の定。
さっと取り上げたのは、市販の目薬。 そういやさっき、両手で顔を覆い隠す仕草していたっけな、こいつ。
「くっそぉ!! なんだよっ! 妙に勘の良いおっさんだぜっ!!」
―――ボクッ
「ぎゃっ! 痛てぇ! ちっ、チクショウめっ! この、クソガキ!!」
見事におっさんの脛を蹴りとばして、まんまと戦線離脱しやがった。
「へんっ! この、もーろくジジィ!! 簡単に引っ掛かりやがって!! それにこの、ぺドのロリ野郎! くたばっちまえっ、ばーか、ばーかっ!!」
見事なまでに悪ったれな捨て台詞を残して、そのガキ、もとい、悪たれ少女は走り去って行った。―――ちゃっかりと戦利品を確保して。
―――いや、あの状況判断と言い、戦況の見極めと言い、引き際の判断と言い。 良い兵士になるなぁ、あれは・・・
ふと、そんな事を考えている自分に苦笑する。 俺もすっかり、世間様の言う『ガチガチの軍人野郎』って訳か? ま、第一、損をしたのは俺じゃない。
「・・・イテテ、くそぉ、あのクソガキめ・・・」
しきりに脛をさすっている親父に近づき、一言二言確認してみる。―――ふん? ひょっとして、どうやらこれは当りか?
「はあ、はあ、はあ・・・」
―――ここまでくれば、大丈夫よね?
トンプキンス・スクエアからAve.Cと10th.Stの交差点を少し南下した所。
少女は後ろを振り返りながら、全力疾走してきた足を止めて、荒れた息を整える。 ほんのり上気した、元から愛らしい顔立ちに悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
何とか上手くいった。 今日は久々の大戦果だ。 途中、あの変な野郎のお陰でヤバかったけれど。 へん、アタシをとっ捕まえるなんて、100年早いよっ!
そうして意気揚々と家路に着く。 これだけあれば、母さんもきっと元気になる。
姉さんだって、辛い仕事をしなくてもいい・・・
そんな思いを抱きながら少女が歩く街は、アルファベット・シティ。
曰くつきの治安の悪い地域だが、彼女にはそんな事は関係無かった。 少なくともここは有刺鉄線に囲われた難民キャンプじゃない。
食糧配給が何日も滞って、子供でも男の子は一切れのパンの為に人を殺し、女の子は早々に体を売って糧を得る。 あの地獄じゃない。
行こうと思えば、ニューヨーク中何処へでも行ける。 そして彼女はどこででも『仕事』が出来るのだ。
彼女にとっては、いざとなれば逃げ込む事の出来る、実に重宝な街だった。
―――にしても、今日のあのおっさん。 妙に勘の鋭い奴だったなぁ・・・
ふと、見破られた事のない『奥の手』をあっさり見破りやがった奴の事を思い出して、腹立たしくなってきた。
お陰で余分な労力を払わなきゃいけなかったのだ。 21歳だとか言っていたけど。 自分より10歳も年寄りなのだ、おっさんで十分だと思う!
暫く歩いている内にやがて家が見えてきた、オンボロの安アパートだ。 それでも風雨は凌げるし、ベッドだってある。
―――今年も夏は暑そうだから・・・ 少ししたらどこかの廃品置き場から、扇風機でもガメてこないとね・・・
ふと、アパートの入口に立つ人影に気がつく。 誰だ? 見た事が無い。 ヤバい、変質者か何か!?
その人影がこっちを向いた。 街灯のお陰で顔は陰になってて、良く見えないけれど・・・ ヤバい! こっち見て笑ってやがるっ! 絶対、変質者だっ!!
「―――よう。 探したぞ? このソーセージ泥棒」
―――俺は。 何を酔狂な事しているんだろうな?
自分の行為に苦笑する。 コソ泥の代金を立て替えて、逃げた方角からアルファベット・シティだと当りをつけ。
そこら辺に屯している悪ガキどもに小金を渡して情報を集め、ようやくたどり着いた訳だ、代金回収の相手に。
最も、情報料は立て替えたソーセージ代を大幅に超過していたからなぁ、これは赤字だな。
横であの少女がムクレて座っている。 ベッドには母親らしき白人女性が上体を起こして薬を飲んでいた。
アパートの前でとっ捕まえた時に、本当に母親が風邪をひいていると聞いた。
で、今度は逃げられないように首根っこを引き摺って薬局まで行き、症状を吐かして風邪薬を購入したと言う訳だ。
「・・・本当に。 Mr、有難うございます。 何と言ってよいのか・・・」
「いえ、お気になさらず。 戦友の知人とあっては、見て見ぬ振りは非人情ですし。 それより、もう休まれた方が宜しいでしょう」
「はい・・・ すみません、お言葉に甘えさせてもらいますわ・・・ アルマ、お休みなさいね。 それと、イルマが帰ってきたら、ちゃんとお礼を言っておくように、って」
「うん、ママ。 お休みなさい。 お姉ちゃんも直に帰ってくると思うから」
少女が母親におやすみのキスをして、部屋から出てくる。 ドアを閉めて、こっちを向きなおって、そして―――
「で? アタシに何をやらせたいのさ? このロリ野郎」
―――全く。 この口調さえなきゃなぁ・・・
「言っただろ? イヴァーリ・カーネについて聞きたい。 彼が何をしていたのか、何か話していなかったか」
「アンタ、刑事?」
「・・・どうして?」
「イヴァーリおじさんの事! 根掘り葉掘り聞いてどうする気さっ!!」
―――純粋に怒っている。 これ以上貧しい弱き者から何を奪う気かっ!? これ以上何を干渉するのだっ!?
瞳がそう物語っている。 まるで世の殆ど全てを信じていない、全くの不信感を持っているかのような。
でも、ほんの少し救われる気がした。 少なくともイヴァーリの事は、彼女の不信の対象ではなかったらしい、そう思えたから。
「俺は、刑事なんかじゃない。 今はただの学生さ。 本職はイヴァーリと同じ・・・ いや、『イヴァーリも同じだった』国連軍の将校―――軍人だ。 彼は戦友だったんだ」
「軍人・・・? 国連軍・・・?」
「ああ、聞いていないか? イヴァーリから?」
「軍人だったって事は、聞いてるよ。 でも! フィンランド軍だったって・・・」
「そう、元フィンランド軍の衛士で、その後国連軍に出向していた。 俺と出合ったのはその国連軍時代の事さ」
少女の目が、まだ訝しげにこちらを見ている。
俺がこの少女を、そして家族を探したのは。 例のイヴァーリの日記の中にその記述が有ったからだ。
戦死した旧知の元フィンランド軍将校の遺族。 母国・フィンランドから脱出し、ステイツで難民キャンプに入っていた事。
退役後に住みついたNYで、その貧困街で偶然にも出会った事。
生活に困窮するその遺族に関わる事で、無気力の極みにいた彼が何とか立ち直ろうとしていた事。
キャンプから『脱走』して住み着いた違法居住者であるその家族には、まっとうな生計を立てる術など無い事。
自分と同じ、市民社会からの疎外者同士である事への、負にも思える、だが縋りつくようなシンパシー。
「・・・イヴァーリおじさん、ここ数日会ってないよ。 変なんだよ、前は1日置きに、会いに来てくれていたのにさ」
「聞いていないのか・・・?」
「何を?」
―――拙いな。 話していいものか。 相手は多少ませてるとは言え、まだ子供だ。
「何がさ!? ハッキリ言いなよっ! 付くもん、付いてんのかよ? おっさん!」
―――本気で殺意を覚えるぞ? このボキャブラリーの見事さには・・・
しかし、いずれ判る事か。 仕方ないな。
「イヴァーリは・・・ 死んだよ。 3日前だ、自宅でな」
「死んだ・・・? うそ・・・」
「死んだ。 偶々彼に会いに行く所だった俺が、警察まで身元確認に行ったんだ、間違いない」
かなりショックだったのか。 生意気な表情は消えうせ、何か独りぼっちの迷子の様な、泣きそうな顔になっている。
多分な後悔と、それでも言わなきゃならなかったと、無理やり納得させる自分の内心に苦い思いを抱きながら。
さて、どうこれから切り出そうか、そう思案していると。
―――ガシャン!
後ろでガラスコップが砕ける音がする。
振り向くと、少女の母親が開いたドアの所に棒立ちになっていた。 さっきの音は彼女がコップを落としたのだ。
「・・・死んだのですか? イヴァーリが? 彼が・・・ 死んだ・・・?」
「・・・ミセス?」
次の瞬間、彼女は糸の切れたマリオネットのように床に崩れ落ちた。
「ママ!!」 「ミセス!?」
「おお・・・ 主よ・・・ どうして、何もかも・・・」
―――彼女の虚ろな呟きが、嫌に耳に響いた。
1995年6月1日 1530 ニューヨーク ワシントンスクエア
大学の授業が終わり、図書館で調べ物をした帰り。 ふと近くのカフェで一休みしたくなった。
そろそろ暖かくなってきて、天気は快晴。 日本のように梅雨が鬱陶しいと言う事も無い。 実に過ごしやすい。
道行く人々は比較的若者が多い。
この界隈はグリニッジビレッジ、イーストビレッジ、ソーホーと言った、エネルギッシュな若者を惹き付けるエリアの真ん中に位置する。
ワシントンスクエアから10分も歩けば、ジャズクラブ『ブルーノート』 そして女性には嬉しいプラダの旗艦店などもある。
全く雰囲気は異なるが、それぞれに非常に魅力的なランドマークがあるからか。
―――『豊かなアメリカ』
当人達にとっては様々に不安も有ろう、苦しみもまたしかり。 しかし、それでも、それさえも天国に見えてしまう人々がいる事は事実だ。
この事実。 この格差。 豊かな社会は、豊かな幸福を保証するものじゃない。 少なくとも、豊かでない場所からの異邦人にとっては。
「・・・で? 結局、判らずじまいかい? その昔の上官の死の原因は」
隣でコーヒーを飲みながら、イルハンがこちらを向いて尋ねてきた。
「さっぱり。 警察は、『ヤクの売人』とか言っていたけどな・・・ でも、常習者って訳じゃなさそうだったし」
「じゃ、殺人じゃないのか? 常習者でも無いのに、オーヴァードーズ(薬物過剰摂取)は明らかにおかしい」
そうなのだ。 それにイヴァーリの手紙にあったあの言葉―――『俺は、殺される』 あの言葉が意味する所は?
昨日、サラマト刑事にアポを取ったが。 捜査は進んでいないとの事だった。 証拠は完全に消され、判った事は使用した薬物がヘロインだったと言う事だけだそうだ。
まるで事件が有ったと言わんばかりの状況だが、その証拠は全く掴めない。 サラマト刑事曰く、『まるでプロの仕業のようだ。 犯罪のプロじゃ無く、非合法工作のプロの』
その差がどう違うのか、畑違いの俺にはよく判らないが。 サラマト刑事が苦虫を潰していたのが印象的だった。
「・・・何も、判らない? その、遺族も?」
向かいに座るぺトラが、少々心配気味に聞いてくる。 同じフィンランド人。 同じフィンランド軍に身を置いていた。
そんな共通項が、彼女の関心をいたく惹いたようだった。
「ん・・・ 少なくとも、母親と下の娘は何も知らないそうだ。 上の娘とは会えずじまいだったけどね」
「その・・・ イヴァーリ、どう言う関係? 母親は・・・?」
「・・・昔の上官の遺族だそうだ、生前から親交が有ったらしい。 死んだ上官・・・ 彼女達の夫で、父親。 カレニア戦線でKIA。
89年だから、イヴァーリは24歳か。 中尉だったそうだが、何か軍紀違反で降格を喰らったそうだ」
その後、家族は母国を脱出。 難民キャンプを転々として、91年にアメリカ東海岸の難民キャンプへ辿り着いた。
キャンプを抜け出したのは、93年の頃らしい。 1年後、イヴァーリと再会する。
「何か、特別な感情が?」
意外に鋭い指摘をイルハンがしてきた。 見た目に寄らないな。
「ああ、有ったそうだ。 夫人はイヴァーリより6歳ほど年長だが・・・ 愛していたと。
御主人が戦死して以来6年。 2人の娘を抱えて難民キャンプで苦労し続けてきた。 ・・・この『苦労』が、世間一般の苦労じゃないってことくらい、判るよな?」
「ああ。 生存を取るか、人倫を取るか。 それが体を壊した要因か・・・ 『母は強し』だな」
「・・・よくある話。 珍しくは、ない・・・ でも、イヤ、凄く」
イルハンにせよ、ぺトラにせよ。 難民キャンプの出身者だ、これは愚問だった。
「ニューヨークの場末で、『絶望の街』で。 それこそ絶望していた所に現れた、亡き夫のかつての部下。
懐かしい顔。 そして何呉と気遣って呉れる相手。 多少は金銭的な援助もしていたそうだ―――夫人が頼っても、文句は言えまい?」
「その依存が、いつしか愛情に? 成程な、確かに不自然じゃない。 そのイヴァーリにしても、彼女達は縋りつきたい存在だったんだろうな」
イヴァーリはアメリカの市民権を持っていた。
彼女達が違法居住難民だとしても。 正式に夫婦となれば『夫』の市民権がモノを言う。
貧しいが、新しい家族が出来る筈だったのだ。
「・・・そのまま、新しいお父さん・・・ でも、死んだ。 何故?」
そう。 何故? それだ。
「そもそも、イヴァーリは何で生計を立てていたんだい? 警察の言う通り、麻薬の売買か? だとしたら、そうそう思い通りには行かないだろう?」
「イヴァーリが売人だと言う確たる証拠は、掴めていないそうだ。 小売りのブッシャー(場末の売人)達の口から、その名前が何度か出たそうだけど」
「・・・卸しの方か? どこかのファミリーの?」
「それは無いそうだ。 彼はどこのファミリーとも繋がりは無かったそうだから」
「・・・益々、ヘン、それって・・・」
ぺトラの言う通りだ。 確かにイヴァーリは何処のファミリーとも繋がりは無いと言う。
ならどうして、売人達の口からその名が出たのだ? そもそも彼は、何を生業としていたのだ?
そもそも、『殺される』とは、誰に? 彼は誰かに殺される様な事態に陥っていたのか?
どうして俺にその事を書いて寄こしたのだ?
そんな事を考えている内に、知らずとまた難しい顔になっていたらしい。 イルハンとぺトラが呆れる。
「いずれにせよ、直衛。 これ以上関わるな。 君は捜査官じゃないんだ、今は只の学生だぞ?
どんな組織が関わっているやも判らん。 それに、その遺族にしてもだ。 君が代わりに何時までも様子を見る訳にもいかないだろう?」
「・・・ああ、確かにな」
確かにその通りだ。 俺のNYでの滞在は、予定ではあと1カ月弱ほどで終わる。
6ヶ月間の大学での聴講生を修了して7月から3ヶ月間、アラバマ州のマクスウェル基地に付属する軍事教育機関である、アイラ C.イエイカー・カレッジに派遣される。
そのカレッジ群の中の『指揮官用専門的開発学校』に放り込まれる予定だった。 イルハンも同じで、未だ少尉のぺトラはベルファストに戻る。
何とももどかしい。 結局、イヴァーリは何を伝えたかったのか。 何を俺に言いたかったのか。
さっぱり判らずじまいのまま、そして彼に関わりの有る人々を、その現状を知りつつ何を出来る術を持たないまま、この街を去る事になりそうだったから。
「いいか、直衛。 今、お前さんがすべき事は、死んだ男の過去を探る事でも、難民の母娘の事を気遣う事でも無い。
今のお前さんのやるべき事は、軍務に従って留学を終え、戦線に復帰する事だ、違うか?」
「・・・違わない」
「なら、ネガティヴな思い込みは止めろ。 君一人が全てを放棄して関われる事なんて、同じような事の何百万分の一以下だ。
厳しい言い方をするが、それは君の偽善のマスターベーションだぞ?」
「ッ!! 判っている・・・」
同日 1950 ニューヨーク トライベッカ
昼間、イルハンに図星を指されたせいか。 何ともテンションが上がらないまま、アパートに帰って来た。
ギシギシと鳴る階段を上がり、自室のフロアに辿り着いた時。 部屋の前の人影に気がついた。
「ハイ、直衛。 元気そう・・・ じゃ、なさそうね」
「・・・? バレージ中尉? ドロテア・バレージ中尉!? どうしてここに!?」
副官部での同僚、ドロテア・バレージ中尉が俺のアパートの部屋の前に突っ立っていたのだ。―――何やら薄着のドレス姿で。
「何でも良いじゃない。 それより、部屋に入れてくれないかしら? 6月とはいえ、夜は冷えるわね・・・」
―――そりゃ、そんな薄着じゃあな。 一体どこの酒場の歌姫だよ。
ふと、彼女の予備役時代の職業を思い出して納得した。
どうやら、『副業』に手を出していたのか? それとも任務上の必要性からか? 彼女はアンダーカヴァーで動く事も多い。
「はあ、ま、どうぞ・・・」
部屋のドアを開けて彼女を中に入れる。
「ふぅ~ん・・・? 意外とまともね。 見事に殺風景な男の子の部屋だわ。 女っ気の欠片も無いわね」
「・・・勉強しに来ているんです。 ガールハント目的じゃないし、そんな余裕も有りません」
「ベルファストに留学中のあなたの以前のお仲間は、散々女の子のお尻を追いかけていたわよ?」
「はあ!?」
「ファビオ・レッジェーリ中尉、って言ったかしら? イタリア系の・・・ 私もイタリア系だけど、南部の男ってどうしてああなのかしらね?」
「ファビオ!? あいつ、いまアイルランドなんですか!?」
「他にも居たわよ? クムフィール中尉とか、リッピ中尉に、蒋中尉と朱中尉・・・ あなたの前の部隊の同僚達。 同じ時期に中尉に進級したお仲間達ね。
不思議じゃないでしょ? 彼らにも同じ教育プログラムは実施されるのだから」
初耳だった。 同時に成程な、とも。 何も教育プログラムはアメリカでだけじゃないのか。
取りあえずコーヒーを2人分淹れて、カップを彼女に手渡す。 ウィスキーを少しだけ垂らして。
さて、何から聞こうか。 何から話を切り出そうか。 何しろ、何のために彼女がここにいるのか想像もつかない。
(確か、レディ・アルテミシア・・・ アクロイド博士の警護任務じゃ無かったか?)
それとも、誰かに引き継いだのか?
「警護任務は、正式に国連軍情報部が引き継いだわ。 ま、プロのお仕事に期待しましょ?」
―――はぁ、そうですか。
「で? 今は酒場の歌姫に転職ですか?」
「そうよぉ~? ミッドタウンのお店。 よかったら来てねぇ~?」
「って! 本当に!?」
おいおいおい、本気かよ? この人・・・
「ふふふ・・・ 冗談よ。 素直な子ねぇ、君は。 可愛いわぁ」
―――ぐっ!!
「くっ! どうせ、俺はまだ21になるならずの小僧っこですよ。 まだケツの青いガキですよ。 三十路の女性から見ればねっ!!」
―――確かこの人、30歳になったんだよな?
「・・・おい、小僧。 銃でド頭ブチ抜かれるのと、コンクリ履かされてハドソン川に沈められるのと。 どっちを選ぶ・・・?」
「済みません、マーム・・・」
本気で怖かった。 女性に年を聞くのは厳禁だという格言は正しかったな・・・
「で? どうしてここに?」
「・・・見せて」
「は?」
「イヴァーリ・カーネの日記。 持っているんでしょ?」
どうしてバレージ中尉が? とも思ったが。 彼女の目が『任務』中だと告げていた。
机の引き出しから1冊のノートを取り出して彼女に渡す。
相変わらず気だるげな表情に、少しだけ真剣さが見えたのは読み出して暫くしてから。
「・・・94年の12月。 彼に何が有ったか知っているかしら?」
「去年の、12月・・・? ああ・・・」
「何?」
「昔の・・・ フィンランド軍時代の戦死した上官の遺族に、この街で再会した頃だと聞きました」
「彼自身に?」
「まさか。 その遺族ですよ。 最近知り合って・・・ で、それがどうかしましたか?」
確か、クリスマスのミサにふらりと立ち寄った先で、本当に偶然に再会したそうだ。
イヴァーリは酷く驚いていたらしい、彼女たちの境遇に。 それ以降、半年に及ぶ交流が再開された訳だが。
「・・・隠すのも面倒だし。 どうせベルファストに戻れば閲覧出来ちゃうし。 いいか、話しましょうか。
私の任務は、国連軍監査局の要請でお手伝いしてた訳ね、麻薬違法輸出入の。 ま、それ自体は第3室の任務よ。 なにせ、何でも屋だから」
「それとイヴァーリと、関係が?」
「イヴァーリ・カーネは。 合衆国市民権を取得した後、国連軍の仲介で94年の4月から連邦政府の下級職員になっていたわ。
HHS(アメリカ保健社会福祉省)、その一部局のFDA(食品医薬品局)ね。 最初の内は真面目に働いていたそうよ。
戦争帰りって事で、ちょっと敬遠されていた所は有ったそうだけれど」
―――衛士から、FDAの下級職員ねぇ・・・ まあ、見事に平穏な転職ぶりだ。
「そこで、カラクリを知ったのかしらね? どっちから接触したかは判らないけれど。 彼は94年の9月に突然退職したの」
「退職?」
「ええ。 その直後ね、ミッドタウンに小さな会社を興したわ。 雑貨の輸出入を扱う、一部屋だけの小さなオフィスの、小さな会社。
―――でも、扱う品は小さくなかったわ」
「・・・何を扱っていたんです?」
「アヘン」
「えっ!?」
「アヘン。 ケシ科ケシ属に属する一年草の植物、『Opium poppy』、学名『Papaver Somniferum』 この植物の未熟果から採れる乳液状の物質。
それがアヘン。 その中には約10%程のモルヒネを含むわ。 鎮痛・鎮静薬としてのね。 戦場でお世話にならなかった?」
「一度、イベリア半島で負傷した時に」
「そう。 で、モルヒネを無水酢酸で処理して生成されるものは?」
「・・・ヘロイン」
―――なんてこった!! イヴァーリの奴、本当にっ!?
「アヘンの輸出入自体は違法ではないのよ。 ちゃんと国際条約で制限された内容で有ればね。
それに今は各国ともに大量のモルヒネを必要としているわ。 戦場で戦ってきた貴方なら判るでしょう?」
―――重傷を負った時。 最早処置の施しようが無く、ただ痛みを和らげる事が慈悲だと思えるような場合。
モルヒネは最後の頼みの綱だった。 少なくとも、痛みだけは和らげて戦友を逝かせてやるしかなかった。
もっと副作用や依存性の無い薬物も有るにはあるが、そんなモノお目にかかった例が無い。
生産数が少なく、コストもまだまだ高いからだと言うからな。
最前線じゃ、手っ取り早い方法―――極東戦線じゃ、すぐ後方にある中韓国境地帯のケシ生産地帯から生アヘンを入手して、それを密かに売り捌く連中もいた。
依存性が有る事は承知の上で、多くの将兵がアヘンに手を出していた。 一時でもあの先の見えない絶望と恐怖から逃れる為に。
幸い、俺のいた部隊にはアヘンに手を出した奴はいなかったが(手を出した途端、広江大尉―――今は少佐か―――に、死ぬほど殴られただろう)
「今、モルヒネの最大生産国は合衆国よ。 そこから世界中に輸出されるわ。
自国でモルヒネの自家生産確保が出来る国は、限られているわね。 同時にそれらの国は、アヘンの輸出国よ。
―――中米、アフリカ、東南アジア、そして・・・ あなたの祖国・日本」
・・・それは知っている。
東北や北海道で『北方気候型』、『蒙古気候型』と呼ばれる種を栽培している事は。
「イヴァーリは、その輸出入を?」
「代行でね。 ま、取引量は個人商店だから少ないし、国際取引価格だから儲けも少ないわ・・・ 合法の限りでは」
「・・・どう言う事です?」
「彼が扱った商品の輸入先は、主に国連軍からの仲介先だったの。 海外のアヘン生産国ね。
当然、合法的な輸出入だけど・・・ 今は需要と供給のバランスが大幅に崩れているわ。 生産過剰なのよ」
「生産過剰?」
「このご時世でしょ? 各国ともに少しでも外貨を稼ぎたいのよ。 戦費調達は難しいわよ?
そこで、抜け道が有るわ。 さっきも言ったでしょ? アヘンはヘロインの材料だと」
「過剰のアヘンを密輸入して、アメリカ国内の流通に卸す・・・」
「そっ 相手は犯罪組織じゃ無い、立派に外国の政府組織よ。 下手に合衆国内の犯罪組織に接触する訳にもね?
彼は『仲買人』として直接交渉できない外国政府組織に代わって、各ファミリーへの交渉役と仲買役をやり始めたわ」
そんな事を・・・ でも、どうしていきなりそんな? それまで少し敬遠されながらも、真面目に働いていたのに?
「実は国連も見て見ぬふりよ。 情報部は各国政府の『副業』を黙認していた。 最前線国家が疲弊しすぎるのも拙いし、ある程度はね」
「連邦政府は? DEA(アメリカ麻薬取締局)なんか黙ってませんよ? FBIだって出張って来そうだ」
「その連邦政府もグルだとしたら?」
「・・・え?」
「無制限に、無秩序に麻薬が流入していた状況から、ある程度コントロール出来る状況になるとしたら?
その辺り、国連と連邦政府にどんな裏取引が有ったかは知らないわ。 知りたくも無い、死ぬのは御免よね?
―――イヴァーリ・カーニは少なからぬ金を稼いでいたわ」
バレージ中尉の話では、その頃のイヴァーリの生活は派手だったそうだ。
そして、なにか自棄になっている様な、刹那的な様子だったと、当時を知る人間からの聞き取り調査報告が有ったと言う。
「ひと晩で何万ドルも使ったりね。 ホント、一度でいいからやってみたいわね。
―――っと、睨まないでよ。 嘘よ、嘘。
で、そんなイヴァーリ・カーニに変化が見えたのが去年の年末ごろかららしいの」
「変化?」
「ええ。 急に大金をあちこちの慈善団体―――特に、難民救済団体に寄付し始めたらしいわ。
凄い時には何十万ドルも。 団体の方でも驚いて。 何しろ合衆国のカネ持ち連中で、難民救済団体に寄付する人間は少ないものね」
「・・・格安の労働力を奪われますしね」
事実だ。
難民キャンプの難民の待遇は、その地域差が有るが。 合衆国では殆ど『奴隷労働力』とでも言いたくなる程の格安賃金での労働力になっている。
最低限、生きていける程度の収入。 合衆国の市民権を得る為の軍への志願資格―――3年間の無犯罪居住と、英語力の認定試験、それを実現する為の保証がこの『奴隷労働』
だから誰も文句は言えない。 文句が有るなら、余所の国のキャンプへどうぞ、と言う訳だ。
そこにはより悲惨な状況―――飢餓と疫病の蔓延。 毎日数10人、数100人単位で死んで行く人々。
「・・・イヴァーリが寄付を始めた頃は、あの遺族と出合った頃だ」
「ふ~ん? 確か未亡人が居たと聞いたけど? そう言う関係なの?」
「・・・イヴァーリ本人には聞けないけど。 夫人は彼を愛していたと」
「忙しい男ね。 世の中に絶望して、違法行為に手を染めて。 今度は旧知の女性に出会って、神様の慈悲を乞う?
知っていた? イヴァーリ・カーネが良く行く店でリクエストしていた曲。 『Amazing grace』だって」
「・・・『Amazing grace』?」
「知らないかしら?」
「いや、知っている。 でも、日記の中じゃ、彼はその曲を嫌っていた筈・・・」
「去年のイヴの頃までね。 それ以降の日記には、そんな記述が一切無いわ。
ホント、忙しい男。 慈悲を乞うて、贖罪を購おうとして―――消された男」
―――消されたっ!? やっぱり!?
「そう、消されたのよ。 誰に? そう、そこが謎になるわね、外から見れば・・・」
「内から見れば・・・?」
「判るでしょう? 国連と連邦政府よ。 具体的に言えば、国連軍情報部とDEA、それに輸出入先の各国情報機関。
慈悲の心が仇になったのね。 この商売から手を引く、これからは難民救済に関わる―――各組織共に慰留を求めたらしいけれど。 これが今年の2月頃。
自分に係るなら、害するなら今までのカラクリを暴露する―――各組織の合意は即日だった様ね。 これがつい先月の話」
―――ああ、それで監査局か・・・
「・・・公表はされないわ。 私も報告すると同時に忘れてやる事にするわ、命は惜しいものね。
形式だけでも、監査はやらないと、って事でしょ。 ま、公然の秘密だし、ちょっとその道の人間に嗅ぎ付いて貰えばすぐ判る話ね」
「でも、無かった事になる。 恐らくイヴァーリには、何処かのファミリーとの繋がりがでっち上げられて。 犯罪者として葬られる事になる」
「実際、犯罪者だったけれど。 大きなトカゲの尻尾切りね、今頃は何処かの誰かが後を継いでいるでしょうね。
―――イヴァーリ・カーネより神経が太くて、倫理観の無い奴が・・・」