1996年1月1日 0130 北フランス パ・ド・カレー県 カレー基地
年が明けた。
1996年。 この年はどんな年になるのだろう? 私にとって、皆にとって。 そして、人類にとって。
願わくば、一筋の光でも見い出せる年でありますように・・・
毎年同じように祈るような願いを、私は今年も同じように祈り、願う。
明けない夜は無い。 夜の闇が最も濃くなる時は、夜明け前なのだから。 だから私は祈り、そして願う。
この夜の暗闇の時代がいつの日か終わる事を祈って。 光明に照らされた時代が来る事を願って。
「蒋中尉、コーヒー入りましたよ」
ハンガー脇の当直室。 手っとり早い話が、警急待機の為の衛士の詰め所。 だから今の私は強化装備姿。 まったく、新年をこの格好で迎えるなんてね。
粗末な当直室の備え付けのコーヒーポットから、1杯のコーヒーを淹れてくれるのは、今夜の副直将校のアリッサ・ミラン少尉。 早い話が臨時のエレメント相手。
先年末から強襲支援任務の第3小隊から、左翼迎撃支援の第4小隊へ移った衛士だ。
「サンキュ、アリッサ。 どう? 新しい小隊、馴染めそう?」
「別に中隊が代わった訳じゃないですから。 それに私は左翼強襲支援やってましたから、第4小隊との連携は常でしたし。 違和感は無いですよ」
屈託なく、それでも自信を持って笑うアリッサ。
逞しくなったものね。 一昨年の新任時代は、直衛に散々扱かれて泣きべそかいて、ギュゼルに陰で励まされていたヒヨっ子だったのに。
ま、彼女もあと3カ月もすれば順当に中尉に進級するだろうし。
これまで戦い抜いてきた戦歴は、欧州でも一頭地抜いているものね。 私達、国連軍の緊急即応部隊は。
「で、4小隊の雰囲気・・・ いえ、士気の方はどうなの? 正直言って、私の目からは以前の精彩を欠いていると感じるのだけど?」
「そりゃ、前任小隊長が戦死してまだ10日も経っていませんし。
新しい小隊長のアルドゥッラー中尉は頑張ってるけど、自責の念ってやつですか、そんなの引き摺っている感じです。
パトリツィアはようやく、萎縮から回復してきた所だし。 ウジェールは普通ですね」
「エレメント変えたって?」
「はい。 小隊長とウジェール、私とパトリツィア。 じゃないと、小隊長もパトリツィアも動きがギクシャクしちゃいますしね」
カップから立ち上る湯気を眺めながら考える。
前任のニコールが戦死した直接的な要因。 パトリツィアが要撃級のタナトーシスに引っかかって。
撃破される寸前で、ニコールの機体が間に割って入った。 その結果パトリツィアは助かったけど、ニコールと要撃級BETAは相撃ちの形に。
パトリツィアのエレメントだったアスカル・アルドゥッラー中尉は、丁度反対側を哨戒中で咄嗟に動けなかった。
ニコールは中隊副長としても、小隊長としても、部下や中隊の面子の信頼を得ていた指揮官だったし、何より中隊長の右腕だった。
その彼女を自責で失ったと感じているアスカルとパトリツィアの2人は、今後も当分様子見が必要でしょうね・・・
「パトリツィアは私が面倒見ますよ。 3小隊でヘレナをフローラに取られちゃったから、面倒見る後任が居ないんですよ、はは!」
「・・・後任って、パトリツィアは貴女とは半年違いなだけでしょ? 今更新任って訳じゃないんだし」
「後任は、後任です! 後任欲しいんです! 何時までも一番下っ端って・・・」
「あ~・・・ はいはい、好きにしなさい」
―――私だって、直接面倒見ている後任はいないんだけどな・・・
中隊副官の立場上は仕方無いんだけれど。 何せ中隊長のエレメントになるのだし。
コーヒーを一口飲んで、ふと窓の外に目をやる。 真っ黒な外の景色、雪が積もって窓明かりに照らされたその場所だけが、白く光って見える。
本来はメキシコ湾流の暖流のお蔭で、緯度の割には気温の高い欧州沿岸部だけれど。
BETAの悪食のお蔭で目ぼしい山脈が一気に標高を下げてしまった結果、北極海からの寒気を遮る地形的要素が無くなってしまって。
冬場は特に、北からの湿った寒気と、暖流の暖かい空気が衝突して降雪や濃霧を引き起こしやすくなったそうだ。
「時に、中隊長の様子はどうなんですか? 中尉はエレメント組んでいるし、中隊副官だからよく判るでしょ?」
アリッサが机にもたれかかって、コーヒーを啜りながら聞いてきた。
何と言うか、今、中隊内で一番微妙にして、触れたく無い話題ね。
―――う~ん、何と言うべきかなぁ・・・
「実際、気になるんですよ、中隊の皆も。 見た目は変わらないようですけど、変わらない筈無いですもんね、何せ・・・」
「ストップ、アリッサ。 ここでは良いけど、外でその話をそれ以上はダメよ」
「中尉?」
「気になるのは判るわ。 心配する事もね。 でも口に出しちゃダメよ、話が独り歩きするから」
それが怖い。 そしてその事を耳にした中隊長がどう意識するかが怖い。
中隊長とて、歴戦の衛士だ。 噂や流言で右往左往するような所なんか最早無いかもしれないけれど、それでも怖い。
死んだのはニコール。 中隊長の長年の半身とも言うべき女性。 それがどれ程影響するのか判らないもの。
「大隊長も、3中隊のウェスター大尉もいるわ。 あの人達もフォローしてくれている。 私達は普段通りにしていればいいのよ。
変に気遣って、勘ぐって、却ってギクシャクして中隊長の枷になってはダメなの、いいわね?」
「はあ・・・」
納得したような、出来ないような、中途半端な表情のアリッサ。
判らないでもないけれど、人の心理なんて本人じゃないと伺い知れないもの。
中隊長がどう思っているのであれ、普段通り軍務に精励しているのであれば、それを乱すような事はしない方が良いと思う。
時が全て解決してくれるなんて思っていないけど、それでも時が過ぎれば気持ちの整理も付くと思う。
それまでは変に気を遣うのも、かえってマイナスだと思う。
「私が見ているから。 あなた達は普段通りやってなさい。 何かあれば私がサイン出すしね」
「・・・お任せします。 こんな事言うのも何ですけど、死んだオベール大尉(戦死後1階級特進)を除けば、中隊長の事一番よく見てきているのが蒋中尉だし?」
ちょっとだけ茶化す様な表情のアリッサに、少し苦笑してしまう。
彼女のその表情が、無理やり作られた者だって事に気づいたから。
中隊の皆も、重いのよね、本当は。
今までの戦死者や戦傷者に対して失礼になるかもしれないけれど、ニコールの死は中隊長だけでなく、中隊全体にとっても重いのよ・・・
「任せなさい。 伊達に2年近く、中隊副官やっている訳じゃないんだからね?」
―――そう、その時はそう思っていたの。
1996年1月10日 1530 イングランド カンタベリー基地
補給・支援体制やその他諸々、軍隊には戦闘する以外にも、様々にやらなきゃいけないお仕事は山ほどある。
私は今日、その調整会議の随行としてカンタベリーに来ている。 我が大隊からは代表としてロバート・ウェスター大尉が。
その随行としてオードリー・シェル中尉(第3中隊副官)、ウィレム・ヴァン・デンハールト中尉(第1中隊副官)、そして私、蒋翠華中尉(第2中隊副官)の3名。
旅団全体の話は、旅団司令部から兵站参謀が来ているからそこで済むけれど。 他にこまごました話しや、各々の隊の要望やら交渉。
一昨日やって来て、会議や相談やで、ようやく何とか話がついた感じね。
基地のサロンで独りホッと一息ついていたら(オードリーとウィレムはもう暫くかかると言っていた)、ウェスター大尉に声をかけられた。 傍らに見かけぬ女性将校を連れて。
「ご苦労だったな、蒋中尉。 第2中隊はもういいのか?」
「はい。 こちらで話を付ける事は全て。 後は向うに着いてから、細かい調整です」
などと話しながら、知らずその女性に目が行ってしまっていたのだろう。 ウェスター大尉が苦笑とも、はにかみとも取れる笑みで紹介してくれた。
「私の妻だよ、フランソワーズだ。 今日は仕事でこっちに来ていてばったりね。―――わざわざこんな危険な所まで来る事は無いのにな。
フラン、彼女は蒋翠華中尉。 ヴァルターの下で副官をしている」
「奥様でしたか、失礼しました。 蒋翠華中尉です」
「フランソワーズ・ウェスター主計中尉ですわ。 兵站総監部に勤務しています。
言ってやって下さいな、蒋中尉。 兵站部とて、任務次第で前線近くまで来る事もあると。―――そう、貴女が・・・」
―――貴女が?
軽く礼をして奥様の方へ挨拶すると、何故かそんな感じで微笑んで言われた。
改めてみれば、淡いクリーム色のウェーブのかかった髪を綺麗にアップにして。
ちょっと薄めの緑の瞳が柔らかそうな印象を受ける。 年の頃は私より2、3歳上かしら?
着ているのは当然、画一的な国連軍の軍服なのに。 如何にも上品なお姫様といった印象で。
何より驚いたのは、その印象と言うか。 先程微笑んだその顔が、彼女にそっくりな印象を受けたから。 ニコール・ド・オベール、彼女と。
「驚いたかな? 妻はフランス系で、ニコール・・・ ニコール・ド・オベール、彼女の母方の従妹に当たるのだよ」
「えっ!?」
思わず奥様の方を見てしまう。
「ええ、そうなの。 ニコールとは従姉妹同士で・・・ 彼女の方が1歳年上で、昔からよく一緒でしたわ」
やっぱり柔らかに微笑みながら、奥様も肯定する。 はぁ、ビックリね。
何と言いますか、ニコールが衛士にならず、そのままお姫様として今に至れば、目の前の彼女―――フランソワーズのようになったかも、そんな気がした。
それから暫くフランソワーズと2人、サロンでお茶を飲みながらお話していた。(旦那様のウェスター大尉はまだ残りの仕事が有るとか)
何と言うか、本当に良い意味で良家のお嬢様と言うか。 おっとりしていて、品も良く、それでいて気さくと言うか。 性格も良さそうな女性ね。
「・・・じゃ、お二人の結婚は、元々は大尉とニコールの紹介で?」
「ええ。 私は当時、ノッティンガムの兵站学校でフランス語の臨時語学教官をしていたのですけれど。
いきなり従姉のニコールが訪ねてきてくれて。 ・・・ヴァルターと、主人が一緒でしたわ。
今にして思えば、2人して画策したのでしょうけれど」
当時を思い出してか、クスクス笑うその表情がまた、ニコールを思い出しちゃう。
「その内に、ニコールとヴァルターは何処かへ行ってしまうし。 主人はそんな事知らなかった様で、私と2人、途方に呉れてしまいましたわ。
彼も休暇で、単に誘われてついて来ただけの様で。 結局私が案内する事になったの」
「それがきっかけで?」
「ええ。 英国人って、変に堅苦しくて、面白味が無い。 そんな風に勝手に思い込んでいたのですけれど。
意外にフランクで、話題も洒脱で。 でも誠実そうな方で。 半年程お付き合いしたかしら?
ある日、両手一杯の花束と一緒に、いきなりプロポーズされて。 思わず『Yes』と言ってしまったの」
「その場の勢いにやられて?」
「ええ、そう。 本当は策士なのかも知れないわね?」
2人顔を見合せて笑い合う。
普段通り、落ち着いた余裕の表情で。 でも内心はドキドキしながら花束を選んで、プロポーズの言葉に悩んでいたかもしれないウェスター大尉。
幼馴染の従妹を、信頼する戦友をひっつけようと茶目っ気丸出しで、でも内心で幸せを願って悪だくみするニコールとアルトマイエル大尉。
私の知らない上官たちの一面。 何時もしかめっ面や不敵な表情の裏にも。
こんなちょっとした茶目っ気の有る、それでいて温かい顔もちゃんと持っていたんだって、改めてホッとした。
「ヴァルターは・・・」
「はい?」
「ヴァルターは、勁い人。 でも心配なの、どんなに勁くても、どんなに強靭でも。
炎に焙られ、風雪に晒され続ければ、どんな名剣でも脆くなるわ。 私は、それが心配・・・」
「フランソワーズ・・・?」
カップに視線を落として、憂い顔に眉を顰めたフランソワーズの言葉が引っかかる。
「彼は戦地でお父様とお兄様を亡くして、早くに男爵家の当主にならなければならなかったの。
そしてドイツの陸軍幼年学校(Kadettenanstalt)を繰り上げ卒業して間もなく、戦況の悪化で士官学校に進む事無く、衛士課程に・・・ 初陣は85年、16歳の時だったそうよ。
皮肉にも、初陣の負け戦はシュヴァルツヴァルト(黒い森)から突進してくるBETAに、故郷を蹂躙された『ラインの護り』作戦・・・ 故郷でお母様とお姉様を失ったの」
「・・・」
「そこからダンケルクまで、負け戦に次ぐ負け戦。 まだ若いフォン・アルトマイエル少尉は何をすべきか判らぬまま、ただただ恐怖と闘っていたそうよ。
そしてグレートブリテン防衛戦でのロンドン防衛戦。 テムズ河の防衛ラインで彼は逃げてしまったの」
「ッ! 逃げた!? 敵前逃亡!?」
思わず大きな声を出した私を、何事かと周囲の人たちが視線をくれる。
思わず首をすくめてしまったけど。 そんな私の仕草を面白そうに見て、フランソワーズが話を続けた。
「正確にはそうじゃないの。 あの当時、あそこには・・・ ドイツ貴族や騎士出身者で固めた部隊が防衛していたのだけれど。
グリニッジに布陣していた彼の中隊がBETAへ最後の突撃を敢行した時、彼は動けなかったの。 負傷していたのだけれど」
「だったら! 逃げただなんて・・・!」
「彼の中隊で最後まで生き残っていた衛士は、彼を含めて7名。 その内負傷者は4名。 損傷機体は5機。 態のいい自殺ね。
・・・生き残りは彼一人だけ。 後は全員、BETAの群れに中に突撃して消えて行ったそうよ」
「そんな、馬鹿な事を・・・」
「そうね、馬鹿ね。 それに如何に貴族とは言え、未だ16歳の少年に『今から死ね』などと。
貴族だから? 騎士だから? 『フォン』の称号持ちは、人並みの感情を有する事さえ許されないの?
まだ戦場に出て僅か数カ月。 未だ16歳の少年に、戦場で戦って、生き残って、負傷して。
それだけではダメなの? それ以上の事を、『死ぬ事』を当然の如く受け入れる事までしなくちゃいけないの?」
フランソワーズの言葉は、ゆっくりと、落ち着いて。 でもその言葉の奥にはどうしてもやる瀬ない、憤りが宿っていて。
「・・・『貴族も騎士も、民の範たれ。 民を護る剣にして盾たれ』 呪縛だわ」
「でも、実際に『フォン』の称号持ちが集まった部隊だからこそ、テムズ河前面で持ちこたえたのですし・・・」
「そうね、結果はそうね。 でもどうかしら? だとしたら、英国貴族は? 英国騎士は? フランスの貴族や騎士は?
テムズ河前面の部隊が、普通の庶民出身者の部隊では防ぎ切れなかったのかしら?
私には結果論を、無理に押してけられているとしか思えないの・・・」
私の祖国・中国には、貴族も騎士もいない。 でもみんな頑張っている。
応援してくれる韓国軍も、貴族も騎士もいない。 日本は貴族も騎士(いえ、武士、武家と言ったかしら)もいるけれど。
大陸の前線に出てきているのは、庶民出身者が殆どだって直衛が言っていたわ。 武家貴族で構成された『斯衛軍』は出てきていないって。
東南アジアはどうなの? カーストの色濃いインドや、身分制度が色濃く残る中東は判らないけれど。
でも89年に全滅と引き換えにスエズを死守した『ホルシス(エジプト軍第331戦術機甲大隊)』は、貴族じゃ無かった筈よ。
北欧を支えたのも、イタリア半島を最後まで支えたのも。 一昨年イベリア半島で出会ったスペイン軍のあの陽気な衛士も。
決して一握りの貴族階級や騎士階級なんかじゃ無い、その土地に生まれ、その土地に育ち、その土地を愛した多くの名も無い庶民の出身者だった筈。
皆、戦場では怖くて、体が竦んで。 戦友が生きながらBETAに喰われる様に慄いて、悪夢にうなされて。
色んな失敗をして、恥も外聞も無い格好を晒して。 それでも歯を食いしばって、生き抜いてきたからこそ、人類は今なお滅亡の淵から止まっているのじゃ無かったの?
貴族だからって、騎士だからって。 その恐怖に、その悪夢に慄いてはならないなんて法は無い筈よ。
「・・・結果、生き残ったフォン・アルトマイエル少尉は。 軍法会議の結果、士官の階級と衛士資格をはく奪されたの。
そして兵卒―――上等兵に降格の上、懲罰大隊送りになったわ。 歩兵として」
「懲罰大隊!?」
「ええ。 散々誹謗されたようね、とても口で言えない程に・・・ 今でも彼を唾棄する西ドイツ軍の将校は居るわ。 特に貴族や騎士階級出身者に。
懲罰大隊で1年間、地獄の中の地獄で生き抜いて。 ようやくブリテン島に帰還した彼と再会したのは86年の冬だったわ。
目を疑ったわ、私も、ニコールも。 私達は一族でブリテン島に辛うじて避難してきたのだけれど。
明るく、溌剌として眩しい程だった幼馴染の年長の少年は・・・ 昏い瞳の、表情の消えた『ゲシュタルト』のようだったわ」
「・・・」
「再会した頃は、私やニコールの呼びかけにも何の反応も無くって。 それは悲しい事だったわ。
特にニコールは・・・ 何度も、何度も、部隊に面会に行ったり、休暇の時には無理に付き添おうとしたり。
そんな彼女に、あの頃のヴァルターは苛立って、怒鳴ったり、罵声を浴びせかけたり・・・」
「ええっ!?」
大尉が、あの大尉が、ニコールに罵声!? え? 怒鳴ったり!? 信じられない・・・
「彼と、彼女の間にどんな遣り取りが有ったのか判らないわ。 私には、そこまで土足で踏み込み権利は無いもの。
でも彼は1年とちょっとの後、88年に国連軍の衛士訓練校の門を叩いたの、立ち直る為に」
「・・・大尉って、訓練校の出身者だったんですか」
「結果的にね。 89年に卒業して、正式に国連軍の少尉に任官して。 20歳になっていたわ。
その年ね、ニコールも衛士訓練校に入校したのは。 ・・・私も翌年に試験を受けたのですけど、運動神経が全くダメで、不合格」
最後に、ちょっと茶目っ気に自分の事も言ったりして。
「その後は人が変わったかのようだったわ。 傍から見ていた私でも判る位に。
何時の間にか『突風(ヴィントシュトース)』なんて御大層な呼び名まで・・・ 本人は迷惑そうだったって、ニコールが言っていたわ。
戦功をあげて、いつの間にか大尉にまで昇進して。 勘違いしている人は多い様ね、『彼もようやく自覚したか』とか何とか。
いいえ? 違うわ。 そうじゃないの、彼は護りたかっただけ。 その為の術と勁さを得たかっただけ。
―――彼が、彼として生きて行く為に、彼女を護りたかっただけ」
「ニコールを、護る、勁さ」
「ええ、そうよ。 彼が、彼として生きる理由だったのよ、ニコールは・・・」
営門までの道すがらの並木道を、フランソワーズと共に歩いた。 すっかり葉を落とした楡の木が両側に続く道。
BETAの浸食で一時はこの地も丸裸同然になったと聞いたのだけれど、近年の植林が功を奏したのだと聞く。
最も広い地域で見れば苦戦しているらしい。 理由は簡単、BETAのせい。 腐葉土層まで根こそぎ喰い尽されたから。
ウェスター大尉はあの後一度顔を出したのだけど、また会議に捕まってしまって。 私が代わりに見送りに。
フランソワーズはこれから、兵站総監部のあるベルファストまで戻ると言う。
「大尉はお忙しいですから。 フランソワーズ、気にしないでね?」
「ふふ、いつもの事よ。 主人は根が真面目だから、誰かに代わって貰うと言う事さえ、考えつかないのよ」
―――これも夫婦ならでは、って訳ね。
ちょっとした惚気も微笑ましい。
フランソワーズと言う女性は、どこかしら人をホッとさせる雰囲気を持った女性だと思う。
「翠華、貴女はヴァルターの副官なのでしょう? でしたら、お願い。 彼を見ていて欲しいの」
「フランソワーズ?」
過ぎゆく楡の木々を眺めながら、何気にかけられたフランソワーズの言葉に思わず問いかけてしまう。
そんな私の声に関係無く、彼女の言葉が続いた。
「貴女の都合も聞かないで、本当にごめんなさい。 迷惑かも知れないのですけれど、見ていて欲しいの、彼を。
主人からの便りにも書いてあったの、心配だと。 もし、あの時のヴァルターになってしまったら・・・ もう、彼は生きていないでしょう」
その言葉にゾッとした。 フランソワーズの声は柔らかく、聞く人の耳に心地良い声質なのだけれど。
ゾッとした。 そして思い出した、あの時、ニコールが戦死した夜の安置室での大尉の後姿を。 そしてあの時感じた恐怖を。
私はあの時、大尉に彼を重ねて見ていたのだ。 大尉の姿に彼を―――直衛を重ねて。
生きる理由を失った大尉のあの後姿を見て、もし直衛がそうなったら、と。
そして恐怖したのだ、私は。 もし直衛がそうなったとしても、その時死んでいるのは私じゃないと言う事に。 それは『彼女』しかいないと言う事に。
私じゃ無い。 彼女だと。 私はその理由にならないと、直感でそう判ったから怖くなった。
私にとって直衛は『死ぬ理由』、『死ねる理由』 3年半前の北満州で、彼にそう言った覚えが有る。
じゃ、彼は? ―――彼にとって、『彼女』は多分、『生きる理由』 それは『彼女』にとっても同じ事だと思う。
もし―――もしも。 極東に居る『彼女』が死んでしまったとしたら。 多分、直衛は今のアルトマイエル大尉同然になるだろう。
その時私は? 彼にとって私は? 私が死んだとして、彼はどうなるの? ―――変わらない、多分。
もし彼が死んでしまったら、私はどうなるの? どうするの? どう戦うの? ―――どう生きて行くの?
(―――なんて・・・ なんて、嫌な女なんだろう、私は・・・ッ)
目の前が真っ暗になる。
どうしよう、どうしよう―――そうすればいいの?
「見ていて欲しいの、彼を―――ヴァルターを」
フランソワーズ、ごめんなさい。
多分貴女は、最もその資格の無い女にお願いしているのよ・・・