黄巾賊討伐に当たっている曹操の元へ、二千の兵を引き連れた曹洪は合流した。
着陣後すぐに通された天幕はさしたる広さもなく、曹操が私室として使用しているもののようだった。
「よく来てくれたわね、幸蘭」
「はいっ。お久しぶりです、華琳様」
曹洪―――幸蘭は、長らく合わずにいた年下の従妹に対して、跪拝して初めての臣下の礼を示した。
曹操―――華琳はそれを当然のこととして受け、幸蘭に立つよう促した。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
しばし互いを見つめあう。華琳は挑むような視線で。幸蘭は探るような視線で。
「品定めは済んだかしら?」
「うふふ、気が付きました?」
「当然じゃない。私を誰だと思っているの?」
「曹孟徳。一門の頭領にして、我が主君」
「それは合格ということかしら?」
「はい。最も私は初めから華琳様の器を疑ってなどいませんでしたよ。」
「あなたの所の天の御遣いのため、というわけかしら?」
「その呼び方をすると、仁ちゃん怒りますよ」
「いいのよ、怒らせておけば。それで、あの子はやっぱり来ないって?」
「はい。仁ちゃんからその件に関して手紙を預かってきています。」
「そう、見せて頂戴。」
「はい。」
「華琳様っ!」
その時、一人の少女が天幕に勢いよく駆け込んできた。
「あら、そんなに慌ててどうしたの、桂花?」
「そ、それは。・・・ま、まもなく軍議の時間となりますのでお知らせに」
「ふーん。それだけかしら?」
「は、はい」
桂花と呼ばれた少女は、やや上気した顔をうつむけつつ答えた。
その視線は窺うように華琳と幸蘭の間をさまよい、また地面へと戻っていく。
(・・・華琳様の女の子好きは相変わらずですか。)
「・・・そう。でもちょうど良かったわ。春蘭と秋蘭もあの子のことは気になっていたみたいだし、手紙は軍議の後にみんなで
見ましょう」
「はい。わかりました」
「それと桂花とは初めてだったわね。二人には今後我が軍の中枢を担ってもらうことになるわ。お互いのことをよく理解しあっ
ておきなさい」
「はい。私は姓は曹、名は洪、字は子廉。華琳様に真名を許されているみたいですし、私のことも幸蘭と、真名で呼んでくださ
いね。」
少女は姓は荀、名は彧、字は文若と名乗ったまま、じっとこちらを見ている。
「・・・」
「・・・」
(・・・なるほど、そういうこと)
幸蘭は少女に近寄ると、その耳元でそっと囁いた。
「私と華琳様は女と女の関係ではないから、安心してくださいね」
「なっ!」
少女は真っ赤になって一歩後ずさると、こちらから目を逸らしつつも答えてくれた。
「真名は桂花よ。好きに呼んで頂戴。」
3人で本陣中央に設けられた大きめの天幕に移動した。
「幸蘭。久し振りではないか」
「お久し振りです、春ちゃん、秋ちゃん」
幸蘭は勢いよく駆け寄ってきた春蘭を抱きとめ、その後ろからゆっくりと歩み寄ってくる秋蘭に微笑みかけた。
「この1年、顔も出さずに何をしていたのだ?」
「姉者、知らないはずはなかろう。幸蘭は県長として任地に出向いていたのだ」
「お、おお、そうだったな」
「ふふ」
1年前と変わらぬやり取りに、幸蘭は思わず笑みをこぼした。
「さて、全員揃ったことだし軍議を始めるわよ」
「はっ。し、しかし華琳様、仁のやつがまだ・・・」
「その話は軍議が終わってからしましょう。いいわね?」
「はあ」
春蘭が所在無げに視線をさまよわせる。それを秋蘭が愛おしげに眺めている。
「ふふ」
これもまた1年前と同じ光景だった。
(・・・へぇ)
軍議は桂花を中心に進められていた。桂花は幸蘭の想像以上に優秀な軍師であった。
幸蘭軍合流によって、変更を余儀なくされた行軍計画、軍編成、兵糧問題は既に組み直されていた。
各地で兵を募りつつの行軍であった。着陣するまで正確な兵数の把握が不可能だった状況を考えると、桂花は着陣後の短期間で
これを行ったということだろう。
(華琳さまが真名を許すのもうなずけますね。あとは戦略、戦術面ですけど・・・)
その点に関しては、幸蘭には何の心配もなかった。この軍には春蘭と秋蘭、比類なき武勇を持つ猛将・夏候惇と智勇兼備の将・
夏候淵がいる。そして彼女達を率いるのは、軍事の天才といっていい華琳なのだ。
事実、華琳は挙兵から幸蘭が合流するまでの1月足らずの間で、いくつもの戦果を挙げていた。
距離を置いてみて初めて分かる事もあるということか。本人の前で言ったとおり元より華琳の器、才覚を認めていた幸蘭ではあ
ったが、他者の口からもたらされる彼女の評判は、傍にいた頃とは違う響きを持ってその耳に届いた。そして曹孟徳という大器
に幸蘭は改めて忠誠を誓い、華琳と対等であろうとした曹仁はさらに距離をとることを選んだ。
「それでは、これで軍議は終わりとしましょう。各人、持ち場に戻りなさい」
華琳の言葉に将が散会していく。とはいえまだまだ小さな軍だ。将の数も決して多くはない。すぐに天幕には数人を残すだけと
なった。去っていく将を無言で見送る華琳、その華琳の傍に控える桂花、落ちつかない表情でこちらを見ている春蘭、それを楽
しそうに見つめる秋蘭、そして幸蘭。
「華琳様、幸蘭、仁のやつは?」
「ええ、来ないそうよ」
「そんな!?どうしてですか?」
「それを今から聞くところよ、幸蘭。」
「はい」
幸蘭は華琳の前に進み出ると、2本の竹簡を取り出した。
「あら、2本もあるのね。けっこうな長文なのかしら」
「いいえ、2種類あるんです。こちらが出立前に華琳様へと託されたもの、そしてこちらが仁ちゃんの部屋のゴミ箱から漁った
ものになります」
「ふふ。相変わらず意地が悪いわね、幸蘭」
「うふふ、華琳様こそ、楽しそうです」
「ええ、よくやったと褒めてあげるわ、幸蘭」
「ふふふ」
話が飲み込めずにいる桂花、呆れた様な表情の秋蘭、焦れて落ち着きを失いつつある春蘭を尻目に、2人は意地の悪い笑いをこぼ
した。
「ふふ。それではどちらから読みますか、華琳様?」
「そうね、まずは建前の方を読ませてもらいましょうか」
「では、こちらを」
華琳は出立前に渡されたという竹簡をうけとると、春蘭の方へ視線を送った。春蘭は期待を込めた瞳で華琳を見つめていた。
「仕方ないわね」
やれやれ、と一息つくと華琳は読み上げた。
「曹孟徳殿へ
この度、賊軍討伐の任に当たられると聞き及びました。
不肖、私もすぐにでも馳せ参じて貴方様のために存分に槍を振るおうと、心に期すところがございました。
しかし貴方様の下で槍働きを行うには、まだまだ私には役不足だと痛感してもおります。
そこで、今回のところは参陣を見合わせ、自身の力量に磨きをかけるべく鍛錬を積みたいと思います。
それでは、十分な力量を磨き再び合える日を楽しみにしております。
曹子孝」
「・・・あの、華琳様。この曹子孝とやらは、ただの馬鹿なのでしょうか?それとも・・・」
役不足という単語を誤用しているのか、それともわかっていてあえて用いたのか判断が付かず、桂花は難しい表情で尋ねた。
「馬鹿なのは確かだけれど、これはわかっていて使っているのでしょうね」
「なっ、なんて無礼な!」
「いいのよ、桂花。この子の無礼はある程度許しているのよ。」
「そんな!」
「うふふ。その方が後で色々と楽しめるじゃない」
華琳が浮かべた底意地の悪い笑みに、桂花は言葉を失った。
「なあ、秋蘭」
「・・・今のは姉者には難しかったな。あまり気にしないことだ」
「そ、そうか」
幸蘭はそんな様子をただ楽しそうに眺めていた。
「それでは、本音の方も読んでみましょうか」
「はい」
竹簡を渡そうと近づく幸蘭を、華琳が手で制する。
「せっかくだから、あなたが呼んで頂戴。できるだけあの子の声音でね」
「はい」
「うふふ、建前でさえ綺麗事だけでは終わらなかったのだから、楽しみね」
「それでは、
華琳へ
お久し振りです。
今回、黄巾族討伐のために挙兵すると聞きました。
曹家一門の頭領として、姉ちゃんも、春姉も秋姉もあなたに付き従うと聞きました。
あなたは確かに盟主足りうる優れた人物だと思います。
しかし俺はあなたに仕えるつもりはありません。
確かにあなたは兵法に通じ、恤民の心も篤い。その上個人の武にも優れ、統率力もある。器量もいいから人を引き付ける魅力も
ある。
しかし、あなたは●●●●●●●●●●●●
―――この部分は何度も斜線で消されてますね。華琳様の欠点が思い浮かばなかったみたいです」
「・・・」
「どうしました、華琳様?お顔が赤いですよ」
「いいから続けなさい」
「はい、では続けますね
「しかし、あなたは――――胸が小さい」
「・・・」
場の空気が一気に下がった気がした。
「続けますね
それに背が低いから大人の魅力に欠ける。それゆえに包容力が足りない。
そんなわけだから、俺は華琳に従う気になれない。
俺は俺でやらせてもらう。
また会おう。
曹子孝」
「・・・」
「・・・」
誰も何も言わなかった。春蘭はおびえた表情で華琳を見ているだけだし、桂花ですら曹仁の無礼を責め立てることなく凍えきっ
た空気に耐えるのみだった。秋蘭は何かを諦めた様な表情でため息をついている。唯一普通にしている幸蘭も微笑を浮かべなが
ら華琳を見つめているだけで何も言わずにいた。
「ふ、ふふ」
「華琳様?」
「ふふふ、再会が本当に楽しみになってきたわね。」
華琳は底意地の悪い、もうほとんど邪悪といっていいような笑みを浮かべた。
「幸蘭」
華琳のそんな様子を楽しそうに眺めていた幸蘭に、秋蘭が声をかけた。
「楽しんでいないか?」
「まさか。仁ちゃんがどんなお仕置きをされてしまうのか、考えただけで胸が痛いです」
幸蘭は嬉しそうにそう答えた。