「曹子孝! 一騎打ちが望みだ! 臆さぬならば、出て来い! ―――我は、張牛角が義弟、褚燕なり!」
その声が響き渡ると、先ほどまでのざわめきが嘘のように戦場を静寂が支配した。
曹仁の意を汲んだ白鵠が進み出る。
「そ、曹仁殿、まさか受けるお積りですか!?」
愛紗が慌てた様に追いすがる。
「そりゃあ、受けるだろう」
「し、しかし、危険です。もはや戦は勝ったも同然。無駄な危険は避けるべきでは! そ、そうです! ここは私が」
「向こうは俺を御指名だ。ここは退けんだろう」
「し、しかし」
「愛紗よ、少しは曹仁殿を信じてみてはどうだ? それともお主は曹仁殿を替え玉を立てるような腰抜けにしたいのか?」
いつの間にか近くに寄って来ていた星が、愛紗の横に馬を並べた。曹仁に一瞬意味ありげな視線を送る。
「せ、星!私はそういうことを言っているわけではない! 大将自ら一騎打ちに出るという軽挙を言っているのだ」
「おやぁ、お主らの大将は桃香殿ではなかったのか? 」
「そ、それはそうだが、曹仁殿とて我が軍には大切な存在だ」
「まったく、自分にとって大切だと、何故素直になれないのか、この娘は」
「な、ななななにを言うか! 私は―――」
「いいのか、愛紗よ。そんなことを言っている間にも、一騎打ちが始まりそうだぞ」
「ああぁっ!」
二人の挙げる喧噪を背にしながら、曹仁は褚燕まで10数歩の距離まで進み出ていた。
「待たせたな、俺が曹子孝だ」
名乗った瞬間、褚燕の眼に炎が燃え立ったように感じた。曹仁はこれまでに感じたことのない、明確な殺意と憎悪をその視線から感じた。
「……褚燕だ」
今一度そう名乗った男は、曹仁よりも1つ2つ年下に見えた。鈴々ほどではないが、まだ若い。
幼さの残る顔立ちの中、こちらに向ける瞳だけが憎悪に燃え、浮かび上がる様に強烈な印象を与えてくる。
「張牛角を、兄貴を殺したのは、お前だな」
「そうだ。……ただの賊徒とも思えない男だったが、お前の様子を見るに侠客か何かだったのかな?」
瞬間、褚燕から送られてくるものが弱まった。褚燕自身、急速な気持ちの変化に驚いているのか、戸惑ったような表情を浮かべている。
「義賊だ。黄巾の力を使って、この国の膿を吐き出すつもりだった」
「そいつは大した志だな。……それで、俺を恨んでいるのか」
「わからん。さっきまでは貴様を殺す事しか考えていなかったんだがな。考えてみると、もっと憎むべき相手がいるし、そいつらはもうこの手で殺したしな。…………あの女の間の抜けた言葉を聞いているうちに、毒気が抜かれちまったのかもな」
褚燕は、自陣の方に顎をしゃくった。そのさらに後方にいる桃香のことを言っているのだろう。
「それじゃあ、やめにするか、一騎打ち?」
「いいや。どちらにせよ、お前は兄貴の仇だからな。けじめだけは付けさせてもらおう」
「よし、ならば来い! 曹子孝、受けて立つ!」
「張牛角が義弟、褚燕! 参る!」
褚燕は刀を抜き放つと、こちらに向けて真っ直ぐに、猛烈な勢いで馬を駆る。曹仁は白鵠のゆったりとした動きに合わせた。褚燕が脇をすり抜ける。
「っ、……双刀だったのか」
曹仁の肩からわずかに血が迸る。
馬首を返すと、こちらに馬を駆ろうとする愛紗をなだめる星と蘭々の姿が小さく見えた。
脇をすり抜ける瞬間、繰り出した槍を受けた刀の陰から、もう一刀が現れ、身を乗り出すようにして振るわれた。白鵠が十分に余力を残していたので皮一枚のところで避け得たが、こちらも本気で馬を駆っていたら危なかったかもしれない。
褚燕の持つ刀は二本の刀の刃と刃を合わせることで、一つの鞘に納められる双刀だった。斬り付けてくるその瞬間まで、曹仁は一本の厚めの刀としか認識していなかった。
「避けたか、運のいい」
「運かどうか、試してみな」
馬首を返した褚燕が再び馬を走らせる。今度は白鵠も足を速める。二騎が馳せ交う。褚燕が一刀で槍を捌きながら、残る一刀で振るう斬撃が曹仁の胸の辺りを掠める。わずかに血が零れる。馬首を返してさらに、2度、3度と馳せ交う。その度に、曹仁に傷が刻まれていく。何れも浅手ではあるが、確実に曹仁を捉えている。疾走する馬上にあって、攻防一体の見事な刀法だった。さらに馳せ交う―――褚燕の持つ双刀の一方が宙を舞った。
曹仁は槍を構えた、その後ろ手の手首をわずかにひねっただけだった。構えさえ崩さなければ、柄元を持つ後ろ手の小さな動きは、穂先では大きな動きを生み出す。槍を捌きにきた刀を、そのわずかな手首のひねりだけで巻き込み、跳ね上げたのだった。
「ちっ」
褚燕は舌打ちすると、構わずこちらに馬を飛ばしてくる。疾駆する馬の速度を上乗せした強烈な一撃も、曹仁に届くことなかった。褚燕に残されたもう一方の刀も、跳ね上げられて宙を舞った。
ゆっくりと馬首を返すと、褚燕は無手のまま、先ほどまでと同じ勢いで向かって来ていた。交差する瞬間、曹仁は咄嗟に槍を放すと、褚燕と組み合っていた。馬の勢いそのままに、褚燕は曹仁を押し倒しにかかる。曹仁はその力に逆らわずに、自身の体の上に乗せる様にして褚燕を投げ飛ばした。かろうじて受け身を取って立ち上がる褚燕に、曹仁も白鵠から降り立つ。
褚燕が獣のような動きで曹仁に飛び掛かった。速い。が―――
「ぐぅっ!」
その胸に曹仁の順突きが突き刺さった。曹仁が元いた世界で云うカウンターの間を捉えた打に、褚燕の息が詰まる。
「悪いが、俺は元々こっちが本業でね」
曹仁はこの世界に来る以前は、家伝の徒手を中心とした武術の修練を積んでいた。そして何より、こちらの世界で習得した槍術も拳術と一体となったものであった。槍術の構えはそのまま順突きに、繰り突いた形は逆突きに対応する。曹仁は繰り突きを武の根幹に置き、その鍛錬を誰よりも繰り返してきたと言っていい。必然、無手での突きに関しても屈指の使い手にまで成長していた。
「っ!」
褚燕は呼吸も儘ならない状況で、尚も拳を振るってくる。その打撃は曹仁のそれを凌ぐ“速さ”を持っているが、最短の距離で突き刺さる彼の打より“早く”相手を捉える事は出来なかった。
既に勝敗は決したと言っていいが、褚燕は止まらない。曹仁の放った打撃のうちの何発かは、顎先やこめかみにまともに当たっている。いずれも意識を刈り取るに十分な威力を秘めた打だ。にもかかわらず、褚燕は動き続ける。あるいは意識を超えた何かが体を突き動かしているのかもしれない。
「!」
褚燕の拳を紙一重のところで曹仁は避けた。褚燕の打から無駄が減り、振りが小さくなってきていることに曹仁は気付いた。意識した動きとは思えないが、曹仁の打に対してもわずかに身を捩って急所を避ける様になってきている。
褚燕は戦いの中で少しずつ成長しつつあった。その事実は曹仁に動揺を生み出した。
褚燕の拳が曹仁の顔面を捉えた。両陣営から声が上がった。中でもひと際大きく愛紗の声が響き、曹仁の耳に届いた。
(まったく、心配し過ぎだよ、愛紗さん)
その声が、逆に曹仁に落ち着きを取り戻させた
曹仁は、自然な動きで褚燕の打ったその手を捕らえていた。その手を引き寄せることで、褚燕に次なる一撃の溜めを許さない。同時に自身は半身になって褚燕の懐深く入り込む。半歩踏み込んだ、その瞬間には既に褚燕の肘関節の逆を取っていた。褚燕の重心が崩れる。曹仁は肘を極めたまま、褚燕を投げ飛ばした。
家伝の流派では関節を決めながらの投げ技を総じて、捻投と呼び慣らわしていた。今回打った投げはこの世界の技法である擒拿術で関節を取った、複合技だった。関節を極めた側の肩から頭にかけてを真下に落とす、受け身不能の投げ技だ。
「……普通なら、死んでいてもおかしくないんだけどな」
褚燕が立ち上がっていた。
曹仁は満身創痍の褚燕に対して、一部の油断も見せずに構えを取った。
「いいぜ、こうなったらとことんやろ―――」
「おおおぉぉぉーーーーー!!!!」
曹仁の言葉を遮るように、敵陣から鬨の声が上がった。
「……っ!」
後方から響く鬨の声が、褚燕の意識をわずかに引き戻した。立ち上がっている自分に不思議を覚える。頭から地面に叩き落とされた瞬間、これで終わりだと思った。その自分が今こうして二本の足で地に立っていることが信じられなかった。
後ろから響く喚声は、尚も続いている。むしろ大きく、近づいてきているようにも感じる。褚燕の未だ朦朧としたまま晴れない頭では、それの意味するところが分からない。ただ、そこに含まれる声の一つ一つがどれも慣れ親しんだものである気がして、褚燕は振り向いた。
「駿(しゅん)!」
白繞が馬を駆って眼前まで迫っていた。その後ろには2,30騎の騎兵と、それに倍する数の歩兵が続いている。褚燕―――駿の未だ思考の定まらない頭は、兄貴が死んで以来真名を呼ばれるのは久しぶりだ、などと場違いなことを思った。駆け抜け様、白繞が駿に手を伸ばした。
気付くと、駿は白繞の腕の中にいた。白繞が剣を振るう。金属音がして剣が弾き返される。ようやく正常な思考が戻って来ていた。騎馬隊は自陣と敵陣の間を駆け抜けている。どれも見知った顔、義賊として共に戦ってきた、本当の意味での仲間だった。
「うおぉぉーーー!!!」
後方から響く喚声と激しい金属音に、身を捩って後ろを振り向く。そこには敵騎馬隊の本陣向けて切り込む歩兵達の姿があった。すでに距離が離れつつあったが、彼らも義賊の同志であるとわかった。
精兵揃いの敵騎馬隊の中でも特に最精鋭が集まっているであろう本陣である。味方の歩兵達が次々に倒れていくのが見える。
「白繞、馬を返せ。仲間が死ぬ!」
命令系統を乱し、兵を率いる将を足止めすることで、騎馬隊への追撃を遅らせるための本陣急襲だろう。駿は仲間の身を案じながらも、頭の中の冷静かつ冷徹な部分で瞬時にそこまで考えを巡らせた。
「駄目だ。ここで引き返せば全員が死ぬだけだ。分かりきったことだろう、駿」
「仲間の命を捨ててまで生き延びて、何の意味がある!」
「……ようやく、本来のお前に戻ったな」
「はっ?」
白繞は、そう言いつつ仲間に指示を出している。それは、追撃に対する足止め役を演じる順番決めであった。そして、そうこうしている内に、最後の一人の歩兵が槍に突かれるのが、遠目に移った。
「白繞!」
「意味ならあるさ。お前さえ生き残れば、俺たちは終わりじゃない」
「戦はもう負けたんだ! 今さら大将首一つ残ったところで何になる」
「そういう話じゃない。戦の話じゃないんだ、駿。俺は志の話をしている」
「……志?」
白繞の言わんとしていることが理解出来ず、駿はとまどいを覚えた。
すると、まるでその瞬間を狙ったかのように、5騎が反転し駆け去っていく。
「お前ら、行くな! 命令だ! ……白繞、やめさせろ!」
「くっ!」
腕の中で暴れると、白繞が顔を歪めた。
「! 白繞、それは!」
「さすが、御頭を討ち取り、お前をぼこぼこにするだけはある。あの一瞬で刀を拾って、反撃までしてくるとはな」
白繞の脇腹に、駿の双刀の一本が深々と突き立っていた。
白繞の傷を気遣ってか、駿がおとなしくなった。
白繞は口を開いた。伝えるべきこと、伝えたいことは山ほどあった。時間はそれほどない。
「すまなかったな、駿。御頭が死んだ時、学も有って武術も強い、指揮をさせれば御頭も舌を巻くような用兵を見せたお前以外に、御頭に代わる人間が俺たちには思い浮かばなかった。」
まずは、謝らなければならないと思っていた。駿はただ黙ってこちらを見つめてくる。
「でも、そのせいでお前は、一人立ち続けなければならなくなった。そしてまた、俺達に初めて会った時のように、偽りの自分を演じなければならなくなったんだよな」
本来の闊達な部分を失い、日々鬱々として、自分達と出会った頃の駿に戻っていく様な、そんな姿を白繞たちはただ見守る事しか出来なかった。
「お前は、御頭だけじゃなく、俺たち全員の弟分みたいなもんなんだからな。いくらお前がすごい奴だからって、お前を頼りきるなんてことしちゃあいけなかったんだ。お前から逃げ場を、頼るべき相手を、奪うべきではなかった」
全身から力が抜けていくのを感じる。気付けば、周囲にはもう5騎を残すだけとなっていた。
「でもな、御頭が立て、俺たちが夢見た志を、義の旗印を、継げるのはお前だけだと、確かにそう思ったんだ。だから、駿―――」
―――お前はお前のまま、我らの志を継いでくれ
一番伝えたかった思いは、言葉になることはなかった。
目の前には、指揮する者を失った1000名ほどの兵がいた。逃走した20騎ほどの集団を、白蓮旗下の騎馬隊200騎が追撃していた。それでこちらの兵力はかなり低下しているが、それでも目の前の兵達からはすでに反攻の意思は見られなかった。
(……あいつ、逃げ切ったかな)
愛紗の手当てを受けながら、曹仁は逃走した褚燕に思いを馳せた。
曹仁は、追撃の失敗を、褚燕の逃走を願っている自分に気が付いた。
一騎打ちの相手に、情けをかけるつもりはなかった。しかし、曹仁は張牛角と云う自ら討ち取った男に、わずかながらではあるが好意すら感じていた。そしてその義弟である褚燕の、一騎打ちを望む際の堂々とした名乗り様や、決して諦めずこちらに向かってきた不屈の精神に、曹仁は彼を好きになりかけていた。出来れば殺したくないというのが曹仁の本音であった。
「聞いていますか、曹仁殿?」
「ああ、すまん」
「まったく、あなたは、御身を何だと考えているのですか。そもそもですね…」
先ほどから延々続いている愛紗の説教に、曹仁は再び意識を戻した。蘭々と星がいたずらっぽい表情で、その様子を眺めている。
「そうだよ、曹仁さん。無茶しちゃ駄目だよ」
「おわっ!」
声と同時に腕に押しつけられた胸の感触に、曹仁は思わず声を挙げた。見ると、曹仁の腕に抱きつくようにして桃香と、その隣には鈴々もいる。
「桃香さん、いつの間に?」
正面を見ると、敵陣が不自然に真っ二つに割れている。まるで人が通るために道を開けた様だ。
「……まさか敵陣を突っ切ってきたのか?」
「えへへ♪」
「……俺よりよっぽど無茶してると思うぞ」
横目で軽く睨んでやった。
「桃香様! いかに戦意を失った敵とは言え、なんという無茶を!」
「うぅぅ。でも、みんなもう武器を捨ててくれてるし、鈴々ちゃんが一緒だったし」
「そうなのだ。鈴々がいれば大丈夫なのだ」
「そういう問題ではありません!」
愛紗の怒りの矛先が桃香と鈴々へと逸れた。愛紗は曹仁の腕に抱きついていた桃香を引き剝し、本格的に説教を始める体勢である。
愛紗に代わって蘭々が曹仁の手当を始めた。
「痛っ、おい、蘭々もう少し丁寧に」
「……そんなに桃香さんのおっぱいが良かったのか?」
愛紗と違って乱暴な手つきの蘭々に、曹仁が文句を言うとよく分からない返答が返ってきた。
「鼻血」
蘭々に言われ、初めて曹仁は鼻からの出血に気付いた。
「いや、これはさっき打たれ―――もがっ」
「……」
蘭々はほとんど殴るような勢いで曹仁の鼻に布を詰めると、何も言わず手当を続けた。その手つきがさらに乱暴なものになっていた。この妹が、姉や春蘭、秋蘭(の胸)に対してしばしば羨望の眼差しを向けていたことを知っている曹仁は、下手に刺激しないよう口を噤むことにした。
「一騎打ちの邪魔をされたというのに、あまり気にしていないようですな」
そんな曹仁に、星が声をかけてきた。
「……まあ、そうですね。俺だって戦っているのが蘭々で、奴らと同じ状況に置かれたら、きっと乱入ぐらいするだろうと思いますからね」
「ほう」
「あ、兄貴なにを」
「それだけ、褚燕という者が奴らにとって大切な存在だったということでしょう」
「曹仁殿が気にしていないというのなら、私が何か言う事でもないでしょうな」
「……」
蘭々は何も言わず、ただその手つきだけが少し優しくなった。そのことに触れると、また元の乱暴な手つきに戻るだろう。曹仁は黙って、追撃を受ける褚燕のことへと再び思いを巡らせた。
「……曹っ……子孝っっ!!」
駿は一人天を仰いだ。胸の内には憎悪だけが渦巻いている。
すべてを失っていた。それでも、馬を駆けさせていた。曹仁への憎悪だけが、駿の体を支え、動かしていた。
何としても生き残り、仇の、曹子孝の首を獲るのだ。
張牛角が弟と呼び、白繞達が御頭と仰ぎ、命を賭けて守った駿の姿はそこにはなかった。
白繞の思いは届くことなく、義賊褚燕の姿はどこにもなかった。
ただ復讐に狂う男が一人いた。