日が中天に差し掛かった。
横並びに並んだ各隊は互いを牽制し合うように、すぐには動き出さない。
十の軍閥のうち韓遂の隊のみ存在せず、馬騰軍は翠と蒲公英で隊を分けているため、全部で十隊だ。形の上では成宜が、実質的には翠が主将であるが、わずかな取り決めだけであとは各々が自由に戦う様に伝えてあった。十の軍閥の関係は複雑で、今でこそ長安の天子の元にまとまってはいても、つい数ヶ月前まで敵対関係にあった者達もいる。出来もしない連係を取るよりは、それぞれが功を競い合う方が西涼武人の気性には合う。
正面、わずか一里の距離にいる曹操軍は、十万の歩兵を三隊に分けて陣取っている。中軍を下げ、両翼を前に突き出した鶴翼だが、各隊が一里余りも距離を置いていた。各個撃破の狙い目とも思えるが、当然騎馬隊はそれを阻みに来るだろう。騎兵も二万騎が三隊で、それぞれに歩兵部隊に寄り添うように布陣している。三万強の歩兵と二万の騎馬隊を組み合わせた三軍、と単純に考えればいいのか。それとももっと流動的に動くのか。
いずれにせよ、はじまってしまえば長い戦になる。西涼軍は敵本隊の歩兵部隊を攻めるために、まず騎馬隊を攻略しなければならない。曹操軍は戦力の半数が歩兵である以上、騎兵に対しては決定力に欠ける。一日で決着が付く戦とは到底思えず、軍閥の頭達と取り決めたのも軍を後退させる際の手筈である。
「……」
視線を感じて目を向けると、すぐ隣の騎馬隊の中から蒲公英がじっとこちらを見つめていた。いや、蒲公英だけではない。残る八隊からも同じような視線を感じた。翠と同様に騎馬隊の先頭へ出ている軍閥の頭も何人かいて、目が合うと慌てて顔を伏せた。
「……行くか」
狙い目はまだ見えない。とりあえずはと、一番近場の騎馬隊目掛けて駆けた。西涼軍側から見て左翼の歩兵に寄り添う二万騎。深みのある紺色に張の一字。西涼にも聞こえた紺碧の張旗―――張文遠の隊だ。
蒲公英の一万騎を含む数隊が後に続いた。他の隊も動き始めている。
紺碧の張旗が前へ出た。わずか一里の距離での対峙であったから、すぐに距離が詰まる。互いに十分な加速を得られてはいない。進路を横―――敵歩兵部隊を避けるため左―――にわずかに逸らし、馳せ違った。後に続いた他の隊も翠に倣う。
駆ける先へ騎馬隊。一つの旗竿に、旗が二つ。黒地に白抜きで曹と、白地に黒字で天。どちらも示すところは一人だ。中軍の歩兵部隊に付いた二万騎、天人曹仁の隊である。
先頭に曹仁の姿が見えた。白馬に白い具足であるから否が応でも目立つ。
皆の士気を盛り上げるために望んだ交馬語は、西涼で随一の翠に劣らぬ曹仁の馬術を見せつけられる結果となり、失敗に終わっている。ここで一手返すべきか。
「……いや、まだ無理をするには早いか」
翠はさらに進路を左へ逸らした。同じ方向へ、曹仁も逸れる。
「むっ」
さらに左へ、左へと馬首を巡らせるも、曹仁も続いてくる。結果、並走して左へ駆ける形となった。蒲公英ら後続の隊は続いていない。曹仁の二万騎のうち半数の一万騎が残り、行く手を阻んだようだ。
「何のつもりだ?」
数十歩の距離を置いて、曹仁と並んで駆けている。馬を寄せて問い質してやりたい気分だが、さすがにそうもいかない。
五里程も駆けたところで、曹仁隊は足を緩めた。翠は逆に足を速め、十分に引き離したところで反転、制止した。
曹仁隊も足を止め、こちらと対峙の形を作っている。歩兵が陣を布いた主戦場へ戻ろうという気配が見えない。
「馬術では付かなかった勝負を、ここで付けようってわけか」
天人曹仁率いる一万騎を同じく一万騎で引きつけて置けるなら、悪い話ではない。主戦場では騎兵の兵力差が、さらに際立つこととなる。
翠は銀閃を軽く扱くと、気合を入れ直した。
「ありゃー、やっぱりお姉様、警戒されてるなぁ」
翠が単独で、主戦場の外へ追いやられた。
「援護に向かわなくて良いのか?」
張衛が言った。
張衛は長安に留め置かれていたが、増援に混じって駆けつけてくれた。漢中より伴った兵は五百騎であるが、いま率いているのは五十騎余りである。兵力を温存しようというのではなく、西涼騎兵の戦に付いて来れそうな兵がそれだけだったらしい。その五十数騎も武器を振るうまでには至らず、張魯から授けられたという米粒が入った麻袋を握り締め、ただ騎馬隊の動きに付いてくるだけである。戦の役に立つとも思えないが、邪魔になるほどでもなく、蒲公英の隊に加えていた。
指揮官の張衛だけは最低限の武術と馬術は修めているようで、今もこうして早足で駆けながら蒲公英と口を利く余裕くらいは保っている。
「まあ、お姉様だし大丈夫でしょ」
いくら相手が天人曹仁と言えど、こちらも錦馬超だ。翠が騎馬隊の戦で後れを取るというのは、反董卓連合で見たあの飛将軍呂布が相手でもない限り、有り得ない事と蒲公英には思えた。
「むしろ不安があるのはこっちかな?」
「こちらが? 馬超殿が曹仁と一万騎を引き受けてくれるなら、ずいぶんと楽になったのではないのか?」
騎兵五万、歩兵十万の曹操軍に対して、西涼軍は七万の騎兵となる。こちらから歩兵を攻めることさえしなければ、数の上では確かにさらに有利になったと言える。
「数だけはね。でも敵は曹操自らの指揮で、曹仁がいなくてもまだ張遼がいる。烏桓の前の単于だった蹋頓だって弱いはずがないし、歩兵を率いてる張燕とか楽進なんかも歴戦の将。こっちはお姉様がいないと、かなり見劣りしちゃうよ」
「馬岱殿がいるではないか」
「いやいやいや、わたしなんてお姉様と比べたら―――」
張衛と会話を交わす間にも、翠と曹仁を抜きで戦が動き始める。自然、西涼軍の中心は成宜と、不本意ながらも蒲公英が担う形となった。
西涼軍が歩兵との衝突避ける以上、曹操軍は張遼隊と烏桓兵が中心となった。曹仁が残していった一万騎は、予備隊と言う様相で歩兵部隊の側に留まっている。
実質七万騎で四万騎を攻める形だが、攻めきれず、むしろ押し込まれた。張遼が果敢に攻め込み、烏桓兵が距離を取って騎射を放つ。こちらが張遼を攻めようとすれば矢が降り注ぎ、烏桓兵との距離を詰めようとすれば張遼が遮りに掛かる。西涼兵が実際にぶつかる相手は終始張遼隊ということになるが、これが手強かった。
蒲公英が朝廷に出仕し始めた時期、張遼隊は洛陽に駐屯していた。此方は宮中、彼方は軍営と、張遼とはほんの数回しか顔を合わせる機会はなかったが、遠目にも精強な軍であることは見て取れた。それも当然で、中原最強と呼ばれた呂布軍の騎馬隊を引き継いだものである。さらに大元を辿れば、董卓に付き従った西涼騎兵だった。
同じ西涼騎兵と言っても、明らかに西涼軍閥の兵よりも張遼隊は戦の経験を積んでいる。あの時よりも兵力を増しているから、他所からの増員もあったのだろうが、練度は依然高い水準で保たれていた。
「確かに、馬超殿がいないとこちらの損害が広がるな」
張衛が言った。不慣れな重責ある立場に付かされた蒲公英には、張衛という話し相手の存在は有り難かった。
「うん、でも思ったよりも悪くないかも」
練度でこちらに優る上、弓騎兵の援護を受ける張遼隊が相手である。ぶつかる度、確かにこちらの犠牲が多い。しかし九隊―――時折視界の片隅に見え隠れする錦の馬旗も含めると十隊―――が駆け回っているから、張遼もこれと狙いを定めて攻め切れずにいた。
西涼軍の犠牲が多いと言っても、二倍とまではいかない。せいぜい、二騎を倒す間に三騎が倒れるといった程度だ。
消耗戦になれば、領内に引き込んだ形の西涼軍が当然有利である。まだ長安には温存戦力があり、新兵も集まり続けていることを思えば、騎兵兵力の差がそこまで縮まることはない。新兵と言っても元が西涼の男達であるから、軍の質が落ちる心配もない。
それどころか、現状である程度拮抗した戦が出来るのなら、翠が曹仁を討ち戦線に戻れば、一息に張遼隊を崩してそのまま短期決着も十分あり得る話だった。
戦場は歩兵の布陣を中心におおよそ二十里(10km)四方まで広がっている。とはいえそれぞれが一万騎近い西涼軍の騎馬隊九隊に、二万騎の霞と蹋頓が入り乱れているから、狭いぐらいだった。
西涼軍の数隊が、蹋頓の騎射を嫌って後退してくる。馬超がその影に入った。足を緩めて、曹仁も馬超から死角になる位置へ隊を動かした。
同時に、影から飛び出す。
馬超は他の西涼軍と接近して目眩しに使うことはあっても、そちらの戦線に介入する気配は見せない。まずは曹仁が相手と思い定めてくれたようだ。
一万騎と一万騎が馳せ違う。反転し、やはりもう一度馳せ違う。
すでに何十度繰り返したか分からない攻防だ。互いに有利な位置を求めて駆け巡る。開戦前の交馬語の再現だった。
ここまで双方とも片手で数えるほどしか損害は出していない。乱戦に陥ることは一度もなく、触れ合うことすらほとんどないままに駆け合った。緩急を付けることはあってもそれ以外は疾駆の連続で、これ以上駆ければ馬が潰れるという限界のところで、どちらからともなく槍を引いて休息を取った。ある意味で騎馬隊の駆け合いの理想とも言える。
歩兵のぶつかり合いでは、練度に決定的な差でもない限り敵味方双方の犠牲は避けられない。しかし騎兵の戦では、用兵次第で敵を一方的に叩くことも可能なのだ。普段なら七分か八分の利を見定めて攻勢に転じるが、それはある意味では妥協の結果と言える。馬術の勝負で付けられなかった決着を求め、今、曹仁と馬超は完璧な勝利の機を探っていた。
中天から二隊のこれまでの移動経路を眺めたなら、複雑に絡み合い、されど決して交わらない一対の大蛇のように見えるのではないだろうか。
「まだ足りないか」
数度の反転の後、馬超がわずかに先を行った。距離にしてほんの数歩分。普段なら気付かないような微々たる差を、曹仁は鋭敏に感じ取った。
曹仁隊の騎兵は曹操軍の最古参と言って良い。半数は兗州で独立して以来の、残る半数も青州黄巾賊を吸収した時点で軍に加わった者達だ。騎馬の動きはこれ以上なく最適化されている。良馬で揃えた馬の質も、西涼軍に決して劣るものではない。つまり後れは、曹仁自身の判断の後れである。
――――動きだけではなく、思考も最適化しろ。
思案し、決断する時間は必要だ。しかしこう動くと決めてから、実際に指示を出すまでの間に一瞬の逡巡がないか。思考にまで至らない、ただ躊躇うだけの瞬間だ。それは決断に影響しない、思い悩む振りをしているだけの時間だった。
思考から、意図的に逡巡を締め出す。三度騎馬隊の動きを変える間に、馬超の指揮に追い付いた。
「どこまででも行ける」
無意識に口に出していた。
そこにいるだけで、軍の格を一段引き上げてしまうような武人がいる。
一千の兵から一千の全力を出すことは曹仁にも出来る。ここぞという瞬間に一千二百、三百の力を引き出すことも出来る。しかし二千にも三千にも底上げするような真似は出来ない。それは、誇張ではなく軍神と呼ばれるような者達の所業だ。
愛紗のようにはなれない。春蘭にもなれないし、鈴々にもなれはしない。恋は、はるか遠かった。馬超も本来、曹仁にとってそんな高みにいる武人である。
不思議な感覚があった。反董卓連合で干戈を交えた折には感じられなかったものだ。馬超の鋭過ぎる用兵が、曹仁には己が事の如く予測出来た。そして馬超の思考をなぞることで、曹仁の用兵もまた鋭さを増すようだった。
直前に馬を競わせたのが良かったのか。あるいは今回は借り物の兵ではなく、気心の知れた旗下を率いているからか。届かぬはずの高みに、手が届こうとしている。
「ははっ」
自然と笑みがこぼれていた。
これまで戦争を楽しいと思ったことはなかった。
武術は嫌いではないし、一騎討ちの昂揚感も悪くはないが、それなら刃引き刀や棒で技量を競い合う模擬戦の方が楽しかった。騎馬隊で駆け回る爽快感は得難いものだが、白鵠と二人で駆ける遠乗りの方が心安かった。
軍での生活自体は性に合っている。厳しい調練の後に兵と囲む火や、大鍋一杯に作られた野戦料理、時にはわずかな酒を飲むのも良い。そうした軍の空気は間違いなく曹仁にとってこの世界で好ましいものの一つである。しかし、戦自体は決して好ましくはない。
春蘭や霞などは実に楽しそうに戦をするし、華琳にもその傾向はある。平和な世界で生まれ育った曹仁は、そうした感情は忌むべきものと遠ざけてきたのだ。
目の前の馬超はまるで自分の庭とでもするように、戦場を実に伸び伸びと往来する。そんな馬超との駆け引きに、曹仁は初めて心から戦を楽しんでいた。
「―――?」
側を駆ける陳矯が、笑う曹仁を不思議そうな顔で見つめた。
開戦より七、八刻(三時間半から四時間)が経過した。
戦の進行と共に、各軍閥の力量が浮き彫りとなった。主力として戦を動かしているのは蒲公英と成宜は当然として、李堪、張横といった軍閥の隊だ。
逆に、馬玩、梁興、楊秋の隊は動きが悪い。張遼や烏桓兵に攻められると、いつも他より多くの犠牲を出している。いずれも韓遂の影響下にあり、韓遂からの増援を受け容れた隊だ。兵力こそ増しているが、韓遂の兵を矢面に立たせるわけにも行かず、援軍を本隊が守るという歪な形を余儀なくされているようだった。
同情する気にはなれない。翠ほど露骨に感情を表に出しはしないが、蒲公英にとっても韓遂は一門の仇である。その軍門に自ら降った者達に、掛ける情けはなかった。
曹操軍は、張遼隊が一千騎ほど兵を失っている。このままでは拙いと思ったか、曹仁が残していった一万騎も戦線に加わり始めていた。
一万騎には公孫と書かれた旗が立っている。曹仁や張遼ほどに華々しい印象は無いが、公孫賛もまた騎兵の戦で名を上げた人物である。洛陽の天子に任ぜられた雍州牧で、弘農王―――長安の天子を伴って西涼へ帰還した折に、長安で一度、潼関で一度撃ち破っている。しかしいずれも城塞に籠もる公孫賛軍に対して、予め内通する兵を潜ませた上での勝利だ。さすがに白馬長史の異名で恐れられただけあって、野戦での実力は侮れないものがある。
とはいえ曹操軍騎馬隊の主力は、やはり二万騎の張遼隊だろう。唯一一万騎編成の公孫賛の隊も、騎射を活かして距離を取って戦いたい烏桓兵も、張遼隊の支えの元で戦を展開していた。
「みんなー、左へ避けて!」
張遼隊の突撃を、蒲公英はぎりぎりのところで回避した。
成宜、侯選、程銀の三隊と共に張遼隊と対している。こちらは四隊合せて四万近い兵力だが、しばしば押される。互いに手柄を競い合ってはいても、正面からぶつかって犠牲を引き受けようという者はいないため、張遼隊が攻めに転ずればこちらは下がらざるを得ない。
他に李堪、張横、楊秋の三隊が公孫賛隊を追い回し、馬玩、梁興の二隊は逆に烏桓兵に追われている。
「あの先頭にいたのが張遼だろうか?」
「うん。洛陽で顔を合わせた時は、乗りが良くて小粋なお姉さんって感じだったけど、戦場だとやっぱり大迫力」
「確かにな。私の首など、簡単に刎ねられそうだ」
その瞬間を想像したのか、張衛が自分の首を大切そうに撫でながら言った。
西涼の男は腕っ節に過剰の自信を抱く者が多く、大言が常であるから、張衛の反応は蒲公英には新鮮であった。
張遼隊が、今度は成宜に狙いを定めた。成宜は騎馬隊の先頭で槍を振り回しているが、やはり張遼とぶつかることは避け、馳せ違った。軽く隊列を擦り合わせ、双方が数騎の犠牲を出している。
大言壮語の西涼武人も、やはり張遼は怖いようだった。西涼軍で張遼を討ち取れる者がいるなら、それは翠だけだろう。
翠は曹仁との勝負にまだかかずらっている。反董卓連合の際も決着は付かなかったが、あの時は広大な大地を自由に駆け回り、日に何度か干戈を交えるだけだった。今回は見晴らしの良い平原の限定された空間内で、しかも同数でのぶつかり合いだ。この条件で翠がここまで時間を取られる相手がいるというのは、蒲公英には驚きだった。
戦は大きな動きもないまま、西涼軍四万と張遼の二万で拮抗した攻防が繰り返された。日はかなり西へ落ち始めている。
あと数度の攻防で、今日の戦は分けだろうか。蒲公英がそんなことを考え始めた矢先、均衡を破る変化がもたらされた。李堪、張横、楊秋に追われた公孫賛隊が、蒲公英ら西涼軍四隊と張遼隊のぶつかる戦場に飛び込んできた。
成宜が馬首を巡らし張遼隊へ背を向けると、公孫賛隊へと迷わず突っ込んでいった。まともに受け、公孫賛隊は隊列を乱し後退していく。
下がる先に、曹操軍歩兵部隊の両翼があった。
李堪と張横の隊が、ほとんど潰走という態の公孫賛隊を両側から絞り上げて、左右どちらかの歩兵部隊と合流するのを防いだ。成宜と楊秋が後方から追い撃ちに討つ。一万騎を壊滅まで追い込みに掛かっていた。
ここは、多少の犠牲は覚悟する局面だろう。蒲公英は侯選、程銀と共に、助けに入ろうとする張遼の騎馬隊の行く手を遮った。この期に及んで張遼隊は正面衝突を避け、歩兵部隊の後方まで進路を逸らした。
公孫の旗が、李堪と張横に挟まれ、成宜と楊秋に追い立てられ、歩兵部隊の左翼と右翼の間を潜った。
「あっ、まずいかも」
曹操軍歩兵部隊は中軍を下げ、おおよそ一辺一里の三角形に布陣している。両翼の間を潜れば、当然その先には中軍が待ち受けている。とはいえ三隊の配置に距離があるため、中軍と両翼どちらかの間を抜けるのは容易いはずだった。だから警戒心もなく、成宜達はその内に踏み込んだのだ。
中軍と左翼の間で、潰走していたはずの公孫賛隊が足を止めて道をふさいでいた。同時に三角形の頂点―――三隊の歩兵部隊が、中心へ向かって一斉に駆け始める。
成宜はそこでようやく危険を察し、追撃を切り上げて中軍と右翼の間に退路を求めた。そこを紺碧の張旗がふさぐ。そこへ追いやったのは蒲公英達である。いや、追いやらされたのか。
後方へ下がろうにも、四つの軍閥の兵で混み合い、すぐには反転出来ない。逃げ場はなかった。成の旗が歩兵の波に飲まれていく。
「助けないとっ」
この時ばかりは各軍閥の隊が協調して歩兵部隊へ向かうも、烏桓兵が阻む。張遼隊と公孫賛隊も、動き始めた。すでに二隊が行く手を阻むまでもなく、歩兵部隊と成宜ら西涼軍は渾然一体と化していた。離脱出来たのは最後尾にいた楊秋の隊だけで、成宜に加えて李堪、張横の隊も歩兵の中に取り込まれている。
「くっ、よりにもよって主力の隊ばかり」
当然、偶然ではないだろう。公孫賛が歩兵三隊の内に逃げ込んだのはこれが初めてであるが、西涼軍に追い立てられる展開はこれまでにも何度もあったのだ。その度危険にさらされながらも、こちらに大打撃を与えられる瞬間を辛抱強く待ったということだ。自分の隊が難を逃れた巡り合わせに、ここは感謝すべきか。
「―――っ、後退っ、後退ーっ!」
烏桓兵の騎射の矢が、蒲公英の馬の足元に突き立った。
成宜ら三隊―――おおよそ三万騎が歩兵に捕らわれ、騎兵兵力は逆転していた。曹操軍五万騎に対して、西涼軍四万騎。戦場の中心―――曹操軍歩兵と成宜らの混戦から遠ざけられていく。
「これが中原の戦。ただ騎馬で駆け回るだけのわたし達じゃ、勝てないってこと?」
呆然と呟く蒲公英の視界の先で、李の旗が伏せられ、すぐに張の旗も消えた。成の旗はしばし耐えるも、やはり半刻とせずに倒れた。