「陛下、韓遂様っ」
ずかずかと謁見の間に踏み入るなり、閻行が胴間声を上げる。
騒がしさに韓遂は思わず眉を顰めそうになるが、努めて顔には出さなかった。天子も西涼人の無作法にはもう慣れたのか、気にした素振りもない。
「曹操軍が姿を現しましたっ!」
びくりと、天子の肩が震えた。
「……ああ、すぐに行く。先に配置に付いておけ」
長安郊外での会戦に怯える天子を励ますための謁見中である。閻行の気の回らなさには頭が痛くなるが、注意して治るものでないことは骨身に沁みていた。早々に謁見の間より追い出すに限る。
「俺の出番はまだですかい? この俺の手に掛かれば―――」
「そうだな。考えておこう」
「……」
最後に念を押すように一度強い視線をぶつけてくると、閻行は謁見の間を辞した。長安の守備隊に配されたのが、よほど気に入らないらしい。
「―――陛下、ご案じには及びません。馬騰大将軍が、必ずや賊将を討ち取ってくれることでしょう」
先日の野戦は、西涼軍の大敗に終わった。成宜が散り際に奮戦して包囲を突き破ったため、歩兵に取り囲まれた三軍閥の兵三万のうち半数の一万五千は逃げ延びたが、残る一万五千騎と成宜、李堪、張横の三人の頭が討ち取られた。
そして敗北から五日、歩兵の速度で粛々と進軍した曹操軍は、ついに長安へと到達していた。
頭を失った三軍閥の兵一万五千騎を率いて、馬騰は今戦場に立っている。
馬超などは最後まで反対していたが、混成軍となった一万五千を無理なくまとめ上げる武名は、その馬超を除けば馬騰を措いて他にいない。馬騰自身も自らの出陣を強く望んでいた。
「う、うむ、そうであるな。此度は大将軍自らの出陣だものな」
「はい。義姉の私が申すのも何ですが、馬騰大将軍は野戦の天才です。曹操も戦上手ではありますが、その曹操の十万の軍勢から、ただの五百騎で陛下を御救いしたのですから」
「そうであった。翠もいるし、それに先程の者。たしか閻行と言ったか? 翠より強いと言うではないか。いざとなれば、あの者も朕のために出陣するのだな」
「はっ。ですから陛下も心安らかにお過ごし下さい」
胸中で苦笑いを浮かべながら馬騰は一礼し、謁見の間を辞した。
―――たまには閻行の押しの強さも役に立つものだ。
天子は洛陽郊外から長安までの道程を、馬超の馬に同乗して駆けている。馬超を恃む気持ちは強い。その馬超よりも強い男として、閻行の名を覚えたらしい。
「……お使いにならないつもりですね?」
廊下へ出てしばらく歩いた後、謁見中も影の様に付き従っていた成公英が口を開いた。
「わかるか?」
「貴方様のお気持ちを読んだだけです。理由までは分かりません」
「ふむ。確かに強いは強いのだがな。なにせ、あの馬超にも勝っている」
閻行のことである。一々確認するまでもなく、この従者とは心が通い合っている。
「ずいぶんと昔の話でしょう。今やれば、また別の結果になるかと」
「かれこれ六、七年も前になるか。馬超はすでに錦の名声を冠していたが、まだ十をいくつか過ぎた程度の小娘であった」
それでも韓遂は、閻行を含む自軍の勇士に馬超に対抗し得る者がいるとは考えていなかった。
韓遂と馬騰の抗争の中での一幕である。
今の馬超と比べると体も一回り以上小さく、幼い印象すら残っていた。しかし用兵には天性のものがあった。一瞬の機を捉えた鋭い突撃は、幾度となく韓遂の本陣を落としかけた。いや、実際に馬超にその気があったのなら、そうなっていただろう。
馬騰とは何度も戦をしたが、その全てが本気の戦だったわけではない。領民や兵、そして他勢力に対する体面のため、形ばかりぶつかり合うということもあった。その時もそんな戦だったのだ。
兵が倦みはじめ、そろそろ戦も幕引きという頃になって、韓遂の陣営に喚声が轟いた。それはとうに飽いて幕舎へ引っ込んでいた韓遂の耳へも届く、盛大なものであった。
すぐに閻行の元から馬超撃破の報告が届いた。こうなっては決戦は避けられないと覚悟を固めている間に、龐徳の援護を受けて馬超が退いたという続報がもたらされ、韓遂は胸を撫で下ろしたものだった。
こうして閻行は馬超に勝った男となった。当時は幼子をひねっただけと、本人も特に誇るでもなかった。それが馬超の名声がいや増すにしたがって周囲も、そして閻行自身もそこに価値を見出した。分かり易く言うなら、閻行は自ら何を成すでもなく増長した。今は、韓遂に飼殺されているとすら考えているだろう。
「あのような者はいっそ放逐されるなり、処断なさった方がよろしいかと思いますが」
成公英が過激な事を言う。
「ふむ。そうは言っても、やはり腕だけはそれなりに立つし、何より武名がある。藍や馬超と対抗するには、必要な手駒ではあるのだ」
西涼の男達を真に心服させるには、武名というものが必要だった。韓遂に欠けたものである。病身とはいえ馬騰には過去の偉名があり、言うまでもなく馬超は西涼最大の武名である。馬超を倒した男くらい抱えていなくては、まともに対することは出来ない。その閻行の武名も、下手に戦に出せば期待外れの一言で終わりかねないのだ。
「それにな、私はあの男が愛おしくもあるのだ」
「愛おしい?」
成公英の声に、有るか無きかの棘が混じった。
幼い頃から近侍させているこの若者にとって、自分の存在が全て―――母であり、師であり、恋慕の相手ですらあるということを、韓遂は自覚していた。韓遂にとっても、やはり成公英は特別な存在である。
自ら腹を痛めて産んだ子も何人かいるが、この従者に対するほど愛情を持って接しては来なかった。我ながら薄情なことに、政略の駒と割り切ってしまっているところがある。洛陽や西域に送り込んだ息子も入れば、関中十部の長の家に嫁がせた娘もいた。韓遂が馬騰の妻子を殺したように、自分の裏切りと謀略の犠牲になった子もいる。
駒とは為り得ぬ従者に愛情を注ぐのは、韓遂の弱さかもしれなかった。
「ははっ、妬くでない。可愛い奴め」
ぐりぐりと成公英の頭を撫でてやった。
「あの男は無知で傲岸、この私にすら決して本心から頭を下げることはない。あの反骨、あの背叛。まるで西涼そのもののようではないか」
「身の程を知らぬだけです」
吐き捨てるように成公英が言う。そんな愚かしさも含め、西涼で生き西涼で死ぬ、外の世界を知らぬ西涼人らしさと韓遂の目には映るのだった。
西涼人らしからぬ西涼人。多くの西涼人にとって、自分はそんな人間であるらしい。間違いではない。しかし西涼人らしくなくとも、いやだからこそ一層、西涼と言う土地が、そこに住まう人々が韓遂には愛おしいのだった。
成公英と話しているうちに、城壁の上に着いた。日差し避けに天幕が張られ、その下に背もたれの付いた床几が一つ置かれている。
守備兵の指揮に当たる閻行に軽く手を振って、韓遂は床几に腰を落ち着けた。戦場を見やる特等席だ。
「おお、あれは曹操か。見るのは五年振り、いやもっと経つか? 育ち盛りも過ぎたというのに、変わっておらんな」
睨み合う両軍の真ん中で、二騎が語らっている。西涼伝統の交馬語だ。一方は良く見慣れた馬騰。遠目にも小柄なもう一方は曹操であろう。
「何を話しているのでしょう」
傍らに侍る成公英が言った。
「曹操のことだ、藍を口説き落とそうとでもしているのではないか」
曹操は人材を好む。かつて洛陽で韓遂と出会った時にも、若輩の分際で値踏みする様な不躾な視線をぶつけてきたものだ。事ここに至っても、藍や馬超が降伏すれば曹操は受け容れ、重用するのだろう。
「まあ、いまさら藍が降るはずもない」
曹操が馬首を返した。少々苛立たしげに見えるのは、勧誘を断られたためか。
間を置かず両軍は動き始めた。
初めに動いたのは馬超の隊だ。わずかに遅れて、曹操軍からは曹仁の隊が飛び出す。先刻まで藍と曹操がいた戦場の中心で馳せ違い、絡み合った。
「―――っ」
閻行が固唾を呑む音が聞こえた。
馬超と曹仁、双方二万騎の大軍であるが、まるで五百や一千の小隊のような目まぐるしい攻防を演じている。もはや馬超の用兵は往時の馬騰をも凌ごう。やがて馬超と曹仁に引き寄せられるように、全軍が動き始めた。
閻行には良い薬になるかもしれない。閻行の傲岸をも愛する韓遂ではあるが、その成長を望んでいないわけではない。馬超と曹仁の用兵には、つまらない慢心など打ち砕く凄みがある。
とはいえ、韓遂の視線は戦場の真ん中に靡くもう一本の馬旗に引き寄せられた。
錦ではないが、やはり派手な意匠。黒字で馬と大書された旗布は左半分が赤、右半分は白である。赤龍を奉ずる漢室の外戚、名将馬援の裔。同時に白狼を信奉する羌族の血をも身に宿す。馬騰の出自を顕したものだ。
西涼人らしさを言うなら、馬騰も相当なものだ。日毎は質実な暮らし向きながら、武具や馬具、戦道具は派手好みなところなど実に西涼人らしい。
この戦が終われば勝敗いかんに関わらず、西涼人らしいなどと言う考え方自体が廃れていくのだろう。
勝てば、この国の都は長安だ。西の辺境を暗に示す西涼などという言葉は使われなくなるだろう。いや、言葉は残るかもしれないが、その意味するところは大きく変わる。
負ければ、曹操領に併呑される。領内全土に画一の制度、均一な体制を押し通す曹操の手の内に入れば、やはり西涼は西涼のままではいられない。
「藍よ。西涼最後の戦、見せてもらおうか」
韓遂は義妹へ向けて、小さく囁いた。
真正面から曹仁の隊と近付き、直前で双方右に逸れた。半歩左に寄せればぶつかるという距離を、二万騎と二万騎がすれ違う。曹仁は逸れるがまま右に、翠はあえて左に進路をとって旋回した。追走する形になったが距離は縮まらず、一里程追ったところで右へ折れた。
曹仁が旋回し、駆け戻ってくる。翠も右回りでそのままぐるりと一周し、正面から向き合う。わずかにこちらの馬首に角度が付いた。
「行くぞっ、あたしに続けっ!」
叫び、槍を掲げた。
曹仁も、進路を修正してぶつかりにくる。騎馬隊の先頭と先頭で、行き交う。払いと突きの中間の軌道で首を刈りにいった翠に対して、曹仁は白鵠と黄鵬がすれ違う切那の間に二度突きに来た。いずれも空を斬るが、首筋がぞくぞくと怖気立つ。
続く騎馬隊は、先頭数十騎がぶつかり合い、あとは互いに馬首を逸らして馳せ違い、離れた。
翠は前回のような、完全無欠の勝利は望まなかった。自分の戦にこだわり過ぎる間に、成宜らは討たれ、戦は終わりとなったのだ。
七分の利で、時には六分の利でさえ攻勢に転じる。六分の利では、ぶつかる瞬間のほんの些細な変化で、五分の被害を受けることもある。今はそれでも構わなかった。最後にどこかで凌いでいければ良い。
数里駆け通して、脚を止めた。
馬の疲労が限界に近付きつつある。半刻の休息を命じた。完璧な勝利を諦めたからと言って、馬を潰すような無様な戦をするつもりはない。普段なら動きの中でも馬の脚を休める工夫をするが、曹仁との勝負に脚を緩める余裕はなかった。
曹仁も思うところは同じようで、同様に距離を取って休息に入っている。前回の戦でも、同じように駆け続け、同じように休息を取り、示し合わせたように同時に戦を再開した。翠は時に、自分自身を相手にしているような錯覚に襲われた。
「―――お姉様」
馬を引いた蒲公英が、歩み寄ってきた。
蒲公英の一万を併せ二万騎で一隊としている。対する曹仁も今回は隊を分けずに二万騎で応じた。藍の狙い通りの展開だった。前回と同じく曹仁隊と翠がやり合うのなら、出来るだけ多くの兵を引き受けることで中央の戦線の数的有利を拡げる。曹仁と翠の二万を除いた残りの騎馬兵力は、曹操軍が四万に西涼軍は六万である。
「怪我はない? 最後、曹仁と遣り合っているのが見えたけど」
「ああ。しかし、あの突きは何なんだ。速いなんてもんじゃないぞ。呂布と伍したって話、疑ってかかっていたけど本当かもな」
「お姉様でも勝てそうにない?」
「馬鹿を言うな。速いけど、それだけだ。あたしが勝てない相手じゃないさ。それより、兵の被害は?」
蒲公英は隊の後方に付けて、戦の全容を観察してもらっている。
「こっちはきっかり二百五十。むこうは二百七十から八十ってところじゃないかな?」
「そうか」
戦の開始から数えて、五度ぶつかった。こちらが有利でぶつかった時もあれば、あちらの有利でぶつかられた時もある。総じて見れば、ほんのわずかに翠に利があったということだ。とはいえ五度矛を交わすまでの間に、二十回以上も五分の形勢で迫り、互いに交戦を避けて別れている。互いの力量は拮抗していた。
「―――お姉様、強くなった?」
「なんだ、急に?」
「前回もそうだったけど、用兵がちょっと信じられないくらい冴えてる」
「そうか? いや、そうだな。確かに自分で思った以上の戦が出来てる。噛み合うな、あたしと曹仁」
「うん。何だか、戦えば戦うほど強くなってくみたいで、このまま戦い続けていたらどうなっちゃうのか、怖いくらい」
「ははっ、十日も戦が続けば、馬服君や馬援公を超えるかもな」
馬服君趙奢は戦国時代末期、大国秦に土を付けた数少ない将軍の一人である。彼の子孫の一人が、その封号から馬の字を姓に戴いたのが馬一族の始まりとされている。その後裔馬援は言うまでもなく光武帝の漢朝再興を助けた名将だ。学問を好まない翠も、一門の英雄である二人のことだけはよく知っている。翠にとっては軍学の祖孫子や覇王項羽とも並ぶ偉人であった。
写し鏡の自分と思えるような存在を越えようとすることは、その大英雄二人を引き合いに出したくなるほど、翠に急速な成長を促すようだった。
「あんまり、無理はしないでよね」
蒲公英はそう言い残すと、後方へ下がっていった。
「無理か。……しないわけにもいかないだろうな」
曹仁は奥の手を一つ残している。
音に聞こえた白騎兵をまだ前面に出していない。駆け合いの最中、二万騎の中に点々と白いものが見え隠れした。白騎兵が首に巻く白い布だ。曹仁は白騎兵を二万騎の中へ埋伏させていた。
白騎兵は、元は五百騎の董卓の旗本である。今のように大仰な呼び名など付いてはいなかったが、選び抜かれた西涼騎兵に苛酷な調練を課したその集団の精強さは、西涼では広く知れ渡っていた。反董卓連合の戦で多くが散り、今やわずか百騎だが、さらに戦歴を重ねている。間違いなく天下で一番の騎馬隊だろう。
馬騰軍にも、精鋭の五百騎が存在する。洛陽へも伴った兵達で、藍が病に倒れ軍の大権を委ねられた時から、廉士と二人で鍛えに鍛えた兵達だ。今思えば五百という数と言い、董卓の旗本を意識していたのかもしれない。西涼生れながらも中央の匂いが強い董卓に、西涼最強の騎兵を率いさせておくのは癪に障った。
五百騎は翠にとっては手足のようなものである。しかしその手足を、今は手元に置いていなかった。藍が戦場に立つ際に、その護衛とするつもりで育て上げた一団である。今は当然廉士と共に藍の近くに居てくれている。それで翠は病身の母への憂いを脇に置いて、自身の戦場に意識を集中させることが出来た。
「―――馬超様」
兵が、紫燕を連れてきた。
「おう。―――ありがとな、黄鵬」
紫燕に繋がれた手綱を受け取り、代わって黄鵬の手綱を兵に渡した。首筋を軽く一撫ですると、黄鵬は気持ちよさそうに鼻を鳴らす。鼻面を寄せ合って紫燕としばし抱擁を交わすと、黄鵬は兵に連れられ去っていった。
愛馬三頭全てを、軍勢に伴っていた。乗馬以外の二頭は空馬にして兵に伴走させている。休憩の度、乗り継ぐつもりだった。
麒麟と共に戦った前回で、曹仁と白鵠の実力は身に沁みた。悔しいが、馬術で差を付けるのは難しい。気性や走りの質に多少の差異はあるが、黄鵬や紫燕に乗っても同じことだろう。
精鋭五百騎を手元から離した翠にとっては、三頭の愛馬が奥の手のようなものだ。周りの馬に合わせているから、黄鵬達も白鵠も脚に余力は残している。しかし本気で力を振り絞った瞬間に、それまでずっと人を乗せて走り続けたものと、空馬で駆けていたものの差が出る。
翠は最後は自らの槍で決着を付けるつもりだった。
五里程の距離を置いて、小さく錦の馬旗が見える。まだ動き出す気配はない。
馬超は戦の仕方を大きく変えてきた。犠牲を恐れず、相手にそれ以上の犠牲を強いるという戦だ。
ほんのわずかな勝機も見逃さず、突っ込んで来る。そこで下がってしまえば、わずかだった勝機の偏りが、大きく傾きかねない。戦機を読み合った前回の戦とは異なり、ぶつかるその瞬間まで、利を奪い合う展開となった。
布陣から、馬超が今度は二万騎を率いてくることは察しがついていた。誰かが馬超を引き受けるなら、今回は兵員を二万騎に拡張した霞が適任であった。しかし曹仁が名乗りを上げると、華琳が認め、意外にも霞も不平を言わなかった。前回の戦を見て、馬超は曹仁が戦うべき相手と認めたらしい。
曹仁は本隊の騎兵一万騎を併せて、二万騎を率いた。副官として、白蓮が付いている。本来の副官の角は、曹仁隊二万の歩兵部隊の指揮に回していた。
本隊の兵は多忙な華琳に代わって、曹仁と霞が交代で調練に当たっている兵であるから、指揮に大きな支障をきたすことはなかった。とはいえ、二万騎である。意思が速やかに端々まで行き渡るとは言い難く、白騎兵を全軍に散らすことで対処した。それで、二万騎が百騎の小隊に感じられるまでになった。
馬超は特に苦もなく、二万騎をまとめ上げているようだ。持って生まれた存在感、戦場における求心力の差は如何ともし難い。恋や愛紗、そして馬超のような、いるだけで光彩を放つ武将にはなれない。しかし工夫次第でその差を埋めることは出来る。
「曹仁将軍を相手によくやるものですね」
従者の陳矯が近付いてきて言った。差し出された水を、曹仁は一息であおる。
馬超を相手に曹仁が健闘しているというのが実情である。白騎兵に魅せられて曹操軍に入隊した陳矯には、曹仁こそが騎馬隊の将軍の頂点であるらしかった。白騎兵を鍛え上げたのは別の男だと教えても、現実に彼らを従える曹仁こそが最強と言う認識は揺るぎない。
それも夢ではないと、今の曹仁には思える。この調子で馬超と高め合い、そして最後に勝利を収めたなら、陳矯の幻想は現実のものとなる。
華琳からも、期待を込めた眼差しを向けられた。霞には馬超を倒した後に、一度調練で本気でやり合うように約束を取り付けられている。
「さてと、そろそろ戦を再開するぞ」
「―――っと」
空になった器を、陳矯に投げ返す。
錦の馬旗。動きはないが、曹仁の言葉に呼応するように気が立ち昇って見えた。
思い込みの産物だろう。しかし現実に馬超も戦の再開を命じただろうことを、曹仁は確信していた。
地面に転がしていた槍を拾い上げた。出し惜しみせず、最初から管を装着している。
休息に入るまでに五度ぶつかり、最後には馬超と直接槍を交えた。管槍の突きを、馬超は初見で避けた。春蘭でさえ初めは躱すことが出来なかった突きだ。個人の武勇に関しても、馬超は傑出した域にある。並のやり方では討ち取ることは難しいだろう。
曹仁は、まだ奥の手を一つ残していた。いつ、それが使われる瞬間が訪れるのか。その時が来るまで、曹仁は極力思考からその存在を締め出した。読まれれば、それで終わりである。
互いに相手の思考を読み取ることに、全てを注いでいる。ふとした思い付きや、ちょっとした感情の機微まで伝わってしまいそうだった。
三万騎を、駆け回らせた。
馬騰軍一万に、成宜、李堪、張横の軍の残党一万五千、さらには新兵の五千を併せた隊である。曹操が長安に至るまでの数日間で編成を整えはしたが、烏合だった。構わず駆けさせる。
「藍様、また数騎遅れたようです」
「かまわん」
廉士が副官としてぴったりと付き従っていた。
廉士は十分に一軍の指揮官足る実力を持つ。西涼の将としては、翠に次ぐと言っても言い過ぎではなかった。長安に残しておいた最後の馬騰軍一万の指揮を委ねるつもりだったが、馬騰の副官に付くと言って聞かず、翠もそれに同調した。実の娘と息子も同然の従者に押し切られた格好で、廉士を副官とし、一万騎は旗下に加えた。
翠と蒲公英の一万は一つにまとめ、理由を付けて蒲公英を翠の副官とした。前回の戦での蒲公英の働きに不満があったわけではなく、少々気負い過ぎの翠への不安からだ。敗戦に対する自責の念が強過ぎる。適度に気と手を抜く術を心得ている蒲公英が側に付けば、いくらか無茶も抑えられるだろう。
馬騰隊三万に、翠が二万、五軍閥の隊が合わせて三万で、八万騎が西涼軍の戦力である。長安の守備には韓遂の五千を残すのみだ。西涼の、建国されたばかりの西の漢王朝の、まさに総力戦である。
曹操軍は、三万の歩兵三隊を距離を置いた鶴翼に構えている。騎兵は二万が三隊で、報告にあった先の戦とほとんど変わらない布陣だった。唯一異なるのは曹仁が隊を分けずに二万をそのまま率いている点で、これは同じく二万騎に増やした翠の隊とやり合っている。
翠と曹仁は報告で聞いた通り、密に絡み合うような戦を展開している。先日の戦振りと異なるのは、互いにすでに犠牲を出し始めているということだ。
二人の勝負は、二人に付けさせるしかない。援軍を送ればそれで有利になるとも限らない。それを恃む気持ち、あるいは庇う気持ちが思考の雑音となって用兵の妙を欠き、大敗を招きかねなかった。それほど二人の力は拮抗しており、他者から突出した域に入りつつある。
馬騰は自らの戦場へと視線を戻した。
「歩兵が邪魔だな」
「はい。あの三隊がいるせいで、主導権を握れません」
敵騎馬隊は、自軍が不利と見るや歩兵三隊の作る空間へと駆け込んでいく。先日の大敗があるから、攻撃はそこで切り上げざるを得ない。騎馬隊の兵数では有利でありながら、戦況を優勢に持ち込めずにいる。
特に馬騰率いる三軍閥の残党は、歩兵部隊に近付くことも嫌うようだった。二人に一人が討たれるという壮絶な敗北を喫したのだから無理もないが、歩兵の近くを駆け抜ける度に数騎が後れを取る。それは切り捨てていくしかなかった。彼らに合わせれば、全体が危険に晒されるのだ。
「これが曹孟徳の戦か」
呟くも、実感はない。
曹仁に張遼、蹋頓の騎馬隊の動きは水際立っている。楽進の重装歩兵や、張燕、張郃の歩兵も不動ながらも歴戦の重みを感じさせる。しかし肝心の曹孟徳の顔だけが、見えてこなかった。
曹操の戦については、調べ得る限りの情報を集めている。洛陽ではかつての好敵手であり、曹操に敗れた皇甫嵩にも話を聞いた。結果から見れば、曹操はこの時代屈指の将軍であり軍略家であることは間違いない。反董卓連合で存在を示し、青州黄巾百万を説き伏せ、呂布を陥穽に落し、袁紹の大軍を奇策で破り、劉備と孫策の精鋭を用兵の妙で連破している。
しかし曹操の戦がどういうものであるのか、調べ尽くした上でも確たる答えは見つからなかった。士気に任せた我武者羅な戦をするかと思えば、入念に準備を整え勝つべくして勝つ戦もする。戦略の上での後れを、神掛かった戦術で取り返しもする。共通しているのは、決定的な機を自分で作り出すということだ。終わってみれば、曹操の戦としか言いようのない足跡が残る。つまり戦を決める最後の瞬間、曹操は顔を覗かせる。
―――その時が勝負だな。
皇甫嵩も、その瞬間に賭けて敗れたという。同じ轍を踏んで倒れるか。それとも駆け抜けるかだ。
「しかしその前に、兵をもう少し何とかせねばな」
残酷なようだが、足手纏いの兵は切り捨てていかねばならない。あえて歩兵に接近して篩にかけてはいるが、時が掛かり過ぎる。戦が始まって半日以上がすでに経過したが、三万は未だ烏合のままであった。いつ、曹操が動くとも知れないのだ。
「むっ」
進行方向へ割り込む様に、烏桓の騎兵が前方に姿を現した。馬騰はすぐに進路を右へとった。烏桓の騎射は、ほとんどあらゆる方角に飛んでくる。右斜め後方にわずかな死角があるのみだった。
死角を取られまいと、烏桓兵も右へ左へと隊を動かす。その間も、断続的に矢が降り注ぐ。馬騰は足を落し、騎射の間合いを外した。
「先日の戦では張遼にかなりやられたという話だが、こうなると烏桓兵がやっかいだな」
一方的に攻撃を仕掛け、こちらが数隊で囲い込みに掛かれば歩兵の中へと逃げ込んでいく。これを繰り返されるだけで、確実にこちらの犠牲が増えていった。特に煩わしいのが、馬上でくるりと振り返って真後ろへ放つ騎射だ。安全な場―――歩兵の中―――が確保されているために、烏桓兵は余裕を持ってこちらを引き付け、その矢は良く当たった。こちらが前に駆ける勢いも加わるから、短弓ながらも具足を突き通す威力もある。
「彼らも元は騎兵の戦しか知らなかったはずですが、曹操の軍とよく連携しております」
「元単于の蹋頓と言ったか。漢族の戦を良く学び、兵にも指揮通りの動きを徹底させているな」
「羌族ではちょっと見ない類の指導者ですね」
今、羌族には主だった指導者と言える者がいない。小さな部族がそれぞれに独立しているだけである。そもそも羌族は、匈奴や烏桓、鮮卑といった他の北方異民族と比べて結束が弱い一族だった。集団への帰属意識の薄さは騎馬民族に共通した特徴の一つではあるが、羌族には特にそれが顕著である。
匈奴には冒頓、鮮卑には檀石槐という強力な指導者を戴いた記憶がある。羌族には無弋爰剣と呼ばれた古い伝説上の頭がいるが、一部族の長に過ぎず、強権を発揮し族人全てをまとめ上げるという者は現れていない。
烏桓族にとって蹋頓は、冒頓にも匹敵する偉大な指導者なのだろう。民族独自の色は残しながら、見事に軍勢を漢族の軍律に馴染ませていた。
「また逃げます」
楊秋、馬玩の隊に左右から挟まれた烏桓隊が、歩兵部隊の元へ駆ける。遮りに掛かる梁興は、矢を射掛けられ出足を鈍らされた。
馬騰も三万騎で後を追った。
楊秋と馬玩、それに梁興の三隊を足しても、二万騎には及ばない。烏桓兵は騎射用の短弓の他に厚手の刀を良く使うようだが、刀槍の間合いに踏み込むことはほとんどなかった。危険を冒さず、確実にこちらの兵力を削りに来ている。
先行していた楊秋らの隊が歩兵部隊との接近を避けて道を逸れ、馬騰の視界が開けた。烏桓兵はすでに歩兵部隊の中へ逃げ込んでいる。
「突っ込むぞっ、私に続けっ!」
馬騰は槍を頭上に掲げた。
「成宜、李堪、張横の兵達よっ、勇敢なる西涼の同胞達よっ! 我が旗を見よっ! 赤白の我が旗を見据えよっ! そこに、我らが漢朝の、大将軍たる私がいるっ!!」
油断していた烏桓兵に、背後からぶつかった。刀を抜く間も与えず、馬騰は自ら五、六騎を突き落した。押し込む。
乱戦となっては、騎射は用をなさない。ここまで犠牲を避ける戦を続けてきた烏桓兵は、ほとんど反射的に逃げ場を求めた。味方歩兵の陣は、今や進路を遮る壁でしかない。
中軍と右翼の間を抜け、烏桓兵は歩兵の陣の外へと逃れ出た。馬騰はその反対―――中軍と左翼の間を駆け抜けた。
三万騎のほぼ全てが抜け出たところで、ようやく歩兵の輪が閉じる。行く手を遮る抵抗が弱ければ、歩兵が包囲を固めるより先に騎馬隊が駆け抜けるのは難しい事ではないのだ。
「数百騎が取り込まれました」
廉士の言葉に、馬騰は黙って頷き返す。死ぬべくして死ぬ者達だ。ここを乗り越えた兵は、もう烏合の敗残兵ではない。
その日はさらに数刻戦を続けたが、馬騰軍に遅れる兵はもう出なかった。
歩兵を五里後退させ、そこで野営とした。
馬騰軍に歩兵部隊の中央を突破されたのを除いて、概ね当初の想定通りに戦は進行している。
華琳は歩兵部隊各隊の将に、明日は三隊の配置を少し近づけるとだけ伝令を出した。軍議の要を認めず、諸将を本隊に招集はしない。本営の幕舎では、詠と稟、それに春華が今日の戦に関して意見を交わしている。
「こちらへ通しなさい」
独断専行を許していた曹仁隊から、無花果が報告を携え本営へ訪れた。
一日馬超とやりあって、一千騎近く失ったようだ。ほぼ同じだけの犠牲を、馬超にも強いている。
「御苦労さま、無花果。他に何か?」
「曹仁将軍からは何も。華琳様から、曹仁将軍に何かありますでしょうか? お伝え申し上げます」
「―――いえ、何もないわ」
何か一言とも考えたが、やめておいた。今は些細な労いの言葉一つであっても、曹仁の頭に余計な情報は入れない方が良い。
無花果は一礼して幕舎を辞した。
「よろしいのですか、華琳様? 一千騎というのは、小さな被害ではありませんが」
春華がゆったりと首を傾げながら言う。春華は季衣や流流と並んで陣営でも最年少であるが、動作の一つ一つが妙に艶めかしい。
「構わないわ。明日も同程度の犠牲を出すでしょうが、馬超の相手は曹仁。これは動かさない」
「はっ。差し出口でしたわね、申し訳ありません」
春華はゆるりと頭を下げた。
春華はこれが初陣であり、それもあくまで幕僚である。
軍を率いた経験のない者からすると、曹仁と馬超の戦は何ということのない、他の将で代わりが利くものと見えるのだろう。実際、連環馬で敵を一掃したり、突出した個の武が大軍を突き崩したりというような目を見張る展開があるわけではない。
軍の統率、動き、判断の早さと正確さ、そういったもの全てが極めて高い水準でまとまっている。結果、霞でさえ割り込みを断念するほどに、桁が違う戦を呈していた。それも、まだまだ成長の途上にある。明日には、さらに一段戦の質を高めるだろう。
明くる日の夜、華琳の口にした通り無花果は再び一千騎の犠牲を報告に来た。他の戦線にも大きな動きはない。馬騰の三万騎の動きが、いくらか活発化したくらいだ。華琳はやはり軍議を催さず、曹仁も放任した。
三日目もやはり曹仁隊は一千騎の犠牲を出した。そして四日目の夜が訪れた。
「これはっ、軍議でしたか? 申し訳ありません、急ぎ曹仁将軍を連れてまいりますっ」
「待ちなさい、無花果」
本営を訪れた無花果が慌てて踵を返しかけるのを、華琳は制止した。幕舎内には、曹仁を除く諸将が揃っている。
「あの子は呼び出していないわ。少々馬騰の動きがうっとうしくなってきたから、その対策を話し合っているところよ。貴方達は、馬超との戦を続けて頂戴」
「はっ。―――曹仁将軍も、馬騰の三万騎は歩兵部隊を突っ切ってから格段に動きが良くなったと話しておりました。編成を変えた昨日の昼過ぎからは、もうほとんど馬騰軍本来の騎馬隊と変わらぬ動きをしていると」
前回の戦の生き残りを、前面に押し出している。初め、彼らは前を行く本来の馬騰軍に引きずられるように続く足手纏いの一団であった。上手く焚き付けたもので、それが今や主君の仇討に逸る急先鋒と化していた。
西涼軍の兵は馬術が達者でそれぞれが勇猛であるから、元々騎馬の精兵たる素養を有している。些細な切っ掛けや使い方次第で、弱兵が容易く強兵に化ける。
「ずいぶんと詳しいわね」
馬騰が編成を変えたことは、華琳も間近で戦う霞の報告を受けて初めて気付いたことだ。
曹仁からは無花果が報告を上げてくるが、華琳の方から細かな戦況を伝えることはしていない。せっかくの曹仁の集中を削ぐことになると考えたからだ。
「よく見ておいでです。馬超はもちろん、戦場の端々まで」
初日に報告に来た時よりも、幾分やつれた無花果が言う。
続けて受けた報告では、やはり曹仁隊の犠牲は一千騎であった。
「お姉様、ご飯。……お姉様ってば!」
「―――っ、ああ、悪いな」
背後から肩を引くと、翠が驚いた様子で振り返った。
「地面とにらめっこして何をしているのかと思えば、これは昨日の戦?」
五日目の朝を迎えた。
兵糧の入った器を差し出しながら、蒲公英は翠の隣に腰を降ろす。
翠の足元の土に、子供のいたずらの様なぐちゃぐちゃと重なり合った線が引かれている。分かり難いが、よく見ると二本の線がぶつかっては離れを繰り返している。
「ああ」
翠は生返事で返すと、匙を使わず器に口を付けてずるずると粥をすすった。視線はやはり地面の線に注がれている。
翠がすでに終わった戦場を見つめ直すなど、常にはないことだった。それも声を掛けても気付かない程それに集中してとなると、蒲公英の記憶に前例はない。翠には集中が過ぎると周りが見えなくなる癖があるが、今日は戦が始まる前からすでに気負い立っているようだ。
「ここで牽制を入れたのは余計だったな。それで、次の動きが一歩遅れた。いや、この時は曹仁も釣られてわずかに遅れたのか。あー、でも、今日の曹仁にはもう通用する気がしないなぁ」
翠は一人でぶつくさと言いながら、悩ましげにがりがりと髪を掻きむしった。もう隣に座る蒲公英の存在など頭から締め出されてしまっている。
こういう翠を落ち着かせるのが副官としての自分の役割だろうが、ここまで戦に没入した翠が負ける姿など蒲公英には想像も出来なかった。
「さてと、あまり戦を長引かせても、母様のお身体が心配だ。そろそろ曹仁の奴を仕留めて、曹操を討ちに行かないとな」
翠は兵糧を腹に流し込むと立ち上がり、地面に書いた線を蹴り消した。
「行くか」
兵糧を食べ終えるや、すぐに白鵠に飛び乗った曹仁に、陳矯は慌てて馬に跨った。
「―――陳矯、轡の留め具がずれているぞ」
「はっ、はい」
曹仁が、こちらを振り返ることもなく言う。
陳矯が馬首に抱きつく様にして手を伸ばすと、確かに皮の留め具がずれ、馬の目蓋に掛かりかけていた。
馬超との戦を続ける中で、どんどんと研ぎ澄まされていく曹仁を陳矯は間近で見続けてきた。視界に入る全て、耳に届く僅かな音、風が運ぶ匂いまで、どんな些細な情報も見過ごすことが無い。
外見にも、引き絞られた弓の様な危うい精悍さを帯び始めた。頬の肉は削げ落ち、大きな目がいつも以上に大きく、身体は一回り小さく見えた。戦も長丁場となれば誰もが経る変化ではあるが、開戦から今日でまだ五日目だった。呂布軍や袁紹軍との戦では、今回よりはるかに長い間戦い続けたが、ここまで凄惨に痩せこけていく曹仁を見るのは初めてだった。
「陳矯、白騎兵に俺の合図で集まるように伝えておいてくれ」
「よろしいのですか?」
全軍に散らした白騎兵は、指揮を遅滞なく伝えるための工夫である。
「ああ。兵の皆も、すでに俺の指揮になれただろう。それに、最後の一瞬だけだ」
「最後?」
「ああ。―――今日、錦馬超を倒すぞ。どうやら向こうもその気らしい」
曹仁はそう言って、精悍な顔立ちに活き活きとした笑みを浮かべた。
長安城下から、真っ直ぐ前へ駆けた。天人旗と曹旗も近付いてくる。
並足から速足、駆足、そして疾駆へ。見る間に曹仁の顔が見て取れる距離まで近付いた。
極めて親しい旧友にでも会うような、不思議な感覚がある。
馳せ違う瞬間、曹仁と目が合った。幾千幾万と言葉を交わし、語り尽くした感すらあるが、実際に口を利く機会はほとんどなかった。少々惜しくもあるが、言葉を交わす以上に濃密な時間を持ったという気もする。
視線が合ったのは、ほんの一瞬である。旋回して馬首を転じた時、翠は感傷を完全に振り払った。
駆ける。五分の形勢で近付き、別れる。何度も繰り返した。
わずかに距離が開いた。翠は二万騎―――すでに実数は一万五千近くまで減っている―――を二隊に分けた。曹仁も隊を分け、自身は翠のいる方へ向かってくる。もう一方は蒲公英と公孫賛がそれぞれ率いることになる。この五日の間に何度か似たような形になったが、翠と曹仁と同じく二人の技量も拮抗している。
四隊が互い違いにすれ違った。端から見たなら、示し合わせた演習のように思えるかもしれない。
四匹の蛇が絡み合う。翠が公孫賛の隊と、曹仁が蒲公英の隊とかち合うと、多少一方的な展開になった。しかしすぐに互いが互いの仲間の救援に入るため、大きく被害が広がるには至らない。麒麟の脚にはまだ余力があるが、兵の馬は限界が近い。四日間疾駆し通しであったから、たった一晩の休息では疲れは完全には抜けない。
曹仁の隊と馳せ違う。もう一度、目が合った。
反転して、再び迫る。正面と正面。形勢は全くの五分と五分。
―――ここだ。
避けなかった。
七分と三分、六分と四分でぶつかれば、攻勢と守勢が生じる。守勢に回った曹仁を―――あるいは自分を―――、打ち崩すのは並大抵のことではない。ほとんど不可能と言っても良いだろう。ならば五分と五分、互いに攻勢でぶつかる。
白騎兵。前に出てきた。数は少ない。五十騎ほどか。曹仁も、勝負を決めにきている。
公孫賛と蒲公英の一万騎も並走してこちらへ向かって来ている。曹仁と翠、少し遅れて公孫賛と蒲公英。四つの騎馬隊が一点に集結しようとしていた。
後続を振り切る様に白騎兵がさらに前に出る。先頭に曹仁。翠一人に狙いを定め、白騎兵だけで一息に押し包むつもりだろう。曹仁隊の練度は十分だが、翠にとってはある意味で逃げ場ともなり得るのだ。
こちらも狙いは曹仁一人だ。背後に白騎兵が五十騎控えようが百騎控えようが、最初にぶつかるのは曹仁一人だ。翠は両腿にぐいと力を込めた。地面を蹴る麒麟の脚にも、力がこもる。ぐんぐんと曹仁との距離が狭まる。
曹仁は一瞬だけ大きく目を見開いた。こちらの意図に気付き、意を決した様子で小さく笑うと、白鵠を加速させた。
ここで曹仁が引けば、一万騎は最悪な形で翠の一万騎とぶつかることになる。他に選択肢はないのだ。白騎兵をも振り切り、白鵠が前に出る。その走りに、わずかに疲れが見て取れた。
―――取れる。
翠がそう思った切那、身体に衝撃が走った。
馬超の乗馬―――麒麟の足元に、矢が突き立った。当たりこそしなかったが、快調そのものだった麒麟の脚並みが乱れる。 馬超の後続の兵にも、矢は降り注いでいる。
矢が飛んできた方角―――白蓮と馬岱の隊が駆けてくる―――に、顔を向けた馬超は、戸惑いの表情で視線を外すと、周囲に目を走らせた。
烏桓兵を探しているのだろう。
矢が降り注いだ瞬間、曹仁は全てを察していた。
ぎゅっと脾肉に力を込めると、白鵠はさらに加速した。ここで出しきってしまって良いと、白鵠も察している。
馬超も雑念を捨て、こちらを見据えた。馳せ違う。白鵠の駆ける力を十全に伝えるため、曹仁は管は握らず諸手で突いた。中空で馬超の十文字槍とぶつかる。
「――――っ!!」
脚を乱してなお、麒麟は白鵠と変わらぬ速さを維持していた。肩が外れそうなほどの衝撃に襲われ、双方大きく身を仰け反らせた。
馬超から遅れること十数歩、すぐに後続が迫りくる。
「はあっ!!」
崩れた体勢のまま、曹仁は敵兵を斬り払った。さすがに涼州の騎兵、後ろを振り返る余裕はない。曹仁もあとは後続に託すしかなかった。
こちらはただの騎兵ではない。白騎兵だ。かつて張繍が、涼州騎兵の中からさらに選別に選別を繰り返して作り上げた至高の兵達。
曹仁は目の前の敵陣を切り開くことだけに専心した。駆け抜ける。
敵陣の最後尾から、飛び出した。続く兵は、相応に数を減らしている。一万騎と一万騎が正面からぶつかり、行き違うという形になったのだ。
白蓮の隊もこちらへ向かってくる。曹仁と馬超の衝突の最中、横合いから白蓮と馬岱の隊がぶつかっていれば、敵味方入り乱れての大混戦となっただろう。白蓮と馬岱は騎兵を率いる者の常としてそれを避け、味方との合流を選んだ。
旋回して背後へ向き直ったところで、脚を止めた。馬超と馬岱の隊は、軍をまとめ遠ざかっていく。追撃を掛ける余力は、こちらにも残っていなかった。
「何人やられた?」
曹仁は首だけで振り返ると、すぐ後ろの兵―――旗手も務める白騎兵の一人―――に問う。
「一千程でしょうか。お待ちください。今、確認を―――」
「―――そうではなく、お前達がだ」
「……六名です」
「あの崩れた体勢から、お前達を相手にそこまで犠牲を出させたか」
振り返らずとも、馬超に手傷を負わせたこと、そして白騎兵に数騎の犠牲が出たことは感じていた。
月と詠から指揮権を預かって以来、白騎兵に犠牲を出したのは初めてのことだ。呂布軍との戦でも袁紹軍との決戦でも、一騎も欠けることはなかったのだ。
「これで白騎兵は九十四騎となったか」
「すぐに補充いたします」
「お前達に代わる兵などいないだろう」
「いえ、おります。騎馬隊の中から目ぼしい者を二、三名ずつ、後継としてそれぞれが選出しております」
「そんなことをしていたのか」
白騎兵には、調練の教官の役を任せることも多い。後継者に目星を付ける機会は十分にあるのだろう。
「我が隊の動きも、それとなく教え込んでおります。すぐにも隊に参加させられますが」
「―――わかった、お前たちに任せよう。ただし、布は巻かせるなよっ」
「はっ」
補充などはせずに欠ければ欠けたままとするつもりでいたが、それはただの感傷でもある。
ただ、あの白布だけは別だった。今や単に白騎兵の目印のように思われているが、元々は照―――張繍―――に対する喪を示したものだ。形だけを真似る意味は無い。今では白騎兵には専用の具足があるので、布など巻かなくても目印には事欠かない。
「……その補充候補に、私は入っていないのですか?」
陳矯が遠慮がちに尋ねた。
文官志望でありながら、白騎兵の活躍に憧れて軍に入隊したのが陳矯である。羨望の対象の死を嘆きながらも、わずかに期待を覗かせている。
「残念ながら」
「はぁ、それはそうですよね」
旗手の答えに、陳矯は肩を落とした。
「おーい、曹仁」
白蓮が馬を走らせてきた。
「仕留めたのか?」
「いいや、手傷を与えただけだ。―――ああ。そういえば、俺も聞いていなかった。どれ程の傷を与えた?」
「右肩に深手を与えたはずです」
「―――左腿にも槍を受けるのを見ました」
旗手の言葉を陳矯が補足する。
「右肩に腿。それならしばらく馬に乗っての槍働きとはいかないな」
白蓮がうんうんと頷きながら言う。
「それにしても白蓮さん、あの瞬間によくぞ騎射に思い至ってくれたな」
勝利の決め手となったのは、白馬義従の一射であった。この五日間一度も使うことのなかった騎射が、馬超の集中を妨げた。
独力で勝ち切れなかったという口惜しさはあるが、まるで誇った様子もない白蓮を曹仁は称えた。
「?」
怪訝そうに、白蓮は首を傾げた。
「どうした?」
「思い至るも何も。仁、白騎兵が動くのを見たら、機を見て白馬義従も働き所を見つけてくれと、お前が言ったんじゃないか」
「……あっ」
白馬義従こそ、曹仁の奥の手だった。
初日に白蓮と取り決めて以来、馬超に読まれぬように意識の外へ外へと押しやり続けた結果、すっかりと曹仁は失念していた。
「おいおい、ひっどいな。……いくら私に存在感がないからって」
「いやいや、そういうことではなく」
俯いてしまった白蓮を、曹仁は慌てて宥めにかかった。