「藍様、翠様が―――」
「うむ、わかっておる」
翠の隊が駆け去り、曹仁隊はその場に留まった。
これまでも双方距離を取って休息に入ることは何度もあったが、一方が動かず、一方だけが退くというのは初めてだった。詳細な戦況は分からぬまでも、結果だけははっきりとしていた。
「敗れたか」
「騎馬隊のみの戦で、翠様が後れを取るとは」
後退する翠の隊は、しっかりと隊列を保っている。討たれた、ということはなさそうだ。馬騰はひとまずほっと胸を撫で下ろした。
翠が戦場から離脱するのを見届けると、曹仁隊も休息に入った。馬騰らのいる主戦場からは距離を取り、馬を降りる。
八千騎ほどの馬玩の隊が、そこへ突っ込んでいく。悪い判断ではない。曹仁が休息から復帰すれば、西涼軍は一気に形勢不利へと追い込まれるのだ。
曹仁隊はすぐさま馬に乗ると、馬玩隊に背を向け逃走を図った。さすがに疲労の色が濃い。逃げ遅れた数百騎を蹴散らしながら、馬玩が追い立てる。楊秋や梁興らも、そこに続いた。
「―――っ」
わっと喚声が起こった。先頭で槍を振り回していた馬玩の姿が、馬上から消えている。
蹴散らされたと見えた数百騎の一部が、小隊を形成し、横合いからぶつかっていた。白騎兵だ。曹仁もいる。
たった百騎の白騎兵に気圧されて、主を失った馬玩隊の兵は逃げ散っていく。楊秋と梁興の隊も脚を止めた。
「実に容易く、関中十部のひとつを落してくれる」
馬騰は、三万騎を率いてそちらへ馬首を向けた。白騎兵は、さすがにぶつかり合いを避けて後退する。追わずに、赤白の馬旗を棚引かせ周囲を一駆けした。馬玩隊の兵が集まってきて、後に続いた。
またもお荷物を抱えてしまった形だが、もはや兵力に余裕はない。捨て置くわけにはいかなかった。
張遼隊が突っ掛けてくる。
馬騰は五百の旗下に囲まれながらも、自ら先頭を進んだ。成宜、李堪、張横隊の生き残り達がそこに続く。彼らを死兵として前面に押し立てつつも、時に先頭を駆ける姿も見せつける。それで、成宜達の兵は旧主の仇討を期しながらも、馬騰を指揮官として完全に受け容れていた。
張遼隊とぶつかった。向こうは張遼が先頭だ。
さすがに強い。偃月刀が目まぐるしく動く。精鋭を誇る五百の旗下をもってしても手が出なかった。無理に攻めさせず、防戦に努めさせた。
五百の中心近く、馬騰の元へ張遼が迫る。
「ちいっ、またアンタかっ!」
廉士が前に出て、偃月刀を受け止めた。こちらは飾り気一つないただの大刀だ。
狙いを遮られた張遼は、偃月刀の間合いの外に馬騰を見ながら馳せ違っていった。
「ええいっ、うっとおしい奴らやっ!」
五百騎を抜けた先には、報復に逸る成宜達の兵が待ち受けている。防戦から一転の命も惜しまぬ大攻勢に、張遼が叫ぶ。
それでも、張遼本人は傷一つ負わず突破していった。馬首を斜めに転じ、三万騎の隊列を切り裂いていく。続く兵は無傷とはいかない。百騎近くは失っているだろう。こちらの犠牲はずっと少ない。
復讐に駆られた兵と言うのは、思わぬ強さを発揮するものだ。少々の傷には怯まない、どころか致命傷を受けても我が身を省みず攻撃に転じる。相打ちでの一人一殺は堅く、さらに二人三人を道連れとする者もいた。
張遼もそれが分かっているから、正面衝突は避けて斜めに切り返している。それでも、少なくない犠牲を支払わせていた。
戦は続き、昼過ぎに蒲公英が一万騎を率いて戦場に復帰した。隊を寄せると、こちらへ駆け寄ってきた。
「藍伯母様、お姉様は―――」
「蒲公英、もう一万騎を任せたい。出来るな?」
蒲公英に先んじて戦場に戻った曹仁が、馬玩に続いて程銀をも討ち取っていた。さらに二つの軍閥の兵を吸収したことで、馬騰が率いる隊は四万以上にまで膨れ上がっている。さすがに烏合の兵がここまで増えると、練度の高い本来の馬騰軍一万騎の力を持て余しがちとなっていた。
「―――っ、……合せて二万騎かー。調練でなら動かしたことあるけど」
「では今日を実戦での初戦とせよ。どんなことにも初めてはあるものだ」
「……はーい」
蒲公英は緊張を隠すように、あえて軽い調子で答えた。
「……それで? 翠の怪我の具合はどうなのだ?」
「張衛さんに見てもらったけど、右肩の傷はけっこう深くて、今無理に動かすと力が戻らなくなるかもしれないって。左腿の傷は深くはないけど、馬に乗ると傷口が開いちゃうみたい」
「そうか」
先だって伝令に託された報告を、繰り返し聞かされるだけに終わった。
「翠の借りを返そうなどとするなよ。曹仁の隊には、極力近付くな」
「それは、もちろん。お姉様とやり合えるような化け物の相手なんて、頼まれたって御免だよ」
この戦は、すでに曹仁の独擅場となりつつある。
翠との駆け引きで極まった用兵が、主戦場にも持ち込まれていた。どこかで、曹操が顔を出す。その瞬間を待ち続けてきたが、そこに至るまでもなく、曹仁の手で戦が終わりかねなかった。
とはいえ、曹仁を無理に討つ必要はない。翠に討てない者は、自分も含め誰にも討てはしないのだ。討つのは、曹操だけで良い。出て来ないのなら、何としても引きずり出すまでだ。
「―――っ」
喉元まで込み上げたものをぐっと飲み下す。わずかに眉をしかめるも、幸い廉士と蒲公英には気付かれなかったようだ。
「ふむ、なかなか手堅い戦をするものね」
華琳はひとりごちた。
前回の戦で包囲の末に討ち取った成宜、李堪、張横。そして馬超に打ち勝った曹仁が立て続けに討った馬玩、程銀。計五軍閥の残党を死兵として用い、ぶつかるや殲滅戦を仕掛けてくる。馬騰自身の子飼いの兵にはほとんど犠牲を出していない。
「大人、ということかしらね」
考えてみると、黄巾討伐に始まり、反董卓連合、青州黄巾賊、呂布、麗羽、孫策に桃香と、華琳がこれまで競い合ってきた相手は同世代の若者達ばかりだった。せいぜいが指揮官として皇甫嵩がいたくらいである。その皇甫嵩も華々しい戦績を重ねてはいても官職にあるものとしては若造の部類だ。馬騰は皇甫嵩よりも五つばかり年長であり、戦場に出て来てはいないが韓遂などはさらに十歳ほども上だったはずだ。勢いと老練さを併せ持つ将として最も脂の乗った時期と言えよう。
馬騰隊が曹仁隊へ向かう。曹仁は、馬首を転じて逃げる。馬騰の戦い方は、用兵の冴えなどというものを無効としかねない類のものだ。
馬騰隊が曹仁隊の後尾に喰らい付く、と見えた瞬間、先頭にいた数十騎が倒れた。白馬義従だ。白蓮が曹仁隊の最後方について、後方へ矢を射掛けていた。
白馬義従三百騎。漢の弓騎兵としては最精鋭であり、烏桓兵と同じく後方への騎射も難なくこなす。
かつては白馬で揃えた一団だったが、今は黒毛や鹿毛も含む混成部隊だ。
劉備軍との放浪の日々では、白馬ばかりを買い揃えることは敵わなかったという。曹操軍に加わった時点で白馬に乗り換えることを認めたが、白蓮はもう強い拘りを見せなかった。劉備軍の中で雑色の強さを知ったからか。あるいは君主ではなくなった自身に、そこまで華やかな部隊は必要ないと感じたのか。
何にせよ、今は雑色の混成部隊であることが良い方に働いている。曹仁隊の他の騎兵の中に紛れ込んでも、あまり目立たないのだ。
「とはいえ馬騰は、さすがに察したか」
二、三百騎を射落とし、曹仁隊が馬騰隊を振り切った。
馬騰隊に出た犠牲は、精鋭の五百騎からではない。先刻まで先頭を駆けていた馬騰は、いつの間にか後方へ下がっている。
「やはり、大人ということね」
わずか五百騎で華琳の命を狙い、十万の曹操軍の只中から弘農王を連れ去った武人の戦としては少々拍子抜けしたものがある。しかし、それが実際に有効に機能しているのもまた事実だった。
馬騰と韓遂以外の軍閥の頭は梁興、侯選、楊秋という三名を残すのみである。彼らを討ち取ってしまって良いのか。討ち取れば馬騰の元に、復讐に駆られた五万騎が集結することになる。それは、軍閥の三隊よりも脅威と為り得ないか。
曹仁もそう感じ始めたのか、馬玩と程銀を討ち取った時のような大将狙いの戦から、兵力を削ぐ戦いに切り換えていた。
夕刻になると歩兵を後退させ、次いで騎馬隊も下げた。西涼軍はその場に留まり、五日目の戦は幕引きとなった。
夜、本営に諸将を呼び集めた。
馬超との戦を終えた曹仁も、姿を見せる。五日振りに見る曹仁は、はっとするほどやせ細っていた。しかし用兵の変化から想像させるほどの変わりようではない。
華琳は思わず安堵の吐息を溢した。別人のように様変わりしていたらどうしようかと、我知らず不安を抱いていたようだ。
「姉ちゃんも来ていたのか」
「ええ、諜報からの報告がいくつかありまして」
幸蘭と曹仁は軽く目語を交わすと腰を落ち着けた。春蘭が不在であるから武官の首座―――華琳に一番に近い位置には、遠征軍第一陣の大将を務めた曹仁が座る。
「馬超の居所を掴みました。それほど離れてはおりません。渭水沿いを西に二十里程のところに、三千騎余りと共に留まっています」
軍議は、まずは幸蘭の報告から始まった。
「ふむ、貴方の意見を聞かせてもらえるかしら、仁」
「放って置いて良いのでは? すぐに馬に乗れるような傷ではないし、動けない馬超にあえて止めを刺しに行くってのは、あまり気が進まないな」
「そう。ならそうしましょう」
「……自分で言っておいてなんだが、良いのか?」
「ええ。馬超とのことは、貴方にすべて任せたつもりよ。貴方がそうしたいというのなら、その通りにしましょう」
「はっ、ありがとうございます」
馬超のことで曹仁から礼を言われるというのは少々引っ掛かるものを感じるが、軽く流して華琳は軍議を続けた。
軍議では、やはり梁興ら残りの軍閥の頭は討たずにおくべきだと、諸将の意見が一致した。狙うは三軍閥の兵と馬騰の首。そう方針を定め、軍議は解散となった。
諸将がそれぞれの隊へ戻り、幸蘭だけが幕舎に残った。軍師達も幸蘭に―――曹家一門というよりも諜報部隊の長という立場に―――遠慮して席を外している。季衣と流流にも、本営周辺で守りを固めさせた。
「仁ちゃん、すっかり痩せてしまいましたね」
にこにこと笑みを浮かべながらも、幸蘭が棘を含んだ口調で言う。
「馬超との一騎討ちは、仁が望んだことよ。結果、あの子は大きく羽ばたき、曹仁隊も見違えたわ」
「……隊もですか?」
「ええ。兵も一緒に成長する。仁と春蘭や霞が違うところね」
曹仁の率いる騎馬隊は、兵の動きまで違っていた。馬超との交戦中は白騎兵の後押しを受けていたものが、今は曹仁の指揮に自ずから遅れずに従っている。
調練の激しさでは霞の隊も曹仁隊に負けていない。苛烈な霞の性格を反映し、より要求は厳しいくらいだ。兵はそれによく答えてはいるが、あるかなきかの齟齬があり、諦観がある。
つまりは、どんなに厳しい調練を耐え抜いたところで張遼将軍のようにはなれない、という思いだ。春蘭旗下の兵達にも似たような思いがあるはずだ。
曹仁はちょっと見ただけでは、大して強そうには見えない。鍛え抜かれた身体はしていても、男性としては貧弱な骨格。副官で巨漢の牛金などと並ぶと、子供のようですらある。あの白尽くめの具足がなければ、兵に混じっても目立ちはしないだろう。
体格だけを見れば女性である春蘭や霞にも同じことが言えるが、二人が兵に溶け込むなど考えられなかった。まとっている武威が違う。
「春蘭や霞が努力をしていないというわけではないけれど、やはり持って生まれたものは歴然としてある。兵にとっては決して届かぬ存在でしょう」
「仁ちゃんになら、努力次第で届きますか?」
「天人だなんだと呼びつつも、兵からは特別な力なんてない、努力と工夫で強くなった者の代表と映っているのでしょう。だから追い抜けぬまでも肩を並べられるかもしれない。そして仁と肩を並べるということは、春蘭や霞に劣らぬということでもある。仁は努力次第で凡人が天才を凌ぎ得るという好例であり、兵にとっては希望でもあるのでしょう」
華琳はそこで言葉を切るも、思い直し一つ言い足す。
「まあ、実際にはあの子がこれまで培ってきたものに、同じように努力したところで後から追い付くのは難しいでしょうね。あの子が努力を怠りでもしない限りは」
「……仁ちゃんが努力家の代表ですかぁ」
幸蘭が感心したように呟いた。
「なあに、貴方は違うと思うの?」
あの抜群の馬術を習得するため、半年以上も白鵠の厩舎に泊り込んだことも、調練でどれだけ汗を流そうと、決して朝晩の槍の鍛錬を欠かさないことも、幸蘭はよく知っているはずだった。
曹仁は槍を取れば天下で並ぶ者がない―――は言い過ぎとしても、五指には間違いなく入る。それは子供の頃、出会ったばかりの曹仁からは到底想像が付かない姿だった。曹仁がこの先どれだけ修練を積もうと武において自分が追い付かれることはないと、当時の華琳は確信していた。曹仁の資質は凡庸そのものであり、自分は武芸に置いても才能に恵まれた。しかし曹仁は戦法を工夫し、それに適した鍛錬を地道に積み重ねることで、いつしか曹操軍を代表する武人にまで育った。馬上でもそうでなくても、華琳が曹仁に武術で勝つ日はもう来ないだろう。
「……なるほど。その辺りですかね、私と華琳様との違いは」
「何の話よ?」
「仁ちゃんに対する思いの違いです。私だって仁ちゃんのことは大好きだけれど、華琳様の気持ちと比べると、やっぱりそれは肉親の情に近いのだと気付かされました。―――仁ちゃんが人一倍努力しているのは知っています。それでも私は、仁ちゃんを努力家とは思えません。ううん、思いたくないと言うべきでしょうか」
「思いたくない? どうして? そこが―――」
格好良いのに、と続け掛けて華琳は口を噤んだ。幸蘭は素知らぬ顔で会話を続ける。
「結局は、男と女ではなく、姉と弟だということなんでしょうねぇ。同じ強くなるなら、素質に恵まれて楽に強くなって欲しいし、仁ちゃんが頑張っていれば褒めてあげたくなりますけど、本音を言えば苦労なんか知らずに幸せになって欲しい」
「ふむ。分かるような分からないような話ね」
「華琳様にはそうでしょうね。私は仁ちゃんが努力していると、いじらしさや心配が先に立ってしまいますけど、華琳様には、―――格好良く見えておいででしょう?」
「―――っ、ま、まあ、そうね」
この従姉は察しが良過ぎていけない。華琳は観念して渋々と頷いた。
「うふふ」
「な、なによ?」
「華琳様が仁ちゃんを格好良いと認めるところ、初めて見ました」
「―――っ」
絶句した華琳に、幸蘭はくるりと背を向ける。何か言い返してやろうと思った時には、すでに幕舎内には華琳一人きりとなっていた。
翌日は兵力の削り合いに終始した。曹仁の用兵に触発されたのか、霞隊と烏桓兵の動きも良い。馬騰と馬岱をいなしながら、三軍閥の隊を相当に叩いた。曹仁と霞は馬騰の首も何度か狙いに動いたが、危地に踏み込む直前に巧みに四万の中に埋没していく。
その翌日も、同じように戦は展開した。膠着と考えれば遠征軍である曹操軍の不利であるが、確実に兵力は削っている。潼関と武関を抑えてあるから、物資の輸送に不安もなかった。曹仁が馬超に勝利した時点で、戦の大勢は決している。一歩一歩、勝利へと近付いていた。
さらに翌日、戦の開始より八日目に、戦況が動いた。いや、馬騰の手で動かされた。
赤白の馬騎を掲げた五百騎が、歩兵の真ん中に軍を進めていた。四万騎の烏合集団は、外へ残したままだ。
「手堅い戦から、一変させてきたわね」
五百騎は、歩兵三隊に対して突撃と離脱を繰り返し始めた。動きは実に活き活きとしていた。こちらこそ、馬騰本来の姿なのだろう。
「とはいえ、狡猾でもあります」
稟が言い、詠が思案顔で続けた。
「そうね。あの五百騎は、歩兵の動きで捉えきれるものではないわ。歩兵部隊と歩兵部隊の狭間に騎兵を配置すれば行く手は塞げるけど、そうなれば外へ待機させた四万騎が突っ込んで来るわね。騎兵同士の混戦に持ち込まれると、あの兵は強いわ。その上、馬騰に取っては惜しくもない烏合」
四万騎はその場で輪を描く様に軽く駆けている。完全に脚を止めてしまえばこちらの騎馬隊―――特に烏桓の弓騎兵―――の標的となるためだろう。それは同時に蜷局(とぐろ)を巻いた蛇のように全方位どこへでも牙を剥く攻撃の構えでもある。烏合の大軍に取らせるには難しい陣であり、馬騰の指揮を離れたからと言って侮れない。指揮は白蓮の報告にもあった馬騰の腹心龐徳のようだ。
「―――ここは、曹仁将軍にお任せするというのは如何でしょうか?」
春華が、ぽんと手を打って言った。
「だから、それだと四万騎との混戦に持ち込まれて、騎馬隊の犠牲が無駄に増えると言っているじゃない」
「いえ、ですから隊そのものは動かさずに、白騎兵百騎のみで馬騰を討ち取って頂こうではありませんか」
詠の反論に春華はしれっと返した。
「……曹仁に伝令を」
今の曹仁なら、五百と百の差など問題にしないだろう。華琳は春華の策を採用した。
「そう来たか」
黒地に白抜きの曹旗に天人旗を掲げた小隊が、近付いてくる。
「あくまで自分は顔を出さないつもりか、曹操」
曹操を釣り出すために、五百騎で歩兵の陣の只中に飛び込む強硬策に出た。釣り出されたのは、曹仁率いる白騎兵である。
四万騎へ向け、一度赤白の馬旗を振らせた。待機せよ、という廉士への合図である。
五百騎での突出は、当然廉士からは強く反対された。しかし命令として押し切り、同行も禁じて四万騎の指揮に当てていた。決めた合図は待機を命ずる一つだけである。時と見れば命ずるまでもなく廉士は動く。怖いのは馬騰の身を案ずる余り、急いて飛び出すことである。
「さてと、今の私にこの曹仁の相手がどこまで務まるか。―――まあ、せいぜい見せ場くらいは作らせてもらうとしようか」
白騎兵が脚を速めた。駆けながら隊列が引き締められていく。緩い楔型だったものが、刃の様に鋭く。
こちらも、天人旗へ向け駆ける。正面から受ける。そういう構えを見せたが、いなされた。馳せ違う。いや、最後に曹仁は斜めに馬首を転じ、五百の最後尾の十数騎を突き崩した。
旋回し、再び接近する。馳せ違う。今度はこちらも警戒しているため、曹仁も手を出してこなかった。
寄せては離れを繰り返した。百騎と五百騎である。いつでもぶつかるつもりで隊を動かしたが、曹仁は乗ってこなかった。馬騰の首だけが狙いだろう。こうなると兵力差に大きな意味はない。一対百か一対五百かという違いでしかなかった。
白騎兵が左右二隊に分かれる。好機だった。曹仁の指揮を離れた五十騎なら、力押しに持ち込める。こちらも二隊に分け、それぞれに当たるよう命じた。
次の瞬間、白騎兵が一つにまとまり、槍の穂先の様に鋭く真っ直ぐに突っ込んできた。今まさに二隊に分かれようとする、その真ん中を駆け抜けてくる。当然五百の中心にいた馬騰はその進路上だ。
曹仁に対して、わざわざ大将首への道を開いてやったようなものだった。
馬騰の前に、さっと十数騎が並ぶ。馬騰自身も十文字槍を構えた。かつての愛槍銀閃に似せたものだ。本物の銀閃は、自分よりも強くなった娘にすでに譲っている。
曹仁。先頭で向かってくる。
何も出来ず、一騎が突き落された。二騎目も、槍を交わすことなく討たれた。
三騎目が、胸を突かれながらも馬を寄せた。曹仁の進路がわずかに左へ逸れる。それで曹仁の槍と十文字槍は交わることなく馳せ違った。馬騰はそのまま右の二百五十騎へ加わり駆け抜け、すぐにもう一隊を合流させた。
「なるほど、翠が破れるわけだ」
ほんのわずかな隙がそのまま致命傷へと繋がりかねない。用兵と言うよりは、一対一での立合いに近い感覚だ。
五百騎の先頭へ出た。真ん中から指示を飛ばしていては、一手遅れる。そこに付け込まれていた。曹仁にとっては、狙うべき大将首が前面に出てくれたのは好都合だろう。馬騰の目的の上でも、それは都合の悪い話ではない。
先頭を駆けると言っても、翠や曹仁のように本当に一番前を駆けるわけではない。五百騎の中から常に二騎が先行した。翠と廉士の仕込みだ。この五百騎は馬騰の命を何よりも優先して動く。有り難くもあり、少々煩わしくもある。
馬騰が身を曝したことで、曹仁の動きはより苛烈なものとなった。徹底して、馬騰を狙ってくる。
三隊の歩兵に囲まれた一里四方にも満たない空間で、しばしば天人旗を見失い掛けた。迫られる度、前を行く二騎が犠牲になった。しかし、それ以上の犠牲を出すことなく凌いだ。不思議と凌げていた。
天人旗。こちらから迫った。
曹仁が先頭の二騎を突き落す。突くのが凄まじく速いだけでなく、引くのも同等に速い。それ故に馳せ違う切那に二度突いてくる。だがそれも、さすがに二度が限度のようだった。三度目はない。
先行する二騎とほとんど馬を並べるくらいまで加速し、十文字槍を振るった。やはり三度目はこない。曹仁は柄を立てて受けるのみだった。
馳せ違い、もう一度迫る。二騎の犠牲と引き換えに、今度は体重を乗せて槍を叩きつけた。やはり受けられるも、十文字の片鎌が曹仁の具足を掠めた。
生きている。そう感じる。大病を患って以来、久しく無かった感覚だ。
見上げると、赤白の旗が風に靡いている。長らく軍営の飾りとなっていた我が旗だ。赤龍と白狼を表す軍旗は、やはり戦場が似合う。自分も、病床で朽ちていきたくはなかった。
「―――っ」
喉元に込み上げたものがある。飲み下した。何度やっても慣れるものではないが、とりわけ今回は量が多い。二度三度と喉を鳴らし、ようやく息をついた。呼気から漂う鉄臭さに、思わず馬騰は眉をしかめた。
胸の辺りで何かが破れた。これまでこぼれては掬い足してきたものが、今度は器そのものが壊れた。それが不思議と実感出来る。
「これからというところで。だが、良い見世物は演じられたようだな」
歩兵の中軍を見やる。ちょうど、対峙した白騎兵の背後に位置している。
「行くぞっ」
あえて口に出して言う。それで五百騎には馬騰の意図が伝わっただろう。
駆けた。曹仁。向かってくる。今度は手を出さず、横を走り抜けた。脚を緩めず、駆け続けた。すぐに一里四方の小さな戦場は尽き、歩兵の陣が迫る。突っ込んだ。
曹操。目を見開いた表情まで見て取れる。物見気分で、前線近くまで姿を現していた。
「釣り出されたか」
「―――華琳様っ、お下がりください」
季衣と流流が叫びながら、虎士を華琳の前面に展開した。虎士を除けば、赤白の馬旗とはわずか歩兵十数列を隔てるのみである。
五百騎の先頭には二騎が並び、そのすぐ後ろに馬騰だ。視線が絡むと、馬騰は口元をにやりと歪めた。
先頭二騎が左右から槍を掛けられ落されても、すぐに代わりの二騎が前に進み出る。二騎に守られるようにして、馬騰も自ら十文字槍を振るっていた。
歩兵を五列まで崩したところで、騎馬隊の勢いが弱まった。先頭に曹仁や霞、あるいは馬超がいたなら、歩兵の十数列くらいは軽く突破している。
かつて猛将で鳴らした英傑も、病には勝てないか。こうして向き合っても、たいして圧力も感じない。呂布や張飛は元より、遠目にした馬超にも遠く及ばない。まだしも先刻まで曹仁と駆け合っていた時の馬騰自身の方が際立っていた。
遂に騎馬隊の脚が完全に止まった。くるりと、馬騰が馬首を転じる。赤白の馬旗と共に離脱するも、先頭の二騎と数十騎はそのままその場に留まった。陣形の綻びを繕おうとする歩兵と押し合いが始まる。
「華琳様っ、お早く」
後方へ促す稟には言葉を返さず、華琳は周辺へ視線を走らせた。
戦況が大きく動き始めている。
華琳の興味を引き前線へと誘った眼前の戦場では、後退した馬騰に曹仁の白騎兵が攻撃を仕掛けている。これは、先刻までの様相と変わりない。
曹仁と馬騰の背後へ視線を伸ばすと、烏合の四万騎と曹操軍の歩兵がぶつかり合っている。こちらへ向かう騎兵を、両翼の歩兵が左右から挟み込む形だ。
歩兵の外へ視野を広げると、騎馬隊の戦線も激化している。馬騰の元へ駆け付けようとする西涼軍を、曹操軍の騎馬隊が阻止するという展開だ。
「稟、それに詠と春華。貴方達は下がりなさい」
「華琳様も下がってください」
華琳の言葉に、間髪入れず季衣が口を挟む。
「病を抱え衰えた過去の英傑を相手に、私に下がれと?」
「馬騰のあの勢い。容易く考えたらダメです」
「貴方達がいるでしょう」
「だけど」
「―――来るわよ。備えなさい」
華琳の言葉に、季衣は次の攻撃に備えて一先ず引き下がった。
再び赤白の馬旗が迫る。曹仁が遮るも、意に介さなかった。馬騰の身一つを守りながら、兵は討たれるに任せて突っ込んで来る。
歩兵の只中に取り残されていた数十騎が、呼応して道を押し開けにかかる。
脚を止めて歩兵と押し合いをするのだから、次々と馬から落され数十はすぐに数騎を残すのみとなった。
「惜しいわね」
思わず華琳は嘆息交じりに呟いた。
白騎兵に匹敵する精鋭が、露払いの死兵として使われている。人材を好む華琳ならずとも、その思いには共感出来よう。
開いた道を駆け抜け、赤白の旗がぐんぐんと近付いてくる。
「曹操っ! 下がらずに、よくぞ留まってくれたっ、感謝するっ」
十列足らずの歩兵と虎士を隔て、馬騰が叫ぶ。一列、二列、三列。歩兵の陣形を突き崩すと、再び数十騎を残して後退していく。後退した先で、白騎兵の攻撃を受け十数騎が打ち落とされた。構わず、もう一度華琳の本陣へと取って返す。
後退と突撃を繰り返すごとに、精鋭五百騎が目に見えて数を減らしていく。しかし、止まらない。
先刻までの狡猾さをかなぐり捨てた、愚直な戦振りだった。
―――どこかで、策を弄してくるはず。
馬騰には、これまで何度瞠目させられたことだろうか。
謀でも戦でも、巧みに虚実を操ってきた女だ。謀略に長けた韓遂に対して、馬騰は実直な武人と見える。しかし韓遂が実を内包した虚なら、馬騰は虚を内包した実だ。本質も表向きの見え方もまったく異なるが、どちらも等しく虚実に通じている。
華琳の疑念をよそに、さらに四度、五度、六度と愚直な突撃が繰り返された。
「……まさかその調子で、本当にここまで掘り進んで来ようというの?」
執拗な突撃が続き、ついに歩兵が完全に断ち割られた。すでに五百騎は半数近くまで数を減らしている。虎士の堅陣に弾かれ、もう一度後退した。
意外と言うべき戦振りだ。しかし、西涼武人とは本来こうしたものだという気もする。
「危険です、華琳様っ。お下がりください!」
今度は流流が言った。
「平気よ」
歩兵十数列を抜くのに、十回近くも突撃を繰り返している。謀と軍略は見事でも、やはり武勇は病人のものだ。
赤白の旗。迫ってくる。
「―――曹操っ!」
馬騰が叫び、初めて前を行く二騎を追い抜き本当の先頭に立った。
「――――っ」
十文字槍が、虎士二人をまとめて跳ね飛ばした。そこへ、先刻まで先頭を走っていた二騎が突っ込む。虎士の剣に二騎はすぐに倒れるも、馬ごと乗り上げるようにして陣形を崩した。
「力を隠していたというの?」
やはりここに来ての策。精鋭騎馬隊に多大な犠牲を強いながら、華琳を間合いに捕らえる瞬間まで、自らの力を秘していた。他の西涼軍閥の兵だけでなく、子飼いの精兵まで死兵として扱い、戦を組み立てる。覇道を標榜し、非常と人に恐れられる華琳も及ばぬ冷めた戦振りだ。
「曹操っ!」
馬騰が叫び、さらに数騎を押し退けた。もはや馬騰と華琳、両者を阻む者は季衣と流流の二人だけとなった。
前回―――洛陽で急襲された際に、二人は岩打武反魔と伝磁葉々を馬騰に避けられている。今回はぎりぎりまで引き付けて投擲する構えだ。
「――――はあっ」
季衣と流流が得物を投げ放つと同時、馬騰が馬を跳躍させた。美しい弧を描いて、岩打武反魔と伝磁葉々は元より二人の頭上までを跳び越えた。
降り立った先は、華琳の眼前だ。
「くっ」
十文字槍の打ち込み。絶の柄で辛うじて受ける。勢いは殺せず、大きく右へ体勢を崩された。返すもう一撃。やはり受けるも、今度は左に身体を弾かれた。馬騰が馬を寄せ、そのまま体重を乗せて圧し潰しに来る。
華琳の首筋に、十文字槍の鎌がじりじりと迫る。
重い。これが満足に戦場にも立てないと噂された病人の膂力か。
季衣と流流。馬騰の後続の騎兵に攻撃を受け、すぐにはこちらに来れそうにない。華琳は二人の背中に、気付くはずもない目配せを送った。
一転、馬騰が槍を引き寄せた。背後を気にして、早急に勝負を決めにきた。十文字槍の鎌が絶を引っ掛け、華琳は前のめりに構えを崩された。
―――まずい。
ぞくりと首筋に悪寒が走り、絶を手放し即座に体勢を立て直した。直後、華琳の首があった空間を十文字槍の穂先が抉る。
急ぎ腰に佩いた倚天剣を抜き構える。この上ない利剣だが、この馬騰を相手にするには少々心許無い。
「…………?」
間断なく襲い来ると思われた馬騰の攻め手が、そこで止まっていた。
困惑を抱えたまま、華琳はしげしげと馬騰を見つめる。鍔迫り合いのような形となっていたから、ごく近い。手を伸ばせば触れられる距離だ。
十文字槍を握る馬騰は、虚実を弄し、死兵を駆使する謀将には見えない。堂々たる一個の武人だ。しかし、何故動かないのか。
「――――っ!? ……馬騰、貴方」
口の端を手の甲で拭うと、馬騰は笑みを一つ残し駆け去った。兵もそれに続く。馬騰は馬の背に、すがり付くようにしている。
華琳は思わぬ事態に、目を見開いてそれを見送った。
「華琳様っ」
季衣と流流が馬を寄せてくる。
「やはりお下がりください。馬騰を病身などと侮ってはいけません」
「そうね。確かにその通りだわ。だけどもう―――」
「―――華琳様、お怪我をっ!?」
流流が華琳の軍袍に点々と刎ねた血を目聡く見咎めた。
「いえ、怪我はないわ。……返り血、と言って良いのかしら」
視線の先で、赤白の旗が動きを止めていた。
今回の後退では、騎兵は留め置かれていない。季衣と流流と言葉を交わすわずかな間にも、曹操軍の歩兵はすっかりと陣形を整え直してしまっている。執拗に繰り返された馬騰の突撃も、これで水泡に帰した。
白騎兵が赤白の旗に一度突撃して両断したが、それきり何故か距離を置いて静観の構えを取った。
「……やはり、そういうことなの?」
華琳が策と断じた馬騰最後の奮闘。力を秘していたのではなく、わずかに残されたものを温存せざるを得なかったということなのか。
藍が歩兵に突っ込むのを見て取るや、龐徳は四万騎を突撃させた。
それまでにも何度も軍を動かし掛けた。白騎兵率いる曹仁が姿を見せた時、曹仁が五百騎を両断した時、藍が五百騎の先頭に出た時、そして曹仁と槍を交わした時。しかし龐徳の心の内を見透かしたように、その都度赤白の旗が振られ、制止を命じられた。
今度は、旗は振られなかった。躊躇なく歩兵と歩兵の狭間へと飛び込んだ。すぐに左右から歩兵が迫った。
右翼の歩兵に、まず捉まった。隊列も何も無視した走り様で、一気に距離を詰めてきたのだ。
張燕率いる黒山賊の兵である。
馬の足元に鎖が投げ込まれ、馬上にも投石が飛んできた。真っ当な正規軍の戦い方ではない。手にした得物も実に取り取りだ。まともに扱えるとも思えない巨大な大刀を担いだ者や、ただの棍棒のようなものを振り回している者までいた。
装いから振る舞いまで賊徒のそれでありながら、決して弱兵ではなかった。龐徳は投石を大刀で弾き、取り付いて来ようとする一人を薙ぎ払った。
やがて遅れていた左翼の歩兵も追い付いてきた。こちらは足の遅い重装歩兵だが、鉄の塊のような堅陣そのままにぶつかって来た。黒山賊の陣へぐいぐいと押し付けられ、完全に混戦へ追いやられた。
脚を止めず、龐徳は大刀を振るって一歩また一歩と血路を開いていく。
歩兵の陣の外では、曹仁に代わって騎馬隊を率いる公孫賛が蒲公英を、張遼と烏桓兵が梁興ら軍閥の隊を抑えに掛かっていた。藍の元へ駆け付けることが出来るのは、自分しかいなかった。
大刀の技は、従者として仕えていた頃に藍から習ったものだ。教わった鎌槍の多様な用法のうち、薙ぐ、払うといった技が性に合った。それに磨きをかけ、得物も藍への憧憬だけで選んだ十文字槍から大刀に持ち替えた。
藍の役に立てる人間になりたかった。そのためだけに、生きてきた。他は何もいらない。
「――――っ」
我知らず、口から獣が吼えるような声が漏れる。
黒山賊の兵は斬り払い、重装歩兵は具足の上から叩き伏せた。返り血に塗れる。数えきれないほどの敵を討ち果たしたところで、ようやく歩兵の人波を抜け出た。
藍がいた。他のものは目に付かず、駆け寄った。
「おう、廉士か」
藍が伏せていた顔を上げる。
龐徳は無言で頷き返した。言葉が出てこない。藍の顔色が、不自然なくらいに白い。傷を負ったのか。
ようやく周囲の状況も見えてきた。曹操の牙門旗は、いまだ健在。白騎兵はこちらと対峙する位置で軍を留め、精鋭五百騎は二百まで数を減らしている。そして二騎が、左右から藍を支えていた。
「……曹子孝の奴め。若造の分際で、私に憐れみを掛けおった。せっかく、病ではなく戦で死ねると思ったものを」
馬を寄せ、二騎に代わって藍を抱き支えた。
唇の端が紅でも塗ったように赤い。戦の最中に化粧などする藍ではない。わずかに血の匂いが鼻に付いた。
「だが、そのお蔭でこうして最期にお前と話せると思えば、まあ悪くないか」
最期と、藍がそう口にした。
軍袍が血に濡れているが、藍の身体のどこにも負傷の痕は無い。戦傷の処置なら、多少の心得はある。しかし傷がないなら、龐徳に出来ることはない。
藍のためにしてやれることが何もない。それは恐怖であり絶望であった。
「なんだ? 珍しく取り乱しているな」
「…………っ」
言葉はやはり出なかった。藍の身体から、急速に熱が失われていく。少しでもその場に温もりを留めようと、きつく抱き締めた。
―――こんなにも、小さくなっていたのか。
かつて見上げた英傑は、龐徳の腕の中にすっぽりと納まった。固く、骨張った身体だ。
「少し痛いぞ」
「すいません」
ようやく言葉が出た。しかし腕の力はそのままだ。まるで身体の操り方を忘れてしまったかのように、どうやって力を抜けば良いのか分からない。
「ふむ。まあ良いか」
抱き寄せた身体の弱々しさからは想像出来ない程、藍の声はしっかりとしていた。
「惜しいところまで、いけたつもりなのだが、やはり曹操は強かったな。潔さの中にも、生への執着があった。運もある。私には、どちらも足りなかったな」
藍が一人ごちる。その間にも、身体から熱は失われ続けている。
「……廉士、今から一つ、頼みごとをする」
わずかな逡巡を挟み、藍が切り出した。
「頼みごとなどと。何でもお命じになって下さい」
「いや、頼みだ。だから、断ってくれて良い。いや、断れ」
言葉の意味は分からぬまま、頷き返した。
「それでよい。では、頼むぞ。――――」
藍が願いを口にした。
「―――まだ、貴方のために生きることが出来るのですね」
廉士は自身にとって呪いであり救いでもある言葉を胸に刻み込んだ。
「……断れと言っただろうに」
藍が寂しげに微笑んだ。
赤白の馬旗が伏せられ、ほどなく馬騰の亡骸を抱えた龐徳が投降してきた。
馬騰の死を伝え、龐徳が降伏を呼び掛けると、他の西涼軍も意外なほどあっさりとそれに応じた。
西涼軍は武器を取り上げた上、馬とは分けて囲うこととした。刀槍はすんなりと手放したが、馬の引き渡しは渋る者が多かった。凪の重装歩兵を並べ威圧し、後々の返還を約束してやるとようやく応じ始めた。
馬岱の隊だけは矛こそ収めたものの降伏はせず、その場から駆け去っていった。方角からして、二十里先に軍を留めているという馬超と合流するつもりだろう。
軍閥の長二人―――残る三軍閥の頭のうち梁興は最後の攻防で霞が討ち取った―――と龐徳は軍装を解かせ、本営へと引き立てた。
「さてと。こうしてちゃんと顔を合わせるのは初めてだったわね。侯選と楊秋で合っているかしら?」
「ははーっ」
華琳が問うと、軍閥の長の一人が平身低頭した。もう一方の長は、無言で首肯するだけだ。
「相変わらず調子が良いわね、楊秋」
「これは、賈駆殿。お元気そうで何より」
髭面の豪傑然とした男が、ぺこぺこと頭を下げる。詠の言う通り、お調子者のようだ。つい先刻まで、西涼騎兵を率いて応分の働きをしていた男とも思えない転身ぶりだ。
「貴方が楊秋で、そっちの無愛想にしているのが侯選ね」
楊秋がやはりぺこぺこと頭を下げ、侯選が小さく首肯する。
「そして真っ先に投降した貴方が、龐徳」
龐徳とは投降の時点で言葉を交わしている。確認する必要もないが、あえて口に出した。
転身というなら、楊秋以上にこの男こそ大したものだった。
馬騰の腹心中の腹心である。幼いころからの従者で、血の繋がりこそないが馬騰にとっては身内同然であったという。華琳にとっての曹仁にも近い存在だ。
「はっ」
龐徳は居住まいを正し、頭を下げた。
楊秋の様に卑屈に開き直るでも、侯選のように頑迷に居据わるでもない。ごく自然な佇まいだ。
「さてと、貴方達の処遇だけれど―――」
「―――曹操様っ、馬超が」
兵が一人駆け込んできた。龐徳の表情が初めてぴくりと動いた。
「ずいぶん早かったわね」
というより、早過ぎる。馬岱が戦場より駆け去ってから、四刻(2時間)と経っていない。
軍勢が二十里を往復可能な時間ではない。馬岱が急使を走らせ、急報に接するやすぐに馬超は動いたということだろうが、それにしても早過ぎだった。
華琳は自分が母の死を知った時を思い返した。描いていた戦略など全てかなぐり捨て、すぐにも徐州への出兵を命じていた。馬超も取るものも取りあえず軍を発したか。
予想よりもはるかに早いが、想定した状況でもある。戦構えは解かず、歩兵に陣を固めさせている。
「距離は?」
「すでに歩兵とぶつかっております」
「―――? その割に、ずいぶんと静かね。馬岱の兵も合わせればまだ二万騎は残しているはずだけれど」
「いえっ、馬超です。現れたのは、馬超ただ一騎だけですっ」
「―――曹操ーーっっ!」
兵が答えると同時に、華琳の名を叫ぶ声が聞こえてきた。
「……なるほど、早いわけね。―――絶影をここへ」
「曹操様」
龐徳がこちらを見上げていた。
「……同行を許可しましょう。龐徳にも馬を」
「曹操ーーっっ!」
馬超の叫びが、また聞こえる。声の元へ、龐徳と虎士を引き連れて向かった。
「なるほど、確かに一人ね」
兵が槍先を揃えて遠巻きにする中、ただ一騎佇んでいた。すでに散々に暴れ回った後で、周囲には曹操軍の兵の亡骸がいくつも折り重なっている。百人近くも討たれていそうだ。
囲んでいるのは張郃―――優の隊で、兵に混じって指示を飛ばす彼女の姿もあった。曹仁と霞もいる。
「―――曹操っ!!」
華琳を認め、馬超が馬を走らせた。
奇しくも状況は、馬騰最後の戦場と酷似している。防備を固めた歩兵と虎士が、華琳と馬超を阻んでいた。
馬超が歩兵の中へ飛び込んだ。足並みを落すことなく、瞬く間に距離を詰めてくる。若く、疲れを知らぬ馬騰を見る思いだ。いや、技の冴えは馬騰よりも上か。
「馬超の奴、あの傷で良く動くな」
そんなことを言いながら、曹仁が歩兵と虎士の間に馬を進めた。霞も轡を並べている。
曹仁の言葉に改めて馬超を見ると、軍袍の首元や腿に大袈裟なくらいに巻かれた晒が覗いていた。
「二人掛かりでいくんか?」
「状況が状況だからな」
「まっ、元々アンタの獲物や。アンタがそれでええっちゅうんなら、ウチも遠慮なくいかせてもらうで」
曹仁と霞が、槍と飛龍偃月刀を構える。
春蘭不在の遠征軍では最強の二人組だ。呂布や張飛が相手でも、容易く抜かれはしないだろう。
すっと、華琳の横から一騎が進み出た。
大刀は取り上げ、軍装も解かせている。華琳は好きにさせることにした。男は何食わぬ様子で虎士の陣を抜け、とことこと曹仁と霞の後ろまで馬を寄せていく。
「曹操ーーっっ!!」
歩兵をかき分け、馬超が飛び出した。男も、馬を駆けさせ曹仁と霞の前へ出る。
疾駆していた馬超の馬が、急速に勢いを失った。並足で歩く程まで速度が落ち、ついには足が止まる。
「―――っ、なっ、なんでお前がっ、そっち側にいるんだ!」
龐徳が両手を広げ、馬超の前に立ちはだかっていた。
「投降しました。蒲公英様から、お聞き及びでは?」
「そんなの何かの間違いに決まってるっ! 母様が討たれたんだぞ。廉士が、降るもんかっ!」
「いいえ、確かに曹操様へ降りました。翠様も、お降りください」
「そんなはずがあるかっ!」
目の前の現実を拒絶する様に、馬超が激しく頭を振った。
西涼軍の将兵には、馬騰の死は討死と喧伝した。馬岱の耳にも、そう伝わっているはずだ。曹操軍でも曹仁と一部の幕僚以外は病没の事実を聞かされていない。
西涼人の気質として、その方が敗北を受け入れやすいとは龐徳の提言だ。戦の敗北はそれで認めても、今後の統治を考えると病没と伝えた方が反発を抑え込めたかもしれない。しかし馬騰が病ではなく戦での死を望んでいたと聞いて、討死として処理すると華琳は決めた。
「そっ、そうかっ、ひょっとして母様が討たれたというのが間違いかっ? らしくもなくへまをして、曹操の奴に人質にでも取られているだなっ。それで廉士も―――」
「いえ、藍様は亡くなられました」
得心が言ったという顔で捲し立てる馬超に、龐徳が冷や水を浴びせる。
「―――っ、だったらどうして、よりにもよってお前が曹操を守るっ! 母様の仇だぞっ!! お前を、あっ、兄貴みたいに思っていたのにっ!」
馬超の目には、龐徳は自らを遮る壁と映るようだ。
華琳からは、龐徳は曹操軍から馬超を守る楯に見えた。曹仁と霞は構えを解き、投擲の準備に入っていた季衣と流流も岩打武反魔と伝磁葉々を降ろしている。
「翠様もお降りください。藍様の仇は、曹操様ではございません。藍様は―――」
龐徳がそこで口籠った。
雄々しく戦いの中で死ぬ。それは馬騰一人が抱いた思いだ。しかしそうあったと伝え遺したい相手がいたとすれば、それは娘の馬超であろう。
「龐徳、詰まらぬ嘘はやめなさい」
思わず華琳は口を挟んでいた。
「曹操」
馬超が憎悪に満ちた視線を向けてくる。
「馬超、光栄に思いなさい。貴方の母親は、この私自らの手で討ち取ってやったわ」
「―――っっ!」
馬超の身体が、激情に震える。
曹仁と霞、虎士の面々が改めて得物を構えた。一触即発の空気が漂う中、龐徳が機先を制して動いた。すっと馬超へ馬を寄せ、馬首を抑え込む。
「どけ、廉士っ! 母様の仇だぞっ。いやっ、一緒に曹操を討とうっ」
「落ち着いて状況をご覧ください。曹操様を討てる可能性が、どこにあります? 今ここで命を賭すことに、何の意味があります? 藍様の仇を取ることも出来ず、ただ無駄に命を散らすだけです」
「……曹仁に張遼、それに虎のちび隊長達か」
馬超が小さく舌打ちした。突き放すような龐徳の言葉に、少しは理性を取り戻したようだ。
「投降してください、翠様」
「……」
馬超は、もう龐徳には何も言い返さなかった。
折りよく、砂煙を上げて騎馬の軍勢が近付いてくる。
馬岱の隊と、馬超の警護をしていた兵だろう。総勢で二万数千騎。
「曹操、覚えていろよ。お前の首は、必ず私がもらう」
馬超は言い捨てると、馬首を返す。振り返り際にほんの一瞬だけ龐徳に目を止めるも、何も言い残すことなく馬を走らせた。
「好き放題暴れ回って、そう簡単に逃げられると思うとるんか?」
「翠様、お待ちくださいっ」
霞が馬超の後を追いに掛かる。龐徳も動いた。前方にいた龐徳の動きが邪魔となって、霞の愛馬黒捷が数歩空足を踏んだ。
その間に、馬超は無人の野を行くが如く歩兵を蹴散らし遠ざかっていった。
「ちっ、馬超の暴れっぷりにすっかり兵の腰が引けとるな。これじゃあ、追いつかれへんわ」
霞は追撃を諦めて、黒捷をその場に留めた。龐徳もそれに倣った。
馬超が曹操軍の陣を抜け、追い掛けてきた騎兵と合流する。二万騎に、錦の馬旗が掲げられた。
しばし対峙した。来るのか。八万騎で勝てなかった相手に、二万騎で勝負を挑むというのは無謀としか言いようがないが、馬超ならやりかねないという気がする。
「……さすがに、そこまで馬鹿ではないか」
錦の馬旗がゆっくりと遠ざかっていく。
「―――っ、何ごと?」
緊張感が途切れる瞬間を狙いすましたように、曹操軍の布陣の端がわっと騒がしくなった。凪が降伏した西涼兵を囲い込んでいる辺りだ。しばしして、重装歩兵の堅陣を突き破って、数百騎が飛び出していった。
錦の馬旗を追って、駆け去っていく。
「あれは」
「藍様の旗本五百騎の生き残りのようです。どうやら翠様に付き従うつもりのようですね」
龐徳に視線を向けると、事も無げに言った。想定通りの動きということだろう。
「……馬超は、貴方のことを裏切り者と思ったでしょうね」
「その通りなのですから、仕方がありません」
思うところはあるが、華琳はそれ以上は口にしなかった。