城を囲む軍勢から、五十騎ばかりが抜け出した。城壁から数十歩の距離まで近付いて来て止まる。
曹操。隣には白装束の一騎を侍らせている。曹操は何事か叫び、後方に整列した五十騎が唱和した。
「投降しなさいっ! 自ら武器を降ろした者の命は取らないわ!」
兵の間に動揺が走る。曹操はさらに続けた。
「韓遂! 貴方になら、望む地位も与えましょう! 執金吾でどうか!? それとも貴方なら大鴻臚が適任かしら!?」
「馬騰の衛尉と言い、上手いところを衝いてきよるわ」
城壁の上に据えた床几に腰を降ろしたまま、韓遂は呟いた。
曹操が後に挙げた大鴻臚は九卿の一つで、朝貢した異民族と応対する外交の長官である。西域と交流を持ち、羌族からの信頼も得ている韓遂には確かに似合いの役職と言える。
だが西涼人の心を揺さぶるのは前者、執金吾だ。洛陽の警備を司る九卿相当の官位であり、かつては光武帝劉秀も憧れたという。衛尉と同じく、漢朝の武官の花形だった。西涼人にとっては遠い憧憬の的である。
「お前達も、私の後に続いて叫べ」
周囲の兵に命ずると、韓遂は口を開いた。
「―――曹操っ、お前のことだ、馬騰や馬超にも同じことを言ったのだろうっ!? 彼奴らには何をくれてやるといった!?」
「以前と変わらぬ衛尉と奉車都尉の地位を約束したわ!」
「それに彼奴らは何と返したっ!?」
返答に間があった。待たずに続ける。
「そうだ、それが私の答えだっ! ―――皆の者、射掛けいっ! 我らの天子様に弓引く、逆賊ぞ!」
突然の命令に戸惑いながらも、城壁からぱらぱらと矢が飛んだ。
曹操はしばし未練がましくその場に留まるも、同行した白装束の男―――恐らく曹仁だろう―――に引かれて下がっていった。
しばしして、曹操軍の歩兵が前進し、攻城が開始された。
ここ―――正門に当たる南門だけでなく、他の三面でも攻撃が始まったようだ。
囲師必闕と言って、包囲の戦では必ず一箇所を開けよと孫子は書き残している。逃げ道を失えば、敵は決死の抵抗を示すためだ。
曹操の軍学に対する造詣は相当に深いと聞いている。孫子の教えを知らぬはずはないが、長安はぐるりと歩兵に囲まれ、四門全てが攻撃に曝されていた。万が一にも天子―――弘農王―――を取り逃がさぬためだろう。投降した者の命は取らないという言葉が、逃げ道の代わりというわけだ。兵に決死の覚悟は見られない。
一方で攻め寄せる曹操軍の兵も喚声や銅鑼の音ばかり威勢が良く、攻撃自体はそう激しいものではなかった。城門を中心に距離を詰め、取り付いてくるだけである。すぐにも陥落という心配はなさそうだ。
韓遂は城壁を降り、後方へ下がった。
成公英と閻行が付いてくる。閻行は城門守備の指揮官であるが、早急に対応が必要な状況は起こりそうにない。好きにさせた。
本営は宮殿の前庭―――各城門からおおよそ等しい距離にある―――に置いている。
「大きくなっていたな、曹操は」
本営に戻り椅子に腰を降ろすと、韓遂は思わず呟いていた。
馬騰と語らう姿を覗き見た時は、小柄な体躯はそのまま小さく見えた。あるいは、曹操よりも馬騰を大きいと感じたい韓遂の心がそう見せたか。いざ自ら対峙してみると、城壁の上に立つこちらが仰ぎ見る気分にさせられていた。
何進の元にいた頃に、何度か会う機会があった。まだ黄巾の乱も起こる前のことである。袁紹の付添いという形で何進の屋敷を訪れた曹操は、いつも興味無さそうに議論を戦わせる清流派の士大夫達を見つめていた。同じく綺麗ごとに走り過ぎる彼らの言説を冷ややかな思いで聞いていた韓遂には、少々気に掛かる人物ではあった。言葉を交わせば、才覚に感心させられた。しかし、圧倒される様な大きさを感じたことはなかった。
「この乱世を戦い抜き、今や中華の大半を領しているのだから、大きくなるのも当然か」
「……もう、降られてもよろしいのではないですか?」
成公英が言った。韓遂の心中を最も深く理解する男の言葉だ。
韓遂にも西涼人の御多分に漏れず、漢朝への叛意と同時に尊崇の念があった。愛するからこそ、切り捨てられた現状に嘆き、怒り、叛くのだ。
「曹操は、あれで一度口にした約定を破る人間ではありません」
成公英は、韓遂の心の内にある漢朝への敬慕を形としたような若者だった。敬慕の向かう対象は天子ではなく韓遂であるが、漢室に対しても韓遂の心情の純粋な部分だけを引き継いでいる。漢の司空に降るということは、漢室の下に付くということだが、それに強い抵抗を感じはしないのだろう。
「珍しく俺と同じ意見じゃねえか、成公英」
閻行が言うと、成公英が嫌そうな顔をした。
成公英が韓遂の敬慕を継いだ人間なら、閻行は韓遂の叛意を象徴した人間と言える。その閻行までが降伏を奨めていた。
「城内の兵はたった五千。目の前で馬騰と馬超の敗北を見せられて、士気も萎えてますぜ。十万を超える曹操軍をとても相手には出来ませんや」
「そうとも限らんさ。長安は高祖劉邦の定めた不落の都。力押しで容易く落せるものではない。実際、曹操軍は包囲に数を取られ、攻城に参加している兵はわずかだ」
長安の城壁は一面十里(5km)にも及ぶ。歩兵十万に騎兵六万騎という大軍―――戦でさらに数を減らしている―――であっても、包囲だけで大半の兵力が費やされる。
もっとも、それは五千の兵力しか持たない西涼軍も同じことだ。城が大きいということは、当然守る兵もそれだけ多く必要ということである。五千で長大な長安の城壁全てを守るなど不可能である。城門付近以外は、半ば強制的に召集した義勇兵を配備して形ばかりを整えただけだ。力押しで来られれば、とてももたない。
曹操もこちらの兵力不足は先刻承知だろうが、力押しで城壁を乗り越え宮殿に迫るという戦は避けたいはずだ。弘農王の身に危険が及びかねないし、攻勢に転じ包囲の形が崩れれば取り逃がす可能性も出てくる。士気を挫いて自ずから降らせる。それが狙いだろう。
「ですが、援軍の当ても無しで長くは―――」
「閻行、捕らえられている楊秋達と連絡を付けられないか、試してみよ」
楊秋らと共に捕虜となった兵が五万余りも存在し、包囲の後方でひとまとめに固められていた。これが一斉に叛旗を翻せば、曹操軍に痛撃を与えられる。こちらからも城門を開けて討って出、五万のうちの一万でも二万でも城内に向かい入れることが出来れば、籠城はかなり楽になる。
まだ、勝利の可能性が潰えたわけではなかった。
「利に聡い韓遂のことだから、降るかと思ったのだけれど」
楊秋に侯選、龐徳を本営に招いて切り出した。
「まったくですな。せっかくの曹操様の申し出を断るなど、少々意外でした」
楊秋が代表して答えた。
三名の中では楊秋が最も韓遂に親しかったという。侯選にとって韓遂は信用ならない同盟者であり、龐徳にとってはほとんど仇敵に等しいらしい。
「いっそ、涼州牧にでもしてあげれば、大人しく従うのかしら?」
「それは韓遂殿を、西涼の主とお認めになるということですか?」
「私の政を代行する一地方官としてならね」
雍州牧には白蓮を送り込んだが、華琳の政策さえ正しく行われるならその土地の人間を抜擢しても良い。実際、河北の統治には今も袁紹軍の田豊や沮授を当てている。
「それでは、またすぐに戦でしょうな」
楊秋が言った。口調にいつもの滑稽なまでの軽々しさがない。
「私の政に、不満があるということかしら? 貴方達西涼人は洛陽の政に不公正を感じているのでしょう? 少なくとも私の政は中原も辺境も区別しないわよ」
「西涼には西涼の暮らしがあります故、―――などと言うのは建前ですな。結局のところ、我ら西涼人は誰かの下に付くというのが嫌いなのですよ。異民族襲撃の恐怖に怯え、我らのために何もしてくれない漢朝に踏み付けられてきた歴史が、西涼に深く叛骨を植え付けました」
「つまり貴方も、私に本心から降るわけではないと言うことかしら?」
「いやいやいや、そのようなつもりでは。私など元から韓遂殿にすり寄っていた口ですからな。強い者に頭を垂れるのに、躊躇いはございませんわ」
楊秋が大袈裟に手を振って否定した。一瞬だけいつもの軽薄さが顔を覗かせたが、楊秋はすぐに神妙な顔付きで続けた。
「韓遂殿は、あまり西涼人らしくない。武辺を誇るでもなければ、馬鹿でもない。だからこそ、人一倍西涼人らしくあることに拘りを持っておられる。まさに西涼人と言う馬騰殿が、目の前でお亡くなりになられたばかりですからな。こうなってはもう、降るという選択は韓遂殿にはありえません」
「へえ」
思わず声が漏れた。詠、それに候選と龐徳も、意外そうな顔で楊秋を見ている。
「まあ、とはいえ韓遂殿も人の子。数日包囲を続ければ、命惜しさに降るかもしれませんな」
楊秋はぽんと手を打つと、再び口調を一転させた。哄笑しつつ続ける。
「はっはっはっ、こう言っておかねば、見込み違いで韓遂殿が降られたら恥ずかしい思いをしますからな」
軽妙と称するべきか、軽薄と蔑むべきか。なんとも評価の難しい男である。
翌日、翌々日も攻城を始める前に降伏を勧告したが、楊秋の読み通り韓遂は首を縦には振らなかった。
天子との謁見を終え、後宮を出た。
すでに三日、攻城に耐えている。韓遂は日に何度となく呼び出しを受け、怯える天子を宥めた。
馬騰に与して曹操の暗殺を謀った董承らの処刑は、この西涼にも伝わっている。天子は曹操に捕らえられれば、自分も殺されると考えているようだった。
皇族、どころか廃されたとはいえ先の皇帝である。それでも必要と見れば曹操は躊躇うまいが、西涼軍が潰えた時点で曹操にそうさせるだけの価値がこの天子にはない。西涼を一つにまとめるには大いに役立ったが、劉備や孫策らが今さら帝を欲するとは思えない。群がってくる者がいたとしても、曹操にとっては取るに足らない小物ばかりだ。せいぜい厳しい監視下で洛陽に留め置かれる程度のものだろう。
洛陽の宮中で生まれ育った天子にはその方が幸せかもしれないが、韓遂はその悲観を改めはしなかった。いま、天子に降りられては困るのだ。
本営に戻ると、留守を任せていた成公英の他に閻行の姿があった。閻行が口から垂れ流す武勇伝のようなものを、成公英が興味無さそうに聞き流している。
韓遂に気付き、二人がさっと居住まいを正す。
「閻行、何か報告か?」
「はっ。楊秋と連絡が取れました」
「そうか。協力は得られそうか?」
閻行は小さく首を振ると、幾重にも折り畳まれた指先ほどの紙片を一つ差し出した。
「すでに戦う心は折られたか」
ざっと目を通すと、投げ捨てた。
韓遂も早く降れ。あのお調子者の楊秋が諧謔の一つも交えることなく、小さな紙片に小さな文字で懇々と書き記していた。
「韓遂様、やはりここは降るしかありませんぜ」
この閻行も、馬超と曹仁の戦振りを目にしてから過剰なまでの自信を喪失している。以前の閻行なら、寡兵で討って出て曹操の首を取る、くらいのことは言ってのけただろう。
「なあに、いつものことじゃないですか」
「いつものことだとっ」
「―――っ」
韓遂が声を荒げると、閻行は叱られた子犬のようにびくりと身体を縮こまらせた。
「だって、曹操は許すと言っているんですよ。それも執金吾だ。俺だって、馬超の奴が奉車都尉だったんだ、さらに上の―――」
閻行が言い訳がましく、都合の良いことを並べ立て始めた。戦をする自信は失っても、馬超に勝ったという虚名の価値はいまだ信じ切っているらしい。
「下がって良いぞ、閻行」
「……はっ」
閻行は不服気に頭を下げると、そそくさと本営から去っていった。
「……確かに、いつものことであったな」
閻行がいなくなると、韓遂は小さく溢した。
追い詰められ、何度頭を下げたことか。自ら立てた叛乱の首謀者を討ち、その首を手土産に相手方に降ったことも一再ならずある。叛徒鎮圧を命じられた漢朝の将軍達など、手柄を立て格好さえつけば早々に辺境での遠征など切り上げたいと思っている者ばかりだった。韓遂の示した恭順が嘘か真かなど、初めから計る気もない。
そうして幾度となく叛を企て、その都度敗れながらも生き延びてきた。だから、閻行の言ったことは間違いではないのだ。思わず否定してしまったのは、今回こそはと期する思いがあったからだ。
今まで組んできたどの相手よりも、馬騰はずっと大きかった。馬超は、西涼が生んだ最高の将器だろう。そして自分達だけの天子を得た。
これだけ揃ってなお、西涼は勝てないのか。また恭順を演じなければならないのか。
しかも相手は漢朝の将軍達ではない。曹操である。一度垂れた頭を、再び上げる機会が与えられるのか。生涯を曹操の部下として生きることにはならないか。
「曹操に投降するのがお嫌でしたら、北へ逃れられては如何でしょうか。羌族の支配地に潜んでしまえば、曹操も容易く手を出してはこられないかと」
成公英が韓遂の心を読んだようなことを言う。
「……ふむ、それも悪くないかもしれんな」
烏桓の地まで遠征した曹操である。どこまで逃げようと、避けられない結果を先延ばしにするだけかもしれない。それでも、逃げた分だけ叛き続けることが出来る。
「閻行を呼び戻せ」
「はいっ」
成公英が、籠城を始めてから初めて晴れた表情で返事をすると、本営の外へ駆け出していった。
策と言う程のものは必要ない。すぐに計画を立て、成公英に連れ戻された閻行に打ち明けた。
「一千の兵で包囲を破って北に逃れる、ですか」
「うむ」
如何に十万の大軍といえども、長安の城壁は四辺合せて四十里にも及ぶ。包囲の布陣は薄く、騎馬隊で突破すること自体は難しくない。包囲の要は騎馬隊で、歩兵のどこを抜いても、すぐに報告が走り追撃が開始される。騎兵のみなら振り切ることが可能でも、天子の車馬を連れていてはそうはいかない。初めから弘農王を捕らえることを目的とした包囲なのだ。
「天子様はどうします? 兵に担がせますか?」
「いや、陛下に羌族に混じっての暮らしは無理であろう。お前に託す。曹操への手土産とするがいい」
「曹操への手土産。ってことは、俺は」
「陛下を連れて曹操の元へ降ると良い。曹操が陛下を害すことあらば、命を賭してお守りするのだぞ」
「そっ、そうですか。韓遂様のお供を出来ないのは辛いですが、天子様をお守りするのも大事なお役目。ここは涙をのんで引き受けましょう」
閻行が喜色を隠さず言う。配下で最も武に長じた人間ではあるが、気骨を失ったこの男を側に留めて置く気にはならなかった。
弘農王を連れて投降すれば、本当に奉車都尉くらいには付けてもらえるかもしれない。西涼の悍馬が都で富貴の道に付くというのも、小気味良い話ではある。
決めてしまえば後は動くだけだ。翌早朝、出撃の用意が整ったと成公英が知らせに来た。
本営から、兵を集結させた北門前へ向かって二人で馬を並べた。
「兵は、不満の声を漏らしてはいないか? 閻行と共に降りたいという者も少なくなかろう」
逃げ延びて異民族の地に隠れ住むぐらいなら、投降を望む兵も多いだろう。
「羌族の兵を集めましたので、ご心配には及びません」
「そうか」
昔から不思議と羌族の者には好かれた。羌族の血が半分流れている馬騰よりも、韓遂を慕う者の方が多い程なのだ。辺章や北宮伯玉、王国といった当時の西涼の実力者と敵対した時も、羌族の大半が韓遂に付いてくれた。
韓遂も、羌族を愛おしく思う気持ちがある。匈奴が強勢が誇った時代にはその下に付き、漢が勢力を強めればその下に付き、されど叛の心を失わずに持ち続けた者達だ。西涼にとっては侵攻してくる敵であり、親しい隣人であり、血を交わした家族でもある。西涼そのものと言っても良いだろう。
「むっ?」
二百騎余りが、行く手で待ち受けていた。韓遂の姿を認めると、さっと道の両脇に分かれる。
「閻行か。見送りは不要と言ったはずだが」
「いえ、お見送りさせて下さい」
道の真ん中に一騎残ったのは、閻行だった。決まりが悪いのか、拱手し顔を伏せたまま言った。
先行する成公英が、無言のまま閻行の横を通り過ぎる。最後までこの二人は仲が良くない。
「天子様のこと、頼んだぞ」
「はっ」
閻行は伏せていた顔を、さらにうつむけて言った。最後に西涼人らしい傲岸さをもう一度見せて欲しかったが、それも敵わないようだ。
韓遂は閻行から目を逸らし、横を通り過ぎた。
「―――っ!?」
直後、背中に衝撃が走った。落馬し掛けるも、西涼人の意地で踏み止まった。
「韓遂様っ! ―――閻行っ、貴様っ!!」
成公英が振り返り、叫ぶ。
それを合図に、道の左右に別れていた兵が動き出した。韓遂の元へ駆け寄ろうとする成公英を遮りに掛かる。
「どうせ降るなら、手土産は多いに越したことはありません」
背後から、閻行の声がした。さすがに引け目を感じているようで、声は震えている。
「そうか。確かにそうだな」
韓遂自体、幾度も繰り返してきた。次なる叛に、繋げるためだ。閻行はただ栄達のためだろう。
「……物は相談だが、私の首は大人しくくれてやるから、成公英は見逃しやってくれないか?」
「良いでしょう。あいつとも長い付き合いだ。―――おいっ」
意外な答えが返ってきた。成公英を囲んでいる兵達に、閻行が命令を飛ばす。兵は槍の穂先を伏せ、石突を向けた。
打ち掛かられると、武よりも文の人ではある成公英は長くはもたなかった。韓遂の名を呼ぶ声が次第に小さくなり、途絶えた。
「悪いな」
閻行からは見えないだろうが、韓遂は小さく頭を下げた。
些細な動きで、全身が軋む。背中に負った傷は、身体の根幹を断ち切ったようだ。
それだけに意外だった。元々、隙あらば排除する、くらいにいがみ合っていた二人である。閻行が成公英を助命するとは思わなかった。大人しく首をやるとは言ってみたものの、この傷では抗い様もないし、万全であっても韓遂の武は閻行には遠く及ばない。こちらから条件など付けられる状況ではないのだ。
「……さてと」
上手く出来るだろうか。韓遂は恐る恐る馬首を返した。落馬せずに、何とか背後の閻行に向き直ることが出来た。
「―――っ」
顔を合わせるも、視線は合わない。大人しくという言葉が、成公英の助命の見返りとなるわけだった。閻行はおどおどと目を泳がせ、手にした血濡れた大刀をかたかたと震わせている。思いの外、韓遂は恐れられていたらしい。
―――してみると、なかなか良い叛きっぷりではないか。
強く、大きいからこそ叛く。それでこそ西涼人というものだ。
「うむ、悪くない」
震えた手でも仕留め損ねることがないように、韓遂は背筋を伸ばし、首を差し出すように傾けた。
「我が名は閻行っ! 曹司空様になり代わり、漢室に叛く逆賊韓遂の首、討ち取り申したっ!」
大音声と共に城門が開いた。
「まずは俺が」
「ええ、任せるわ」
曹仁が白騎兵と数千騎を伴い城門のうちへと駆け込んでいく。一刻(30分)ほどで、安全を確保したと自ら報告に戻って来た。
曹仁と幕僚達、虎士、虎豹騎を引き連れ、城門を潜る。膝を付き、拱手した数十人の一団が待ち受けていた。
先頭の筋骨隆々とした大男は拱手せず、代わりに右腕を突き出している。そこからぶらりと垂れ下がるのは、まさしく韓遂の首だった。
「……叛き続けた女が、最後は叛かれて逝ったか」
ずいと馬を近づけ、身を乗り出して韓遂の虚ろな瞳と目を合わせた。季衣と流流、それに曹仁が慌て横に付くが、大男は気圧された様子で身体を硬直させている。
「……久しぶりね、韓遂」
髪を掴まれ吊り下げられているから、引き攣った顔をしている。頬に飛んだ血も、拭われずそのままだ。しかしどこか、満足気な表情に見えなくもなかった。
それほど親しく付き合ったというわけではない。ただ当時の腐敗した政の周辺にあって、韓遂は腐臭を跳ね除ける異国の風を身に纏っていた。波風一つ立てぬ清流派の士大夫達の中で、その姿は屹然としていた。
叛に生き、叛に死す。韓遂ならこれぞ本望と、笑って最期を迎えそうな気がする。
「……殿下、お久しぶりです」
視線を大男の後ろへ向ける。二人並んだ兵の一方に肩を支えられ―――逃げないように捕まれて―――いるのが弘農王だった。
「う、うむ」
弘農王は蚊の泣くような声で答えると、それきりうつむいてしまった。身体はがたがたと震えている。
「……流流、殿下のお相手をお願い」
「はいっ。―――殿下、さあこちらへ」
これ以上脅しつける意味も無さそうだった。供の中で一番人当たりの良い流流を選んで後を任せた。
「そちらの男は?」
二人並んだ兵のもう一方は、後ろ手に縛りあげた若い男を組み伏せている。
「はっ。成公英と申します、逆賊韓遂めの側近です」
大男が返答した。
成公英はくぐもった声を漏らし、憎悪の籠もった視線を大男に向けた。口にも縄を噛まされている。
「それで、貴方は何といったかしら?」
「閻行と申します」
「……ああ、閻行。韓遂の“側近”で、とっておきの武将だとか。馬超に勝ったこともあるのだそうね?」
「自慢するほどのことでもありません。あんな女、俺にかかれば軽いもんです」
皮肉を込めた華琳の言葉には気付いた様子もなく、閻行はひどく自慢げに胸を張る。
捕虜にした兵の口から、よく上がった名前である。西涼軍はまだ最強の戦士を温存していると、負け惜しみのように叫ぶのだった。
閻行は自分の名が敵軍の中に知れ渡っていることがよほど嬉しかったのか、口元を締まりなく緩ませている。
「―――軽いものね。すると貴殿が西涼軍最強の武人ということかな?」
曹仁が口を挟んだ。常には無い硬質な響きのする声だ。
「まあ、そういうことになるかな」
閻行がやはり得意気に胸を反らす。
「それはたいしたものだ」
「その装束、その白馬、そういう貴殿は、曹操軍最強とも言われる天人曹仁殿であろう? 馬超の奴に、なかなか手を焼かれたようですな」
閻行は、硬さを増した曹仁の声に気付いた様子もない。さらに続ける。
「なあに、これからは俺が味方。馬超程度の相手なら、いつでも蹴散らして御覧に入れましょう」
馬超に勝った、それが唯一誇るべきものなのだろう。閻行は殊更に馬超の名を口に上げる。
「そうですか、それは心強い。どうです、ここは一手お相手願えないか? 曹操軍最強の呼び声、あの馬超を物ともしないという貴殿になら、ぜひお譲りしたいものだ。―――そのでかい口ほどに腕も立てば、の話だが」
「―――っ」
閻行はようやく曹仁から向けられる敵意に気が付いたようだった。
「……西涼の稽古は、中原ほどお上品じゃねえ。軽く一手交わすつもりが、死んじまうことも少なくない。それでも構わねえのか?」
閻行はじろじろと曹仁を見やった後、気を取り直した様子で答えた。小柄で大して強そうにも見えない曹仁の外見に、自信を深めたようだ。
「ははっ。そのわりに貴殿が倒したという馬超の奴は、ずいぶんと元気にしていたがな」
「―――っ! ……曹操様、よろしいか?」
「そうね。馬超を倒したという腕前、私も興味があるわ」
「そういうことならば、お見せしましょう。―――おいっ、誰か俺の馬と武具を持ってこい!」
閻行が後ろを向いて叫ぶ。
「構わないわ、用意してあげなさい」
躊躇いがちな西涼軍の兵達に華琳が言ってやると、数人が駆け出していった。
しばしして、馬を引き、大刀と具足を抱え兵達が戻った。閻行が曹操軍に一矢報いてくれるという期待からか、足取りは軽い。
閻行は韓遂の首をぞんざいに兵に投げ渡し、代わって武具を受け取った。具足を着込み、大刀を手に取り、馬に跨る。
「さあ、この閻行様が勝負してやるぜっ! 命が惜しくないなら、掛かってきなっ!!」
「……」
曹仁が、ちらりとこちらへ視線を向けた。
「これだけ状況を整いておいて、今さら私の許可もないでしょうに」
好きにしろ、というように華琳が軽く肩を竦めると、曹仁は小さく頷き返した。
虎士を後退させ、遠巻きに勝負の行方を見守った。曹仁と閻行は、十歩ほど距離を置いて対峙している。
閻行が馬を駆けさせた。曹仁は悠々と受け、白鵠を軽く走らせる。
西涼軍の兵の話を信じるなら、閻行はかなり一方的に馬超を打ち倒したという。それが本当なら、あるいは呂布や張飛並みの武勇ということになるが―――
「―――お前があの馬超に勝っただって? 嘘だろう?」
馳せ違った瞬間に、勝負は決していた。
落馬し、のた打ち回る閻行に、馬上から投げ掛けられた曹仁の言葉は届いていないようだった。
「時間の問題だとは思っていたけど、こういう展開は予想してなかったね」
小屋の外で、長安の様子を探らせていた斥候が報告を読み上げた。手を動かしながら、蒲公英が呟く。
「あの韓遂が、閻行なんかに殺されたか。いや、直接手を下したのは閻行でも、結局は曹操に殺されたということか」
母の義姉であり、同盟者であり、そして父の仇であった。いつの日かこの手でと、そう思い定めた相手である。
母だけでなく、仇までも曹操に奪われたということだ。
―――今日からは、曹操一人が仇敵だな
そう思えば、話は分かりやすい。身の内に溜まった怨嗟も憤懣も、全て曹操という一人の人間に集約していく。それはいっそ清々しいくらいだった。
「はい、出来た。張衛さん、これでどうかな?」
張衛が近付いて来て、翠の肩と腿の傷口に軽く触れた。
渭水沿いに見つけた廃屋を本営としている。打ち捨てられた漁師小屋のようだった。小屋の中には翠と蒲公英、それに張衛の三人だけで、他の者は下がらせている。
「ふむ、問題無さそうです。馬岱殿は筋が良い。もう私が巻くのと変わらない」
五斗米道に伝わるという晒を使った施術である。傷口に掛かる負荷を、他の部位に分散させる。曹操軍に突っ込んで暴れ回れたのもこれのお蔭だった。
先日までは張衛に手ずから巻いてもらっていた。五斗米道と言うのは随分と気前の良い組織で、合流した蒲公英が知りたがると張衛は惜しみなくその技法を伝授してくれた。
「それはちょっと誉め過ぎだよ。張衛さんは教祖様の弟でしょう? 五斗米道ではお姉さんの次に上手いんじゃないの?」
「いや、私はあまり手先が器用ではないのでな。姉上や兄弟子なら鍼で血流を促し、今頃は傷自体を八割方回復させているだろう。私に、そこまでの技量はない」
「へえ、そんなことまで出来るんだ? 兄弟子っていうのは、五斗米道の幹部か何か?」
五斗米道について、外の人間には限られた情報しか伝わっていない。
現教主張魯の祖父張陵が開き、三代目の現在では益州全土に信者を持つ。特に漢中は五斗米道の自治区のようなもので、州牧の劉璋もおいそれとは手を出せないという。それだけ隆盛を極めている宗教団体であるが、聞こえてくる名は教主張魯とその弟の張衛くらいのものだった。
「いや、教団の地位には就いていない。名を、華佗という」
「華佗? 華佗ってあの華佗?」
「どの華佗のことを言っているのかわからないが、恐らくその華佗だろうな」
「知らなかった。神医華佗が五斗米道の人間だったなんて。大陸中を旅して回っていると聞くけど、つまり布教の旅をしているということ?」
「いや、そんな大仰な目的はあの方にはない。せっかく身に付けた医術を世のために役立てたいという純粋な思いがあるだけだろう。漢中の病人には姉上がいれば事足りるからな」
「……お姉さんと華佗だと、どっちの医術の腕が上なの?」
蒲公英が躊躇いがちに、しかし好奇心を抑えきれないという顔で聞いた。
「それは教主である姉上の方が上、―――と言いたいところだが、華佗殿が上だろうな。薬学に関しては姉上も劣られぬが、外科手術と鍼灸に関しては華佗殿は天性のものをお持ちだ。特に鍼に関しては、素人目どころか私の目から見ても、理解の範疇を超えている」
「へえ、―――というか、聞いておいてなんだけど、そんなこと言っちゃって良かったの? 教主様よりも別の兄弟子の方が腕が上だなんて」
「ははっ、医は確かに開祖様が教え残したものの一つではあるが、それがそのまま教団の本質というわけではない」
「あ、そっか。五斗米道って宗教だもんね。別に医術の腕で教主を決めるわけじゃないか」
「そういうことだ。華佗殿は尊敬に足る方だが、信奉の対象にはとことん不向きなお人柄だ」
張魯には不老の神仙という噂がある。実際翠と蒲公英が目にした張魯は、年齢よりもはるかに若く見えた。幼いと言って良い程だ。教主としての求心力は相当なものだろう。
蒲公英がさらにいくつか教団や漢中での暮らしに関して問い掛けた。宗教に入れ込む性質とは思えないが、妙にしつこく質問を重ねている。張衛はその一つ一つに丁寧に答えてくれた。
「私からも、興味本位でお二人に一つ聞いて良いか?」
蒲公英の質問攻めが治まったところで、張衛が言った。翠と蒲公英は顔を見合わせると、軽く頷き返した。
「韓遂を討った閻行という男のことだが。馬超殿が、あの男に敗れたというのは本当か? あの男、それは私などでは相手にならぬくらいに強いのだろうが、馬超殿が破れるとはどうしても思えない」
翠は顔を強張らせている蒲公英に一度冷たい視線を注ぐと、お前から説明しろと、くいっと顎で促した。
「……言っちゃって良いの?」
「今となってはすべて終わった話だろう」
「そ、それじゃあ、私から。……えっとね、閻行の主だった韓遂が、伯母様の義姉で、仇敵でもあるって話は聞いていると思うんだけど」
「ああ。西涼で過ごすと、自然と耳に入ってくる話だな」
「五年くらい前までは、結構戦もしていたんだ。でも伯母様と韓遂は、憎み合いつつも西涼人同士が争うことを不毛とも考えてた。だからって簡単に矛を収めるというわけにもいかない。何度もぶつかり合ってきたから、兵や民にとっても互いに互いが仇敵なんだ。伯母様と韓遂はそんな人たちを満足させるために、時には適当に干戈を交える必要があった」
「適当。つまりは、手を抜いた戦ということか」
「そういうこと。で、そういう戦になると―――」
―――翠は出陣を禁じられた。韓遂が相手となると、翠に適当な戦などは出来ない。
その点、蒲公英は手を抜いた戦というのが上手い。大抵は彼女が兵を率いることとなった。ある時、蒲公英が錦の馬旗を無断で戦に持ちだしたことがあった。錦馬超の名で脅しつけることで、双方犠牲を出さずに戦を終わらせようという腹積もりであったらしい。
蒲公英の策は見事図に当たって、ほとんどまともにぶつかり合うことなく戦は膠着した。そんな中にあって、空気も読まず大暴れをしたのが閻行であった。大声で錦馬超を罵り、下種な言葉で辱めもした。見かねて飛び出した蒲公英は打ち倒された、―――錦馬超として。廉士の助けで事なきを得たが、あわや討ち取られるという寸前まで追い込まれたのだった。
「なるほど。それは確かに公言するわけにもいかないな」
「だろう。それであたしは、閻行に負けた錦馬超となったわけだ」
仇敵との戦に替え玉を立てたとなれば、敗北以上に錦馬超の、ひいては馬家の名を損ないかねない。
しかしもう、西涼の雄たる馬家など存在しないも同じだった。その仇敵韓遂もすでにない。
「……さてと、そろそろ行くか」
言うと、翠は床几から腰を上げた。
母は死に、西涼の独立を賭けた戦も終わった。話している間に、ようやくその事実が胸に落ちてきた。
「行くって、どこへ? 当然、曹操に降る気はないんだよね」
「当たり前だ。あたしには母様みたいな腹芸は出来ないからな」
「まあ、そうだよね」
本心から帰順するという考えは、言うまでもなくない。投降するとすれば、藍がそうしたように内に飛び込んで暗殺の機会を探るためだ。
―――廉士はもしかすると。
わずかな希望が過ぎるも、頭を振って否定した。
自分ほど不器用でもないが、要領よく立ち回れるような性質でもない。そんな男だからこそ、心惹かれたのだ。
「……なんならお前だけでも投降するか?」
腹芸なら、この従妹の得意分野だ。
「う~ん、お姉様を一人にしておくのも不安だし。仕方ない、付いていくか」
「ふんっ、言ってろ」
蒲公英のいつもと変わらぬ軽口が、こんな時は有り難い。
小屋を出ると、兵が集まって来た。
「ったく、こんなに残ったのか。―――仕方ない、お前ら並べっ!」
整列した兵を改めて数えると、三千に及んだ。
行く当ても、糧食の当てもない。曹操軍に単騎駆けした後、二百だけ残った旗本の精鋭を除いて二万の軍は解体した。同行を願い出る兵も多くいたが、はっきり解散を申し渡した。
数日小屋を動かず、命令も下さずに放置した挙句、それでも去らずにこの場に留まったのが三千騎だ。これは、引き受けないわけにはいかないのだろう。
他に、張衛の率いる五斗米道の兵が五十騎。
漢中より伴った五百騎のうちの四百五十騎は、長安に留め置かれていた。いずれ解放されるだろうが、今は曹操軍の虜囚だろう。張衛は解放され次第それぞれ勝手に漢中へ帰還すると、のんきに構えていた。それが信徒の兵というものなのだろう。
「よし、行くか。―――張衛、ここでお別れだな。世話になったし、それに何も返すことが出来ない。せめて五斗米道とお前の武運を祈るよ」
張衛が首肯するのを見届け、翠は馬に―――今日の乗馬は紫燕だ―――飛び乗った。
「ちょっとちょっと、お姉様。行くって結局、何処へ向かうつもりなの?」
「そいつは、こいつの脚に聞いてくれ」
紫燕の首を軽く叩きながら言った。
「あ、そこは考えてないんだ。格好付けて言っても駄目だよ」
「うるさい。そういうのを考えるのは私よりもお前の方が得意だろう。さっさと考えろ」
「ええー、そんな急にふられても。―――まあ、もう考えてあるんだけどね。というか、他に行く当てなんてないでしょ」
蒲公英はしたり顔で言うと、張衛に視線を向けた。