「お通ししろ」
従者へそう返すと、ほどなく忙しない足音が近付いてきた。
「冥琳っ」
蓮華が執務室へと駆け込んできた。供は思春一人だ。
「どうしたの、蓮華? そんなに息巻いて」
机にしなだれるようにしていた雪蓮が顔を上げた。冥琳も書類に落していた視線を蓮華へと向ける。
「姉様もいたのね。ちょうど良かったわ」
「蓮華様、急な御来訪、如何なる御用件でしょうか?」
柴桑の水軍基地である。冥琳が普段から駐屯する城塞で、孫策軍の本拠である建業からは一千里も離れている。
かつて孫策軍の本拠は九江郡寿春に定められていた。揚州州都であり、かつての袁術の居城にして、雪蓮と太史慈が一騎打ちを演じた土地でもある。戦に勝利した後に雪蓮の居城としたが、曹操に敗れ長江以北の領土を放棄した際に失われた。建業はそれ以来の孫策軍の本拠である。
「言わなくても分かっているでしょう。江陵の件よ」
「やはりその件ですか」
書簡を送ってから、十日と経っていない。入れ違いを懸念したが、書簡を受けすぐに駆け付けたらしい。
水軍基地である柴桑は言うまでもなく、建業も長江に近い。昼夜兼行で長江を遡って来たのだろう。孫策軍の船が長江を進むのに、夜の闇は問題にならない
「お呼び立て頂ければ、こちらから参りましたものを」
「それでは使者が往復する分、時間の無駄になるわ。姉様も、こちらにいることの方が多いし」
そういって蓮華が睨むも、雪蓮は肩を竦めるだけだった。ため息交じりに蓮華は続ける。
「それで、江陵のことだが。劉備軍から譲渡の提案があったというのは、どういう事なの? 文面からすると、冥琳は乗り気のようだけれど」
「蓮華様にはご報告が遅れましたが、これは雪蓮と私、そして劉備の間ですでに交わされていた話なのです」
「密約があったという事?」
「はい」
冥琳は諸葛亮と鳳統からの提案を話して聞かせた。
「荊州南部での異民族の蜂起を抑え込む代わりに、江陵と反曹の民を譲り受けて欲しい? 分からないわね、それで劉備軍に何の得があるというの?」
劉備軍が荊州蛮族を陰で動かしていると語ると、蓮華は驚きと憤りに眉間を歪めた。しかし説明を続ける冥琳を遮ることなく最後まで話を聞き終えると、まず口にしたのはその疑問だった。
「現在、曹操軍は江陵で劉備軍と、夏口で我らと対峙しています。曹操にとってこの二つの城は荊州北部の安定、そしてやがて行われる江南討伐―――我らとの戦の前に何としても落しておきたい拠点でしょう。我らにとっても夏口は中原進出への足掛かりであり、長江支配の要。失うわけにはまいりません。夏口と江陵は、今後乱世の眼目となりましょう」
「そんな重要な城を私達に譲って劉備は何を―――、いえ、もしかして曹操軍との戦線を私達に押し付けるという事?」
蓮華の察しの良さに、冥琳は微笑交じりに首肯した。
密約を交わした後、情勢は大きく変化した。
馬騰の弘農王奉戴。曹操軍の西涼と荊州同時侵攻。いずれも諸葛亮と鳳統、そして冥琳の三軍師をして予想すらしていなかった事態である。
結果、鳳統を失うという大き過ぎる代償と引き替えに、劉備軍は荊州軍の将兵と軍船の多くを無傷のまま手にし、江陵には想定を超える二十万以上の反曹の民が集結した。過程はどうあれ、江陵で反曹の民を抱えた劉備軍が曹操軍と対峙する、という密約の前提は崩れていない。
「だけど、私達に面倒事を押し付けて、劉備軍は何をするというの? 唯一の拠点を手放してまですることが、あの放浪の軍にあるのかしら?」
「益州攻め。劉備軍は遂に領土を求め動きます」
「劉備軍が領土を」
蓮華が呆然と呟く。
今回、戦の成り行きから江陵を実質的に手にしたが、それまで一寸の土地も得ることなく彷徨い続けてきたのが劉備軍である。しかし各地に割拠した群雄達が姿を消し、最大勢力を誇った袁紹までが倒れる中、潰えることもなく名だけを有し続けてきた。
その劉備軍が領土を求めて動くというのは、冥琳をして軽い驚きがあった。
「……貴方は乗り気みたいだけれど、ほんとにそれで良いの、冥琳? 益州は冥琳も狙っていた土地でしょう? 曹操の統治を避けて集まった二十万の民を、劉備は放り出してはいけないわ。対して私達には、夏口を防衛した上で、益州を攻めるだけの兵力がある」
聞き役に回っていた雪蓮が口を開く。ちょうど話題は、蓮華達が訪れる前に二人で交わしていたところにまで戻って来た。
「そうね。―――曹操軍と長江を隔てての天下二分。長江の最上流にして天険の地益州を得れば、それがなる。諸葛亮達との約定は所詮は密約。反故にしても構わないと思っていたわ。江陵で生かさず殺さず、我が軍の先兵のように働かせれば良いと」
雪蓮の言葉を冥琳は肯定した。
「ならばどうして、益州を譲られるのですっ」
声を荒げて思春が言う。
蓮華との論議に思春が口を挟むのは珍しい事だった。孫策軍を代表する武将であるが、長く蓮華の近衛を務めたため、彼女の前では一介の護衛であろうとする。その思春が憤りを露わにしていた。
天下二分の計は、孫策軍ではすでに一つの指針と為りつつあった戦略である。穏や亞紗ら軍師のみならず武官にも賛同者は多く、発案者である冥琳の今さらの翻意は裏切りと思われても仕方がない。
とりわけ思春は天下二分に乗り気であった。思春は孫策軍の人間にしては珍しく、益州の生まれである。孫策軍に限らずとも、天険に囲まれ外部から隔絶された益州の人間を州外で見ることは稀である。江賊であった思春は、長江の流れに沿って縄張りを益州から東へ伸ばし、一時は荊州で黄祖の元へ身を寄せ、その後揚州は呉郡まで至ったところで雪蓮に捕縛されている。
その出自故に思春にとって益州は勝手知ったる土地であり、いざ戦となれば先頭に立って長江を遡上する腹積もりであったろう。
「天下三分。鼎の足は三本あるからこそ安定する。諸葛亮は私にそう言った」
「劉備軍が三本目の足と為り得るというのですか? 冥琳殿は、西涼軍閥や劉焉、劉表ですら不足と考えておられたのではないのですか? だからこその天下二分ではないですかっ。ましてや根無し草の劉備軍などっ」
「その根無し草の劉備軍がな、私のこれまでの想定以上に強い。これは、軍を預かる都督として、恥ずべき失態なのだが」
「―――っ」
自身の誤りと劉備軍の強さをはっきりと冥琳が認めると、思春は絶句した。
諸葛亮の言う天下三分は、実はさして際立った策でもない。国士無双韓信と遊説家蒯通の故事を引くまでもなく、勢力の拮抗を計るなら二分よりも三分と考えるのは当然のことだ。ましてや二分にせよ三分にせよ、統一のための足掛かりでしかないのだ。いずれは攻勢に転じることを思えば、強大な曹操軍の戦力を分断する第三の存在は不可欠ですらある。天下二分という冥琳の戦略の方が、長江の防衛線に対する自信と、頼むべき第三勢力の不在が生んだ窮余の策と言えた。
口惜しいが、劉備軍は冥琳の戦略図に差し込んだ一条の光明であった。
「冥琳、私も思春と同じ考えよ。曹操に対抗するために一度は手を結んだ相手ではある。だけど劉備に、それほどの力があるとは思えないわ」
思春に代わって蓮華が言った。
「そうですね、劉備軍の目に見える兵力はずっと歩兵が四千に騎兵が一千でした。この五千に関しては、あるいは天下一の精兵と言って良いかもしれませんが、所詮は寡兵です。今は荊州軍から一万数千の兵と軍船数十隻を容れてかなり兵力を増しましたが、これは元々の劉備軍と比べると相当に練度が落ちると見て良いでしょう」
「いくら精鋭を含むと言ってもその程度の数。やはり今の私達には取るに足りない存在だわ」
蓮華が自信ありげに言う。
住民の多い荊州の半分を併せたことで、孫策軍の兵力はぐっと増した。十万を超える兵を有し、豪族達に召集を掛ければさらに数万を集めることも可能だった。
「劉備の有する戦力は、単純に旗下の兵力だけでは測り切れません。他に二つの力を潜在的に有しております」
「他に二つ?」
「一つは民に慕われ、二十万もの群衆を集める―――あの訳の分からない力かしら?」
雪蓮が言った。
「ああ、そうだ。そして集めた民を義勇兵に変える力。劉備の輿望と関羽、張飛、趙雲の武名、それに反曹の旗頭という立ち位置もあるのだろう。前回、反曹で我らと手を結んだ時にも、曹操支配下の徐州にもかかわらず、一度挙兵するや数万の人間を集めた。この集兵力とでも呼ぶべきものも、劉備軍の有する戦力としてはっきりと認識しておくべきだ」
黄巾の乱の首謀者張三姉妹にも似た力である。
黄巾賊に関しては鎮圧後も検証を進め、今ではおおよその経緯は掴めている。孫策軍も参加した広宗の戦いで討たれた姉妹が偽物で、本物は曹操軍に匿われているということも分かっていた。もっと早い時期に調べ上げていれば曹操糾弾にも使えただろうが、今となっては意味もない。訴え出ようにも漢朝は曹操の傀儡であるし、大義を掲げて連動できる諸侯もすでにないのだ。
曹操が姉妹を保護したのは、自身の兵力拡大に利用するためだろう。しかし青州黄巾賊と予州に割拠した黄巾賊残党を組み入れて以降は、目立った効果を発揮していなかった。冥琳が黄巾賊について調べさせたのも、兵の集め方で何か学ぶところがあるのではないかと考えたためだが、不調に終わった。
劉備の人集めの才は張三姉妹によく似て―――非なるものと言える。
端的に言えば、張三姉妹が集めるのは単なる群衆なのだ。その一部が偶さか兵の素質を備えていたという話に過ぎない。一方で劉備が集めるのはそれぞれに志を持った民である。それが例え女子供や老人であっても、武器を持って立ち上がる覚悟のある人間達であった。劉備が三万を集めれば、それはそのまま三万の義勇兵に成り得るのだ。
劉備の持つ特異な才能としか言いようのない力だ。黄巾の乱で陣を共にした時には、せいぜいが数百数千を集めるだけだったが、曹操との対立、対比によってその力はさらに強大化している。
「反曹というなら、私達や西涼の馬騰達だってそうだったじゃない。曹操の知遇を受けたこともある劉備ばかりがどうして」
蓮華が不満そうに言う。政を担う者として、民意と言うものには日毎頭を悩ませているのだろう。
「劉備はその出自、経歴、思想の全てでもって、曹操の対極をなす存在と民には思えるのでしょう。天子を籠絡する曹操に、漢室の血を継ぐ皇叔である劉備。一方で宦官の祖父を持ち、漢室の腐敗から生まれ出たような曹操と、筵売りから身を立てた劉備。民にすら克己を求める曹操に対して、臆面もなく民の笑顔のためなどと口にする劉備。曹操の厚遇を蹴って出奔したのも、民の目からはさぞや痛快に見えるのでしょう」
「まっ、私達は単に曹操と敵対しているというだけで、曹操の政が気に食わないから戦うってわけじゃないしね~」
軽い調子で雪蓮が言った。
「―――っ、分かりました。それで、残るもう一つの力と言うのは、冥琳?」
「そそっ、それが私にも分からない。一体何のこと?」
「それに関しては、先程一度お話しましたよ、蓮華様」
「……ああ、異民族を動かし荊州内を動揺させた力のことか?」
「半分正解です。これは異民族に限った話ではないのです。徐州で反曹の旗を掲げた時には、地元の名士麋竺が劉備軍の作戦と連動して私兵を動かしたことが分かっています。劉備の呼び掛けによって現れるという点では先ほどの集兵力にも似ていますが、こちらは劉備軍の意図に合わせて即座に作戦行動も取り得る集団、―――つまりは軍です。集めるというよりも、すでに隠し持っていると認識すべきです」
「なるほどね。それも単に劉備の人望によるものと私は思っていたけれど、各地に兵力を潜伏させていると冥琳は考えるわけだ。確かにそう考えた方が合点が行くわね。それで、どれくらいの兵力を隠し持つと想定しているの?」
「中華全土に五万。大きく外れた予想ではないはずだ」
「そんなにっ? つい最近まで、劉備軍本隊が五千でしかなかったというのに?」
蓮華が驚きの声を上げる。
「そもそも一声で数万を集める劉備が、五千しか有していなかったというのがおかしな話なのですよ。領土を持たぬ軍ゆえに増員が難しかったというのもあるのでしょうが、徐州や荊州でのことを思えば、ある時から諸葛亮と鳳統は意図的に各地に戦力を分散させていったと考えるべきです」
蓮華の驚きも無理はない。冥琳がこの考えに至ったのも、つい最近のことである。
船上で諸葛亮と鳳統と相見えた時、その場に異民族の者がいたことで初めて気付いた。いや、気付かされたというべきか。後に明命の手の者に調べさせた結果、異民族の長の一人沙摩柯が劉備軍に出入りしていることも分かった。今では冥琳は確信していた。劉備軍には掌握しつつも手元に置かずにいる隠れた兵力がある。
「徐州のような民の造反を、他の曹操領内でも起こし得るというのなら、これは相当な力ね。同盟関係を結べば私達にも呼応してくれるのなら、城攻めなんてだいぶ楽になるでしょうし」
雪蓮が言うと、蓮華と思春が神妙な顔で頷いた。
「加えるなら、この有益な兵力は、劉備軍が壊滅すると同時にこの世から消えるのです。益州や江陵のように譲り受け、あるいは奪い取ることが出来る戦力とは本質的に違います」
「劉備にしか扱えない、対曹操のための武器か」
蓮華が呟く。
「……さて、劉備軍の戦力を正しくご理解いただけたところで、改めて問います。雪蓮、蓮華様、それに思春。鼎の足は何本あるべきか?」
諸葛亮と鳳統にしてやられたという気持ちはある。二人になり代わって雪蓮達を説き伏せるなど、血反吐を吐きたくなるほどの屈辱だ。しかし都督としての判断と冥琳個人の感情は別だった。
その後、わずかな話し合いを経て、いくつかの条件を加えて江陵の受領は決定された。
「じゃあ、私はこれで退散するわねー」
「お待ちください、姉様」
腰を浮かせかけた雪蓮を、蓮華がすかさず制止する。
「今日こそ私と一緒に建業へ戻ってもらいます。いい加減、本拠に腰を落ち着けて下さい」
「あの城は、もう貴方にあげると言ってるじゃない。元々内政は、私じゃなく蓮華が見ていたようなものだし。私のことは、いないものと思って好きにしていいわよ」
「そんなわけにはっ! だいたい姉様は―――」
さらに言い募る蓮華に、雪蓮はうるさそうに眉をしかめる。
毒矢を受けて生死の境を彷徨ってから、雪蓮には政から一歩引いた発言が増えた。
元より自身は乱世の王であり、戦乱を鎮めた後は蓮華に跡目を譲るという考えが雪蓮にはあった。それを匂わせる言動を隠さなかったし、冥琳に対してははっきりそう口にしたことすらある。
雪蓮は今、二千の騎兵を鍛えに鍛えていた。領内各地を駆け回り、時には異民族や反抗的な豪族を相手に小競り合いなども演じていた。騎兵だが、ここ柴桑や夏口に現れては水軍の調練にも参加していく。船を使って長江以北の曹操領に出ることもあるようだ。馬も北方産の良馬を買い集めており、いまだかつて江南には存在しなかった騎馬隊となるだろう。
「蓮華様、しばらく雪蓮の好きにさせてやってくれませんか?」
「なっ―――、めっ、冥琳、貴方まで」
冥琳がこういう時の雪蓮の味方をするとは思わなかったのだろう。蓮華が驚きに目を丸くしている。その隣で雪蓮も似たような顔をしていて、今さらながらに二人が姉妹であることを再認識させられる。
「今の雪蓮を見ていると、思い出すのですよ。かつての孫堅様を」
「母様を?」
「私も雪蓮も、大軍を率いるようになり戦が小さくまとまりました。本来、私達が孫堅様に仕込まれた戦―――孫呉の戦は、もっとずっと激しいものでした。雪蓮は今、それを取り戻そうとしています」
「でもあんなことがあった後なのに。それにその母様だって―――」
そう、孫堅もまた暗殺の矢に倒れていた。
「味方である我らにすら居場所が掴み切れないのですよ。今の方がかえって安全と言うものです。それに今の雪蓮は、何と言うか―――」
「―――恐ろしく研ぎ澄まされております。こうしていても、思わず身構えそうになる程に」
「思春まで」
腹心中の腹心までが雪蓮の自儘に与する発言をし、蓮華が愕然とする。
雪蓮が刺客に襲われてから、半年が経過している。十日間眠り続け、意識が戻ってからも一月近くは満足に身体も動かせずにいた。今ではすっかり力を取り戻したようだが、幾らか肉が削げ落ち、張り詰めた印象がある。しかしそんな見た目以上に、気が研ぎ澄まされていた。
隠密行動に長けた明命に言わせると、一里先からでもその気配を感じられ、それでいて気付けば音もなく背後に忍び寄られているらしい。気配が強く濃密過ぎて、近付くほどに感覚を狂わされるのだという。
「うふふー。何よ、冥琳が味方してくれるなんて、珍しいじゃない」
雪蓮が上機嫌に笑った。
二千の騎馬隊は、明らかに長江を渡り曹操を追い詰めるためのものだ。曹操を討ち、蓮華に跡を譲る。雪蓮はいよいよそう思い定めたようだった。いや、心の内ではすでに君主の任を降ろしてしまっている。今は自分に出来る最後の務めを果たすため、一個の戦人に立ち返ろうとしている。
臣としては押し止めるべきなのかもしれない。しかし親友として、長く共にあった戦友として、冥琳は雪蓮に望む戦場を与えてやりたかった。
別れを惜しむ民に見送られて、船は江陵の船着き場を離れた。
孫策と周瑜ならば、民も悪い扱いはされないだろう。しかし、民の顔にも桃香の顔にも笑顔はない。
江陵を受け取りに現れたのは、周瑜その人だった。孫策軍の都督―――軍の最高司令官である。
それだけ、孫策軍が江陵を得る利点は大きい。
漢水を伝って曹操領に攻め込むことが可能な夏口は、長江における孫策軍最大の前線基地と言えるが、江陵はその上流に位置する。そして夏口を挟んで下流側には、周瑜の駐屯する柴桑があった。夏口と柴桑に江陵を合わせることで、長江の防衛線は一層強固に、そして攻撃的なものとなる。
対して劉備軍にとっては、立派な城郭を持つ一拠点という以上の意味を持たない。軍船を手にしたとはいえ、孫策軍の支配する長江を気侭に往来するわけにもいかず、水軍基地としての機能は限定されている。一方で陸路をもって曹操軍に侵攻するには、襄樊の堅城が待ち構えている。江陵に留まることは、むしろ頭を抑えられたようなものであった。
―――ここまでは、雛里ちゃんと決めた予定通り。
朱里は船首へと目を向けた。船は、益州を目指して長江を西へと進路を取っている。
雛里の残した最後の仕事だった。雛里は予てより益州の名士数名と諜報部隊を介して書簡のやり取りを交わしていた。曹操軍による荊州北部の奪取によって劉備軍が行き場を失うことは想像に難くなく、雛里は名士達に州牧劉焉から劉備軍への援軍要請を引き出すよう依頼していた。漢中の五斗米道との関係悪化により、劉焉は兵力を欲していたのだ。そして先日、遂に桃香に救援を求める劉焉からの書状が届けられた。
つまり益州攻めを考えた時、最大の障害となる天険を益州人自らの案内で通過することが出来るのだ。雛里の残した置き土産は大きい。
―――となると、最大の難所は。
天険でも戦場でもない。桃香を領土争いに誘わなければならないことだった。
漢室に連なる桃香の遠い血縁を救援に向かう。まだ桃香にはそのお題目通りのことしか説明出来ていない。
「……華琳さんの天下か」
朱里とは反対に船尾―――すでに視界の先で薄れゆく江陵を眺めながら、桃香が呟いた。
「桃香様、何か?」
「以前、華琳さんに言われたことを思い出したの。民の笑顔を求めるのは私の夢で、ここは私の天下じゃない、華琳さんの天下だって」
「天下。……この場合、国や領土と言い換えることも出来ますね」
「―――国」
「はい。曹操さんはたしかに今や中華の過半を領しておりますが、全てを手に入れたわけではありません。まして桃香様とお話しされたのは、中原四州を手にしたばかりの頃ですよね。河北には最大勢力の袁紹軍を残し、天下を手にしたなどとは到底言える状況ではありませんでした」
朱里はそこで言葉を切って一息入れた。いつもなら、気脈の通じた雛里が言葉を引き継いでくれるところだ。
「つまり自らの有する土地―――天下の一部を切り取って、天下と称しているに過ぎません。西涼には馬騰さん達の天下があったはずで、江南には孫策さんの天下があり、そして益州には劉焉さんの天下があります。」
「そっか。華琳さんのことだから、世界の全ては我が物って意味で言ってるのかと思った。そう考えると、頑固者の飯屋の親父さんがこの店は俺の天下、なんて口にするのとおんなじか。華琳さんの言う天下は、―――天下の一部に過ぎない」
「しかし、このままではそれが本当の天下と一致する日も遠くはありません。全てが曹操さんの色に染まることでしょう」
それでも桃香は曹操に抗い続けるだろう。
二人の間の勝負は、極言してしまえば戦で負けて曹操が天下の全てを手中に収めたからといって、桃香の負けとは限らないのだ。曹操が桃香の主張を容れて徳政でもって国を治めたなら、桃香自身に一寸の領土も一人の兵も残らずとも、それは桃香の勝ちなのだ。
「飯屋なら、気に入らないなら別の店に行けばいい。でも拡大し続ける華琳さんの天下から、逃げてきた人たちは―――」
だが、そうして桃香が抗い続ける間、民もまた耐え続けるだけなのか。
江陵を見つめる桃香の視線が強くなった。眉間に寄せたしわは、桃香の懊悩を表している。
「お作り下さい、桃香様が。曹操さんの天下では笑えない人々が、笑顔で暮らせる国を」
「そっか。やっぱりそれしかないのかな」
朱里が言うまでもなく、桃香の思考もそこ至ったようだった。眉間のしわは消え、表情は次第に晴れていく。
「……やっぱり皆が言う通りに、荊州を奪っちゃえばよかったのかな。そうすれば、少なくともしばらくの間は、あそこにあった笑顔を守ることは出来た」
やはり江陵を見つめながら言う。
「大丈夫です。必ず私達―――雛里ちゃんの分まで私が頑張って、桃香様に国をお取り頂きます。そうして出来た桃香様の天下に、あの人達も呼んであげれば良いんです」
「でも、いったいどこに? 華琳さんの国はいずれ本当の天下と一致してしまうんでしょう?」
「曹操さんの大軍をもってしても、容易くは攻め取れない地がいくつかあります」
「そこは?」
「まずは長江で阻まれた江南。つまりは孫策さんの国」
「孫策さんから土地を奪うということ?」
「いえ、それは現実的ではありません。曹操軍の侵攻をも阻み得る水軍、私達にそれを抜く術はありません。それに西涼軍が大打撃を受けた今や、孫策軍は曹操軍と対抗し得る唯一の勢力です。無駄に争い、互いに戦力を失うのは得策とは言えません」
「じゃあ、後はやっぱり―――」
桃香にも当然、予想が付いたようだった。視線を船尾から船首―――船の向かう先へと向けた。
「益州。天険に囲まれた肥沃の大地を手に入れましょうっ」
雛里の分まで、朱里は声を励ました。