「……仁?」
華琳が書き物を終えて筆を置くと、後ろから悪戯―――抱きついて耳に甘噛みしたり、睦言を囁いたり、首筋にキスを落としたり、髪の中に鼻をうずめたり―――していた曹仁が、いつの間にか大人しくなっていた。
背後を振り返ると、その動きに合わせてぐらりと曹仁の身体が斜めに傾く。
「……まったく、人の仕事を好き放題邪魔しておいて」
襄陽に入ったのは、つい三日前のことだ。
長安陥落後、一月余りを西涼の平定に費やし、洛陽に凱旋を果たした。論功行賞をすませ、弘農王を月や楊奉に委ねると、すぐに桂花や春蘭、秋蘭に任せきりだった荊州へ足を向けた。次の戦を見据え、主力を率いている。
一昨日は、春蘭と秋蘭を伴って元荊州軍の水軍の調練を視察した。
荊州水軍の半数以上は、桃香に従う道を選んだ。襄陽に残されたのは大型船が五隻と中型船が十数艘、あとは艀や蒙衝といった小型船だけである。
数こそ少ないが、孫策軍との実戦を経ているだけあって鄴の玄武池―――曹操軍の水軍調練場―――に浮かぶ船と比べると、動きは目に見えて良かった。指揮を任せた元荊州軍の文聘は、それでも孫策軍の周瑜が指揮する水軍にはかなり劣ると自ら評した。
その日の夜は久しぶりに春蘭と秋蘭を二人並べて可愛がった。
昨日は、桂花と連れ立って司馬徽の私塾を尋ねた。二人でという約束だったが、道案内も兼ねて雛里を伴ったため、桂花は終始機嫌が悪かった。夜に閨で可愛がってやるとそれはすぐに治った。
三日目の今日は、朝から書類仕事に専念した。桂花が華琳のためにまとめ上げた書類はさすがに良く出来ていて、一日で荊州北部のおおよそを把握し、施策の大半を裁定することが出来た。
曹仁が部屋を訪ねてきたのは、そんな書類仕事の最中であった。襄陽に着いて二日間は姉達と桂花に遠慮したのだから、今日は自分の番ということらしい。
夕刻に訪ねてきた曹仁は、まだ執務中の華琳と椅子の間に潜り込んだ。それはまあ、いつものことではある。執務室の椅子にわざわざ大きめ―――華琳一人で使うには肘掛けや背もたれが深過ぎて使い難いくらいに―――のものを用意させたのは、我ながら少々色呆けが過ぎた話だが。
そんないつもの体勢をひとしきり堪能した後、曹仁は寝入ってしまったようだ。普段なら飽きることなく曹仁はちょっかいを出し続ける。お互いすっかり慣れたもので、曹仁は仕事の邪魔にならない度合を心得ているし、華琳は華琳で筆が乗っている時には気にならないし、集中が途切れた時にはそれがないと却って落ち着かないほどだった。こうして仕事の終了を待たずに寝てしまうのは珍しい。
「私に飽きた。まさかね」
一瞬過ぎった馬鹿げた考えを、華琳は首を振って打ち消した。
好きだ好きだと囁く声が、まだ耳に残っている。当人曰くほとんど無意識下での呟きらしく、指摘すると曹仁はいつも顔を真っ赤に染める。あまりからかって意図的に口を閉ざされてもつまらないので、最近ではあまりその事には触れないようにしていた。
「とすると、単に疲れが出たか」
華琳はくるりと体の向きを入れ替えた。曹仁はかなり深い眠りに落ちているようで、膝の上で華琳がこれだけ身動ぎしても目を覚ます気配はない。
馬超との戦で病的なまでにやせ細った曹仁の身体は、もう元の体格を取り戻している。ただ、少し肌艶が悪い気がした。ごく短期間での大幅な体重減少と回復は、体に良いはずはない。
「とはいえそれは、将軍である以上は仕方がないこと。主君の眼前で眠りこけて良い理由にはならないわね。…………少し、お仕置きが必要かしら?」
室内には、二人の他に誰の姿もない。虎士も、多少声を上げたくらいでは聞こえない距離まで下がらせている。
されど華琳は誰にともなく言い訳染みた言葉を呟いてから、力無く傾いた曹仁の身体を肩を掴んで真っ直ぐに正した。
「ふむ。ちょうど良い高さね」
ちょうど目と目が同じ高さに合った。
曹仁も男性としては小柄な方だが、華琳はさらに小さい。座高には差があるが、ぶ厚く鍛えこまれた曹仁の太腿の上に座ると、二人の顔の高さはほぼ同じ位置にくる。
そろそろ季衣や流流にも抜かれそうな身長は、華琳の悩みの一つであったりする。とはいえこうしてぴったりとはまるところを見るに、これも天の配剤と言うものか。
「さて、まずは……」
先刻までのお返しに、曹仁の耳を口に含んだ。曹仁は微かにくぐもった喘ぎを上げたが、目を覚ます気配はない。
「反対側も」
右耳に次いで、左の耳にも吸い付いた。
「……反応が無いと案外つまらないものね」
口に含んだ瞬間だけわずかに曹仁の味と匂いを感じたが、すぐに味気ないただの構造物となる。耳から顔を離すと、華琳は次の獲物を見定める。
「……これは、ちょっと新鮮な感覚」
半開きになった唇に狙いも定めるも、今さらながらに華琳は躊躇した。
閨では主導権を握ることが多い華琳であるが、キスに関しては曹仁がちょっと偏執的なくらいに固執するため、受け身に回ることが多い。加えていつもは目を閉じていたり、そうでなくてもかなり気持ちが高ぶった状態で交わす。こうしてある程度落ち着いた心持ちで、曹仁の顔をじっくりと見やりながら自分から口付けをするというのは珍しい―――ひょっとしたら初めてのことかもしれない。
「んー。……いや、どうせならもう少し」
意を決して顔を寄せるも、唇と唇が触れ合う寸前で思い直し顎を引いた。
眠りこける曹仁の顎をぐいと持ち上げて、締まりのない口元を矯正する。
「―――よし、これで良い男。……そ、そこそこねっ」
聞き咎める者もない言葉を華琳は慌てて打ち消すと、再び顔を寄せた。
「……んっ、ちゅ、――――――んんぅっ!! かっ、けほ、けほっ!」
口内に、雷が落ちたような衝撃が走った。
「―――っ!? な、なんだっ!」
膝の上で背中を丸めてむせこむ華琳に、曹仁が目を覚ます。
「華琳? いったいどうした? だっ、大丈夫か?」
敵襲とでも勘違いしたのか、曹仁は華琳の上に覆い被さるようにしてその身を楯とする。
「―――らっ、らいじょうぶっ! 何でもないわっ、騒がないで」
人を呼ばれては面倒なことになる。華琳はひきつけを起こしたような舌を無理に動かし、曹仁を制止する。
「しかし、とても何でもないようには。季衣達と、それに侍医を呼んで来るな」
「ひいからっ、大人しくしてなさいっ!」
華琳は曹仁を振り払い膝から降りると、執務机の上の茶碗に手を伸ばした。飲みさしの茶は、都合の良いことにすっかりと冷め切っている。
茶を飲み干し、茶請けに添えられていた甘味を口に含むと、ようやく人心地ついた。曹仁は唖然とした様子で見守っている。
「……ふぅ。あなた、く、口に何か入れてない?」
「口に? ……いや、特に何も」
「辛い」
「―――ああ、昼食に食ったあれか。歯は磨いてきたんだが、強烈だったからなぁ」
「あれ?」
「凪さんの麻婆豆腐」
「へえ、凪の手料理を。二人きりで?」
「いや、えっと、ち、違うぞ? お前の考えているようなことは何もないぞ? ほら、西涼では益州の物産が色々と出回っていただろう? それで、珍しい唐辛子を買ってきたっていうからさ。鍛錬に付き合ってもらったついでに、何となく流れでそうなっただけで」
「ふ~ん、何となくで、女の子に手料理を振舞われるんだ? ずいぶんとおもてになるようで」
「―――ああっ、そういえば良い物があったんだ」
曹仁がわざとらしく手を打って大きな声を上げた。
「……飴?」
曹仁は懐から小さな紙袋を取り出し、中身を手の平の上に開けた。飴玉が一つ、ころんと出てくる。
「襄陽城内に二十軒以上ある飴を売っている店の中で、風の一番のお勧めという店で買ってきた。蘭々や季衣達に出くわして、半ば強引に分け前を持っていかれたから、残り一個しかないが」
風は棒付きの飴をいつも手放さない重度の飴中毒である。しかしわずか三日で二十軒以上も舐め比べたというのは、さすがにその身体が心配になる。
「凪に手料理を振る舞ってもらって、風にはお勧めの甘味を教わったの。ずいぶんと手の早いこと。―――って、私にくれるのではなく、自分で舐めるわけ?」
曹仁が最後の一つだという飴玉を口に含んだ。
「大元を断たないとだろう。このままじゃ、キスも出来ない」
「キスを諦めるという選択はないわけ? まあ、良いけれど」
肩を竦め、華琳は曹仁の膝の上に座り直した。ころころと飴を転がす音が背後から聞こえてくる。
「……あれ、そういえば、なんで俺の口が辛いって気付いたんだ?」
しばしの沈黙の後、曹仁が思い出したように言った。
「うるさい。―――んっ」
華琳はさっと振り向くと、油断していた曹仁の口から飴を舐め取った。まだ若干“辛口” の曹仁に眉をしかめるも、風のお奨めだけあって飴の味は悪くなかった。
翌日、江陵より退去した劉備軍の情報が諜報部隊よりもたらされた。華琳はすぐに諸将を軍議の間へ呼び集めた。
諜報部隊の長、幸蘭の口から語られた情報に全員が息を呑む。
桃香は益州の州都成都を陥落させ、劉焉より州牧の地位を譲り受けていた。益州入りからわずか一月でのことだった。
「貴方がいたらさらに素早く成都を落せたのかしら、雛里?」
幕僚扱いで軍議に参加させている雛里に水を向けた。
「まさかっ。私なら、軍略に則って一城ずつ攻略していきます」
雛里がぶんぶんと首を振って否定した。雛里もまた、目を見開き驚愕の表情を浮かべていた。
益州侵攻自体は当然知っていたはず―――というよりも計画を立案した当人であろう―――だから、一月で州都を陥落させたその行軍に驚いているのだろう。
「そうね。劉焉から人心が離れていたとはいえ、諸葛亮もよくもこんな思い切った賭けに出たものだわ」
劉備軍は、益州に入るや一路成都へ向けて進軍した。途上の拠点は全て放置で、帰順を求める書状だけを州内の郡太守や県令、豪族に名士達、果ては郷里の長老や侠客の類にまでばら撒いたという。
市井にある者の多くは、歓呼でもって桃香を迎えた。天険に隔離された益州でも、劉玄徳の名は当世最大の英雄として民に広まっていた。名士や豪族も、大半が桃香を支持した。
劉焉に任命された地方官達はさすがに表だって桃香を受け入れはしなかったが、県令など民に比較的近い位置にいる者は暴動を恐れて静観を決め込み、太守達はその県令の背叛を警戒して城を固めた。
結果、劉備軍を押し止める軍勢はほとんど存在しなかった。唯一、張任という劉焉の従事が、地方官達を説いて回って数万の兵をかき集めたが、劉備軍に一蹴されている。その後も張任は精力的に動き回り何度か軍を再起させるが、その都度成都城外に布陣した劉備軍に打ち払われた。
目の前で劉備軍の精強さを見せつけられ、また張任をおいて他に援軍が立つ様子もない。さらには桃香を一目見ようと民が城外に詰め寄せ、劉焉の近臣の中にまで城を抜け劉備軍に投降する者が出た。そんな状況に絶望し、劉焉は自ら城門を開いた。城内には劉備軍を上回る三万の兵力を残していたという。
「益州の名士達と誼を通じ、桃香の英雄譚を民に広めたのは貴方ね、雛里?」
「……はい」
華琳が問い質すと、雛里がわずかな逡巡の後に頷いた。もはや秘匿する必要もない情報と判断したのだろう。
「なるほど、諸葛亮は貴方の残した置き土産に賭けたということね。いや、野戦には絶対の自信があったでしょうし、賭けという認識すらなかったかもしれない」
五斗米道との小競り合い程度しか実戦を知らない益州の将兵と劉備軍では大人と子供―――いや、大人と赤子ほどの差がある。どれだけ数を集めたところで劉備軍に翻弄されるだけだろう。
「これで桃香も一国の主かぁ」
「そうね。―――そういうことになるのね」
何気ない曹仁の呟きを、華琳もまた何気なく受け、衝撃をもって反芻した。
自分に向けて臆面もなく徳政を説いた根無し草の桃香が、領土を手にした。果たして、如何なる政をするつもりなのか。興味は尽きなかった。
良く知る相手だけに意見、というよりも愚痴の言い合いが始まった。桂花などは許にいる間にやはり殺しておくべきだったと息巻いているし、春蘭と霞は関張への雪辱を叫んでいる。白蓮を筆頭に、劉備軍と行動を共にしたことがある蘭々や、趙雲とは古馴染みの稟と風などは感慨深げだ。雛里は居心地悪そうに小さくなっていた。
「……春華、何かあるの?」
口元を隠し肩を揺らしている春華が目に留まった。
「いえ、皆さん随分劉備軍の方々がお好きなのだな、と思いまして。特に荀彧様が、まさか劉備様に対してそんなにお熱い思いをお持ちだとは」
「ちょっ、アンタ、何言ってるのよっ!」
「ふふふ」
桂花の怒声を、春華は笑って受け流した。
その後は、具体的な劉備軍に対する方策が論じられた。議論も煮詰まったところで、華琳は断を下した。
「秋蘭、長安へ入ってくれるかしら?」
「はっ」
「副将には張燕」
「はっ」
歩兵の行軍指揮では曹操軍随一の秋蘭と、同じく行軍に優れ、山地での戦に慣れた張燕。この二人なら、天険に囲まれた益州に対して攻めの構えも見せることが出来る。
「さてと、―――龐徳」
末座にひっそりと佇む龐徳に目を向けた。
楊秋や侯選、それに閻行は一応の地位を与えて洛陽に留めてきた。しかし龐徳だけは、虜囚のまま軍に伴った。何故自分がこの場に呼ばれたのか分からない、という顔をしている。
華琳は幸蘭に視線で促す。
「益州からの報告で、馬超の居場所も分かりました。漢中の五斗米道に身を寄せているようです」
「―――っ、そうですか。……私にはもう係わりの無いことですが、お気遣いに感謝致します」
深々と頭を下げたため、龐徳の表情は読み取れない。
この男の根底にあるものは、馬騰への揺るぎない忠誠である。曹操軍への降伏も、馬超と馬岱の助命を計るためだろう。
「心の内で誰を主君と仰ごうが構わないけれど、我が軍に留まるというのなら、将器を発揮してもらうわよ」
「はっ」
今度は真っ直ぐこちらを見返し、拱手して受けた。馬超の居所を知れば合流を試みるのではないかと思っていたが、嘘はなさそうだった。
「ならば存分に働いてもらいましょう」
能力があり、それを曹操軍のために用いるなら、華琳は部下に自分への絶対的な忠誠心を求めるつもりはない。詠や徐晃なども、心の内では今も月の配下だろう。
華琳は桂花に図り、適当な雑号将軍位(員数外の雑多な将軍号)を龐徳に与えた。
「お姉様、あれって」
「おう、さっそくぶつかったか」
地平の先から、薄汚れた張旗が現れた。翠が掲げるは、言うまでもなく錦の馬旗だ。
両軍が対峙したのは、巴郡の北辺である。
益州の地は大きく分けて蜀、巴、漢中、南中の四つに分けられる。巴と蜀は人口も多く土地も豊かな中心地であり、五斗米道の支配する漢中は益州と中原を結ぶ玄関口、南中は南蛮族の蟠踞する未開の地である。
劉焉より巴蜀を奪い取った劉備軍から、数日前に五斗米道に同盟の申し入れがあった。
張魯は乗り気であったが、どうせまた良いように利用されるだけと張衛が反対した。
かつて劉焉は群雄の中でもいち早く独立勢力を益州に築いた。曹操や袁紹、孫策が曲がりなりにも朝廷の命で黄巾賊討伐に当たっている頃から、すでに漢室の制御を離れている。そんななかで、益州の玄関口と言う漢中の性質上、五斗米道は独立の口実として、また楯として利用され続けてきたのだ。劉焉が劉備に、漢室が曹操に代わるだけだというのが、張衛の主張だった。
駐屯地より呼び出されて意見を求められた翠は、張衛を支持した。客将とはいえ三千騎を抱え、五斗米道の将兵に不足する実戦経験が豊富な翠は、軍議の場でそれなりの発言権を得ている。
劉備と言えば反曹の旗頭とも言える存在だ。共闘出来るなら、翠にとっては都合の良い話ではある。しかし劉備と曹操の諍いには、どこかおままごとのような気楽さがある。自分の復讐と相容れるものではない。何より劉焉から益州を奪い取った今の劉備の姿は、曹操と重なって見えた。
翠はまだ議論が続く漢中を後にし、駐屯地へ帰還した。巴山を下った先、巴郡の北辺である。山中に留まっていては、騎兵は調練も満足に出来ない。また、濃密な戦の気配を漂わせる三千騎は、漢中の民には刺激が強過ぎるようでもあったのだ。
五斗米道の客将である馬超の巴郡北辺での駐屯は巴蜀への侵攻とも言えるが、元々巴山の周辺は劉焉の支配が及ばず、半ば五斗米道の勢力下にあったという。
漢中は北は秦嶺山脈で関中と隔てられ、南は巴山で巴―――巴郡、巴西郡、巴東郡―――と隔てられた地である。玄関口でありながら、双方を天険で拒絶する堅固な要害でもあるのだった。五斗米道はこの地の利を生かすことでこれまで劉焉の攻撃を跳ね返し続けてきた。益州の将兵にとって巴山は五斗米道の兵と怪しげな妖術で支配された魔境か何かで、周辺の村落は緩衝地帯として放置されてきたのだった。劉焉の悪政を嫌う者はまず巴郡の北辺に逃れ来て、五斗米道の教えに触れる。教えに染まったものは、信徒として漢中へと移民してくる。当然宗教には馴染めぬ者もいるが、それでも皆、村落に留まる。緩衝地帯ゆえに徴税もないのだから当然だ。
五斗米道と劉焉が敵対に至った原因の一つがここにある。翠はその係争の地に駐屯し、時には巴の全域を駆け回るような調練もやって見せた。調練とはいえ、武具は実戦用のものを携えている。
劉焉支配下の巴蜀では、それを遮る者もいなかった。劉備の統治で、それがどう変わるのか。駐屯地に帰還するや、試すようなつもりで三千騎を率いて巴郡を駆け回った。
城邑の対応に目立った変化はなかった。守りを固め、馬超軍が去るのを待つだけだ。少々拍子抜けではあるが、統治者が代わったからといってわずか数日のうちに守兵の質が向上するはずもない。
ただ、どこからか見られているという感覚があった。斥候を放つと、同じく斥候と思しき徒歩の小隊を視認したと報告がきた。一応の警戒網は張っているらしい。
三千騎を先に駐屯地に帰し、旗本の二百騎だけで疾駆した。こちらをうかがう視線はそれで一時途切れたが、脚を緩めるとすぐに纏わり付くものを感じた。速さだけで振り切れる類のものではないらしい。
劉焉とは違う劉備軍の備えの一角を見ることは出来た。今日のところはそれで満足して駐屯地に戻ろうと、馬首を返し掛けた時である。行く手に、こちらへ向け駆けて来る張旗が現れた。
反董卓連合で戦陣を共にして以来であるから、すでに四年近くが経とうとしている。あの日見た張旗と、同じものであろうか。長年の流浪ですっかりと薄汚れている。
半里(250メートル)ほどを隔てて、両軍は足を止めた。
五百騎ほどが張旗の元で小さく固まっている。足を止めたその形が、槍の穂先を思わせる必殺の陣形を取っていた。
これほどの騎馬隊は西涼にもそうはいない。自分の旗下くらいのものだろう。
「出てきたよ、お姉様」
「へえ、悪くない馬に乗っているじゃないか」
張飛が一騎進み出た。足元だけが白い、艶やかな黒毛の馬に跨っている。
直接話したことはないが、反董卓連合の時に何度か顔は合わせている。あの時よりは、幾分背丈が伸びたか。流浪の軍として数々の戦場を戦い、武人としては自分―――錦馬超にも劣らぬ驍名を誇るが、蒲公英よりも年下の育ち盛りだ。
「馬超はいるかー?」
張飛が言った。特に張っている様子もないが、良く響く声だった。
「ここだ」
翠も前へ出た。
「何か用か?」
「お姉ちゃんが会いたがっていたから、少し待ってて欲しいのだ。今、呼びにやってるのだ」
「お姉ちゃん? ああ、劉備のことか。なんだ、領内を駆け回っていることを、咎めに来たんじゃないのか?」
「そういえばそれもあったのだ。鈴々は今、巴郡の太守だったのだ! 勝手に軍を入れられたら困るのだ」
ずっと根無し草で彷徨ってきた劉備軍らしく、領内を侵犯されたという意識は本当になかったようだ。
「あたしの行く道はあたしが決めるし、誰にもそれを遮らせはしない」
「むっ、もしかして、お姉ちゃんを待たずに帰るつもりなのか?」
分かり難い言い方だが、意図は伝わったようだ。言葉ではなく、張飛は気配で察したのだろう。
「ああ、こっちは劉備の顔なんて特に見たくもないんでね」
劉備の用件など、同じ反曹を志す者として翠を味方に引き込む以外にないだろう。荊州でもそれで随分と将兵を引き抜いたと聞いている。節操のない人材蒐集振りも、曹操を思わせた。
「―――っ、確かに会わせない方が良さそうなのだっ!」
脳裏に曹操の顔が浮かぶと、知らず殺気が溢れ出た。張飛はそれを鋭敏に感じ取り、肩に預けていた丈八蛇矛を下した。翠も穂先を伏せていた銀閃を持ち上げる。
「ちょっ、ちょっとお姉様っ! 良いのっ?」
背後で蒲公英が声を上げる。
「なんだ、あたしが負けると思うのか、蒲公英?」
「そうじゃなくって、劉備軍と五斗米道は手を結ぶかもしれないんでしょ。張飛も、同盟を申し入れてきたのはそっちからって聞いてるけどっ」
「―――っ、所詮、あたしらはよそ者の客将さ」
「こんな危ない奴がいたら、同盟なんて出来ないのだっ」
痛いところを突かれたが、こちらから退くつもりはなかった。張飛も気持ちは同じようだ。
「お前らは手を出すなよ。―――張飛っ、一騎打ちだ。どちらが勝っても、あたしとお前だけの問題。それで良いな」
「わかったのだっ」
張飛が蛇矛を構える。その瞬間、小柄な体が一回りも二回りも大きく見えた。ぶるるっと身を震わせる紫燕を、脾肉を締めて落ち着かせる。
「お姉ちゃんには、絶対に近付かせないのだっ!」
「だから、会う気はないと言っているだろうがっ」
張飛が丈八蛇矛を横薙ぎにした。文字通り一丈八尺の長さを誇る大長物である。対峙した位置が、すでにして張飛の間合いの内だった。
「うおっ」
翠は紫燕と共に身を伏せて蛇矛をかいくぐった。すぐに次の一撃が飛んでくる。今度は大きく跳び退って間合いを外して避けた。
―――これが燕人張飛か。
まるでただの槍でも扱うように、張飛は軽々と丈八蛇矛を旋回させている。必然、切っ先の速度は恐ろしく速い。遠く感じた次の瞬間には、眼前まで迫っている。
「紫燕、いけるな?」
首筋を軽く叩いてやると、紫燕は自らを鼓舞するように鼻を鳴らした。
紫燕は愛馬三頭の中では一番穏やかで用心深い性格をしているが、決して臆病ではない。
張飛の―――丈八蛇矛の間合いへと飛び込む。すぐさま攻撃が飛んでくる。最も勢いの乗った初撃を、紫燕が身を竦めてやり過ごした。次いで二撃目。前へ出て、勢いの乗る前に受けた。それでも十分な威力。紫燕が膝を緩めて、衝撃を殺してくれる。
「いけっ!」
紫燕の緩めた膝が一気に張り詰めるのを、翠は鞍越しに感じた。瞬時に間合いが詰まる。槍―――銀閃が届く。
張飛は馬上で身を倒して銀閃の矛先から逃れた。翠はくるりと手首を返す。切っ先を避けても、十文字の鎌から逃れることは出来ない。
「―――くっ!」
鎌が張飛の肩に触れる直前、翠は身を仰け反らせた。蛇矛の石突が、顎を跳ね上げに来ていた。張飛が身を倒したのは、避けるためではなく蛇矛の急制動のためか。
銀閃の鎌も蛇矛の石突も、二人の身体を捉えることなく馳せ違った。
即座に取って返して間合いを詰める。馬術ならこちらが上だ。張飛はようやく馬首を返したところである。
紫燕の力を乗せた、これ以上ないという一撃。張飛は当たり前のように蛇矛で跳ね除けた。打ち合いはしない。そのまま横をすり抜けた。
背筋に悪寒が走り、馬上で身を伏せた。頭上を風を巻いて何かが過ぎる。蛇矛の間合いは、こちらの想定を超えて長大だった。
再びすぐに間合いを詰めようとした紫燕を、脾肉で制止する。掠りもしない蛇矛に、わずかに頭がふらついていた。
「…………」
張飛を中心に、円を描いてゆっくりと駆けた。半径一丈八尺の円だ。
張飛の馬は、背後を取られることだけ避け、紫燕が一巡りする間に一度か二度馬首を返すだけだ。蛇矛を打ち振るう張飛の強固な土台に徹している。
打ち掛かる隙は幾度も窺えた。馬首を返す直前の首筋。直後の左肩。正面に対した瞬間の正中。いずれも巨大な顎の奥深くに垣間見える好餌だった。手を伸ばせず、周回し続ける。
視界の端で蒼い顔をしている蒲公英が見えた。四海を覆い尽くすような張飛の武威に当てられたのだろう。強烈な圧を、翠は動くことでわずかに逸らしている。待ち受ける張飛は翠の武威を真面に受け、しかし揺るぎなかった。
受けの構えの張飛に、機を窺うこちらがむしろ威圧されていた。つまりは劣勢だが、気にしなかった。曹仁との戦では、終始わずかに優位に立ちながらも最後に敗れた。戦機が満ちた瞬間、無心に最上の一撃を放つだけだ。
張飛の額にぽつぽつと玉のような汗が浮き出し始める。翠の額に巻いた鉢巻は濡れそぼり、すでに顎先まで汗が滴っている。
戦機が高まっていく。
「―――っ!」
前へ踏み出す代わりに、紫燕は大きく一歩跳び退いた。
「なんだ? ……退き鐘?」
原野にけたたましく鐘の音が鳴り響いている。騒音の元は数十騎の集団で、こちらに駆け寄って来ていた。
「お姉ちゃん、気を付けるのだっ!」
息をふりしぼる様にして、苦しげに張飛が叫んだ。翠も激しく肩を上下しさせながら、一団に視線を向ける。
―――劉玄徳。
集団は途中で止まり、そのうちの三騎だけが抜け出てきた。劉備の他の二人は、関羽と趙雲だ。
「お久しぶりです、馬超さん」
張飛の叫びが聞こえなかったのか、劉備は警戒心もなく近付いて来て言った。関羽と趙雲がその分鋭い視線を向けてくる。
「あんたに降るつもりはないぞ」
「へっ?」
劉備が間の抜けた声を上げる。演技ではなく、本気で何を言われたのか理解が及ばないようだ。
「……あたしを反曹の仲間に誘いに来たんだろう?」
「ああ、そういうこと。違いますよ。今日は、お見舞いに来たの」
「おみまい?」
「お母様のこと、聞きました」
「―――っ」
そこに踏み込んで来るか。翠は完全に虚を突かれていた。立ち会いならば肩口からばっさりと斬り下されたようなものだ。
「な、なんだよ、急に。この乱世で人死なんて珍しくもないだろ」
「前に私の大切な人が母親みたいな人を亡くした時も、大変だったから。殺した相手への憎悪だけでいっぱいになって、壊れてしまいそうなくらいに」
「何が言いたいんだよ」
「ううん、特に何も。私が勝手に馬超さんの様子が気になって、勝手に会いに来ただけだよ」
翠を仲間に引き込むためのご機嫌取りと言う感じはしなかった。それが目的なら、母の死という繊細な問題に踏み込んでは来ないだろう。
「……なんと言うか、変わらないんだな、劉備は」
「へ? そうですか? このところ忙しかったから、ちょっとやせたんじゃないかと思うんだけど」
曹操を重ね見ていたのが馬鹿らしくなる能天気な顔だった。
自分は随分と荒んだという気がする。曹操との戦に敗れ、母を失い、兄の様であった龐徳と決別した。変って当然とも言えるが、しかし劉備の数年も激動という点では劣らない。
負けて流れてきたのは同じだが、翠と違って劉備は何も失ってはいないように見えた。それどころか負ける度に大きくなっている。この差は、何なのか。
「……もう話はすんだな。あたしはこれで帰らせてもらう」
「うん、それじゃあ」
本当にそれだけを言って、劉備は翠達を送り出した。巴蜀への侵攻を咎める言葉も、仲間へ誘う言葉も一切なかった。
「しっかし、張飛は強かったねー。関羽と趙雲もいるし、お姉様、あんまり劉備軍を刺激しちゃだめだよ」
「ああ、すごい奴もいるもんだな」
帰る道すがら、蒲公英の言葉に翠は上の空で答えた。
「……お姉様、それって張飛のことを言ってるの? それとも、劉備のこと?」
蒲公英の問いに対する答えは、すぐには見つからなかった。