曹仁は樊城の船着き場に降り立った。振り返ると、対岸に襄陽の城郭が遠望できる。
「それでは、一月後にお迎えに上がりますね」
白鵠、それに陳矯とその乗馬が続いて船着き場に降りると、流流が言った。
「ありがとう。よろしく頼む」
流流の操船で、船影は見る間に小さくなっていく。氣を原動力とするスクリューを搭載した小型の快速船である。この世界の船の常識を超えた速度を出すが、操れるのはほんの数名だけだ。
曹仁は流流の操船の練習も兼ねた送迎で、襄陽から対岸の樊城へ渡江した。二つの城邑を隔てる漢水の川幅は二里半(1250メートル)程もあり、快速船でこの距離を一人で往復出来る者となると、今のところ凪に季衣、流流のたった三名のみである。
「行くぞ」
「はいっ」
白鵠に飛び乗ると、陳矯も遅れず続いた。樊城の城内は素通りし、一路北上して宛城を目指す。支城建設の指揮を取るためだ。
西涼遠征を終え、荊州の行政改革に着手し始めた華琳によって、曹仁は荊州都督の地位を与えられていた。
かつての荊州の主、劉表は州牧―――行政と兵権の長―――の地位にあった。そのうち行政の長を刺史に、兵権の長を都督に分割するという。刺史は現在のところ空席で、その職掌自体は荀彧が引き受け、いずれは適当な文官をあてがうらしい。
都督には初め、春蘭が就くはずだった。荀彧と共に華琳遠征中の荊州を守っていたのだから当然の人選だ。しかし都督になると州内を検分して回らなくてはならないと聞くと、固辞した。せっかく再会した華琳の側を離れたくないという私心丸出しの理由からだ。本来なら素気無く却下するところだろうが、そこで華琳は再考したようだった。秋蘭―――長安に駐屯中―――の補佐無しの春蘭に、検分などさせて意味があるのかと。
そうして白羽の矢が立ったのが曹仁だった。曹仁とて華琳の側を離れるのは気が進まないが、衆目の面前で叫んでみせるほど面の皮は厚くない。自分で指名しておきながら、華琳はそれに少々不満気だった。
それから一月半ほどを掛けて、曹仁は荊州北部の各城を見て回った。その結果着目したのが、従前通りの襄陽と樊城に加え、宛城であった。
襄陽と樊城は、言うまでもなく孫策軍の水軍に対抗するための最重要拠点である。幸いにも生前の黄祖によって防衛設備と構想は練られていた。黄祖と言うのはよほど慎重な男であったらしく、ほとんど手を加える必要はなかった。あとは劉備軍に従った分の船を補充するだけで良く、それは真桜率いる工兵隊の急務となっている。
宛は南陽郡の中心からやや北寄り、樊城からは七百里ほど北に位置する城邑である。洛陽と許、そして襄樊の三点を結んで出来る三角形の、おおよそ中点と重なる。曹仁はこの地を孫策軍に対する最終防衛拠点と見定めた。
水軍の戦で仮に押されても、襄樊二城で食い止めるというのがこれまでの方針であった。しかし曹仁は孫策の陸戦での強さと奔放な性情を見知っている。襄樊を無視し漢水中流域で下船、一気に許や洛陽を突く。それくらいの無茶はしそうなのが孫策だ。事実、長江北岸や漢水流域に上陸する孫策軍騎兵の姿が、最近しばしば報告されていた。
実際に孫策と対峙したことがある華琳は、曹仁の提案を受け入れた。華琳は孫策から勝利を収めたとはいえ、その将兵にはほとんど犠牲を与えていない。思い切りの良い撤退振りは、思い切りの良い攻めをも連想させる。
そうして決定されたのが、宛城を支える砦の建設である。曹仁と陳矯は樊城から宛までの七百里の距離を、四日で駆け抜けた。
陳矯は途中立ち寄った城邑で三度馬を変えているが、それでも白鵠によく付いて来た。すでに馬術だけなら白騎兵と遜色ない。これで武術の腕が立てば、馬超との戦で欠員の出た白騎兵に加わることも可能だったろう。使い勝手の良い従者で曹仁としては手放し難いが、本人の希望は今も白騎兵入りである。
「ようこそ御出でくださいました」
宛城の城門前の広場には、吏人達が挨拶に居並んでいた。事前に訪問の報せは届いているはずだが、従者一人きりというのはさすがに予想外であったらしく、忙しなく集まって来たという感じだ。
郡府が置かれているから、上は宛の県令だけでなく南陽郡の太守までいる。下は亭長のような下級役人まで顔を揃えているし、民も遠巻きにこちらを覗いていた。
噂の天の御使いの顔を一目見てやろうという、物見高い視線を感じる。以前は不快と突っ撥ねてきたものだが、今は自ら天人旗を掲げている。
「―――ここから西へ十里程のところに砦を築きたい! 手を貸してくれ!」
ちょうど良いので、民に向かって呼び掛けた。
「そ、それは賦役ということでしょうかっ!? 曹操軍は、労役の類は課さないと聞いておりますがっ」
県令が慌てた様子で曹仁の元へ駆け寄って問う。
劉表、あるいはそれ以前に漢朝から任命された県令のようだった。漢朝の県令と言うと、上は宦官、下は地元の豪族と結び付いて私腹を肥やす者ばかりで、政の腐敗を象徴する存在であった。しかし荀彧が首を飛ばさなかったところを見ると、この県令は真っ当な官吏なのだろう。実際、曹仁に食って掛かった県令を、民は気遣わしげに見つめている。
「もちろん働いてもらった分は給金を出す!」
民にも聞こえるように、はっきりと大きな声で答えた。県令がほっと安堵の吐息を漏らす。
給金を出して民を雇うというのは、荀彧の案である。真桜の工兵隊は造船に回っているが、それでも兵を動員した方が手間も費用も掛からない。常日頃は軍費を切り詰めたがる荀彧には珍しい事だ。激烈な反曹思想の持ち主は桃香に従い去ったが、それでも荊州には華琳の治政に不安を抱く人間が多い。いきなり兵がやって来て自分達の住居の隣に砦など建て始めては無用の恐怖を募らせるであろうし、曹操軍の政を形をもって示す良い機会になるということだった。
「砦と言ってもそれほど堅固なものを作る必要はない。小山があるだろう? あれを利用したいのだが、三老の方はいらっしゃるか?」
三老は郷里の長老に与えられる役職である。下級の地方官には大抵その土地の有力者が任命されるもので、彼らが集まってくれているのは好都合だった。
三老から山に手を入れる許可を得ると、そのまま細かな打ち合わせに移った。県令や三老、亭長らの紹介で、工人達もすぐに集まってくる。給金の額面を提示すると、彼らは顔を綻ばせた。
明くる朝より円滑に作業が開始された。
曹仁も一応現場監督として立ち会ったが、最初に主だった者に大まかな指示を与えると、やることはなくなった。華琳のように自分で図面を起こしてしまうような知識があるわけではない。細かな部分は、実際に兵を駐屯させてから改築していくことになるだろう。
賦役ではなく給金を出しているから、工人達の士気は高かった。曹仁はしばし彼らに混じって汗を流した。
午後は陳矯を伴い、宛城内に設置されたばかりの学校を訪ねた。
荊州には学者が多く、講師には事欠かない。しかし学問は士大夫の特権と考えるお高くとまった者達ばかりだ。華琳や荀彧の御膝元である襄陽はともかく、他の邑で真面目に教育に取り組んでいるのか気に掛かっていた。
「杞憂でしたね」
「ああ」
学者達は戸惑いながらも懸命に教鞭を取っていた。
教官室を訪ねて話を聞くと、一度荊州中の学者が襄陽に集められ、荀彧と論戦して自慢の学識を散々に叩きのめされたという。その場には洛陽で教職に生きる盧植も呼ばれていて、懇々と諭されもしたらしい。当代有数の大学者の言葉に、耳を貸さないわけにはいかなかった。
「へえ、あの荀彧がねぇ」
荀彧が儒学の大家荀子の後裔で、学識も抜群であることは曹仁も理解している。しかし直情的と言って良い普段の言動を見るに、論戦などが得意なようにはとても思えなかった。口下手な朱里と雛里も荊州の学者達を散々に言い負かしたというし、論戦と言うのはただの口喧嘩や口論などとは別ということなのだろう。
「―――?」
視線を感じて目を向けると、教官室の入り口からちらちらと子供達が室内を覗いていた。まだ授業中のはずである。
「こらっ、お前達っ! 教室に戻りなさいっ!」
曹仁と陳矯に応対していた講師が声を荒げる。わっと喚声を上げて、子供達は散っていった。あれでは教室まで戻りはしないだろう。
「苦戦しているようですね」
講師が恐縮そうに頭を下げた。名家の子弟を講義することはこれまでにもあっただろうが、庶民の子供達を相手にするのはそれとはまるで勝手が違う。
「先程覗かせてもらった教室では経書、それも春秋を教えていましたが、あれでは子供達は退屈しますよ」
春秋は孔子が編纂したとされる歴史書であるが、誤解を恐れずに言うならば欠落と誤記の多い年表のようなものだ。その瑕疵にこそ孔子の深い意図が隠されていると考え、あれこれと解釈するのが春秋学であり、儒学の一大門派であった。
さすがに子供達を相手にそんな講釈を垂れるわけではなく、読み書きを教える教材として春秋が利用されていた。講師としては最も馴染み深く、興味深いものを選んだのだろうが、それを子供が楽しめるはずもない。
「一番良いのは、子供達が自然と口ずさめるような民謡でしょうか。それに文字を付けてやれば、楽しく効率的に読み書きを覚えてくれますよ」
「……民謡」
講師が難しい顔をした。
「では、この辺りに所縁の高名な方が書かれた書物などはありませんか。許では曹操様の詩などを読ませることもあります」
「……所縁の方ですか。そういえば―――」
講師は席を立つと、書架をごそごそ漁り始める。普段ひもとく機会の少ない書なのか、ずいぶんと探し回った末に部厚い巻物を一巻取り出した。
「……傷寒雑病論?」
「以前に長沙太守を務めておられた張機殿が書かれたもの。張機殿は、ここ南陽郡出身の方です」
受け取ると、曹仁は軽く目を通した。
「……なかなか興味深い書です。しばらくお借りしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。張機殿御自身、広く読まれることを望んで方々に配っておられる。これもそのうちの一幅なのですが、あまり読む者がおりません。将軍にお読み頂けるなら、張機殿も喜ばれるでしょう」
前書きによれば、医人でもある張機が長沙で立ち向かうことになった疫病の治療法を記した書である。言うなれば医学の専門書であり、儒学偏重の学者達には見向きもされなかったのだろう。民の間では五斗米道が医をもって信徒を集め、華佗が神医と称され尊敬を集めているが、士大夫層からは医学は怪しい呪いの類と一括りに方術と呼び倣わされている。
「とはいえ、子供達の教材に使うには専門的過ぎますね」
「そ、それでは、……梁父吟という民謡を、この辺りの子供達はよく歌っているようですが」
講師は気が進まない面持ちで言った。
「なんだ、民謡があるのですか。それならちょうど良いじゃないですか。―――どんな内容なのです?」
「晏子の“二桃三士を殺す”の故事を歌にしたものです」
「ふむ、悪くないじゃないですか」
晏子は春秋時代の斉国の名宰相である。“二桃三士を殺す”は、増長の過ぎた勇士三人に桃を二つだけ下賜し、相争わせて排除するという故事である。
講師の重い口ぶりから、あけすけな猥歌でも飛び出すかと思えば、至って真面目な内容だった。子供への教材としては少々殺伐としているが、晏子に興味を持ってもらえれば、史記の列伝を引いてさらに視線を広げることも出来る。格好の教材と言えた。
「しかし、荊州の子供達が斉の歌を吟じるというのは、少々不思議な話ですね」
「それはその、つまり、……諸葛亮が、司馬徽殿の私塾でよく歌っていたそうなのですよ」
「ああ、なるほど」
いくつもの疑問が、一度に氷解した。
想像するに、梁父吟というのは斉国―――今の徐州に古くより伝わる民謡であろう。雛里は生まれも育ちも荊州であるが、朱里は徐州の出身である。そして荊州の子供達にとって、地元の最も高名な人物は今や伏竜鳳雛こと朱里と雛里なのだ。朱里が口ずさんでいたとなれば、馴染みない民謡でも流布する。
講師の気乗りしない様子は、単純に朱里への対抗心―――朱里と雛里に言い負かされた文官や学者は多い―――もあるだろうが、何より彼女が反曹を掲げる劉備軍の軍師であるためだ。華琳は気にはしないし、盧植などは平然と桃香の学問の師を名乗り子供心を掴んでいるが、並みの学者にそれを真似る度胸はない。
「……曹仁将軍が、お手本をお示しになってはいかがです? 曹家の天の御使いが教えたとなれば、誰も文句は付けられません。それに、曹仁将軍は許では人気講師でありましたし、皆さんの参考にもなるはず」
それまで黙って聞いていた陳矯が口を挟んだ。講師もすがるような視線を向けてくる。
翌日から、砦の建築場所と学校を行き来する曹仁の生活が始まった。
「今回の相手はあんたなのか」
巴での行軍はすでに両手の指に余る回数となっている。翠の前に現れたのは、すでに見慣れた感のある張旗に代わって趙旗であった。
「うむ、お主も毎度子供の相手では飽きもしよう。今日はこの常山の昇り竜、趙子龍がお相手しよう」
趙雲は槍をくるくると軽く旋回させながら答える。
二又に分かれた真っ赤な刀身と、そこから長く伸びる飾り紐が目を引いた。
常山の昇り竜という異名は初めて耳にしたが、自信満々な様子に翠は言及を避けた。とはいえ劉備軍の三将としてその武名は高く、同輩の燕人張飛や美髪公関雲長に決して劣るものではない。
その張飛とは侵攻の度に手を合わせ、いずれも明確な決着がつく前に劉備の制止が入っていた。矛を収めると、劉備と数語言葉を交わして駐屯地に帰還する。そんな気の抜けたやり取りが、過去十回以上も繰り返されていた。張飛は、初日に示した敵意をすでに見せなくなっている。翠も、もう劉備に曹操の姿を重ね見てはいなかった。
「張飛の相手が嫌なわけじゃないが、あんたとは遣り合ってみたいと思っていたんだ」
「ほう」
「あんたかあたし、それに曹子孝。その三人の誰かだと思うんだよな」
天人曹仁に趙子龍、そして錦馬超。天下に槍の名手として知られた三名である。
武名では、天下無双の飛将呂奉先と伍したという曹仁が頭一つ抜けている。ただ手を合わせた印象で言えば、一対一なら負けはしない。この眼前の趙雲にも勝てるなら、自分が天下一の槍の使い手ということになる。
「ふふっ、なるほど。そういうことなら私も負けるわけにはいかないな」
こちらの意を覚ったらしく、趙雲は楽しそうに微笑むと槍を構えた。翠も遅れず構える。
同じ槍の使い手と言っても、構えは三者三様だった。趙雲の構えは中でも際立って変則的だ。
翠と曹仁の構えは、穂先を相手に真っ直ぐ突き付けるという点で共通している。曹仁が上段、翠は中段というだけの違いだ。
趙雲は穂先を天に向け、柄を相手に曝け出す様に体の前に構えた。しかもそれで固着せず、舞でも踊るように絶えず構えを変化させている。馬も自然にその動きに従い、小刻みに右へ左へと歩を進めている。馬術も相当なものだ。
突いてくるのか、払ってくるのか。あるいはそのどちらでもないか。読めなかった。
「―――っ!」
馬首に趙雲の姿が隠れた、と見えた瞬間に死角から身を乗り出し、地を這うように低く槍が繰り出された。払い除け、突き返すも、すでに趙雲は身を引いている。銀閃はその残像にすら掠りもしなかった。
今度はこちらからと、黄鵬を踏み込ませた。突きかかるも、趙雲は余裕を持って半身になって受け流す。素早く槍を手繰り寄せ待ち構えるも、反撃はなかった。続けて攻めた。趙雲はやはり、余裕を持って避ける。三手、四手と攻め立てるも、いずれも空を斬った。攻める気がないのか、槍を返しては来ない。ただ銀閃も趙雲の身を捉えることがない。
ならばと、銀閃を振りかぶり、大きく踏み込んだ。体重を乗せた薙ぎ払いで、受けごと崩す。
「―――っ」
喉元に、真紅の影が迫っていた。仰け反ってわずかな距離をかせぎ、銀閃の軌道を変えて弾く。馳せ違い、距離を取った。
趙雲がいつ突きを放ったのか、わからなかった。いや、突かれたというよりも、予め虚空に据えられていた穂先に向けて、こちらから突進していったと言うべきか。
「―――あっ、劉備達が来た。それじゃあ、私も行って来るねっ。あの脳筋、今日こそとっちめてやる」
蒲公英の声に視線を転じると、劉旗を掲げた一団が今日も姿を現していた。蒲公英は単騎、そこへ駆けて行く。
蒲公英も劉備軍の中に好敵手を見つけていた。
何度目かの劉備との面談中に、蒲公英がいくらか挑発的なことを言った。劉備は軽く受け流したが、眉をつり上げたのが護衛の魏延という将だった。それ以来顔を合わせる度に口論し、ついには干戈を交えるようになった。
張飛と翠同様、魏延と蒲公英の手合せも決着を見ず、適当なところで二組揃って劉備の制止が入るというのが最近の流れである。
「―――っ、―――っ!」
「―――――っ!」
ひとしきり何ごとか罵り合った後、蒲公英と魏延が手合せを開始した。
「では、我らも」
「ああ」
こちらも再開である。
翠が攻め立て、趙雲は避け、時に際どい一撃を返してくる。
張飛の蛇矛が暴風なら、趙雲の槍は流水だ。攻防に無理なく、澱みなく、捉えどころがない。そして気付けば、こちらまでその流れに乗せられている。流された先には堤が―――真紅の凶刃が待っていた。
攻めているのか、攻めさせられているのか、判然としない。抗わず、流れに身を任せた。待ち受ける刃を乗り越えねば、趙雲にこちらの鋭鋒は届かない。
―――次で勝負だな。
堤が眼前まで迫り掛けていた。阻まれるか、乗り越えるかだ。
「―――ちっ、良いところで」
堤が遠ざかる。退き鐘が打ち鳴らされていた。
いがみ合う蒲公英と魏延を笑顔で宥めながら、劉備がこちらへと近付いてくる。あと一手という未練は残るが、劉備の持つ稀有な才能と言うべきか、その緩い顔を見ると闘争心も萎えるのだった。
翌日、早々に再び軍を動かした。
劉備の笑顔に誤魔化されたが、やはりすっきりしない。旗本の二百騎を率いて駆け回り、待つ。
やがて現れたのは見慣れた張旗でも、待ち受けていた趙旗でもなかった。
「常山のなんたら趙子龍の出番は一度きりで、今日はあんたか」
美髪公関雲長。昨日に引き続いての新手登場である。
「妹がずいぶんとお主の武を誉めるのでな」
「そういうことか」
試してやろうというわけだ。上から物を言ってくれると、闘志がこみ上げてくる。同時に、燕人張飛が自分への褒め言葉を口にしたことに、むずがゆさを覚える。
ぶんぶんと頭を振って、余計なものを追いやり闘志だけを残した。
関雲長。張飛、趙雲を抑え、劉備軍を象徴する武人だ。雑念を抱いて戦える相手ではない。
関羽は青龍偃月刀を悠然と構えた。趙雲のように舞うでも、張飛のように武威をまき散らすでもない。そこにそうして在るのが当然と思えるような、落ち着き払った静かな構えだ。
翠は一息に間合いを詰め、渾身の突きを放った。駆け引きも小細工も無しだ。
「―――くっ」
巨大な岩にでも、思い切り打ち込んでしまったような感覚。浮き上がり掛けた上体を、翠は抑え込む。関羽の弾く動作は小さく、それでいて返ってくる力は大きかった。
「気持ちの乗った良い一撃だ。―――返すぞ」
青龍偃月刀の打ち込みを、辛うじて防ぐ。まともに受け止めれば、銀閃を両断されかねない程の勢いも、麒麟が後方に小さく跳ねて衝撃を殺してくれていた。
突きを返すも、万全の守りに弾かれる。もう一度、関羽が返す。
一撃を返す度、一撃が返ってきた。強く突く程、強く弾かれた。
奇抜なところなど何もない。堅実な守りに、着実な攻め。真っ当で、正統で、王道的な武。激しくも単調な剣戟が、いつ果てるともなく続いた。
張飛が暴風、趙雲が流水なら、関羽はまるで巨大な山岳だ。三者三様な生き様が、その武に現れている。青龍偃月刀は、揺るぎなく清廉な関羽の生き方を映す鏡だった。
―――ひるがえって、あたしは何をしている?
火花が舞い散る中、そんな問いが胸の内で生じる。
不倶戴天の敵と定めた曹操に挑むでもなく、こんなところで別の相手と槍を交えている。それも、反曹の旗印と言っても良い劉備軍を相手にだ。何をしている。いや、何をしたいのだ、自分は。
答えはどこにもない。しかし関羽と一合交わすごとに、そこへと近付いていく気がした。
いつの間にか、背後から蒲公英の気配がなくなっている。すると、魏延を連れて劉備がもう来ているのか。この時間も、間もなく終わるのか。
―――もう少しだけ、この時が続け。
翠は祈る様にそう願った。