三千騎を留め置き、翠は蒲公英だけを伴い馬を進めた。向かう先の城門は、警戒心もなく開け放たれている。
「成都へようこそ、翠ちゃん、蒲公英ちゃん」
劉備は群臣を従え、門前で出迎えてくれた。翠はさっと下馬して大地に片膝を付け、拱手した。蒲公英もそれに倣う。
「西涼の馬孟起、劉玄徳様に拝謁いたします」
「同じく馬岱。謹んで拝謁いたします」
「もう、そういう堅苦しいのは良いよ。さあ、立って立って」
劉備は手を取って二人を立ち上がらせてくれた。
「本当に、客将じゃなく劉備軍の一員になってくれるの?」
「はい」
張飛、趙雲、関羽との戦いの果てに、翠は桃香に帰順を申し出ていた。
劉備は五斗米道での翠の立場と同じく、客将として遇するとも言ってくれた。雍涼二州を糾合し得る西涼の錦馬超は、巴蜀を手にしたばかりの劉玄徳と対等な存在だということだ。しかし翠は、丁重にそれをお断りしていた。
関張趙との戦いの中で、翠は自らの胸中を覗き見た。
そこに、見るべきものは何もなかった。西涼の雄たろうとする気持ちは、すでに失われていた。自分は母や、憎き仇ながらも韓遂などと比べると、ずっと小さいのだろう。母の独立独歩の大志を引き継げなかったし、西涼への愛情では韓遂に遠く及ばない。胸の内にあるのは、一個の武人として曹操だけはこの手で討ち取るという思いだけだ。
劉備からは何度となく、志を説かれた。綺麗事が過ぎてすぐには心に染まなかったが、少なくとも不快ではなかった。曹操の政を真っ向から否定するものだと思えば、痛快ですらある。自分の中に何もないのなら、劉備の志を支えてやってもいいと思えた。
「張魯さん達はなんて?」
劉備軍への帰順を申し出はしたが、一度州都の成都に戻るという劉備達には付き従わなかった。張魯と張衛に、別れぐらいは告げていきたかったからだ。
劉備の下に付くと明かせば、最悪捕らわれるか殺される可能性もあった。五斗米道と劉備の同盟に異を唱えたのが張衛で、それを支持したのが翠自身なのだ。しかし全て正直に打ち明けた。
「特に何も。客将なのだから、好きに去ってくれて構わないと」
「そっか。それじゃあ、今日から二人は正式に私達の仲間だね。―――改めてよろしく。私のことは桃香と呼んでね」
「はい。あたしのことも翠と呼んでください」
「私は蒲公英っ。よろしくお願いします、桃香さま」
「じゃあ、うちの皆を紹介するね。まずはすでによく御存じの四人から」
桃香は関羽、張飛、趙雲、魏延を招き寄せた。
実力はすでに認め合っている。それぞれ真名を預け合った。蒲公英と魏延―――焔耶は少々複雑な面持ちだが、桃香の手前言い出せずにいる。
「次に、こちらが私達の軍師、伏竜こと諸葛孔明」
「よろしくお願いします、馬超さん、馬岱ちゃん」
小柄な少女が深々と頭を下げる。
諸葛亮とは反董卓連合の際に顔を合わせている。劉備軍の軍師と言えばもう一人龐統がいるが、荊州で曹操に捕らわれたと聞いていた。
「翠で良い」
「私も蒲公英で良いよ」
「では、私のことも朱里とお呼び下さい」
「ああ、よろしく、朱里」
朱里がもう一度頭を下げた。
「続いてこちらが、荊州で仲間になってくれた黄忠さんに厳顔さん」
「黄忠、字を漢升と申します。錦馬超の武名は荊州にも届いておりましたわ。一緒に戦えて光栄です。私のことも、紫苑と真名でお呼び下さい」
「厳顔だ。わしも桔梗で良いぞ。そちらの娘には、焔耶がずいぶんと世話になったらしいな」
名に聞き覚えはないが、なかなかに腕が立ちそうな二人だった。桔梗の方は焔耶の武術と用兵の師だという。
それから伊籍や馬良、馬謖と言った荊州の文人達、益州で配下に加わったばかりの者達が紹介されていく。
最後に桃香は、群臣から少々距離を置いて何やら騒いでいる集団に手招きした。
「美衣ちゃん、それにミケちゃん、シャムちゃん、トラちゃんも。紹介するからこっちに来て」
「わかったじょ。子分ども、美衣に付いてくるにゃ」
にゃーにゃーと鳴き声を上げながら四人―――四匹?―――がこちらへと駆けて来る。
「ならぶにゃー」
「トラが一番前っ」
「むにゃむにゃ」
がやがやにゃーにゃーと叫びながら、四人は整列する。
「さっきからずっと気になっていたんだけど、何なのこの不思議な動物」
他の三人とは文字通り毛色の異なる一人を指差して蒲公英が言った。
全員が虎皮をまとっているが、一人だけ稀少な白虎の毛皮である。西涼には西域との交易路があるため、翠も珍品の類を見る機会は多かったが、白虎の皮というのは話に聞くだけでついぞ現物を目にすることはなかった。
「美衣は動物じゃないじょっ! 南蛮大王孟獲なのにゃっ!」
どんな仕掛けがあるのか、孟獲と名乗った少女の毛皮の耳がぴんと張り詰め、尻尾が逆立つ。他の三人の耳と尻尾は動く様子がないから、やはり特別性の衣装ということだろうか。
「南蛮? 南蛮と言うと……」
「うん、私達が巴郡にいる間に、朱里ちゃん達には南中に行ってもらっていたの。こんな可愛い王様を連れて帰って来たから、私達もびっくりしちゃった」
「まったくです、はぁ~」
峻厳なまでの凛々しさはどこへやら、愛紗が孟獲を見つめながら頬を緩ませ熱い吐息をこぼす。
益州の南方、広さで言うなら実に州全体の半分ほどが南中と呼ばれる未開の地である。南蛮と呼ばれる異民族が蟠踞し、漢民族の支配が及ばない土地と聞いている。
「南蛮族の王様ってことは、この猫が南中で一番偉いの?」
蒲公英が胡乱げに孟獲を見据えながら言う。
「猫じゃないにゃっ! 人間だじょ! 南蛮で一番えらいんだじょ。ははーって言うにゃっ」
「これは失礼しました、ははーっ」
「それで良いにゃっ」
蒲公英は頭も下げず、欠片も畏まった様子なく孟獲の要求に応えた。しかし孟獲はそれで気を良くし、胸を反らした。ぴくぴくと耳がふるえ、ぱたぱたと尻尾が揺れる。
「その耳と尻尾、どうなってるんだ?」
「どうなってるって、どういう意味にゃ?」
孟獲が首を傾げる。
「あっ、翠ちゃんも知らないんだ。私も荊州で黄祖さんに聞いて知ったんだけど、南方の異民族の王様達って、耳と尻尾が生えてるんだよ」
「……?」
「えっ、じゃあこれ本物なのっ!?」
桃香の言葉に翠の理解が追いつかずにいると、蒲公英が先に反応した。
「当たり前だじょっ! 南蛮大王の証なのにゃっ! ―――んにゃっ!」
蒲公英が孟獲の耳を引っ掴んだ。
「あっ、ほんとだ。くっ付いてる。それにあったかい」
「何するにゃっ!」
孟獲はばたばたと暴れ回って蒲公英の手から逃れると、桃香の背後に隠れた。蒲公英は悪戯っ子の表情でなおも手を伸ばし、桃香の周りでぐるぐると追いかけっこが始まった。
「しかし、ずいぶんと手早く南中を落したな」
騒ぎを横目に、朱里に話し掛けた。これで益州は漢中を残してすべて劉備軍の手に治まったことになる。
「南中を抑えれば天竺、さらには西域との交易路を利用して力を蓄えることが出来ます。早ければ早いほど、その益は大きくなるのです。―――それに曹操軍が長安に軍を進めた以上、後顧の憂いは断って置きたいですから」
「おっ、せっかく漢中で良い情報を仕入れてきたと思ったのに、もう知っていたのか」
「はい。主将は夏侯淵さん、副将には黒山賊の張燕さん。いつ攻めてきてもおかしくない陣容です」
副将の名までは、益州の玄関口に陣取る張魯達ですらまだ把握していなかった。巴へ侵攻した翠の動きを捉えた警戒網と言い、劉備軍は諜報の使い方が上手い。
「劉備軍と曹操軍に挟まれて、五斗米道は苦しい立場に追い込まれるな」
「張魯さん達に、私達と組む気はなさそうでしたか? 五斗米道の教えは、桃香様の志にも重なる部分があると思うのですが」
「挨拶のついでに誘ってみたが、断られたよ」
「そうですか」
朱里が顎に手を当て目を細めた。年相応のあどけなさは鳴りを潜め、神算鬼謀の軍師の顔で物思いにふける。
次に朱里が口を開いた時、一緒にはっと大きく目も見開かれていた。
「漢中攻略を急いだ方が良さそうです。翠さんを易々と手放したということは、もしかすると―――」
「皆さん、お疲れ様でした」
「御使い様もお疲れ様」
工人達と労をねぎらい合った。宛城での生活も最終日の夜を迎えている。
砦の外郭は予定通り完成に漕ぎ着けることが出来た。宛城へと帰っていく工人を見送ると、曹仁は陳矯と共に最後の検分をして回った。
山頂を覆う石造りの城壁は、真桜の工兵隊が作るものと比べても遜色ない出来だ。明日の朝には曹仁達と入れ違いで駐屯部隊が来る手筈となっている。元々五千の守兵が置かれていた宛城にさらに五千を増員し、この支城にも一万が入り、許と洛陽を守る防衛線とする。
二刻(1時間)程で検分を切り上げると、城門から麓へ向けて駆け下りた。山と言っても樹木に覆われるわけではなく、草生した丘に近い。砦に籠もって防御を固めるのではなく、宛城を支え、北進する敵があらば要撃するための出撃拠点である。その方が都合は良かった。
麓へ着くと、工人達に遅れて宛城へ馬首を向けた。親しくなった工人達に打ち上げの席に呼ばれている。
昨晩は学校の講師と生徒、それに生徒の親も集まって送別会を開いてくれた。一ヶ月と経たず教鞭を置く仮初の講師を、随分と慕ってくれたものだ。
曹仁の方も宛県の住民達には不思議と愛着を覚え始めていた。華琳の命令で動くのではなく、自身の決定で立ち回ったためだろうか。今では爵位を得て領地も与えられている身だが、ほとんど訪れたこともない自領よりもよほど思い入れが強い。
その日は遅くまで工人達と騒ぎ、翌朝、兵の入城を確認すると曹仁は宛城を後にした。
「御使い様ーーっ」
「曹仁将軍ーーーっ」
城門の外まで大勢の民が見送りに並んでくれた。来た時のように遠巻きにではなく、
手と手が触れ合う近さで別れの言葉を交わした。
人波が途絶えると、後ろ髪を引かれる思いもそこそこに白鵠を走らせた。
往路と同じく、四日で樊城に至った。兵が渡し船を出すと言うのを断って、船着き場で半刻(15分)ほど待つと迎えの船が近付いてきた。流流の操る快速船だ。
「兄様、お帰りなさい。お待たせしてしまってすいません」
「ただいま。俺達もいま着いたばかりだよ」
白鵠を引いて快速船へ乗り込んだ。
白鵠が面白くなさそうに首を振る。船があまり好きではないのだ。白鵠がこうして不機嫌を露わにするのは珍しい。
首筋を撫で擦り機嫌を取っていると、すぐに対岸に付いた。快速船なら長い時間はかからない。
「一月前よりも、上手くなったんじゃないか? スクリューの立てる水飛沫が少ないし、揺れも小さくなった気がする」
「はいっ。凪さんにもお付き合い頂いて、たくさん練習しました」
下船しながら言うと、流流は嬉しそうに答えた。
「華琳様が執務室でお待ちです。お先にどうぞ」
流流は縄を使って快速船を船着き場に係留し始める。
「お手伝いさせて頂いても良いですか、流流将軍? 少し興味が」
陳矯が問う。
「ええ、それはもちろん。じゃあこの縄を支えていてもらえますか、無花果さん」
「はい。―――ああ、曹仁将軍は華琳様にご報告へ。白鵠も、私の馬と一緒にお世話しておきますので」
「……ああ、それじゃあそうさせてもらおうか」
「報告書に全てまとめてありますが、何か御不明な点がございましたらお呼び下さい」
白鵠をその場に留め、曹仁は一人で船着き場を後にした。
白鵠の世話は、以前なら自分以外の人間に任せることはなかった。それが当然であるし、白鵠も曹仁以外の手が入ることを嫌う。時折陳矯に委ねる様になったのは、この半年程のことだ。何度となく頼み込まれ、根負けした形だった。陳矯にとって、白騎兵と同じく白鵠も信奉の対象らしい。その気持ちが伝わるからか、白鵠も陳矯の世話だけは嫌がらなかった。
「しかし、あいつは気を回し過ぎるな」
陳矯は本当に得難い従者ではある。こちらが本気で引き離しにでも掛からない限り、白鵠の脚にも遅れず付いてくる。目端が利いて気配りも上手いため、華琳や他の将軍達からの覚えもめでたい。
「あっ、兄ちゃん。お帰りー」
「おう、ただいま」
華琳の執務室の前には、季衣が直立していた。
「あれ、流流と無花果ちゃんは?」
「船の片付けをしているよ。陳矯はその後に馬の世話をするから、報告は俺一人に任せるってさ」
華琳との再会を二人きりで、とでも気を回したのだろう。華琳とは一月振りとなるが、視察や遠征でそれぐらい会えずにいるのは珍しい事ではない。気遣いも過ぎれば少々煩わしくもあるのだが、今回は有り難く気持ちを受け取ることにした。
「華琳は中か?」
「うん。―――華琳様、兄ちゃんが来ました。…………あれ?」
普段ならすぐに返ってくる華琳からの返答がない。
「華琳さま~」
季衣は小声で呼び掛けながら、執務室の戸を静かに押し開けた。
「……華琳様、寝ちゃってるみたい」
「珍しいな」
囁く様な声がかろうじて華琳の耳まで届いた。
「ここのところ、ずいぶん忙しくしていたから」
「そうなのか?」
「うん。蘭々が、兄ちゃんが帰ってきたら一緒に休みを取りたいから頑張ってるんだー、って言ってたよ」
「―――っ」
図星を指されて思わず華琳の心臓が跳ね上がる。動揺が面に出たかもしれないが、机の上に頭を伏せているから、入口からはこちらの表情は窺いしれないはずだ。
「そ、そうか」
曹仁が声を上ずらせた。
―――ふふっ、嬉しそうにしちゃって。
自分のことは棚に上げて、華琳は胸中で苦笑をこぼす。
「……起きるまで俺が見ているから、季衣は休憩してくれて良いよ」
「いいの?」
「船の片付けももうすぐ終わるだろうし、流流も誘っておやつでも食べてくると良い」
「わぁ、ありがとう、兄ちゃん」
季衣が囁き声をわずかに弾ませる。ごそごそと物音もしていたから、大方曹仁が小遣いでも与えたのだろう。
―――まったく、念の入ったことね。
部屋から遠ざけようという工作だろう。宮中でも菓子は手に入るが、小遣いを受け取ってしまえば自然と街に出て購うことになる。
「じゃあ、兄ちゃん。華琳様をよろしくね」
「ああ」
ぱたんと控え目な音を立てて戸が閉まり、季衣の足音が遠ざかっていく。曹仁も耳をそばだてているのか、執務室は静寂に包まれた。
しばしして、室内の空気が動いた。人の気配がすぐそばまで近付いてくる。
―――さて、どう出るかしら?
室外での季衣とのやり取りから、曹仁が無花果を伴わず一人で報告に来たことは知れた。夜更かし続きでちょうどうつらうつらしていたこともあって、咄嗟に華琳は寝た振りをしていた。
以前、唐辛子塗れの口にキスさせられたお返しだ。何か恥ずかしいことでも仕出かした瞬間を見計らって、目を覚ましてやるつもりだった。
気配は執務机を回り込み、華琳の真横―――机に伏せた顔を向けている方向で止まった。
「…………?」
早速口付けでもしてくるかと思えば、何の反応もないまま時が過ぎた。薄目を開けて確認したい衝動に駆られるが、気配はすぐ隣から動いていない。やきもきしながらもじっと我慢した。
時折、手巾か何かが額や頬にあてがわれる。汗を拭ってくれているようだ。季節は夏の盛りを迎えていた。じっとしていても汗は湧いてくる。
「……かわいいなー」
ぼそりと、想像以上に近くから呟き声が聞こえた。吐息を頬に感じるほどだ。華琳は驚きが顔に出そうになるのを必死で抑え、次いで言葉の意味に思い至ると赤面しそうな頬を鎮めにかかる。
「はぁ、ちょっと異常だな、このかわいさは」
一言漏らすと、曹仁は止まらなくなった。かわいいかわいいと何度も連呼する。
「……んんっ」
華琳は寝惚けた態でわずかに身をよじると、ほんの一瞬だけ薄目を開けて曹仁の様子を確認した。にこにこと幸せそうな笑顔を浮かべている。
起こしてしまうと思ったのか曹仁は口を噤んだが、長くはもたなかった。しばらくするとまたかわいいだの好きだのと連呼が始まる。
華琳は頭の下で組んでいる腕に、曹仁からは見えぬように爪を立てた。緩みそうになる口元を引き締めるのに必死だった。
半刻近くもそうしていただろうか、頬に軽く何かが触れた。
―――やっと動いたか。
かすかな感触だが、手巾でも指でもなく曹仁の唇であることが華琳にははっきりと分かる。数万回、数十刻と触れ合ってきたものだ。
「……もう少しくらい大丈夫かな」
先刻よりも少し強めに、今度は額に唇が触れた。次いで目尻に、鼻先にと、ついばむ様な口付けが繰り返された。閉じた目蓋の上にまで優しくキスされるも、なかなか本命―――唇には来ない。肩すかしを食らいつつも多幸感に浸りながら、また半刻程も過ぎただろうか。
―――まったく、キス魔のくせにもったいをつけてくれたわね。
ようやく、唇と唇が触れ合った。
それでもまだ五分と五分だ。こちらも口付けで痛い目―――辛い目を見たのだから、それ以上の行為を引き出してやらないと面白くない。
とはいえ、キスの出番が終わらない。ちゅっちゅちゅっちゅと、軽いキスが繰り返される。いつ終わるともなく―――。
「……負けたわ」
華琳は観念し、すっと目を開けた。
「―――っ、わ、悪い、起こしちゃったか?」
「少し仮眠を取っていただけだから、構わないわ」
慌てて距離を取った曹仁に、すっくと身を起こして言う。曹仁は、ちらちらと窺うような視線を送ってくる。
普段から似たような事をしている気がするが、これはこれで曹仁は十分に照れているようなので良しとしよう。爪を立てていた腕が、ずきずきと痛む。我慢も限界だった。
ひょいひょいと手招きすると、曹仁はおずおずと近付いて来た。
「―――っ、んん」
曹仁の首の後ろに手を回して、思い切り引き寄せ唇を合わせた。先刻までの軽く触れ合うだけの口付けとは違う、深く貪る様なキス。最初躊躇うようだった曹仁も、すぐに積極的に求めてきた。
「…………ぷはぁ。まったくもう、貴方、私のこと好き過ぎでしょう」
息苦しさを感じて唇を離した時には、ずっと我慢していた分まで華琳の口元は緩み切っていた。
「―――さて、報告を聞きましょうか」
平静を取り戻しそう切り出せたのは、ずいぶんと時が経ってからである。
まだ薄っすら頬を上気させている曹仁は頭を振って気を取り直すと、執務机の上に報告書を広げた。華琳は材料費や工人に支払った給金などの数字の内訳を形式通り確認し、次いで建設した城塞の見取り図と周辺地理の絵図に目を向ける。
いくつか気になる点を質問するも、いずれも澱みなく答えが返ってきた。満足行く砦が出来たようだ。
「ああ、そうそう。―――貴方が送ってくれたこれだけど、役に立ちそうね」
質問も尽きると、華琳は執務机の隣に設えられた棚に手を伸ばし、紙束を机上に置いた。
張機著“傷寒雑病論”である。
荊州に駐屯して以来、曹操軍の将兵の中にも疫病に罹る者が出ている。傷寒雑病論には治療薬の処方だけでなく予防の方策までが記されていて、すでに軍営内では徹底させていた。
「そうか、なら急いで書き写した甲斐があったな」
曹仁は満足げに頷くと、意味あり気な視線を向けてくる。ご褒美に先程の続きを、というところか。
「ふぅ、仕方ないわね―――」
「―――華琳様、よろしいですか」
曹仁を招き寄せようとしたところで、室外から控え目に声を掛けられた。
「……どうぞ。入りなさい、幸蘭」
華琳は少々げんなりしながら、声の主に返す。
「失礼します。あら、季衣ちゃん達の姿がないと思ったら、仁ちゃんが戻っていたんですね。お帰りなさい、仁ちゃん」
「ただいま、姉ちゃん」
姉の登場とあっては、曹仁もそういう気分はすっかり失せたようだった。
「宛はどうでしたか? 住民の皆さんから、曹操軍の人間だからって虐められたりしませんでしたか? ご飯はちゃんと―――」
「―――幸蘭、私に何か用事があったのではないのかしら?」
「あらあら、これは失礼しました。張三姉妹から、報告が届いています」
「あの子達から?」
五斗米道との交渉役に、張三姉妹を長安の秋蘭の元に派遣していた。背後の巴蜀に大本命が控える以上、漢中は足掛かりとして何としても手に入れたい土地となった。同じ宗教家―――と張三姉妹を称して良いか微妙だが―――として、曹操軍に降る利を諭しに行かせたのだ。五斗米道は、孫策軍のように戦で雌雄を決したいと思える相手ではない。
「交渉は上手くいっていると報告を受けたばかりだけれど、さて、何かしらね?」
曹仁にも読めるように、執務机の上に書簡を広げた。
「―――馬超が、桃香の元へ」
曹仁が呟く。
「そうなる気はしていたわ。……こうなると、戻って来たばかりのところ悪いけれど、貴方の出番ね」
「俺の?」
荊州都督に任命したばかりだが、今後起こりうる事態を想定すれば、適任者は曹仁をおいて他にいない。
「ええ。……はぁー」
懸念事項は多々あるが、ひとまずは明日丸一日を予定していた逢い引きの中止に、華琳は盛大に溜め息を溢した。