長安郊外は喧騒に包まれていた。一瞬何事かと戸惑うも、曹仁はすぐにそれが聞き慣れた歓声であることに気付いた。
「ああっ、曹仁っ! やっと来たわねっ。遅かったじゃない!」
下馬し、白鵠を引いて喧騒の中心へ近寄ると、舞台上から地和が叫ぶ。妖術で作ったという拡声器―――見た目は曹仁の世界の手持ちマイクとそっくりだ―――を通した声は、辺り一面に響き渡る。
集まっていた張三姉妹の信奉者達が、さっと直立した。頭に黄色の頭巾を被り、往時の黄巾賊を思わせるが、いずれも曹操軍の兵のようだ。
「もうっ、ちーちゃん、通し稽古中だよっ」
地和を注意しながらも、天和は曹仁へ向けてにっこり微笑み、小さく手を振って来た。思わせぶりな態度は職業柄だろう。
「曹仁さん、袖に回って下さいっ。駿さんもいらっしゃっていますから」
人和に促され、曹仁は会場を大きく迂回して舞台の横手に回った。
真桜の工兵隊がいないため、野天に高台を設えただけの簡単な設備であるが、衝立で一応の舞台袖が作られていた。飛燕が数人の兵を伴い、退屈そうに床几に座っている。
「状況は聞いているか?」
手を上げて軽く挨拶をし合うと、飛燕が聞いてきた。
「ああ。途中立ち寄った洛陽でな」
劉備軍が漢中へ侵攻し、秋蘭が援軍に向かった。洛陽で月の口からそう聞かされていた。
「兵はどうした?」
曹仁は陳矯一人を伴うのみだった。
「騎馬隊はあと二、三刻で到着する。歩兵は角の指揮で、そうだな、五日後になるだろう」
歩兵とは洛陽で別れ、今日未明に自ら先触れを買って出、騎馬隊からも先行して来た。
「そうか。兵営と牧の手配はすでに済ませてある」
飛燕が兵を一人、城内へ報せに走らせる。これで先触れとしての曹仁の役割は終わりだった。
畳んで積まれている床几を二つ取って並べた。一つは自分で腰掛け、一つは陳矯に座るように促す。恐縮しながらも陳矯は腰を降ろした。
「これは、何をやっているんだ?」
張三姉妹の歌う舞台上を指し問う。
「お前が合流したら、公演を開く予定になっている。その予行練習だそうだ」
「それで地和の奴が文句を付けてきたのか。別に、俺を待つ必要なんてないんだがな」
「正確には待っていたのはお前ではなく、お前のところの兵だ。初の長安公演は、大入り満員といきたいんだと」
「そういうことか。いま集まっているのは、お前のところの兵か?」
「ああ。………俺の部下に、あんなに会員がいるとは知らなかったが」
飛燕がため息交じりにこぼす。
黄色の頭巾は、張三姉妹の公式愛好会入会者の証である。おおよそ三千人ほどは集まっているから、一万五千の黒山賊兵の十人に二人が会員ということだ。当然未入会の信奉者の数は、それ以上だろう。
愛好会―――曹仁の世界で言うファンクラブ―――の発想を張三姉妹に与えたのは、言うまでもなく曹仁である。それまでは公演の入場料と、その都度販売する関連商品の売り上げだけが張三姉妹の稼ぎであったが、会費によって固定収入が生れた。さらに会員へは幸蘭の飛脚網を通じて会報を届け、その紙面上で限定商品の販売―――いわゆる通信販売―――を行うことでかなりの収益を上げているらしい。
黄巾の乱での行きがかりから張三姉妹には恨みを買っていた曹仁であるが、愛好会の着想でもって手打ちとなった。どころか名誉会員二号などという有り難くもない肩書きを与えられ、戦略会議に呼び出されることもしばしばだった。無視してしまえば良い話なのだが、幸蘭も関わっているだけにそうもいかない。通信販売の事業は商品開発も含め幸蘭が一手に担っており、曹家の財政―――この場合、曹操軍の軍資金のことではなく幸蘭、曹仁、蘭々の実家の懐具合―――を相当に潤していた。
また、会員だけの特典として、これまでは無給で行っていた予行練習を特別優待と銘打ちつつ有料で公開しているとも聞いていた。いま舞台上で行われているのが、まさしくそれであろう。
「で、お前はこんなところで何を?」
「公演当日は会場周辺の警備を頼まれている。その下見だ。夏侯淵将軍から、協力するように言われてしまったからな」
「なるほど。それでそんなに詰まらなそうな顔をしているわけか」
「ほっとけ」
「―――――!! ―――――――!!!」
いっそう激しい喚声が沸き起こった。公演も幕引きらしい。声に見送られ、張三姉妹が舞台袖に姿を現す。
「お疲れさまー。ふぅっ、今日のお客さん、乗りが良かったねー」
「そりゃそうでしょ。皆、会員の人達なんだからっ」
「あ、それもそっか」
三人とも頬を上気させ、額には汗を浮かべているが、興奮冷めやらない様子で天和と地和がぺちゃくちゃとお喋りをはじめる。
「曹仁さん、兵はいつ長安に?」
人和が小走りで駆け寄って来て問う。
「騎兵は今日中だが、歩兵は五日後になる」
「そっか。それじゃあ、入場券の販売期間を一日、いや、二日とって―――」
人和はぶつぶつと独り言を漏らしながら、算段を始めた。
人和は曹仁よりも二つ三つ年下だろうか。姉二人と同じように舞台へ立ちながら、三姉妹の経理を一手に担っているのだから大したものだった。
「三人ともお疲れ。仁も、よく来たな」
そんな声を掛けながら、舞台袖にもう一人現れた。
黄色の頭巾を巻き、三姉妹の似顔絵入りの団扇を手にしている。一瞬闖入者を疑ったが、よく見れば白蓮だった。
「……白蓮さん、入会したのか?」
白蓮の手にする団扇は公演での人気商品で、会員は一度に五枚十枚と買っていくらしい。判子を使って大量生産が可能で、薄利多売ながら最大の収益を誇っていた。商品開発はやはり曹仁の発案に基づいている。
「いやいや、まさか。警備の参考に、客席からはどう見えるか確認していただけだよ」
言われて気付いたのか、白蓮が黄巾を外しながら言った。
「その割に、ずいぶんと楽しんできたようだが」
飛燕が言った。白蓮は張三姉妹に負けず劣らず、頬を上気させ汗に濡れていた。
「これは、ほらっ、ぼけっと突っ立って周りの連中を盛り下げてしまったら悪いだろう。……いや、まあ、公演自体は楽しかったけどさ」
「別に、そのまま入会してくれてもいいんですよ、公孫賛将軍」
耳聡く人和が聞きつけ、白蓮に迫る。
「私達のお客さんはどうしても男性に偏りがちだから、もっと女性客を取り込んでいきたいと思っていたんです。公孫賛将軍みたいに名の知れた普通の女の人が会員に加わってくれると、後押しになります」
「そっかぁ、私は“普通”かぁ。確かに舞台上の三人はきらきらしてたもんなぁ」
「いや、普通のというのはそういうことではなくてっ。その、華琳様にも名誉会員になって頂いたけど、ほらっ、あの方は」
「女好きの女ではなく、普通の性癖の女性ってことだな」
曹仁の手前言い難そうにしている人和に代わって、言ってやった。
華琳は張三姉妹の愛好会名誉会員一号だった。三号が幸蘭である。
そんなやり取りをしている間に客がはけ、代わりに騎馬隊の姿が遠望されるようになった。
長安の城門前に移動し、騎馬隊を待ち受ける。白蓮と飛燕だけでなく、張三姉妹まで付いて来た。さっそく兵を相手に公演を告知したいらしい。
「仁の軍が騎兵一万に歩兵が二万。長安に今いるのは騎兵が三万騎に、張燕の一万五千」
白蓮が指を折って数えながら言った。
「ああ、それに蹋頓殿が来てくれるはずだ。柳城からだから、一月ほど掛かるだろうが」
前回の西涼遠征を終えた後、蹋頓は兵を率いて烏桓の本拠柳城へ帰陣している。今回、おおよそ半年ぶりに援軍を要請していた。
「烏桓兵は二万騎だったな。合せて騎兵が六万に、歩兵が三万五千。これで馬超を迎え撃つことになるのか」
西涼に姿を現すであろう馬超の迎撃。それが荊州都督である曹仁がこの地に来た理由である。
錦馬超の西涼進出。華琳と秋蘭の予見が一致していた。華琳は馬超が桃香に降ったと聞いた時点でその対策として曹仁を送り込み、秋蘭は劉備軍が漢中へ侵攻したと知ると長安防衛に飛燕を残した。
軍略をかじる者であれば、突き詰めれば誰もが思い至る予想ではある。しかし襄陽と長安、遠く離れた土地で華琳に遅れない速さで考え、実行に移す判断力まで有するのは秋蘭だけだろう。加えて、他の者であれば独断専行の誹りを受けかねない進軍も、曹家一門の重鎮である秋蘭の命であれば兵も他の将も疑念を抱かず従う。華琳にとって秋蘭は、曹仁が嫉妬を覚えるほどに得難い存在だろう。
「こちらはそれで十分。むしろ秋姉の方が心配だ。三万五千で劉備軍とやり合えるのか?」
「よほどの“へま”でもやらかさない限り問題ないだろう」
飛燕が言った。いつものことと言ってしまえばそれまでだが、妙に口調が刺々しい。
「漢中全体で五斗米道の信徒の兵が五万、南鄭だけでも三万はいるって話だ。弱兵だが、信徒の兵だけに教主の籠もる教団の本拠を守るためなら奮戦するだろう」
「……それなら心配ないか」
少し考えて、曹仁は首肯した。
現状劉備軍が有する兵力は生え抜きの五千に、荊州から付き従った兵が一万数千、それに益州で新たに加えた兵が四、五万といったところだ。
劉備軍生え抜きの五千、これは天下に並ぶものの無い精兵と言える。四千の歩兵は体格に恵まれた勇士の集団でもないし、一千の騎馬隊も白騎兵のように良馬が揃っているわけでもない。個人の強さではなく、隊としての練度が傑出した域にあるのだ。戦乱の始まりから桃香達と共にあり、少しずつ少しずつ増やし、育てに育てた集団である。それも当然だった。
桃香に従った荊州兵は、武を軽視した荊州軍の中にあっては精鋭と言える隊である。それでも秋蘭の従える曹操軍よりは練度に劣るだろう。
益州兵の強さは、白蓮が弱兵と断じた五斗米道の兵と同等と考えて良い。益州軍が五斗米道軍に勝てないが故に、劉備軍は援軍として益州に招かれたのだ。
総じてみれば、劉備軍が全兵力を動員してなお、兵数でも練度でも優勢だった。たとえ敵地であっても民が集い義勇兵を形成するのが桃香の怖さだが、五斗米道の信仰に染まった漢中ではそれも起こり得ない。それでも怖いのはやはり劉備軍生え抜きの五千の存在だが、さすがに三万五千の曹操軍を正面から撃ち破る力はない。将自ら危地に飛び込む様な真似―――飛燕言うところのへま―――でもしない限り、負けはない。
「そうだ。聞いてくれよ、仁。お前の姉と張燕がほんっと気が合わなくてさ。間に挟まれて苦労させられたよ」
白蓮が言った。
「……俺の姉って、秋姉のことか?」
「ああ」
自明のことを、思わず聞き返す。秋蘭が人間関係で揉め事を起こすというのは、それだけ想像がつかなかった。
「あっ、やっぱり仲悪かったんだ。なんだかおかしな雰囲気あると思ったんだ」
「そうそう、駿はいつものことだけど、秋蘭様まで何だか刺々しちゃって」
天和と地和も追随する。残る人和に視線を向けると、躊躇いがちに首肯した。
「へえ、秋姉にしては珍しいな。何かよっぽど気に障ることでも言ったか、飛燕?」
「知らん。夏侯淵将軍が何を不快に思うかなど、俺に分かるはずもないだろう」
飛燕が鼻を鳴らす。どうやら不仲と言うのは本当らしい。
「まったく、お前、俺以外とも少しは仲良くしろよなー」
「お前と誰の仲が良いって?」
飛燕の肩を叩こうとすると、先手を取られてぐいと押し退けられた。白蓮や張三姉妹が反応に困ったという顔で口を噤む。
「皆様、お気になさらず。お二人はいつもこうですから」
慣れたもので、陳矯が平然とした顔で他の者へ助言を口にした。
そうして話している間に、騎馬隊が眼前まで至った。城門前に一万騎を整然と居並べると、先頭で率いてきた将と、それに付き従う形でもう一騎が近付いてくる。
「―――俺の兵を、なんの違和感もなく率いてくれるな」
「わざわざ自ら先触れに来たのは、あの男を量るためか」
「一日行軍を任せただけで、何が分かるというわけでもないけどな」
囁き合う飛燕と曹仁を横目に、白蓮が馬上の将に言葉を投げる。
「仁の騎馬隊を率いてきたのはお前か、龐徳」
「御無沙汰しております、公孫賛殿」
龐徳が、下馬し直立した。
西涼の地勢にこれほど詳しい男もいない。曹仁は華琳に乞うて、副官の一人に加えていた。
「また兵を糾合して内応するつもりじゃないだろうな?」
白蓮の懸念も無理はない。
前回白蓮が長安に赴任した際には、曹操軍の兵一万騎を従え、そこに募兵に応じた西涼兵を加えた。その西涼兵が龐徳の指揮の元、馬騰に内応することで呆気なく長安を奪われたのだった。
加えて現在、雍州牧旗下として長安に常駐する騎兵三万騎は、全てが西涼で新たに募った兵―――つまりは西涼兵である。今回の赴任では、白蓮は子飼いの白馬義従以外の兵を一切伴わなかった。
関中十部と呼ばれた軍閥の内、八つまでがその頭を先の戦で失っている。生き長らえた楊秋と侯選は曹操軍に帰順し、馬騰の後継である馬超も西涼を去った。軍閥は完全に崩壊し、それによって行き場を失った兵に働き所を与えたのだ。
白蓮と華琳で話し合った結果、力による抑え込みは西涼では叛意を煽るだけと結論付けたらしい。それで本当にほとんど身一つで乗り込んでしまうというのは、器量の大きさもさることながら、普通と言うには少々自虐が過ぎる白蓮の性格によるものだろう。
「ご心配には及びません。錦馬超を慕う者にとっては、私は西涼の裏切り者。敵意を向ける兵はいても、従う兵などおりません」
「だと良いけど」
白蓮はなおも懐疑の眼差しだ。
曹仁は龐徳の頭越しに、その後方に従う者と視線を交わした。詠である。やはり西涼に通じる人物として幕僚に加えていた。
詠が小さく頷き返す。皇甫嵩門下―――というものが存在するなら―――の姉弟子である詠に、曹仁は龐徳の力量の見極めを頼んでいた。
「―――みんなー、私達っ、長安公演を行いまーす!」
やり取りを余所に、張三姉妹が兵に向けて告知を始めた。
「よくぞ駆け付けて下さいました。御礼申し上げます」
「そちらも、良い所で討って出てくれた」
南鄭を包囲した四万の劉備軍は、背後から曹操軍に襲われ、五斗米道軍も城門を開け放ち攻めに転ずると、わずか一刻余りで敗走を始めた。
張衛は、兵に追撃の指示を飛ばしている曹操軍の将へ拝礼し、感謝を口にした。
自分は五斗米道の教祖張魯の弟である。帰順の意志があるとは言え、並みの将が相手であれば軽々しく頭は下げない。
薄い青紫の布に夏侯と大書した軍旗が掲げられていた。長安に駐屯する軍の主将、夏侯淵で間違いない。曹操の族姉である。
「張衛様、ご無事で安心しただ。張魯様もご無事ですか?」
「ああ、大事無い」
夏侯淵の横から、使者に送った大男が顔を出した。西涼に援軍へ赴いた際に副官に抜擢した男で、少々間の抜けたところはあるが人物は信頼出来る。
「ほう、張魯殿の弟君自らの出陣であったか。通りで兵が奮戦するわけだ。私は夏侯淵という」
将は予想通りの名を口にした。
「姉上にお会い頂けますか?」
「ああ、こちらからお頼みしよう」
「では、どうぞこちらへ」
南鄭城内へと誘う。夏侯淵はその場の指揮を他の者に委ねると、身軽に一人で後に続いた。大男も、慌てて追ってきた。
城内へはいると、信徒達が道の端に寄って拝礼する。
「皆、安心せよ。曹操軍の御助力により、神敵はこの地より去ったぞ」
道すがら伝え歩くと、人々は一様に安堵の吐息を漏らした。
沿道へ出ている者達は、老若男女問わず農具やら包丁、木の棒に石などを手にしている。いざ敵兵が侵入した場合には、その身を楯に張魯を守ろうという覚悟の表れだった。
「思ったよりも賑わっているのだな。それに皆、気骨がある」
ずらりとひしめく人々を見ながら、夏侯淵が言った。
「城内にはどれほどの民が?」
「十四、五万といったところでしょうか。そのうちの三万が兵です」
「ほう。それはなかなかのものだ」
周辺の村々からも信徒達が逃げ落ちて来ているため、城内には常になく人が多い。それで多少なり、曹操軍の将兵の目に栄えて見えるなら有り難かった。
「曹操軍の夏侯淵将軍をお連れした。御面会頂く、教主様にお伝えして参れ。」
屋敷の門前には、選りすぐった二百の精兵が詰めている。先触れに一人を走らせ、その後にゆっくりと続いた。
大部屋―――神事を執り行う斎場であり、信徒と面会する謁見の間としても用いる―――に入ると、姉は自分の顔を見るなりにこりと微笑んだ。
「良かった。なかなか帰ってこないから心配しました、衛」
「―――んんっ。姉上、曹操軍の夏侯淵将軍です」
姉の笑顔に思わず張衛も気が緩みかけるが、咳払いを一つして五斗米道教主の仮面を被るように促す。
こちらへ駆け寄ろうと浮かせ掛けた腰を、姉は再び椅子に落ち着けた。
「征西将軍夏侯淵、張魯殿に拝謁いたします」
「はじめまして、夏侯淵将軍」
立ったまま―――跪かず―――拱手する夏侯淵に対し、姉は着座のまま深々と頭を下げた。
姉のことだから深い考えがあっての返礼ではないだろうが、尊大でもなければ、卑屈過ぎもせず、ちょうど良い塩梅だ。
「我らに、曹操軍に帰順して頂くということで、良いのですね?」
夏侯淵の射るような鋭い視線が、姉に注がれた。姉は怯まず笑顔で返す。
「はい。弟と色々話し合って、そうすることに決めました」
劉備と曹操を、秤に掛けた。
帰順を迫ってきた曹操と違い、劉備が求めたのは同盟だった。劉備と組めば、漢中はこれまで通り五斗米道のものである。しかし曹操が劉備討伐の軍を起こせば、その都度巴蜀の楯となって戦うこととなる。やがては疲弊し、曹操軍に飲み込まれるだけだった。
ならば一層の事、こちらから劉備軍に帰順を申し入れてしまう道も考えた。劉備が説く理想は、根っこの部分で五斗米道の教義にも通じるように思えた。漢中の民―――信徒達は、劉備の政に大きな抵抗を示さないだろう。それだけに、五斗米道の教えが埋没していきかねなかった。
一方で、曹操の厳格な政と五斗米道は如何にも馴染まない。漢中は劉備軍との戦の最前線となるからと、信徒共々に中原への移住まで求められた。しかし信仰の自由は認めるという言質を与えられ、黄巾党の張三姉妹という実例までわざわざ派遣されてきた。自前で賄えるならばと、移住先で義舎―――無料の食堂兼宿泊施設―――を建てることも認められた。それが利を生み出すなら相応の税は徴収するというが、五斗米道の義舎は寄進されたものを生活が苦しい者にそのまま再分配するための施設だ。すべてが信徒の好意により成り立っていて、利を生む仕組みはなかった。張三姉妹は、催事の収益から一定の額を収めているという。三姉妹の末娘が、張衛に帳簿を示し詳細を語ってくれた。
協議の末、劉備の仁政よりも曹操の苛政の中にこそ五斗米道の生きる道はあると、姉弟は結論付けた。
「条件は、事前の取り決め通りということでよろしいか?」
張衛は姉の前に立ち、夏侯淵の視線を遮りつつ問う。
懸念があるとすれば、正式に約定が交わされる前に援軍を求めてしまったことだ。こちらに不利となる条件を、付け加えられないとも限らない。如何にも鋭そうな夏侯淵の舌鋒から、姉だけは必ず守り通す。
「ふふっ」
夏侯淵が小さく笑う。
「な、何かっ?」
「いや、良い姉弟だと思ってな。ふふっ、すまない。私にも弟がいるので、つい思い出した」
「へえ、夏侯淵さんにも弟がいらっしゃるんですか? 弟は、可愛いですよねー?」
姉が気の抜ける反応を返す。
夏侯淵の弟―――弟分と言えば、誰を指すかは考えるまでもない。可愛いなどとんでもない。天下無双とも称される曹子孝である。西涼の戦での鬼神が如き働き振りは、張衛の目に今もこびり付いていた。あの馬超を激戦の末に打ち倒し、関中十部の長二名をあっさりと討ち取ったのだ。
張衛は夏侯淵がここで曹子孝の話題を持ち出した理由を素早く考えた。その勇名を背景とした単純な脅しか。あるいは五斗米道が西涼軍に加担したことに言及し責めるつもりか。いずれにせよ、悪い想像しか浮かんではこない。
「―――ふふっ、そうですね。可愛いものです」
張衛の予想に反して、夏侯淵までが気の抜けた返答をする。突き刺さるようだった視線も柔らかい。
「ああ、すまない。条件のことだったな。―――無論、事前の取り決め通りで構わない」
毒気を抜かれ固まる張衛に、夏侯淵が言った。
「よ、よろしいのですか?」
思わず問い返し、己が失態に気付いて顔をしかめた。黙って肯いておくべきところだ。
「……なるほど。何やら警戒していると思えば、そういうことか」
夏侯淵が得心した表情で小さく頷いた。さすがは乱世の覇者曹操に大権を委ねられているだけあって、察しが良かった。
「我らに帰順するというのなら、漢中の民もお前達姉弟も、等しく曹孟徳の民だ。そして我が主は、政に例外を設けない。お前達にだけ制約を課すような真似はしないさ」
夏侯淵の言葉に、張衛はほっと安堵の吐息を漏らす。
「そうだ、一つだけ。―――そこの使者殿を、もう少しお借りしてもよろしいか」
夏侯淵が、くいっと背後を指差した。謁見の間の入り口付近で、大男が所在無さ気に立っている。
「そんなところにいないで、入ってこい」
「し、失礼しますだ」
張衛は手振りも交え、大男を側近くへ招き寄せる。
「この男を借りるというのは?」
「陽平関の守備隊長であったのだろう? 道案内と、それに城攻めにも協力してもらう。あとは褒中と沔陽の城を知る者がいれば、同じくお借りしたい」
褒中と沔陽は南鄭と陽平関の間にある県であり、城である。当然、今は劉備軍の手に落ちていた。
「そ、そうか。すぐに手配を。それに私も、後詰として続きましょう」
言われて、張衛はまだ戦が終わったわけではないことに思い至った。劉備軍の手から陽平関を取り戻さない限り、漢中は依然戦場のままだった。
「ふむ。籠城で兵も張衛殿もお疲れでしょう。まずは身体を休め、ゆるりと参られよ」
「そういうわけには。いくら帰順するとはいえ、漢中は我らの土地。我らの手で取り返し、その上で曹孟徳様にお譲りします。出立はいつです?」
「―――無論、直ちに。敗走する敵兵を追いに追い、余勢を駆ってそのまま関を攻め取る」
夏侯淵が平然と言った。
五斗米道の将兵が籠城戦で疲弊している様に、曹操軍もまた桟道を七百里余りも越える行軍の疲れを残している。医人でもある張衛の目から見て、肉体的な疲労で言えば五斗米道軍よりも上だった。しかし勝機と見れば、休息など二の次となる。これが戦を専らにする軍というものなのだろう。自分や五斗米道の兵が真似出来るものではない。
浮かぬ顔の大男を贄に、張衛は夏侯淵の言葉に甘えることとした。
張三姉妹の長安公演は当初の想定を大きく上回る参加希望者が集まり、急遽二日間に分け開催され、大盛況のうちに幕を閉じた。
曹操軍の兵士からの人気は当然として、予想以上に長安の民の受けが良かった。今もこうして夜の大通りを歩いていると、張三姉妹の歌を口ずさむ酔漢の声がそこかしこから聞こえてくる。
「どうかしたのか?」
足を止めて耳を澄ます張燕に、先を行く曹仁が振り返る。
長安へ来て以来、頻繁に酒に誘われていた。好い仲である主君と遠く離れ、副官で友人の牛金は軍師として同行した司馬懿に独占されている。暇なのだろう。
「いや、長安の民にずいぶんと気に入られたものだと思ってな」
「ん? ―――ああ、張三姉妹の歌か」
「中原からやって来た歌姫など、嫌われそうなものだが」
「ふむ。案外、叛徒との相性は良いのではないか?」
「……確かにな」
曹仁の言わんとするところを察して、張燕は首肯した。
政への不満や憤りが張三姉妹への狂信と結び付き、暴走の果てに黄巾の乱は起こった。と言って、張三姉妹の歌に政を腐す文言など欠片も含まれてはいなのだ。問題は歌ではなく、民の心に起因すると考えられそうだ。
行き場の無い思いが、向かう先を求める。そこに、偶さか張三姉妹という強烈な求心力を持つ存在が合致した。そう考えれば、張三姉妹の信徒や高潔で知られる劉備軍の兵士、それに張燕自身ですらも本質は変わらないのかもしない。己で志を立てられるほどに、確固たる思いはない。それでも何かを求め、張三姉妹への熱狂に身を任せる者もいれば、一部のより高潔な者は劉備軍の理想に感じ入り、自分のように理屈をこねたがる人間は曹孟徳の語る未来に共感する。
「―――また何か難しい事でも考えているな?」
曹仁が、張燕の顔を覗き込んで言った。
「難しく考えるからこそ、俺はここにいる。というような事をな」
言いながら、ぐいと曹仁を押しやる。
「目を付けた飲み屋があるのだろう。ほら、さっさと案内しろ。こんなところで立ち止まっているなら、俺は帰るぞ」
「先に足を止めたのはお前だろうが」
ぼやきながらも、曹仁は再び先導を始めた。
曹仁の奢りでしこたま飲んだ翌日、諜報部隊の兵が二人、長安へ駆け込んできた。
軍議の間へ通された二人はしばし視線を交錯させた後、一方が報告を始める。
夏侯淵が、窮地に立たされていた。
南鄭で劉備軍を敗走させた夏侯淵は、褒中、沔陽と続けざまに城を奪い、漢中西端の陽平関から劉備軍を追い落した。大勝を収め、二つの城と関にそれぞれ一万の兵を残し、五千の兵とともに自身は南鄭へと引き返す途中、奇襲にあっていた。極めて軽装かつ獣のような身のこなしの兵が、巴山山脈の道無き密林地帯を越えて襲ってきたという。一度は潰走した夏侯淵隊が、高所―――沔陽の定軍山に拠って体勢を整える間に、後背を突かれて陽平関が再び破られた。雪崩れ込んだ劉備軍は、三万を定軍山麓に据えて夏侯淵の動きを封じ、六万の兵力で沔陽、褒中を順に包囲陥落させた。陽平関、沔陽、褒中合わせ、二万を超える兵が虜囚としてとらえられたという。
「待て待て、それじゃあ劉備軍は、一体どれだけの兵を動かしているんだ?」
公孫賛が頭を振って兵に問う。
「総勢九万。夏侯淵将軍は、おそらく南中を討ち、兵力を併せたのだろうと」
巴山を越えて奇襲を仕掛けてきた軍勢というのがそれだろう。
南中には南蛮と呼ばれる剽悍な異民族が住まうことは知られている。烏桓兵が岩山を騎乗のまま駆けるように、南蛮族も住み慣れた密林を当たり前に移動しただけなのだろう。
劉備軍の取った作戦は、夏侯淵の三万五千を分断し各個撃破するという、兵法の基本に則ったものだ。しかしそのために城まで明け渡してしまう大胆さに、密林を走破する南蛮兵の特異性、さらにこちらの予想を超えて拡大した兵力。三つが合わさって、見事な奇策と化していた。
これを夏侯淵の“へま”とは言えまい。練りに練った作戦で、劉備軍は曹操軍に勝ちにきている。
「しかし、そんなになるまで、何だって報告に来なかった?」
張燕はため息交じりに問う。
つまり現状は、九万の軍勢にわずか五千で取り囲まれているということだ。高所の利などで、いつまでも凌ぎきれるものではない。
「夏侯淵将軍に、止められておりました。事ここに至っては、漢中を得るのは難しい。なれば余計な兵は割かず、長安の防備を万全にすることこそ肝要だと。私も、無断で抜け出して参りました」
確かに、今さら多少の援軍を差し向けたところで、漢中の戦線が覆りはしないだろう。兵力を割いた結果、長安の守りを破られることになれば、夏侯淵の予見通り劉備軍は益州に雍涼二州を加えた大勢力へと躍り上がる。そしてこれまでの経緯からして、劉備軍は孫策軍と反曹という形で強固に結びつくだろう。そうなれば、後は仕上げを残すばかりであった中華統一は、一気に難しい局面を迎えることとなる。
しかしだからと言って、曹操軍が夏侯淵を見捨てるなどあってはならない。劉備軍にとっての関羽張飛に等しい、旗上げ以来の宿将である。曹仁や夏侯惇のような派手さに欠けるが、武官筆頭の姉に代わって、その堅実な手腕で実質的に曹操軍をまとめ上げてきた。将を一人、失うなどというものではないのだ。戦局が複雑化するならなお一層、夏侯淵の存在は曹操軍にとって欠かすべからざるものだった。
「ちっ、自分の首を軽く考え過ぎだ」
張燕がこぼすと、それに反応した様にがたっと物音がした。床几の倒れる音だ。
「―――すぐに俺が行く」
「いえ、騎兵では―――」
勢い込んで立ち上がった曹仁を、諜報の兵が制止する。
「―――なんだっ? 桟道は騎馬での通行も可能と聞いているぞっ」
曹仁が声を荒げた。
珍しいことだった。調練中に兵を注意する時でも、叱りつけるのではなく諄々と諭すのが曹仁のやり方だ。
「落ち着け、曹仁。何のために、俺や夏侯淵将軍が長安に置かれたと思うのだ。―――桟道が塞がっているのか?」
兵はこくりと小さく頷いた。
「劉備軍が押さえる褒斜道、陳倉道は柵が設けられ、守りが固められております。五斗米道軍と我らが押さえる子午道、儻駱道ですが、―――夏侯淵将軍の指示で張魯様と張衛様が南鄭を退去され、兵と民を率いてこちらへ向かっておいでです」
「なるほどな。漢中の土地は劉備軍に与えることとなっても、人―――これ以上の兵力を与えることだけは避けようということか。しかし、それで桟道が塞がったとは、夏侯淵将軍はあくまで救援を拒むつもりのようだな」
改めて諜報の兵を見ると、顔に強い疲労をにじませていた。衣服はところどころほつれ、むき出しの頬や手には無数に擦り傷を作っている。群衆をかき分け、時に山中に踏み入って道無き道を進んで来たのだろう。
「こうなるとまあ、俺が行くしかあるまい」
「なら、徒歩で俺も付いていく」
「……馬を降りた騎馬隊が、山中を俺の兵に遅れず付いて来れるとでも思うのか?」
「兵は伴わん。俺一人だ。足には自信があるぞ」
「おいおい、お前一人付いて来たところで、何の意味が―――」
「―――あのっ」
諜報の兵が大声で割って入った。
「どうした? まだ何かあるのか?」
問い返したところで、声を上げた兵が先刻まで報告していた兵とは別の者であることに気付いた。
「そういえば、お前からの報告はまだ聞いていなかったな」
公孫賛が先を促す。
「はいっ、錦馬超が五丈原に姿を現しました」
同じく漢中からの報告かと思えば、兵は馬超に備え桟道の出口を見張らせていた者の一人だった。
「くそっ!」
曹仁が悪態をついて地面を蹴る。
やはりこれだけ気を高ぶらせるのは珍しい。張燕の記憶の限りでは、母親の仇討のために徐州を血に染めようとした主君を諌めた時と、―――そして復讐に捕らわれた自分を打ち据えた時くらいのものだ。
「決まりだな。お前は馬超の相手だ。それが本来の役目であるし、何より馬超の相手はお前にしか務まらん」
「……秋姉のこと、頼んだぞ」
「まあ、昨日の酒代分くらいは働いてやるさ」
真剣な顔の曹仁に、張燕は軽い調子で返答した。