「幸蘭、蘭々は何と言って来てるんだ!?」
軍議が終わると、春蘭は勢い込んで幸蘭に詰め寄った。手にする2本の書簡に、軍議中から春蘭がちらちらと視線を送って来ていたことには、幸蘭も気付いていた。
定期的に連絡を取るというのは、曹仁に付いて行った蘭々に、幸蘭が出した条件の一つだった。今朝、飛脚の手によってその第3報が届けられた。
手紙を届けにきた飛脚は、幸蘭が動かす諜報部隊の一員である。各地に設けられた駅と呼ばれる情報集積所と、それを繋ぐ連絡網の管理を幸蘭は一手に担っていた。
元々は資産家である幸蘭の実家がその運用のために築き上げた情報網であった。それに曹仁の着想を元にして、幸蘭が改良を加え、今の形が作られた。元来は資産運用を目的としたものだったが、現在は並行して軍事目的で使われ、情報収集の要となりつつある。
その過程で副産物として生まれた飛脚による書簡の郵送は、今は家族や親しい者達の間を繋ぐのみだが、幸蘭は行く行くは独立した商売として成立させるつもりだった。現在はある意味、試験運用中と行ってもいい。
「それでは読みますね」
逸る春蘭をなだめつつ天幕から人がはけるのを待つと、幸蘭は言った。その場に残るのは華琳、春蘭、秋蘭、桂花、そして最近軍に加わったばかりの許褚―――季衣だ。春蘭に懐いている季衣は、彼女がいるからという理由でこの場に残っているのだろう。これから何が始まるのか分からず、不思議そうな表情を浮かべている。
「ええ、始めて頂戴」
そう答える華琳は楽しげな表情だ。蘭々の書く手紙はお世辞にも巧いとは言えないが、不思議と人を引き込む勢いがあった。
幸蘭は読み上げ始めた。
まずは戦勝報告から始まった。曹仁が立てた作戦通りに事が運び大勝したこと、そしてその後の彼の一騎打ちの様子が事細かに述べられている。曹仁の描写にはいくらか過剰とも思える表現が含まれているが、戦の空気が良く表現されていた。
「さすがは、仁ではないか! なあ、秋蘭」
「うむ、そうだな」
「まあ、公孫賛の騎馬隊と、劉備という者の集めた義勇軍の力が大きいとはいえ、よくやっているわね」
「ですよね、華琳さま! 季衣はどうだった?」
「はい、曹仁って人、すごいですね。素手で騎兵を蹴散らしちゃうなんて」
「そうだろう、そうだろう。お姉ちゃんは鼻が高いぞ」
その部分は明らかに脚色が入っていると幸蘭は思ったが、お姉さんぶって上機嫌の春蘭を見て、つまらないことを言うのはやめておいた。実際には、初めから退却を目的としていたのではないだろうか。華琳や秋蘭も呆れた様な、それでいてどこか微笑ましいものを見るような、微妙な表情を浮かべている。曹仁に会ったことのない桂花は、何となく納得のいかない様子だが、敢えて口を挟んでは来ない。蘭々の描く曹仁は、過大あるいは過少に表されることが多い。なんとなくそうしてしまう気持ちは、幸蘭にも理解出来た。要は、曹仁が二人にとってこの上なく近しい存在、家族であると言うことだった。
「……しかし、劉備というのはなかなかの人物のようね。それに付き従う者達も優秀なようだし」
華琳は劉備に興味があるようだった。蘭々からの書簡以外にも、義勇軍に関してはいくつもの情報が集まってきている。それらの情報を取りまとめる幸蘭にも、劉備は今後益々名を挙げ、天下の一雄となり得る人物に思えた。
「欲しいわね。全員引き連れて帰って来ないかしら」
「「か、華琳さまぁ」」
春蘭と桂花がすがるような表情を浮かべて、上目使いで華琳を見つめている。普段はいがみ合っているが、こういう時だけは息が合う。伝え聞く劉備達の容姿が、別の意味でも華琳の食指を動かしそうなので不安なのだろう。
「それで、書簡は最後まで読み終えたのかしら?」
そんな二人を無視して、華琳が言った。
「もう少しだけ続きがありますね。あら、華琳さま宛てみたいですよ」
「あら、なにかしら? 続けて頂戴」
「はい。追伸、華琳さまへ。兄貴が桃香さんのでっかいおっぱいに挟まれて、鼻血を吹いていました」
「…………………………………………………………そう」
長い沈黙の後、華琳が一言そう漏らした。
「そ、その、華琳さま? わたくしめにひと言ご命じ下せれば、いくらでも揉み育ててさしあげます」
春蘭が空気も読まずに、むしろ期待のこもった表情でそう言った。秋蘭は呆れた様な顔をし、桂花は馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「……春蘭。あなたは、私の胸に何か思うところがあるのかしら?」
「い、いえっ、決してそのようなことはっ!」
春蘭は華琳の引きつった笑みにようやく己が失言に気付いたようだった。桂花が楽しそうにその様を見ている。
「お仕置きが必要ね。今夜、私の幕舎に来なさい」
「は、はいっ!」
「そんなっ!」
華琳のその言葉で、春蘭と桂花の表情が一変した。春蘭は喜色を浮かべて頬を上気させている。対する桂花はそれを悔しそうに睨みつけている。
「で、蘭々からの報告は、それで終わりかしら?」
華琳が気を取り直したように、そう言った。
「はい」
答えて、幸蘭は書簡を再び巻き戻した。そこに緩んだ表情のまま春蘭が声をかけた。
「幸蘭、そのもう一本ある書簡はなんなのだ?」
「ああ、これは仁ちゃんからの書簡です」
「何っ、仁からの!」
曹仁から書簡が届けられたのは今回が初めてだった。
「それは読まんのか?」
「う~ん、これはどちらかというと私個人に宛てたもののようなので。用件を書いただけで、体裁も整っていませんし。春ちゃんがどうしてもと言うのなら読みますけど」
「当然、どうしてもだ!」
「そうですか」
幸蘭は曹仁からの書簡を開いた。華琳は黙ってこちらを見ている。その表情がすでに強張って見えるのは気のせいだろうか。
「お、おい。姉者」
「なんだ、秋蘭。まさか、お前は仁からの書簡を聞きたくないのか?」
「いや、そんなことはないが。しかし嫌な予感がするぞ」
「嫌な予感?」
「では読みますね」
二人の従妹の会話を流して、幸蘭は読み始めた。
「最近、蘭々が胸の発育のことで悩んでいるみたいなんだ。姉ちゃんからも言ってやってくれないかな、華琳と違ってお前はまだまだ先があるんだから、そんなこと気するなって」
いつかと同じように、場が凍りついた。今度ばかりは春蘭も、怯えたような表情で口を噤んでいる。
「……」
「ひゃふっ! か、華琳さまっ!? こ、こんなところで」
華琳はそんな春蘭に無言で手を伸ばすと、その胸を揉みしだいた。
「…………こんなもの、人の器量には何の関係もないんだから」
小声で何かを口走りながらも、その手は休まず動き続けている。
「ひゃあんっ! ちょっ、華琳さま!? そんな胸を! き、季衣が、見ていますから」
嬌声とも非難ともつかない春蘭の声は完全に無視され、華琳は一層強く揉みしだいた。名を挙げられた季衣は、よくわかっていないのか、戸惑うような表情を浮かべている。
「そうよ! むしろ、大きい方が邪魔になるくらいでしょうよ」
「……幸蘭」
「なんですか、秋ちゃん?」
その様子を眺めていた幸蘭に、秋蘭が話しかけてきた。
「一応聞いておくが、お前、仁のことが嫌いなわけではないんだよな」
「当然じゃないですか。私は仁ちゃんのこと、大好きですよ。戦場で槍を振るう格好いい姿も、普段の子供っぽい笑顔も大好きです。もちろん、華琳さまにいじめられている時のちょっと情けない姿だって」
「……そうか」
秋蘭は納得顔で頷いた。自らと姉である春蘭の関係に思い至ったのかもしれない。そう言った意味で、この従妹は一族の中で一番自分に似ていると幸蘭は思っていた。
「うふふ、再会が楽しみですね♪」
その日はそう遠くない、幸蘭は理由もなくそう思った。
「どうしました、曹仁殿」
突然白鵠を止めた曹仁に、愛紗が馬を寄せてきた。
「いや、なんでもない。何となく悪寒というか、嫌な予感がしただけだ」
「嫌な予感?」
「まあ、ただの―――」
「申し上げます!」
曹仁の声を遮って、別の声が響いた。声は周辺に放っていた斥候の一人のものだった。
「どうした?」
「農民を襲う黄巾賊を発見! 前方4里の地点です!」
「数は?」
「約200!」
「……よし、騎兵のみで急行する! 角、蘭々、鈴々は俺と共に騎馬隊を指揮。桃香さんと愛紗さんは歩兵を率いて後から追って来てくれ」
50騎以上に増強された騎馬隊に、自分と角、蘭々、そして鈴々の武があれば十分だと判断した曹仁は、すぐさま指示を飛ばした。
「わかったのだ! 鈴々、前回は見てるだけだったから、その分大暴れしてやるのだ!」
「はあ、仕方ありませんね。鈴々、曹仁殿をくれぐれもお守りするのだぞ」
「騎馬隊全軍、行くぞ」
相変わらずの愛紗の心配性ぶりに苦笑をもらしながらも、曹仁はあえて反論はせず、馬を駆けだした。今は時間が惜しい。
「民の嘆きを察知されるとは、さすがは乱世を鎮めるべきお方だ」
愛紗のその囁きは、騎馬隊の巻き起こす音にまぎれ、曹仁の耳には届かなかった。