五斗米道の避難者で満ちた子午道、儻駱道は避け、張燕は褒斜道を進んだ。
馬超が西涼入りに用いたばかりの道で、北は五丈原、南は褒中へと通じる。褒中は夏侯淵が陣を張った定軍山の北東わずか十数里に位置する城邑であり、今は劉備軍の統べるところとなっていた。
長安から五丈原までは足を速めたが、褒斜道に入ってからは通常の行軍に戻している。日が暮れかかると、すぐに夜営を張った。山道と桟道の繰り返しである。緑豊かな山道にも断崖に設けられた桟道にも星明りはほとんど届かず、夜間の行軍は道を失いかねない。山道で逸れれば再びの合流は難しく、桟道で道を踏み外せば即ち死である。
「今日はここまでだ」
張燕は、三度目の夜営を命じた。秦嶺山脈に入って三日目の夜が訪れていた。夏だがすでに盛りは過ぎているため、山中の夜ともなればかなり肌寒い。兵は剣や槍を使って地面に穴を掘るとその中で火を使った。そうすれば、明かりが遠くまで漏れることはない。官軍から身を隠す山賊の知恵だった。兵は火を囲み、身を寄せ合って眠りに落ちていく。
賊徒時代を思い出させる光景だった。それも青州黄巾百万を率いて威勢を誇っていた頃ではなく、義賊の誇りを胸に糊口を凌いでいた頃の情景だ。
張燕は腕を組み、木の幹に背中を預けた。小揺るぎもしない大樹は、義兄張牛角の背を思わせた。目を閉じ、虫の鳴き声や木々のさざめきに耳を傾ける。
「―――張燕将軍」
少し眠っていたようだ。目を開くと、闇の中にすっと男の姿が浮かび上がった。
諜報の兵だ。馬超を捕捉するために五丈原から陳倉に掛けて潜伏させていた者達をかき集め、手足として用いていた。西涼の民を糾合するべく、すでに馬超は錦の馬旗を掲げて堂々と行動している。諜報に探らせる段階は過ぎていた。
「次の桟道に、劉備軍が陣を布いております。山中を御迂回頂けますか?」
「ああ。道案内は任せる。―――定軍山に送った者は、まだ戻らないか?」
「はっ。あと四日お待ちください」
「わかった。明日も早い、お前も休んでおけ」
「はっ」
三十人余りいる諜報の兵の半数を、漢中へ先行させていた。夏侯淵が討たれれば、漢中へ向かう意味も失う。漢中の詳報が届くまでは、軍を深入りさせるつもりはなかった。夏侯淵討死の報せが入り次第、即座に軍を返す心算だ。
翌日は、道無き山中を進んだ。
「そこは多少回り道でもこちらを進んだ方が良いな。一人二人ならともかく、大勢が通ると崩れかねん」
「……なるほど」
漢中周辺に配された諜報は、山越えをすでに何度も経験している者達ばかりで、さすがに手慣れていた。黒山賊の兵でも、これほどに駆けられる者はわずかだ。しかし軍勢を先導した経験などは当然無く、諜報の兵の行く道を張燕は何度か改めた。
木々をかき分け進むのは、たった一里で平地なら二、三十里も行軍出来るほどに時間も体力も消耗する。十里足らずの桟道を迂回するために、山中を二日も進むこととなった。本来の山道と合流したところで二日目の日が落ち、夜営とした。
明くる日は、再び山道と桟道の繰り返しだった。どちらも通常の行軍と比べるとずっと険しいが、前日と比べれば苦ではない。軽快に進んだ。桟道に入って六日目。劉備軍には、すでにこちらの存在は気付かれているだろう。劉備軍にも諸葛亮と鳳統が育てた諜報部隊が存在する。規模はともかく個々の能力では、曹洪の諜報にも劣らない。
六度目の夜営を命じてしばし後に、再び闇の中に諜報の兵が立った。気配で察し片目を薄く開けると、三日前に現れて山中を案内した兵とは別の男だ。
「―――漢中の情報が掴めたか?」
「はっ、はい」
こちらから声を掛けると、兵は一瞬身体を硬直させた。接近を気取られたのが意外だったらしい。
漢中へ送った諜報の兵が戻るのは明日という話だったが、かなり無理をさせたようだ。張燕は視線で兵に先を促す。
「夏侯淵将軍、御健在です」
「……そうか。帰り損ねてしまったな」
「は?」
「何でもない、続けろ」
兵は劉備軍に潜り込ませている者とも連絡を取り、かなり詳細な情報を得ていた。
かつて五千の生え抜きで固まっていた劉備軍には、間諜の入り込む余地はなかったという。しかし急速に兵力を拡張した今の劉備軍なら話は別だった。初めから間諜として入り込んだ者もいれば、金を掴まされ寝返った者もいるらしい。
劉備軍は、犠牲を出さず締め上げるという戦をしていた。降伏を勧める使者も、山上に何度となく送られているようだ。
「……なるほど。そういうことか」
張燕は、一人小さく頷いた。
劉備としては、何としても夏侯淵を無傷で捕らえ、人質交換といきたいのだろう。交換相手は、言うまでもなく鳳雛こと鳳士元だ。
とはいえそれも限界で、劉備軍内では総攻めを求める声が高まり出しているという。反曹の志を抱く集団だけに、目の前に曹操の同胞をちらつかされてはいつまでも我慢も利かないのだろう。今頃はすでに総攻めが開始されていてもおかしくはない。
「夏侯淵将軍に文は送れたか?」
「はっ、矢文にして陣内へ射込みました」
「そうか」
特に内容のある文ではない。援軍に向かっているなどと報せてしまえば、長安に引き返させるため早々に自らの命を散らしかねないのが、今の夏侯淵の心境だろう。
ただ、曹仁が洛陽で聞いてきた噂を一つ書き記した。どうしても伝えねばならない話ではない。曹操軍に媚を売りたい廷臣達が勝手に騒いでいるというだけの、無責任な噂話の類だ。
しかし、あるいは夏侯淵の生きる活力となるかもしれない。
「……どうやって定軍山まで近付いた? まさか敵の眼前で、漢水を渡ったわけでもあるまい?」
夏侯淵が陣を据えた定軍山は、漢中南の境界の大巴山脈と北の境界の秦嶺山脈―――現在張燕らが行軍中の山々―――との中間にそびえる山だ。大巴山脈に属する一峰とされるが、周囲は平地に覆われている。特に褒斜道を抜けた先の北面には大軍が展開出来るだけの平原が広がり、劉備軍の本陣もここへ置かれていた。この平原には漢水の源流が流れ、南北を両断してもいる。北面から定軍山へ近付くには、敵の目を盗み漢水を渡らねばならない。
「はっ。定軍山よりさらに二十里ほど山中を西へ進み、山間にて渡渉しました、」
「やはり西か」
定軍山より西へ歩を進めれば、大巴山脈と秦嶺山脈はほとんど一体化して広大な山地を形成し始める。潜行するには格好の地形だった。加えて西面は平地が少なく、布陣する劉備軍の兵も多くはない。北面に三万、東面に二万に対して、西と南はそれぞれ一万ずつが配置されるのみだ。
「……案内出来るか?」
「それは、―――兵が通る道ではありません」
諜報の兵にしては珍しく、男は反駁を口にした。
「知らないのか? 俺たちは黒山賊だ。山中の行軍ならお手の物さ」
「しかし―――」
「くどい。明日早朝より出発する。お前も良く休んでおけ」
それ以上の反論は許さず、張燕は横になった。
道程の変更は誰にも告げない。朝までは兵は何も知らずに身体を休めればいい。明日からの行軍は地獄だった。
日没と共に、敵兵は後退していった。
追撃で多少なり犠牲を与えたかったが、西面に陣取る敵兵から一斉に矢が降り注ぎ、機を失った。
「さすがは黄漢升」
とはいえ、これで劉備軍の総攻撃を三日耐え抜いた。山頂に陣を張ってから数えると、すでに一月以上も経過している。
劉備軍が他の要所の攻略を優先したため、備えの時間は十分にあった。山頂付近に生えていた木々は全て切り取り、柵と逆茂木を五重に設置することが出来た。
今のところ、五千の兵はほとんど数を減らしていない。柵に面した前線には一千を置くのみで、無理な戦いはさせなかった。柵を一箇所破られた時点で、持ち場を放棄して一つ内の陣へと下がるように命じた。三日間で二度陣を下げ、五重だった柵は残り三段を残すのみとなっている。
残る四千には柵に取り付く敵兵を狙い撃ちにさせた。手塩にかけた精鋭弓兵である。三千ほども敵を討ち、負傷者も合わせれば一万近くは戦場から退場させていた。
敵兵の影が十分に遠ざかると、兵を外へ出して地面や柵に突き立った矢を回収させた。目に付くものは劉備軍が退却の際に持ち去っているので、矢の集まりはあまり良くなかった。劉備軍はこちらの矢が尽きる時を待っているようで、ほとんど射返してもこない。西面に陣取る黄忠でさえ、先刻のように味方の後退を支援するための一斉射のみだった。
三日で、手持ちの矢の半分以上も打ち尽くしていた。残りは兵一人当たり十数本といったところだ。それでどれだけ、劉備軍に犠牲を強いることが出来るか。
実戦なら矢を外すこともある。演習で自分にそう言い放ったのは張燕だった。その時は思わず反論したが、当然いくら精鋭と言えども外すことはある。
脳裏に浮かんだ張燕の憎たらしい横顔に促され、秋蘭は胸元から紙片を取り出した。総攻めが開始される数日前に、陣内に射込まれた矢に括り付けられていた張燕からの文だ。
「……魏王か」
文中の二字に目を落し、改めて口にしてみた。
本拠許のある予州潁川郡でも、華琳が初めに立った兗州陳留郡でもなく、冀州魏郡に封じるというのは、阿りつつも距離を置きたいという廷臣達の心情の表れだろうか。潁川郡と陳留郡は洛陽のある河南尹とも隣接するまさに中原の中心地である。魏郡も距離だけなら洛陽から程近いが、かつて袁紹が領した河北に属する。洛陽とは河水に隔てられていた。
そんな勘繰りが浮かんで来るばかりで、魏王という二字に秋蘭の心に沁みる響きは無い。
「……殿下、魏王殿下、華琳殿下。―――華琳様」
やはり王になろうが華琳様は華琳様だった。親愛なる我が従妹にして曹家一門の領袖、曹操軍の主である。王位に就こうが、―――仮に帝位に就こうが、その事実さえ変わらなければ秋蘭にとって然したる問題ではない。
朝廷でそういう動きがあるというだけの話だ。しかしあえて文を寄越したということは、張燕には何かしら意味のあることなのだろう。
主君が王位に登れば、臣下に下されるものも大きくなる。華琳が勢力を立ち上げた直後から臣従し、主だった戦には大抵参陣している張燕であれば、爵位ぐらいは与えられるかもしれない。しかし世を拗ねたあの男が、当たり前の富貴を望むとも思えなかった。
―――一聞きたいことが一つ増えたな。
とは言え、そんな機会はもう訪れはしない。
一兵でも多く敵を討ち果たし、劉備軍の力を削ぐ。願わくば、将の首の一つも道連れとしたい。秋蘭の望みは、もはやそれだけだった。
「まあ、あの男のことだ。案外、たんに華琳様の王位就任に立ち会えぬ私を、嘲笑っているだけかもしれぬな」
秋蘭は軽く言って、詰まらない未練を笑い飛ばした。
張燕は一万の兵を引き連れ、木々を掻き分けた。
足の遅い者から五千は桟道に残している。五千には、そのまま桟道を通って漢中へ侵攻するように命じていた。狭隘な桟道を進む兵の全容を劉備軍の斥候が容易く把握し得るとは思えない。五千の囮でどれだけ敵の目を欺けるかだ。
一万は、良く駆ける者から順に並ばせている。道無き道を行く今度の行軍では、途中で遅れる者が出ればそこから後続の全てが失われかねない。遅い者を切り捨てるようなやり方だが、他に手はなかった。例え一万五千の兵力全てを定軍山に送り込んだところで、劉備軍とまともに戦えはしないのだ。どれだけ数を減らそうが、勝敗を分けるのは劉備軍の死角を突けるか否かと言う一点だけだ。劉備軍本陣とぶつかって無駄死にするぐらいなら、駆けに駆けて、心の臓が破裂し肺腑がひっくり返るぐらいに駆けた末に死んでくれた方が、その亡骸は勝利の礎になるというものだ。生きて定軍山西面に辿り着くのは、三千で良い。それだけ残れば、背後から一万を突き崩すに十分だ。
一万五千の命を如何に使い、夏侯淵一人を生き長らえさせるか。これはそういう勝負なのだ。
今は駆けることが戦。そう思い定め、張燕は駆け続けた。
日が出ている間は寸暇も惜しんで駆け、日が落ちては死んだように眠った。
桟道から遠ざかると、それだけ緑は濃くなった。夏草や木々の枝葉ではなく、群生する灌木を掻き分け、時に引き抜き、踏み締めながらの進軍となった。ただ走るのではなく激流に抗い泳ぎ続けるようなもので、気を抜けば樹木の抵抗に身体は押し流された。
たった一日で、兵の様相は様変わりした。やせ細り、目だけが飛び出したように浮き上がり、一様に異様な光を湛えていた。二日目にはその眼光も失われ、力無く沈み込んだ。三日目には、敵を求める危うい落ち着きの無さを示し、四日目の今日は投げやりな高揚感を宿し始めている。
自分も、似たようなものなのだろう。そう胸中一人ごちながら、張燕は渓谷へ降りて腰までつかる激流を歩き渡り、断崖を這うように登った。足を取られ流される者、滑落する者の数を数えるのは、疾うに止めている。
「……死ね、……死ね」
ぶつぶつと恨み言を口にしながら走る兵も多い。最初は劉備軍だった憎悪の対象は、次の日には夏侯淵に変わり、今はただ呪詛の言葉だけを口にする。そうしながら殺意の籠もった視線を向ける先は、張燕だった。苛酷な進軍を命じる張燕こそが、敵よりも憎い相手となったのだろう。
意に介さず、無防備な背を曝し続けた。前を走る自分へ向けられた殺意は、そのまま前へと進む力となる。
日が落ちると、休息を命じた。兵はばたばたと地面にくずおれていく。
「寝る前に飯を腹に入れておけよ」
諜報の兵が、手分けして張燕の命令を伝え歩く。行軍の途中でこちらへ向かってくる数名とかち合い、合流させていた。武具を携えぬ軽装の彼らには、わずかながらに余裕がある。それでも、やはり足を引きずるようにしていた。
諜報の兵に促され、兵は倒れ込んだ姿勢のまま、もぞもぞと身体を動かして糧食を口へ運び始めた。
張燕もわずかな糧食をすでに空腹を訴えなくなって久しい腹に強引に詰め込み、横になった。目を閉じると、すぐに意識は遠退いていく。
目蓋の裏にわずかな陽光を感じ、張燕は目を覚ました。山の端にわずかに太陽が顔を覗かせている。
悪夢でも見ているのか、苦しげな声を漏らす兵達を叩き起こしていく。夢の中でも走り続けているのか、激しく足をばたつかせている者もいた。
張燕は夢を見ない。張牛角を失ってしばらくの間は、眩しい過去の夢に捉われたり、悪夢にうなされたりする日々を送った。しかし曹仁と殴り合い、曹孟徳に臣従を誓ってからはぱたりと夢を見ることがなくなった。夜に見る必要が無くなったからだろう。
地獄の行軍を再開した。
「……もう無理だ。誰か殺してくれ」
兵は、恨み言ではなく弱音を吐くようになっている。
良くない徴候に思えたが、構っている余裕は張燕にもなかった。常に先頭で、鬱蒼と茂る灌木を一番に掻き分けているのだ。気の休まる瞬間は皆無だった。
また一日を乗り切り、休息を命じた。
深夜に、兵が騒ぎ始めた。一人の兵が、発狂したように暴れまわっている。張燕は、自らその首をうった。
再び静寂が訪れると、周囲の兵はすぐに寝息を立て始めた。すぐ近くに転がる、先刻まで戦友であった肉の塊には見向きもしない。亡骸は放置したまま、張燕も木の幹に身をもたせると目を閉じた。すぐに眠気が襲ってくる。
あの騒ぎ立てていた兵と、その死体のそばで平然と寝入る自分達、本当に狂っているのはどちらだろうか。眠りに落ちる刹那、そんな埒もない疑問が張燕の頭をよぎった。
翌日、今まで無心で動いていた足が、地面に張り付いたように重かった。夢を、志を糧に足を進めた。
全ての民が等しく競い合う世が、まもなく生まれる。
曹孟徳一代限りの治政ではない。王となるからだ。三公などというただの官職ではなく、王位である。魏王―――実質的に天下の主宰者の位―――が、その子へとそのまま継承されるのだ。曹孟徳が作り上げた天下は、永劫に続いていく。
「しかし、御主君の子ということは、あいつの子でもあるわけか」
曹子孝の子供が、天下の主に治まる。それは少々癇に障るが、同時に痛快でもあった。あの男の本質は、自分や張牛角と変わらない無頼の輩だ。
足取りがいくらか軽くなった。灌木を踏み砕き、道を作る。険しいが、終わりはある。足を動かした分だけ、目的地に近付くのだ。
夜が来た。一瞬だけ微睡んだと思えば、もう朝の光を浴びていた。駆けた。また夜。微睡み、次の瞬間には駆けていた。微睡み、駆ける。夜と朝。闇と光。
「―――っ」
視界一杯を覆っていた緑が途切れた。山を抜けたそこは、戦場だった。狙いすましたように敵軍の背後を突く位置に自然と出た。おおよそ二百歩の距離。そして敵軍が攻め寄せている山頂には淡い青紫の夏侯の旗。
特に幸運に見舞われたとも張燕は思わなかった。ただ行軍するだけで兵の大半を失うこともあれば、こうして好機に直面することもある。それが戦であろう。
兵は、三日前の時点ですでに五千を切っていて、確認したのはそれが最後だった。たとえどれだけ数を減らそうが、足を緩めるつもりなどなかったからだ。だから今この瞬間に、自分の後ろに何人の兵がいるのか、張燕には把握出来ていなかった。
「それでは、私はこれで」
そう言い残すと、初めから案内していた諜報の兵がばったりと倒れた。専門の訓練を受けた者でも、さすがに休みなく往復は限度を超えている。
「行くぞ。全軍、俺に続け」
小さく、自分だけに呟くように口にした。
兵には聞こえているだろう。自分も含め、ここまで駆け通した者達は、まるで神経が剥き出しにでもなったかのように、すべてに鋭敏になっている。
駆け出した。喚声は上げない。奇襲を狙ってのことではない。なけなしの力の全てを、駆ける力に変えるのだ。
ぐんぐんと敵軍の背が近付いてくる。足元が軽い。まるで足に羽が生えたようだ。先刻までを思えば、平地は天上の楽土だった。
五十歩の距離。敵軍が、こちらに気付いた。慌てて矢を番えている。
遅い。五十歩を一息で駆け抜けた。敵に弦を引く間も与えず、張燕の双刀が舞った。三つ四つと、首が飛ぶ。
そこで初めて、ふらついた矢が射掛けられ、力無い槍が突き出された。払いのけ、斬り飛ばした。
飛燕と、―――飛ぶ燕と、呼ばれていた。飛ぶ鳥を落とす鋭さは、どこにもない。
「―――っ、何だ?」
戦場に、秋蘭の予想だにしない変化が起っていた。
最後の柵が破られて、すでに半日が経過している。今は消耗戦に突入していて、五千が三千にまですり減っていた。
自慢の弓兵も矢はとうに尽きている。弓を捨て剣を抜くと、小さな方円を組んだ。秋蘭だけでなく兵も、すでに敵と差し違える覚悟を決めている。二千が討たれるまでに、敵兵をその倍の四千近くは討ち取っているはずだ。
最後に敵将の首も狙いにいこうと、秋蘭は獲物を見定め始めた。西面に目をやると、一千にも満たない軍勢が敵軍の背後、山間から姿を現した。
伝令にしては多く、兵の増援にしては少なすぎる。誰かの護衛、あるいは旗本。それが一番しっくりくる。諸葛亮当たりが、軍略を授けにでも来たか。あるいは劉備軍の誇る勇将の出馬か。西面の主将は黄忠だが、弓を取らない今の彼女に大きな脅威はない。関羽なり張飛なりが代わって前線に立つ可能性もある。あの二人ならば、自分の死に花としては十分過ぎる手柄首だ。
一千の正体を見極めようと、秋蘭がさらに目を凝らした時だった。一千が一万にまともにぶつかっていた。
状況を理解するのに、秋蘭にしては珍しく数瞬を要した。来るはずの無い我らの援軍。
「……五斗米道の兵か?」
他に考えられる者もいなかった。漢中を統べて久しい五斗米道の兵なら、山中の獣道か何かを知っていてもおかしくはない。見事に、黄忠の一万の死角を突いていた。
しかし、一千に過ぎない。呼応してしまって良いのか。せっかく固めた陣形を崩すことで、みすみす三千を無駄死にさせることになりはすまいか。一千は見捨て、あくまで敵将の首に拘るべきではないのか。曹孟徳の従姉の死に際は、関羽や張飛の首で飾りたかった。
「せめてあと二千。いや、一千でもいてくれれば良かったのだがな」
見切りを付け掛けた秋蘭の目は、しかし西面に釘付けとなった。すぐに埋没するかに思えた一千が、面白いように敵陣を断ち割っていく。妨げるもの皆蹴散らすという様相で、敵軍は触れた端から崩されていく。
一千の先頭に、双刀を振るう男の姿が見えた。
「―――っ、あの男っ。―――救援だ! 西面を駆け抜けよっ!」
反りはとことん合わないが、息は妙に合う男だ。自分の意図が読めないはずはない。それでも、死地に等しいこの地へ援軍に訪れた。
「まったく、あのひねくれ者がっ」
呆れながら、秋蘭は兵と共に定軍山の斜面を駆け下りた。
夏侯淵の隊と合流すると、諜報の兵に先導させて山中へ取って返した。
一度軍が踏破した進路であるから、まだ道筋が残っている。行きよりも随分と楽な道行きとなった。
帰路の算段は立っている。このまま道筋を辿り、途中ぶつかった渓谷沿いに進路を変えると、やがて陳倉道にぶつかる。陳倉道は褒斜道の西を走る桟道である。当然褒斜道と同じく西涼側からの曹操軍の侵入を阻む劉備軍の備えが置かれているだろうが、こちらからなら裏を取って蹴散らすことは容易い。
問題は劉備軍による追撃だが、進む先は道無き道と桟道であり、迂回路の類は無い。注意すべきは密林の移動に長けた南蛮兵による襲撃だけで、あとは後方の兵のわずかな犠牲だけで乗り切れるはずだ。
―――為すべきことは為した。
ほっと肩の力を抜いた。それを合図としたように、周りを駆けていた兵達がばたばたと力無く倒れ込んでいった。胸を激しく痙攣させ、喘ぐような呼吸を繰り返している。
夏侯淵の兵が後ろから追い付いて来て、倒れた黒山の兵に肩を貸し始めた。
「―――張燕、無事かっ!?」
「そちらこそ、無事なようで何よりだ」
捨て置けと言い掛けたところで、夏侯淵が駆け寄って来た。らしくもない勢い込んだ調子に、張燕は思わず別の言葉を口にしていた。
夏侯淵の視線が、張燕の肩に突き立った矢に向けられた。問われる前に、張燕は口を開く。
「敵軍の将、黄忠といったか? 飛ぶ鳥に矢を当てやがった、大したものだ。あんたと、どっちが上なのかな?」
「傷はそれだけか?」
「……ああ」
夏侯淵はこちらの疑問には答えずに、質問を返してきた。張燕の全身をじっとりと見つめてくる。
「掴まれ」
「―――っ」
夏侯淵が、兵がするのと同じように強引に張燕の脇へ肩を入れてきた。
「……悪いな」
捨て置けと言おうとして、やはり別のことを言っていた。らしくもなく、人肌でも恋しいのか。自嘲混じりの笑みを溢すと、張燕は肩を借りて駆けた。
視線は自然に、進行方向を向いた。先導する諜報の兵の背中が見える。
諜報の兵は、数を一人減らしている。初めから先導してくれていた男で、倒れたまま再び立ち上がることはなかったのだ。
夏侯淵の兵に肩を借りて駆ける黒山兵達の激しく上下していた胸も、今やわずかにふるえるばかりだった。
駆けることが戦なのだから、駆けきった今、行くべき先は一つしかない。
一万五千の命をもって、夏侯淵一人の命を救う。思い定めた通りの結果となった。
「曹子孝が泣いて俺に感謝する、その瞬間を見られないのだけが心残りだ」
「何か言ったか、張燕?」
「……いや、何でもない」
一万五千には、当然張燕自身も含まれていた。
「―――そういえば、お前に聞きたいことがあるのだった」
夏侯淵がこちらを向いたようだ。最期に、張燕は耳に触れる吐息の熱さを感じた。