敵中へ飛び込んでいく曹仁に、白騎兵と共に懸命に追い縋る。曹仁の駆け抜けた後には血煙が渦巻き、無花果の眼鏡はたちまち紅く濡れた。
曹仁、そして白騎兵の姿に、敵兵はすくみ上った。さらに一万騎の曹仁隊と公孫賛の三万騎が寄せると、背を見せて逃げ始める。
「―――追撃をかけますか?」
白鵠の脚を止めた曹仁に無花果は駆け寄った。
「いや、地の利はあちらにある。やめておこう」
「はっ」
反撃を受け痛み分けの結果にでもなれば、当初の目論見を外すことになる。
存外平静な曹仁の言葉に、無花果は遠ざかっていく錦の馬旗を見送った。旗の元に集う二万騎はあくまで整然と後退していく。敗走というよりも、仕切り直しの構えだ。それとは別に二万騎余りが、ちりぢりに潰走していく。
初め、馬超の西涼入りに呼応した兵はおおよそ二万だった。いずれも元馬騰軍の兵士達で、錦の馬旗が立つや間を置かず旗下に参集した。調子が良かったのはそこまでで、以降は馬超がどれだけ錦の旗をはためかせても、集まっていく者はほとんど増えなかった。
本人は謙遜するが、雍州牧公孫賛の政の成果だろう。加えて、長安には天人旗を掲げさせていた。錦馬超はすでに西涼の伝説だが、それだけにその馬超を撃ち破り、関中十部の長二名までを討ち取った天人曹仁の威名はそれ以上の伝説だ。勝算の無い戦いに乗れるほど、前回の戦で西涼が負った傷は小さくない。
しかし漢中での曹操軍の敗報が伝わると、二万はすぐに四万まで数を増やした。
そこで曹仁は騎馬隊のみで長安を発つと、馬超軍の野営を急襲した。曹仁隊の一万騎に、公孫賛が予てから指揮してきた三万騎で、計四万騎である。対する馬超は数こそ同数だが、参集したばかりの二万はいまだ烏合の衆に過ぎない。それも、先の戦で曹仁の強さを見せつけられた者達ばかりである。
曹仁が馬超の旗本を避けて烏合の二万にぶつかると―――単騎駆けを始めた時には肝を冷やしたが―――、それだけでこの戦は終わった。
二万が潰走すれば、馬超は元馬騰軍の二万騎だけで曹仁率いる四万騎と当たらざるを得ない。将の力量が互角―――無花果に言わせれば曹仁の方が上だが、曹仁本人は馬超が上と考えている節がある―――である以上、馬超には初めから勝ち目がなかった。
さすがに馬超の判断は早く、こちらが一当てした時点ですでに後退と決めたようだ。そのため大きな損害を与えることは出来なかったが、急襲の目的は錦馬超を敗戦させるという一点にあった。すぐに曹仁の勝報は諜報部隊の手で西涼中に広められる。錦の馬旗の元に集まる兵の勢いは、これでかなり衰えるはずだった。
長安への帰路に付いた。急がず、城邑や村々に立ち寄っては凱旋する軍の姿を西涼の民の目に焼き付けていく。
公孫賛は精力的に地方巡りなどもしているようで、住民達は存外好意的であった。州牧というと本来民からすれば雲の上の存在だが、公孫賛の姿を見て声を掛けて来る者も少なくない。気さくな人柄の賜物だろう。公孫賛は従者に過ぎない無花果にも、いつも親しく声を掛けてくれる。
凱旋の軍は、長安に至った。民は遠巻きにしながらも、ちらちらと躊躇いがちな視線を送ってくる。長安は公孫賛の居城であるが、弘農王を擁した馬騰が都とした城邑だけに、却って曹操軍への反感は根強かった。それも公孫賛の日毎の努力や張三姉妹の人気で、いくらか落ち着きつつあるようだ。
曹仁が沿道へ出てきた子供達へ向けて手を振った。学校の生徒達だ。長安でもやはり、曹仁は教鞭を取っていた。特に、張燕が漢中へ向かってからはその代わりとばかりに足繁く。
浮かぬ顔で視線を彷徨わせていた子供達は、軍勢の中に曹仁の顔を見つけるとぱっと顔を輝かせた。曹仁の出撃によって否が応にも思い起こされたのは、戦に行ったまま戻らなかったもう一人の先生のことだろう。
笑顔で手を振る子供達のいじらしさに胸を締め付けられるが、凱旋中の曹仁の隣で涙をこぼすわけにもいかない。無花果は無理にも笑顔を作った。
凱旋を終え、宮殿の私室兼執務室へ向かう曹仁に、無花果は黙って従った。曹仁は一瞬迷惑そうな顔をしたが、付いてくるなとは言わなかった。
曹仁隊副官の牛金から、目を離さないように言われていた。気にし過ぎとも思ったが、確かにふっとどこかへ駆け出して行ってしまいそうな雰囲気が今の曹仁にはある。
「灯りをお付けしますね」
曹仁が執務机の上に置きっ放しにされていた巻物を手に取るのを見て、無花果は言った。
夕暮れ時の室内はかなり暗くなっている。執務室に据えられた燭台に、火を灯して回った。
「暗い中お読みになると、目を悪くされますからね。私の目も、それでです」
無花果が顔にかけた眼鏡を軽く持ち上げて見せながら言うと、曹仁は気の無い顔で軽く頷いた。
無花果は執務室に据えられた従者用の机―――といっても曹仁の従者は無花果だけだから、実質無花果専用だ―――で、今回の戦の報告書をまとめ始めた。やはり曹仁が少々迷惑そうな視線を向けてくるが、気付かない振りをする。
やがて曹仁は、手にしていた巻物に改めて視線を落とした。
読みやすいようにと灯りを灯したが、あまり意味の無い行為だ。たぶん、とっくに暗記してしまっているだろう。
巻物は、諜報部隊からの定軍山での戦いに関する報告書であった。曹仁がそれを広げるのは、無花果が知っているだけでもすでに十数回目だ。
定軍山へ辿り着いた黒山賊の兵は、一千に過ぎなかったという。疲労困憊の一千は、それでも鬼神が如き戦振りで黄忠の一万を大混乱に陥れた。呼応して秋蘭が軍を発すると、黄忠軍はたまらず潰走したのだった。
退路を駆ける最中、黒山兵はばたばたと倒れ眠りについていった。そして半数以上の者は、そのまま意識を取り戻すことはなかったという。それには、張燕自身も含まれている。
黒山兵一万五千のうち、漢中を脱し長安へ帰還を果たした者はわずか五千だった。ほとんどが別働隊として褒斜道を進んだ兵で、山中を駆けた一万のうち生き残ったのは三百に過ぎない。
「―――兄貴、曹洪将軍がお見えになりました」
「……通してくれ」
執務室の外からの声に、巻物を巻き直しながら曹仁は答える。
「失礼します」
「お邪魔しますね、仁ちゃん。あらあら、無花果ちゃんも」
幸蘭を伴い、牛金が入室した。
今は益州と西涼の情勢が騒がしいため、諜報部隊の長である幸蘭は長安に身を置いて何やら動き回っている。
「陳矯、あれを」
「はいっ」
曹仁に促され、無花果は予ねて用意しておいた竹簡を幸蘭に捧げ渡した。受け取ると、幸蘭は素早くそれに目を通し、懐へしまい込んだ。
「二百九十八名。確かにお預かりしますね、仁ちゃん」
「頼んだ、姉ちゃん」
黒山賊の生存者達は、退役を願い出る者が多かった。
黒山賊の雑多な装備に粗野な戦法は、張燕という特異な指揮官の元でこそ軍としての体裁を保ち得たものだ。その張燕を失い、最後の戦場を共に戦うことも出来なかった五千は、ほとんど残らず退役生活を望んだ。今さら他の将の元で、他の兵と揃いの具足など着込みたくはないのだろう。曹仁は張燕がそうしていたように、車座になって一夜飲み明かすと、彼らを送り出した。
例外は張燕と共に定軍山に至り、なおかつ帰還を果たした三百―――より正確には二百九十八人である。軍に生き場所を求めた彼らを、幸蘭が自らの諜報部隊に欲しがった。元山賊の男達には退屈な仕事にも思えたが、一も二もなく彼らは頷いた。山越えを先導し死んでいった諜報の兵の姿に、何か感じ入るところがあったのだろう。
幸蘭に渡したのは、二百九十八人分の名簿である。諜報部隊に配属された時点で、他の軍の記録からその名は抹消される。幸蘭の懐にしまわれた名簿が、彼ら最後の公式の記録だった。指揮官を失った黒山兵に代わって、曹仁と無花果が処理を担当した。
かつて百万を数えた賊徒であり、曹操軍の主力として長く乱世を戦い抜いた黒山賊は、これで完全に海内から姿を消したことになる。
「―――さて、戦況も一旦落ち着いたことですし、本当は少しお話をしていきたいのだけれど、こういう時は男同士の方が良いでしょうね。牛金さん、弟をお願いします。無花果ちゃんは、……男二人でもむさいし、付き合ってあげて下さいね」
「えっ?」
意味が分からず無花果が戸惑っていると、そそくさと幸蘭は退室していった。
「……やりますか?」
角が大振りの瓢を顔の前に持ち上げて言った。入室してきた時から何をぶら下げているのか不思議に思っていたが、どうやら酒のようだ。
「そうだな。陳矯、そこの椀を三つ、―――いや、四つ取ってくれ」
「はいっ。……酒杯をご用意致しましょうか?」
水差しを乗せた盆の上から、器を四つ取って執務机の上に並べた。水や茶を飲むための物だから、酒杯としてはかなり大きい。
「客人相手でもなし、これで構わんだろう」
言いながら、曹仁は牛金から受け取った瓢から酒を注ぎ始める。その間に牛金が机の前に、椅子を二つ並べた。
「わっ、私の分は少しで」
自分も人数に含まれているようなので、無花果は慌てて曹仁を制した。
「こんなものか」
最期の碗には三分の一ほどに留め、曹仁が瓢を置いた。他の三つの碗にはなみなみと酒が満ちている。三つのうち一つは、張燕のものだろう。
曹仁と牛金はどちらともなく杯を取り、傾けた。
「きついが、良い酒だな」
「曹洪将軍からの頂き物です」
「―――っっ」
無花果も杯に手を伸ばすも、一口飲み下した瞬間に胃の腑が燃え上がった。普段ほとんど酒を飲まない無花果には強過ぎる。
無花果が舐めるようにちびりちびりとやる間に、曹仁と牛金は二杯目を注ぎ始める。酌をしようとするも、曹仁に手振りで制止された。手酌でやる方が、自分達らしいということのようだ。
しばらく無言で椀を傾けていると、侍女が酒肴を運んで来た。幸蘭に頼まれたという。
「酒肴に梨?」
肉や干魚に混じって、一口大に切り分けられた梨の皿が卓に置かれた。曹仁が怪訝そうに呟く。
「飛燕殿の好物でしたから、曹洪将軍が気を利かせてくれたのでしょう」
「何っ? 梨が好物だなんて、俺は知らないぞ?」
「そういえば、兄貴の前で食べている姿を、見たことがないかもしれません。調練の後などに、よく齧っていましたよ」
「あいつめ、取られるとでも思ったか?」
そうではなく、甘い物を好んで食べているところを曹仁には見られたくなかったのではないか。思い浮かんだ考えを口にはせず、無花果は代わりに別のことを言った。
「張燕将軍の御出身地は、そういえば梨が名産でしたね」
常山郡真定の梨と言えば、甘い果実の代名詞のようなものだ。
「ふむ。黒山に籠もって、こんなものばかり食っていたのか?」
曹仁が梨を一つ摘まんで、口に放った。酒とはやはり合わなかったのか、わずかに眉をしかめながら続けた。
「ずっと聞けずにいたが。黒山の張牛角という男、お前は知っていたか、角?」
「名前ぐらいなら。俺は荊州、張牛角は冀州の常山でしたから、会う機会こそありませんでしたが、俺も奴も当時江湖で売出し中の侠客でしたからね」
「あいつが惚れ込むだけの男ではあったのかな?」
「ええ、評判を聞く限りでは」
「そうか」
「……侠客に売り出し中などいうものがあるのですか?」
江湖―――侠客の世界―――は、無花果には縁遠い。興味を引かれ、牛金に尋ねた。
「そりゃあな。功名富貴を求めず、官にも依らず、自らの男だてと信念でもって仁義を立ててこそ侠、―――とは言うが、まずは名を売らないことには誰にも頼っちゃもらえねえ。人に頼られねえ侠客なんざ、ただの厄介者に過ぎないだろう?」
「……確かに」
「あの頃、世は荒んではいたが、後の群雄達はまだ漢室の法令に従っていた。法の外に立つ侠客達は人々に頼られ、大いに名を成したものさ。黒山の張牛角、元白波賊で今は車騎将軍の楊奉殿。この辺りの名前はよく聞いたな。他には予州黄巾の黄邵、劉辟、何儀の三人。雷公に白騎、李大目。今は呉軍の将をしている鈴の甘寧も、益州者にしては珍しく中原まで名前が知られていた」
知らない世界の話でありながら、見知った人物の名もいくつか出てきた。当然、全く聞き覚えの無い名前もある。無花果は興味深く話に聞き入った。
「もっとも、なかには名前を売り出すことすら不純と斬って捨てる潔癖な御仁もいたが。―――黒髪の山賊狩りの噂は、兄貴も聞いたことがあるのでは?」
「ああ、それなら江湖には片足を突っ込んだだけの俺でも知っている。抜群の武勇に、絶世の美貌の女侠客だとか。いくつもの村を賊徒の手から守り抜きながら、名も名乗らず立ち去っていく、だったか?」
「ええ。今にして思えば、あれは関羽殿ではありませんかね?」
「……そういえば桃香に会うまでは、鈴々と二人で山賊退治をしていたと言っていたな」
曹仁が二度三度と小さく頷いた。
「あとはそうだ。最近は華蝶仮面などと名乗る、目立ちたがり屋の癖に正体不明というおかしな侠客もいるらしいですね」
「そういえば、そんな奴もいたな。一時期は許にも姿を見せていたらしいが、結局俺は一度も見れなかった」
その後しばらくは、曹仁と牛金の侠客談義が続いた。侠客時代の牛金の逸話や、曹仁との出会いにも話は及んだ。今とは違う二人の姿を垣間見るようで、無花果は心躍らせながら聞き役に徹した。
やがて話題は、黄巾の乱での張牛角との戦い、そして曹仁と張燕の二度の一騎討ちへと至った。
「ちっ、すっかり忘れていたが、二度目の勝負は俺の負けで終わったんだった。飛燕の野郎、勝ち逃げかよ」
ふらふらと身体を揺らしながら、曹仁が言った。かなり酔いが回っているようだ。
「一度目は兄貴が勝ったのですから、痛み分けでしょう」
「いや、最後の一戦があいつの勝ちというのがむかつく。くそっ」
曹仁は自分の椀を一息に空けると、卓上に置かれた四つ目の椀を引っ手繰るように取り上げた。やはり一息に呷る。
先刻から、この調子だった。自分の椀を空けると、立て続けに張燕に献じたはずの酒も飲み干す。まるで誰かと競い合ってでもいるような飲み方だ。
「―――これで二人目だ。角、お前は死ぬなよ」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら酒を呷り続けていた曹仁が、不意に呟いた。
「俺は兄貴の副官ですから。御命令というのでしたら、死にません」
「そうか。なら命令だ」
「はっ」
牛金の返答に満足したのか、曹仁は机に突っ伏して寝息を立て始めた。目尻にうっすらと何かが光った気がして、無花果は慌てて目を逸らした。
「……曹仁将軍にも、こんな一面があったのですね。弱さなど、欠片も無い御方とばかり思っておりましたが」
「そりゃあ、お前―――」
牛金は何かを言い掛け、口籠った。しばらく考え込んだ後、肩をすくめながら言う。
「いや、お前のような者も、兄貴の側には必要か」
「……二人目というのは何のことでしょうか?」
何やら誤魔化されたようだが、無花果は頭にもう一つ浮かんでいた疑問を口にした。
「張繍殿のことを仰っているのだろう」
張繍というのは、洛陽で朝廷の抑え役を務める月の名だ。しかしその名がかつて別の男のものであったことは、無花果も聞かされている。白騎兵の元となった董卓の旗本を鍛え上げた男だという。
「さてと、兄貴も眠ってしまったことだし、ここらで締めとするか」
それ以上の会話を避けるように牛金が立ち上がり、その日は解散となった。
翌日、珍しい客人が曹仁の元を訪れた。
「曹仁将軍、御無沙汰しております」
桂花の甥、荀攸である。甥と言っても年齢は桂花よりもいくつか上で、叔母とは違って落ち着きと分別を備えた大人の男性である。
「今日は何用です?」
「叔母さんに、少々頼まれましてね。曹仁将軍にも御賛同頂き、連名で発議させてもらえないかと」
荀攸は巻物を一巻、曹仁に捧げ渡した。曹仁は執務机の上に、無造作にそれを広げだ。
「……廷臣達が勝手にやっているだけの話と聞いていましたが」
「ええ。しかしどうせならば家臣一同という形で発議させて頂いてはどうかと、叔母さんに文が届きましてね、―――夏侯淵将軍から」
「そうか、秋姉が」
秋蘭は征西将軍―――西涼方面の主将―――の任を自ら辞し、今は洛陽に留まっている。荊州の華琳に合わせる顔が無いと感じているのだろう。
曹仁に手振りで招き寄せられた。荀攸に伺いの視線を向けると、柔和な笑顔で首肯されたため、無花果は机上の巻物に目を向けた。
やり取りから大よその察しはついていたが、華琳の魏王冊立を求める発議書である。天子に対する上奏文に続いて、曹操軍重鎮の名が書き連ねられていた。筆頭には桂花と春蘭。荊州に駐屯中の面々がそれに続き、次いで洛陽の月や徐晃に混じって秋蘭の名も記されている。
あとは長安の曹仁達の名が加われば、曹操軍の主だった者達の大半が出揃う。
「御署名頂けますか?」
「―――うん? ああ、そうだなぁ」
荀攸の言葉に、曹仁が上の空で答えた。誰かの名を探すように、紙上に何度も視線を走らせている。
「……まあ、あるはずがないか。生まれついての王侯将相など、あいつが一番嫌いそうなものだが、いったい何を考えていたのか」
ぼそりと呟いた後、曹仁は無花果に筆の用意を命じた。
「二十万の民、お返しに参った」
甘寧を伴い旗艦から降り立つと、周瑜が言った。
「お引き受け頂く約定だったはずですが」
「おや、確か劉備軍が土地を得るまでお預かりする、という話では無かったかな?」
朱里の言葉に、周瑜は白々しく返した。
「皆にはぜひ私の国に来てほしいと思っていたから、ちょうど良かった。―――おーいっ、みんなー、久しぶりー!」
桃香が桟橋へ駆け寄りながら、長江一面にずらりと並ぶ船団へ向けて手を振る。甲板から喚声がそれに答えた。
孫策軍から、預かっている二十万の民を返還すると報せが届いたのは、つい数日前のことだ。それは使者というよりも進軍の先触れで、返答する間もなく船団は長江を遡上して益州へと入り込んだ。二十万の人間を質に取られているようなもので、力ずくで制止するわけにもいかず、結局巴郡の船着き場に桃香率いる出迎えの軍勢を並べた。周瑜もさすがに桃香は無視出来ず、船団はここでようやく停泊した。
百隻近い大型船と数百の中型船が、順繰りに桟橋へ寄せては民を下船させていく。操船の腕も、船団の規模も今の劉備軍とは比較にならない。それでも、これで孫策軍の水軍の全てではないだろう。夏口や江陵の守備にもかなりの数を残しているはずだった。
「……船旅はいかがでしたか? 民の皆さんは、身体の調子を悪くしていないでしょうか?」
「ご心配なく、なかなか快適な水路であった。……しかし、こんなところまでで良いのか? 良ければ、成都まで送っていくが?」
「―――っ、ここまでで結構です」
二十万の送迎を口実に、進軍路を探る意図を周瑜は隠しもしない。劉備軍が本拠を置く成都へも、長江の支流を伝えば船での進軍が可能である。
加えて二十万の民は、荊州で曹操軍からの逃避行を劉備軍と共にした者達である。民とは即ち国力であるが、周瑜としては領内に二十万もの桃香を慕う者を抱える危険を避けたかったのだろう。荊州南部の平定を妨げた異民族の蜂起が、朱里と雛里の指示によるものであることはすでに暗に示している。
反曹の同盟こそ結んでも、劉備軍の下風に立つつもりはない。漢中を制した劉備軍に対して、周瑜はさっそく牽制を掛けてきた。
とはいえ劉備軍にとって、気骨ある二十万の民の移住は有り難かった。益州の水源豊かで肥沃な大地は、開拓の余地をまだまだ残している。
「さてと、そろそろ本題に入らせてもらおうか」
「……こちらへどうぞ」
気を取り直して、朱里は一つだけ張った幕舎へと周瑜を促す。甘寧と、朱里の護衛に付いてくれている星には入り口に残ってもらった。
幕舎の中には卓が一つに、それを挟んで向かい合う形で床几が二つあるきりだ。
「ここまでは、予定通りの展開か」
床几に腰を降ろしながら、卓上に広げられた地図を見て周瑜が言った。益州の地図ではなく、曹操と孫策の領土を含む中華全土を描いたものだ。周瑜と交わす会話の本題となると、反曹連合の今後以外は有り得ない。
「そうですね。少々出来過ぎなくらいに」
巴蜀を手に入れた後は、確実に漢中を抑える。雛里が残していった戦略を、雛里抜きで何とか実現して見せた。
真っ当な軍略では雛里に劣るという意識がある分だけ、勢いに任せて突き進んできたが、今にして思えば賭けの連続だった。桃香の人気だけを頼りに敵軍拠点を放置して成都までひた駆けた。参入したばかりの南蛮兵を作戦の中心に据え、漢中を急襲した。いずれも雛里がいれば大慌てで止められていたかもしれない。
「―――とはいえこれで、形は出来ました」
卓上の地図は、中華が三つの色で塗り分けられていた。
益州は桃香の牙門旗から取って緑に、揚州ならびに荊州南部は孫策の牙門旗の赤、そして華北と中原全域が曹操の牙門旗の紫である。
「ふむ。絵図上は、まさに天下三分と言ったところか」
周瑜が言う。
劉備軍の有する益州も孫策軍の揚州と荊州南部も、他の州と比べて広大だった。領土だけをみれば、天下はきれいに三分割で塗り分けられている。しかしあくまで一州は一州であり、住民の数では曹操軍が圧倒的であった。
「漢中を取れて、まずはほっとしました」
「気を抜かれては困るな。船の用意は整っているのか?」
さすがに周瑜は話が早い。
人口で―――兵力で大きく劣る以上、如何に曹操軍の戦力を分断するか、それが反曹連合の眼目である。巴蜀を制したのみでは、長江を下り孫策軍と協調して曹操領へ攻め入る他なかった。しかし漢中を手にしたことで、漢水を下って荊州北部に直接軍を進める道と、桟道を越えて西涼に進出する二つの道が出来た。すでに西涼には翠を派遣し、曹操軍の主力中の主力である曹仁隊を張り付けることに成功している。残る進軍路は漢水と長江、いずれも水路である。
「それが、あまり順調とは。劉焉さんが熱心ではなかったこともあって、職人さん達が育っていません」
「そんなことだろうと思った。今日連れてきた二十万の中には、荊州水軍の造船に関わっていた職人も多い。彼らを雇い入れると良い」
「そうでしたか、それは助かります」
恩を着せるような言い様は引っ掛かるが、朱里は素直に頭を下げた。
それからは、今後の展開を語り合った。
反曹連合としての次の一手。それに対する曹操の対応。次の次の一手とその対応。予想というよりも全ての可能性を塗り潰していく作業で、展開はいくつもの枝分かれを繰り返し多岐に渡った。
以前は雛里と毎日のようにしていたことだが、今は紫苑や星、馬良や馬謖相手に極稀に語って聞かせるぐらいだ。同盟相手とはいえ他国の軍師であるから、半ば腹の探り合いという形ではあるが、朱里にとっては久々の自分と近しい思考を持つ相手との語らいである。
「朱里ちゃん、周瑜さん、終わったよー」
時間はたちまち過ぎ、桃香自ら民が下船を終えたことを告げに来た。
「なかなか有意義な時間だった。―――ああ、そういえば劉備殿と諸葛亮は、曹操の話をすでに聞いているか?」
周瑜が床几から腰を上げながら言った。
「華琳さんの話?」
桃香が小首を傾げる。
「そうか、まだ伝わっていないか」
周瑜は満足げな顔で、小さく頷いた。
何気ない言動の一つ一つに意味がある。周瑜というのはそういう人間だろう。
漢中から山越えで長安、洛陽を経る劉備軍の諜報網よりも、荊州から水路を伝う孫策軍の行軍の方が速い。桃香の反応から、ここではそれを測られたようだ。
「……それで、曹操さんの話というのは何ですか、周瑜さん? もしかしたら、私はもう聞いている話かもしれません」
桃香と周瑜を、あまり話させない方が良い。朱里は先を促した。
「魏王に封ぜられたそうだ」
「―――っ」
「へえ、そうなんだ」
のほほんとしている桃香に対して、今度は朱里の方が露骨に反応を示す番だった。