中型船が三隻、近付いてきているようだった。各々数艘の小型船を伴っている。
「―――文聘、いるか?」
「はっ、ここに」
華琳の足元まで進み出た文聘が、鍛え上げられた身体を屈める。
文聘。字を仲業。黄祖が没し、他の目ぼしい将も桃香に付き従い離脱した荊州に残された唯一の将軍らしい将軍である。
船での本格的な戦は華琳にとっても曹操軍にとっても、江陵での敗北が初戦である。孫呉の将兵と比べれば多少見劣りするとは言え、やはり荊州出身の将に頼らざるを得ない。
「ただの斥候かと」
「普通、小型船だけでやるものではないの?」
「はい。多少の衝突は辞さずということでしょう」
「威力偵察ということか。そこは陸上の戦も水戦も変わりないようね」
陸上でも敵情視察だけなら数騎で済むところを、あえて小隊から中隊規模の斥候を出すことはある。単純な兵力、陣形だけでなく、迎撃態勢や練度を測るためだ。
「騎兵の戦と通じるところがありそうです。威力偵察に関しては、陸上の場合よりも効果がずっと大きそうですが」
雛里が口を挟んだ。
「そうね。陸上の戦と違って、一度固めた陣構えを簡単に解くというわけにはいかないものね」
中型船三隻は、二里(1キロ)ほどの距離を置いて、一見して無防備に漂っている。長江の川幅はこの辺りでは十里(5キロ)近くもあるが、こちらから追手の船を出しても南岸の陣へと逃げ込まれてしまうだろう。
「いかがされますか?」
「とりあえず放って置きましょう。矢が届く距離まで近付いてくるようなら、迎撃なさい」
「はっ」
「本陣へ戻るわ。文聘、貴方は引き続き警戒を」
言い置き、小型の快速船に乗り移った。流琉が船尾について“すくりゅう”の柄を握ると、あっという間に陸地が近付いて来た。本陣は、陸上に置いている。
「やはり、気合で何とかするしかないだろう」
「それで何ともならないから、こういう状況に陥っているんじゃないっ。少しは脳みそを使って話しなさいよっ」
「なんだとっ!」
「なによっ!」
本営の幕舎へ足を踏み入れると、春蘭ら諸将と軍師達が額を突き合わせていた。
夏口を包囲させていた春蘭と秋蘭も含めて、烏林に主力の将兵を呼び集めた。夏口の軍の指揮は、元劉表配下の趙某やら韓某やらに交代させている。
江陵を足掛かりに夏口、柴桑、建業、呉と水陸併走で攻め降るというのが、当初想定していた進軍路だった。本拠建業を筆頭に、水軍基地としては最大の柴桑、副都にして孫家一門の生地である呉と、孫呉の主要拠点はいずれも長江沿いに位置していた。長江の水運で栄えた土地であり勢力なのだ。
主要拠点を抑えてしまえば、元々豪族や異民族の力が強い土地だけに孫家の影響力は失われるだろう。後は残った者達に臣従を誓わせるか、潰すかだ。孫家は豪族達を時に宥めすかし勢力を拡張してきたようだが、華琳にその心算はない。盤上から孫呉が消えた時点で残る大敵は桃香一人であり、今さら豪族達の力を取り入れる必要など曹操軍にはないのだ。上手くいけば一年と掛からず江南を制することが出来る試算であった。
しかし、孫呉の水軍が強かった。対陣して十日余り、何度か瀬踏みの船団を対岸へ送り出したが、その度に壊滅に近い損害を与えられていた。
長江沿いの主要拠点だけを点と点で繋ぎ、線で制圧する計画は見直す必要があった。長江河口に位置する呉までとなると、三千里以上も攻め降る必要があるのだ。孫呉の水軍相手には、無謀というものだった。大規模な陸上部隊を江南に送り込み、じっくりと面で制圧していく。そうして陸を先行させ、孫呉水軍を圧迫する。呼び集めた春蘭達は、江南へ送り込む陸上部隊の指揮官だった。
それでも、水戦も負けたまま避けるつもりはない。兵を満載させた船は船足が落ちて水戦では恰好の的であるし、当然、沈められれば一度に多くの兵馬を失うことにもなる。陸上部隊を長江南岸へ送り込むためにも、ここで一度は叩くべきだった。
「……盛り上がっているようね」
溜め息交じりに呟く。幕舎内では華琳が前線に視察へ出る前から、引き続き同じ議題が語り合われていた。ただ先刻までは見えなかった顔が一つ増えている。
「華琳さまっ、お帰りなさいませ」
舌戦―――というには程度の低い言い争いを繰り広げていた春蘭と桂花が、ぱっと声を揃えた。
「桂花、来ていたのね」
「はいっ。何かご入用な物や、不足している物資はございませんか?」
「特にないわ」
桂花は襄陽で政務及び輜重の担当だが、物資の確認と称して度々江陵やここ烏林の前線まで足を運んでいた。言うまでもなく華琳に会うことが一番の目的だろうが、他の仕事に支障をきたしているようでもないし、黙認していた。後方支援の長が前線に足繫く顔を見せると言うのは、戦う兵達にとって悪い気はしないはずだ。
「それで、誰か良い方策は浮かんだかしら?」
華琳は諸将へと視線を向ける。水軍で一戦を期するも、その前に厄介な問題が発生していた。体調を崩す兵や水夫が続出しているのだ。
早急に張魯と張衛を呼び寄せたが、懸念された疫病という診断は降されなかった。曹仁が宛で手に入れた医学書「傷寒雑病論」のお蔭もあって、疫病の蔓延は未然に防がれているという。
満足に食事もとれないような重篤な者でも、陸地の陣へ移すと半日ほどで力を取り戻す。張魯は医術の領域の外にあると断じた。いわゆる船酔いというものである。
酩酊にも似た症状の原因は船の揺れにあるというが、調練では表面化しなかった問題だった。自ら櫓を漕ぎ、舵を取り、甲板上を駆け回っている間はあまり患うこともないらしい。滞陣し、ただ流れに揺られている今のような状況が一番酔うのだという。馬車でも御者をしていて酔う者は少ないが、車内の揺れに耐えられないという者は多い。同じことなのだろう。玄武池はそもそも水の流れも無く揺れが少なかったし、漢水での調練でもただ揺られているだけの時間などは設けていない。
「……」
良案は上がってこなかった。
春蘭が気合いがどうだと叫ぶも、華琳は黙殺した。気の持ちようや意識の置き所というのは確かに症状に関係しそうだが、気合を口にしたところでどうにかなるものではない。事実、当の春蘭自身が船の上ではこうして叫ぶ気力もなくなる有様なのだ。
視線を移した。目に止まったのは、帽子を目深に被って丸くなっている雛里の姿だ。
「……雛里、何か思いつかない?」
「―――華琳さまっ、敵の軍師に何をっ!」
「そんな者に頼るくらいなら、私にお聞きくださいっ、華琳さまっ!」
「あわわっ、あのっ、そのっ」
勢い込んだのは春蘭と桂花で、他の者はむしろ興味を引かれた様子で雛里に視線を注いでいる。今にも詰め寄りかねない春蘭と桂花、そして自分を注視する皆の目に、雛里が分かり易く狼狽して見せる。
春蘭と桂花の雛里に対する敵愾心は相当なものがある。側仕えの従者としたことが気に入らないのだろう。桂花などはただでさえ劉備軍嫌いであるから、仇敵を見る目を向けている。いつも以上に遠征中の華琳の元へと伺候してくるのも、雛里の存在を気にしてのことだろう。
「それじゃあ聞くわ。桂花、何か良い案が思いついたのかしら?」
「ううっ、それは」
「ですから、気合で―――」
「―――春蘭、貴方は黙っていて」
「……は、はい」
「雛里。貴方、出身も軍略を学んだのも荊州だったわよね? 実戦の経験はなくとも、水軍について学ぶ機会もあったのではない?」
消沈する桂花と春蘭は放置して、華琳は再び雛里へ水を向けた。
「ううぅ」
雛里は思い悩んだ様子で顔を伏せた。
「相手は劉備軍ではなく孫策軍、諸葛亮ではなく周瑜よ。気に病むことはないわ。何より、あの孫武の後裔孫家に仕える軍師と、軍略を戦わせてみたいとは思わない?」
「そ、それは、…………」
雛里が顎に手を当て、視線を下げる。何やら黙考する顔付きだ。
「ちょっと、華琳様のご質問に答えなさいよっ」
桂花と春蘭が再び騒ぎ立てるが、それも耳には入っていない様子だ。華琳は二人を手振りで黙らせる。
「……連環の計、と言うのはどうでしょうか」
しばしして、おずおずと雛里が切り出した。
「連環の計? 複数の計略を組み合わせるということかしら?」
「いえ、そういう意味で使われることもある言葉ですが、この場合はもっと単純です。例を挙げますと、華琳さん達が官渡で袁紹軍を破ったときにも用いた―――」
「―――連環馬。いえ、この場合は連環船か」
先刻、雛里は水軍と騎兵の戦に通じるところがあると感想を漏らしていたから、そこから得た着想だろう。
「はい。船に用いた場合、揺れを減弱してくれるのではないかと」
「なるほど、船団を一つの巨大な船とするわけね」
船酔いに倒れる者は、大型船よりも中型船の乗員から多く出ていた。船が小さくなればなるほど、揺れは大きく耐え難いものとなるのだ。
「―――よし、まずは十隻ほどで試してみましょう」
暫時黙考の後、華琳は決断した。
曹操軍の連環馬は、元を糺せば反董卓連合で劉備軍が呂布の騎馬隊を阻むのに用いた連結式の輜重車に由来している。雛里はその発案者だった。それ以来多くの戦果を生み出してきた策だけに、自然と引かれるものがあった。
船酔い対策もさることながら、江上を荒野、水軍を騎馬隊と見立てれば、精強な孫呉水軍に対する有力な武器の一つとも為り得る気がする。鎖を広げて押し寄せれば、如何に機動力で上をいく孫呉の水軍と言えども容易く逃げ切れるものではない。ちょうど重装騎兵の虎豹騎で白騎兵を絡め取った時と同じ展開だ。あとは隣接した船同士、兵と兵とのぶつかり合いである。船酔いさえ無ければ、それはいつもの陸上の戦と変わりない。
一つ懸念があるとすれば、敵軍による火計だった。鎖で連結させたことで、火を放たれた際には他の船にも容易く延焼するだろう。
ただ、この地に陣を布いてから常に風は船団の背後、華琳達のいる本陣から江上へ向けて吹きつけている。火計は風上から仕掛けてこそ効果を発揮するもので、風下に位置する孫呉水軍が用いるとは思えない。
「華琳さまっ!!」
春蘭と桂花が声を揃えた。
「なあに? やはり何か良策が思いついたのかしら」
「そ、それはっ」
「敵の案を入れるなどっ! 我らの誇りがっ!」
言いよどむ桂花に代わって、春蘭が叫ぶ。
「いくら叩いてもその“ほこり”ぐらいしか出てこないから、雛里の案を入れるのじゃない」
「し、しかし、危険です。諸葛亮と示し合わせた策かもしれません。そもそも、鳳統をお側に置くこと自体お止めになるべきです。こちらの計略が敵に筒抜けとなりかねません」
桂花が論調を変えてきた。
「船にとなると、連環馬の時と違って大掛かりな施行が必要でしょうし、元々相手に隠し通せるような策でもないでしょう」
真桜に視線を投げる。
「大将の言わはる通りです。さすがに秘密裏に、ちゅうのは難しいですわ」
「だったらなおさら、こんな策はやめるべきです」
「相手に気付かれても、それほど不利益が出るわけでもないでしょう」
華琳は先刻考えた連環船の利点、欠点とその対処法を口にした。
「……確かに有効な手に思えますが」
「むむむ」
不服気ながらも、桂花と春蘭は連環の有用性は認めたようだ。特にこの一月余り船酔いに苦しめられてきた春蘭は、内心では飛びつきたいほどだろう。二人の心に引っ掛かっているのは、敵の軍師である雛里の立てた策と言う一点だけだった。
「それと従者の件は、すでに散々話し合ったことでしょう。私の側に置くということは、つまりは常に虎士の監視を受けるということよ。情報漏洩を恐れるなら、これほど安全な配置もないでしょう」
「それはそうですが」
華琳にとっても、雛里が策を立てたことには大きな意味があった。
自らの策で劉備軍と同盟関係にある孫呉の船団を討ち破ったとなれば、雛里も腹を決めるだろう。その才知に加えて桃香への当て付けという意味でも、雛里はいま最も欲しい人材の一人だった。
「真桜、早速鎖の準備を」
話は終わりと、華琳は散会を命じた。
「これはこれは、お揃いで」
劉備を先頭に蜀漢の面々が桟橋へ降りると、冥琳は慇懃に頭を下げた。先日とは反対に、今日は劉備軍の船団をこちらが出迎えていた。
「お邪魔します、孫策さん、周瑜さん」
「長旅お疲れ様。曹操の船団には出くわさなかった?」
雪蓮は軽い会釈で劉備の挨拶を受けると問う。
曹操軍本陣―――烏林の対岸に布いた孫呉の陣営である。巴蜀からの道程には今や曹操軍の水軍基地となった江陵があるし、当然互いの本陣を置いたこの地の周辺には警戒網が張り巡らされている。
「斥候の小舟を何度か見たから、襲撃を警戒はしていたんですけど、何も」
「軍旗は伏せてきましたから、孫策さん達の軍船と見られたのだと思います。江陵では、水戦では大勝だったのですよね? さすがに曹操さんも、今は水戦には慎重になっているのでしょう」
劉備の答えを諸葛亮が捕捉した。
黄祖の水軍を受け継いだ劉備軍の軍船は、長江流域で発展した造船術で造られている。孫呉の船がそうであるように、黄祖も多少の細工を加えていただろうが、外から眺めただけでは簡単に見分けはつかなかった。
「その江陵だけれど、せっかく譲ってもらったのに悪かったわね、劉備」
雪蓮がきまり悪そうに顔を曇らせた。
「いえ、民のみんなはうちで元気にしていますから」
「そう言ってもらえると助かるわ」
荊州北部から江陵へと逃げ落ちた二十万という人間は、予め巴蜀の地へ送り届けている。襄陽からの逃避行を経て気骨を育まれた反曹の民を城内に囲っていては、易々と放棄という訳にもいかなかっただろう。
「なんだか、慌ただしいところに来ちゃったみたいですね? 私達の船、お邪魔でしょうか? 移動させましょうか?」
劉備が言う。桟橋には孫呉の兵が盛んに行き来している。
「少々斥候の数を増やしているところだが、小型船の往来には支障ないし、そのままで構わない」
「何かあったんですか?」
「曹操軍の船団が大掛かりな工作をはじめたので、その様子見だ。お得意の連環馬ならぬ、連環船とでも言えばいいのか」
「…………連環、船」
冥琳の答えに、諸葛亮が顎に手を当て、視線を下げる。何やら黙考する顔付きだ。
「それにしても、本当に総出で来てくれたのね。―――ああ、そういえば新しく仲間に加わった子達がいないのか。馬超と、南蛮の孟獲だったかしら?」
「はい。翠ちゃんと蒲公英ちゃん―――馬超将軍と馬岱将軍には、西涼で曹仁さん達の足止めをお願いしてあります。南蛮の皆には、お目付け役に馬良ちゃんと馬謖ちゃんを付けて巴蜀の備えに残ってもらいました」
劉玄徳の背後に控えるのは諸葛孔明に関雲長、張翼徳、趙子龍。曹操軍に囚われの鳳士元こそ欠けているが、いわゆる世に知られた劉備軍の面々である。他にも荊州の黄忠、厳顔、魏延の三人がいた。
「我らを囮に、西涼方面に領地を伸ばしてくれても良かったのだがな。天下三分とは、そう言うことだろう?」
一つが一つを討ちに掛かれば、残る一つが手薄となった攻め手を討つ。互いが互いを牽制しあうことで生まれる拮抗状態こそが、諸葛亮と鳳統が冥琳に説いた天下三分の肝である。
曹魏が孫呉を討ちに掛かれば、蜀漢のすべきことはこうして援軍を派遣することではない。戦力を割かれた西涼方面に軍を入れ、曹魏を攻め立てることだった。蜀漢の攻めが苛烈であれば、曹魏は孫呉討伐を諦め防衛に戦力を回さざるを得ない。
孫呉と蜀漢の主力が一つ所に集まり曹魏と対峙する今の状況は、冥琳がかつて目指した天下二分と同じことだった。それは、諸葛亮らがすぐに破綻すると断じたものだ。
「分かっています。ですが今回の戦、周瑜さんは我々の牽制などなくとも勝つつもりなのでは?」
諸葛亮が思索を切り上げ、顔を上げた。
「……負けるつもりで、戦を始める者などいないさ」
諸葛亮が、満足げに肯いた。
水戦は勝てる。冥琳の頭の中にあるのは、そこからどこまで勢力を伸ばせるかだった。
水戦での勝利が足止め程度のものなら、江陵を取り戻すまでだろう。水戦で大きな損害を与えることが出来れば、襄陽まで手を伸ばせるかもしれない。あるいは雪蓮の騎馬隊の働き次第では、曹操の首すら狙えるだろう。
「しかし、だからこそ我らのことなど気にせずそちらも勢力を伸ばせば良いではないか。曹操の力が削られれば、それは結局我らの利するところにもなる」
「今の私達の力では、潼関に兵を籠められるとたぶん抜けません。潼関の裏を突く河水の渡渉点も、これからの季節は水量が増えて使えないという話ですし」
「漁夫の利で潼関以西―――雍涼二州を得るだけでは不満ってわけ?」
雪蓮がずいっと諸葛亮に顔を寄せる。
「あ、あわわっ、そういうことではなく―――」
「―――それでは許まで届きません」
虎の威勢に気圧された伏竜に代わって劉備が言った。
「許?」
雪蓮が目を丸め、ぽかんと口を開けた。冥琳も気持ちは同じだったが、眼鏡を直す動作で誤魔化し、問う。
「……曹操軍の本拠まで落とすつもりなのか?」
「は、はいっ。曹操さんには河北四州まで退いてもらいます。それでこそ本当の意味での天下三分が成るというもの」
虎の呪縛から解放された伏竜は続ける。
「私達だけの力では、西涼方面から中原まで兵を進めることは不可能です。孫策さん達だけでも、せいぜい襄陽辺りが限界では? ですが、主力を合わせれば―――」
「―――あーはっはっはっ!」
虎の哄笑がこだました。諸葛亮はまた気圧されて、口を噤む。
「貴方達、良いわっ。そんな良い子ちゃんの顔をして、私なんか比べ物にならないくらい強気で強引で、強欲じゃないっ」
「孫策、貴様っ」
雪蓮の放言に、関羽が柳眉を逆立てる。
「褒めているのよっ、関羽。ふふっ、良いわね、本当に良い」
ひとしきり笑うと、雪蓮はさっと居住まいを正して言う。
「赤壁へようこそ。心から歓迎するわ」
「やはりお前だったか、順」
「陣中見舞いに来たよ、仁兄」
面会を求めているという行商人を本営へ通すと、ひょいと顔を覗かせたのは想像通りの男だった。
「軍議中だったのか? 少し席を外していようか?」
幕舎内には曹仁だけでなく副官の角と幕僚二人、それに従者の陳矯が揃っている。
「いや、議題というほどのものもなくてな。知った顔だけだ、遠慮するな」
祁山に陣を布き、馬超と対陣中ではあるが決戦の様相には至っていない。
陣中では槌音ばかりが喧しかった。祁山は雍涼東西の交通を高みより睨み据え、漢中と西涼の南北の連絡をも断ち得る絶好の位置に聳えている。これを機に要塞化を進めていた。
「そういうことなら」
言うと、高順は気負いの無い足取りで幕舎の真ん中まで足を進めた。行商人とはいえ元は呂布軍で重装歩兵を率いた将軍である。軍議の席など慣れたものだろう。
「ご無沙汰しております、詠さんに角さん」
「しばらくね。貴方、また背が伸びたんじゃない?」
角が軽く会釈を返し、詠も親しげな口調で受ける。
二人とも高順が皇甫嵩の屋敷に暮らしていた頃からの付き合いだ。曹仁や恋、霞にとって弟分の高順は、二人にとっても親戚の子供程度には近しい存在だろう。
「どうでしょう? 商人としては、あまり大きくなるのも困りものなのですが。お客様を怖がらせてしまいます」
「ちょっと曹仁のやつと並んで立って見なさいよ」
「お断りだ」
詠の提案を言下に切り捨てると、曹仁は陳矯に視線をやる。陳矯はすぐに察して駆け出すと、床几を一つ運んで来た。
「高順様、どうぞ」
「ありがとうございます、陳矯さん」
高順はすぐには座らず、春華に向き直って頭を下げる。
「司馬懿殿も、御無沙汰しております」
「高順様、お久しぶりです」
「……よく春華、―――司馬懿だと分かったな」
暗殺集団残兵の潰滅の後、春華は司馬家に引き取られるまでの数日間を皇甫嵩の屋敷で過ごしている。二人が会うのはそれ以来のはずだ。盲目の少女から妖艶な美女に変貌を遂げた春華に高順が驚く様を期待していた曹仁としては、少々拍子抜けの反応である。
「種明かしをしてしまうと、洛陽の豪商司馬家の次子仲達殿の名は、商人の間では有名だからね。その容貌も、最近曹操軍に仕えているということも」
「なるほど、そういうことか」
商人でなくとも、洛陽に暮らしていれば司馬八達―――司馬家の八人兄弟の高名を知らぬ者はない。それが同じ商人ともなれば、その去就にまで目が行くのは当然と言えた。
「……それで、お前は西域からの帰りか?」
高順が床几に腰を落ち着けるのを待って、曹仁は尋ねた。
「うん。といっても楼蘭までだけど」
楼蘭は涼州最北西の敦煌郡―――つまりは中華の最北西―――と境を接した異国である。西域といわれる諸国の中では、東の端に位置している。
「何か珍しい物はあったか?」
「西域の物産自体は洛陽や許にも入っているから、物よりも人かな。羅馬人の商人を見たよ」
しばし、高順の土産話に耳を傾けた。言葉が通じない相手と商談を交わす苦労話から現地の習慣や食事についてや、一時途絶えていた巴蜀の絹織物の扱いが増えているという少々気になる情報までが語られた。
「―――そうだ、霞さんは? 葡萄酒を買ってきたんだけど」
話が一段落したところで高順が言った。
「残念ながらこの陣にはいない。華琳と一緒に江南攻めだ」
「そっか。それじゃあこれは、洛陽のお屋敷に置いとくか。皇甫嵩将軍に全部飲まれてしまわないように、隠しておかないと」
洛陽の皇甫嵩の屋敷が、行商人高順の中原における活動拠点となっている。最近は恋や音々音も、曹仁が不在がちの許の屋敷よりも洛陽にいることが多いようだ。
「それにしても江南の戦となると、思うさま馬を走らせるというわけにもいかないし、霞さんは退屈してそうだなぁ」
「そうだな。特に今は湿地に囲まれた烏林ってところに陣を布いているから、大分苛々が溜まっているだろうな」
「烏林か。何もないところだったと思うけど」
高順には商才があったのか、今では洛陽を中心に大陸中に手広く販路を伸ばしていた。こうして自ら動き回るのは半ば趣味のようなもので、人もかなり使っているようだ。元々は幸蘭の飛脚網を利用していた販路も、独自のものを作り上げていた。華琳の領内はもちろんとして、孫呉や蜀漢の領地にも人を入れているらしい。敵地の地理に関しては、下手な将軍達よりも遥かに精通していた。
「対岸に孫呉の船団が布陣しているから、それで睨み合いだな」
「対岸というと、赤壁か」
「……赤壁?」
どこか聞き覚えのある単語に、曹仁はそのまま繰り返す。
「うん。確か烏林の対岸は、あの辺りの人からは赤壁と呼ばれているはずだよ」
「……それがどうかしたの?」
無言で考え込む曹仁に、詠が尋ねる。
「……いや、赤壁の戦いというのがあった気がするな。位置からいって東周の時代、呉越の覇権争いの中での一戦だったか?」
「さあ? ボクは聞き覚えないわよ?」
春華にも視線で問うと、頭を横に振った。
「詠も春華も知らないのか。すると、こちらの世界で聞いたのではないのか? しかし以前の世界で俺が聞きかじったことのある中国の戦なんて、せいぜい三国志くらいしか、―――っ!!」
「何を一人でぶつぶつ言っているのよ」
「……詠、華琳のこの戦、将来何と呼ばれると思う?」
「ん? そうね、普通に考えれば烏林の戦いとでも呼ばれるのではないかしらね?」
曹魏の覇権を決定付けた戦ならば、華琳が本陣を置いた烏林の名で呼ばれてこそ確かにふさわしい。
「―――まあ、それも勝てばの話だけれどね」
詠が冗談めかしく続けた。大軍を抱えた華琳が、今更寡兵を相手に負けるなどと微塵も考えていないからこその軽口だろう。
そう、勝てば、の話だった。勝てば、その戦は烏林の戦いとして、華琳の覇業を語る上で欠かせない一戦として戦史に名を残すだろう。だが、もし逆に負ければ―――。
「きゃっ、い、いったいどうしたって言うのよ」
猛然と立ち上がった曹仁に、詠が不満の声を上げた。