「ううむ、悪くないっ。これなら陸地と変わらぬぞっ!」
華琳は旗艦の楼閣から、兵を引き連れ連環船の甲板を走る春蘭の姿を見下ろしていた。
試作として中型船十隻を横繋ぎにしている。鎖で繋がれた舷側と舷側には板が渡してあって、船から船へそのまま駆け抜けることが出来るようにしてあった。
「ちっ」
江上に響く春蘭の快哉に、桂花が舌打ちする。
施工を終えたばかりの連環船の試乗を、春蘭の隊に命じていた。桂花と同じく雛里の献策には反対していた春蘭だが、揺れの少ない船上に気分は上々のようだ。
「真桜、他の中型船全てを同じように繋げる場合、工期はどれくらいになるかしら?」
「要領はつかめましたから、施工自体は工兵総動員で五日ももらえれば何とかなると思います。ただ試作分はあり合わせで間に合わせましたけど、もう鎖が」
真桜が、ちらりと桂花に視線をやった。桂花は顔を背け、気付かぬ素振りだ。
「桂花」
「……わかりました、手配します。真桜、どれだけ必要なの?」
「こんなこともあろうかと! 書類にまとめときましたわ」
「はいはい。……何、こんなに必要なわけ?」
「そら、そこらの鍛冶屋が普通に作りよるもんでは、強度が足りひんですから。その分、数を増やさへんと。ほんま言うと全部ウチの工房で作りたいんやけど、それやと時間もお金もかかり過ぎるし、あかんでしょう?」
「当たり前よ。ここに滞陣しているだけで、一日にどれだけ掛かっていると思っているのよ」
桂花と真桜が、書類を挟んで話し合いを始める。
聞くとはなしに聞きながら、華琳は江上に視線を向けた。旗艦の前に十隻の連環船が並び、その先に中型船を中心に三重に組んだ味方の前衛。日によっては対岸の孫呉の本陣が見て取れるが、今日はうっすらと霧が立ち込め視界が良くなかった。その代り、こちらの前衛にかなり近い距離を孫呉の軍船が二十隻以上も漂っている。常にはない数で、孫呉も連環船を気に掛けているのだろう。数日前に合流が確認された劉備軍―――蜀漢の船も混じっているかもしれないが、見分けはつかなかった。
「……珍しいわね」
靄の中を、他より二回りも大きな船影が目に付いた。斥候の船にしては珍しく、大型船だ。中型船を何隻か引き連れ、ちょっとした船隊と言って良い。
「―――曹操様」
前衛の文聘から伝令が届いた。華琳の目にも付いた船隊に関する報告だった。
「黄の旗? すると黄蓋?」
これまでの斥候と異なるのは、船隊の規模だけではなかった。将の名を冠した軍旗を堂々と掲げているという。
孫策軍の将で黄姓と言えば、思い当たる名は黄蓋ただ一人だった。孫呉の宿将と呼ばれる人物だ。
孫堅時代からの重臣である。袁術の客将に過ぎず寸毫の領地も持たなかった孫策にも、常に付き従っていた将だ。当時は実の妹の孫権すら遠ざけていたのだから、孫呉において格別に重きをなす存在なのは間違いない。孫策自身を孫呉第一の将軍とするならば、第二の将軍だった。
「……そういえば、ここまで黄蓋の名を耳にしていなかったわね」
長く攻囲が続いた江陵や夏口の戦線に姿を現すことはなかった。ひるがえって思い返せば、孫策軍飛躍の戦となった夏口攻略や、その後の荊州南部の平定戦においても目立った戦功を上げたという話は聞こえていない。
「後方で輜重部隊を任されているとかー」
風が答える。
「輜重? らしくないなぁ。そう思わない、雛里?」
「そうですね。前線の指揮を好まれる方です」
蘭々の言葉に雛里が同意する。
黄巾の乱では、皇甫嵩の官軍の元で劉備軍と孫策軍、そして曹仁の率いた一団は共闘している。その頃の孫策を周瑜と共に左右から支えていたのが黄蓋である。
同じく苦楽を共にしてきた周瑜は、今も孫策の片腕としてほとんど軍の全権を委ねられている。引き比べれば、不当な扱いと言えるだろう。輜重は軍の大事とはいえ、長江を補給路として利用する孫呉にとって難しい仕事ではなく、つまりは黄蓋ほどの将が当たる任ではない。
「秋蘭。あれ、近付いてきてへん?」
「ああ、そのようだ」
それに初めに気が付いたのは霞と秋蘭だった。
ただでさえ一回り大きな船影が、見る間にさらに大きくなった。黄の軍旗が、旗艦からでもうっすらと視認出来るまでになる。中型船も五隻引き連れていた。
「……まさか、不遇を呪って投降などと言うことはないわよね?」
「黄蓋さんに限って、それだけはないと思います」
雛里が言った。
話している間に、前衛の船と黄蓋の船隊の間を矢が飛び交い始めた。前衛には、敵船が矢の射程に入れば迎撃するように命じている。
「するとこれも、威力偵察だとでも言うのかしら?」
最前列の船が大きく揺らいで見えた。蒙衝まで持ち出してきたようだ。動きの鈍った船の横を抜け、黄蓋の隊が前衛の中へ入り込む。
「……華琳様、これはもはや偵察などではなく」
稟が息をのみながら言った。
「ええ、たったあれだけの数で本気で戦いを挑んできているようね」
「十万の敵陣に百騎で突撃するようなものです。前線から遠ざけられた不満が暴走したというところでしょうか?」
「その百騎が曹仁の白騎兵や恋の赤兎隊なら、十万くらい断ち割るかも知れへんで、稟。見てみい」
水戦には今一つ気が乗らず、ずっと詰まらなそうにしていた霞が愉快そうに言う。
「……もう火の手が」
前衛の船数隻が、炎に巻かれていた。風下からの襲撃であるから大きく燃え広がる心配はないが、ただでさえ船酔いで精彩に欠ける味方の船は延焼を恐れてさらに動きが鈍った。そんな中を黄蓋の船隊だけが自由に動き回る。海賊退治で名を売った孫堅に仕えていただけあって、水戦の指揮は熟練していた。
「せっかくの機会だし、連環船の威力を試してみましょうか」
「それが黄蓋の狙いかもしれません。自らを死に兵として、こちらの秘策を暴こうとしているのでは?」
「あら、桂花は連環船を我が軍の秘策と認めるのね」
「そ、それは、……船上ではうーうー唸るばかりだった春蘭のあの調子を見えれば、効果の程は認めざるを得ません。―――口惜しいですけど」
「あ、あわわ」
桂花は一度きっと雛里を睨みつけると、気を取り直して続けた。
「孫呉の将兵は船酔い対策を必要としないはずですが、連環が戦にも役立つと見れば真似てくるかもしれません。江上では溝を掘るわけにもいきませんし」
麗羽がまさに、連環馬の模倣をやった。その時は曹仁が対抗策―――溝を掘って馬の足を払う―――を講じて、逆に袁紹軍に大損害を与えている。
「あー、それはないんじゃないですかねー」
風が眠そうな目を擦りながら言った。
「何でよ? ……ちょっと風、居眠りしてないで答えなさいっ」
「おぉ、風としたことが。……まず第一に、連環船のぶつけ合いとなれば、孫呉はこちらに優る機動力も水戦での豊富な経験も捨て、ただの消耗戦に付き合うことになりますー。消耗戦となれば、こちらは華琳様の子房にして蕭何―――桂花ちゃんが後方に付いていますからねー」
「ふふっ、確かにね。わかってるじゃない、風」
上機嫌の桂花にしらけた目を向けながら、風が続ける。
「もう一つは、んー、霞ちゃん。霞ちゃんは連環馬の威力を御存知ですけど、自分の騎馬隊に使いたいと思いますかー?」
「まさか。仁のやつかて、ほんまは気乗りせんかったと思うで。あないなことをさせるために、馬を躾け兵を鍛えてきたわけやないからな」
「孫呉の水軍も、霞ちゃんの騎馬隊と同じだと思うのですー。厳しく育て上げ、天下第一とも自負しているだろう水軍への矜持が、連環を認めないでしょう」
「なるほど、確かにそうかもしれないわね」
気を良くしている桂花は、風の意見に素直に理解を示した。漢の建国三傑のうちの二人にまで例えられるというのは、曹魏における勲功第一と称えられたも同然である。
「さてと、早くしないとやるだけやって逃げられてしまうわね」
言うべきことは全て風が言ってくれたので、議論は終わりと華琳は行動に移すこととした。
「春蘭っ、行けるわねっ!?」
「―――はいっ、華琳様っ!!」
旗艦の楼閣でのやり取りが聞こえていたはずもないが、大声で呼び掛けると良い返事が返ってきた。
「では孫呉の宿将に、連環船と曹魏の大剣の威力を見せつけてやりなさいっ!」
「はっ!」
連環船が動き出した。両端の船がいくらか前へ出て、中央を引く形となる。底の浅い皿のような船の並びは、連環馬の隊列にも似ている。連環馬は左右両端の一騎ずつにだけ兵が乗り全体を御するが、連環船の場合も全体の指揮を取るのは両端の二隻である。
前衛の船が道を開け、連環船と黄蓋の船隊との距離が縮まった。遮るもののない江上で、船と船が迫る。
黄蓋の船隊は初め、横へかわそうとした。しかし連環の指揮船二隻がぐんとさらに前へ出て遮りに掛かると、なすすべもなく両船隊はかち合った。
十隻の中型船が黄旗を掲げた船隊にぐるりと絡みつく。みしみしと船体がきしむ音が聞こえるようだった。やがて二つの船隊は、分かちようがないほどに一体となった。
春蘭隊の兵が、わっと敵船に乗り移っていく。一番に駆けて大型船の甲板に取り付いたのは、遠目にも映える艶やかな黒髪に赤の軍装、身の丈ほどもある大剣をかついだ将―――春蘭だった。
「弓の使い手と聞いていたけれど、剣の間合いでもやるものね」
兵を下がらせ迎え撃ったのが敵将―――黄蓋だ。反董卓連合の時に、孫策の隣に立つ彼女を見た覚えがある。
躍りかかった春蘭の剣がいくつも空を斬った。黄蓋は長弓を片手に、つまりは実質無手でひらりひらりと大剣をかわし続ける。
「旗艦前進っ!」
食指が動いた。孫堅時代からの豊富な経験に、春蘭と対峙し得る武勇。そして曹操軍が強く欲している水軍の指揮にも長けた将である。
戦闘の様相が、次第にはっきりと見えてきた。黄蓋が春蘭の攻めをいなしながら、矢籠に手を伸ばす。やはり大剣をかわしながら、矢を番え弓を引き絞る。―――刹那、黄蓋と視線が交錯した。
「季衣っ!」
声と同時に中空で何かが弾ける音がした。直後、華琳の正面を守る季衣が鉄球を掲げる。やはり、何かが弾ける音。
「……今のは?」
「一射で二矢を放ってきました」
秋蘭が矢を番え直しながら答えた。視線は黄蓋に据えたまま動かさない。
「貴様っ、この夏侯元譲の眼前で華琳様を狙いおったなっ!!」
大型船の甲板では、春蘭がさらにいきり立って黄蓋を攻め立てる。怒りに任せた大振りながら、それくらいの方が伸び伸びと剣が走るのが春蘭である。
黄蓋はさすがに無手では抗しきれず、背を向け、長江へと飛び込んだ。甲板に残っていた孫呉の兵もそれに続いていく。
「……船を出して追わせますか?」
秋蘭が肩の力を抜いて聞いてきた。
「いえ、さすがに孫呉の者は泳ぎも達者なようよ」
絡み合った船隊からかなり離れた水面に、ぽつぽつと何かが浮き出てきた。孫呉の斥候の中から、楯を並べた小型舟が何艘かそこへ近付いていく。
「一度に二矢を放ったと言ったわね?」
「はい。奇手や曲芸の類ですが、姉者と対峙しながらあの精度、あの威力は、もはや神業と言ってよいものでしょう」
秋蘭が一矢を中空で射落とし、季衣がもう一矢を鉄球で弾いたということだった。秋蘭が気付かなければ、一矢は防げても残る一矢はこの身に届いたかもしれない。
「秋蘭、貴方でも難しい?」
「はい。劉備軍の黄忠や他の使い手でも同じでしょう。特異な工夫を加えた黄蓋独自の技かと」
「そう。―――しかし、あれほどの武将が後方支援に今度は偵察とはね。周瑜の目が曇っているのか、仲違いでもしたのか。……二人の仲はどうだったの、蘭々、雛里?」
「憎まれ口を叩き合うこともあったけど、仲はすごく良かったですよ。ねえ、雛里」
「はい。周瑜さんのおむつを替えてやったことがあるだなんて、冗談で口にしていました」
「そうそう、傍から見ているとまるでだらしない母親としっかり者で口うるさい娘みたいな感じで―――、ああ、そっか。どっかで見たような二人だと思っていたけど、華琳様のところの親子と似てるんだ」
「へえ、私のこと口うるさいなんて思っていたのね、蘭々」
「へっ? いや、違いますよ。それはあくまで周瑜さんの話であって」
言い訳を始めた蘭々を捨て置き、桂花に視線を転じた。
「真桜の希望通りの品をすぐに手配して頂戴」
「はいっ」
中型船十隻で、大型船一隻に中型船五隻を道連れとした。まずは十分な戦果と言って良かった。風の言った通り、五分の犠牲を強いていけば兵力と物量の差で抑え込める。冴えたやり口とは言い難いが、水軍の戦ではこちらが格下という事実は受け入れねばならなかった。
その日のうちに桂花は急ぎ襄陽へ取って返すと、五日後には荊州北部の街々から烏林へ鎖が運び込まれ始め、十日で真桜所望の数が揃った。並行して進められていた連環船の施工は、その翌日には全てを完了した。決戦へ向け、陣営内の気運が否応なく高まりを見せ始める。
黄蓋の書簡を携えた密偵が本営に連行されてきたのは、そんな日の深夜だった。
健康的に日に焼けた小柄な少女である。愛らしい顔立ちをしているが、虎士に囲まれてなお平然としていた。大胆不敵というよりも、感情を殺したような無表情だった。
少女は誰にも咎められることなく本営の側近くまで入り込むと、自ら見回りの兵に名乗り出たという。
「よくもまあ、ここまで忍び込んで来たものね。まるで忍者のようだわ」
「……にんじゃ?」
少女は無表情のままわずかに首を傾げた。
「いえ、何でもないわ」
曹仁から聞かされた彼の国の間諜が思い起こされた。水上を歩き、地中に潜り、空を飛び、気取られることなく城主の寝室の屋根裏に忍び込むという。
「……ふむ」
ざっと書簡へ目を通した。簡単に言えば都督周瑜への不信と、孫堅への追慕に今の孫呉への不満、そして投降の申し入れだった。
稟、風、将軍達、それに雛里にも回し読ませた。ただし、文官筆頭の桂花が不在であれば当然一番に目を通すべき武官筆頭の春蘭だけは、後回しにさせるように秋蘭に目配せする。
「貴方、書簡の中身について聞かされているの?」
眼前の少女は孫呉の間諜とだけ名乗り、黄蓋の私臣であるとは言わなかった。華琳を前にしても、媚びるような素振りは一切見せない。
「いいえ。祭様―――黄蓋様に、個人的に届けてほしいと頼まれただけですので、中身に関しては何も聞いていません」
「そう」
密偵の少女は黄蓋から真名を預かるほどに可愛がられているようだ。本営まで忍び寄った抜群の技量を思えば、さもありなんというところだろう。
「―――私たちに投降すると言って来ているわよ」
「へっ」
少女の表情が初めて大きく崩れた。
「―――はっ! 騙さそうとしても無駄です。黄蓋様に限って、投降など絶対にありえませんっ」
少女は首をぶんぶんと振って無表情を取り戻すも、声の調子に感情が漏れている。敬愛する先達を侮辱された憤りだ。孫呉の人間にとって、黄蓋の投降など端から有り得ない話なのだろう。
「ふふっ、冗談よ。わざわざこんなところへ書簡を届けさせてまで口汚く罵られれば、少しは意地悪をしたくもなるじゃない。―――黄蓋は、私のせいで周瑜に痛めつけられたことが、よほど腹に据えかねるようね」
「…………」
少女は今度は無表情で沈黙を保ち、特に否定も疑念も差し挟まなかった。
黄蓋が先の襲撃―――独断であったらしい―――の咎で周瑜に棒打ちを命じられたというのは、本当のことのようだ。悪し様に周瑜を扱き下ろす文言とともに書簡に記されていた。
「このような文に、わざわざ返書をしたためる必要もないわね。一字一句違えず、黄蓋に伝えなさい。―――借りを返したいというのなら、掛かって来るがいいわ。私はいつでも受けて立つ」
少女は生真面目な性格らしく、何度か小さく復唱してから頭を下げた。
「密偵殿はお帰りよ。陣営の外まで送ってさしあげなさい」
虎士に囲まれたまま、少女はもう一度一礼して本営を辞した。
「……あの御返答、お受けになるということですか?」
しばし間をおいて、稟が口火を切った。
“周瑜”に借りを返したいのなら、いつでも“投降”を受け入れる。黄蓋にも過たず華琳の意図は伝わるだろう。
「あれほどの将が降ると言ってきているのだから、受け入れないなんて話はないでしょう」
「―――ううむ、そうか、あやつも苦労しているのだなぁ」
そこでようやく書簡を読み終えた春蘭が涙交じりに言った。
「しかし、周瑜の奴め。先代孫堅が築き、孫策が取り戻した孫呉を、まるで我が物とでも言いたげな勝手し放題とは。許せぬな」
春蘭が我が事のように憤る。
孫堅の非業の死と今の孫呉への不満を書き連ねた黄蓋の語り口は、確かに心を打つものがあった。武一辺倒の猛将の類ではないようだ。
「周瑜の策略ではないでしょうか?」
「なんだとうっ、稟。この文にちゃんと目を通したのかっ? 志を捧げた主君を失った悲しみ。期待を寄せた若き主が、口ばかりの軍師に言いくるめられる現実。黄蓋の悲憤は如何ばかりかっ」
春蘭が叫ぶ。
孫堅と孫策を華琳に、周瑜を桂花に置き換えて想像でも巡らせたのだろう。少々入れ込み過ぎだった。
「策があるなら策ごと打ち砕くまで。……と言いたいところだけれど、慣れない水戦で無理は禁物ね。―――蘭々、雛里、貴方達の意見は?」
華琳は黄蓋を知る二人に水を向けた。密偵の少女も含め、今のところ黄蓋の文に信を置いているのは春蘭だけなのだ。
「やっぱり信じられません」
「……」
きっぱりと言い切った蘭々に対して、雛里の答えは沈黙だった。
「雛里、先日は投降するはずがないと言っていたわよね?」
「……はい。しかし策略と考えるには、あまりに不適当な人選。あの周瑜さんにしては手回しが悪過ぎます」
「そう深読みすることも見越しての策なのでは?」
「黄蓋さんは孫策さん達とともに長らく袁術の客将を務めていましたよねー。敵陣に潜むのはお得意かもしれませんー」
稟と風が口を挟み、軍師三人での討論が始まった。桂花とは異なり、この二人は劉備軍が居候中の頃から雛里とは親しい付き合いを続けている。
やはり三者とも黄蓋の投降には半信半疑なれど、雛里は信に傾き、稟は疑に、風は中立という立場を取っている。いずれも強い確信は持てずにいるから、議論はやがて平行線となった。
「―――まずは会いましょう。判断はそれからでも遅くはないわ」
華琳は結論付けた。
元より黄蓋ほどの将を会うこともなく拒絶するという選択は華琳にはない。その心の内にあるものが何であれ―――例え自らを打ち破ろうとする謀の類であれ、丸ごと飲み込む。それが自分の覇道であり、乱世の楽しみ方というものだ。
「……そうね、私自ら前線で出迎えましょう。風上の本陣まで導いたところで、先日のように火矢を射立てられては堪らないわ」
ばたばたと風が幕舎を打つ音が耳につき、言い足す。長江を吹き抜ける北風が、数日前から強くなっていた。
赤々と篝を焚いた船隊が、対岸烏林へ向かっていく。朱里は断崖―――赤壁の地名はこの崖の名から転じたものだという―――の縁に立って、それを見送った。
「お前もここにいたか」
「周瑜さん」
「軍師としては、楽しくも辛い時間だな、諸葛亮」
朱里は無言で頷いた。こうして将軍達を送り出してしまえば、軍師にはもう出来ることがない。
「しかし、よくこんなことを知っていたな」
周瑜が隣に並んだ。強い向かい風に、長い黒髪が背後へ靡く。
「昔、水鏡先生の私塾で読んだ荊州の風土記に書かれていました」
―――強風が五日続いた後、勢いそのままに風向きが裏返る。
荊州は孫呉にとってもまだ馴染みの薄い土地である。朱里がもたらした情報の裏付けを取るために、周瑜は周辺の村々に人をやり長老達を訪ねて回らせたらしい。そして、確かにわずか一夜、風が裏返るという確信を得たようだ。
「風土記か。よくも覚えていたものだ」
「雛里ちゃんが、思い出させてくれました」
「鳳統が?」
「連環船と聞いた瞬間、すぐに火計が思い浮かびました。それは、周瑜さんも同じはず」
「ああ。しかし我らの陣取るこの地は風下。せいぜい前衛の十隻二十隻を燃やす程度の戦果を期待しただけだった、風の話を聞くまではな」
「私には雛里ちゃんが火計を用いよと、連環船に火計を“連環”して大勝せよと、そう言っているように思えました。それで、風のことを思い出せました」
本来、連環の計とは鎖で馬や船を連結させることではない。より大きな戦果を生み出すため、複数の計略を重ねることだ。
船の連結が孫劉連合にとって第一の策であり、火計が第二の策。周瑜はこれを好機と見ると黄蓋を呼び寄せ、火計にさらに偽りの投降という策を上乗せた。後方へ回して曹操軍の警戒の目から逃れていた黄蓋は、周瑜の切り札の一つであっただろう。
「それで鳳統か」
「はい。私は今回、雛里ちゃんの策に従って動いただけのことです」
曹魏の間諜を警戒して、ここまで作戦に関して話し合う場は設けてこなかった。
朱里からは風の話を周瑜に伝えただけだ。呉蜀は互いに探り合いをしているが、周瑜と黄蓋も今夜という期日を除いて細かな取り決めを交わした様子はない。
敵陣の雛里も含め、一つの結果に向けて各々の判断で動いた。
火計をより効果的にするためとはいえ、雛里の連環船は曹操軍の将兵の船酔いを解消し、欠けていた水戦での打撃力をも与えた。
投降の真実味を増すために、黄蓋は曹操軍に無謀な攻撃を仕掛けて船を失うという失態を演じた。
周瑜もまた、孫呉の宿将黄蓋の棒打ちという兵の信望を失いかねない処罰を断行した。
いずれの行動も単独では呉蜀の不利となりかねないものだが、全てが連環し一つの策をなしている。朱里に出来たのは、雛里の意図を読んでほんの少し策の後押しをすることだけだった。
―――もしかすると雛里ちゃん、心のどこかで曹操さんが勝っても良いと思っているのかも。
そこでほんのわずかに過った疑念を、朱里は胸中に留めた。
風のことがなければ、連環船は曹操軍に利するところの方が大きい。元々船酔いに弱った兵と水夫達が相手であれば、多少の犠牲は出しても孫呉の水軍は勝利をおさめられたはずなのだ。
そして曹操軍が連環船の施工が開始したのは、劉備軍が孫呉に合流する数日前だった。献策した時点では、雛里には朱里が赤壁に現れるという確信はなかっただろう。この機に一気に許を落として曹操軍と並び立つというのは桃香の意向で、当たり前の軍略からすれば蜀漢の主力は西涼に軍を進めている。
いつの頃からか、雛里の中で曹操―――というより曹操の描く未来―――の存在が大きくなっていた。それでも自分に付いて来いと、そう力強く桃香が言えば雛里が迷うこともないだろう。しかし桃香は、雛里自身の選択を尊重しようと考えている。それは桃香の優しさであるが、明け透けに自分を求める曹操の強引さが雛里の性格には心地良くもあるだろう。
朱里自身もまた、曹操の施策の数々に心を躍らした人間の一人である。
学校で子供達を相手に教鞭をとった時、自分の知らない新しい世界が目の前に広がっていくのを感じた。それは心地良い快感と言って良かった。曹操の天下は、朱里の予想の外にある。曹仁から聞かされたという天の国の話を多分に取り入れているというから、この国の史書をどれだけ学んでも想像が付かないのは当然のことだった。おそらく曹操自身にも正確な未来予想図など無く、多少なりとも想定が出来ているのは曹仁だけだろう。
しかし曹仁の国で上手くいったことが、この国でも上手くいくとは限らない。まして本来長い時間を掛けて辿る道程を、曹操は己が代、それもわずか数年の内に成し遂げようとしていた。事実、性急な改革に付いていけずに反曹に走る者も少なくない。
そんな先の見えない未来を、朱里は危険と判断した。雛里は、興味の対象としたようだ。進む道も志も二人同じと信じて疑わなかった雛里との間に、微妙な齟齬を感じたのはその時が初めてだった。
「どうかしたのか、諸葛亮?」
周瑜が顔を覗き込んできた。憂いが表情に出てしまっていたようだ。
「いえ、なんでもありません。……そういえば、孫策さんは?」
ふと思い立ち、尋ねた。周瑜にも断金の交わりと称えられた親友の孫策がいる。
「もう出立した。あまり無茶をしないと良いのだが」
「ご心配なら付いて行くことも出来たのでは? 周瑜さんなら、前線に出られても大丈夫でしょう?」
周瑜は帷幕にあって軍略を練るだけの軍師とは異なり、剣を取り用兵を駆使して敵陣を打ち破る将軍の顔も持ち合わせている。
「私まで本陣を離れてしまっては、不測の事態に対応出来ないからな。雪蓮は雪蓮の、私は私の場所でせいぜい働くさ」
「孫策さんは孫策さんの、周瑜さんは周瑜さんの場所で、ですか」
敵味方に分かたれ、志にまで食い違いが生じ掛けている自分達と同列で語れる話ではない。しかし朱里はいくらか目を開かされた思いだった。
自分と雛里はこれまで、あまりにも二人同じであり過ぎたのかもしれない。同じであることと友情とは、また別の話だった。そう、それこそ性格も志も正反対を向いた桃香と曹操が、奇妙な友情で結ばれているほどなのだから。
「―――っ」
背中を押された。そう感じたのは、朱里の錯覚ではなかった。背後からの強風に、周瑜の黒髪も舞い上がっている。
軍師二人が固唾を呑んで見つめる対岸の闇が紅く染まったのは、それから間も無くのことだった。