「華琳様、こっちですっ」
泥だまりを、季衣に手を引かれながら歩いた。隣では流琉が、絶影と自身の乗馬二頭分の轡を取って進んでいる。朝日に照らされたその顔は、さすがに疲労の色が濃く表れていた。
江陵へ向け撤退を始めてから、すでに半日近くも経過している。ここまでの道中、距離にして半分、時間にして大半を馬を降り自らの足で歩いていた。膝まで沈む様な泥濘で、騎乗のまま無理に進めば馬を潰すことになりかねないのだ。
ここまで悲惨な敗走はいつ以来だろうか。華琳は記憶を探り、これが初めてであることに気付いた。呂布との戦では赤兎隊に本陣を落され、百里余りも後退し一万以上を追い打ちに討たれたが、これほど惨めな思いをすることもなかった。敗走ではなく、あくまで陣を立て直すための後退という気構えを持っていたからだ。
目をつぶると、赤く染まる長江が目蓋の裏にまざまざと蘇ってくる。
黄蓋の船隊は、書簡に書かれていた通り堂々と篝を焚き、華琳の旗艦へと近付いて来た。それは曹操軍へ向けた合図であり、孫呉の宿将の投降を両軍に知らしめるための光明であるはずだった。それはそのまま、火計の火種となった。
旗艦から篝に照らされた黄蓋を認めた直後、炎が逆巻いた。季節外れの東南の風だった。そこからは一瞬である。黄蓋の船隊は火矢を撒き散らし、自ら炎に巻いて突進を繰り返した。火を合図に大挙して攻め寄せてきた孫呉の軍船が、さらに追い打ちを掛けた。
前衛の連環船に炎が燃え移ると、残る後続の船に退路は残されていなかった。なかんずく旗艦は、火矢を集中されている。早々に放棄せざるを得なかった。
旗艦に乗り合わせた諸将、軍師が無事危地を脱することが出来たのは、季衣と流琉の操るすくりゅうの快速船のお陰だった。さしもの孫呉の小型船も追いすがれはしなかった。無事烏林の本陣に逃げ落ちたが、それで安心という訳にはいかなかった。曹操軍の軍船を次々と巻き込み、炎が陸上にも迫っていた。どころか燃え移るまでもなく、陣営内で火の手が上がった。火矢に使う油を保管していた幕舎が爆炎を上げたのだ。黄蓋の使いとして現れた密偵の少女の顔が、華琳の脳裏に過った。本営に迫ったあの少女なら、物資の保管庫に潜り込むなど造作もないことだろう。
陸上部隊の兵力なら、まだ圧倒していた。歩兵だけでも二十万近くを動員しているのだ。孫呉と蜀漢の兵は、合わせて十万といったところだろう。一時本陣を守り抜くことが出来れば、盛り返すことも出来るかもしれない。しかし、逡巡は一瞬だった。華琳はすぐに江陵への撤退を命じていた。
結果、それは曹操軍の被害を最小限に留めることとなった。東南の強風にあおられた炎は、すぐに烏林全域におよび、周囲の湿原をも舐める大火となったのだ。
「―――華琳様、華琳様」
「何かあった、季衣?」
季衣に肩を揺すられた。鼻の頭に付いた泥を指で拭ってやりながら、問い返す。
「えへへっ。……少し休息を取りたいのですが」
「私ならまだ平気よ」
いつの間にか泥濘を抜けていた。大地が―――さすがにいくらか湿り気を帯びてはいるが―――足元にしっかりと横たわっている。
泥濘を進む間は目を伏せ、季衣に手を引かれるままに足を動かしていた。要らぬ心配を掛けてしまったかもしれない。
「兵の皆がぬかるみを抜けるのを、少し待ちたいんです」
「そう、なら任せるわ」
季衣に促され、木の幹に背を預けて腰を降ろす。どっと疲労が押し寄せてきた。虎士に半ば抱えられるようにして連れられてきた稟と風、雛里が近くにへたり込む。
烏林から江陵まではおおよそ四百里(200km)。五十里ほどは進んだのか。常の行軍ではないので、判然としない。
「―――華琳様、華琳様」
少し微睡んでいたようだ。今度は流琉に肩を揺すられた。
「湯をお持ちしました」
「ありがとう、流琉」
やはり頬にはねた泥を拭ってやりながら、受け取った。
ただの白湯ではなく湯(タン)だった。塩漬けの干し肉がわずかに浮かぶだけだが、飲み下すといくらか活力を取り戻せた気がした。
「斥候は戻っている?」
「はい。今のところ周囲十五里以内に敵の姿はありません」
火計に敗れたが、烏林を覆う炎は追撃の兵を遮る障壁ともなってくれた。火勢がいくらか衰えるまでは、孫呉も陸上部隊を送り込めはしない。
馬を見て回る蘭々の姿が見えた。周囲を囲む他より一回り大きな馬群は、馬甲を解いていても虎豹騎の乗馬と分かる。虎士と虎豹騎、それに本隊の一万騎だけで駆けてきた。
「他の隊の状況は分かる?」
それぞれの判断での撤退を命じていた。雲夢沢には、大軍が一度に通過出来るような道は存在しない。沼沢を縫って道とは名ばかりの泥濘を進むしかないのだ。
「南に十里ほどの位置に霞さんの隊が。他は……」
流琉が小さく首を振った。
重装歩兵の凪、工兵の真桜、新兵が中心の沙和の隊にはかなり厳しい道行きだろう。春蘭と秋蘭はその三隊よりもさらに後方のはずだ。江南へ送り込む予定であった十数万の兵を抱えているし、二人は次の戦に備えて出来る限り水夫を回収しようとしていた。それを止めはしなかった。秋蘭が付いていれば炎に巻かれる様な不手際もないだろうし、呉蜀の追撃もあえて大軍に狙いを定めはしないはずだ。狙うなら、曹孟徳の首一つだ。
「華琳様、そろそろ出立しましょう」
「ええ」
季衣に促され、絶影に跨った。そこから十里ほどは騎乗のまま進み、また泥濘へ入った。
気付けば日が落ちている。敗戦から、おおよそ一日が過ぎたということだ。足元の悪い湿原に加え夜を徹しての行軍であるから、脱落者も多く出ていた。一万の本隊はすでに八千近くまで数を減らしているという。蘭々が申し訳なさそうに報告してきたが、華琳が思うよりもそれはずっと良い数字だった。先導は季衣で、兵の統率は蘭々に任せていた。華琳自らが指揮をとっていれば、逸るままに馬を走らせてずっと多くの脱落者を出しただろう。馬も潰していたかもしれない。二人は、自分などよりよほど自軍の兵馬を理解している。
明け方、斥候が駆け戻ってきた。
「十五里後方に、関羽と趙雲か」
陸戦ならやはり孫呉よりも上手ということか。斥候が捉えたのは孫策でも黄蓋でもなく、劉備軍の勇将二人であった。
敵の位置を把握したところで、やることは変わらない。とにかく前に進むだけだった。季衣達は斥候を盛んに発して後方を探らせながらも、決して馬を急がせはしない。それまでと変わらぬ足並みを維持した。斥候が戻る度に一里、二里と距離を詰められた。こちらは分かれ道に至る度に前方を確認しながらの進軍だが、追う方は泥濘に残る足跡を辿れば良い。初めから追撃を想定していた兵と、思わぬ敗走に至った兵の違いもあるだろう。
季節外れの東南の風は一夜吹き続け、今は北風が戻って来ている。孫策軍と劉備軍はこちらに痛撃を与えられる唯一の機を活かすべく考えに考え抜いたのだろう。
自分は、そこまでこの戦を見据えていただろうか。思えば何故、孫子言うところの泛地―――陸の孤島とでも言うべき烏林に本陣を置いてしまったのか。
仮に水軍で多少劣勢に追い込まれようと、陣を払わねばならない程の大敗など想定もしなかったということだ。これまでも敗北を考えて戦などしてはこなかったが、今回は水軍では劣ると認識しながらなお、大軍を有する自分に負けはないと高を括ってはいなかったか。
官渡で劣勢を覆し麗羽を破り、中華の覇者を自認して久しいが、常に四方に敵を抱え生温い戦はしてこなかった。それが荊州北部を手もなく降し、西涼を鎮めたことで、残る敵は桃香と孫策の二人にまで絞られた。兵力を恃み、あとは如何に手早く乱世を治めるか、そんな先のことばかりを考えてはいなかったか。
また斥候が戻った。関羽と趙雲との距離は十里を切っている。
季衣と流琉が見つめ合い、一つ頷き合う。
「華琳様、私に三千騎を貸してください」
「―――ちょっと、流琉っ。それ、ボクが言おうとしてたのにっ」
流琉が言い、季衣が遮るように叫んだ。
「殿軍の指揮なら、俺の方が適任だろう」
蘭々も名乗りを上げる。季衣と流琉は親衛隊の隊長と副隊長であり、厳密に言えば兵を率いる将軍とは立場が異なる。
「季衣は虎士の隊長なんだから、隊員と一緒に華琳様を守らなくちゃいけないでしょ。蘭々には虎豹騎と本隊の指揮があるし」
「そんなの副隊長の流琉がやればいいんだっ」
「いや、流琉が虎豹騎と本隊を指揮すれば良いっ」
「二人とも、今は華琳様を江陵にお連れすることだけ考えて。虎士の隊長は誰? 私たちの中で、一番本隊の騎兵を上手く指揮出来るのは?」
流琉が諭すように言うと、二人は口を噤んだ。
「大丈夫、無理をするつもりはないよ。十分に時を稼げたなら、それで投降するから。関羽さん達なら、たぶんすぐに処刑したりはしないと思うし」
「―――そういうことなら私達が残ります」
虎士に肩を借りながら稟と風、軍師二人が這い寄って来た。
「……貴方達が?」
「星―――趙雲とは知った仲ですし、私達なら仮に虜囚となっても無下には扱われないでしょう」
「それに正直に言いますと、この逃避行は風達にはきついのですよ~。ほどほどにお役に立って、あとはのんびり休みたいのです」
稟の言葉に、さらに補足するように風が言い足す。
行軍に限界を感じているのは事実だろう。二人はいざという時に虎士の、ひいては華琳の足手まといになることを避けようとしていた。
「……分かったわ。二人とも、無理はしないこと。無事に私の元に戻ったなら、望むままに褒美を取らせましょう」
「ももっ、勿論です。華琳様に捧げたこの頭脳、こんなところで無駄に散らすつもりはありませんっ」
褒美と言う言葉に反応したのか、稟が鼻を指で抑えながら答えた。くぐもった声で続ける。
「でっ、では風、もう三里ほど進んだ先にしましょう。埋伏に適した地形があったはずです。私が正面に残って囮となりますから、風は伏兵の指揮を」
「のらりくらりとした用兵が得意な星ちゃんがいますから、いっそ十隊くらいに分けて伏せて、もみくちゃにしてやりましょう~」
稟と風が早速作戦を口にする。
そこからは無言で進み、三里先で三千騎を切り離した。季衣に促されるまま、本隊は粛々と足を進める。
再び斥候が敵を捉えたのは、丸一日が過ぎた頃だった。関羽の隊のみで、趙雲の姿は見られないという。
「稟と風は十二分に時を稼いでくれたわね。とはいえ―――」
江陵に至る道行きの、最後の難所に差し掛かっていた。華容道と呼ばれているが、道とは名ばかりの泥濘である。左右には丘陵が佇み、谷合いを流れる泥の川といった様相だ。丘には樹木がびっしりと密生し、人馬が通り抜ける間隙はない。迂回するには、丘陵を避けて大きく回り道を取る必要がある。
関羽に追いつかれるより早く、泥濘を抜けるしかなかった。
「行きますっ」
季衣が一つ気合を入れると、膝まで沈む泥濘の中に足を踏み入れた。季衣に手を引かれて進む自分は、ずいぶん楽をしている。泥はすでに踏み分けられているし、牛の尾を取って引きずり歩くと噂される季衣の力強い腕に引かれていた。
やがて後方に争闘の気配を感じた。向き直って迎え撃つべきかとも考えたが、手を引く季衣が足を止めない。華琳は身を任せることとした。
しばしして、後方から報告が上って来た。本隊が追い付かれたのではなく、霞の隊が関羽の進行を遮って交戦に入っているという。前へ進む足は止めずに華琳は聞き届けた。
「―――っ」
一歩また一歩と着実に歩を進め、ついに泥濘を抜け出た。湿原もここまで、あとは平地を十数里で江陵へ辿り着く。
季衣はなおも馬を必要以上に駆けさせはしなかった。周囲に斥候や伝令は盛んに放っていて、馬が潰れる覚悟で思い切り駆けさせるのは彼らだけだ。
江陵の城が見えてきた。さすがに気が急いたが、季衣は馬を急がせるどころか速度を落とし、ついには完全に足を止めた。
「どうしたの、季衣」
「何だか様子が変です。江陵には伝令を送ったのに、静か過ぎます。城壁からはボク達がもう見えているはずなのに、迎えの兵を出す様子もありません。―――っ」
城壁に一斉に軍旗が立った。孫の旗。中央に靡く牙門旗も、孫の字だ。
「孫策。いえ、意匠がすこし異なるわね。―――すると孫権」
目を凝らせば、孫の牙門旗に甘の旗が寄り添っている。孫権の腹心として知られる甘寧であろう。
「いつの間に」
蘭々が虎豹騎を華琳の前面に展開しながら呟く。
「赤壁に滞陣している間は、孫呉水軍に上流を抑えられないように長江を遡上する船には注意を払わせていたわ。だから江陵攻めの兵を送り込んだのは、あの大火の後ということになるわね」
「でもまだ、三日と経っていません」
「ええ。移動の時間、下船や入城の手間を考えると、ほとんど瞬く間に江陵は落とされたということでしょうね」
「そんなことが。こっちは半年以上も攻囲を続けたっていうのに」
「いやにあっさり手放すと思ったら、何か細工でもしてあったのでしょうね」
孫呉には敢死軍、解煩軍と呼ばれる特殊部隊が存在するという話もある。件の密偵の少女がそれだろうが、詳細は捉えきれていなかった。ここでもまた何かしらの影働きがあったことは想像に難くない。
「あれが孫権。それに甘寧かしら」
牙門旗の元に人影が二つ並んだ。いや、一人を付き添わせ、一人が立ったというべきか。
「兵馬を休ませておきなさい。まとまった休息を取れるのはこれが最後、ここからは襄陽まで駆けることになるわよ」
江陵を落とされた以上、周辺の小城も当てにはならない。桂花の守る州都襄陽まで引かねばならなかった。
かつて桃香を追った三百里の行程を、今度は自分が逆しまに追われることになる。江陵まで逃げ切ればと、ここまでわずかな小休止のみで二日と半日進んできた。騎馬隊のみだが憔悴しきっており、追手は間近、行く手に伏兵も待ち構えているかもしれない。二十万の民草を引き連れた桃香にも劣らぬ、否、それ以上に厳しい道行となろう。
「ちょっと、華琳様っ」
絶影を城へ向けた華琳を蘭々が制止する。
「大丈夫よ。ここでの襲撃が目的なら、味方を装い城まで招き寄せているでしょう。―――季衣、流琉、護衛してちょうだい」
「はっ」
兵は城まで一里の距離に留め置き、虎士を引き連れて百歩の距離まで迫った。
「―――孫権かっ?」
疲労した身体に活を入れ、華琳は叫んだ。
「ええっ。孫文台が次子、孫仲謀よっ!」
「まずは見事と誉めておきましょうっ! 我が目を盗み、よくぞこそこそと我が城を掠め取ってくれたわ!」
「―――っ」
あからさまな挑発の言葉だが、遠目にも孫権の総身に怒気が漲るのが分かった。
苛烈な武人の姉に対して妹は真面目な文官肌と聞いていたが、虎の娘だけあって荒ぶる気性を秘めているようだ。どこか飄々とした姉よりも、真面目な分だけかえって激しやすいくらいかもしれない。
「―――江陵は、いいえ、荊州はっ、我ら孫呉が治めるべき土地よっ。揚荊二州は長江の恵みの元、一体となるのが自然な姿だっ。曹操よっ。中原の王よっ。貴方達は河水と共に生きなさいっ。我ら孫呉の民は長江と共に生き、この地と共に栄えるっ!」
「……ふむ、面白い」
怒気を飲み下し発した孫権の言葉は、確かに文官の発想から生まれたものだ。
孫策や周瑜は、武人の視点で長江以南を孫呉の土地と定めた。たった一度の敗戦で、揚州北部の地を易々と曹操軍に明け渡したのだ。長江を強固な防衛線と考えたからだ。しかし文官として土地を治める立場で考えれば、長江の北岸も南岸も同じ水源の恵みを受ける一体の大地なのだろう。長江を用水として分け合い、水運を介して交流し、時に同じ水害に苦しめられる民が二つに分かたれる道理はない。堤一つ、船着き場一つ造るにも対岸が敵地では困難を来たすのだ。そこにあるのは道理ではなく、乱世の理不尽である。
「曹操っ。揚州並びに荊州北部を我らに割譲し、そして二度と兵を向けることはないと、ここで約束なさいっ。そうすれば、自領までの安穏な旅路を私が約そうっ」
「―――っ」
さすがに、華琳をして驚きの提案だった。
「……貴方の姉や同盟者である劉備軍の者達は、それ以上の大勝が望みのようだけれどっ」
「それでは戦乱はいつまでも終わらないっ。孫呉の民が中原の覇権を争うための戦にいつまでも繰り出されることとなるっ。姉様と劉備軍は私が責任を持って止めようっ。互いの落としどころを見つけるのも戦でしょうっ」
「貴方の言う通りにしたところで、この国が二つ、いえ、三つに分かたれたままでは、いずれ再び戦が始まるわ」
「それでも、貴方が覇道を諦めさえすれば、数十年の平穏が訪れる。その間にそれぞれが繁栄を競い合い、侵し難いほどの楽土と、背き難いほどの信頼を築き上げることは出来ないだろうか」
「敵ではなく、互いに尊重し合う隣人として、力ではなく国の繁栄で競い合おうというのね」
「そうよ」
孫権が首を縦に振った。いつの間にか、声を張り上げずとも会話を交わせる近さまで城壁に馬を寄せていた。顔付きから表情まではっきりと見て取れる。
―――孫策は、なかなか面白い妹を持ったわね。
真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる視線の強さは、姉とよく似ていた。しかし同じものを同じように見ているようで、孫策とはその捉え方がまったく異なるのだろう。
「……そうして後世の人に委ねるか。まるで夢のような話ね。桃香と―――劉備と変わらぬふぬけた思想だわ」
「貴様っ」
声を荒げたのは、孫権ではなく隣に付き従う武人-――おそらく甘寧だろう―――だった。孫権自身は今度は荒ぶることなく甘寧を手振りで制する。
孫権も無理は承知の上での提案なのだろう。桃香とこの孫権、そして自分が三国の手綱を握っている間に限れば可能かもしれない。しかしその先の困難は、歴史が証明している。この国が戦を知らずに過ごせたのは秦始皇以降、漢による数百年の統一期のみなのだ。中華に国家が並立する限り、争いが尽きることはない。
「私は私の代で覇道を完遂し、楽土と言うなら千年の楽土をこの大陸に築きましょう。―――貴方の方こそ、この私に降りなさい!」
「この状況で降れとは、大きく出たものね」
「私がこの地を、そして江南をも手にした暁には、貴方を揚荊二州の刺史として、長江流域の経営を任せてあげても良いわ。この私と繁栄を競い合うというその自負に実力が伴うのならば、私の元で亡国の孫呉の民のためにその手腕を振るうと良い」
「……交渉は決裂のようね」
「貴方が私に降る気が無いというのなら、そういうことになるわね」
「ならば即刻この地より立ち去りなさい。問答に答えてくれた礼に、私からは追撃の兵は出さずに置きましょう」
「そう、感謝するわ」
主君である姉を飛び越え交渉を仕掛けてくるような娘の言葉だ。額面通りには受け取らなかった。
孫策ならば間違いなく喜々として華琳の首を狙いに来るだろうが、この孫権ならば残された曹魏の将兵から怨嗟の的にされるくらいなら、そんなものは不要と断ずるだろう。中原の覇者の首と言っても、文官の視点で見ればただの火種に過ぎない。
形ばかりの感謝を口にした後、華琳は一つ思い立ち言い足す。
「―――そうだ、お返しというわけではないけれど、貴方に預けたいものがあるわ」
「預けたい物? 何かしら?」
首を傾げた孫権に、華琳はその者の名を告げた。
「―――んな、アホなっ」
泥だまりに埋もれた身体を、張遼はひどく難儀しながら持ち上げた。
星が先行する愛紗の隊に追いついたのは、ちょうど勝負が決した瞬間だった。愛紗の青龍偃月刀が張遼を馬上から叩き落していた。
「場が悪かったな。この泥濘では、得意の馬術も役には立たん」
愛紗が肩で息をしながら言った。百合程度の打ち合いでは、ここまで愛紗が息を乱すことはない。二百か三百か、あるいはそれ以上の長い死闘の末の勝利なのだろう。
「そやかて、洛陽の戦で負けてから、ウチは常にアンタを目標に偃月刀を振り続けてきたんやでっ。許の宮殿でようやっとったアンタと曹仁の手合せを参考に、アンタに勝つことばかり考えてっ」
納得いかない表情―――泥にまみれて分り難いが―――で、張遼が叫ぶ。
「そういえば、よく熱心に見つめていたな。確かに打ち合いの最中、何度となく太刀筋を見抜かれていると感じることがあった」
「雲上の恋の武と違うて、関羽、アンタの武はあくまでウチと地続き、せいぜいが山の頂やっ。同質の武であれば、アンタのことを思うて偃月刀を振った数だけウチに分があるはずやっ」
「……そうか。私とお前は少し似ているな、張遼。私も天賦の才というやつを、長く間近で見せつけられてきた」
「ああ、張飛のことやな」
張遼が迷いなくその名を口にした。本人の口から直接聞かされ、噂でも耳にした長坂橋での鈴々の暴れ振りはどうやら誇張無き事実であるらしい。
「だが、大きな違いもある。張遼、お前は呂布の武を雲上のものと、決して届かぬものと見做しついには諦めたのだろう。私は違う。私は何があろうと負けるわけにはいかなかったのだ、姉としてな」
「―――っ」
思うところがあったのか、張遼は言葉を失った。
「―――あっ、待ちいっ。勝負はまだ付いとらへんでっ!」
勝負も問答もこれまでと愛紗が馬首を返すと、張遼が見咎め叫ぶ。
「悪いが、いつまでもお前の相手をしている暇はない」
「ああっ、くそっ、ウチの飛龍偃月刀はどこや!?」
泥に沈んだ偃月刀を探す張遼を残して、愛紗は先へと進んでいく。星は隣に馬を並べた。
「討ち取らなくて良いのか?」
「泥にまみれていようと張文遠は簡単な相手ではない。今は時間が惜しい」
それだけでなく今なら得物を失っているが、無手のままの張遼を討つという発想が愛紗には無いのだろう。
「確かに、ずいぶんと手こずっていたようではないか」
「そちらこそ、知り人だというから任せたが、ずいぶんと遅かったではないか」
「ああ、私の知っている二人とは、少々違っていてな」
星は肩をすくめた。
念の入った伏兵に翻弄されながらも、強引に愛紗を先行させた。星も隊を建て直し、あとは背後を取られないように残敵を追い散らすだけという段になって、強硬な反抗にあった。稟と風なら、適当なところで見切りをつけて離散なり降伏なりするだろうという星の予想が見事に裏切られていた。
二千騎ずつを率いてきたが、愛紗は二百、星は五百騎近くを失っている。
「江陵はこの道を抜ければすぐであったな?」
「はっ。西方へ十四里で江陵です」
鄧芝に確認すると、簡潔な答えが返ってきた。
かつて襄陽に集った二十万の反曹の民のまとめ役として、星が目を付けた若者である。今では立派な校尉にまで成長し、荊州の地勢に通じていることもあって副官として伴っていた。愛紗の隊にも同様に廖化が付いている。
後方を見やると、張遼には無理に追い縋ってくる様子はなかった。
それも当然で、曹操が“江陵”へ逃げ込むための時間は十分に稼がれている。張遼の騎馬隊は二万騎のはずだが、張遼の周囲には数百の兵しかいなかった。愛紗と曹操の間に割って入るために精鋭だけをまとめて、かなり無理な駆け方をして来た様子だった。ここで兵の合流を待つ心算だろう。
「江陵までに仕留めたかったのだがな」
愛紗が小さく呟く。
軽く頷き返しただけで、星は黙々と曹操軍本隊の残した足跡を辿った。さすがに泥濘の中の進軍は気が滅入り、いつもの軽口という気分にもならなかった。
「―――関羽将軍、趙雲将軍」
最後の泥濘を抜けたところで、孫権からの使者とかち合った。
「孫権殿は予定通り江陵に入られたか。―――そして、曹操は北へ去った」
愛紗の口調にわずかに安堵が滲んだ。
孫権は追撃部隊を派遣しなかったという。城郭の規模で言えば江陵は襄陽をも凌ぐ。周瑜の残した仕掛けと策で落せはしても、それを維持しつつ追撃に回せる兵力を孫権は有していないという。
何にせよ、劉備軍の手で曹操を討つ好機である。曹操は、自分たちの手で討ち取りたかった。
長江を渡江する船に乗り込む直前、朱里から今回の戦に関して簡単な説明は受けている。朱里の助言があったとはいえ、実際に曹操の大船団を打ち破ったのはあくまで孫呉の水軍だ。今後の孫呉との力関係を思えば、大将首くらいはこちらが取るべきだった。
「一度、江陵にお立ち寄りください。替え馬の用意がございます」
「ご好意に甘えよう」
馬が潰れるのを気にせず駆けると、江陵までは半刻と掛からなかった。
「愛紗さんっ、星さんっ!」
「雛里っ」
城門前で孫権とともに出迎えてくれたのは、一年振りに顔を見る我らが軍師であった。
「これはこれは、魏王殿下の従者殿ではありませぬか」
「あう」
湿原を抜けていくらか気も晴れた。星が軽口を蘇らせると、雛里は困った顔で目を伏せる。
「ふふっ、冗談だ。よくぞ戻った、いや、戻れたな。人質として利用されるのではないかと、気が気ではなかったぞ」
「華琳さんは、そういうやり方を是とされる方ではありません。これ以上間者を抱えておくつもりはないと、従者は罷免だと」
「そうか、確かに曹孟徳であればそうであろうな」
「雛里、積もる話はあるが今は時間が惜しい。―――孫権殿。馬の件、感謝する」
愛紗が一つ頭を下げ、孫権の従者が引いてきた馬に飛び乗った。すでに兵にも新しい軍馬が配られている。
「元々曹操軍が江陵へ持ち込んでいたものだ。礼には及ばないわ」
「そういうことなら、是非とも曹操に直接礼を述べたいものだな」
やはり軽口を叩きながら、星も馬上の人となった。
「孫権殿、それでは今しばらくの間、我らが軍師をお頼みいたします」
「ああ」
鷹揚に肯く孫権に愛紗はもう一度頭を下げて、北へと出立した。雛里が黙ってそれを見送る。
十里ほど駆けたところで、星は愛紗に馬を寄せた。
「雛里は何か言いたげにしていたな」
「曹操の命乞いでもしたかったのではないか? 一年以上も世話になったのだからな。軍師ではあるが、やはりあれは優しい」
「ふむ、まあそんなところであろうな」
情だけではなく、孫権の手前口には出せなかった軍師としての言葉もあったかもしれない。察するところが無いでもないが、星も口には出さなかった。愛紗の青龍偃月刀がそんなことで鈍ってしまっても困る。雛里や孫権が何を考えようと、曹操の首を取れる最大にして、あるいは最後の好機かもしれないのだ。
考える間にも、馬は軽快に駆けて行く。北辺を支配下に治める曹操軍の軍馬は、劉備軍のものよりも余程質が良かった。やがて馬を潰して脱落した曹操軍の兵がぽつぽつと見え始めた。
たかだか一騎や二騎にこちらから手を出すつもりもないが、追撃の足をわずかでも鈍らせようと向かってくる兵も少なくなかった。
愛紗が自ら先頭に立ち、一刀で首を刎ねていく。苦しませずに送ってやるためだろう。
「お優しいことだな」
皮肉気に言いつつも、星も自分に向かってくる者は兵任せにはせず、急所を一突きにした。
「曹操にも、これほど忠臣がいるとはな」
「それはそうであろう。控えめに言っても当代の英傑。心酔する者は少なくないであろうよ。ほれ、お主が憎からず思っている曹仁殿とてそうではないか」
「確かに。―――って、誰が憎からず思っているだっ」
「おや、隠しているつもりだったのか。まあ、桃香様の想い人でもあるからな。忠義一徹の関雲長としては、認めるわけにはいかぬか」
「ふんっ、無駄口を叩くな。この調子ならばすぐに追い付くぞ」
脱落した兵は、少しずつその頻度を増していく。間違いなく曹操へ近付いていた。
曹操軍の後姿を認めたのは、しかしさらに数十里を駆けた後だった。
「華琳様、今度こそ私が。五百騎お貸し下さい」
流琉が言った。
後方に砂塵を捉えてより半刻余り、すでに二、三里の距離まで関羽と趙雲は迫っている。追う脚に迷いが感じられない。江陵で馬の補給を受けたのだろう。
「だから、ボクが行くってばっ」
「いや、俺が」
「何度も言わせないで、季衣には虎士の指揮、蘭々には虎豹騎と本隊の指揮があるでしょう」
「う、ううぅ~、でっ、でも流琉は、美味しいご飯を作れるじゃないかっ!」
「そ、そうだそうだっ! 華琳様の兵糧を用意するのは流琉の仕事だぞっ」
季衣と蘭々がごね始める。
「三人とも、そこまでになさい」
華琳は周囲を見回した。遮るものも無い荒野だった。小細工の施しようもない地形だが、最期になるかもしれない土地と思えば、悪くはない見晴らしだ。
「ここで迎え撃つわよ」
「そんなっ、華琳様だけでもお逃げください」
蘭々の言葉に、静かに首を横に振った。
「襄陽までまだ二百里近くも残している。殿軍を残して幾ばくかの時を稼いだところでどうなるものでもないわ。ならば戦力を割くことなく、ここでの勝負に賭けましょう」
「だけどっ」
「―――曹魏の勇士達よっ!」
それ以上は有無を言わせず、華琳は絶影を棹立たせた。
疲労困憊の兵は、それでもぴたりと脚を止めた。多忙な華琳に代わって曹仁と霞が鍛え上げた騎兵達だ。兵の練度も馬の質も、曹操軍の最精鋭である。
「我らは赤壁の地で一敗地に塗れたっ! 我が覇業はここに潰えるかっ!? 曹魏の天命はここに尽きるかっ!? ―――否っ!!」
大鎌絶を天に掲げた。
「この曹孟徳の命ある限り、我が覇業は潰えぬっ! 曹魏の天命も尽きはせぬっ!」
「――――――っ!! ――――っっ!!」
喚声が巻き起こった。華琳は絶を後方へ指す。
「あれに見えるは音に聞こえた関雲長に趙子龍っ! しかし案ずるなっ! 北からは“我が子房”筍文若が送り出した援兵が迫っている! 南からは“曹魏の大剣”夏侯元譲が大軍を率い合流しつつある!」
気休めに口にしたが、援軍はほとんど絶望的と言っていい。
襄陽の桂花には確かに蘭々が伝令を百騎送った。ただの一騎でも辿り着ければ良いと疾駆していったが、仮に馬を潰さず駆け抜けたとして襄陽に着くのは半日後だろう。桂花がすぐにも兵を出立させ、軽騎兵が疾駆に疾駆を重ねれば合流はそこから半日だ。全てが希望通りに理想的に運んだとして、あと一日は掛かるということだ。春蘭に関しては、その所在すら全く掴めてはいない。
兵の中には、それと察している者も少なくないだろう。いや、大抵の兵が気付いているかもしれない。隊の体系が甚だ乱れているため、そこらの兵も伝令なり斥候なりと使い回しているのだ。
「―――――っっ!! ――――――っっ!!」
それでも、健気で愛おしい兵達の天を衝く喚声は鳴り止まなかった。
「だが皆の者っ、曹魏が誇る精兵達よっ! 座して援軍を待つ必要はないっ!この私が、曹孟徳がここにいるっ! 劉備軍の勇将二人の首、今すぐ我が足下に並べようではないかっ!!」
「―――――――っっ!! ―――――――――っっ!!」
ひと際大きな喚声が上がった。
「……華琳様ぁ」
「兵が意気軒高としているというのに、貴方達がそんな顔をしていてどうするの」
華琳は、蘭々の頬を撫でてやった。一門の中でも自分に一番良く似た顔は、不安げに歪んでいる。
「―――流琉、牙門旗は無くしていないわね」
「はっ、はいっ!」
虎士二人が旗竿を捧げ持ち、流琉は馬に括り付けた旗布を手にする。
「では高々と掲げよ。曹孟徳ここにありと、関羽と趙雲に、いいえ、天下に知らしめなさいっ!」
やるからには堂々とだ。地に塗れようと、自分が中原の覇者、曹魏の王であることに変わりはない。受けて立つという気概を失うつもりはなかった。
前方から、喚声が聞こえてきた。
―――よくぞここまで。
愛紗は胸中で賛辞を送った。雲夢沢の大湿原を抜けた馬で、よくも駆けたものである。
「兵力はどうやら五分といったところか」
星が額に手を当て、目を眇めて言った。
こちらも四千騎を三千数百まで減らしているが、曹操軍本隊一万も今や同数でしかなかった。それでも、よくぞそれだけ残したというべきだろう。伏兵として残った者、湿原の進軍で後れを取った者、馬を潰して離脱した者はいても、命惜しさに自ら離散した者が皆無でなくては有り得ない数字だった。
「突っ切って、愛紗は左、私は右。それでどうだ?」
「よかろう。どちらが曹操の首を取ることになっても、恨みっこなしといこう」
曹操の本隊。すでにこちらへ向き直り、並足で駆け出している。曹操の顔を探すが、さすがに前衛に出てはいなかった。
徐々に脚を速め、互いに疾駆してぶつかった。三つ四つと首を飛ばしていく。隣では星の龍牙が、敵の急所に吸い込まれていく。
疲労の際にありながら、敵兵は目を炯々と輝かせている。しかし、やはりどこか一つ踏ん張りに欠けていた。槍のようにまっすぐ突き進むこちらに抗えず、左右に引き裂かれていく。やがてその槍先が、堅いものに行き当たった。
「愛紗さんっ!」
「蘭々かっ!」
伸びてきた槍を弾いた。曹仁にも似た槍筋は、妹の蘭々である。馬甲を解いてはいるが、周囲の兵は虎豹騎ということだろう。さすがに整然としていた。
曹の牙門旗がすぐ近くに見える。虎豹騎の奥には虎士、そして曹操がいるはずだ。しかし、崩しきれず馳せ違った。馬首を返した。中央を断ち割られた曹操軍はまだ隊列を乱したままだ。
取り決め通り、愛紗は左、星は右の集団へ馬を向ける。曹の牙門旗は、左にある。
数十騎、いや数十人が愛紗の前に立ちはだかった。疾駆に耐え切れず、兵を乗せたまま崩れた馬の持ち主たちだった。もはや上手に首を刎ねてやるとはいかない。隊列で圧殺した。しかし、馬の勢いをいくらか殺す形になった。
左の集団は、右との合流を諦めて、旋回して愛紗の後ろを取りに来た。こちらもぐるりと馬首を巡らせ、背後の取り合いとなった。そうしているだけで曹操軍からはぱらぱらと脱落する兵が出る。本当に、ぎりぎりのところでここまで駆けて来たのだろう。
視界の端で、右の集団は星に追いまくられていた。高い士気も曹操と共にあってこそだ。曹操と切り離され、星を先頭に追い立てられては長くはもたない。
やがて愛紗も、馬の差で曹操軍の後尾に喰らい付いた。
背を向ける兵を討つのは気が咎めるが、躊躇はしなかった。追い付いた端から打ち倒していく。愛紗一人で十数騎を、隊も合わせれば百騎以上を瞬く間に散らした。
曹の牙門旗が近い。届く。
「―――っ!」
牙門旗が翻り、曹操軍の兵が強引に馬首を反転させた。騎兵と騎兵がそこここで衝突し、怒号と悲鳴が反響する。
混戦となった。いや、混戦に巻き込まれたというべきか。もみ合いになれば、馬の差は大きく影響しない。
「はあっ!」
一番に飛び掛かってきた兵の、頭頂から下腹までを具足ごと両断した。普通ならそれでいくらか意気がそがれるものだが、敵はなおも殺到してくる。
青龍偃月刀を縦横に振るい迎え撃った。虎豹騎だろうか、時に愛紗の一撃を受ける剛の者がいた。さらに一刀を返してまでくる者は、武芸達者で知られる虎士であろう。
愛紗、そして星を討つ。それが現状を打破する唯一の術であると、さすがに曹操は理解している。
夏侯惇も張遼も曹仁もいない今の曹操軍の陣容で自分を討ち取るには、混戦乱戦に乗ずるくらいしか手はない。虎豹騎に虎士まで繰り出し、曹操はここで愛紗を討ちに来ていた。
兵数は五分。一進一退の攻防が続いた。敵に虎豹騎や虎士のような強者が混じる以上、愛紗が先頭に立って奮戦を重ねても崩しきれなかった。曹の牙門旗は近いようで遠い。
しかし焦りはしなかった。ここで突出などすれば、虎士や虎豹騎に囲まれるだけだろう。時の経過に焦燥が募るのは、むしろ曹操の方だ。
半刻余りの混戦の後、横合いから駆け抜けた軍勢が愛紗の正面の敵兵を一掃した。軍勢はそのまま混戦に加わり、愛紗の横には一騎だけが残る。
「遅かったな、星」
「そちらこそ。私を待たずに曹操の首を取ってしまって良かったのだぞ」
「やはり曹操の本隊の兵だけあって、よく鍛えられている。だがこれで―――」
互いに背を預け、青竜偃月刀と龍牙を存分に振るった。
「―――おっ、やるな」
星の急所を狙った突きが弾かれ、首筋に剣が返ってきた。
「そういえば、虎士と虎豹騎が混じっているぞ。気を付けろ」
「そういうことはもう少し早く言え」
星はそう言いつつも、危なげなく対処していた。
曹の牙門旗が、じりじりと近付いてくる。
兵力もこちらが二倍となっている。愛紗と星のいる正面に限らず、四方からの圧力も増していた。戦場は混戦と言うよりも、包囲戦の様相を呈し始めた。
牙門旗の下に、曹操の姿を捉えた。愛紗達のいる正面に力を割くあまり、手薄になった左右から劉備軍の鋭鋒がすでに届いていた。
曹操も自ら剣を振るっている。混戦の中で、あるいはここまでの逃避行で得物を失ったのか、いつもの大鎌ではなく文字通り剣を振るっていた。曹仁の青紅の剣と二剣一対の倚天の剣だろう。
供回りの精鋭を送りだしているため、側には許褚に蘭々、それに牙門旗を片手に掲げた典韋がいるばかりだった。当然そんな危険は初めから覚悟の上だろう。戦の肝心要の段に置いて、曹操は自らを死地に投げ出すことを躊躇わない。
曹操には、どこか戦場での死を肯ずるようなところがあった。敗戦の末に自死を選ぶような潔さからは程遠い人間だが、戦い抜いた末の死ならば泰然と受け入れるという気がする。少なくとも無様に命乞いをするくらいなら、雄々しく戦って死ぬことを選ぶだろう。
―――せめて私の手で
星も思いは同じようで、青龍偃月刀と龍牙の織り成す剣舞が激しさを増す。
曹操もこちらに気付いたようだ。視線がかち合った。曹操が小さく微笑む。やはり、討死は覚悟の上か。蘭々や許褚を押し退けるように前へ出た。
今一歩で青龍偃月刀の間合いというところで、愛紗は強い既視感に襲われた。星が、躊躇わず踏み込んでいく。龍牙の紅い矛先が、曹操の首筋へと伸びる。
―――かつて自分も似たような局面に立たされたことを、愛紗は思い出していた。初陣の義勇兵を率い、自身も実戦の指揮など初めてだった。敵は賊徒となれど略奪に慣れ、その数は五倍に及んだ。義姉妹と共に包囲され、もはやここまでと諦めかけたその時、颯爽と助けに現れたのが―――
白き突風が戦場に吹き付けた。
「我ながら、こいつは出来過ぎた登場だな」
風は吹き抜けることなく、愛紗の眼前に留まり人の形を成した。今まさに愛紗が想起していた男の姿に。
「くっ、貴殿か、曹仁殿」
龍牙を弾かれた星が、悔しげに一歩退いた。