血煙を巻いて、関羽と趙雲が向かってくる。
さすがに二人揃うと、武威はあの呂布や張飛にも劣らない。いや、それ以上か。
兵同士のぶつかり合いも、かなり一方的に押し込まれつつある。二人が率いる騎馬隊は、世に精強で知られた古参の劉備軍の兵ではないはずだ。元々の劉備軍には一千の騎兵しかいなかったのだから当然だ。益州で新たに加えた兵だろう。だから練度では、こちらが勝っている。しかし関羽と趙雲の存在が、軍の格を一段も二段も引き上げていた。
―――自分が死んだら、曹魏はどうなるだろうか?
ふと華琳の頭に弱気な考えが浮かんだ。
代わって文武を統率すべき立場にある桂花と春蘭は、主君である華琳を通してしか天下を見てこなかった人間だ。名門荀家の総領と華琳亡き曹家一門の重鎮であるから、曹孟徳の地盤を受け継ぐ資格は十分にあるが、孫劉への報復を果たしてしまえば、その先の展望を描く意思に欠けるだろう。
あるいは自分の後継というなら、曹仁こそがその筆頭に挙げられるかもしれない。血縁こそないが曹家の人間であり、天の御使いという特異な立場にもある。桂花はともかくとして、他の文武百官には強く異を唱えそうな者はいない。
華琳としても、それは悪くはない想像だった。なんとなれば、曹仁こそが華琳の求める国の姿を知る唯一の存在であるからだ。自分亡き後の世を憂うるなど柄ではないが、せっかくなら追い求めたものが形になって欲しい。
「だけど、もし望みが叶うなら―――」
―――自分と曹仁の子に跡を継がせたかった。
西涼に駐屯させた曹仁とは半年以上も顔を合わせていない。男女の仲となって二年近くが経つが、これだけ長く会わずいるのは初めてだ。
このままここで果てると思うと、堪らなく会いたかった。無様に命乞いをしたくなるほどに。
「―――っ」
関羽と目が合った気がして、誤魔化すように華琳は微笑んだ。未練を断ち切るように、前へ出る。
当然、簡単に首をやるつもりはない。しかし関趙の剣舞はなお冴える。
青龍を象った偃月の刃は、粛々と首を刈っていく。轟々と唸る風音は、さしずめ竜の咆哮だ。龍牙と銘打たれた趙雲の真紅の槍は、二又に分かれた形状と相まって牙と言うよりも蛟龍の舌のようだ。ちろちろと揺れる舌先に触れた者は、たちまち命を落としていく。踊り狂う青龍と蛟龍はすでに数百騎を屠っていた。
「はあっ!」
横合いから突き出された槍を、華琳は倚天の剣で手首ごと斬り飛ばした。
関羽と趙雲に対して厚く兵を配したために、左右後背の陣はすでに崩壊している。華琳の元へも時折干戈が届いた。自ら十人ばかりを斬り捨てたところで、自然と絶を手放し剣に手が伸びていた。変則的な絶の攻めは混戦の中では必ずしも有利には働かないし、大鎌を振るい続けるだけの体力はとうに失われている。あるいは、その銘にすがる気持ちもあったかもしれない。
兵を奮い立たせるために、華琳は久しぶりに天命という言葉を使った。黄巾の乱や反董卓連合を戦った頃には、自身の天命を信じ、よく口にも出していた気がする。天命や天意などというものを特別意識しなくなったのは、華琳にとっての“天”が高みにあって自分を導くものではなく、共に考え、共に歩む存在に変ったからだ。
今、倚天の剣を握り締め、自分がすがり付こうとしているのはどちらの“天”だろうか。
益体もないことを考えている間に、濃密な血と死の香りを纏った剣風が間近まで迫ってきた。倚天の剣を構え直す。右から来るか、左から来るか。関羽か、趙雲か。あるいは同時に来るか。
殺意を孕んだ紅い舌先がぬっと伸びてきた。血煙の赤に紛れ、それは気付けばすでに華琳に届かんとしていた。舌先が首筋に触れる―――
―――ひと筋の白い勁風が、紅と赤を吹き飛ばした。
「我ながら、こいつは出来過ぎた登場だな」
聞きたかった声が耳を打ち、渇望した背中を見た。
「くっ、貴殿か、曹仁殿」
趙雲が一歩馬を引いた。何故か最後の一歩を躊躇した関羽と、馬を並べる。
そこを白騎兵が駆け抜けた。関羽と趙雲は押し退けられるようにさらに後退する。白騎兵は華琳達を中心に輪を描き、敵兵を薙ぎ倒していく。
「華琳、怪我はないな?」
曹仁はそこでようやくこちらを振り向き、愛しい顔を見せてくれた。
「―――仁。貴方、いったいどうしてここに?」
「今は逃げるぞ。―――蘭々、季衣に流琉も、いけるな?」
華琳の疑問には答えず、曹仁は妹分達に視線を向けた。
「ああっ!」
「うんっ!」
「はいっ!」
三者三様にここまでの疲れを感じさせない力強い声で答える。
白の颶風に抱かれるままに、敵中を抜け出た。
「皆、馬を替えておけ。絶影も、少し休ませた方が良いな」
牛金と無花果が、空馬数十頭を追い立ててきた。曹仁、それに白騎兵が打ち落とした敵兵の乗馬のようだ。関羽達が江陵で補給を受けたのなら、元々は曹操軍の軍馬だろう。
「華琳、手を」
「ええ」
曹仁の補助を受け、速度を落とさず並走する空馬に乗り移った。季衣と流琉は一人で軽々と飛び移っている。
他の者も白騎兵や牛金の肩を借りて次々に馬を替えていく。兵は白騎兵の描いた輪の内にあったわずかな数を連れるだけで、混戦の渦中にいた者は見殺しにするしかなかった。三十頭ばかりの空馬に乗り換え、馬の方に数頭の余りが出ている。
背後へ視線をやると、関羽と趙雲の隊はまだ追撃へ移っていなかった。喧騒から、争闘が一層激しさを増しているのが分かる。見殺した兵は、されどこの不甲斐無い主を見捨てはしなかったようだ。命を擲って劉備軍の足止めをしてくれていた。
「―――それで? 貴方はどうしてここに?」
兵への感謝を胸に、視線を並走する曹仁へ向けた。
「襄陽へ向けて伝令を放っただろう。彼らと行き合って状況を聞いたから、急いで駆けてきた」
曹仁が的外れな答えを返す。
「そうではなくて。西涼にいるはずでしょう、貴方は」
「ああ、そっちか。どうにもお前が負ける気がしてな」
「そんなことで持ち場をほっぽり出して遥々やって来たと言うの?」
余りな答えに呆れ返っていると、曹仁が続ける。
「この国の歴史にはない“赤壁の戦い”というのに、聞き覚えがあったんでな」
「……なるほど。この曹孟徳が大敗、あるいは討死する戦として、貴方の世界の史に名を刻んだか」
「たぶんな。―――さてと。蘭々、それに季衣と流琉も、先頭を頼めるか? 俺と白騎兵が殿軍に付く」
曹仁の言葉に、やはり三人は元気よく応じるとわずかな兵をまとめ始めた。
いくら精強無比の白騎兵と言えど、たった百騎加わっただけで戦況は覆らない。変らず襄陽へ向けて逃げるのみだ。しかし先刻までとは違い、不思議と希望を感じられた。
「華琳も、季衣達と一緒に。とにかくまず、二十里はひた駆けてくれ」
「ええ、わかったわ」
「―――華琳」
季衣達のいる方へ馬首を転じたところを、呼び止められた。
「―――っ」
振り向くと、唇に温もりが触れた。
「…………あ、貴方ね、こんな状況で何をしているの」
じっとりとした蘭々達の視線を感じ、華琳は慌てて唇を離して呆れ顔を作って見せる。
「いやぁ、ずいぶん御無沙汰だったし。久々に顔を見たら、つい」
「この状況ですることではないでしょうに。……襄陽に戻ったらいくらでも付き合ってあげるわ」
言葉の後半は、曹仁にだけそっと囁くように告げた。
「―――ああ、そうさせてもらおう」
華琳が好奇の目を向けられながら季衣と流琉に並ぶと、曹仁が手振りで白騎兵へ合図を送る。曹仁と牛金、そして白騎兵はわずかに足並みを落して後方に付いた。
遠く、劉備軍が追撃を再開するのが見える。あの場に残してきた兵は討たれるか散らされるかしたのだろう。
―――まずは二十里駆けろ、か。
曹仁の言葉が思い起こされた。
二十里先と言えば、心当たりは一つしかない。あの長坂橋だ。
橋を落す心算だろうか。しかし、それで十分な時間を稼げるのか。長坂橋が繋ぐ渓谷はさして深くはなく、底を流れる川も渡渉可能な浅く小さなものである。だからこそ張飛もあえて橋上に身を曝し、身命を賭したのだ。
曹仁に何か腹案あってのことだろうが、今はとにかく季衣達に促されるままに駆けた。背後に迫る劉備軍の圧を感じながらも脚を緩めず、やがて長坂橋を視界にとらえた。
橋の袂に騎馬を数騎認めた。張飛に先回りでもされたかと一瞬心臓が跳ねあがったが、近付くと首元に巻いた白い布が見えた。白騎兵だ。
橋を落す算段でも立てていたのだろう。張飛は橋板を容易く跳ね上げ、一撃で橋桁を斬り落して見せたが、そんな真似が出来るのは他には呂布くらいのものだ。
道を開け直立した白騎兵の横を、華琳は速度を緩めず駆け抜けた。
華琳達が、長坂橋を渡る姿を後方から見届けた。
「―――」
曹仁は角と目語を交わすと橋の袂で白鵠を制止させた。今度は角と白騎兵が駆け去って行くのを見送る。袂に待機していた白騎兵も、一騎を残してそれに従った。
「仕掛けの方は?」
「御指示通りに。さすがに専門の工兵のようにはいきませんので、あと一太刀加えればとは申せませんが、十回も打ち込めば橋は落とせます」
兵が答えた。白騎兵の旗手を務める男である。
「助かる。では、配置に」
「はっ」
連れ立って橋を渡り、曹仁はその中程で脚を止める。
「―――おい」
対岸に向かう男を呼び止めようとして、曹仁は一瞬言葉に悩んだ。
考えてみれば戦場では誰よりも近くにいたのがこの旗手だが、そんな男の名も聞かずにここまで来た。白騎兵に階級の上下はないが、唯一他と違った役割を持つのがこの旗手である。常に側に控えていたこの男を、一人の兵というよりも白騎兵の代表という気持ちで扱ってきた。
「はっ、何でしょうか」
「いや。悪いな、付き合わせて」
「いえ、これもお役目ですので」
小さく頷き返すと、旗手は再び曹仁に背を向けた。名を問おうとは思わなかった。白騎兵はただ白騎兵で良い。
旗手は対岸に付くと下馬し、袂近くの橋板を何枚か外した。そこが予め仕掛けを施した場所なのだろう。その場で片手に槍を構え、もう片手に黒地に白抜きの曹旗と白地に黒文字の天人旗を付けた旗竿を掲げる。準備完了だ。折よく、関旗と趙旗が迫っていた。
五十歩ほど距離を置いて、劉備軍は制止した。無理に押し通りに掛かれば、曹仁が一時足止めをする間に諸共に橋を落す。こちらの意図は過たず伝わっているようだ。
―――さすがだな。
劉備軍もここまで長駆に次ぐ長駆で疲弊して切っているはずだが、整然としていた。
劉備軍が曹操軍と敵対して久しいが、曹仁が直接対峙するのはこれが初めてだった。反董卓連合の際にも同じ戦場に敵としてあったが、絡むことはなかった。今にして思えば華琳や皇甫嵩に気を使われたのかもしれない。
「―――鈴々の真似事でもされるおつもりか、曹仁殿」
星が姿を見せた。
「星さん、愛紗さん、一騎打ちを所望します」
すうっと大きく息を吸い威勢良く叫び掛けて、曹仁は声の調子をいくらか落とした。
左には山岳、右には深い林が茂っている。華琳はすでに視界の果てだが、遠くこだました声が届かないとも限らない。
「我らを足止めしたいのは分かりますが、二人を相手に一騎打ちとは異なことを仰いますな」
「では、二対一での勝負と言い直しましょう」
「ほう、本当に我ら二人を同時に相手にするおつもりであったか。ははっ、さすがに天下無双と噂される方は言うことが違いますな」
星がからからと笑う。軽妙にして飄然、計算高く皮肉屋でもある星だが、己が武に対する誇りは人一倍強い。その内心は想像に難くない。
「お二方、いや、劉備軍は華琳に借りがある。違いますか?」
「あの日、出奔する我らを無事送り出してくれたことを仰っているのか?」
「そうです」
「それを今、この場で返せと申されるか」
「何も見逃してくれと言っているわけじゃない。勝負の後は好きに追えば良いさ。もちろん俺に勝てれば、の話ですが」
「……ふむ。曹操軍には他に替えの効かない首が二つある。第一に曹操殿。そして第二に曹仁殿、貴殿だ」
寸時逡巡した後、星は言った。
「そいつは、ずいぶんと買い被られたものだ」
「ふふっ、至極真っ当な評価ですよ、曹家の天の御使い殿」
「―――星っ、今は時間が惜しいっ。追撃を優先すべきだ!」
愛紗も姿を見せて、感情的に叫んだ。
「そうは言うがな。確かに我らは曹操に借りがあるし、二対一での一騎打ちなどという戯けた挑発をされた以上、兵を差し向けようと迂回して避けようと武名が泣くというもの。―――まったく、善良そうな顔をしてなかなか悪知恵が働きますな、曹仁殿は」
「だが―――」
曹仁を脇目に、愛紗と星は言い合いを始めた。
意外にも星の方が勝負に乗り気を示している。貸し借りを持ち出せば愛紗は断らないだろうが、難しいのは一癖も二癖もある星をどう乗せるかだと曹仁は考えていた。
「―――鄧芝っ、廖化っ、五百を残し、お主らは橋を迂回して渓谷を下り、曹操を追えっ!」
話は付いたようで、星がぱっと背後を振り向いて叫んだ。
劉備軍はさすがによく鍛えられている。突然の命令にも躊躇いを見せず、すぐに右方の林の中へと踏み入っていく。その場に留まったのは星の命令通り五百騎だけだ。
「ご指名は我ら二人。兵がどうしようと構わぬのだろう、曹仁殿?」
「ああ」
にやりと笑って事後承諾を求める星に、曹仁は肯き返す。
「では貴殿の無謀な挑戦、お受けしようっ」
星が意気揚々と、愛紗が不承不承の態で馬を進めてくる。
「……光栄、と言うべきかな」
曹仁の挑戦を受諾しつつ、兵の過半には橋を迂回して即刻華琳達を追わせた。つまりは渓谷を降りて川を渡った方が、二人掛かりで曹仁を打倒するよりも早い。少なくともその可能性を考慮したからこその二段構えだろう。
とはいえ、迂回して進む兵のことを曹仁は気に掛けなかった。襄陽へ向かう伝令から追撃を率いるのが関趙二将であると聞かされた時から、やるべきことは一つと決めている。
華琳には、白騎兵が付いているのだ。
白騎兵は照が月と詠の護衛のためにと、これ以上なく鍛え上げた勁兵を譲り受けたものだ。かつてはたった四百で反董卓連合二十万の追撃を足止めし、一時は後退にまで追い込んだ者達だ。遮るものの無い平原で白騎兵が敗走の援護に徹したなら、いかな精兵も大軍もその先の玉に触れることは出来ないだろう。
だから曹仁がやるのは、唯一白騎兵をも食い破り華琳に届き得る勇将二人を阻むことだった。
橋の袂まで付いたところで、愛紗と星が足を止めた。曹仁は対岸の旗手へ目配せする。
兵は橋板をはめ直すと、数歩退いて見せた。そのまま角達に合流してくれて構わないが、その心算はないようだ。こちらからも見届け人の一人くらいはいても良いだろう。当人の望むままに任せた。
正面に視線を戻すと、愛紗と星はもう目の前だった。
槍を握り締める。柄には、すでに管を通していた。
徐晃―――華雄相手に後れを取って以来、実戦で管槍の使用を躊躇うのを止め、密かに修練も続けてきた。
「―――では、始めますか」
許で何度となく繰り返した愛紗との手合せ。気負いを隠し、その時と同じ調子で曹仁は切り出した。
「お相手しよう」
むっつりと眉をしかめる愛紗に代わって、微笑を浮かべる星がそれを受けた。
「おっ」
愛紗が先んじて馬を前へ進めると、星が意外そうに声を上げた。
気に染まない戦いだが、曹仁と仲間が戦う様を傍からただ見つめていたくはない。
曹仁が手にする槍に、見慣れぬ仕掛けを認めた。呂布を相手に用いたという、管槍というものだろう。
許ではそれこそ数えきれないほど手合せをしたが、曹仁がこの管槍という得物を用いたことは一度もなかった。槍術としては邪道というのが本人の言であったが、もしかするとこうして戦場で対峙する日を予期していたからかもしれない。
「―――っ」
間合いに踏み込んだ瞬間、眼前に槍が迫っていた。咄嗟に手首を返して、偃月刀の“反り”で槍を逸らすことに成功した。僥倖と言って良いが、ほっとしている間などなかった。次の突きがもう身に迫っている。弾く。またも迫る。逸らす。弾く。また弾く。
正中線にしっかりと偃月刀を据えた万全の守りで迎え撃つも、曹仁の槍は構えを容易くすり抜け襲い来る。いつ、連撃が途切れるのか。逸らし、弾き、打ち落とし続けた。
五十か六十か。あるいはそれ以上を受けたところで、愛紗は堪らず馬を引いた。この連撃に終わりはない。そう理解した。
「……恋ですら、初めはもう少し仰け反って避けてくれたものなんだけどな」
曹仁がこぼす。
偃月刀を極力小さく使ったが、それでも背筋にじっとりと汗が湧き、胸が波打つ。疲労ではなく緊張によるものだ。初撃を捌けたのが僥倖なら、果たしてどこからが自分の実力によるものか。いつこの身に槍を受けても、おかしくはなかった。
「今度は私が―――」
脇を抜けていこうとする星を、遮るように愛紗は再び前へ出た。
間髪入れず、無数の突きが襲い来る。一人の人間、一本の槍による所業とは思えない。終わりのない連撃を愛紗は捌き続けた。
―――強くなった。
それも恐ろしいほどに。管槍という得物の利ももちろんあるのだろうが、繰り出す突きに確かな練度を感じる。叶うなら峰で軽く打ちすえて終わらせる。そう思い戦いに望んだが、とても出来そうにはない。
襲い来る突きがわずかにその数を減らした。愛紗の横をすり抜け、星が進み出たためだ。
連撃のおおよそ半分を星の迎撃に向けてなお、曹仁の突きは速かった。いや、早いと言うべきか。愛紗を襲った槍が、ほとんど引くことなくそのまま星を狙う突きへと繋がっていく。逆もまた然り。管を用いることで摩擦による減速が避けられるため、槍を大きく前後させて勢いをつける必要もないということだ。
管槍を用いて初めて成り立つ技法であり、一朝一夕で身に付くものでもない。愛紗には見せなかっただけで、やはり曹仁は管槍の稽古も重ねてきたのだろう。惜しみなく全ての武技を曝け出した自分とは、すでにあの頃から違う方向を見ていたのか。
かつて自分達姉妹の窮地を救った槍が曹操を助け、いま我が身に向けられている。それは愛紗にとって目を背けたくなる現実である。しかし一瞬でも視線を逸らせば、体中に風穴が開くことになる。
否応なく見つめ合う形となった。曹仁の目には敵意も殺意もなく、ただ決意だけが伝わってくる。この場は絶対に譲らない、―――曹操を守り抜くという決意だ。
―――あの日、同じ道を歩めていれば。
曹操軍を出奔する桃香の誘いに曹仁が応じていれば、今頃はどうなっていただろうか。
天の御使い曹子孝を御旗に桃香を旗頭として、漢朝の天子擁する曹操と対峙する。曹操から離れたなら、曹仁は桃香と結ばれるのだろうか。わずかに胸が疼くが、戦場で隣を駆けるのは桃香ではなく自分だ。
「―――くっ」
甘い夢が脳裏を過ぎるも、眼前に迫る槍が愛紗を現実へと引き戻す。星が馬を引き、向けられる槍は再び数を増していた。
劉備軍が再び華琳達の背後に姿を見せたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
やはり橋を落とすだけでは十分な時を稼ぐには至らない。襄陽まではあと七、八十里の行程を残していた。
「援軍は、まだ望めないか」
伝令がようやく襄陽に到達したかどうかと言うところだろう。
それに襄陽の守備兵は歩兵と水兵がその中心である。桂花がすぐに動かせる騎兵はせいぜいが二、三千だった。本隊の兵を失った今となっては、合流を果たしたところで関趙相手には心許無い。
やがて追い付いてきた劉備軍の先頭を、後方に付いた白騎兵が二度三度と叩き散らしていく。
白騎兵なら、敵に背を晒す不利など問題にもせず、並みの精兵など相手にもしないだろう。しかし、関羽と趙雲が前面に出ればその白騎兵でさえも手も無く散らされる。どこまでもつのか。
「……?」
白騎兵の動きに、鬼気迫るものがあった。相手の弱いところ、脆いところを狙って突き崩す戦術的な動きを常とする彼らだが、今は力と速さと気迫で圧倒する様な戦い振りだ。
華琳の予想に反して劉備軍の追撃は叩かれる度、勢いを失っていった。白騎兵はついには反転して攻勢に転ずると、その鋭鋒は劉備軍を縦断し横断し、四分五裂させた。
一刻後には、劉備軍は再び視界の外へと消え去った。
「もはや殿軍を分ける必要もないわね。誰か曹仁をここへ―――」
「そういうことでしたら、私が」
先駆けに同行していた無花果が、後方へ駆けて行った。いくら白騎兵がいつも以上の奮闘を見せたとはいえ、関羽と趙雲までを退けられるものではない。いったい如何なる手を用いたものか、直接曹仁を問い質したかった。
すぐに駆け戻った無花果の隣には、曹仁とは似ても似つかない大男―――牛金の姿があった。先刻まで白騎兵の活躍に無邪気に目を輝かせていた無花果の顔が暗い。
「……仁を呼ぶように言ったはずだけれど?」
胸騒ぎを覚えながらも華琳は牛金へ問う。
「居りません」
「居ない? どういうこと?」
「長坂橋に残られました。関羽殿と趙雲殿に、一騎打ちを挑まれると」
「―――っ!」
牛金が華琳の馬の手綱を握っていた。馬首を返そうとした華琳の機先を制した形だ。
「何のつもり?」
「兄貴の命令です。自分が関羽殿と趙雲殿を足止めする間に、曹操様を無事襄陽までお連れしろと」
「馬鹿なっ。一人であの二人を相手に出来るはずが」
「先程の敵の中に、関羽殿と趙雲殿の姿は有りませんでした。つまり兄貴は、お二方の足止めに成功したということです」
「それはつまり、仁がたった一人、関羽と趙雲を相手に戦っているということじゃないっ」
どこか稽古の延長のようであった呂布の時とはまるで状況が違っている。曹孟徳の首がかかる以上、馴れ合いで終わりはしない。事実、曹仁は華琳にそれを告げることなく残った。呂布との一騎打ちの際には、四刻抑え込むと豪語して望んでいるのだ。
「手を離しなさい、牛金! 仁がどうなってもいいの!? 貴方は仁の副官、いいえ、それ以前に親友なのでしょうっ!?」
「ええ、ですからそれが兄貴の本懐であれば、例え曹操様であっても邪魔はさせません」
倚天の剣―――天に寄り添うという意味を込めて名付けた剣―――を振るった。手綱を斬り飛ばし、鬣を掴んで馬首を巡らせる。
「失礼します」
それすら予想していたのか、牛金が華琳を抱え上げた。
「放しなさいっ! 私の命令に逆らって、どうなるか分かっているのっ」
「無論、覚悟の上です」
巨漢の膂力で軽々と華琳を小脇に抱えて、牛金は平然と言ってのけた。その丸太の様な腕に、華琳は倚天の剣を添わせた。
「腕をとばすわよ」
鉄をも断つ利剣である。華琳がほんのわずかに力をこめれば、ぶ厚い筋肉に覆われた腕も大した抵抗も無く落ちるだろう。
「それなら、もう片方の腕もお願いします。両腕を失ったとなれば、兄貴に言い訳も立つってもんです」
そう言って、牛金がにやりと笑った。顔に張り付いた真一文字の傷口が歪んで、凄惨な覚悟を強調する。疾駆中の馬上であるから、宛がった剣が揺れて牛金の腕に無数の切り傷を作った。それを厭う素振りもない。
曹仁が牛金を同行させたのは、こうなる可能性まで考えてのことだろうか。曹仁が西涼の戦線を離れるなら、本来副官の牛金はその地に留まるべきなのだ。曹仁の意を体して華琳の命を突っ撥ねるのは、それがどんなに優秀であっても部下である無花果や、自身を一兵卒と割り切る白騎兵達には無理なことだ。部下であり副官である以前に友人である牛金だからこそ、曹仁も委ねることが出来たのだろう。
「わかったわ、襄陽に着くまでの間、貴方の指揮に従いましょう。馬に戻しなさい」
「十分脚を休めたようですので、ここからは絶影にお乗り換え下さい」
空馬で並走していた絶影が、追い立てられてくる。
「……貴方も落ち着きなさい、蘭々」
華琳は絶影の鞍上に腰を落ち着けると、代わって飛び出していきそうな顔をしている蘭々を制した。
「でもっ」
「今さら引き返したところで、どうなるものでもないわ」
かつて呂布を相手に曹仁が稼ぎ出した四刻という時間を、間も無く過ぎようとしている。どんな結末を迎えるにしろ、決着の時までに合流することは敵わないだろう。
「もし仁が戻らなければ、貴方の首もないと思いなさい、牛金」
「こんなもの一つで兄貴の頼みに答えられるなら、―――安いもんでさぁ」
我ながら見苦しい八つ当たりを口走ると、牛金は如何にも侠客らしい素振りでぴしゃりと自分の頬を叩いて見せた。
「―――ちっ」
欄干沿いを駆けて背後を取りにいくも、無数の突きに星は行く手を阻まれた。
曹仁の正面には愛紗が陣取り、星は左右を窺った。表面上は曹仁が攻め立て愛紗と星が防ぐという形だが、内実は守りを固めた曹仁を愛紗と星が如何に崩すかという戦いだ。
数の利を活かすには前後から挟み打つという形を作るのが一番だが、橋上のどこを進んでも突きが飛んでくる。突きの“点”がほとんど“面”と感じられるくらいの連撃である。
「呂布と伍したという評判は、あながち虚名でもないようですな」
返答はない。連撃を正面から受け止める愛紗にも、休みなく突きを繰り出す曹仁にも言葉を返す余裕などあろうはずもない。
呂布と曹仁の一騎打ちは今ではほとんど伝説のように語り継がれている。それは大袈裟に虚飾を施されたものであるが、当時曹操の庇護下にあった星達は戦いの実相をかなり詳細に伝え聞いていた。曹仁が呂布を四刻足止めしたのは紛れもない事実であり、その際に用いたのがこの突きだった。
星には鈴々と二人掛かりで呂布と対し、劣勢に追い込まれた苦い思い出がある。それだけ呂布は突出した存在だった。いくらその場に居合わせた兵に話を聞いても、にわかには信じ難い気持ちがあった。しかし現実に、自分と愛紗が同じく四刻の時を費やしてなお橋を渡れずにいた。
「―――っ」
乗馬の胸元を狙う低い突きを、愛紗は青竜偃月刀で捌きながらも半歩後退した。槍の間合いの外に出てしまえば、曹仁はそれ以上の追撃を掛けては来ない。
「凄まじいものですな。管のお陰というのももちろんあるが、相当な鍛錬を積んでおられる」
「何でも出来る星さんと違って、俺の槍は単純だからな。一つのことをやるだけだ」
繰り突き一つに特化した曹仁の槍術は、多種多様な技で相手を攪乱し翻弄する星の流儀とは対極と言えた。天稟の不足を、一つの技の完成度を極限まで高めることで埋めようというのだろう。繰り突きは槍術の最も基本的な技であるが、基本だけに隙は少なく多くの利点を有していた。星も一つの技だけを練り上げるなら迷いなくこの技を選ぶ。
「――――」
星と曹仁のやり取りには我関せずという態で、愛紗がずいと再び前へ出る。即座に曹仁も応じ、同じことの繰り返しとなった。
愛紗の万全の受けに守られながら、星も隙を見ては左右から斬り込んでいく。しかし、やはり突きに阻まれる。槍の間合いに入った瞬間、それまで愛紗一人を襲っていた突きの一部が飛んでくる。一部と言っても、それはこちらの足を押し止めるに十分なものであった。
いったい、いつまで続くのか。
曹仁が呂布を相手に戦ったという四刻と言う時は、すでに過ぎようとしていた。西日が差し込み、橋板の上に長く伸びた曹仁の影が揺れている。
―――腕の肉が割け、骨だけになっても突き続けていそうだ。
一切の感情を見せない影法師を見ていると、そんな考えが過ぎる。星は初めて、武人としての曹仁に脅威を覚え始めていた。
「愛紗よ、下がれっ。このまま続けても埒が明かん」
「―――っ、…………いったい何だというのだ、星」
愛紗が馬を引いた。
「一つ試してみたい手がある。―――だがその前に、愛紗よ。お主もう少しやる気を出せぬものか?」
「何を言いたい」
じっと見やると、愛紗は不快気に眉をひそめた。
「ふむ。まあ分からぬなら良いさ」
「……それで、手と言うのは?」
「今度は私が先に出よう。見ておれ」
「気を付けろ、速いぞ」
「分かっている。では―――」
気負わず踏み込んだ。同時に、耳を劈く金属音が響いた。星の両の腕に、確かな反動が襲い来る。
中空で管槍と龍牙の穂先同士がぶつかり合い、一つに連結した。龍牙の二又の穂先が、曹仁の槍の穂先を挟み取っていた。
管槍を用いた突きは確かに速いが、同じ槍術家の星の目には狙い自体は至って読みやすい。管を隔てて槍を握るがゆえに、一度突き始めてしまえば掌中や指先を使った微妙な変化をさせようがない。すなわち管の位置、角度さえ見定めてしまえば、軌道の予測は簡単だった。連撃に曝されてしまえば対処に追われ予測どころではなくなるが、初撃に限ればしっかりと相手の手元を見定める余裕がある。
曹仁が突きを放った刹那、星は確信を持って管槍の軌道へと龍牙を突き入れたのだった。
「―――っ」
ぐりっと両の腕に渾身の力を込めて龍牙をひねり上げると、曹仁が小さく呻く。
星は愛紗や鈴々のように男に倍する膂力などは有していない。単純な力比べをすれば、小柄ながらも鍛え抜いた男の曹仁には敵わない。しかし曹仁は片手こそ槍の柄尻を握り込んでいるが、もう一方の手は可動式の管の上である。ほとんど力の込めようがないのだ。
「愛紗、何をしているっ」
「―――っ!」
膠着する二人を、何するでもなく見つめる愛紗を叱咤した。
愛紗が前へ出るのとほとんど同時に、槍と槍の連結が解けた。腕の力ではなく、馬ごと半歩下がることで曹仁は龍牙の拘束から逃れていた。
今度は青龍偃月刀と管槍が交錯し、―――両者は一歩下がって距離を取った。
愛紗の腕に、血が滴る。青龍偃月刀は肉迫すれど曹仁の身には届かず、偃月刀を振り降ろした愛紗の肩に曹仁の槍が浅く突き立つのを星は見た。
「まだまだ―――」
「愛紗、もう下がれ」
もう一度前へ出ようとする愛紗を、星は押し止めた。
「何を言う。この程度の傷」
突かれた腕を、愛紗がぐるぐると無造作に回して見せた。傷口からわずかに血が吹いたが、然して痛みもないようで平気な顔をしている。かえって曹仁の方が顔をしかめていた。
「そうではない。気乗りせんのなら邪魔だから下がれと言っている」
「……何だと」
「曹仁殿を相手に、今一歩が踏み込めぬのであろうが」
「―――っ」
思い当たるところがあったのだろう。愛紗が絶句した。
戦いに乗り気でなかった愛紗だが、勝負が始まるや曹仁の正面に陣取り、管槍の攻撃の大半を引き受けてくれていた。あの突きの一つ一つを偃月刀で見事に捌き切っている。後退して避けるならまだしも、初見であの連撃を全て払い除けるなどほとんど人間業とも思えなかった。正面に立つのが自分であれば、すでに手傷の一つも負わされているだろう。呂布の方天画戟を百合防ぎ切った愛紗の守勢の武は、誇張なしに天下一である。恐らく呂布自身ですら、自らの攻めをそこまでしのげはすまい。
しかし戦いが続くうちに、守りに偏重し過ぎの愛紗が却って足枷となった。まず受けから入るのは愛紗のいつもの流儀ではあるが、今回はそこから攻めに転ずる一歩が出ない。受けに専念しなければ曹仁の突きを防ぎ切るのはいくら愛紗と言えど難しいのだろうが、星が前へ出て連撃の一部を引き受けた時でさえ踏み込む素振りを一切見せなかった。そして今のやり取りである。
桃香ほどあからさまなものではないが、愛紗も曹仁を憎からず思っている。それが無意識に―――あるいは意図的に―――、愛紗の攻勢を押し止めていた。愛紗が正面に陣取ることで、星も左右を窺うだけの単調な動きに終始せざるを得ない。
「お主がいては、私も曹仁殿を討てぬ」
本音を言えば、星にとって曹仁は二番目どころか曹操以上に優先して討つべき対象であった。
曹操を討てば、曹仁がその地盤を受け継ぐなどということになりかねないのだ。曹仁は曹操と同じところを目指しつつも、曹操ほどの苛烈さは見せないだろう。曹操が性急に推し進めてきた改革は、曹仁が上に立てば幾分穏やかなものとなる。それは、星にとって最も避けたい事態だった。桃香の志との間に妥協が成立しかねない。桃香は曹操の性急さを否定はしても、政の在り方そのものは否定してはいないのだ。
桃香は民の笑顔が守られるなら、誰の天下でも良いと言うかもしれない。しかし星にとって自分の仰ぐ主君は桃香一人であり、桃香が治める天下をこそ見たかった。他の誰かの天下では意味が無いのだ。
だから曹仁は確実に討ち取らねばならない。
そしてどうやら曹仁を仕留める人間は、劉備軍において自分しかいないらしい。愛紗がこの有様では、仮に鈴々がいても同じことだろう。曹操軍に憎しみを募らせる翠がいるが、武人として以上に西涼への足掛かりとして欠かせない人材である。やはり一介の武人に過ぎない自分こそが適任だった。
「愛紗よ、私は桃香様の天下だけを夢見ている。もしそこに何か不純なものを混ぜるならば、お主とて敵だ」
「わ、分かっている」
「ならば下がれ。これ以上を私の口から言わせるな、友よ」
「…………」
愛紗は黙って馬を引いた。待機する五百騎の元へと下がっていく。これで橋の上に落ちるは星と曹仁、二騎の影だけだ。
曹仁の白鵠が、足元を確かめるようにわずかに身動ぎする。二対一から本当の一騎打ちとなれば、当然曹仁にも自ら前へ出て攻めるという選択肢が生れてくる。
「あいや、待たれよ。せっかく一騎打ちとなったのです、しばし休んで万全な状態で勝敗を決そうではありませんか」
「……らしくないな。星さんのことだ、これ幸いとかかってきそうなもんだけど」
そう言って、曹仁は胡乱な眼を向けてくる。
「まったく、私を何だと思っているのです。愛紗相手に疲れ切った曹仁殿から漁夫の利を得たと思われてもつまりませんからな」
一応納得いったのか、曹仁は上段に構えていた槍を下段へ落した。
林の梢に、日が落ちようとしていた。
言うまでもなく、暗闇の中では管槍の連撃を防ぐのは一層難しくなる。星の考えが読めなかった。本当に言葉通りに、曹仁に休息を与えようとでも言うのか。
腕の疲労はすでにかなり回復しつつあった。恋との一戦を終えた後は、十日は腕が使い物にならなかった。修練の成果もあるが、何によりあそこで一度限界を超える経験をしたことが大きいだろう。
星は対峙したまま、くるくると龍牙を弄んでいる。龍の上顎と下顎、あるいは蛟龍の舌が如く並列した二本の刃が特徴の槍だ。
華美な造形を、これまでただの装飾としか見ていなかった。まさか突いた槍を挟み取るなどという離れ技をやってのけるとは想像だにしなかった。
「さてと、それではそろそろ再開といきましょうか」
四半刻ほど時をおいて、星が言った。そのまま管槍の間合いに躊躇なく踏み込んでくる。先刻と同じく、再び槍を絡め取ろうと言う腹か。
「行きます」
曹仁は、その誘いに乗った。ただし拳二つ分だけ突いたところで、槍を止める。
「むっ」
龍牙が虚空に突き出されるのを見届けた後、曹仁は余裕を持って再び槍を前進させた。
身を仰け反らせて、星が避ける。二撃、三撃、四撃。星はじりじりと馬を下げていく。一対一ならば、こちらからも前へ出ることが出来る。詰め寄った。
十数撃目。わずかに高めに流れた上段の突きを星は潜り抜け、馬から身を乗り出すようにしながら横薙ぎに下段―――白鵠の足元を払った。白鵠が棹立ちになって避ける。
追撃に備えるも、星は馬を大きく引いて距離を取った。すでに橋の袂近くへ至っている。
―――さすがに、そう簡単に勝たせてはくれないか。
しかしあの趙子龍を相手に管槍の突きは十分に通用していた。いや、圧倒的に優勢と言っていい。四、五丈(12~15m)も一方的に追い立てたのだ。穂先を挟み取る技も、突きの出鼻に虚実を交えれば合わされる心配はない。たとえ虚と分かったところで、こちらが突き始めると同時に動かなければ管槍の速さに対抗は出来ないのだ。
命を賭す心算で、この長坂橋に立った。相手は関雲長と趙子龍。当然の覚悟だ。しかし今や状況は好転し、星一人を退ければ自分も襄陽へ引くことが出来るのだ。
顔を合わせれば、無茶をしてと華琳は怒るだろうか。口も利いてくれないかもしれない。それでも良かった。たとえどんな顔を向けられようと、華琳にもう一度会えるのなら―――
「仕方がない。こちらも使わせて頂きましょう」
星が懐から何かを取り出した。
「―――っ」
それを認識した瞬間、曹仁の胸中にほのかに芽生えていた希望が吹き飛んだ。
竹筒であった。星は慣れた様子で龍牙の石突からそれを通すと、片手はその竹筒を、片手は柄尻を握って構える。そう、管槍である。
「なるほど。辺りが暗くなるまで待ったのは、人目を避けるためですか」
我が道を行く性質の星をして、さすがに節操無さを自覚しているのだろう。
すでに日は木々の間に隠れ、対峙する互いの姿すらおぼろげだった。愛紗や兵からは、管の有無など分かりはしない。
「……何も、貴殿の専売というわけではあるまい?」
曹仁の言葉は図星を突いたらしく、星は少々拗ねた口調で言う。
「そういうわけではありませんが、まさか星さんが管槍とは」
管槍は繰り突きという一つの技に特化した得物である。片手が可動式の管を握るために、斬る、薙ぐ、払うといった技はかなり使用を限定される。端から繰り突きを武の根幹に据え鍛えてきた曹仁とは違って、多彩で華麗な技こそ星の強みだった。管を握ることで失うものは曹仁よりもはるかに多い。
それでもなお、あえて管を装着した。それも、いやに手慣れた仕草で。嫌な予感しかしなかった。
「では、行きますぞ」
星はいつもの変則的なものではなく、鏡写しのように曹仁と似通った構えを取る。それも妙に様になっていた。
「―――くっ!」
白鵠が大きく跳び退って距離をあける。紅い切っ先が、曹仁の腹をわずかに掠めていく。上段に飛んできた二撃目を仰け反って避け、再び腹を狙った三撃目は後退してすかす。四、五、六。連撃が止まらない。
詰め寄った分だけ押しやられ、再び橋の中程に到達した。意を決し曹仁からも突きにいく、その素振りを見せたところで星の連撃が止まった。
「……やはりこっそり練習していたな、星さん?」
恐ろしく速い。突く側と突かれる側の違いはあれど、修練で管槍の速さには慣れた曹仁をして目にも留まらぬ連撃である。管槍が邪道とされる理由が改めて身に沁みた。加えて首筋や眉間、具足の隙間の腹部を正確に狙って突きが飛んできた。星は管槍の速さを完全に御している。昨日今日の思い付きでは有り得なかった。
星には元々武術に関しては極めて秘匿的なところがある。
許でも愛紗や鈴々との手合せには時折参加しても、型稽古の類を目にすることはなかった。技の多様さこそが武器の星であれば、手の内を秘すことは当然と言える。しかしまさか、密かに管槍の修練までしているとは思いもしなかった。
「それはお互いさまというものでしょう」
「……確かに」
それを言われては、曹仁は素直に頷き返すしかない。
「肩慣らしは済みました。次は本気で参りますぞ」
再び互いに鏡写しの構えを取る。
橋上を大きく行き来した展開から一変、静かな対峙となった。
先刻の攻防で、曹仁は一つの結論に至っている。星もそうだろう。だからこそ曹仁が攻勢に移ろうとした瞬間、槍を引いたのだ。
不用意に管槍で突き合えば、相討ちとなる可能性が高い。仮に先に槍を当てたところで、それは有るか無きかの刹那の差でしかない。直後に相手の突きをもらうことになるのだ。
―――青紅の剣だ。
星のように初撃に突きを合わせる―――点を点で迎え撃つような芸当は不可能だが、剣で斬り払うことなら曹仁にも出来る。抜き打ちで初撃を払い、一気に剣の間合いまで踏み込む。管槍と管槍の勝負には背を見せる形になるが、それだけに星も予想しないはずだ。
戦機が満ちていくのを感じる。
「…………っ!」
あえて満ち切る前に、踏み込んだ。同時に右手は槍の柄を放し、剣把を握り込んでいる。
目にも艶やかな龍牙の紅い刀身が一瞬揺らめき、―――消える。青紅の剣が空を斬った。
「……さっきのが肩慣らしというのは、本当だったのか」
身体能力に劣る身でこの世界の武人に対抗するために持ち出した戦法だ。それがこの世界の武人―――それも天下で五指に入ろうという―――の手に渡ればどうなるか。答えは簡単だ。
星は曹仁がしたように虚実を使い分けたわけではない。単純な速さだ。突きを払うどころか、引き戻される槍先にすら剣は掠りもしなかった。
「―――くっ」
曹仁の槍が管から抜け落ちて、橋上に転がった。わずかに遅れて、力の抜けた手から管が、青紅の剣がこぼれ落ちる。
腹の中が、燃えるように熱かった。
視線を落とすと、軍袍にじわじわと血が滲み出してきていた。咬み傷のように傷口は二つ並んでいる。燃えているのは目に見えた傷ではなく、腹の奥深くだ。
二又の刃が腹の内で臓腑を絡め取り、逃すことなく切り裂いていく様がまざまざと想像された。致命傷だった。龍牙の形状の意味をまた一つ、曹仁は己が身をもって知った。
「いま、楽に―――」
星が言い掛けたところで、白鵠が馬首を返し駆け出した。曹仁からは、何の合図も送ってはいない。
直立する旗手の脇を抜け、北へ北へと駆けていく。背後から星と愛紗の声がしたが、すぐにそれも聞こえなくなかった。
「……華琳の元へ、向かってくれているのか」
間に合うとは思えない。だが最期は、一歩でも華琳の近くで迎えたい。
曹仁は白鵠の首にもたれかかる様に倒れ込んだ。風に踊る鬣が頬を撫でる。
白鵠の鼻梁の真ん中に、一筋の傷が出来ている。そこから溢れる血を、曹仁は両手を回して塞き止めた。曹仁の腹に龍牙が突き立つ寸前、白鵠が首を持ち上げた。身を挺して、曹仁を守ろうとしてくれたのだ。
「やはり、お前は俺には過ぎた相棒だったな」
視界が白に染まっていく。温かな白鵠の毛並とは違う。無機質で強い白の光だ。これが死の色なのか。
やがて、見える世界全てが白に覆われた。