暗闇の中を、襄陽へ向け駆けた。
すでに百数十騎の集団に過ぎないため、離散を恐れる必要もない。ほとんど昼と変わらぬ速さで進んだ。
ふと華琳は背後を振り向いた。
目を凝らすと、闇の中に一層濃い影が聳えるのが分かる。長坂橋は山並みに遮られ、すでに地平の先にその痕跡を認めることすら出来なかった。
「―――?」
一瞬、山の稜線が白く浮かび上がり、また元の暗い影へと戻った。
「今のを見た?」
「……今の?」
隣を駆ける蘭々に問うも、小首を傾げられた。何のことを言っているか分からないらしい。
「いえ、何でもないわ」
頭を振って華琳は返した。
偶さか自分が振り向いた瞬間に、視界に捉えたというだけのことだ。並走する他の者達がそれに気付くはずもなかった。
まるで山の向こうに何か光源でも生じたように見えた。それも炬火程度の明かりでは有り得ず、周囲一帯を白く染めるような強烈な光を放つ何かだ。
曹仁より伝え聞いた天の国ではそんなことも可能だろうが、この世界でそれほど強い光を生み出す方法が果たしてあるだろうか。
一つの記憶に思い当たった。母曹嵩の太慰就任を祝う宴の席で見られ、当時瑞兆と持て囃された事象である。
「……まさかね」
埒も無い想像を、華琳はもう一度頭を振って打ち消した。
それからは夜を徹し、ただ駆け通した。やがて空が白み始めると、遠く砂塵が見えた。襄陽からの援軍のようだが、どうも様子がおかしい。
「攻撃を受けているようね」
追い立てられている四千騎ほどの集団、こちらが援軍の兵だろう。後を追う敵は、二千騎ばかりと見える。
「あれは、―――孫策か? ここに来てようやくのお出ましとは、ずいぶんと勿体ぶったご登場ね」
赤地に孫と大書された牙門旗がかろうじて見て取れた。
妹の孫権には長江を遡上して江陵を落させ、自身は赤壁よりさらに長江を降り、夏口から漢水に船を乗り入れ北上して来たということだ。二千騎は、予てより報告にあった孫策直属の部隊だろう。しばしばどこからか渡江しては領内を気侭に駆け回ってくれたという。それも自領に面した長江北岸に限らず、漢水流域でもその姿は目撃されている。敵地深くへの侵攻だが、慣れたものであるに違いない。
「牛金、襄陽に着くまでは貴方に従うと言ったけれど、しばし指揮権を返してもらうわよ」
「はっ」
異を挟まず、牛金が短く返す。侠客ではなく曹仁の忠実な副官―――軍人の顔に戻っている。
速足から一気に疾駆まで足を速めた。援軍四千騎が影となって、孫策軍には小勢のこちらの存在はまだ気取られていないだろう。
「流琉、旗を」
「はいっ」
援軍の兵一人一人の顔が視認出来るほど距離を詰めたところで、牙門旗を立てさせた。
援軍の兵達も、にわかに立った曹の牙門旗に驚きの表情を浮かべている。押し合いへし合いしながら、大慌てでこちらの進路に道を開く。
四千騎を縦に貫く一条の道。駆け抜けた先で行き合ったのは孫策だ。案に違わず、二千騎の先頭に立っていた。孫策はやはり目を丸くして一驚した後、にやりと獰猛な笑みを浮かべた。
馳せ違い様に突き出される白騎兵の槍を、孫策は南海覇王で危なげなく捌く。
「えーいっ!!」
季衣が岩打武反魔の鉄球を投げ付けた。放物線―――を描かずに直線的な軌道で孫策へと迫る。轟々と常にない勢いは、馬の脚力を投擲に上乗せした証だ。近衛の隊長として華琳に付き従う季衣は、普段あまり疾駆から攻勢に転ずることがない。
対する孫策は片手で伸び伸びと振るっていた長剣を両手で握ると、上段に担いでみせた。
まさかと思ううちに、孫策と超重量の鉄球が激突し、時が止まったように静止した。力と力が拮抗し、均衡が生じていた。孫策軍後続の兵は足を止めた主君に衝突しそうになりながらも際どく躱し、前へ出た。季衣が鎖を引いて鉄球を自身の手元へ引き戻す。
そのまま、孫策とはそれ以上交わることなく馳せ違った。不服そうに唇を尖らせた孫策が、視界の端を掠めていく。
二千騎を縦断すると、半円を描くように旋回し、同じく対称となる半円を描いた援軍と合流を果たした。孫策軍は無理にそれを阻もうとはせず、距離を取って構え直している。
「あの鉄球を正面から打ち返しにくるとはね」
季衣の岩打武反魔は重量だけで言えば天下に並ぶ物のない得物であろう。巨漢の胴回りにも数倍する巨大な鉄球は、並の兵なら持ち上げることすら出来ない。
模擬戦では春蘭が弾くところを何度か目にしたが、あれは長大で幅広、片刃の分だけ厚みもある七星餓狼を用いてこそだ。いくら利剣と言っても細身の長剣である南海覇王で同じことをしようとするとは、大胆不敵と称賛すべきか、無謀無策と蔑むべきか。
「……華琳さま、たぶん孫策は打ち返そうとしたんじゃありません」
季衣が言いながら、鉄球を掲げて見せた。
球体の表面に、一筋の線が走っている。角度を変えよくよく見れば、それが鉄球に刻み付けられた傷であることが分かった。その中心は二寸近くも深さがある。
「まさか、斬ろうとしたというの?」
「たぶん」
「ものには限度があるでしょうに……」
声を失った。
相応の利剣を用いれば、斬鉄は不可能ではない。華琳も倚天の剣で試したことがあるが、粗悪な鉄の剣を、“据物斬り”にしただけだ。実戦の中でやれるとは思わないし、まして猛烈な勢いで飛来する巨大な鉄球を両断しようなど正気の沙汰とも思えない。笑い飛ばしてしまいたいところだが、孫策が刻んだ傷跡は決して浅くはなかった。
「―――華琳様っ、ご無事で!」
「貴方自ら率いてきたのね」
援軍の指揮官が駆け寄ってきた。桂花である。
「申し訳ありませんっ。孫策を、引き連れて来てしまいました」
「いえ、よくぞ合流してくれたわ。それぞれに当たっていれば、何も出来ずやられていたでしょう」
「はいっ。援軍四千騎、お受け取り下さい」
「四千か。よく集めてくれたわね」
襄陽の守兵は水軍の兵士も兼ねた歩兵が中心であるから、騎兵の援軍は三千は望めぬであろうと考えていた。
「三日前、突然曹仁がやって来て、華琳様が負けるかもしれないから援軍の用意をしておけ、と言い残していきました。あいつを信じたわけではなかったのですが、荊州都督の言葉ですし、一応樊城の騎兵を襄陽へ移したところでした」
「……そう。援軍はこれで全て?」
曹仁の名を聞くと、ざわざわと胸がかき乱される。押し込め、尋ねた。
「他に歩兵五千も手配しておりますが、ここへ着くにはまだ時が掛かります」
二千の孫策軍には、この四千騎で対さなければならないようだ。
―――大軍の戦ならば華琳さん、寡兵の戦ならば孫策さん。
孫策と自分、どちらの戦が上か問うた華琳に、雛里が返した言葉が思い起こされた。
「確か、孫策に利があるのは一万五千までと言っていたかしら」
それでも、疲弊し切った兵馬で関趙二人を相手取った昨日よりはいくらかましだろう。
「お怪我はございませんか、孫策様」
朱桓が馬を寄せてきた。親衛隊の隊長だが、今は二千騎の孫策隊の副官のような扱いだ。
「大丈夫よ」
雪蓮の身体は元より、鉄球の衝撃を真面に受け止めることとなった馬にも異常はない。軽く頷いて答えると、朱桓は拱手して下がった。あまりしつこいことを言わないのが、この親衛隊長の良いところだ。
「いけそうな気がしたんだけどなぁ」
飛んでくる鉄球を目の当たりにした瞬間、斬れそうな感じがした。今にして冷静に思い返せばさすがに無謀という気もするし、“斬れそう”と感じただけで“斬れる”という直感にまでは達していなかった。曹操の顔を見て、少々気が逸ったようだ。挨拶代わりに驚かせてやるつもりが、赤恥をかいた。
「―――しかしよくぞ、ここまで辿り着いてくれたわね」
挨拶は失敗に終わったが、我知らず口元がつり上がる。
劉備軍から関羽と趙雲を追撃に差し向けると聞かされていたから、ここに至ることなく曹操が討ち果たされる可能性も十分にあった。自分に討たれにここまで来てくれた。そんな感謝の念まで浮かんでくる。
もし曹操がすでに討たれていたなら、襄陽、そして樊城の攻略に掛かる計画だった。城を発した援軍を片端から片付け、手薄になったところを水軍―――ここまで二千騎を輸送してくれた部隊―――と協力して落とす。今後の展開を考えれば、曹操の首を落すよりもそちらの方が実入りは多い。曹操追撃と同時に荊州北部の攻略も進められているが、劉備軍が単独で、あるいは孫劉協同で攻撃に当たる城邑も多い。荊州北部での劉備の人気は不思議と根強く、一方で孫策軍は長く夏口を脅かす敵勢力であったのだ。陣営に劉旗一つ立てるだけで、城を落とすのはずいぶん楽になるはずだった。しかし劉備軍との関係を思えば、戦略や流通の要となる拠点だけは孫策軍独力で落とすのが望ましかった。そのうちの一つは蓮華がすでに落したであろう江陵であり、もう一つが襄樊の二城である。
だがその辺りの政治的な駆け引きは冥琳に、あるいは蓮華に譲る。雪蓮の頭にあるのは、かつての敗戦の屈辱を雪ぐことだけだ。冥琳も、内心では認めてくれているはずだ。でなければ、そもそもこんな敵地深くまで自分を送り込むことを肯んじない。曹操に戦で勝つというのは、二人の共通の目標だ。まずは冥琳が水軍で勝った。今度は陸上で自分が勝つ番だ。
「―――全騎、我に続けっ!」
二千騎は雪蓮の一挙手一投足に即応して動くが、あえて声に出して命じた。四千騎に正面から突っ掛ける。
数こそ劣るが、練度では決して劣っていない。呂布の騎兵を引き継ぎ、西涼の錦馬超をも破った曹操軍の騎馬隊は精強無比で知られているが、今ここにいるのは襄樊で留守居を任されていた兵達だ。曹操軍第一線の精鋭ではない。二千の手勢は鍛えに鍛え上げていて、曹仁や張遼旗下の兵が相手でも引けを取るつもりはないのだ。
ど真ん中を貫く二千騎の突撃を、四千は左右に分かれていなした。
「さすがにこれはかわすか」
曹操が指揮に付いたことで、されるがままだった先刻までとは当然動きが変わっている。
雪蓮は迷わず曹の牙門旗が立つ二千騎へ馬首を向けた。二千がさらに左右へ分かれる。やはり牙門旗のある方を追う。旗だけ立てて囮に使うような戦は、曹操はしまい。旗の下に、狙う首がある。また分かれた。牙門旗を追った。
やがて牙門旗の周りには最初に現れた時と同じく百と数十騎を残すのみとなった。首に白い布を巻いた者が多く見られる。白騎兵だ。曹仁に従い西涼にいるものと思っていたが、赤壁に参陣していたのか。
まとめて借りを返す良い機会だった。官渡より馳せ劉備軍を討ち、返す刀で孫策軍までを破ったあの時も、曹操は白騎兵を伴っていた。
「―――ちっ」
曹操が最初に分けた二千騎が、横から突っ込んできた。次に分けた一千も斜め前から姿を現す。
自ら囮となることで、誘導されたらしい。さすが曹操は頭を使った面倒な戦をする。
「散開せよっ!」
頭上で南海覇王を回しながら叫んだ。二千騎がぱっと散り散りとなる。敵地への侵入を繰り返して鍛えた兵達だ。敵の目を逸らし逃げるのはお手の物である。雪蓮も旗手一人を伴うのみで駆ける。曹操軍の二千と一千は敵を求めふらふらと蛇行した後、やむなく合流を果たした。五百二隊もそこに加わり、再び四千騎ひとまとまりとなる。
四千騎から距離を取ると、雪蓮は散開と同時に伏せさせていた牙門旗を掲げさせる。
「孫策様っ」
朱桓が数十騎をまとめて一番に駆けてきた。
「ふっ、四千騎と合流するものかと思えば、勇ましい戦もするじゃない。そうでなくっちゃね」
「?」
眉をひそめる朱桓に、顎をしゃっくって背後を示す。
この地―――二千騎の集結場所―――に向けて曹の牙門旗が突っ込んで来ていた。伴うのは百と数十騎のみだ。
「行くわよっ」
兵の集結を待つより、こちらも勢いを優先させた。駆けながらも少しずつ兵は集まり、百数十騎とぶつかる直前には三百程となった。それでも相手が白騎兵なら優位とは言えないだろう。
ぶつかった。
首元の布が標的だ。先頭の一騎の白を赤く染めた。
二騎目、三騎目までは斬れたが、そこからは逆にこちらが押された。疾走する馬上にあって歩兵のようにぴたりと槍先を合せて突いてくる。間合いに劣る剣では崩しようがなかった。せめてもの反撃と、二つ三つと穂先を斬り飛ばしていく。
ふっと林立する槍が途切れた。代わって飛んで来たのは、先の巨大な鉄塊だ。
馬上に横たわるつもりで、雪蓮は思い切り身を仰け反らせた。轟々と音を立て、頭上を巨大な影が過る。直後、南海覇王を横薙ぎにした。きいんと甲高い金属音と共に、握った剣把にわずかな抵抗を覚える。
身を起こすと、鎖だけになった得物を手に許猪が悔しそうに目を剥いていた。後方から、どしんと重い物が地面を打つ音がする。あの巨大な鉄塊を断ち割るのは―――不可能とは言わないまでも―――難しい。鉄球はやり過ごし、鎖を断っていた。
許褚の傍らに典韋。手にした牙門旗を他の兵に預け得物を構える。許褚の鉄球にも劣らない巨大な円盤上の兵器だ。二人の奥には曹操がいる。届くか。
典韋の得物が、雪蓮の馬の足元目掛けて投げ打たれた。許褚の二の舞を恐れ、直接雪蓮を狙うのは避けたようだ。円盤が土砂を巻き上げ大地に大穴を穿った瞬間、すでに雪蓮は馬を跳躍させていた。一息に曹操へ詰める―――つもりが、着地と同時にがくんと馬が膝を折った。
雪蓮の望むまま駆けてくれていたが、やはり先刻鉄球を斬り損ねた際に脚を痛めていたのだろう。地面に腹這いとなった馬から下り、南海覇王を構える。好機と見て、曹操達が脚を止めた。
「―――孫策様、馬をお代えくださいっ!」
叫び、朱桓が素早く十数騎を率いて前へ出る。兵が一騎下馬して、手綱を捧げてくれた。遠慮なく雪蓮は馬上の人となる。
曹操の前面にも白騎兵が列を成し、双方足を止めての睨み合いとなった。曹操軍の四千騎が、こちらへ向けて駆けて来る。孫策隊の二千騎も、間も無く集結を遂げる。
「貴方、当たり前のように鉄を斬るのね」
兵の頭上を飛び越え曹操が話し掛けてきた。
「鉄球は斬り損ねたけどね」
口を利くのは、反董卓連合で陣営を同じくして以来だろうか。
「江陵で孫権に会ったわ。なかなか面白い子ね。私にくれるつもりはない?」
「可愛い妹を、誰があげるもんですか」
「そう、残念ね」
それだけ言うと、曹操は馬首を巡らせた。四千騎のいる方へと駆け去って行く。乱戦で勝負を決するつもりはないということだろう。雪蓮も真っ当な戦での勝利が望みだった。
距離を取って仕切り直すなどということはなく、四千騎がそのまま向かって来る。こちらも二千騎が集まるや駆けた。
今度はどんな手を使ってくるか。関趙の追撃を受け、江陵を失い、わずか百数十騎で現れた。失意に沈んでもおかしくはないが、ちゃんと強いままの曹操がいた。場違いながら、雪蓮はわくわくと胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
曹操は今度は隊を分けず、真面にぶつかってきた。雪蓮はぎゅっと絞った錐状の隊形で、その真ん中を貫く。四千騎の中央近くで、錐の先端が堅いものに触れた。白騎兵だ。わずかに進路が横に流され、曹の牙門旗とは行き合うことなく背後へ抜けた。
反転した。曹操軍は反転せずに、そのまま駆けている。後を追った。形としては有利だが、曹操の思惑で動かされている。
四千騎から五百が分かれた。構わず追った。牙門旗は残る三千五百に立っている。さらに五百が分かれ、次には一千が分かれた。やはり牙門旗は残る二千騎にある。
やがて五百二隊と一千が、雪蓮達の背後で合流して二千騎となった。二千の曹操軍を追い、二千の曹操軍に追われる形だ。
丘が一つ見えた。山深い巴蜀と中原の境に位置する荊州は多様性に富んだ地形をしている。馬を一駆けさせればすぐに丘陵や山岳に行きつく。
曹の牙門旗が丘を駆け上がっていく。狙いは反転からの逆落としか。恐れて脚を緩めれば背後の二千に打たれ、進路を逸らせば二つの二千が合流して今度は四千騎に追われることとなる。
―――いける。
直感が走った。
「そっ、孫策様に続けっ!」
やにわに馬を疾駆させ突出した雪蓮に、朱桓が叫ぶ。兵が慌てて脚を速めた。曹操を追って、丘を駆け上がる。
雪蓮が中腹まで至ったところで、曹の牙門旗は丘の頂に到達し、反転した。それなりに急峻な丘だ。二十歩も駆ければこちらを圧倒するに十分な勢いを得るだろう。躊躇せず駆け上り、曹操軍が十歩を刻んだところでぶつかった。
先頭から十人余りを雪蓮は瞬く間に斬り払った。わずかに遅れて、兵が続く。勢いはわずかに劣るが、大きな違いはない。それ以上に逆落としで優位に立てると思っていた兵と、劣勢を覚悟していた兵の違いが出た。士気で勢いを押し返した。
「―――っ」
三方から同時に突き出された槍を、南海覇王でまとめて巻き落とした。反撃は、一人に浅手を与えるのみに留まった。白騎兵。曹の牙門旗も目と鼻の先だ。
突き付けられる槍を捌く。やはり駆け合いの中で白騎兵を仕留めるのは難しい。
白騎兵の攻撃が緩んだ。雪蓮は手綱を引いて、馬首を強引に斜めへ向けた。思った通り、直後に巨大な円盤が脇を掠めていった。許褚と典韋の攻撃は凄まじいものだが、巻き添えを避けるため味方を予め下げねばならない。地面に突き刺さった円盤と典韋とを繋ぐ鉄条を、斬り飛ばした。
じゃらじゃらと音を鳴らし、許褚が鉄球を失い鎖だけとなった得物を旋回させる。咄嗟に身を屈め、中空に南海覇王を突き出した。鎖は剣にぶつかると、そこを支点にぐるぐると回転して絡みついた。雪蓮が南海覇王を走らせると、巻き付いていた鎖は寸断され小さな鉄片となって地に落ちる。
そこで許褚と典韋、そして曹操と馳せ違った。円盤を避けたことで進路が逸れ、曹操の首は剣の間合いの外だ。
いけるという直感は、まだ続いている。そのまま曹操軍を両断して駆け抜け、丘を登り切った。逆落とし。今度はこちらがする番だった。それも完全な形で。
駆けた。思った通り、二十歩で平地では達し得ない速度に至った。曹操は麓近くで後続の二千騎と合流したところだ。さらに加速していく。騎乗する雪蓮達はおろか駆ける馬自身にすら止め難い勢いをもって、曹操軍に突っ込んだ。
四千騎は、当たるそばから崩れていく。一方的と言って良い展開となった。ほとんど遮られるということもなく、突き進んだ。
曹の牙門旗。なおも屹然としている。
大男が立ちはだかった。巨体の上に懐かしい顔を見た。曹仁の副官の牛金だ。大刀を振り被り、横薙ぎにする。幅広の刃を、すれ違いざまに南海覇王で斬り飛ばした。太史慈との一騎打ちで勘所を掴んだ斬鉄だが、今日は格別調子が良い。
「朱桓、前をお願いっ」
「はっ!」
正面に白騎兵が現れたところで、雪蓮はわずかに脚を落した。代わって朱桓が数十騎を率いて前へ出る。この戦場で先頭を譲るのは、これが初めてだ。
十数騎が瞬く間に白騎兵の槍に突き落されたが、続く十数騎で隊列を乱した。逆落としで得た加速はすでに衰えているが、それでもまだ勢いはこちらがずっと上だ。朱桓が鈎を振るって道を斬り開く。白騎兵にかかずらっていては、またあと一歩曹操まで届かない。雪蓮は朱桓達が作った道をただ駆け抜け、牙門旗の下へ辿り着いた。
曹操、―――の前に許褚と典韋が健気にも立ちはだかる。得物を失い槍を手にしている。当然それなりに使うのだろうが、雪蓮の直感を揺るがすほどのものはない。
馳せ違い様に槍を断つか。いや、幼いながらも名にし負う虎士の隊長と副隊長ならば、武器を失っても身を挺して曹操を守るだろう。ここは首を刎ねる。
差し当たり首二つに狙いを定めたところで、奥から大将首が前へ出た。曹操。
部下の助命のために自分の首を差し出す、というような殊勝な顔はしていない。剣を手に、来るなら来いという中原の覇者の顔を保っている。それでこそ、斬る甲斐がある。
「―――はあっ!」
南海覇王。横薙ぎにした。曹操の首元で火花が散る。振り抜き、馳せ違った。
そのまま四千騎を両断して駆け抜け、手綱を引いて構え直した。朱桓が馬を寄せてくる。
「孫策様」
「……蓮華に譲らなきゃいけないっていうのに。短く詰めて鍛え直さないといけないわね」
南海覇王に落とした視線を動かさず言った。
長剣の切っ先一寸ばかりが欠けていた。受けにきた剣もろともに曹操の首を断つ。曹操の剣も相当な利剣と見えたが、その自信が雪蓮にはあった。しかし結果はこちらの得物が欠けることとなった。
母の代から数えれば、恐らく戦場で千を超える敵を屠ってきた剣だ。父祖伝来の宝剣だが、母も雪蓮もぞんざいと言っていい扱いをしてきた。頭蓋を断ち割り、具足ごと薙ぎ払うなど当たり前で、太史慈の厚重ねの剣を両断してからは斬鉄―――断金も常としていた。つい先刻は許褚の放った巨大な鉄球を断ちにいって、仕損じた。それでも刃こぼれ一つせず、その切れ味を些かも鈍らせることがなかったのだ。
「天の御使いに選ばれただけあって、さすがに天祐がある」
自分の渾身の打ち込みである。曹操は武芸の腕も一流と聞くが、あくまでそれは技量があるというだけの話だ。武人として踏んで来た場数が違い、積み重ねてきた業が違う。本来自分が打ち負けるなどあり得ない。
馳せ違う瞬間、曹操自身も唖然としていた。やはり天祐と言うものだろう。
「その天祐がいつまでもつか、試させてもらいましょうか。―――ふふっ、蓮華に短剣を託すようなことだけは避けたいわね」
次に剣を交わせば、そこで終わらせる。軽口を言いながらも、胸に期した。
再び二千騎を走らせた。曹操軍は逆落としの衝撃からまだ立ち直れていない。曹の牙門旗が横へ動いた。ぶつかり合いを避け、駆けながら隊列を整えるつもりだろう。
追い撃ちにした。二千騎の旗下は、まだ数十騎しか欠けていない。対する曹操軍は逆落としの一撃で五百騎近く数を減らし、この追撃でさらに数百は討ち取れそうだ。戦は明らかに優勢である。
「―――っ」
直感が走った。ほとんど恐怖に近い感覚だ。
自分の直感は、何も妖術や仙術といったような不可思議な能力ではない。幼少時から母に連れ出されて戦陣で育った。その長い戦暮らしによって培われた戦勘は、超常の類ではなく確かな経験に裏打ちされたものだ。その戦勘が、戦場に何か不穏なものを感じ取った。
後を追う曹操軍からではない。曹操軍からは狙い時の獲物が発する弱々しい気配しか感じられない。
強烈な違和感は、視界の端にあった。視線をそちらへ向けると、地平の先に何か赤いものが見える。それは見る間に脹れあがり、巨大な赤い一匹の獣となった。獣が、横合いから襲いかかって来る。
二千騎の真ん中を横断された。跳ねられ、踏み砕かれ、百騎余りが瞬時に屠られている。
雪蓮がその場で二千騎の脚を止めると、赤い獣は前を行く曹操軍へと合流していった。追撃を続ければさらに二度三度と獣の襲撃を受けることとなっただろう。
「……赤兎隊か。」
実際に目にするのはこれが初めてだが、あんなものは見間違えようがない。何より先頭に、かつて反董卓連合で目にした呂布の姿があった。話に聞いていた通り隻腕だが、残された右腕で振るう方天画戟は往時と変わりない。
「呂布軍と共に解散したと聞いていたけれど、いったいどこから降って湧いたのか。これも曹操の天祐かしらね。―――朱桓、退くわよ」
「しかし―――」
「呂布の武に、曹操の用兵よ。せめて相討ちに持ち込めるならやる価値もあるけれど、あの二人が相手ではそれも難しいわ」
思い切りの良さで曹操を凌駕してきたが、用兵そのものには翻弄されたと言ってもいい。そこに呂布とあの赤兎隊が加わった。およそ考え得る最強の組み合わせである。
何より、いけるという直感が胸中のどこを探してももう見つからなかった。
孫旗が駆け去って行く。華琳は黙ってそれを見送った。
反攻の好機だが、さすがにその気力が湧いてはこなかった。赤兎隊も、追撃にまで付き合ってくれるものか分からない。
その赤兎隊から、数騎が馬を寄せてきた。先頭を駆ける呂布には気が付いていたが、他に皇甫嵩の姿があった。もう一人、牛金と変わらぬ長身に見違えるようだが、高順もいた。
「どうしてここに?」
分かりきった問いを口にする。
「仁兄に頼まれました」
「これまで一度だって我らに再び戦場に立てとは言わなかったあの男が、懇願したというのでな。私も久々に重い腰を上げたというわけだ。―――愛されているな」
しがみ付くように馬を駆っていた皇甫嵩が、身体をほぐしながら言う。
「その馬は?」
軽口には付き合わず、問いを重ねる。
三人も、率いてきた小隊が跨るのも、かつての赤兎隊と同じく汗血馬である。
赤兎隊を構成した汗血馬は、呂布の希望で領内各地の牧に下げ渡されていた。軍馬としてではなく子種を取るためだった。汗血馬の血を引き生まれた仔馬達はいずれ曹操軍の騎馬の質を引き上げてくれるだろうが、まだ戦場に立てる年齢には達していないはずだ。今まさに目の前にいる汗血馬の出所が、華琳には分からなかった。
「私が西域で買い求めたばかりの、商品でございます。曹操軍にお買い上げ頂けないかと、本日はお持ちしました」
「桂花、言い値で買い取ってあげなさい。―――あの兵達は?」
「かつての赤兎隊の者達です。今は私の商会で働いてもらっています」
赤兎隊の兵は馬術は達者でも騎兵としての素養には欠ける者達であり、曹操軍に組み入れることはなかった。しかし行商などには打って付けの人材であろう。
「そう。助かったわ」
それは知らぬ間に、潜在的に強大な武力を有した集団が洛陽城内に誕生していたということでもあるが、華琳は軽く頷き返した。今や呂布達は政治的野心から最も遠い存在と言える。
「はぁ~、ありがとう、恋」
「ん」
季衣が大きく息をつくと、呂布に頭を下げた。この二人はよく食事を共にしているらしい。
「ひとまず危地を脱した。そう思っていいのでしょうか?」
「そうね」
流琉の問いに首肯する。
襄陽まで二十里余り。歩兵の増援も遠からず合流する。せっかく出張って来たのだから、それは皇甫嵩に指揮させよう。よほどの大軍でも来ない限り、まずは万全の陣容だ。
―――しかし、何度あの子に助けられたのか。
華琳は天を仰いだ。
関羽と趙雲の前に、立ちはだかってくれなかったなら。長坂橋で時を稼いでくれなかったなら。襄陽からの援軍がもっと少なかったなら。呂布達の救援がなかったなら。ほんのわずかに風向きが変わるだけで、華琳の首はいとも簡単に落ちていただろう。
「ところで、肝心の曹仁の奴はどうしたのだ?」
皇甫嵩がさらりと口にした。
「……それが」
答えずにいると、代わって牛金が説明を始める。華琳は、目を逸らした。耳を塞ぎたい衝動には、理性で耐える。
「―――あれは?」
逸らした視線の先に何かが見えた。奇しくも長坂橋のある南の方角だ。白く、小さな点だった。それが猛烈な勢いで近付いてくる。
「びゃっこう」
ぽつりと囁き声が聞こえた。
「呂布っ、貴方、見えるのね? やっぱり、あれは白鵠で間違いないのね?」
こくこくと、呂布が頷く。
「何よ、心配して損したわ。まったく、戻るのならもっと早く戻ってきなさいよね」
「……でも、そーじん乗ってない」
「―――っ」
呂布のか細い呟きが、華琳の胸を強く打った。