宛城へ向けて、軍を発した。
新野にはほとんど兵を残さず、孫劉の旗を並べ、ほぼ全軍での出陣である。急がず、道中盛んに曹子孝の消失を―――曹家に下された天意が去ったことを触れ回りながら進んだ。
三日目の今日も昼過ぎには野営の準備に入った。前日、前々日と同じく、程無く周辺の小城のいくつかから恭順の意を示す書簡を携えた使者が駆け付けてくる。援軍と称して、県令や城守が兵を伴い自ら訪れることも少なくない。そうでなくとも城門を閉ざし静観を決め込むばかりで、進軍を阻んでは来なかった。
県令達の中には元々劉備軍を慕いながら心ならずも曹魏に従っていた者もいれば、当然単に情勢を鑑みてこちらへ靡いてきただけ者もいる。志に共感してくれた者だけを受け入れていれば良かった流浪の軍の頃とは違う。気は乗らないが今は後者も無下に扱うことなど出来なかった。
訪問者らとの会談を終えると、気晴らしに桃香は焔耶を連れて本営を置いた幕舎を出た。
孫劉併せて十五万の軍勢であるから、野営地は広大だった。丘一つを内部に抱えていて、物見やぐら替わりとなっている。
「あら、劉備じゃない」
丘を上ると、先客があった。孫策である。
ちらと視線だけ動かしこちらを確認すると、孫策は軽く手を振った。その手には酒杯が握られている。一人見張り台に陣取り、酒を飲んでいたらしい。
「会談にも出ないで戦陣でお酒なんか飲んで、周瑜さんにまた叱られますよ」
「ほんの唇を湿らせる程度のものよ」
新野では何度も酒に付き合わされたが、正体を無くすこともしばしばだった。今は確かに口調ははっきりとしていて、酒気を帯びているようには見えなかった。もしかしたら、瓢の中身はただの水かもしれない。
「そこ、良いですか?」
孫策が視線も動かさず軽く首肯するのを確認し、桃香は隣に腰を下ろした。孫策の目は、華琳のいる北を向いて固定されている。
「……勝つにせよ負けるにせよ、これで一つの決着が付くわね」
孫策はこの一戦でおおよそ全てが決すると考えているようだ。
宛さえ抜いてしまえば、もはや曹操軍に孫劉の勢いを止めることは出来ない。各地に更なる乱が勃発し、西涼は再び翠の元で団結して東進を果たす。西涼軍が潼関を抜いて合流を果たせば、挟撃して洛陽と許を落すのは難しいことではない。いずれも劉備軍にとっては勝手知ったる城邑であり、大都市ではあるがそれ自体が防衛に重きを置いた城ではなく、人の出入りが盛んな商都だった。今の孫劉の勢いを持ってすれば攻略は難しいことではないというのが、孫劉の軍師達共通の見立てだった。
洛陽と許を失うことになれば、華琳は中原における拠り所を失ったに等しい。いずれは河北四州まで後退を余儀なくされるだろう。河水北岸には魏郡―――すなわち魏王となった華琳の所領があり、その都の鄴は洛陽や許を有に凌ぐ城郭に囲まれている。あの袁紹が贅を尽くして増築したもので、本人はそれを活かすことなく侵攻先の官渡で地に塗れたが、華琳が籠もればそう簡単に落とせるものではない。おそらくそこで孫劉と曹操軍は河水を挟んでの膠着に至る。その時点で曹魏は河北四州―――冀州、幽州、幷州、青州を、孫呉は揚州と荊州南部に加えて徐州と予州を、蜀漢は益州に加えて雍涼二州を支配することになる。孫劉協同で攻め取ることになる荊州北部に司隷、兗州の取り分をどうするかは、軍師達の間でまだ協議が難航しているが、いずれにせよ孫劉それぞれの国力は曹魏と並ぶことになる。つまりは真の天下三分の完成である。
一方、もし宛を抜けなかった場合には、今後も襄陽や宛を巡って対立することになる。三勢力が並び立つという形は同じでも、荊州北部という係争地が存在することで絶え間なく戦が繰り広げられるだろう。民にとっては休まらない時が続くことになる。
「……決着、ですか。でもそれは、ただ単に戦に勝ったというだけの話じゃないでしょうか?」
「あら、それの何か御不満? いまや反曹の旗頭たる貴方が」
「不満と言うわけではないんですけど。……たった一戦の結果で、どちらの志が正しいかなんて、決めつけちゃって良いのかなって」
問われると、頭の中にある思いを上手く言葉にすることが出来ず、絞り出すように言った。きょとんとした顔で、孫策がようやくこちらを振り向いた。
「あなたまさか、正義は勝つだとかそんな世迷言を信じているわけではないでしょうね?」
「違います、違います」
桃香が馬鹿にされたとでも思ったのか、背後で焔耶が険悪な気配を発する。桃香は慌てて手を振って打ち消した。
散々甘いだの何だのと言われてきたが、自分だって乱世に立つ君主の一人である。そんな綺麗事で天下が成り立っていないことぐらいは理解している。
「ただ、私と華琳さんは志の違いから争っているはずなのに、決着を付ける方法は結局戦の勝敗になっちゃうのかなって」
「戦に勝って志を遂げる。あるいは負けて志を断たれる。乱世における勝敗とは、そういうものではないかしら?」
「それは、そうなんですが」
桃香は言葉を濁した。否定しようのない事実ではあるが、桃香の胸に残るもやもやとした感情は、それとはまた別の話と言う気がする。
「……なるほどね。貴方は曹操を倒したいのではなく、自ら心得違いを認めさせたいのね」
「そうっ、そうなんです」
孫策の言葉で、自分の思いがすんなりと腑に落ちた。
「それは戦で勝って屈服させるよりも、よほど難しいわよ」
「そうでしょうか」
「ええ、特に曹操のような人間が相手であればね」
確かに曹操軍に居候中にも嫌になるほど話し合ったが、華琳が折れることはなかった。ただ、それは華琳が自分の道に絶対の自信を持っていたからだ。戦に敗れ、徐々に領地を失いつつある今、なおもその自信を失わずにいられるのか。その傍らにはもう、天の御使いにして最愛の人である曹仁もいない。
「…………」
「どうかした?」
「いえ、何でもありません」
曹仁の消失に思い至り無言になった桃香を、孫策が訝しげに見つめる。進軍を開始してからは諸事の忙しさにかまけて目を背けることが出来ていたが、気持ちの整理は未だについていない。
「何にしても、戦の前にもう一度華琳さんと話してみても良いでしょうか?」
「まあ、好きになさいな。私は無駄だと思うけどね」
「わかりませんよ。華琳さん、あれで寂しがり屋なところあるし」
喧嘩をしてしばらく口を利かずにいた時も、いつも先に折れて話し掛けて来てくれるのは華琳の方だった。
「ああ、曹仁の消えた弱り目に乗じようというのね」
「違っ、―――いえ、そういうことです。曹仁さんを失った今なら、私の言葉も以前よりも華琳さんに響くかもしれません」
孫策の直截な物言いを一瞬否定し掛けるも、桃香は首肯してきっぱりと言い切った。
不用意な発言に気が付いたのか、孫策の方がしまったという顔をしている。黄巾の乱ではしばし行動を共にしたから、桃香の曹仁に対する気持ちも大方察しがついているのだろう。
孫策との見張り台でのやり取りから三日、ようやく宛へと到着した。
宛城より西に数里の位置に曹操軍はすでに布陣していた。曹仁が作ったという支城が、曹操軍の右翼前方に突き出すように存在している。
孫劉同盟もその正面に全軍を並べた。
「やっぱり華琳さんは討って出てきたか」
華琳は籠城ではなく野戦での決着を選んだ。孫策の直感と桃香の漠然とした予感、そして軍師達の見立て通りである。
「劉備、行くの?」
孫呉の軍勢から、孫策が供も連れずに一騎で駆けて来た。
「はいっ。孫策さんもご一緒にどうですか?」
「いいえ。曹操に言葉にして伝えることなど私には何も無いわ。私とあの子の間には、戦の勝ち負けだけがあれば良い」
「わかりました。それじゃあ、―――愛紗ちゃんと鈴々ちゃんっ、付いて来てくれるかな?」
「はっ」
「わかったのだ!」
義妹二人が馬を走らせてくる。
二人とも、特に現場に立ち会った愛紗は曹仁のことで一時かなりふさぎ込んでいたが、戦を直前に今は吹っ切れた様子だ。少なくとも表面上は。
「あの、ワタシは?」
「悪いけれど、焔耶ちゃんはお留守番してて」
「……はっ」
近衛である焔耶こそ伴うべきなのだろうが、遠慮してもらう。焔耶は少々不服そうにしながらも、直立して受けた。
自分の乱世は後に義妹となるこの二人に志を語った時から始まった。これが一つの決着となるのなら、愛紗と鈴々にこそ是非立ち会ってもらいたかった。
的盧を前進させると、申し合わせたように敵陣からも数騎が進み出た。華琳。そして許褚と典韋だ。
両軍の中間で、桃香と華琳は行き会った。
「久しぶりね、桃香。関羽と張飛も」
「うん、久しぶり。許褚ちゃんに典韋ちゃんも」
曹仁のことで泣き腫らして目でも赤くしているかと思えば、華琳は常と変らぬ余裕を纏って現れた。
「的盧と、それに張飛の馬、……ええと、黒白だったかしら?」
「白黒なのだっ」
「そうそう、的盧と白黒も元気そうね」
的盧と絶影が鼻先を擦り合わせ旧交を温める。この二頭は許の厩舎では隣の馬房に入っていた。
「……こうしてお話するのは、江陵で会って以来かな」
「そうね。あの日、私は貴方を襄陽から江陵まで追い立てたけれど、今度は私の方が襄陽どころかこの宛まで追い詰められることになるとはね」
あれから実に二年近い歳月が経過している。
「日頃の行いが悪いから、そういう事になるんだよ」
「ふうん。それじゃあ、これまで随分と私の軍から逃げ回ってくれた貴方は、相当に日頃の行いがお悪いのでしょうね」
「うっ、……口では華琳さんには敵わないなぁ」
「口では? 貴方が私に勝てるのなんてその無駄に膨れた胸の大きさくらいのものでしょうよ」
「む、胸だけってことはないんじゃないかなぁ~。まあ、胸に関してはこの先何があっても華琳さんにだけは負けない自信がありますけどっ」
「くっ。―――ふっ、ふふっ」
「むむっ。―――ははっ、あははっ」
暫時睨み合い、はらはらと見守る愛紗達を余所にどちらからともなく笑い合った。
「まったく、貴方と話していると調子が狂うわ」
「こっちだって、ここには真面目な話をしたくて出てきたのに」
「真面目な話、ね。仁の行方でも教えてくれるのかしら?」
「―――っ」
華琳の方からそこへ踏み込んで来るとは思わず、息を呑んだ。
「あら、違うの? それではまさか、私に降伏しろだなんて詰まらないことを言いに来たわけではないわよね?」
「……ここでそう頼んで聞いてくれる華琳さんじゃないのはわかってる。私が言いに来たのは―――」
しばし目を伏せ、考えをまとめる。華琳は何も言わず待ってくれている。
「―――華琳さん、その道に、覇道にまだ迷いはありませんか? 華琳さんがほんの少し回り道をしてくれるなら、私たちは手を取り合うことが出来るかもしれない。ううん、私はきっと、華琳さんの手を取るよ」
「覇道とは一人切り拓くものよ。誰かと手を取り合って進む道ではないわ。………いいえ、私を支え、先行きを照らすことが出来た誰かは、今は里帰り中よ、たぶんね」
「それって―――」
「―――貴方の方こそ、民を守り救いたいなどと言う考えを、まだ改めるつもりはないの?」
曹仁のことを言っているのか。そう問い質したかったが、遮るように華琳が斬り込んできた。
「たった一度の敗戦で、多くの人達が華琳さんを見限り、私と孫策さんに従ったよ。救いを求める人達がいる限り、私は立ち止まらない」
「それこそ民が守られるだけの弱い存在ではなく、保身や栄達のために武器を取る存在だという証じゃない」
「そ、それは強い人の理屈だよっ。身を守るために武器を取らなきゃならない弱さだってあるし、保身じゃなく私の理想に共感して武器を取ってくれた人達だっている」
「“だって”、ね」
「―――っ」
孫劉の強勢に靡く者達に違和感を覚えていただけに、我ながら反論は弱々しくなった。
「……はあ、やっぱり口では華琳さんには敵わない」
「そう思うなら、陣へ戻りなさい。ここからは戦で勝負よ」
「―――あっ」
華琳がくるりと絶影の馬首を巡らせた。
「待つのだ、曹操っ!」
「曹操殿、曹仁殿が今いずこにおられるか、貴殿は御存じなのですかっ?」
桃香に代わって華琳を呼び止めたのは鈴々で、聞きたかったことを代わりに聞いてくれたのは愛紗だった。
「さてね、天の国にでもいるのではないかしら」
首だけ振り向いて言い残すと、華琳は駆け去って行った。許褚と典韋もそれに続く。
「天上に御帰還された、ということでしょうか?」
首をひねる愛紗に、桃香は何も答えることが出来なかった。
華琳が自軍へ戻ると、従者の無花果と四人の従姉妹達が迎え入れた。そのうちの一人の姿に、華琳は目を奪われた。
「……幸蘭、その格好は何?」
諜報部隊の長である幸蘭だが、今日は自ら志願して通常の戦場、それも先陣に出張っていた。幸蘭が馬上で武器を構える姿自体久しく目にしなかったものだが、華琳の視線が釘付けとなったのはそれが理由ではない。
「無花果ちゃんにお願いして、仁ちゃんの予備の具足を借りました」
ありがとうねと、幸蘭が無花果に微笑み掛ける。
幸蘭が軍袍の上から纏っているのは白騎兵の具足、それも白塗りの曹仁専用のものだった。武器も得意の多節鞭は腰に括り、曹仁が使うのと同じ何の変哲もない槍を手にしている。
「俺も借りたかったのに、姉貴ばっかさ」
「蘭々ちゃんには大きすぎるでしょう?」
「むぅ」
そう言う幸蘭も豊満な胸のお陰で何とか体裁を整えているが、腰回りなどにはかなり隙間が空いていそうだ。
「華琳様、それで劉備とは何を?」
秋蘭が控えめに問う。
「いつもの他愛のない口喧嘩と、仁のことを少しね」
「何かわかったのですかっ?」
春蘭が声を弾ませる。
「いえ、桃香達も消えたという以上のことは知らない様子だったわね」
「そうですか。では、やはり」
誰からともなく従姉妹五人、天を仰いだ。
「武人としてこれほどの晴れ舞台を逃すとは、後で聞いたら悔しがるだろな、仁のやつは」
「兄貴の分は、俺が働くよ」
「何を言うか、蘭々。それはわたしの役目だ。なあ、秋蘭」
「ふふっ、たまには私も乗ってみるか。姉者も蘭々も下がっていろ、仁の分は私が働こう」
「皆さん気合を入れるのは結構ですけど、自分がいないところで怪我なんかされたら仁ちゃんが気に病みますからね。蘭々ちゃんも春ちゃんも秋ちゃんも、かすり傷一つ負わないで下さいね」
従姉妹達のやり取りに悲愴感はない。華琳と同じく曹仁の生存、そして帰還を信じているからだ。皆、母曹嵩の太慰就任の祝宴に参加している。曹仁が初めてこの地に降り立った瞬間を目にしているのだ。
「―――孫呉の将兵達よっ!」
「―――劉旗に、私に付いてきてくれた皆っ!」
敵陣から勇ましい咆哮と少々頼りない叫びが聞こえた。兵の喚声がすぐにそれに答える。衝突を間近に、孫策と桃香が兵の前に姿を見せ、士気を盛り立てていく。
対峙する彼我の兵力は、孫劉連合十五万に対してこちらは九万に過ぎない。右翼前方に位置する支城には霞が率いる騎馬隊二万五千騎と歩兵五千が籠もっているが、それを加えても数の上では劣勢である。
しかし華琳は籠城は全く考えなかった。そうしている間に西涼や揚州の戦線が破れないとも限らないし、今の孫劉の勢いは時を掛ければ掛けた分だけ靡くものを増やしかねない。
野戦なら、混成軍ゆえの連携の不備に付け入ることも出来る。孫劉の中核を為す軍以外は、たいした調練を積んでいるとも思えない。練度の差は攻城戦よりも野戦で顕著に表れるものだ。
曹仁の支城によって丘の上の高みを抑えているのも大きい。遊撃隊の出撃拠点としてその機能を遺憾なく発揮してくれるだろう。牛金をあてている支城の守備兵の指揮には、皇甫嵩が補佐に付いてくれている。初めから協力してくれるつもりだったようで、試みに願い出ると二つ返事で了承された。城内には買い入れた百頭の汗血馬を入れ、皇甫嵩が残るならばと呂布と高順にその配下も留まっている。少々狡いやり方だが、いざとなれば彼女達も力を貸さざるを得ない状況だ。支城を奪われる心配はひとまず必要なかった。
数の上では劣勢でも、戦力では決して劣ってはいない。いや、優勢と言い切ってしまっても良い。
「華琳様、こちらもそろそろ」
「ええ」
秋蘭に促され、華琳も再び絶影を前へ進めた。
馬首を返し自軍に向き合うと、気勢を上げる敵陣とは裏腹に一様に不安げな顔が並んでいた。視線を向けても、うつむきがちな兵達と目が合うことはない。
唯一にして最大の問題が士気だった。士気においては、孫劉連合がはるかに勝る。赤壁で勝利し勢いに乗る軍と、敗れて逃れてきた軍なのだから当然と言えば当然だが、それ以上に曹仁の不在が大きかった。
天の御使いが身を置く軍ということが、予想以上に敵味方の士気に影響を与えていたようだ。華琳自身それを利用してきたところはあるが、所詮は虚名に過ぎないとの思いもあった。しかし呂布と互角に渡り合い、官渡では連環馬とその対応策で麗羽の大軍を二度までも退け、西涼では馬超を下し関中十部の首二つを飛ばし、西涼最強と噂された閻行をも容易く撃ち破っている。極めつきは三千里も隔てた祁山より曹操軍の敗戦を予知して駆け付け、華琳の窮地を救った。兵や民の心の中で虚名に実が伴うのも当然と言えば当然のことだった。そして今は、その曹仁がいない。
曹魏の興亡はこの一戦にあり、この一戦の勝敗は如何に兵の士気を盛り上げられるかにある。常の戦意を取り戻すことが出来れば地の利を有し、人の和―――練度と運用―――に勝るこちらに負けはないのだ。しかし今のままぶつかれば、勢いに飲まれる可能性が高い。
「―――――――っ! ―――――っ!!」
静まりかえる味方の兵に比べ、敵陣から上がる鬨はいよいよ煩いほどだ。今は天子を籠絡し漢朝を壟断する曹魏の不正が孫策と桃香の口から叫ばれている。
苦境の漢室に唯一救いの手を差し伸べたのが曹操軍である。舌戦に持ち込み、論破してやるのは容易い。しかしそんなことでは、曹仁の不在と言う現実に直面した兵を奮い立たせるまでには至らないだろう。
「さて、どうやってこの打ちひしがれた者達にやる気を取り戻させたものか」
当然いくつかの腹案を練ってはいたが、こうして彼我の差を見せつけられるとどれも弱い気がしてくる。古の牧野の戦いにおける周の武王と殷の紂王の軍勢もかくやという顕著な戦意の隔たりがあった。
いっそ、曹仁は必ず帰還すると口に出してみるべきか。しかし言葉だけで、この喪失感を払拭することが出来るだろうか。
これより自分が紡ぎ出す言葉次第で戦の勝敗、ひいては天下の帰趨が決すると思えば、柄にもなく華琳も口火を切れずにいた。
「…………なに?」
思いあぐねていると、向かい合う兵の中から小さなどよめきが起こった。それは左翼から広がり、次第に大きくなっていく。うなだれていた顔が一つ、また一つと上がる。
「―――あれは」
兵達の視線が向かう先へ、華琳も目をやった。対峙する両軍の狭間を、こちらへ向けて何かが駆けて来る。
さすがに、速い。白い小さな点だったものは、すぐに馬の形を取った。白鵠である。曹操軍の将兵であれば誰もが見知ったその姿に、喧騒は全軍に拡がった。いや、曹操軍ばかりではなく敵も同じだ。桃香と孫策は口を噤み、兵は動揺し始めている。
白鵠が宛の厩舎から抜け出したという報告を聞いたのは今朝早くのことだ。落ち着かない様子で、うろうろとあてどなく徘徊を始めたのだという。戦の気配を感じ取って気でも高ぶらせているのかと、その時は好きにさせておくよう命じていた。
しかし今の白鵠は、明らかに何か目的をもって駆けているように華琳には見えた。
対峙する両軍の真っ只中、ちょうど華琳の正面で白鵠は脚を止めた。
「―――華琳様、これは一体っ?」
従姉妹四人が駆け寄って来て、蘭々が期待と興奮に上擦った声で問う。
「さあ、私にも何が何やら。ただ、悪くない予感はするわ」
華琳もふわふわと落ち着かない心持ちで返した。視線の先では真っ白な裸馬が一頭、何かを探すように首を左右に動かしている。
戦場の視線の全てが今、そこに集まっているのではないか。そんなことが華琳の脳裏に過ぎった瞬間だった。
白鵠の白い馬体が膨れ上がった。いや、眩いばかりの白い光だ。戦場一面を白く覆い尽す暴力的なまでの光に、華琳は思わず目を瞑った。
「…………」
やがて目蓋の裏で光が収まるのを感じ、ゆっくりと目を開く。
白鵠の背に人の姿が見えた。見慣れぬ装束を身に纏った見慣れた背格好。歓喜はあれど、驚きはない。ひどく予定調和の物語を読まされているようにさえ思えた。
「そういえば、天子が言っていたわね。あの子はこの世界の英傑達との縁の強さゆえに選ばれ、引き寄せられたのだと」
であれば彼を慕う者、崇める者、敵する者が一堂に会するこの時、この戦場が再臨の地となるのは必然か。
「……ふむ、少々照れ臭いが、ここは言っておくべきか」
白馬の背で男はきょろきょろと周囲を見回すと、こほんと一つ咳払いをして背筋を正した。
「―――天人曹仁っ、曹孟徳が天下のため、再びこの地に降り立たん!」