「あら、どこか行くの?」
階段を降り玄関へ向かうと、リビングから姉がひょいと顔を覗かせた。
「ああ、図書館に」
「今日も? ずいぶん熱心ね、昔は読書なんてろくにしなかったのに」
「そうだったか? まあ、小学生の頃なんてそんなものだろう」
「ちょっと待ってて、私も一緒に行くから」
姉がリビングへ顔を引っ込めると、室内から漏れ聞こえていたテレビの音が消えた。どたどたと忙しなく駆け回る足音が響き、部屋着の上にパーカーを一枚羽織っただけのラフな格好で姉は廊下へ現れた。
「じゃあ、行きましょう、仁」
「ああ」
曹仁―――仁は、先へ促す姉に軽く頷き返した。
ランニングがてら走って行くつもりだったが、二人連れということでゆっくりと並んで歩いた。このペースでも図書館までは半刻余り―――二十分程度のものだ。
「転んだ時に危ないわよ」
ズボンのポケットに突っ込んだ手を指して、姉が言う。
「子供じゃないんだから」
「もうっ、知らないからね」
姉が諦めて正面に向き直るのを見届けて、こっそりとポケットから手を引き抜く。ともすれば姉は小さな子どもを相手にでもするように手を繋ぎにくる。姉の中でまだ自分は年端もいかない少年のままなのだろう。
ちらりと、隣を行く姉の顔を覗き見た。
四つ年上で、地元の大学を出て今は社会人として働いていると聞かされていた。幸蘭よりも少しだけ年嵩であるから、血の繋がらない家族も含めて仁にとっては一番上の姉ということになる。
身内の贔屓目を差し引いてなお、美人と言い切ってしまって良いだろう。むしろこの十数年を美女に囲まれて過ごしてきた仁の目から見てそう思うのだから、相当なものだと言える。整った顔立ちは黙っていると多少きつい印象を与えるが、豊かな表情がそれ以上に親しみ易さを感じさせる。仁と共に祖父から仕込まれていた武術は今も一応続けているようだが、きれいな黒髪を腰の辺りまで伸ばしていた。一部女性らしいふくよかさを残しながらも―――端的に言って胸が大きい―――、運動をしているだけあってすらっと引き締まった体型。総じて、美人で気さくなお姉さんといったところか。華琳などが目にしたら食指を動かすこと間違いなしだった。
この世界の病院のベッドで目を覚まして最初に目にしたのも、この姉の顔だった。
腹部開放性外傷に、数ヶ所の小腸断裂。そしてそれに伴う腹膜炎。あの世界ではまぎれもなく致命傷である。こちらの世界でも、迅速な処置を施さねば死に至る重傷だ。仁が一命を取り留めたのは、一つは鉄糸を織り込んだ軍袍のお陰だった。刺し込まれた刃と共に鉄糸が腹部へ食い込み、内臓に纏いつき、それが臓腑の汚れが腹腔に拡がるのを最小限に留めてくれたのだという。真桜お手製の軍袍に命を救われたのは、張燕に奇襲を受けた時に続いてこれで二度目だった。
もう一つは発見と対処が早かったことだ。明け方、自宅の庭先で倒れていたところを見つけて、すぐに救急車を手配して病院まで付き添ってくれたのは、隣にいる姉だった。不思議と姉は、一目見てそれが行方知らずの弟であると分かったらしい。その後も三日間目を覚まさなかった仁にほとんど付きっ切りでいてくれたという。
そうして入院生活が一ヶ月ほど続き、自宅療養期間が一ヶ月。医師に完治のお墨付き―――凪との内功の鍛錬のお陰だろうか、奇跡的な回復力と驚かれた―――をもらってからさらに数週間。この世界に戻ってから三ヶ月近くが経過していた。そろそろ就職活動でも始めるか、あるいは高卒認定試験を受けて大学受験にでも挑戦するか。そんな話も持ち上がっていた。
「じゃあ私、この辺りにいるから」
図書館に着くと、入り口近くの雑誌が並んだ一角で姉と別れた。
姉は、仁がまたどこかへふらりと消える事を心配しているようだ。持たされた携帯電話には仕事中も頻繁に掛けてくるし、休日ともなると大抵ドアを開け放したリビング―――二階にある仁の部屋からはその真向かいの階段を降りなければ玄関には行きつけない―――に陣取っている。今も図書館のロビーが一望出来る雑誌コーナーに居座っていた。終始付きまとわれるというほどではないが、常に仁の位置を把握しておきたいようだった。
十数年ぶり、それも大怪我をして弟が帰ってきたのだから、心配するなという方が無理があるのだろう。加えてあの世界で過ごした年月のことを、仁は家族にも言えずにいる。記憶喪失という、我ながら強引な言い分を通していた。
真実を話したところで、到底信じてもらえるとも思えない。今回負った重傷以外にも無数に刻まれた刀槍による古傷と、鍛え上げられた身体。発見された時の曹仁は具足に軍袍というこの世界の人間の目には実に時代がかった出で立ちまでしていた。それら全てを矛盾なく説明する物語など、思い付きもしなかった。いっそ、何もかも忘れてしまったとする方が都合が良かったのだ。
捜索願も出されている行方不明者が十数年の時を経、しかも事件性が疑われる刺し傷を負って姿を現したのだから、警察も当然動いていた。しかし三日も意識を覚まさなかっただけに、幸いにも家族も警察も記憶喪失という話に一応の納得を示してくれていた。
「―――さてと」
仁は雑誌コーナーに背を向け、新刊の並ぶ書架を素通りし、文学、そして歴史の棚を横目に足を進めた。
この世界に帰ってすぐの頃は、あの時代に関連した史書や専門書を読み漁った。陳寿の書いた正史の三国志はすみずみまで読み込んだし、後漢書や晋書の一部にも目を通した。普通なら退屈で難解な史書も、あの世界では貴重な娯楽の一つであった。苦もなく読み進めた。
次いで羅貫中が著したとされる三国志演義や、日本人の作家があの時代を舞台に書いた歴史小説もいくつか読んだ。
史書や小説に記された事績は、あの世界で体験した出来事と重なるものもあれば、大きく異なる部分もある。黄巾の乱から、曹操と袁紹の台頭、官渡での大戦、赤壁での曹操軍の敗退。大筋の流れは似通っているが、こちらの世界では二十数年をかけて発生している事案が、あちらの世界では四、五年のうちに立て続けに起こっている。また人物一人一人の生年や出会いの時期にも異なる点は多い。朱里は三顧の礼を経ずに雛里と共に動乱の最初期から桃香の軍師であるし、孫策の母の孫堅は黄巾の乱以前に亡くなっている。あの赤壁の戦いも、史書や演義以上に曹操軍にとって手痛い敗戦となった。まったく自分が与り知らぬ部分での違いもあるし、自分の存在が多少なり影響した―――例えばこの世界での歴史以上に華琳と桃香や雛里を強く結びつけた―――と思える変化もある。
色々と思うところはあるし、見知った名前を持つ英傑達の群雄劇は単純に興味深くもあったが、一通りの歴史的事実を頭に納めるだけに留めた。
今は科学とジャンル付けされた一角が、仁の居場所だった。科学といっても、仁が目を通すのは最新の科学技術を記した書籍ではない。いわゆる科学史や工学史といった類の本だった。有史以来の技術の発展を学び、その中からあの世界で実現可能な物を抽出する。真桜なら、蒸気機関くらいは実現するかもしれない。未来のために、エネルギーとしての電気の概念を伝え残しておくのも良い。技術革新が国家や民にとってすなわち幸福に繋がるのかは分からないが、その判断は華琳に委ねれば良いだろう。
―――必ずあの世界へ戻る。
案じてくれている姉には申し訳ないが、仁の胸中でその思いは揺るぎない。しかしいくらそう思い定めてみたところで、仁自身が帰る手段を持ち合わせているわけではないのだ。今はあの世界への帰還を信じて、知識を蓄えることに努めていた。
武術の鍛錬も、怠ってはいない。図書館から帰宅して夕食を済ませると、ジャージに着替えて庭の道場へ向かった。父方の家には代々武術が伝えられているが、弟子を取ってどうこうというものではなく、今では半ば祖父の趣味のようなものだった。
「失礼します」
「おお、仁か」
一礼して足を踏み入れると、先に来ていた祖父が相好を崩した。
「また場所を借りるよ、じいちゃん」
「うむ」
祖父が上機嫌で肯くのを確認し、仁は道場の壁際に寝かしておいた槍―――穂先を付けていないので見た目はただの棒と変わらない―――を手に取った。三メートル近い長さの白蝋の槍である。
あちらの世界では当たり前のように槍の柄として使用していた白蝋だが、中国固有の樹木であり日本で手に入れるのは困難だった。昔よりも格段に普及したインターネット通販で売られているのを見つけても、二メートルもないような短いものばかりだ。実戦や表演用には良いのだろうが、軽すぎて修練の役には立たない。
祖父が知り合いの武術家を通じて手配してくれて、ようやく望みの長さのものを手に入れることが出来た。働き始めてから姉は稽古をサボりがちらしく、仁が入院生活で弱った身体を武術で鍛え直したいと言うと、祖父はいたく喜んで何くれとなく面倒を見てくれていた。
「少し組手でもするか?」
一刻―――三十分ほど槍を扱いていると、祖父が言った。
気付けばジャージがじっとりと汗で濡れている。放っておけば一時間でも二時間でも平気で槍を扱き続ける病み上がりの仁を、祖父は気遣ってくれたようだ。
「お願いします」
首肯して槍を壁に立て掛け、道場の中央で無手で向き合った。
祖父は刀や槍もやるが、基本はあくまで無手だ。刀槍を振るうのは効率的に力を練るため―――言うなれば型の矯正と筋骨を鍛えるためだ。仁にとってはその逆で、無手での組手は再び槍を手に戦場に立つ日を見据えて、実戦の感覚を鈍らせないでおくためだった。
当然のことだが、祖父の身体能力はあの世界の武人よりもはっきりと劣る。恋や愛紗、春蘭達とは比べるまでもないし、同じく拳足が武器の凪と比べても、突きや蹴りの速度や威力は格段に落ちる。非才に嘆きながらもあの世界の武人達に抗してきた曹仁からしても、与しやすい相手のはずだった。
「―――っ」
しかし間合いに踏み入るや、鳩尾を軽く拳で打たれ、眼前で抜き手を寸止めされていた。拳足が見えない角度から、あるいは見えていても避けられないタイミングで飛んでくる。つまりは技術の差だった。
目先の勝利にこだわれば、やり様はいくらでもある。足―――フットワークで撹乱しても良いし、間合いの広い前蹴りやジャブで突き崩しても良い。あるいは急所だけガードして、あとは体力に任せてみても良いだろう。だが仁はあえて祖父の間合いで勝負を挑んだ。
何故速さで劣る祖父の拳が、先に当たるのか。突き詰めていけば槍術にも通じる理合いがある。あの世界でもまれて得た力を、この地で丹念に磨き直していく。
翌日も翌々日も、同じ一日を繰り返した。知識を蓄え、身体を苛め抜く。そうして、ともすれば安穏と過ぎ去っていく日々に必死で意味を見出した。
今日も今日とて、図書館への道を一人歩く。
心地良い風が頬を撫でていく。夏の初めにこの世界に戻り、暑い盛りを過ぎて間もなく秋になろうとしていた。初めは新鮮に映った街並みにも、すっかりと慣れてしまっている。
戦も調練もない生活は、アスファルトで舗装されたこの道の様にひどく平板だった。
いや、この世界にはこの世界なりの競争があり、戦いがある。本来自分は戦争などよりもそうした健全な勝負こそ好むところだし、そうした世界を実現するために華琳の元で戦ってきたのだ。日々が退屈に思えてしまうのはここでの生活、というよりもこの世界そのものに真剣に向き合えていないからだろう。
もしこのまま、あの世界に戻ることが出来なかったら。ずっと考えないようにしていたことが、脳裏を過ぎる。
「―――っ、待ちかねたぞ」
若人のようでも老人のようでもあり、男でも女でもある声が頭の中に響いたのは、ちょうどその時だった。
耳に押し当てた携帯電話から、ピーピーと通話終了を知らせる電子音が聞こえてきた。
天子の声と会話を交わした後、姉に連絡を入れた。耳朶にはまだ戸惑う姉の声が残っている。
―――すまないな、姉さん。
携帯電話をズボンのポケットに押し込み、曹仁は改めて周囲を見やる。
光が収まり視界が戻ると、軍勢に挟まれていた。おおよそ天子から聞かされた通りの状況だが、今まさにぶつかろうとする両軍の真っ只中に降り立つとはさすがに想定を超えていた。
異常な光景だった。反董卓連合や官渡の決戦にも匹敵する大軍勢がしわぶき一つ立てずに静まり返えっている。その視線はただ一点―――自分に注がれていた。
「……ふむ、少々照れ臭いが、ここは言っておくべきか」
曹仁は威儀を正して思い切り息を吸った。
「―――天人曹仁っ、曹孟徳が天下のため、再びこの地に降り立たん!」
右手に曹操軍、左手に孫劉の連合軍を望み、どちらに対するでもなく曹仁は大見得を切った。
調練場で、あるいは戦場で、将であれば声を張るのは日常だが、元の世界では大声を出す機会などそうそうない。久しぶりの口上は語尾は裏返り、張りも少々物足りないものとなった。
「―――――――!! ―――――!! ――――――――――!!!」
しかし静寂を破るに十分だった。
曹操軍からは歓呼の怒号が、孫劉連合からは悲鳴にも似た叫び声が上がる。耳を塞ぎたくなるほどの大音声は、かつて如何なる戦場で聞いた鬨よりも激しい。拳を天に突き出すように掲げる曹操軍は一回り大きく膨れ上がり、気圧されたように身を寄せ合い後退る孫劉連合の軍は一回り小さく見えた。
「出迎えに来てくれたのか?」
白鵠の首筋を、ぽんぽんと軽く叩いた。
仰け反るように見上げてきた鼻梁には縦に一筋、薄紅色の線が走っている。あの日、星の龍牙が掠めた傷痕だろう。触れると、気にするなと言うように白鵠は鼻を鳴らした。
「さてと」
右手―――曹操軍へ向けて馬首を返し、走らせた。
脾肉で交わす会話も久しぶりだが、齟齬はない。白鵠は軽快に駆け、先刻から視界の端に捉えていた華琳の姿が見る間に近づいてきた。
「遅参いたしました」
絶影の鼻先で白鵠を止め、軽く頭を下げる。
本当なら馬を寄せ、抱き締めたいくらいだが、衆人環視もここに極まれりという状況に自重した。
「ええ」
華琳の方も考えることは同じなのか、素っ気無く首肯して受ける。
「兄貴っ」
蘭々に春蘭、秋蘭、それに季衣や流琉までも駆け寄ってきて、取り囲まれた。一様に興奮した面持ちで、口々に歓迎の言葉や疑問質問が投げ掛けられる。
「みんな、ただいま。心配を掛けたみたいだが、この通り元気にしているよ」
全員が落ち着くのを待って、一括して答えた。
「積もる話もあるが、そんな状況でもないんだろう? どうにも、天下分け目の大一番ってやつみたいだな」
右翼前方に見知った丘と城塞が見える。超常の天子の言葉はいまいち要領を得ない部分もあったが、それで察しがついた。なんとなれば、曹仁自身が洛陽と許の最終防衛拠点と定めた地なのだ。
「そうね。正直勝算は五分と言ったところだったけれど」
華琳が一度言葉を止め、彼我の陣容を見回してから続けた。
「……もはや勝負あり、かしらね」
兵力では曹操軍が劣勢のようだが、勢いがまるで違っていた。
曹操軍は戦と言うよりも祭りでもするかのように激しく沸き立ち、むしろ勇み足が心配になるほどだ。対する孫劉連合の兵は、すでに敗残兵が如く暗く沈んでいた。
状況からして、自惚れでも何でもなく曹仁の帰還が決定打となったようだ。あとは自分が先頭に立って戦えば、すぐに戦は追撃戦に移行するだろう―――
「―――化けて出られるとは、やはり天人などではなく鬼神や妖の類であったかっ!!」
昂奮する曹操軍と消沈する孫劉連合にぴしゃりと冷水が浴びせられた。
「なればいま一度、我が槍にて冥府へ叩き落してくれようっ!!」
敵陣から駆け出した一騎が両軍の中心―――ちょうど先刻曹仁が降り立った場所へと馬を進めた。
「……さすがに、嫌なところで出て来るな」
本来戦場にはそぐわない華やかで雅やかな白の着物が、真紅の槍と相まってこの上なく戦場に映える。
「曹子孝殿っ、今度こそ雌雄を決しましょうぞっ!」
叫び、星が龍牙を天に掲げると、委縮していた孫劉連合からぽつぽつと声が上がり始めた。躊躇いがちで弱々しい喚声は、されど徐々に力を増していく。
「さすがにここは、退くわけにはいかないな」
曹仁は馬首を返した。いま挑戦を拒めば、せっかく盛り上がった曹操軍の士気は陰り、孫劉連合は息を吹き返す。
「―――仁っ」
華琳が呼び止める。当然それは、戦いの結果曹仁が負けた場合にも同じことが言えるのだ。
「心配するな。もう負けないさ」
「ふぅん。素手で趙雲に勝つつもり?」
「あっ」
「誰か仁に槍と具足を―――」
「―――こちらに」
華琳が兵に命じるのを遮って、幸蘭と陳矯が進み出た。
「お帰りなさい、仁ちゃん」
「ご帰還をお待ちしておりました、曹仁将軍」
にこやかに言って差し出してきたのは、いつもの白蝋の槍と軍袍、そして白塗りの胸当てだ。
「ただいま。珍しく姉ちゃんも戦場に出てきていたのか。それにしても用意が良いな。槍と軍袍はともかく、俺の具足まで」
「うふふ」
「…………なんだかぬくいな」
一度下馬し、シャツの上から何故か人肌に温められている軍袍を着込み、具足を纏う。上機嫌でそれを眺める幸蘭は、戦場だというのに薄手の袷一枚だ。
最後に槍を受け取って、再び馬上の人となる。具足を着込んでいる間に、陳矯が白鵠の背に鞍を乗せてくれていた。
「じゃあ、行くか」
星の待つ戦場の真中へと馬首を転じ掛けた。
「―――あっ、曹仁将軍。こちらも」
陳矯がそう言って捧げだしたのは、管槍の“管”である。
「……おう」
一瞬の逡巡の後、曹仁はそれを受け取ると懐に押し込んだ。
「じゃあ、今度こそ行ってくる」
「―――兄貴、頑張ってっ」
蘭々を皮切りに、口々に声援が飛んだ。季衣や流琉、陳矯達だけでなく、兵も喚声を上げる。
華琳は微笑み、小さく肯くのみだ。軽く肯き返して、今度こそ白鵠の馬首を転じた。
ただの一騎打ちではなく、勝敗がそのまま戦の結末に直結すると言っても過言ではない。責任は重大で、相手は一度敗れたばかりの星である。だというのに不思議と今は負ける気がしなかった。それは華琳達も同じなのか、誰一人として引き止める者はいなかった。
「お元気そうですな、曹仁殿」
「ああ、お陰様で久しぶりに故郷でのんびり出来ましたよ」
戦場の中心で星と向き合った。
「前回の戦利品、お返ししておこう」
星が腰の剣を鞘ぐるみに引き抜き、投げて寄越した。
「―――っと」
頭上高くに放られたそれを、曹仁は鞍上で軽く背伸びをするようにして掴み取った。
鞘こそ異なるがその柄拵えは見間違えようはずもない。青紅の剣だ。
「こうして健在にしているとはいえ、あの一騎打ちの勝利は確かに星さんのものだ。戦利品を貰う権利はあると思いますが」
「その剣を佩いていると、桃香様が恨めし気な目を向けてきて困るのですよ。是非お引き取りを」
「ははっ、そういうことなら」
曹仁は軍袍の帯に青紅の剣を差した。
「……ふむ。あれはもはや助からぬ傷だと思いましたが」
星が胡乱げな視線を向けてくる。腹の傷を気にする素振りもない曹仁が訝しいようだ。青紅の剣を高めに投げ渡してきたのも、一騎打ちを前に探りを入れる目的があってのことだろう。星らしい抜け目なさだ。
「もちろん死にかけたさ。だからわざわざ天の国まで帰って治してきた」
「そうですか。すると貴殿は本当に、天の御使いであったのですな」
「信じていなかったのか?」
黄巾の乱で一時陣営を共にした頃には、酒の肴にと天の国の話をよく求められたものだった。
「面白い法螺話をぽんぽんとよくも思いつくものだと感心していたものですが、いやはや、真の話を語っていたとは」
「ひどいな。まあ、これで信じてもらえただろう?」
「ええ。―――そして、今からそれを法螺に変えさせてもらいます」
「出来ますか?」
「一度は勝った相手ですからな」
「どうかな? 今この時、この場において、俺が負けるはずがない」
やはり確信にも似た思いが曹仁にはあった。なんとなれば、今ここにいる自分は誰よりも強くあるべきだからだ。あの日、反董卓連合軍二十万の大軍を百と一騎で退けた照や、一千里を駆け抜け劉備軍を蹴散らした飛燕のように。
「負けるはずがない、ときましたか」
「ああ。とはいえ、今の俺に勝てるとしたら、星さんだという気もする。あんたは空気とか読まなそうだからな」
言いながら、槍を構えた。相手に向けて穂先を突き出し、その影に隠れるようないつもの構えだ。
「失敬な、私は場の空気には人一倍敏感と自負しておりますぞ」
星も構えた。鏡写しのように曹仁と似た構え。龍牙の柄にはすでに管が通され、前の手はしっかとそれを握っている。
「そうかもな。読めてもあえて無視するのが星さんらしい」
それきり無言となった。繰り突きの間合いまで、わずか一歩の距離で対峙した。
「―――?」
星がほんの一瞬、眉をしかめた。曹仁の槍に管が通っていないことに気付いたようだ。
白鵠がじりっと半歩前へ出ると、星が半歩下がった。管を握らない曹仁が、代わりに何か奇策を仕掛けてくることを警戒しているのだろう。
「…………」
もう半歩前へ出る。星は今度はその場に踏みとどまった。
次に星が取る行動が、何とはなしに曹仁には理解できた。それは過日の自分の思考でもあるからだ。
残る半歩を詰めたのは、星の方からだった。相手が如何なる奇策を用いようと、管槍の速さはあらゆる仕掛けの先を行く。そう判断したのだろう。
繰り突きの間合いに入るや、ぴったり同時に双方槍を突き出した。
―――曹仁の磨き上げてきた武は本来“速さ”ではなく、無駄を省いた“早さ”にこそ重きを置いたものだった。
自身と引き比べればほとんど超人に等しいこの世界の武人達には、力や速さでは端から張り合うことなど出来はしないからだ。それが管槍を得て、その超人達をも越えた速度を限定的にとはいえ手に入れた。それで、速さに魅了され、固執した。本来自分の武は、そうしたものではないはずだ。
速さが不足する分、最初から備えておく。つまりは正中線に槍を据え、穂先を真っ直ぐに相手に突き付けた構えだ。そこから突きを繰り出すなら、その槍は攻守を兼ねる―――
かっと小気味よい音をたて、中空で二本の槍の柄と柄がぶつかった。同じ構えから、同じく最短の軌道で突いたのだから必然の結果である。
前回と同じく一瞬の光芒としか見えなかった星の龍牙を、その瞬間になってようやく曹仁の目は捉えた。龍牙の赤い矛先は、すでに鼻先まで迫っていた。対して同時に突き出したはずの曹仁の槍は、星の身体まではるか遠い。
顔を逸らし、仰け反りたくなるのをぐっとこらえ、正中線を真っすぐ維持した。力まず、肩と肘は重力のままに自然に落す。そうして体の真ん中から相手を目掛けて、ぶれず、曲がらず、真っ直ぐに突く。つまりは中心線を抑える。それさえ為れば―――。
曹仁の槍に押しやられ、龍牙の軌道が横に逸れた。曹仁の頬を擦るように軽く抉った後、空を切る。星が槍を引いた。さすがに速く、すぐに二撃目を突く体勢が整えられた。しかしその時にはすでに、曹仁の槍は吸い寄せられるように星の胸元へと伸びていた。
これも曹仁の学んだ早さの一つだ。相手の槍を逸らし遠ざけ、こちらは揺るがず最短を突く。そうすれば槍は自ずと相手よりも“早く”当たる。
「―――っく」
星が大きく身を反らした。曹仁の槍先はわずかにその身へ届かない。しかし馬上ならば、曹仁にはここから先がある。ぎゅっと脾肉を絞めると、白鵠が大きく一歩踏み出した。
星の体が中空に舞う。くるりと後方へとんぼを切って地面に降り立った時、その左腕の付け根から血が噴き出した。
「管槍が災いしましたね」
柄同士が触れ合った状態からの中心線の奪い合いは、槍術ではごくごく基本の戦術であり鍛錬法の一つでもある。奇策を警戒する星に、曹仁は極めて真っ当な戦法を真正直に真正面からぶつけたということだ。
当たり前にやり合えば、達人の星から中心線を取るのは曹仁にはほとんど不可能に近い。しかし管を通して槍を操作する管槍では、緻密な力の駆け引きは難しい。
「……お見事」
「そちらもな。まさかあそこから防がれるとは思わなかった」
やはり星はさすがだった。
完全にとらえたはずが、曹仁の槍が突き立つ瞬間、穂先と自分の体の間に龍牙をねじ込んできた。白鵠の脚力の乗った渾身の突きだが、龍牙の二叉の穂先に阻まれ、刃と刃の間を潜り抜けた先端がわずかに星の体に届いただけだった。傷の深さは一寸にも及ばないだろう。
出血も着地の瞬間こそ派手に噴いたが、すでにだいぶ治まっている。刺突による傷そのものよりも、白鵠の脚力を真面に叩きつけられた衝撃の方が星にはきついようだ。眩暈でもするのか、肩の傷ではなく額を抑えるようにしている。
「やはり今日は俺が勝つ日だったな」
「異な事を。まだ勝負は決しておりませぬぞ」
足元をふらつかせながらも、頭を振って星が言う。
「確かに戦えないほどの傷ではないか。―――しかしもう遅い、星さん」
曹仁の背後で大喚声が起こった。振り返って確認するまでもなく、大軍が動き始める気配を感じる。
一方が落馬して血を噴いた。傍から見る分には、これほど分かり易い一騎打ちの決着もない。そしてこの機を逃す華琳ではなかった。
「……くっ、この勝負、預ける」
さすがに星は冷静だった。逡巡は一瞬で、よろめくように馬に這い上り自軍へ駆け戻っていく。
ここで一騎打ちを継続したところで、両軍がぶつかり合うまでの寸刻の内に勝利を納めねば曹操軍の勢いは止まらない。ふらつく身体でそれは不可能と言って良い。一人乱入した曹仁とは違い、兵を抱える身でもあるのだ。
「――――っ!! ――――――っ!!!」
曹魏の兵が、曹仁の横をすり抜けていく。やはり逸り過ぎが心配になるような全力疾走で、敵陣へ向け駆けていく。
「……曹仁将軍」
声に振り向くと、三ヶ月前にこの世界で最後に見た男の顔があった。白騎兵の旗手である。百騎も整列していた。
「曹操様よりご命令です。我らを率い曹魏の先駆けとなり、孫劉を打ち砕けと」
言いながら、旗手の男は首に巻いた白い布を解き、投げ捨てた。解いた布の下からは、同じく白い布が現れた。二重に巻いていたようだ。百騎も一斉にそれに従った。白い布が続々と中空に舞う。
曹仁は無言で見守った後、馬首を返した。曹魏の兵が敵陣を押しに押しまくっている。
「―――天人旗を高く高く掲げよっ! この戦、我らの手で決着を付けるぞっ!!」
白鵠を走らせると、百騎が後に続いた。
まさに鎧袖一触。天人旗が縦横に駆け回ると、双方十万を超える大軍同士の大戦が一刻と経たずに勝敗を決していた。
焔耶に引っ張られるようにして、桃香は戦場を後にした。
「……負けたんだね」
「いっ、いえ、これは戦略的撤退というやつですっ。勝利の途中とでも申しますか―――」
焔耶が励ましの言葉を並べてくれているが、耳には入ってこなかった。
負けた。完膚なきまでの敗戦である。
だが桃香には、自分の志が華琳の覇道に劣るものだとはやはり思えなかった。あくまで戦の勝敗がそうなったというだけのことで、戦は志を遂げるためのひとつの手段でしかない。
天意が曹操軍に味方をしたのは確かなのだろう。天が、自分の志を否定したのか。しかし否定する権利が、天にあるのか。
胸中に浮かぶ問いに、答えを返す者はいなかった。