「――――――! ――――!!」
曹仁が今日も攻城の最前線に姿を現したようだ。後方の高台に置いた本陣から見守る華琳にも、味方の兵が湧き立つのが感じ取れた。
同時に城壁から盛んに降り注いでいた敵の矢も、俄かにその数を減らしている。この地―――柴桑―――の守兵は宛での曹仁の降臨を直接目にした者達ではないが、味方の兵からすでに話だけはたっぷりと聞かされているようだった。曹仁が前線に立つと、敵の攻撃が緩む。趙子龍ほどの剛の者でもなければ、真実の天人相手に矢を射掛けるのは躊躇われて当然だろう。
「―――っ」
「あっ、兄ちゃんだ」
「わっ、だ、大丈夫でしょうか?」
季衣が暢気に指さし、流琉が不安げに声を上げる。
雲梯から城壁の上に一人が降り立っていた。曹仁である。攻城戦では白鵠の一際目立つ白い馬体こそ伴っていないが、白の具足で遠目にもそれと分かる。敵兵はそこへ殺到するどころか、曹仁が槍を振るうまでもなく気圧されたように後退り、遠巻きにした。
「ほっ、大丈夫そうですね」
開いた空間に続々と曹操軍の兵が続くと、流琉が安堵の吐息を漏らした。華琳も気付けば握り込んでいた拳を緩める。
「城門が開くわ、本隊にも突入の準備をっ」
華琳は床几から腰を上げた。
「それと水軍の文聘には、引き続きその場で待機するように伝えなさい」
長江に接する城の北面は水軍に抑えさせているが、あくまで様子見の構えを取らせていた。孫子で言うところの囲師必闕。包囲網に逃げ道を一つ残しておくことで、敵の死に物狂いの反抗を避けることが出来る。
将ともなれば―――春蘭あたりは例外として―――、軍略書の古典にして最高傑作である孫子には一度くらい目を通しているものだ。しかし勢いに乗り熱に浮かされた今の曹操軍は、基本の軍略に立ち返る思考に欠けていた。華琳ですら、ここは力押しで十分と考えていたのだ。献策してきたのは、意外や曹仁である。曹仁は自ら先頭に立って城内へ一番乗りを遂げる一方で、血気に逸るばかりではなかった。元の世界で過ごした数ヶ月間、何やら学ぶところがあったらしい。
やがて柴桑の城門が内側より開き、味方の兵が雪崩れ込んでいった。守兵は曹仁の思惑通りに抗戦もほどほどに北の水門より撤退し、半日ほどで城内を完全に制圧するに至った。宛での大戦からわずか一ヶ月足らずで、曹操軍は孫呉最大の水軍基地の呼び声高い柴桑を陥落させていた。
―――ここまで順調過ぎるくらい順調ね。
軍営の一室を仮の宿舎として腰を落ち着けると、華琳はひとりごちた。
曹仁の降臨と宛での戦勝は、曹操軍にかつてない勢いをもたらしている。
曹仁を先頭に追撃に次ぐ追撃を仕掛け、孫劉連合に城に拠る暇も与えなかった。かつて赤壁の勝利で得た孫劉の勢いに押されて立て続けに奪われた拠点の多くが、まるで時が巻き戻ったかのように再び手の内に転がり込んできた。
堅城と名高い樊城も逃走する敵軍と併走し、時には追い越すように駆けた曹仁と霞の騎馬隊が城門からなだれ込み、一昼夜の内に奪い返した。樊城攻めでは何より軍船の接収が優先され、落城後すぐに再び水軍を組織して対岸の襄陽攻略が開始された。陸上部隊を上陸させて包囲の構えを見せると、孫劉連合は襄陽を放棄し退去した。
襄樊を取り戻した時点で荊州での勢力図は大きく曹魏に傾いた。西涼と揚州にも戦線を抱え、各地で叛徒も立っている。そこで一度軍を再編して仕切り直しに入るという案も出たが、珍しく曹仁が強硬に進軍を主張した。軍議の場での曹仁の発言は、華琳であっても抗いがたいほどの威を備えつつあったし、確かに好機であることは事実だった。引き続き南征が継続されることとなった。
華琳、曹仁が率いる主力が江陵を、春蘭、秋蘭が水軍と協力して夏口を攻めた。かつては一年にも渡って曹操軍の攻囲に耐え抜いた両拠点も、数日の内に陥落となった。当然夏口と江陵には孫策や周瑜に、劉備軍の錚々たる将軍や軍師達までが拠っていたが、荊州での戦力差は、すでに将器や軍略で覆し得るものではなくなっている。
宛の戦いでは十五万の兵力を擁した孫劉連合だが、あの敗戦で―――というよりも曹仁の降臨を目撃したことで、主力を残して大半の兵が離散していた。曹操軍も赤壁の大敗で半数余りの兵を失ったが、その比ではなかった。孫策軍は長江を下り逃れ、劉備軍は遡上して益州へと逃げ落ちていった。
そして後退する孫策軍を追走する形で、曹操軍は初めて長江南岸へと上陸を果たし、勢いのまま夏口の対岸に位置する武昌を落とした。ついに孫呉攻略の橋頭保を築いた瞬間である。
ここで一旦攻勢を緩め、武昌に兵を込めて堅固な拠点と化すという手もあったが、やはり曹仁が進軍を主張した。曹仁を先頭に立てた軍には破竹の勢いがあり、もはや否やの声は一つも上がらなかった。
そうして武昌より長江沿いを東に二百里ほど進んだこの柴桑で、初めて抵抗らしい抵抗を受けた。
柴桑は元々は周瑜の駐屯地であり、ゆえに孫呉最大の水軍基地と目されてきた城である。周瑜自身は孫策と共にさらに後方―――孫呉の本拠建業まで退いていたが、孫呉ではその周瑜に次ぐ軍略の持ち主と言われる陸遜が徹底抗戦の構えを示していた。
陸遜の役目は、軍の立て直しを計る孫策と周瑜のための時間稼ぎだったのだろう。曹仁が前線に立ち燎原の火が如く勢いに乗る曹操軍を相手に、陸遜は十日耐え抜き、先刻攻囲を緩めた北から水軍と離脱していった。長江を下って向かう先は当然孫策と周瑜のいる建業だろう。十日の間に、北伐を断念した孫権も建業に入ったという情報が届いている。孫呉の残る戦力は大よそ建業に集結しつつある。
柴桑から孫呉の本拠建業までは長江沿いを北東に一千里ほど進軍する必要があるが、道中に孫呉の大きな拠点はない。次の出兵が孫呉との決着を付けるものとなるだろう。
「―――華琳? ここか?」
「ええ。入りなさい、仁」
室外から躊躇いがちな声が聞こえてきた。呼び出しておいた曹仁だ。
すでに人払いは済ませている。いつもなら戸口前に陣取り華琳の座所の目印ともなる虎士の面々にも、今は距離を置かせていた。
曹仁の帰還以来、二人の時間はほとんど取れずにいた。曹仁は常に前線に身を置いていたし、それ以外の時間も珍しく何やら熱心に書き物などしていたのだ。
「建業にはいつ?」
入室するや、曹仁は切り出してきた。顔には少々焦りの色が見える。
柴桑陥落に要した十日という日数は、城の規模を思えば十分に早い。陸遜も二月や三月は持たせるつもりでいただろう。極めて順調にここまで進んできたが、曹仁はそれでも時間をかけ過ぎたと感じているようだった。
「……どうにも様子がおかしいと思っていたのだけれど、貴方、また天の国へ戻るらしいわね」
「―――っ、どうしてそれを?」
「これよ」
紙片を一枚、曹仁へ突き出した。
攻囲の最中に、洛陽の月からの使者が訪れた。携えてきた書状は月ではなく天子の手によるものであった。日付を見れば、あの宛での戦があった同日に書かれたものである。つまりは曹仁をこの世界に呼び戻した超常の天子が、前後して認めたということだ。
使者は華琳本人に渡すように厳命されていたらしく、進撃を緩めない曹操軍の中にその姿を求めて、ようやくここ柴桑で行き着いたという。
「……そうか、天子が」
書状には彼女―――彼?―――の有する超常の力が尽きつつあると書かれていた。
中華の民の活力が天子の力の源であり、乱世で人心が疲弊すれば力は失われる。官渡で袁紹軍を破った直後に謁見した際には、人ひとりを別外史から呼び出すだけの力はすでに残されていないと聞かされた。乱世こそ終結してはいないが、曲がりなりにも華琳の治世下で民が安んじられ、いくらか天子も力を取り戻したらしい。それでこの外史では手の施しようのない傷を負った曹仁を強制的に本来の外史へと送還し、そして再び呼び寄せることも出来た。
しかしそれも、いよいよ尽きつつあるという。もはや曹仁をこの外史に縛り付けるだけの力もほとんど残されてはおらず、一月余り後に完全に枯れ果てる。そうなれば曹仁は、生まれながらの宿縁に吸い寄せられ元の外史へと引き摺り戻されていく。そして再び別の外史から人ひとりを召喚し得るほどに力が戻るのがいつになるか、天子にも分からないという。高祖劉邦より四百年続いた超常の血脈が、初めてその力を持って呼び寄せた異邦人が曹仁なのだ。曹仁の、そして華琳の生あるうちに、三度目の召喚が可能となるのか。天のみぞ知るどころか、天すらも知り得ない。
書状の最後には、召喚の際に曹仁には同様の旨を伝えたと記されていた。
「それで? 何か私に言うべきことはない?」
天子の力が尽きるのは曹仁の降臨より一月余り後。そしてすでに一月近くが経過していた。おそらくその日は、十日と経たずに訪れる。それが曹仁にとってこの世界で過ごす最後の時間となるのかもしれなかった。
「…………俺のことは忘れて幸せに生きてくれ」
長い沈黙の後、曹仁は絞り出すように言った。華琳はかっと頭に血が上るのを感じた。
「―――と、言うべきなんだろうけどな。強がりでも忘れてくれなんて言えるか。……まったく、我ながらしまらないな」
続く曹仁の言葉で、燃え盛るようだった怒りがふっと静まった。
「……ふん、そんなことを抜かしたら、張り倒してやるところよ」
現実に行動に移そうと執務机の上に乗り出した身体を、華琳は再び椅子に落ち着けた。
「そりゃあ、よかった。……はぁ」
曹仁は一度嘆息を漏らすと、溢れ出るままに心情を吐露し始めた。
「俺が消えたら、泣いて欲しい、悲しんで欲しい。十年経ち、二十年が経っても、俺との別れを引きずって、ふとした瞬間に涙して欲しい。そして、それでも普段は幸せに笑っていて欲しい。ここではない世界で、俺も華琳を思い続ける。だから―――」
「貴方と離れ離れになって、私が貴方を思わない日があるわけがないでしょう」
「ああ、そうだな。―――それに、再び戻ってこれないと、決まったわけでもない」
曹仁が努めて明るく言った。
「珍しく戦に逸っていると思えば、そういうこと。自分がいる間に、せめて孫呉だけでも潰しておきたいと考えたのね?」
乱世が静まり、民が生を謳歌すれば、その分だけ天子は早く力を取り戻す。
「ああ。孫呉は、俺の世界の歴史では三国の中で最後まで生き残ることになるし」
「私、それに我が将兵も安く見られたものね。天下の平定など貴方がいなくても早晩成し遂げるわ。孫策と周瑜には、自分の手で借りを返したいしね」
何やら気になることを曹仁は口にしたが、今は聞き流した。
「そんなことよりも、貴方には貴方にしか出来ない、もっとやるべきことがあるでしょう」
「俺にしか出来ない、もっとやるべきこと?」
「わからない? この世界との縁の強さ故に貴方は選ばれ、この世界に呼び寄せられた。そして生まれ落ちた世界とのそれ以上に強い縁が、貴方を引き戻す。だったら今よりもっと強い縁でこの世界と結び付いておけば、再び呼び寄せるのに必要な力も小さくて済むでしょう」
かつて天子に聞かされた話と、今回受け取った書状の内容を鑑みるとそういう結論に至る。
「しかし、縁を強くすると言ったって」
「あら、簡単な方法があるじゃない。―――まあ、簡単なのは貴方の方だけで、たぶん私はすごく大変なのだろうけれど」
「…………? ―――あっ」
立ち上がり、執務机を回り込んで寝台の端に腰掛けた。そこで曹仁はようやく華琳の言葉の意味を理解したようだ。
寝台は軍営に備え付けのものであるから小さいが、布団だけは良質なものに取り換えさせている。まずは十分だろう。
「つまりそれって」
「貴方の子を、宿せるといいのだけれど」
「―――っ」
自分との愛情―――精神的な結び付きが、天子の言うところの縁に当たるのかは分からない。しかし結果生まれる血“縁”者の存在は、間違いなく縁だろう。
下腹を軽くさするようにしながら華琳は続けた。
「ふふっ、今日はお口やらは無しで、全部こっちにね。―――きゃっ。 もうっ、急に何?」
「急なのは華琳の方だろう。そんなこと言われて、我慢なんて出来るか」
案の定と言うべきか、曹仁が猛然と飛びついてきた。
全くの本心ではあるが、言葉にも仕草にも曹仁に火をつけようという打算があった。
欲しい物は何だって手にしてきた。戦い、勝ち取ってきた。
戦と政を勝ち抜き、やがて天下を手中に収める。友人―――桃香とは、意地の張り合いだ。いずれは押し勝って、隣を歩かせる。
好きな男だって同じことだ。戦場は閨で、戦術が子作りだった。
「もうっ、ちょっと痛いわ。腕の力を弱めて。―――ふふっ」
華琳は曹仁を誘う様に、小さく笑った。
「……たぶん出来たわ」
腕の中の華琳がそう呟いたのは、柴桑陥落から三日目の朝のことだった。
将兵にはこの地でのしばしの駐屯が伝えられ、交代で警備に当たる兵以外には休暇が与えられている。そしてその間、曹仁と華琳はほとんど部屋に籠り切りの生活を送っていた。幸いにも帰還以来前線に出ずっぱりで八面六臂の活躍をしていたお陰か、偶に顔を合わせる将兵からはただ生温い視線を送られるのみだった。
「昨日今日で分かるようなものではないんじゃないのか?」
「ええ、だからたぶん。でもきっと間違いない」
「そうか」
華琳は下腹に優しく手を当てると、誇らしげに微笑んだ。
「―――っ、何なんだ、この愛おし過ぎる存在は」
「?」
覚えず口走ると、唐突の発言に意味の取れない華琳が小首を傾げた。そんな動作の全てが、曹仁にはたまらなく愛おしかった。
「大好きな華琳が、まだ出会ってすらいないのに無条件で愛しい我が子を宿している。こんなにも愛おしい存在があっていいのか」
「―――きゃっ」
持て余した感情に促され、曹仁は華琳を強く抱き寄せた。
二人きりで部屋に籠るような生活は、その日で切り上げた。念のためと称して毎晩身体を重ねるも、日中は家族や仲間たちと過ごす時間を取るようにした。
元の世界で学んできたことを雑多に書き綴った書物も完成し、華琳に託した。それで、やらなければならないことは何もなくなった。華琳の覇業を最後まで支え見届けられないのが心残りだが、今更出来ることもない。ただのんびりと日々は過ぎていった。
ある日は、蘭々や季衣らが長江で川遊びをするのに、華琳と二人付き合う約束をした。そこに気付けば幸蘭や春蘭達も加わって大所帯となった。
「兄ちゃん、もうちょっと寄せてっ」
「―――っ、くっ」
曹仁が適当に垂らした釣り針に掛かった大物を、季衣が川に飛び込んで掴みかかる。一丈近くもある蝶鮫である。抱き上げた季衣の身体より二回りも大きい。他にも何人かが一抱えもあるような青魚や草魚を釣り上げた。華琳と流琉、秋蘭、それに曹仁も加わって調理し、最終的には近くに居た兵も集めて大規模な宴会へ発展した。
またある日は、諸将と誘い合わせて物見も兼ねた遠乗りへ出た。武昌、柴桑と落としたが、周辺はいまだ敵地同然である。白騎兵と春蘭の旗本の騎兵、さらに各隊から精鋭を選抜して再編中の虎士と虎豹騎が護衛に付いた。
絶影と白鵠が轡を並べて駆ける。
―――ここに的盧も加えた光景を、もう一度見たかったな。
ふと思うも、口にはしなかった。自分が戻るまでに、華琳が実現可能にしてくれるはずだ。
「なんや、曹仁も華琳様もえらいのんびりやないか」
霞が愛馬の黒捷を疾駆させ、先頭に躍り出た。
「むむっ、勝負なら私が代わりに受けようっ!」
春蘭が後を追って飛び出して行った。春蘭の馬も相当な良馬であるし馬術も達者であるが、さすがに相手が悪い。すぐに引き離され、華琳と曹仁に並んだ。
「うう~っ、くそっ」
春蘭が悔しげに唸った。
「……仁」
「ああ」
華琳に促され、代わって前に出る。
霞との最後の駆け合いに、曹仁と白鵠は僅差の勝利を収めた。
そうして、幸せな日々は一瞬で過ぎ去っていった。
ある朝、終わりは静かに訪れた。
曹仁と華琳はどちらからともなく目覚めると、しばし布団の中で微睡んだ。二人とも朝は強い方だが、昨夜“も”遅かった。いちゃいちゃとついばむ様な口付けを交わしたり、足を絡め合う時間を半刻余りも挟んで、ようやくもそもそと起き上がる。
一足先に着替え終えると、曹仁は寝台の端に腰掛けて華琳が身繕いするのを覗き見た。
寝乱れた姿から普段のきりっとした華琳へと変わっていく様子が好きだった。言うと華琳はたぶん嫌がるから、曹仁の密やかな楽しみである。
「―――?」
ふと違和感を覚え、右手に視線を落とした。足元までが透けて見えた。頭を振って見つめ直すと、槍の扱き過ぎで節くれだった手が徐々に浮かび上がってきた。
顔を上げると、思いつめた表情の華琳と目が合った。
「……今のは」
「ああ、どうもいよいよらしい」
「……そう」
縁に引き寄せられての退場というのは、一瞬の出来事であった天子による強制的な召喚や送還とは趣が違うようだ。今も足場を失い虚空でも漂うような喪失感が、あるいは世界から拒絶されていくような疎外感が、訳もなく胸にこみ上げてくる。
「華琳、兵に集合をかけて良いか? それに出来れば周辺の集落の民にも見物に来てもらいたい」
「何をするつもり?」
「ただ俺が消えたとなると、またみんな落ち込んじまいそうだからな」
話に聞いただけだが、前回の消沈振りはひどいものがあったらしい。曹家の天の御使いの存在は、本人が思っていた以上に人々の心に深く根差していた。
「それにど派手に消えて大勢の記憶に鮮明に残る。そんなこともこの世界との縁と言えるかもしれないしな」
華琳が小さく首肯し、すぐに準備が進められた。
閲兵と称して非番の兵もすぐに呼び集められ、周辺の村々にはありったけの馬車を走らせて見物人を募った。
曹仁と華琳は城壁に登ってその時を待つ。
眼下にはすぐに十余万の兵が整然と居並んだ。朦々と寄せる砂塵は見物の民を乗せて駆ける幾十幾百の馬車だ。
兵の差配を済ませた諸将が城壁の上へ続々と集まってくる。突然の命に怪訝そうに顔を見合わせ、代表して春蘭が口を開く。
「華琳様、仁。ずいぶんと急な閲兵ですが、建業への進軍の日取りがお決まりですか?」
「そうね。……明日、出陣しようかしら。出来るわね?」
「明日ですか。わかりましたっ。…………秋蘭、幸蘭?」
「姉者、問題ない。元々柴桑に長く留まる予定はなかったからな。いつでも出られるように兵糧の類は手配済みだ」
「進軍路も私の部下が調べ上げて、秋ちゃんと検討して決めてあります。―――話し合いの場には、春ちゃんもいたはずなんですけどね?」
「う、うむ。そうだったな」
「……姉者」
春蘭達が揉めている間に、見物人を乗せた馬車が城下に到着した。十万を超える兵と比べればわずかなものだが、万に近い民が下車してくる。当然中には孫呉の息の掛かった者達も多く含まれているだろうし、朱里や雛里のことだから劉備軍の手の者も潜んでいるだろう。その方が都合が良かった。
「……無花果」
華琳が呼ぶと、城壁の上に陳矯が白鵠を引いてきた。
「最後の時に、この子を仲間外れには出来ないでしょう?」
視線で問うと、華琳が曹仁にだけ聞こえる小声で囁いた。
頷き返し、曹仁は白鵠に跨ると自分達の姿が城下の人々から良く見えるように城壁の端まで進んだ。
粛然と控えていた兵がにわかに湧き立ち、触発されて民も騒ぎ始める。規律正しい曹操軍らしからぬ光景だった。やはりこのまま黙って消えるには、今や兵の中で自分の存在は大き過ぎる。
「―――曹魏の将兵達よっ!」
曹仁が口を開くと、一言一句聞き逃すまいと城下は水を打ったように静まり返った。
「まずは皆に礼を言いたいっ。皆の奮闘で、俺は己が天命を果たすことが出来たっ!」
言葉の意味が取れず、兵は無言のまま答えを求めて顔を見合わせている。
「十余年前、天命に導かれ、俺は我が王の元へ―――曹家へと遣わされたっ! やがて太平は終わりを告げ、民は叛き群雄の割拠する大乱の世となったっ! 一度は天下を恣とした董卓、青州黄巾百万を統べた飛燕、天下無双の飛将軍呂布、五世三公にして河北の覇者袁紹、西涼の雄馬騰に韓遂、そして劉玄徳と孫伯符っ! 彼らとの熾烈な戦いの数々は、今さら俺が語るまでもないだろう! 我らは勝ち続け、赤壁での敗北も覆し、今この地にいるっ!」
そこで一瞬、くらっと意識が遠のいた。頭を振って立て直すも、兵がどっと騒めいた。
どうやらまた身体が透けたようだ。それも今度は城下からも見て取れるほどはっきりと、手元だけに限らず全身らしい。気合を入れ直して、再び口を開く。
「天の御使いとして、ここに宣言しようっ! 先日の宛での大勝、そしてこの地を得たことで、天意は曹魏に、曹孟徳の元へついに定まった! 俺は曹家の天の御使いとしての役目を、ここにやり遂げたっ!」
「…………天の国へとご帰還されるのですか、曹仁将軍っ!?」
言葉を切り、しばし無言で通すと、欲しかった質問が飛んできた。蘭々や陳矯辺りから出るかと思えば、叫ぶように口にしたのは城下の兵の一人だった。
「ああ。俺がこの地で為すべきことは、全て果たした」
兵は呆然と放心する者もいれば、悲痛な叫びを上げる者もいた。全てを吹き飛ばすように、曹仁は声を張り上げる。
「称え、祝ってくれっ! 皆のお陰で、俺は誇りを胸に天の国へと凱旋することが出来るっ! そして喜び、浮かれよっ! 天意が定まった以上、これより先の曹魏の戦場に敗北はないっ! 皆の前には勝利の栄光だけが待っているっ!」
悲鳴が徐々に歓呼へと変わっていく。曹仁が拳を天に突き上げると、それは約束された勝利を祝う勝鬨となった。
言うべきことはこれで全部だ。曹仁は城壁の端から一歩身を引いた。
「どういうことだ、兄貴?」
すぐに蘭々達が詰め寄ってくる。
「どうもこうも、言ったままだ。すまないな」
下馬し、涙目の蘭々の頭を撫で、複雑な笑みを顔面に貼りつけた幸蘭の肩に手を置く。
「そんなに悲しむな、永遠の別れってわけじゃない。何年後になるか分からないが、きっと帰ってくる」
「本当?」
「ああ、だから蘭々、姉ちゃんの言うことを聞いて良い子で待っていろ。やんちゃもいいが、怪我には気を付けろよ。―――姉ちゃん。姉ちゃんには本当に感謝しかない。今の俺があるのは姉ちゃんのお陰だ、ありがとう。―――二人と家族になれて、俺は幸せだった」
「それは私の方こそですよ、仁ちゃん。私の弟になってくれて、ありがとう」
「俺もっ、兄貴の妹で幸せだったよ」
二人に小さく頷き返し、視線を横へ転じた。春蘭は蘭々と同じ涙目で、秋蘭は幸蘭に似た引き攣った笑みを浮かべている。
「春姉、兵にはああ言ったが孫呉と蜀漢は簡単な相手ではない。春姉の力が頼りだ、気合を入れて望んでくれ。―――秋姉、春姉の気合が空回りしそうな時はいつものように。秋姉がいつも通りにいてくれることが、俺にとっても曹魏にとっても何より心強い。―――二人とも、曹魏の未来を頼む」
「あ、ああっ、任せておけっ」
「言われるまでもない」
春蘭は鼻声ながらも力強く、秋蘭はいつもの涼しげな声を装って答えてくれた。
「季衣と流琉。今度帰ってくる時は、天の国の料理の調理法をいっぱい仕入れてくるからな。流琉、一緒に作ろう。季衣も楽しみに待っててくれ。―――それと、二人とも蘭々と仲良くしてくれてありがとうな。この後すごい泣くと思うから、なぐさめてやってくれ」
「まかせて、兄ちゃん。料理楽しみにしてるよ」
「はい、兄様。私も兄様とお料理出来るの、楽しみにしています」
季衣と流琉は精一杯の笑顔で返してくれた。
「ちょっと兄貴っ、季衣と流琉もっ」
「ははっ」
むくれ顔になった蘭々の頭をもう一度撫でて、目を転じた。
「霞、戦場ではいつも世話になった。つらい役目を押し付けるようだが、恋達にもよろしく伝えておいてくれ」
「しんどい役やけど、しゃーないな。それよりウチも黒捷も待っとるから、早う帰ってきいや。勝ち逃げは許さへんで」
霞は冗談とも本気ともつかない口調で言うと笑った。
「おう、帰ったらまた勝負しよう。―――ということで陳矯、俺がいない間の白鵠の世話を任せた。これはお前にしか頼めないことだ」
「―――はいっ、お任せ下さい」
水を向けると陳矯は慌てた様子で鼻を一すすり、生真面目に直立して受けた。その隣、並ぶと頭二つ分も抜きん出た巨漢と目を合わせる。
「角。お前にはずっと助けられてばかりだったな。俺とお前の間でいまさら礼の言葉もないが、ありがとうよ。それと春華のことだが、―――いい加減もらってやれよ」
「それは、その、…………はい」
詰まらないことを口にし掛け、別の言葉に切り換えた。自分が気を回すまでもなく、この世界ではきっとそうはならない。
「……白鵠」
隣にいる愛馬に呼び掛けると、鼻先を寄せてきた。鼻筋に手を当て、しばし声もなく語り合い、離れた。
―――こんなところか。
他にも何人も言葉を交わしておきたい相手はいるが、今は他の戦線であったり、敵味方に分かたれている。
「…………華琳」
「仁」
最後に、華琳へ目を向けた。幸蘭が蘭々の手を引いて曹仁の側から退き、華琳がそこへ歩を進めた。
「俺たちの子供のこと、よろしくな」
「えっ」
「あらあら」
蘭々と幸蘭を筆頭に周囲が一瞬ざわつくも、すぐに全員が固唾を呑んで曹仁と華琳を見守り始めた。
「子育て、協力出来なくてすまない」
「こっちへ戻ったら、穴埋めはたっぷりしてもらうわよ」
「ああ。だから天子に言って、なるべく早く呼び戻してくれよ」
「ええ。十年、いえ、五年でこの疲弊した国を建てなおしましょう」
「おう、頼む」
そこで、もう一度周囲がざわめいた。先程と違いいつまでも終わらない。どころか、どんどんと大きくなっていく。城下の兵までが、こちらを指差し騒いでいた。
視線を落とす。手が、足が、胸が、腹が、透き通るように薄らいでいた。思考もぼんやりと霧がかる。ここではないどこかへ遠ざかっていくような感覚だった。
華琳の方を見る。見納めとなる―――少なくともしばしの間は―――その顔をじっと見つめる。どちらからともなく手を取ろうとして、互いの手が空を切った。もはや触れることも叶わない。
「仁っ、何か言い残したいことはないっ!?」
華琳が叫ぶように言った。
「―――っ、好きだっ、華琳!」
最後に何か格好良いことを。そう思ったが、口から出たのはそんな言葉だった。
「足りないわ。もっと言いなさい。会えない時間の分も、今この瞬間に」
「ああっ、好きだ、好きだ、好きだ、好きだ、好きだっ、華琳! 愛して―――」
ふっと、曹仁の目の前から華琳が消え、世界は暗転した。