「おはよう、華琳」
「ええ、おはよう、蓮華」
遅れて朝議に姿を現した蓮華は、場違いな朝の挨拶で白熱する議論に水を差すと、おもむろに座に付いた。
曹仁がこの世界を去ってから、一年以上が経過している。
建業落城―――つまりは孫呉敗亡の折、蓮華は行方知らずとなっていた伝国璽を手に華琳の前に跪拝した。降伏の文言は、漢室の至宝を返還する故に天子様に取り成してくれ、というものだった。降るのは漢朝に対してでありその走狗たる曹魏に対してではない。青い瞳がそう主張していた。劉備に渡しても良かったのだぞと、脅し文句まで添えてきた。確かに劉氏であり漢中王でもある桃香の手に玉璽が渡れば、一つの武器となりかねない。
実直にして老獪、寛容と頑迷を併せ持つ蓮華を、華琳は諫議大夫として登用した。光録勲府に属し、俸給で言えば中央の官職としては高官とは言えない。しかし天子への諫言を職務とするこの官は、実際の政の場では三公九卿にも匹敵する存在感を有する。名ばかりの官職に留めるべきだという多くの反対を押し切っての任官で、いまだ蓮華と魏国の面々の折り合いは悪い。
漢王朝の丞相である華琳と同じく漢王朝の諫議大夫である自分は、位階の差こそあれ天子の臣下同士―――すなわち同僚でしかないという理屈の元、蓮華はあくまで華琳に対して臣従の態度は見せなかった。華琳と、真名を呼び捨てにもする。それが一層、春蘭や桂花の反感を買ったが、姉譲りの強気で蓮華は押し通していた。
本質的に生真面目な彼女が朝議に遅れてやって来たのは、今日の議題に対して思うところがあるからだろう。勤勉でいて時に大胆な行動もとる蓮華には、やはり諫議大夫という役職は打って付けであった。
蓮華が重用されたことで江南は落ち着きを取り戻し、潜伏して反抗の機を窺っていた孫尚香と孫呉の家臣団も帰順を果たした。孫策と周瑜の二人だけは未だ姿を見せないが、といって江南の民を扇動するなり、劉備軍に合流するなりといった暗躍の兆候もない。戦に飽いたのではないかというのが妹である蓮華の考えだ。
戦人の孫策にとって、宛城での戦の顛末は何とも馬鹿らしいものであったろう。兵力を揃え、散々に士気を盛り上げ、勝利を期した大戦が、戦略でも謀略でもなくただの奇跡一つで崩れ去ったのだ。建業での最後の決戦でも必死に士気を煽り、精鋭騎馬隊で幾度となく華琳の本陣を狙う動きを見せたが、それも曹仁の最後の檄に奮い立った曹魏の将兵の気勢に阻まれた。戦そのものに対する興を削がれても致し方ないことだ。それを証拠に、蓮華の元に孫策の愛剣にして父祖伝来の南海覇王が送り届けられていた。もう戦場に立つ気は無いという意思表示だろう。
反則を使って孫策から戦を取り上げたようで少々申し訳ない気持ちもあったが、妹二人に言わせればそれはそれで楽しくやっているはずとのことだった。酒を呷り、友と気侭に暮らす。それもまた孫策らしい生き方だという。
孫策と周瑜はいまだ手配書―――妹たち曰くまったく似ていない似顔絵が描かれた―――を貼り出して行方を追わせているが、捕まることはないだろう。対等の戦場で決着を付けられなかったのはいくらか心残りだが、気持ちの上で華琳は一つの戦いに幕を引いた。
内政にはまだいくつかの課題を残してはいるが、この国に残る大きな問題はあと一つだけとなっていた。劉備軍である。
桃香は戦いを続けていた。益州にて反曹の旗を掲げ続けていた。天険に抱かれた巴蜀の地にて守りに徹するばかりではなく、この一年の間にも漢中より桟道を伝って西涼に二度、長江を降って荊州に一度軍を進めている。その都度撃退しているが、決して諦める素振りを見せない。今も次の出陣に向けて戦備の増強に努めているという。
「――――――!!」
議論に加わった蓮華が声を荒げた。江東の虎の血筋をあらわに吼えられると、並みの文官達は腰が引けて反論が口を付いて出ない。
自らも議論を戦わせるべく、華琳は前のめりに席から腰を浮かした。身体は、半年前と比べすっかり身軽となっている。
毎夜、耳に蘇る声がある。華琳と真名を呼ぶ愛しい響きであり、好きだ好きだという囁きだ。そんな時、感傷を吹き飛ばすように夜泣きする娘の存在が今の華琳の支えだった。
三年が過ぎた。
「かっ、華琳さまっ!」
城門前で虎士と虎豹騎に囲まれ、出陣の用意を整え馬上の人となった華琳に桂花が慌てた様子で駆け寄ってきた。宮城から走り通して来たのだろう。肩で大きく息をしている。
桂花を筆頭に強硬に反対する者達が出ることは、容易に想像が付いた。華琳はいざ出陣という段になるまで、旗下の虎士と虎豹騎以外には親征の意志を隠し通していた。
「悪いわね、桂花。後のことは任せるわ」
「華琳さま、お待ちください! 何も自ら出られなくてもっ! たかだか辺境の一州。このまま秋蘭にお任せ下さい。増援は春蘭に率いさせればそれで十分です」
幸蘭の元で諜報任務に当たる元黒山族の兵の入念な調査結果と、張魯と張衛の助言を参考にして、秋蘭が練り上げた計画が見事図に当たった。曹魏への侵攻を繰り返してきた劉備軍が、今度は長江を降って荊州方面より攻め入るべく主力を南下させた。秋蘭はその機を正確にとらえ、手薄となった漢中に侵入してまずは全軍を挙げて陽平関を攻め落とした。巴蜀との玄関口に当たる陽平関を抑え劉備軍の援軍を遮断し、張魯の名の下に曹魏への帰順を求める布告を発すると、各地に内応者が現れ漢中の諸城は次々と門を開くこととなった。巴蜀には桃香を慕い移住した民が多く暮らしているが、漢中には張魯―――五斗米道の信徒がそれ以上に多い。桃香がいくら善政を布き民に慕われたところで、信仰心までが無くなるわけではない。まして曹魏への度重なる侵攻の軍備を賄ってきたこの数年の益州の政は、本来桃香の志向する仁政とは程遠いものであった。
こうして秋蘭と黒山族の兵は、張燕の仇討と雪辱をついに果たした。そして蜀漢の本拠成都へ、―――桃香へ続く進軍路が確保された。さすがに秋蘭は心得たもので、華琳の元へと増援を望む書状が送り届けられた。
「そのたかだか辺境の一州に、この数年悩まされてきたんじゃない」
雛里の軍略とそれを支える諸葛亮の民政手腕、関張趙に加えて黄忠や厳顔といった稀有な将器。とても一州で収まるようなものではなく、曹魏はすでに圧倒的と言える戦力差を有しながらも進攻の度に幾ばくかの領土の占拠を許してしまっていた。その都度援兵をやって押し返してはいるが、綻びを繕うようなものだ。
「ですがっ、華琳さまはすでにしてこの国の天下人なのです。軽々しく御自身で侵攻戦など為さる必要はございませんっ」
外界から隔絶されたような敵地に乗り込むというのだから、桂花の心配も分からなくもない。一度は大敗を喫し、多くの兵と一人の驍将の命を失った土地でもあるのだ。
「私を玉座に縛り付けておくつもり? 久しぶりに戦がしたいのよ、私は。それに桂花、―――桃香が待っているわ」
言い捨て、華琳は絶影の馬首を転じた。
「―――ったく、こんな時こそ出番でしょうに。何やってるのよ、あいつ」
背中越しに、桂花の苛立たしげなぼやき声が聞こえた。
桂花の言うあいつ―――曹仁になら、確かに桃香との因縁の決着を委ねても良いと思えたかもしれない。しかし曹仁は未だこの世界に帰還を果たしてはいなかった。
牛金からの援兵要請に、許はにわかに慌ただしさを増していた。
曹仁の副官を長年勤めあげた牛金は、今は将軍の一人として西涼の鎮撫を担っている。長く雍州牧を務めた白蓮が中央での平穏な暮らしを希望したため、代わって送り込んだ形だ。騎兵の動きを熟知した用兵は西涼の騎兵と対するには適任だった。妻である春華にも異才があり、夫を良く助けている。大きな乱はなく、慣わしのように時折起こる小さな乱は容易く蹴散らす。援兵の要請など初めてのことである。劉備軍の将軍にして、すでにして西涼では伝説の錦馬超が再び蜂起を促して回っていた。桃香の姿もあるという。
華琳自ら軍を率いて益州を陥落させたのは二年前のことだ。桃香や劉備軍の主だった者達は逃げ延び、南蛮族の割拠する未開の地へと行方をくらませた。そして再び中原に姿を見せたのが一年前のこととなる。
その兵力はかつて天下の義軍と呼ばれ流浪を繰り返していたころよりもさらに少なく、二、三千に過ぎない。民からの人気は今だ衰えることなく、それくらいの数であれば各地に潜む信奉者の支援で維持出来るようだ。一つ所に留まらず絶えず動き続け、時には民に紛れ潜伏もするため、大軍を差し向けるということも出来ずにいた。
ただこの一年、表立っての軍事行動はほとんど行われていない。重税に対して不平不満を持つ民はいても、地方の政も華琳の施策の元で適正に行われているのだ。劉備軍が標的とするような分かりやすい悪徳城主や腐敗役人などというものは存在しない。それでも雛里や諸葛亮が懸命に調べ上げるのだろう、時折曹魏の上層部の目を盗んで不正を働く役人を見つけ出しては襲撃を行っていた。しかしそれも一年も続ければ、ただでさえ稀な不正役人の類などすっかり駆逐され、最近では絶えてなくなっていた。
今の劉備軍は大義を掲げた反乱を企てるには小勢に過ぎ、兵力相応の戦いを挑めばそれは暴徒の襲撃と何ら変わるところはない。武装し、徒党を組んでいるというだけで、劉備軍は戦いの場所を失いつつあった。
西涼での蜂起は、桃香にとって最後の大きな賭けとなるだろう。
「……華琳様?」
「心配しなくても行かないわよ」
私室を訪れ、窺うような視線を送ってきた桂花に肩をすくめる。
二年前の戦で桃香の築いた国を滅ぼし、奪い取った。後は本当に意地と意地の張り合い、志と志のぶつかり合いだけで、戦で決するべきことは何もない。
「誰か適当な者に二万ばかり兵を与えて送れば、それで十分でしょう」
曹仁がいなくなってから、最も多くの戦場で戦ったのがその後を継いだ牛金の隊である。あくまで曹仁指揮下でのみ存在していた白騎兵は解散されたが、軍への残留を希望する者も多く、校尉として牛金の隊に加わっている。元白騎兵同士が率いる隊の連係は凄まじく、無双の百騎に代わって 変幻自在の一万騎を得たようなものだ。加えて常日頃その一万騎と調練する歩兵二万の練度もすでに曹操軍の最精鋭である。
桃香の元にはすでに一万の兵が集まっていて、中核には戦乱を戦い抜いた二千余りの精鋭がいる。侮りがたい戦力だが、桃香がさらに二万を集めたところで牛金隊のみで十分対処可能だ。援軍を求めてきたのは、外見に似合わず慎重な牛金の性格もあるだろうが、それ以上に華琳自身の出陣の意志を問うためだろう。
「……そうね、貴方行ってみない、鄧艾?」
「わ、わわ、私ですか? ぶ、文官ですがよろしいのですか?」
竹簡を抱えて桂花の隣に侍る少女に水を向けると、つっかえつっかえ返答する。
春蘭や霞は当然出撃を希望しているが、彼女達が出るまでもない。ここは若手に経験を積ませておきたかった。
新しく入る役人の半数以上が今では学校を卒業した若者達である。その中から最初に頭角を現したのが、この鄧艾だった。いくつかの地方官を歴任させた後、今は桂花の属官に付けて中央での経験を積ませている。地形を見る目に優れていて、農地開拓と土木計画ではすでに一頭地を抜いていた。転じて陣地の設営や用兵にも関心を示していることを桂花から華琳は聞き及んでいた。
「ええ、興味があるのでしょう?」
「は、はいっ」
「では、牛金将軍の元で学んで来なさい」
「あ、ああっ、ありがとうございますっ」
鄧艾が深々と頭を下げる。
彼女とはちょっとした縁があった。華琳が雛里と共に一度だけ許の学校で教壇に登った際に、学校制度を推し進める真意を問い質した少女、それが鄧艾である。
あの日、同じ教室にいた彼女の同級生達からは他にも数人、才覚を見せ始めた者がいる。彼女達の卒業はちょうどあの大戦があった年で、同じ年に改元が行われた。故に鄧艾達は天帰元年卒業組などと呼ばれていた。
天帰。天“に”帰すではなく、天“が”帰すという想いを込めた元号だった。しかし五年が過ぎ天帰六年を迎えた今この時も、曹仁の姿はこの世界のどこにもなかった。
「久しぶりね、桃香」
「……はい、華琳さん」
桃香が、静かにほほ笑んだ。背後には関羽を筆頭に劉備軍の諸将や軍師らが居並んでいる。華琳も主だった者は残らず集め、左右に侍らせていた。
曹仁が去ってから―――あの大戦から、七年が経っていた。七年の間、曹孟徳の天下に劉玄徳は抗い続けていた。
初めの三年は巴蜀の地の王として。土地を追われてからは、彼女を受け入れる民に拠って。五年目に起こした西涼での蜂起は、鎮圧におよそ半年近くを要した。華琳はその間ずっと国家の中枢にあって、政務に専念した。それが桃香を負かす唯一の方法と思ったからだ。
西涼での企図が潰えてからも、桃香は戦い続けた。ただ戦いの相手は少数ながらも未だ各地に潜伏する乱世の賊徒となった。叛徒である桃香が治安維持に働くというのは、華琳の施政に対する痛烈な皮肉と言える。同時に、すでにそうした形でしか戦いを継続出来ない劉備軍の最後の足掻きであった。
やがて天下に劉備軍が討つべき存在が一つもなくなった頃、降伏の意向が伝えられた。意外にも手引きをしたのは曹操軍からは龐徳、そして劉備軍からは馬超であった。
華琳を不倶戴天の敵と恨み抜いた馬超は、いやにすっきりとした顔で自ら降伏の使者を務めた。西涼で牛金の配下に入った龐徳と何度となく戦場でやり合い、語り合う機会もあったのだろう。顛末が気にならないではないが、馬騰の手の平で踊らされたという愉悦混じりの不快感もあり、深くは問い質さなかった。
「長かった。いえ、むしろこれでも早く済んだと言うべきかしら?」
華琳の呟きに、桃香は苦笑で返した。
民の中には、いまだ劉玄徳に対するほとんど信仰にも近いような思いが残っている。桃香にその気さえあれば、彼らの支援の元で延々と抗い続けることも可能だったろう。
「降るということは、私の天下に納得がいったと考えていいのかしら?」
「……はい。みんなが幸せになれる世を、華琳さんは作り上げてくれました」
その自負はあったし、証もある。最近になって、ずっと鳴りを潜めていた超常の天子がしばしば顔を覗かせ始めていた。ほんの一言二言交わす程度の短時間でしかないが、確実に天子は力を取り戻しつつある。つまりは民の活力が回復したということだ。
劉備と言う大き過ぎる器が落ち着きどころを得れば、それで天下から乱の気配はすっかりと消え失せるだろう。
「三十年。私たちは、華琳さんの急峻な改革が成るにはどれだけ早く見積もってもそれだけの時間が必要だと考えていました。三十年の間、民は苦しみ続けなければならないと。でも、今はどこへ行っても民はみんな笑顔です」
華琳や文官達の弛まぬ努力もあるが、曹仁が書き残していった冊子が随分と役に立った。
特に農具や肥料の改良は、農地を拡大し、生産効率をも飛躍的に向上させた。それに伴い、高かった税率を少しずつ下げて行くことが出来た。技術革新に付いていけない民もそれで恩恵にあずかることとなった。
「……むしろ、私を信じて支えてくれる皆にこそ、笑顔がなくなった」
三年の間、巴蜀は華琳の政を拒絶した者達の逃げ場となった。そして巴蜀を失った後も、桃香は民の心の拠り所であり続けた。性急すぎる改革には、恐らくそうした存在が必要だったのだ。
しかしいつしか、桃香の周りに守るべき民などいなくなっていった。桃香を慕う民は流浪する劉備軍を支えるため、曹操領の租税以上のものを進んで供出した。供出する財を成すために、嫌っていたはずの新技術をも取り入れ、曹魏の暮らしに染まっていった。そうして気付けば、桃香の周りに残ったのは笑顔もなく懸命に働く強き民ばかりであった。
民の避難所であり、楽園としての桃香の役割は緩やかに終わりを告げていた。
「礼を言うわ、桃香」
「礼?」
「ええ。貴方の存在があったから、―――政に参与する者は歩みを止めずに進むことが出来た。感謝するわ」
私、と言い掛けて少しだけ言葉を濁した。
桃香がいなければ、曹仁を呼び戻すために民を喜ばすことばかり考えた政をしていたかもしれない。
「華琳さん、そんな言葉で私を許そうとしていない?」
「……」
無言で返すと、桃香の目付きが険しくなった。
「さすがに私は殺した方が良いと思うな。ううん、殺さないと駄目だ。痛いのは嫌だけど、仕方がない。たまたま乱世に並び立っただけの、他の人達とは違う。私は華琳さんの政を否定することで力を得て、誰よりも長い間敵対し続けた。そんな私を許したら、民は政の在るべき姿を見失ってしまう」
桃香が話す間、関羽や張飛は口を挟まずただ乞うような視線を華琳へ向けてくるのみだった。桃香の意志は固く、すでに十分に話し合いも持たれたのだろう。
「……桂花、あれを運ばせてちょうだい」
「はっ、はい、華琳さま」
桂花がその場を離れる。その足取りはふらふらと覚束ず、去り際に桃香を忌まわしげに睨んだ目の下には隈が色濃く浮かんでいた。
毒酒か何かでも持ってこさせると思ったのか、さすがに桃香の顔が蒼白に染まる。それも一瞬の事で、ぎゅっと強く目を瞑ると、開いた時には意を決した様に笑みを浮かべた。
「……許の宮殿。懐かしいな」
桃香は微笑を浮かべたまま、周囲を見渡す。
「ここで貴方に勉強を教えたわね」
謁見の間ではなく、中庭の亭へ通している。桃香の勉強を見る時は、華琳の私室か、天気が良い時は専らこの亭だった。
「うん。宿題を放って街に出掛けては、華琳さんに怒られたっけ」
がたごとと物音がする。怪訝な表情で、桃香がそちらへ目を向けた。音の発信源が何かわかっても、やはり怪訝な顔付きだ。
「子供達に混じってよく遊んでいたわね。そうした民との深い交わりが、貴方を救う」
「―――お待たせしました」
虎士の一人が引いてきた荷車を亭の前に停車し、桂花が華琳の隣へと戻る。
「それは?」
「読んでみなさい」
荷車には紙や竹簡が山と積まれている。虎士がそのうちの一つを抜き取って、桃香に捧げ渡した。
「……これは」
「まったく困ったことだわ。民に勉学を授け、積極的に政に参加するよう呼び掛けてきたのは私だというのに。それに対して初めて民が明確に示した声が、これなのだから」
「私達の助命を求める嘆願書。それも、こんなにたくさん」
「何を言ってるの。こんなのほんの一部よ。蔵三つがすでに占領されているわ。それも、これは貴方の降伏の噂を聞き付けて送られてきたもので、実際に降伏したと知れればさらに増えるでしょうね。実際、今も引っ切り無しに届けられているわ」
中心には、学校で勉学を学んだ子供達がいるようだ。曹仁の発案で設置した目安箱には入りきらず、年嵩の卒業生が取りまとめて許の宮殿へ直接台車で運び込んでくる。地方でも同じ現象が起こっていて、地方官では対処しきれずそれも許へと送られてきていた。
「雛里か諸葛亮の策とも思ったけれど、その様子では違うようね」
桃香と同じく驚愕の表情を浮かべた二人がこくこくと頷く。
「これほど大きな民の声を、聞こえないと突っ撥ねるわけにもいかないわ」
そこで一端言葉を止め、隣の桂花を顎で示した。
「それに何より、訴状の類はどんな馬鹿げたものでも受領し目を通すと定めている。である以上は、拒否するわけにもいかないし、そのまま破棄するわけにもいかない。文官総出で目を通しても、それ以上に届く量が遥かに多い。このままでは、我が国の政は嘆願書に崩壊させられるわ」
「ああ、それで。荀彧さん、妙にお疲れだと思ったら」
「あんたら、本当になんなのよっ。私を殺したいわけっ。同じ内容の書簡を昼夜読み続ける苦痛と言ったらないわっ」
桂花が我慢も限界と叫ぶ。
「ははっ、ごめんなさい」
「私に謝る暇があるなら、さっさと街にでも出て、健在を喧伝してきなさいよっ。ああ、もうっ、こうしている間にも、どんどんどんどん書簡が溜まるっ。これであんたの首を刎ねただなんて知られたら、今度はどれだけの抗議文が届けられることかっ」
「えっと、それじゃあ―――」
桃香、そして劉備軍の面々の視線に頷いて返す。
「民に政へ参画するよう促しておいて、これほどの声を無視してしまっては、それこそ私の政への不信感を植え付けてしまうわ。それにまあ、昔から喧嘩の後に折れるのはいつも私が先だったしね。―――生きてちょうだい、桃香」
「よかったのだっ、お姉ちゃんっ!」
それまで身じろぎ一つせず耐えていた張飛が、桃香に跳び付いた。それを機に、関羽、趙雲、諸葛亮、雛里らも快哉を上げる。
「貴方達には何か、この国のためになる役職を考えましょう」
「……この国、というのは、魏国のことですか、それとも漢王朝のことですか?」
諸葛亮がおずおずと尋ねた。
「国としては漢王朝であるし、政の主体という意味では曹魏。どちらとでも好きに取ればいいわ」
「漢という国を存続させるんですか? 私はてっきり、やり残したことを遂げたなら、―――私が降伏したなら、華琳さんは天子になるものと思っていました」
桃香の言葉は、劉備軍首脳陣全員の共通した認識であろう。曹魏の臣の中にもそう思っている者は少なくないはずだ。
「天子という一段も二段も高い位置に立って、人の営みの外から天下を牛耳るなんて詰まらないもの。私は数多いる人間の、その競争の頂点でありたい。生ある限り、私は人であり続けるわ」
「じゃあ曹魏という国はどうするんです?」
「さあ。私は丞相であると同時に曹魏の王でもあり続けるつもりだけれど、その後のことは娘の代に委ねるしかないわね。私と同じく漢朝の中で地位を求めるならば、曹魏という国はやがて意味を失っていくでしょうし、天の御使いの血を受け継ぐあの子が天子の階を登ろうというのなら、それでも構わない」
帝位に即くにしても超常の天子の扱いなど、課題は残る。それも含めて娘次第だ。
「娘。……曹昂ちゃんだよね。私はまだ顔を見たことがないけど、今日は会えるのかな?」
「ええ、この場に呼んでいるわ。―――噂をすれば、来たわね」
「わあっ、可愛いっ」
教育係の月に手を引かれて、中庭をこちらへ向かってくる小さな影が見えた。桃香が亭を飛び出し、駆け寄っていく。
華琳の愛娘は六歳になっている。赤子の頃と比べるとだいぶ手は掛からなくなった。庭中を元気に走り回っては小さな怪我をして泣きながら帰ってくるが、付きっきりで面倒を見るような必要はなくなっている。
ふとした瞬間に蘇る曹仁の声は、娘の世話に追われていた時よりもかえって鮮明となった。いまだ枕を濡らす夜もあって、自分がこんなにも感傷的な人間であったことに驚きを覚えるほどだ。
天帰八年、曹仁はいまだ帰還を果たさずにいた。
桃香帰順の翌年、華琳は主だった者を引き連れて大宛へ向かった。
大宛というと汗血馬を産する西域の地方国家を示す言葉だが、かつての宛とその支城がまとめてそう呼び慣わされて久しい。天下分け目の戦いとなった八年前の戦は、今では大宛の決戦と呼ばれていた。過日の朝議でついに正式に宛県を大宛県とすることが決められ、西域の国の方は彼ら自身の呼称を元に今後は破洛那国と記される。今回の訪問は記念の式典に出席するためだ。
それだけあの戦、と言うよりも曹仁の降臨が人々に与えた衝撃は大きかった。三十万近い兵士と当時の三国の主だった者の多くが目撃している。その日の情景は程なく詳細に―――多少の誇張を伴い―――天下に広く知れ渡った。
曹仁が再びこの世界へと降り立った地は、それ自体は何の変哲もない野辺の一点に過ぎない。しかし今でも訪れる者が後を絶たず、人気の景勝地となっていた。何でも日の出の瞬間に支城の城壁から望むのが最近の流行らしい。
その大宛は曹仁の封地として久しい。不在の間の管理は幸蘭であり、中央の高官でありながら宛県の相を長く兼任していた。ありふれた景観を触れ回り、大宛を一躍中華を代表する観光都市にまで仕立て上げたのはまさしく彼女の手腕であろう。
今回の改名も八年前の改元も、ただ名前を変えるだけといってもそこには莫大と言って良い費用が掛かり、文官達には膨大な雑務が降りかかる。いずれも無駄な支出に無駄な労力であるが、推し進めた。
天帰、大宛と聞けば、誰もが曹仁を思い浮かべる。曹仁を思う人間が多ければ多いほど、曹仁とこの世界の縁が強まれば強まった分だけ、帰還の時は近付くはずだ。華琳が覇道の道程で曹仁のために行ったたった二歩の足踏みだった。
「いらっしゃいませ、華琳様」
式典の前日に大宛入りすると、先行していた幸蘭が宮殿の前で上機嫌で出迎えてくれた。
「…………あら、姫様は?」
「支城を見ていきたいというから、蘭々と月を付けて寄り道させているわ」
「……そうですか。せっかく色々と用意しておいたのに、蘭々ちゃんったらずるい」
幸蘭が露骨に肩を落とす。
弟妹を溺愛していた幸蘭だが、姪に対してはさらに輪をかけていた。曹仁や蘭々には姉として時に厳しく叱りつけるようなこともあったが、無責任な伯母の立場がそうさせるのか、ただただ甘い。お菓子も玩具も際限なく買い与え、あの春蘭にすら呆れられるほどだった。
「他の者は?」
「桃香さん達はもういらしています。他の方々の到着は明日になりそうです」
「そういえば桃香は、ちょうど荊州を回っていたのだったわね」
桃香達には巡察使という役職を設けて、監察として地方を回らせていた。例の冊子に書かれていた未来の官職名を流用したが、どちらかというと幼少の曹仁が語った彼の国ではお決まりだという勧善懲悪の時代劇に着想を得たものだ。これまでも郡や州単位では督郵のような役職があったが、巡察使は中華全土を回り、わずかばかりだが兵も伴わせていた。つまりは天下の義軍と名を馳せた劉備軍の行いを、今度は曹魏の威光の元でやるようなものだ。劉備軍の帰順を広く知らしめると同時に、ある種見せしめでもある。しかし桃香からは無邪気に報告書―――という名の道中での楽しげな出来事を綴った日記帳が定期的に届けられてくる。朱里と雛里が併せて送ってくる調書と同程度には、それを楽しみにしている華琳がいた。
「あっ、華琳さん」
折りよく桃香が姿を現した。背後には劉備軍の面々も揃っている。
「これから外へ夕食を食べに行くんだけど、華琳さん達も一緒にどうかな?」
何か明日の準備でやることはないか。幸蘭に視線で問うと、にっこりと頷き返された。
「式典のことは御心配なさらず、どうぞいってらっしゃいませ。姫様のことも私に任せて、どうぞごゆるりと」
「そう。ではご相伴させていただくとしましょう」
「じゃあ行こう。鈴々ちゃん、お願い」
「うんっ。宛には何度も来ているから、美味しいお店なら任せるのだ。こっちなのだ」
「むむっ、ボクだって詳しいぞ。宛で一番の店はこっちだ」
最近では年相応の落ち着きを見せ始めた季衣だが、鈴々と関わると駄目らしい。言い争いながら、人混みをずんずんと同じ方向へ向かって歩いていく。
道中薄々察せられたことだが、結局二人が案内する先は同じ店だった。自分の方が先に知っていたとか、何回来たことがあるとか言い合う二人を余所に、ささやかな宴が開かれた。
春蘭や霞、愛紗ら武人達はいつの間にか意気投合しているし、星と稟、風は旧知の仲だ。雛里と朱里は苦笑を浮かべながら桂花の悪態に付き合っている。
「ふふっ」
隣で桃香が小さく笑い声を漏らした。
「どうかした? 馬鹿面を浮かべて」
「もうっ、口が悪いんだから。―――なんだかこういうのって、すっごく良いなって」
「……そうかもしれないわね」
素直に応じた華琳が意外だったのか、桃香が目を丸くした。式典の前夜祭は夜更けまで続けられた。
翌日、華琳は寝室の戸をそっと閉めた。
「起きたら、連れて来てちょうだい」
「はい」
蘭々が声を忍ばせ答えた。室内ではいつも早起きの娘が寝息を立てている。
昨夜宮殿に戻ると、娘は幸蘭の部屋でお菓子片手にお人形遊びなどしていた。普段ならとうに就寝している時間である。
「すいません、華琳様」
「貴方のせいじゃないわ、月。幸蘭には、一度厳しく言っておかないと駄目ね」
御眠の娘を蘭々と月に任せて、郊外に設けられた式典の会場へと向かった。
会場入りすると、大宛入りしたばかりの面々も顔を揃えていた。西涼からは牛金や春華が、洛陽からは蓮華に詠、皇甫嵩や呂布達の姿もある。最近では単独での公演が増えている張三姉妹も勢揃いしていた。
「例の二人は?」
蓮華にそっと耳打ちした。
「自由な人だけれど、式典の後に華琳が作らせた新作のお酒が振る舞われると伝えさせたから、間違いなく来ていると思うわよ」
「そう、助かったわ」
蓮華がついと顎を向けた先には、見物に来た民が集められている。十万や二十万ではきかない。ただでさえ人口の多い荊州だが、それだけでなく他州からの見物客も多いのだろう。亡国の君主とその軍師が紛れ込んでも、見咎める者はいまい。
「なんだか、あの決戦を思い出すね」
「ええ、そういえばそうね」
桃香が側へ来て言った。
さらっと返すも、会場は偶然ではなく意図的にあの日の情景を模している。
曹魏、そしてかつての各国の主要人物達が居並び、その背後に周辺地域から可能な限りの兵を招集し整列させた。そしてその向かい側に、集まって来た民の観覧の場を設けた。二つの群衆が、大宛郊外のある一点を挟んで対峙していた。
「それじゃあ、はっじめるよーっ」
司会進行役を任された地和が、一歩前に出て式典の開始を告げた。
華琳がまず祝辞を述べ、宛県あらため大宛県の相である幸蘭がそれを受ける。司会が司会であるからあまり厳かな雰囲気にはならず、途中急に名指しされた桃香がしどろもどろでお祝いの言葉を述べたりもした。
「……戻るならこの瞬間しかないと思ったのだけれど、どうやら当てが外れたか」
式典も終盤に差し掛かり、華琳は嘆息交じりに零す。隣で桃香が小首を傾げた。
この場にいるのは曹操軍の将兵に天人を慕う民、そしてかつて曹仁と共闘し、敵対した者達だ。お膳立ては完璧のはずだった。
―――いえ、そういえばまだ肝心のあの子が来ていなかったわね。
縁を言うならば、この世界の誰よりも縁深い存在が不在だった。曹仁が戻るなら、自分でも桃香でもなくあの子の元だろう。
「かっ、華琳さまーーっっ!!」
背後から慌ただしく呼び掛けられた。振り返ろうとした瞬間、視界の端でそれを捉えた。
「なあに、蘭々? 騒がしいわよ」
それから視線を逸らさず、言葉だけ返した。
「大変なんですっ! 白鵠が突然走りだして、姫様が」
「ええ、そのようね」
「―――っ」
そこで蘭々も華琳の視線の先に気付いたようで、息を呑んだ。
白鵠は今は娘の乗馬を務めていた。馬としてはかなりの高齢である。かつての風の様に疾駆する姿はめっきり見られなくなり、娘を背に乗せてゆったりと歩く姿が目に馴染んで久しい。
その白鵠が風を巻いて駆けて来ていた。群衆と群衆の狭間を、あの日と同じように。鞍の上には、小さな人影がある。
「華琳さん、これってもしかして」
桃香の疑問にも答えず、華琳は食い入るように白鵠と娘を見つめていた。
少女は、白鵠の背の上で恐る恐る背筋を伸ばした。
「わあっ」
左右に居並ぶ群衆が目まぐるしい速さで後ろへ流れていく。いつも穏やかで優しい白鵠が、別の生き物のように駆けていた。
蘭々お姉ちゃんと月先生に付き添われて、眠い目を擦りつつ式典の会場に向かっていた。白鵠が一声嘶き、駆け出したのは城門を超えて少し行ったところだった。
「白鵠、どこへ向かっているの?」
少女の問いに答えるように、白鵠が小さく鼻を鳴らした。話に聞いた父のように白鵠の言葉は理解出来ないが、不安は感じなかった。疾駆する背は普段並足で駆ける時と同じ位に静かで、ほとんど揺れることがない。やはり、いつもの優しい白鵠だった。
やがて白鵠が足を止めた。群衆の只中で、横を見やれば母や身内の姿があるが、それ以外は特になんてことのない原野の一点に思える。
「ここに何かあるの、白鵠?」
白鵠はきょろきょろと周囲を見回していた。何かを求める様に、すんすんと鼻を鳴らしている。
「――――っ」
光。瞬間、真っ白な光が視界を襲った。目蓋を閉じてなお目に突き刺さるような強烈な光だが、どこか温かい。
「…………ん」
光が収まるのを感じて目を開けると、男の懐の中にいた。
見上げた顔に覚えはないが、何故だか懐かしい。見慣れぬ珍妙な格好をしているが、騎乗の姿勢は妙に様になっていて、普段自分以外を決して背中に乗せようとしない白鵠も落ち着いたものだ。
不思議と不安も不審も感じはしないが、無性に男のことを知りたくなった。
「私は華恋」
相手に名前を尋ねる時は、まずは自分から。口を衝いて出たのは、姓名ではなく真名だった。
「華恋。そうか、華恋か」
噛みしめるように男が華恋の真名を呟く。真名を呼ばれても、不快な感じはまるでしなかった。ただ胸の奥底をくすぐられたような、言い様の無い感情が湧き上がってくる。
「貴方はだあれ?」
「ああ、俺は―――」
口を開いた男の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。