広宗落城より5日が過ぎた。孫策は右中郎将にして郷里の名士でもある朱儁の軍に再び合流すべく、広宗を辞することにした。張角が自害して果てたとはいえ、黄巾党の残党や乱に乗じて起った賊徒は多い。張角の死は洛陽を中心に全土に知れ渡るだろうが、まだまだ世の乱れは続くだろう。ここでさらに名を上げ、かつ朱儁に恩を売っておくことは、自身の宿願の大きな助けとなってくれるだろう。
「曹仁、私達と共に来る気はないかしら?」
城外まで見送りに来た曹仁に、孫策は言った。以前誘いをかけた時には邪魔に入った関羽は、少し離れたところで祭と話している。孫策は真っ直ぐ曹仁の目を見つめて続けた。
「あなたの武勇と指揮能力。そして、あなた自身は嫌っているようだけれど天の御遣いという肩書き。どれも私達にとって得難いものだわ。それに、私はあなたのことを気に入っている。我が軍に来なさい、曹仁」
視線に力を込めた。断れば殺す。そんな思いすら込めた。実際、自身の元に来ないならここで殺しておいた方が良いように思えた。味方でないのならば、乱世の中で自分が起つ上で邪魔にしかならない。天の御遣いの名とその名に恥じぬ曹仁の武勇は、それほどに重い。
視線に込められた思いに気付いていないのか、曹仁が特に気負った様子もなく口を開いた。
「ふられたな、雪蓮」
「聞いていたの、冥琳?」
曹仁達に別れを告げ、しばし軍を進めたところで冥琳が馬を寄せてきた。
「お前が曹仁に斬りかかるのではないかと、冷や冷やしたぞ」
「さすがに私だって、そこまで無茶はしないわよ」
この親友と比べれば、自分に思慮の足りないところがあることは孫策―――雪蓮自身自覚していた。しかし、義勇軍を率いて乱の鎮圧に大功を上げた人物を、衆人環視の中で斬り捨てる様な愚はさすがに自分でも犯さない。
「それに彼を気に入っていると言ったのは本心だもの」
「そうか。私としても味方に欲しい人材であったな。我らの軍には騎兵を率いる者が絶対的に不足しているからな」
海賊退治で名を馳せた母の代より、孫家の軍は水軍に比重を置く傾向がある。長江を抱く当時の統治区域を考えれば、それは理に適ったことであった。しかし、今やその統治区域も袁術に奪われて久しい。また、乱世に名乗りを上げることを思えば、今後の戦は平原での野戦が中心となってくるだろう。騎馬隊の精鋭を組織することは急務であった。曹仁は騎馬隊の隊長には当にうってつけの人材だった。
「まあ、騎兵は私が率いればいいじゃない」
「…………はぁ」
冥琳がため息を漏らした。自分が前線で戦うことを、冥琳は心良く思わない。騎馬隊を率いて戦場を駆け廻るようなことはせず、本陣で腰を落ち着けていて欲しいのだろう。自分が先頭に立って戦ってこその孫家の軍だ、と雪蓮は思ったが口にはしなかった。口では冥琳に敵わないし、自分を気遣うその思いは素直にうれしい。雪蓮は話題を戻すことにした。
「仲間になってくれるなら妹をあげる、くらい言えばよかったかな」
「おいおい、本気か」
「半分ね。本人たちの意思を尊重した上でなら、悪い話じゃないわ」
言葉にしてみると、本当に悪くない手だと雪蓮は感じた。
曹仁を仲間に出来れば、彼を慕う劉備達5人も引き入れることが出来るかもしれない。彼女達の力は孫家にとって大きな力となるだろう。そして、孫家に天の血を入れることが出来れば、ぐっと天下が近付くように思えた。そう、天下だ。
「何にしても、まずは独立を果たすことだな」
冥琳の言葉で雪蓮は現実に引き戻された。曹仁達を引き入れるにしても、この身も今は袁術の客将に過ぎないのだ。
「そうね。まずは我らの地を取り戻しましょう」
孫策は、果たすべき宿願、天下への第一歩へと思いを巡らせた。
広宗に朝廷の使者が来たのは、孫策達が去って数日が過ぎた頃だった。未だ焼け跡の残る宮殿に仮設された謁見の間で、曹仁達は使者と対面した。
使者の口から告げられた勅命によって、皇甫嵩は冀州の刺史に、桃香は中山国安喜県の県尉に任命された。
「皇甫嵩殿! これは一体どういうことですか!」
謁見の間から使者が退室すると、直ぐに愛紗が皇甫嵩に詰め寄った。曹仁が視線で制さなければ、使者に掴み掛かっていたかもしれない。
「ふむ。すまんな。お前たちの武功を思えばもっと良い官職を授けられて当然なのだが、私も十常侍共には警戒されているからな。私と親しい者が高位に就くのを嫌われたのかもしれん。賂を使うのも好かんしな」
「そのことではありません!」
「そうですよ、皇甫嵩さん。私の官職なんてどうでもいいんです。それよりも、どうして曹仁さんに官職が授けられないんですか?」
桃香も一緒になって、皇甫嵩に言い募った。功績を考えれば、与えられた官職は如何にも低過ぎるものだが、それも気にならないようだ。
皇甫嵩が助けを求めるような表情で、それでいて責め立てるような視線を曹仁に向けて送ってきた。実際、ここまで説明せずにいた曹仁自身に非はあった。
「二人とも落ち着いてくれ。俺に官職が授けられないのは当然のことなんだ」
「何故ですか!?」
「二人も俺のせいで曹家がどういう目にあったか、知っているだろう?」
「! ・・・・・・なるほど」
「どういうこと?」
納得がいったのか、愛紗が不快げに顔をしかめた。対して桃香はまだ首を傾げたままだ。二人の後方では朱里と雛里が神妙な顔で頷き合っている。端から難しい話には興味がないとばかりに、暢気そうに欠伸を浮かべている鈴々と見事な対比が出来上がっている。
「えーと・・・・・・、朱里、雛里。頼む」
自分ではあまり語りたい話でもない。朱里は一歩前に出ると、こちらを気にする様子を見せながらも口を開いた。
「桃香様、曹仁さんの叔母に当たる曹嵩さんが大尉の任を解かれた話はご存知ですよね?」
「あっ」
朱里の後を雛里が継ぐ。
「そうです。漢室は曹仁さんの天を認めていません。むしろ相容れないものとして捉えています」
「でも、せっかく頑張ったのに、そんなことでなかったことにされちゃうなんて」
「ある意味、漢室にとって俺は黄天を掲げた張角達と変わらない存在なわけだからな。官職が欲しくて戦ってきたわけじゃないし、こうして乱が終わったのなら、別に構わないさ。それは、桃香さん達も同じだろう。」
捕えられ、首を刎ねられてもおかしくない立場だといえる。それがこうして生かされているし、曹嵩退任後は華琳や幸蘭たち家族の者も再び官職が得られている。それで十分だった。漢室に忠誠を誓う気など微塵もない自分が、敢えて官職に就く意味もない。
「それはそうだけど……」
桃香はまだ納得いかない様子で、難しい表情を浮かべて考え込んでいる。
しばらくそうしていたかと思えば、桃香はぱっと顔を上げて曹仁を見た。
「それじゃあ、曹仁さんはこれからどうするの? よければ、……ううん、是非、わたし達と一緒に―――」
「俺はしばらく将軍に付いて、軍略を学ぶつもりだ」
桃香の言葉を遮って、曹仁は己が決意を口にした。
広宗に使者が訪れた次の日、義勇軍は解散された。桃香に与えられた官職では、とても兵を養うことなど出来ないのだ。何度もこちらを振り返りながら、名残惜しそうに去っていく兵達の姿を、曹仁は桃香達と共に見送った。その姿が点としか見えなくなった時、曹仁は口を開いた。
「さて、そろそろ俺たちも行こうか」
「……曹仁さん」
誰にともなく言った。ここからは別々の道を行くこととなる。
「うぅ~、ほんとにお兄ちゃん、一緒にこないのか?」
「ああ、ごめんな」
力無く鈴々がこぼした言葉が、曹仁の胸を締め付けるようだった。
「曹仁さん、わたし達のことを受け入れてくれて、ありがとうございました」
「…………」
「二人とも、元気でな」
軍師として認められたことに礼を言う朱里と、涙目でこちらを見つめてくる雛里の頭に、曹仁は手を伸ばした。
「曹仁殿が乱世を鎮めるべく起つ日を、我らは心待ちにしています」
「……そうか」
真っ直ぐこちらを見つめて言ってくる愛紗に、曹仁は少し目を逸らしながら答えた。
「曹仁さん」
「……桃香さん」
桃香が曹仁の手を取った。
「初めて曹仁さんを見たとき、わたし達を助けるために、天上から遣わされた人だと感じたの。曹仁さんはこんな言い方は嫌かもしれないけど、わたしにとって、あなたは確かに乱世を鎮める天の御遣いです。民のため、天下のために生きていれば、必ずまた一緒に戦う時が来ると信じているよ」
「そうだな。また会おう、桃香さん」
「……蘭々」
「…………」
皆と別れの言葉を交わし終えた曹仁は、隣で不機嫌そうにしている蘭々を促した。昨夜、華琳や幸蘭達の元に一度戻るように言って以来、曹仁とは口も聞いてくれない。しかしそれは、今、この別れとは関係のないことだった。桃香や鈴々とはかなり親しく付き合っていたのだ。このまま挨拶もなしに別れては、後で必ず後悔するだろう。
「蘭々」
鈴々が蘭々の元に駆け寄った。
「蘭々ちゃん」
桃香も後に続いた。そして鈴々ごと、蘭々を抱きしめた。
「うにゃ」
「ちょ、ちょっと、桃香さん!」
曹仁はそんな3人の姿を、いくらか罪悪感を持って眺めた。
官軍は義勇軍のように、その場で解散というわけにはいかない。皇甫嵩はこれから、洛陽に向けて軍を率いての凱旋となる。幾分兵力を失ったとはいえ、それでも3万近い兵数を誇る官軍である。先陣はすでに洛陽に向けて進発していたが、皇甫嵩のいる本隊は未だ城内に待機していた。
曹仁の仲間も本隊と共に城内に控えていた。黄巾党討伐に参戦した当初から苦難を共にしてきた者達だ。戦死した者。故郷で再び一介の侠者に戻るべく、義勇軍と共に去っていった者。残る者達の数は10人に満たなかった。彼らは蘭々と共に華琳達の元に行くことになっていた。幸蘭の、あるいは蘭々が軍を率いるのなら彼女の元で働けるよう、手筈は整っていた。それぞれが歴戦の猛者と言っていい。彼女達の元でも存分に力を発揮してくれるだろう。もっとも、幸蘭から届いた書簡によると、華琳はしばし故郷である沛国の譙県で雌伏の時を過ごすつもりらしい。しばらくは小さな私兵団の中で彼らも過ごすこととなるだろう。
蘭々が曹仁に一瞥をくれ、彼らの元へと駆けて行った。その集団の中にあって1人抜きん出て大きな男が、こちらを気遣わしげに見つめている。角には今までも、そしてこれからも苦労を掛けることとなるだろう。曹仁は角1人だけは伴って行くことに決めていた。
「別れは済んだか」
気が付くと、皇甫嵩が隣にやって来ていた。らしくもなく神妙な顔つきだった。ひょっとしたら気を使われているのかもしれない、と曹仁は思った。
「これで良かったのか、曹仁?」
「ああ、これでいい」
桃香達のことは好きだった。短い間だったが、共に戦えて幸せだったと言ってもいい。これからも共に、という気持ちは曹仁にも確かに在った。しかしこのまま彼女達の主となるというのは、違うと思った。自分は桃香ほどに民を想っていない。華琳ほどに天下を見ていない。孫策ほどに明日を望んでもいない。もし彼女達と共に夢を見るなら、それは断じて主としてではなく、下からその夢を支える者としてだ。
「将軍こそ良かったのか? あの5人の力、欲しくないわけではないんだろう?」
皇甫嵩の元で学ぶと曹仁が告げた時、ならば自分達も付いて行くと桃香達は主張した。その説得には、皇甫嵩の手助けが大きかった。当の本人に言われては、桃香達も無理に押し掛けることなど出来なかったのだ。
「ま、冀州に行くのなら、連れて行きたいがな。お前も解っていると思うが、洛陽は駄目だ」
皇甫嵩は凱旋後、すぐに冀州へ赴任するのではなく、しばらくは洛陽の守護に当たることとなるらしい。その命の出処がどこなのか、否、どちらなのかは曹仁には判然としなかった。
「まあ、そうだな。これから洛陽で始まることを思うと、彼女達には似つかわしくないな」
曹仁の元には、幸蘭の飛脚によって情報が頻繁に伝えられていた。都である洛陽の情報などは特によく流れてくる。洛陽では今、大将軍の何進を中心とした一派と、十常侍を中心とした宦官達との間で激しい権力闘争が巻き起こっていた。
だからこそ、曹仁も蘭々を華琳達と共に故郷に帰すことにしたのだ。皇甫嵩の元で軍略を学びたいというのは、あくまで曹仁自身の願望でしかない。そんなもので彼女を危険な目に遭わせるわけにはいかない。戦場での危険であればいくらでも守ってやれるし、蘭々自身にも自らを守るだけの力はある。しかし今度の戦いは、曹仁の力の及ばないところにある。
「……政争か」
それも、血で血を洗うような凄惨なものとなるだろう。そして、馬鹿げた争いだ。どちらが勝ったところで、大乱に疲れ切った漢朝はさらに疲弊する。華琳はそうと知って、闘争の場から距離を置くこととしたのだろう。蘭々にもそんなものには関わって欲しくはない。無論、桃香達にも。皇甫嵩は何進の息の掛かっていない数少ない将軍格の者の1人である。これから両陣営から手が伸ばされてくることだろう。
各地を襲った反乱の炎は鎮火しつつあったが、今まさに漢朝の中心で大火が上がろうとしていた。