新しい県長(一万戸以下の県の知事)が赴任してくる。その話を牛金が聞いたのは1月ほども前のことだ。大宦官曹謄に連なる一族の者という話だった。曹謄の養子である曹嵩は、金の力で大尉の地位にまで登っている。叛意を疑われてその地位自体はすぐに失ったが、つまりは、この国の腐敗の象徴の様な一族ということだ。
牛金が物心つく頃には、既に官位は金で売り買いされるものとなっていた。そのために費やした財貨を取り戻すため、役人は民に重税を強い、私腹を肥やす。不正を働かない役人など、どこにも存在していなかった。
今の県長の左進も、この地の民より搾り取った金でより高位に就くという。そしてさらに、左進はこれを最後とばかりに、民の骨の髄までしゃぶり尽くそうとしていた。臨時で求められた税は、民を餓死させるつもりだとしか思えないものであった。
「兄貴、来ました!」
「全員並べ!」
遠く、200人ほどの集団がこちらに向かってくるのが見えた。県長に金で雇われた私兵団だ。権威を笠に好き勝手暴れると、民からは恐れられていた。その数は聞いていたより幾分多い。こちらの話を聞きつけて、新たに雇い入れたのかもしれない。
牛金は私兵団の進行を遮るように、村の前に仲間を並べさせた。こちらはわずか50人。その全てが歩兵だった。兵力差は大きい。それも、牛金の連れである10人ほどを除いて、普段は鍬を持つその手に、今日は武器を持ち替えただけの農民達に過ぎなかった。唯一勝っているのは、一人一人の覚悟だろう。ここで退けば、飢えて死ぬのを待つだけなのだ。村人たちは自ら、侠客である牛金の元を訪ねて来たのである。それも、ただ助けを求めるのでなく、自分達も共に戦うという意思を持って。牛金は村人の中からさらに、名も無き死を恐れぬ者と身内を持たない者だけを選び抜いた。ここで県長を追い返したところで、戦った者達は叛徒として追われかねないのだ。
こちらから50歩ほど離れた位置で集団は止まった。200人の中心辺りに、20騎前後の騎兵がまとまっている。そしてさらにその中心に馬車が1台。車上の男が立ち上がった。華美な装飾に身を包んだ、肥えた男だ。
「私は県長の左進だ。決壊した橋の改修のために、この先の村に臨時の徴税に参るところだ。道を開けい!」
車上の男、左進が言った。牛金は一歩前に出て、左進と200人を睨み据えた。
「我が名は牛金! いったいどこに決壊した橋などあるというのだ! 村には貴様の懐を肥やすために支払う、如何なる物もありはしない! 早々にこの地より立ち去れ!!」
200人にわずかに喧噪が起こる。牛金の名は県内ではそれなりに知られている。多少の脅しにはなったはずだ。それでも、喧噪はやがて静まっていく。数を頼む気持ちが強いのだろう。たった一人の勇名にいつまでも怯んでいてはくれない。実際、数の差はあまりに大きかった。牛金が先頭で勇を奮って仲間を勢い付かせ、それに乗じてそのまま県長を討ち果たす。そのわずかな勝機に賭けるつもりだった。
左進は周囲が静まるのを見届けると、肥え太った体には立っているのも辛いのか、倒れる様に再び腰を下ろした。そして、周りを固める騎兵に何事かを指示している。
―――抗弁し、言い繕おうという気もないのか。
牛金の胸に複雑な感情が湧きあがった。腐敗しきったこの国の民であることがそうさせるのか、それは羞恥にも似た思いだった。
気が付くと、県長を守る様に固まっていた騎兵の一騎が動き出していた。一際大きな白馬に乗る男だ。一本の長い棒を持っている。まだ若い、いっそ幼いと言ってもいい年頃に見えた。人波を強引に押し分ける様にして進んでくるその姿は、何故かひどく自然なものと見える。
「夏侯恩! 貴様、何のつもりだ!」
男が集団を抜け出たところで、ようやく県長が詰問の声を上げた。夏侯恩。それが男の名だろうか。男はその声を無視して、尚も真っ直ぐに馬を進める。こちらまで10歩ほどの距離を残したところで男は馬を止めた。そして馬首を返す。まるで牛金達の先頭に立って、200に対峙しているような構えだ。
「義は彼らの側にある! 俺はこちらに付かせてもらおう」
「貴様、裏切るか!」
県長が声を荒げて何事かを捲し立て始めた。牛金はそれを無視して、背後から男に声を掛けた。
「お前、死ぬ気か?」
「死ぬ気はない」
振り向いた男の顔に浮かんだ笑みからは、やはり幼さが感じられる。稚気を含んだその幼い正義感のために、この若者は死ぬのか。そう思うと、牛金は居た堪れない気持ちに襲われた。思わず何かを言いかける。
「や―――」
「勝つ気だ。それに、あんた達の誰一人として死なす気はない」
牛金の言葉は遮られた。自分でも何を言うつもりだったのか分からなかった。そして、男が何を言ったのかも理解出来なかった。
男はすでに正面を向き直っている。その背中が言った。
「機を逃すな」
男の姿が見る間に遠くなった。馬を駆けさせたのだと理解するのに数瞬を要した。それほど凄まじい、まるで飛ぶような走りだった。
瞬く間に、男は敵中に躍り込んでいた。槍のようにして棒を使い、瞬時に2、3人を突き倒している。人と馬ではなく、一つの何か全く別の生き物としか、牛金には思えなかった。200の集団が唯の一騎に断ち割られていく。
「―――っ! 行くぞ、お前ら!」
機。男の言葉が甦り、牛金ははっと我に返った。思わず男の戦いに見とれていた自分を、牛金は奮い立たせた。
牛金はひとつ大きく息を吸って、乱れた呼吸を落ちつかせた。周囲を見渡す。倒れ伏す者達の中に、仲間の姿は一人も含まれてはいなかった。夏侯恩の言う通り、1人も損なうことなく、50人以上を討ち倒した。その大半は夏侯恩と牛金自身の手によるものだ。夏侯恩が騎馬の一団を突き崩したことで、残る者も散り散りに逃げていった。
馬蹄の音が騒がしく響いた。一人、追撃に出ていた夏侯恩が戻って来ていた。肩や背などに数ヶ所浅い斬り傷があるが、血はすでに止まっているようだ。夏侯恩を除いて、こちらには手傷を負ったものすらいなかった。まさに完勝である。しかし、牛金達が突っ込むのがもう少し遅れていれば、夏侯恩の傷はこの程度では済まなかっただろう。不思議とそんなことは考えもしなかったが、そもそも突然仲間になると言ったところで、こちらが信用しない場合もあるのだ。囲い込まれてじわじわと斬り刻まれていた可能性は十分に考えられた。
「ずいぶん、無茶をするな。俺たちがお前を疑う、とは思わなかったのか?」
牛金は近付いてきた夏侯恩に声を掛けた。
「それは思い付かなかったな。今なら奴らを崩せる、そう感じただけだ」
夏侯恩は事もなげに答えた。
「初めから、こちらに付くつもりだったのか?」
「ああ。道案内にはちょうどいいだろう?」
夏侯恩が不敵な感じの笑みを浮かべた。まだあどけなさを残したその顔には、あまり似合っていない。
牛金は夏侯恩のことを好きになりかけている自分に気付いた。
「……で、その馬は?」
牛金は、夏侯恩の背後に居並ぶ馬群に目を向けて尋ねた。数は20頭ほど。ちょうど左進の私兵団にいた騎兵の数と同じくらいの数である。よく見ると、馬群の中には無人の馬車を引いている馬が1頭いた。間違い無さそうだ。
「左進には、歩いてお帰り願うことにした」
「はははっ!」
肥え太った体を必死に揺らして歩く左進を想像して、牛金は声を上げて笑った。背後からも笑い声が響く。初めて聞いた村人たちの笑い声だった。
「馬は村の者の好きにするといい」
笑い声が止んだところで、夏侯恩が言った。
「左進の奴が、何か言って来ないかな?」
「もう2、3日もすれば、新しい県長が来る。後のことは彼女に任せるといい。あんた達にも手を出させないように手を打ってくれるはずだ」
2、3日。それは牛金が聞いていた話よりもずっと早い。しかし、役人が一体何をしてくれるというのか。
「……新しい県長ね」
「彼女は信用出来る。俺が請け負おう」
牛金の言葉から何か感じ取ったのか、夏侯恩がそう続けた。その言葉に、牛金は一つの考えが思い浮かんだ。
「夏侯恩。…………夏侯氏か」
夏侯恩の顔にわずかに狼狽の色が浮かんだのを牛金は見逃さなかった。
新しくやってくる県長の一族は、夏侯氏とも血縁のはずだった。数年前にとある噂で騒がれた一族であるから、その辺りのことは牛金も知っていた。夏侯“恩”、その名には聞き覚えがなかったが、“惇”や“淵”といった名の者達は、その主の名と共に最近になってからも何度か聞いたことがあった。
「……いや、待てよ。そもそも、その白馬は」
「―――っ! お、俺はそろそろ行くぞ」
言って、夏侯恩と呼ばれていた男は馬首を返した。その背が、やはりすぐに遠ざかる。村人たちの呼び止めも、感謝の言葉も聞こえていないのか、振り返りもせずに駆け去っていく。
その背を見つめながら、牛金は一つの名に思い至っていた。それは、夏侯恩という名ではなかった。もし、彼が牛金の思った通りの人物であるのなら、立場上、今は名を伏せたいという気持ちもわかる。最近では、純白の愛馬に跨って悪を討つというその雄姿が、侠客達の間でも話題となっていた。
「……そうか。あれが―――か」
牛金は、そうひとりごちた。
新しい県長が赴任したという噂は、朗報を伴って、すぐに牛金の耳にも入って来た。赴任するや直ぐに、県長が左進だった頃に幅を利かせていた不正役人達を一斉に処分したのだという。同時に、帳簿を確認し、左進が過剰に取り立てていた分の税は今後の徴収から減じる、という告知もなされていた。
何かが始まった。牛金は訳もなくそう思った。