「将軍、起きているか?」
朝の修練をこなして、朝食まで作り終えると、曹仁は皇甫嵩を起こしにかかった。
「…………ああ」
「……」
「……」
「……入るぞ」
躊躇うことなく戸を開けると、曹仁は室内に踏み込んだ。目の前に広がる皇甫嵩の私室兼寝室は、脱ぎ散らかされた衣服と、読み散らかされた書簡と、飲み散らかされた酒器に溢れて、つまりは散らかっていた。
「…………うぅ」
寝台の上で皇甫嵩が身悶えた。はだけた服に、蹴り飛ばされた布団。それで肌寒いのか、皇甫嵩は自身の体温を逃がさぬように、何かを抱きしめるように体を丸めている。あられもない姿ではあるが、それも含めて、すっかり見慣れた朝のこの部屋の風景だった。
「……やっぱりか」
曹仁は自分でも無遠慮と感じる足取りで寝台に近付くと、手にした桶から水を一掬い、皇甫嵩の顔に滴らせた。
曹仁が洛陽へやって来て、3月ほどが経過していた。曹仁は皇甫嵩が洛陽に用意した屋敷に、彼女と2人で暮らしていた。角は屋敷暮らしは性に合わないと言って、町人達に混じって暮らしている。曹仁の元には1日1回は顔を見せに来る。
屋敷には家宰はもちろんのこと、使用人の1人も雇われてはいなかった。大功を立てた将軍の住む屋敷としては如何にもおかしな話であるが、1年の大半を任地や戦地で過ごすのだから必要ない、というのが皇甫嵩の言である。そうは言っても、皇甫嵩自身が台所に立って包丁を振るうことや、箒を手にすることはなかった。必然的に、家中のことは曹仁が1人担う事となった。家事や来客への応対に追われる中、皇甫嵩の調練に付き従う。それが曹仁のこの3ヵ月間の過ごし方だった。
とはいえ、気軽な2人暮らしであり、家事の方はさして負担ではなかった。広大な屋敷ではあるが、使用していない部屋に関しては荒れるに任せてしまっているのだ。問題は来客への応対である。燦爛たる功績を掲げた皇甫嵩に近付こうとする者は実に多かった。皇甫嵩の立場と天の御遣いという曹仁の存在を考えれば、客人への対応には誰か別の人間を当てるべきなのだが、本人にはまったく気にする様子がない。偽名を使うという曹仁の提案も、不要として却下されていた。
「おーほっほっほっ! 失礼しますわ。曹仁さんはいらっしゃって?」
「こんにちは、麗羽さん」
袁紹―――麗羽もそうして訪れる客人の一人だった。大将軍何進の使いとして、皇甫嵩を引き入れることが目的である。もっともその目的を持って訪れたのは最初だけで、最近ではすっかり目的がすり替わっていた。
「曹仁さん。例の件、考えて頂けたかしら?」
「何度も言っている通り、俺はまだ誰かの部下になるつもりはないよ。麗羽さん」
初めて屋敷を訪れたときには、何進の使者をやらされる事に対する不満がありありと顔に表れていた。名族の生まれである自分が、市井の出身である何進にいい様に使われることに耐えられない、といったところだろう。しかし、今では3日と空けずに顔を出していた。曹仁を部下に引き抜いて、華琳の悔しがる顔を見る。それが麗羽が皇甫嵩の屋敷を訪れる主たる目的となっているようだった。
麗羽は華琳とは幼馴染であり、曹仁自身も以前から面識がある。当時から熱心に引き抜きを受けていて、真名まで許されていた。曹仁自身、華琳に対して多かれ少なかれ劣等感を持っているので、麗羽のそうした気持ちも理解出来なくはない。
「あらあら、いくら私が名族の者だからといって、恐縮することはなくてよ。おーほっほっほっ!」
「そうだぜ、曹仁。名族の生まれって言ったって、姫自身はそんな大したもんじゃないんだからさ」
「猪々子さん、それはどういう意味ですの!?」
「あー、もう! せっかく曹仁を説得しようとしているのに、邪魔しないで下さいよ、姫。」
「ちょ、ちょっと、姫、文ちゃん! こんなところで喧嘩しないで下さいよぅ」
言い争いを始めた麗羽と文醜を、顔良が止めに入る。文醜と顔良の2人は袁家の二枚看板として名を知られた武将である。
「猪々子さん、あなた、私に何か不満でもありますの!?」
「そんなこと言ってないでしょう! 姫は態度はでかいくせに、細かいことを気にし過ぎなんですよ」
「キーッ! なんですって!」
「姫も文ちゃんも、どっちも落ち付いてよぅ。曹仁さんが呆れてますよ」
麗羽と文醜の口喧嘩はなかなか終わりを見せなかった。顔良が助けを求める様な視線をこちらに投げ掛けて来ている。洛陽を包み込む不穏な空気に反して、長閑な情景だった。
皇甫嵩は何進と十常侍のどちら側にも与する態度をとっていない。洛陽に張り巡らされている謀略の網は、今の曹仁には遠い所の出来事でしかなかった。唯一、何進の使いである麗羽の訪問がそれを感じさせるものであったが、最近ではこのような調子である。洛陽に来る前に胸に抱いていた漠然とした不安が、馬鹿らしく思えるほどであった。
「袁紹達は帰ったのか?」
「ああ」
結局麗羽は皇甫嵩に会うことなく、曹仁に言いたいことを言うと帰っていった。
「そうか。まったく、あやつは本来の目的を完全に忘れているな」
「なんだ? 何進に協力する気になったのか?」
「その気はない」
想像通りの簡潔な答えが返ってきた。
現在、皇甫嵩が洛陽守護の名目で抱える兵力は5千。大将軍の何進が率いる兵力は倍の1万であるが、練度という点では皇甫嵩の軍より遥かに劣るだろう。皇甫嵩の軍は黄巾の乱を戦い抜いた兵達の中から、さらに選りすぐった精鋭の集まりである。
洛陽に現存する兵力として他に挙げられるのは、まずは皇帝直属の西園軍(近衛軍)の1万。これは、皇甫嵩の軍にも匹敵する精鋭を集めて新たに作られた軍である。華琳や麗羽を含む西園八校尉に指揮権があるが、8人の筆頭は十常侍の1人蹇碩である。実質宦官側の勢力であると言っていいだろう。そもそも華琳に至っては、肩書きこそ有したままではあるが、洛陽内に存在すらしていない。
他に、執金吾の丁原などが率いる1千以下の部隊がいくつか。その大半は何進によって地方から呼び集められた者たちで、当然彼女に与している。
兵力で何進、練度で十常侍。2勢力の武力は拮抗していた。皇甫嵩が加わった側が、単純な武力では圧倒的に有利になるというのが現状だった。
「……前から気になっていたのだが、将軍はどうして何進に協力しないんだ? 外戚だからか?」
「そういうことは関係ない。何進はなかなかの人物でもあるしな」
「そうなのか?」
1度、麗羽と共に何進が屋敷を訪れたことがあった。応対の際に数語話しただけの曹仁には、派手好きで露出の多いねーちゃん、という印象しか残っていない。
「袁紹、あやつが何進本人の前だからといって、彼女にかしずくような態度をとっていると、お前は思うか?」
「……確かに」
麗羽に限らず、そもそも何進の元に集う者達の多くは、宦官だけでなく外戚に対しても強い反感を持つ、清流派と称する者達だった。何進はそれを、十常侍という共通の敵がいるとはいえ、一つにまとめ上げているのだ。それも、十常侍達と違い、恐怖によって下の者を付き従わせているという話も聞かない。出自が重要な意味を持つこの時代、この世界で、肉屋などと陰で罵られながらもそれだけのことをやっている何進には、何かがあるのだろう。
「見た目があれだから、ただの色物かと思っていた。……なら、それこそどうして何進に協力しないんだ?」
「やり方がな。洛陽に兵を集め、宦官を1人残さず皆殺しにしようとしている。それが気に食わない」
「あれ? 将軍は宦官に好意的なのか?」
曹仁には意外なことだった。曹仁自身は宦官から出た曹家の一員でもあり、宦官に対して悪意はなかった。だが、それはあえて悪意を持たないように努めてきた結果である。また、この世界に来たばかりの頃に数度会った、生前の曹騰が高潔な人物であったことも影響している。しかし、公正に見て、今の宦官が多くの人の敵意に晒されているのは、致し方無い事と言えた。特に、皇甫嵩は麗羽の袁家ほどの名家ではないとはいえ、代々朝廷に忠誠を誓ってきた一族の出である。当然、宦官に対して敵意を持っているものと曹仁は思っていた。
「好意的というのとも少し違うが。彼らには皇帝と宮中だけが全てと言って良い。それだけに宮中での権謀に腐心する者もいるが、忠心の塊のような者もいる。曹騰殿もそうだったと聞くぞ」
「確かにな。曹騰様は帝のために全てを捧げたような方だったな」
「それに私は幼い頃、梁冀の苛政を体験しているからな」
「あぁ、なるほど」
梁冀。立場で言えば今の何進とよく似ている。皇后の兄であり、それ故に大将軍の地位にまで登った人物。当時の幼帝を毒殺までしながら、その後も10年以上も専横を振るった、権力の怪物。その間、政事は梁冀の私邸でこそ行われ、朝廷はただの飾りに成り果てたのである。怪物の最後は、起ち上がったわずか5人の宦官の手によるものだった。そう、宦官は皇室にとって最後の楯とも成り得るものなのだ。
そうした忠義の者達まで殺してしまうのは忍びない。つまりはそういう事のようだった。戦場では勇猛にして果敢でありながら、皇甫嵩にはそういうところがあった。大義よりも情義を重んじてしまうようなところが。それは皇甫嵩の欠点でもあるのだろうが、それが故に曹仁は彼女を好きだった。
白鵠の嘶きで曹仁は目を覚ました。外はまだ暗い。深夜と言っていい時間である。
すぐに曹仁も異変に気が付いた。
曹仁はこの世界の住人より遥かに、気配や殺気といったものに対して鈍感であった。曹仁自身と同程度の力量を持つ武人と比べれば、雲泥の差があると言っていい。それは、平和な、少なくとも曹仁自身の周辺では戦や命を失う様な争いのない世界で生まれ、そこで幼年期を過ごしたことによるのだろう。しかし今回の相手は初めから潜む気がないのか、耳を澄ますとわずかに物音のようなものまで聞こえてきた。白鵠の声には危険を知らせるような響きはなかった。曹仁は枕元の小刀を手に取ると、音を立てないようにゆっくりと部屋を出た。
気配を辿って廊下を歩くと、決して小さくない物音が耳に届くようになってきた。音がするほうに、さらに足を進める。
「「「「あっ」」」」
正面から行き逢った。
「……お、おーほっほっほっ。お邪魔していますわよ、曹仁さん」
「よう、曹仁。邪魔してるぜ」
「ふ、二人とも、声が大きいよぅ」
少しばつが悪そうにしながらも大笑する侵入者と、能天気に挨拶してくる侵入者を、1人慌てた様子の侵入者が押し留めていた。
曹仁と皇甫嵩は3人の話に耳を傾けた。詔勅によって麗羽の屋敷は官軍の包囲を受け、顔良、文醜の奮戦でもって辛くも逃れてきたらしい。何進の状況は3人も把握出来ていないらしいが、麗羽に兵を向けたということは、既に討たれたか、同じく兵に包囲を受けているかだろう。
「あんなもの、偽勅に決まっていますわ! 夜が明け次第、宮中に赴いて直ぐに撤回させてみせますわ!」
「偽勅であっても勅は勅だ。行けば抗弁の機もなく、有無も言わせずに首を刎ねられるぞ」
「うぅっ」
皇甫嵩の冷静な返しに、麗羽が色を失った。
――――その時だった。曹仁の耳に、再び白鵠の嘶きが届いた。
「…………」
「どういたしまして?」
無言で立ち上がった曹仁を、麗羽が怪訝そうに見つめた。
「お客さんみたいだ」
「お客さん? こんな夜中に、失礼じゃありませんこと?」
深夜の不法侵入者の発言には目を瞑って、曹仁は皇甫嵩に目をやった。今の白鵠の声には、先ほどには無い警戒の響きがあった。
「…………3人共、この部屋から絶対に出るなよ」
皇甫嵩は立ち上がると、戸口へと向かった。曹仁は皇甫嵩を守るように一歩前に出て、共に戸口に向かう。3人を見捨てるつもりはなかった。それは皇甫嵩も同じなのだろう。
戸の前まで行ったところで、曹仁は不安を感じて1度振り返った。
「顔良さん、くれぐれも、2人が出て来ないようにしっかり見といてくれよ」
一度念を押して、外へ出た。廊下に面した中庭で白鵠が待っていた。その口に咥えられた槍を受け取る。穂先は修練の時にはずして、そのままになっていた。
「軍が動いている気配はしないな」
皇甫嵩の言葉に辺りを窺う。確かに大勢の人間が動いているという気配はない。高度に訓練された精鋭の部隊であれば、自分と皇甫嵩を欺くことは不可能ではないだろう。しかし。
「…………」
曹仁は白鵠の首筋に手をやって、その視線を辿った。その向かう先は、屋敷の外ではない。もっとずっと近い。
「……将軍はここで待っていてくれ」
白鵠に跨る。鞍は付いていないが、特に問題はない。戦場以外では、付けずに乗ることも多いのだ。白鵠がゆっくりと歩を進めた。
庭の中ほどまで来た。曹仁にはまだ何の気配も感じられない。曹仁は周囲を探るのを止め、目をつぶった。白鵠と意識を通わせることだけを考える。白鵠はゆっくり、しかし淀みなく歩を進めていく。
白鵠が足を止めた。すでに曹仁と白鵠の呼吸はぴったりと合致していた。曹仁は閉じた目もそのままに、槍を突き出した。
硬く重いものを打つ、鈍い音が尾を引いた。槍が流れ、体勢がわずかに崩れる。すぐさま槍を引いて構え直しながら、曹仁は目を開いた。
「他人の家に勝手に上がり込むとは、何者だ?」
「……」
目の前には1本の大木とそれを囲む灌木。灌木の中、こちらの言葉に何の反応も示さずに、1人の男が立っていた。男の両腕の肘から先は、丸みを帯びた巨大な鉄甲で覆われていた。その鉄甲を構え、上体のほぼ全面の防御を固めている。鉄甲の持つゆるやかな曲線が、曹仁の槍の軌道を自然と外に逸らしたようだ。鉄甲の拳側には爪を模したように、刃が5本並んでいる。
「……!」
男は無言のまま踏み込むと、鉄甲を振るった。狙いが低い。まずは白鵠を討ち、馬上の利を奪うつもりか。曹仁は槍を地面に突き立てて、1撃目を防いだ。続く2撃目は白鵠が自ら1歩下がって透かす。
下がりながらも跳ね上げた槍の、穂先のないその先端が、男の顎を捉えた。男の顔が苦痛に歪む。一瞬の間を置いて、ふらりと男の体勢が崩れた。そのまま数歩、定まらない足取りで後退する。曹仁は白鵠を前に出した。槍を繰り出す。
「!」
瞬間、白鵠の馬体が沈み込むように動いた。曹仁は咄嗟に、繰り出した槍を途中で引き戻すと、そのままの動きで上方の虚空を払った。金属を叩く冷たい音が耳に、軽い反動が腕に響いた。
「気付いていましたか」
大木の葉が生い茂った辺りから、声がした。
「俺じゃなく、こいつがな」
曹仁は白鵠の鬣を梳く様に撫で付けながら答えた。自身の意思ではなく、白鵠に振らされた一槍だった。
大木から影が一つ躍り出た。それは音も無く地面に降り立つと、人の形をとった。その形には、本来あるべきものが欠けていた。
隻腕のその男は、鉄甲の男の隣に並んだ。鉄甲の男は、最初に潜んでいた潅木に倒れこむ様にして、何とか立った姿勢を維持している。
「申し訳ない。皇甫嵩殿の屋敷に用があったわけではないのです」
隻腕の男が言った。
「そちらの男は、抗弁も無しに襲いかかってきたが?」
もっとも先に手を出したのはこちらだが、と曹仁は心の中で付け足した。
「この男は耳が聞こえないのです。貴殿の誰何の声も届いてはいません」
言って隻腕の男は、鉄甲の男の方を向いて、口を動かした。声は出ていないのでその内容までは分からないが、隻腕の男の口が止まると、鉄甲の男は曹仁に向けてひとつ頭を下げた。少しは回復したのか、その動きからはぎこちなさが抜けつつあった。鉄甲に隠れて、先ほどの曹仁の口の動きは見えなかったということか。
「で、お前たちは何者だ?」
「言えません。しかし、そちらにおわす皇甫嵩殿には、想像がついているのではないですか?」
隻腕の男の視線が、廊下に立って、事の成り行きを見守っていた皇甫嵩を捉えた。曹仁はその視線を遮り、男と皇甫嵩の間に来るように、白鵠を動かした。
「では質問を変えよう。如何な用があってこの家に侵入した?」
「この屋敷に、袁本初殿が参ってはいませんか?」
「袁本初? ああ、麗羽さんか。こんな真夜中に来ているわけがないだろう」
「先ほど貴殿ら2人が出てきた部屋を見せて頂きたい」
我ながら悪くない演技だったのだが、隻腕の男は全くひるむ様子もなく、歩を進めてくる。曹仁は横を抜けようとする男の進路を、槍で塞いだ。
「……皇甫嵩殿」
男は槍を持つ曹仁ではなく、皇甫嵩に向け批難する様な視線を送った。
「すまんが、室内は少々乱れていてな。人様に見せられるような状況ではないのだ」
「我らを敵に回すおつもりですか?」
「深夜に無断で屋敷に侵入し、男女が共に過ごした寝所を覗かせろとは、無礼にも程があるのではないか?」
「…………」
「…………」
2人の間に緊張感が走った。曹仁はただ、男の隻腕のその腕を注視した。行く手を塞ぐ槍を片手に、もう片手は腰に差した小刀に添えてある。妙な動きを見せれば即座に斬り伏せる心算だった。
「我らも、ただ帰るというわけにはいきません」
「……たったの2人。それとも、もっと伏せっているのか? どちらにせよ、この私の、皇甫義真の男に、勝てると思うのか」
「…………」
男が曹仁へと視線を移す。曹仁は余裕有り気に、微笑んで見せた。実際には二人が連携して攻めてくれば、なかなかの難敵であると言わざるを得ない。
「後悔しますよ、皇甫嵩殿」
「さて、それはどうかな?」
「……我らはこれで失礼いたします」
男は踵を返すと、鉄甲の男を手振りで促し、駆け去った。まるで獣か何かのように、軽々と塀を乗り越え、闇の中にその姿が消えた。
「…………………………で、奴らは何だったんだ?」
白鵠が警戒心を解くまで、しばしの間を置いてから、曹仁は尋ねた。
「隻腕と、もう一人は耳が聞こえないのだったな?」
「ああ。そっちの男は、手首から先も無かったな」
鉄甲に覆われた両腕の欠損を、先ほどの攻防で曹仁は見て取っていた。武器をその手に持てないが故の、あの鉄甲なのだろう。
「ふむ。……恐らくは、残兵」
「残兵? なんだ、それは?」
「そういう名の、負傷兵ばかりを集めた部隊があると言う話しを聞いたことがある」
「部隊? 官軍のか? あんたが知らない部隊なんてあるのか?」
「官軍ではない。張譲の私兵部隊だ。それも、唯の軍隊ではなく、暗殺専門の部隊だという話だ」
「っ! 張譲の……」
張譲。先帝から我が父とまで言わせしめた、十常侍の筆頭である。ある程度覚悟していたことではあるが、これで皇甫嵩は反宦官反十常侍の者と見られることとなる。それも、十常侍と対抗できるだけの権勢と、彼ら以外で唯一帝を動かし得る力を持つ何進は、既に亡いかもしれないのだ。
「こうなると、何進には是が非でも生き延びていて欲しいものだな」
そんな期待を、特に何ということもないという調子で、皇甫嵩が口にした。
「……はぁ、あんたの慌てた顔ってやつを一度ぐらいは見てみたいもんだな」
曹仁は本心からそう返した。
何進とその与党の首が市に晒されたのは、翌日のことであった。