正面には恋が率いる騎馬隊500。恋を先頭にして楔形の陣形を取っている。曹仁が率いているのも同じく騎馬隊500。隊形も同じく楔形である。
恋が駆けた。真正面から向かってくる。騎馬隊も楔形を維持したまま一斉に動き始めた。
「よし、行くぞ」
曹仁も白鵠を走らせた。こちらも陣形は崩さず、そのまま突き進む。まずは正面からのぶつかり合い。それで力を測る。
先頭同士、曹仁と恋の距離が縮まる。馳せ違う瞬間、白鵠が、続く騎馬隊に合わせて抑えていた速度を一気に爆発させた。その加速を槍に乗せて突き出す。白鵠との連携の妙でもって相手の虚をつく、曹仁のし得る最高の一撃だった。しかし、恋はやはりその上をいく。彼女の想像を超えたものであるはずの速度と威力を前にして、わずかに体勢を崩しながらも、しっかりとそれを跳ね除ける。曹仁は速度を落とすことなく、その横を駆け抜けた。そのまま、続く騎馬隊の中に躍り込む。
500同士全隊が馳せ違った。
そのまま少し走って、半円を描いて反転する。自軍を眺める。馬だけになったものが30頭ほど。恋の率いる500に目を向ける。あちらは10騎ほどしか失っていない。そのうち3騎は曹仁が自ら打ち落としたものだ。両軍の中央付近に、馬を失った者たちがいた。やはり40前後。死者は出ていないようだ。他の者に肩を借りている者もいるが、全員が自分の足で立っている。そして、戦いの邪魔にならないように丘の方へと歩いていく。
曹仁と恋の2隊に分かれての騎馬隊同士による模擬戦。その最初の衝突は恋に軍配が上がった。
曹仁と恋、2人が率いているのはどちらも皇甫嵩旗下の騎馬隊であり、本来持っている力に差はない。地形は高低差のほとんどない平地。ただし少し離れた所に小高い丘がひとつ。馬を失った兵たちが向かった先だ。そこに皇甫嵩が歩兵4000を布陣して、文字通りの高みの見物を決め込んでいる。
洛陽に来てからの騎馬隊の調錬では曹仁が率いることが多かった。だから、隊としての能力は手に取るようにわかっている。また、兵達も皇甫嵩の客将に過ぎない曹仁を、共に黄巾の乱を戦い抜いたこともあってか、慕ってくれている。そこは恋より曹仁がはっきり有利な点だ。
副官として曹仁には角が、恋には音々音が付いている。ただし、音々音は戦闘そのものには参加せずに、声が届く、そう遠くない距離に控えて、軍師として恋に助言を与える役に徹するようだ。騎馬隊同士のまともなぶつかり合いともなれば、軍師が策を弄する余地はほとんどない。副官として勇猛の士である角を連れていることも、曹仁に有利だった。
恋の隊に、動く気配は無い。馬を失った者たちがある程度離れるまで待つつもりだろう。曹仁にも異存は無い。死者が出ていないのは、よく訓練されている証しだった。騎馬隊同士で模擬戦をすれば、落馬と、後続の馬による死者は、どんなに注意したところで出てしまう。馬からの落ち方と、迫る馬群から身をかわす術に長けることも、無事に一人前の騎兵になる上で大切なことだった。乗るものを失った馬達にも怪我は無さそうだ。調練ではよほどのことが無い限り、馬同士のぶつかり合いまではさせない。馬と馬が掠める様な距離をお互い駆け抜けたのだ。
「兄貴」
角が後方より馬を寄せてきた。最初のぶつかり合いに限り、殿について全体を把握するように命じていたのだ。
角からの報告では、こちらの被害30のうち、10以上は恋の手に掛かっていた。曹仁の奇襲の一撃で体勢が崩れていなければ、その数はもっと増えていただろう。しかし、それを差し引いても被害に差が有り過ぎだった。恋が率いることで隊自体が強くなっている、そんな感じだった。
曹仁は騎馬隊を2つに分けることに決めた。特に動きの良いもの50騎と、残る約400騎。50騎は曹仁自身が、400騎は角が率いる。今回の模擬戦の勝敗は、将か、もしくは兵の半数を討ち取ることで決する取り決めである。飛将軍呂布と兵250。狙うべきは兵だろう。500騎全てで当たったところで、恋を討ち取れるとは曹仁には思えなかった。恋をまともに戦わせないこと。それが勝つための絶対条件だった。
「うぅむ」
丘の上から騎馬隊の調錬を見つめる皇甫嵩は、思わず感嘆の声を漏らした。恋に対してである。
もちろん曹仁も悪くない。どころか、皇甫嵩が目にして来た騎馬隊の指揮官の中でも、最上の一人と言っていい。敵として騎馬民族である羌族を見、彼らに対するため精強な騎馬隊を有する涼州の官軍に身を置いた皇甫嵩がそう思うほどである。それが、本格的にこの軍を率いたのは初めてといっていい恋に押されていた。正面からの単純なぶつかり合い。それだけに隊列の組み方、そしてそれを動きの中で如何に保つことが出来るかという、地力の部分がものを言う。それは本来、調練を繰り返す中で築かれていくものだ。しかし恋の隊に綻びは見られなかった。それどころか、恋が先頭にいる、ただそれだけで隊としての強さが跳ね上がったようだった。
「……今」
「ん? 何か言ったか、順」
隣からの呟き。真新しい衣服に身を包んだ高順がそこにいた。馬に跨るその姿に危ういところはない。本人は記憶にないと言っていたが、恐らくかつて馬術を習ったことがあるのだろう。存外良い家の生まれなのかもしれない。曹仁の教育で、人とも獣ともとれないかった高順は、急速に人間らしさを身に付けつつある。あるいは、取り戻しつつあると言うべきか。
「今行けば、恋さんの勝ちだ」
高順がもう一度口を開いた。言われて皇甫嵩は、曹仁の隊へと視線を移した。そこにわずかな緩みが生まれていた。隊形を微妙に変化させているようだ。正面の恋からは気取られない様な動きだ。丘の上の高みからでも注視して初めて気付く程度である。少なくとも調練を初めて目にする人間が気付くような変化ではない。
「ほお」
皇甫嵩の口から再び感嘆の声が漏れた。恋の隊が今、先ほどの勢いでぶつかれば、確かに曹仁の隊の対応は遅れ被害は甚大だろう。高順は誰に何を教わるでもなく、それを見て取ったということか。戦感がある。皇甫嵩にはそう思えた。
高順は軍人に興味を持っているようだった。軍人に囲まれて生活を送っているのだから、それも必然と言えた。曹仁は高順を軍人にはしたくないようだった。皇甫嵩が許可し、高順が願っても、調練に連れてくることには反対をしていた。結局は1人で家に残すのはかわいそうだという恋の思いに折れたが、納得はしていないようだった。高順が戦争で家族を失ったことが気に掛かっているのだろう。侠客の真似事の様なことをしているかと思えば、存外細かいところのある男なのである。
調練場に動きがあった。恋の隊は先ほどと変わらず真っ直ぐに前進。曹仁の隊も同じだが、駆けながら前後2つに分かれていく。無理のない動きだった。恐らく前の隊に良い馬と、その扱いに長けた者を集めたのだろう。前は50騎ほどで、小さくまとまっている。後ろの400ほどは逆に少しずつ散って広がっていく。
ぶつかる瞬間、曹仁の50騎がさっと進路を変えた。くさび型の恋の隊の外側を擦る様に、斜めに駆け抜ける。続く400騎はそのまま真っ直ぐ駆けたが、さら散ってほとんどすり抜けるように恋の隊と馳せ違った。双方被害なし。
曹仁の50騎が、いち早く反転し、恋の隊に向かった。切り離した曹仁自身の400騎や恋の500騎とはやはり動きが違う。騎馬隊の動きはどうしても最も動きの悪いものに合わさざるを得ない。そうしなければ隊としての力を失ってしまうのだ。恋の隊が反転して対応しようとするも、間に合わない。曹仁の50騎が斜め後ろから突っ込んだ。そのまま真っ直ぐに駆け抜けて、恋の隊が2つに断ち割られる。分断された一方、恋のいる300騎ほどは曹仁の50騎に追いすがった。しかし、馬の差は大きい。2つの集団の距離は徐々に広がっていく。そして残された200騎。未だ混乱が収まらず、率いる者もないその集団に、牛金の400騎が襲い掛かった。
直ぐに気づいた恋が、引き返して残る兵を吸収したが、50騎ほどは失っている。
「仁兄、すごい」
隣で、高順が興奮を隠しきれないという表情で、馬から身を乗り出すようにして訓練場に見入っている。
曹仁の隊は、変幻に動き回っては、恋の隊のかく乱を続ける。そうして出来た隙を突いて、牛金が突撃を掛ける。恋が後手後手に回らされている。牛金の用兵も悪くない。曹仁や恋のような鋭さは無いが、その分だけ厚みのある用兵とでも言うところか。案外、歩兵を率いさせれば2人以上にうまく扱うかもしれない。
自分が恋なら、と皇甫嵩は考えた。こちらも2隊に分ける。それが最も無難な手だった。しかし、曹仁と違って兵を把握し切れていない恋では、状況に適した2隊に分けるのは難しいだろう。それに、そうして出来たもう1隊を率いる指揮官もいない。騎馬隊は100騎ずつ組み分けされ、それぞれに長となる者がいるが、牛金ほどの指揮は望むべくもない。音々音もそれが分かっているから、その指示を出せずにいるのだろう。ならばどうするか。
「皇甫嵩将軍」
思案に耽る皇甫嵩に声が掛けられた。歩哨に当たらせていた隊の者だ。調練中、こうして軍を1ヵ所に留まらせる場合は、歩哨の兵を立て、斥候も放つ。それも大事な調練のひとつである。
皇甫嵩は、慌てた様子のその兵に手振りで先を促した。
勝てる。曹仁はほとんど確信に近い思いを浮かべた。恋の隊は数を減らし、残りは350騎ほどだろうか。曹仁の隊はまだ400騎以上は残している。特に曹仁自身が率いる50騎はほとんど欠けずに残っていた。正面を避け、常に自分達に有利な位置取りから攻撃を掛ける。それで、恋の力を抑えきっていた。
恋の隊が、角の隊を目掛けて駆けた。兵力は同程度だが、角は無理をせずに隊を散らしてやり過ごす。駆け抜ける恋の隊の、無防備な横合いから曹仁は突撃を掛けた。再び恋の隊を分断する心算だった。
一瞬、恋と目があったような気がした。直後、恋がこちらに向けて強引に馬首を返した。曹仁の隊と真正面からぶつかる、その形に持っていこうと言うのだろう。しかし、そのためにはほとんど直角と言っていいほどの急な方向転換が必要なのである。
さすがにそれは無理だ。騎馬隊の力量を把握する曹仁にはそのことが良くわかっていた。
見事な馬術で恋が曲がりきる。それは予想していたことだった。恋一人ならば、隊を分けて避けることも容易だ。そして、避けたその先には無理な動きに隊列を乱した騎馬隊があるはずだった。
「っ! 全員、散れっ!」
そんな曹仁の思いを裏切る様に、恋の後に続々と騎兵達が随った。そのまま、さして隊列を崩すこともなく向かってくる。曹仁はありえないものを見る気分で、その様を眺めた。続々とこちらへと向きを変えていく、その瞬間の動きが曹仁の眼を惹いた。馬の動き。まるで馬が自らの意思で持って曲がってくる。そんな動きだった。ありえないことだ。その考えが、恋ならあるいは、という思いに押しやられていく。
恋が真っ直ぐ曹仁目掛け駆けてくる。散るのが間に合わない。350騎と50騎のまともなぶつかり合いとなった。
曹仁は汜水関の城壁の高みから、眼下の軍団を眺めた。兵力は約10000というところだろうか。
隣では皇甫嵩、恋、音々音も、同じようにその軍容に視線を送っている。高順も付いてきたがったが、さすがにそれは許可出来なかった。曹仁が言うと、渋々ながらも高順は帰路に付いた。初めの内は恋の言う事しか効かなかった高順も、今では曹仁と皇甫嵩の言葉にも従うようなっていた。音々音とはそりが合わないのか喧嘩ばかりしているが、以前のようにいきなり噛みつくという様なこともない。幸蘭が自分や蘭々に対して行う躾を模倣した、曹仁の高順に対する教育は劇的な効果を上げていた。曹仁は幸蘭に対する畏敬の念を、敬意とそれに倍するほどの畏怖を、新たにしたのだった。
曹仁と恋の模擬戦の終幕はあっけなく訪れた。核となる50騎の大半を失った曹仁が攻め手を欠き、恋が勢い付いたところで、終了の鐘は鳴らされたのだ。救援を求める汜水関からの急使と行き会ったためだ。皇甫嵩は朝廷の指示も待たずに、すぐさま進軍を開始した。洛陽守護という本来の任務に沿った行軍である。汜水関は外敵から洛陽を守る関所の一つであり、その様相は城砦と言って良い。左右の切り立った崖は迂回を許さず、真正面からの攻城以外の道を相手に与えない。さらに、たとえ汜水関を抜けたところで、その先にはそれ以上の堅固さを誇る虎牢関が待ち受けている。南北を山に囲まれ、東に虎牢関、西に函谷関、加えて漕運(水上運搬)による食糧確保の容易さ。漢王朝の首都洛陽は、まさに攻めるに難く守るに易い、要害の地であった。
軍団に動きはない。風にたなびく旗だけが、唯一動いていた。“董”と大きく書かれた牙門旗。そう、目の前に布陣する軍は、あの董卓が率いるものであった。
董卓軍10000の内の4000ほどを占める騎馬隊も、身じろぎ一つせずに、兵馬共に良く訓練された部隊であることを誇示していた。騎兵の割合が高いのは涼州の軍の特徴である。野戦での強さは官軍随一と言っていいだろう。曹仁が言うまでもなく、皇甫嵩はその強さを誰よりも熟知しているはずだった。とはいえ騎馬隊という兵種自体が城攻めには無用の長物である。
騎馬隊、特にその中核と思われる一団が、こちらに向けて前進を始めた。500ほどが一糸乱れぬ足取りで進んでくる。まさに精鋭だった。これが董卓か。馬術を好み、騎射を良くするという、武人としての高い技量は曹仁の耳にも聞こえている。また、黄巾の乱の鎮圧で諸将が功を競う中、一人静観を決め込み、力を蓄えたと言う。一筋縄でいく相手ではないだろう。
騎馬隊がぴたりと一斉に止まった。そこからさらに城壁近くまで進み出てくるのは、わずか3騎。真ん中にいるのが董卓か。想像していたよりもずっと小さく、遠目にも儚げな印象を受ける少女だ。しかし、その少女が洛陽の民を地獄に叩き落すかもしれないのだ。
「開門っ!」
突然響いた声に曹仁が見やると、いつの間に城壁から降りたのか、皇甫嵩が城門前でただ1騎開門を待ち受けていた。
「……まったく、あの将軍は。恋、いざという時の指揮は頼むぞ」
言い捨てて、曹仁は城壁を駆け下りた。白鵠がすぐに駆けよって来る。
「将軍!」
「どうした?」
「前にも言っただろ。一人で前に出るような真似は寄せ」
「ふむ。なら付いて来るか?」
「当たり前だ」
開け放たれた城門を、皇甫嵩と二人抜ける。
相手も官軍の将軍格の者の一人だ。本来ならば心配など無用なのだが、董卓の名は曹仁を警戒させるに十分なものであった。
軋みを上げて、背後で城門が再び閉ざされた。董卓軍の騎馬隊との距離を思えば当然のことなのだが、これでいざという時に城内に逃げ込むのが困難になったのも事実だった。如何な精鋭が相手でも、自分だけ―――自分と白鵠だけならば、逃げ切る自信が曹仁にはあった。しかし、皇甫嵩を守りながらとなると難しい。緊張感が高まる。
董卓の顔がはっきりと見えてきた。遠目の印象を裏切らず、触れれば壊れてしまうそうな、はかなげな少女だ。こちらを圧してくるような威圧感もない。董卓。専横を振るい、暴虐の限りを尽くした人物。三国志の知識に乏しい曹仁でも知っている、歴史上の人物。自身の住まう洛陽の人々の顔が脳裏によぎる。じわり、と曹仁の心に殺意にも似た思いが湧き起こった。その思いを振り払うように、曹仁は視線を移し変えた。
彼女の左右には一歩遅れて、対照的な2人が付き従っている。
左には、彼女と似たような背格好の少女。眼鏡を掛けた、その下の表情は険しい。具足の類は身に着けず、文官風の衣装に身を包んでいる。
右には中肉中背の男。曹仁と同じか、少し年上だろうか。2人の少女とは異なり、しっかりと具足を着込み、槍を手にしている。男の表情からは特に張り詰めた様子は見られない。しかし、その全身からは強烈な威圧感が放たれている。その向かう先が自分であることに曹仁は気付いた。
皇甫嵩と曹仁、董卓と2人、両者の距離が近付いていく。白鵠の一跳びで槍が届く、その間合いに董卓が入る寸前、男が速度を上げて董卓の横に並んだ。そのまま距離は詰り、馬同士の鼻面がぶつかり合う様な近さまで近付いた。曹仁の中で緊張感がさらに募っていく。
「久しいな、月」
「はい、お久しぶりです、皇甫嵩さん」
「は?」
緊張感を覚えていたのは曹仁だけだったのか、皇甫嵩は親しみの篭もった声を董卓に掛けた。対する董卓も、嬉しげな表情で返す。
「お久しぶりです、皇甫嵩殿。…………詠、お前も挨拶をしないか」
槍を手にした男も恭しく頭を下げた。そして、不機嫌そうな顔で横を向いている眼鏡を掛けた少女を促した。
「ふん。久しぶりね、皇甫嵩。黄巾賊討伐での活躍は、涼州まで聞こえているわよ」
視線を合わせないままに、その少女も一応の挨拶の言葉を口にした。
「詠に、照、二人も変わりないようだな」
皇甫嵩が鷹揚に頷き返す。そのまま積もり積もった話でも始めてしまいそうな空気である。
「……あのぅ、皇甫嵩さん。そちらの方は?」
何となく居づらさを感じていた曹仁に救いの手を差し伸べてくれたのは、董卓と思しき少女だった。皇甫嵩からは月と呼ばれていた。おそらくそれが真名なのだろう。周りに気配りの出来る、良い子だった。
「おお、すっかり忘れていた。こいつは私のところで家宰をしている、曹仁だ」
「家宰? 家宰がどうしてこんなところに?」
「食客だ。もしくは客将。ついでに弟子と言えなくもない」
眼鏡の少女の当然の疑問に即座に答えを返す。皇甫嵩と男からは詠と呼ばれていた少女だ。というか、将軍。音々音だけでなく、あんたまでそう思っていたのか。……家宰とは家長に代わって家政を取り仕切る者のことで、早い話が使用人頭に近い。
「そういえばそうだったな。で、そっちのさっきから小生意気そうなのが、賈駆。……考えてみると、曹仁、お前の姉弟子だな」
「ふん。ボクはあんたなんかに弟子入りしたつもりはないわよ」
その言葉に本気で否定するような響きはなかった。皇甫嵩の弟子。鎧も付けていないことを合わせて考えると、董卓軍の軍師といったところだろうか。不機嫌そうにしているが、皇甫嵩との再会を喜んでいるようでもあった。そして、曹仁の人生初となるボクっ娘との遭遇であった。
「なによ、じろじろ見て」
「いえ。……曹子孝です。よろしくお願いします。えっと、……賈駆姉さん」
「ふ、ふんっ」
一瞬悩んだ末、年下とも思えるその少女に、姉さんと呼び掛けた。同門の姉弟子に対する呼び方だ。賈駆は満更でもないといった表情で口を噤んだ。
「で、そっちの男が張繍」
皇甫嵩が、楽しそうに賈駆を見遣る視線は動かさずに、男を指差して言った。
「張繍です。よろしくお願いします」
「曹仁です。こちらこそよろしくお願いします」
挨拶を交わし終えると、自然と視線はお互いの得物に吸い寄せられた。張繍は明らかに曹仁を警戒しているようだった。賈駆と挨拶を交わした先ほどから、肌を刺すような視線がぶつけられていた。曹仁が董卓に対して一瞬抱いた、殺意にも似た感情に気付いたのだろうか。
張繍の槍は柄の部分に金属を巻いて補強されている。戦場での戦いを何よりも重視した、実戦的な武器であると言っていい。本質的には、槍は遠間から突く為の武器である。しかし戦場においては、叩く為の武器として扱われることがほとんどだった。具足を身にまとった多数を相手にする場合、そうした方がずっと効率がいいのだ。必然的に戦場で振るわれる槍は太く、重量のあるものが良いと言うことになる。
対して曹仁の槍は、柳の一種で良くしなる白蝋の幹をそのままに、先端に小さな穂先を付けただけのものだった。曹仁の槍術は、戦働きではなく、1対1で強者を負かすため磨かれたものである。その場合、槍は本来の使い方、突く為の武器として扱われることとなる。突くためには重さは邪魔にしかならない。
もう一つ、腰に佩いた剣に、曹仁は視線を移した。槍を持つそのもう一方の手が、そっとその柄に添えられている。槍とは対照的に剣は薄く、細い。戦場で振るって具足にでもぶつかれば、角度によっては一度に折れてしまってもおかしくはない代物だった。だが、それだけに剣速は侮れないものがありそうだ。1対1の勝負で、用心すべきはむしろこちらだろう。
「…………」
「…………」
お互いがお互いを探り合う、妙な沈黙が流れた。
「…………へ、へう。わ、わたしは」
2人の間に流れる不穏な空気を変えようとしてか、月と呼ばれていた、董卓と思しき少女が割って入った。やっぱり良い子だ。
「彼女が董卓だ」
少女の後を次ぐ様にして、皇甫嵩が言った。やはり、この子が董卓。
「よろしくお願いします、曹仁さん。皇甫嵩さんとは、以前何度も一緒に戦わせてもらって、それ以外でもよく御世話になっています」
董卓は、礼儀正しく一礼すると、にっこり微笑んだ。天使の様な、そんな形容が似合う女の子だった。少し儚げな印象が、月という真名によく似合っている。彼女が董卓とは俄かには信じ難い話だった。しかし、董卓と言えば確か呂布と共に都で専横を振るった人物だったはず。登場人物は揃い、場所も合っている。状況も整いつつあると言っていいだろう。
「? どうかしましたか、曹仁さん?」
当惑が顔に出ていたのか、董卓が怪訝そうに尋ねてくる。張繍がその隣で油断なくこちらを窺っている。
「えーと、…………そう! 将軍はあなた達のことを真名で呼んでいるみたいですが、あなた達の方からは呼んでいないのですね」
曹仁は苦し紛れに、何となく引っ掛かったことを聞いてみた。思い返してみると、恋や音々音に対してもそうである。師弟関係や役職上の上下関係で、下の者が一方的に真名を許すというのは珍しいことでもないが、皇甫嵩の性格上それは考えにくい。
「へ、へう。そ。それは」
「ま、まあ、そんなことはよいではないか」
「将軍?」
「あら、皇甫嵩。弟子なんていってるのに、ひょっとして曹仁に真名を教えてないの? 駄目よ、ちゃんと教えなきゃ」
賈駆が妙に楽しそうに言った。事実、曹仁は皇甫嵩の真名をまだ知らなかった。皇甫嵩との関係の近しさを考えれば、とっくに真名を許されていてもおかしくはない。しかし、自身に真名がないため、曹仁には自分から真名の話を切り出すという習慣がなかった。また、恋と音々音の真名は気付いた時には呼んでいたし、高順に至っては真名を覚えていなかった。親からも順と呼ばれていたと言うから、あるいはそれが真名で、名は別にあったのかもしれない。
「別に必要ないだろう。呼び方なんて、相手の特定さえ出来ればいいのだからな」
「いや、出来れば教えてほしいな。もう4ヶ月近くも一緒に暮らしてるんだしな」
賈駆から送られる意味深な視線を汲み取って、曹仁は言った。彼女とはなかなか良い姉弟関係を築けそうだ。
「うっ」
「もうほとんど家族みたいなもんだろう? 頼むよ、将軍」
「ううっ。……………………………………………………………………………………みあ」
「みゃー、いや、みあか。なんだ、そんなに変な真名でもないじゃないか。ちょっと猫っぽいけど。字はどう書くんだ?」
「……………………………………………美辞麗句の美と、偏愛の愛で、みあ」
「ええと、……美愛、か。…………美しい、愛」
「……言うな」
印象の悪い言葉をあえて選んだのだろうが、それで誤魔化せるものでもなかった。つまり、その真名で呼ばれるのが恥ずかしくて、教えはしても呼ばせはしないということの様だった。いや、良い真名だとは思うのだが。
「で、どうするつもりだ、詠? いかにお前の頼みと言っても、ここは通すわけにはいかんぞ。見たところ、攻城の用意も碌にしていないようだが、この私が指揮に当たる、この難攻不落の汜水関、どう抜けるつもりだ?」
皇甫嵩が何事もなかったかのように、話を本題に移した。しかし、その頬はやや紅潮したままだ。賈駆はまだまだからかい足りないとばかりに、少し不満そうにしながらも口を開いた。
「力押しだけが軍師の仕事ではないわ。外から開けられないなら、中にいる連中に開けさせればいいだけのことよ」
「ほぅ。……よく見ておけよ、曹仁。この姉弟子はいやらしい影働きをさせたら右に出る者はいないぞ」
「ふん。なんとでも言いなさい。―――――――ちょうど来たようね」
賈駆の視線を追って、曹仁は城門を振り返った。賈駆の言葉通り、中からゆっくりと城門が開いていく。開いたその先には、華美な車と、それを囲む同じく華美な衣装を身にまとった者達の姿があった。集団の中で、1本の旗が翻っている。それは天子直々の使者であることを表す、節であった。