200人の兵士を、10隊に分けて警邏をさせた。そのうちの一隊を愛紗は自ら率いた。自分が警邏をすると、兵はもちろん、民にもわずかに緊張が走るのが愛紗にはわかった。これが桃香ならば、民は気安く話しかけてくるのだろう。それを少し寂しく感じながらも、こうして全体を引き締めるのは、自分にしか出来ない必要な役割である。主である桃香や他の仲間たちの顔を思い起こして、愛紗はそう割り切ることにしていた。
冀州中山郡は、王族である劉暢に下賜され、現在は郡国となっている。全部で13の県からなり、桃香が県尉として赴任した安喜県もそのひとつであった。
安喜県の県令は無害な男だった。波風を立てずに職務をこなす。それだけを考えているような男で、民政にも興味を持たなかった。一度愛紗が睨みを利かせてからは、税を着服して私腹を肥やすというようなこともなくなっている。事実上、県は桃香を中心として、民政を朱里と雛里が、軍事を愛紗と鈴々が担うと言う形でまとまりつつあった。200という県尉が動かすには大きすぎる兵を動かすことも黙認されている。
住民も、すでに桃香を県の主と認めているようだったし、感謝もされているようだった。実際、桃香が赴任してからの数ヶ月で、民の暮らしは目に見えて改善していた。朱里達は、物流を整えて物価や収益を安定させただけで、根本的な改革はこれからだと、事も無げに語っていたが、民の受けた恩恵は大きい。
県境を超えての黄巾賊残党の討伐が許されたのも、朱里達の手腕によるものだった。もちろんそこには、黄巾の乱における義勇軍の力戦を知り、桃香達を利用しようという他の県令達や相(国王の代理で行政を取り仕切る役職)の計算もあるだろう。しかしそんなこととは関係無しに、安喜県だけでなく近隣の県からも賊を駆逐し、その被害を抑えることが出来たのは愛紗達にとっては喜ぶべきことだった。土地に縛られず、困っている人がいれば助けたい。それが今も変わらぬ桃香の思いであり、そんな彼女に惹かれて集まったのが今の仲間達だった。
「関羽様!」
他の隊の兵が、慌てた様子で駆け寄ってくる。
彼らの担当地区でよそ者数人が酒家の主に乱暴を働き、止めに入った周囲の店の者も巻き込んで大きな騒ぎを起こしたらしい。民の暮らし向きが向上し、治安が良くなったとはいえ、逆に仕事を求めて集まってくる人間は増えている。そこまでなら良くある事だし、兵達だけでも十分に対処できる。問題はそこに妙な仮面をした女が介入してきたことだった。彼女は絶妙な槍捌きで瞬く間によそ者達を叩きのめしてみせた。その行為自体は正義の行いとはいえ、怪しすぎるその人物、治安を預かる兵達としては看過するわけにもいかなかった。頑なに素性を明かそうとしない彼女との間で口論が始まり、ついには武器を取っての争いにまで発展してしまったのだと言う。
「これは」
兵に案内され、愛紗が現場に到着したときには、既に争いは終結していた。倒れ伏す20人ほどの兵達に、大きな怪我はないようだ。商家が軒を連ねる路地の真ん中、地に伏した兵達に囲まれる位置に、こちらに背を向けて、女がひとり立っていた。
「我が兵を痛めつけてくれたのは貴様か!」
女が振り向く。特徴的な形状の、真っ赤な穂先を持つ槍。胸元の大胆に開いた、真っ白な衣。蝶をかたどった華美な仮面から除く瞳が、愛紗を射抜いた。
「その黒髪。あなたが高名な関雲長殿ですかな? いや、お噂通り美しい髪ですな」
「私の名を!? 貴様、一体何者だ」
「それでは名乗らせて頂こう!」
言って、女が槍を構え直す。戦うための構えというよりは、大道芸や見世物小屋などで見る、人目を惹きつけるためだけの大仰な構えだ。しかしその立ち姿に、愛紗は隙を見出せなかった。女が口を開く。
「可憐な花に誘われて、美々しき蝶が今、舞い降りる! 我が名は華蝶仮面! 混乱の都に美と愛をもたらす、正義の化身なり!」
「っ! 貴様が! 一体ここに何の用だ!」
かつて幽州の一郡、公孫賛の領していた地で聞いた名だった。中山国は冀州の北辺の一郡であり、幽州とは州境を接しているとはいえ、容易く行き来出来る距離でもない。
「言ったはずだ。可憐な花に誘われてやって来たと」
「訳の分からぬことを」
「おや、分からぬか―――」
すっと、自然な動きで華蝶仮面が迫る。何ら敵意を感じさせない動きに、愛紗も攻撃の機を掴めずに、ただ接近を許していた。
「お主に誘われてやって来たと言っているのだがな」
言って、華蝶仮面が梳くように愛紗の黒髪を撫ぜた。
「戯言を!」
青龍偃月刀を斬り上げた。命を奪うつもりまではない、峰打ちの一撃。しかし、間合いも速度も十分な一撃のはずだった。
「っと」
「なにっ!」
商家の屋根に華蝶仮面が降り立った。偃月刀に残るかすかな重み。華蝶仮面は、振るわれた青龍偃月刀の、その斬撃の力を利して跳躍していた。愛紗をして驚嘆せしめる、凄まじい技量の持ち主であった。
「おおっ、こんなところまで飛ばされるとは。さすが、噂通りの怪力」
「っ! 誰が怪力だ!」
「ふふっ。それでは、いずれまた」
華蝶仮面が背を向けて駆け出す。
「くそっ、逃がすか!」
「はーっはっはっはっ!」
その姿は、すぐに屋根の陰に隠れた。
「愛紗」
声を掛けられたのは、兵と別れ、役所へと戻る帰路でのことだった。結局、懸命の捜索もむなしく、再び華蝶仮面の姿を捉える事は出来なかった。不機嫌な顔で振り返ると、見知った顔がそこにあった。涼しげな双眸。真っ白な服に、一度見れば忘れられない特徴的な形の穂先を持つ槍。
「おおっ、星ではないか。久しいな」
常山の龍、趙子龍がそこにいた。
役所の一室へと、愛紗は星を招き入れた。同室しているのは雛里一人だ。その雛里も、頬を真っ赤に染めてうつむいてしまっている。星と名乗り合った際にからかわれたことが、まだ後を引きずっているのだろう。
折り悪いことに、桃香は、県の監査に来た督郵の応対に追われていた。鈴々はその護衛に、朱里はその補佐に付いている。同じ軍師とは言っても、朱里は雛里に比べて文官寄りの仕事を担うことが多い。朱里は主に内政、雛里は主に軍事というように、2人の間では大まかな役割分担がなされているようだった。
「で、星。ここに来たのは公孫賛殿の命か?」
「白蓮殿には関係がないこと。私は彼女の元をすでに辞しているのだからな」
聞けば、黄巾の乱が一応の終息を見ると共に、星は公孫賛の元を去ったのだと言う。元々が、旅の空の気まぐれに手を貸していただけで、いつまでも留まり続けようとは思っていなかったらしい。
「そうであったか。公孫賛殿は今や、幽州の刺史。そのまま残っていれば栄達も思いのままであったろうに、惜しいことをしたな」
「心にもないことを言う。お主らとて、栄達のために桃香殿を戴いているわけでは有るまい。白蓮殿は善人で、何事も無難にこなす普通に優秀な人材ではあるが、生涯を捧げる主とするには、それこそ我が槍が惜しいというもの」
「ひどい言い草だな。それでは、公孫賛殿の元を去って、今まで何をしていた?」
「うむ、それはな」
星はこの数ヶ月の自身の行動を語り始めた。自分の槍を捧げるに値する、英雄足り得る者を探し、各地を回っていたのだという。今は官を辞している曹操に、揚州の袁術と、その客将で愛紗達にも馴染み深い孫策。政争に破れ洛陽を追われた後も、名族の声望を元に徐々に力を盛り返しつつある袁紹。荊州刺史の劉表に徐州刺史の陶謙。雛里は各地の情勢が気になるのか、時に質問を交えながら、熱心に聞き入っている。
「最後に、黄巾賊討伐に大功を挙げた皇甫嵩将軍と、相国の董卓」
「っ! そうか、洛陽にも行ってきたのか。それで、様子はどうであった?」
「ふむ。……遠目に見ただけだが、董卓は、評判と違って覇気に欠ける感じがしたな」
星が、もったいぶった感じで口を開いた。
「そ、そうか。それで?」
「…………皇甫嵩殿には、曹仁殿の伝を頼って、会って話もした。なかなか面白い御仁ではあるな」
「それで?」
「それで、とは? 一応これで私の話はお終いだが。旅の終わりと言うつもりで、洛陽を出た後、直接ここまでやって来たのだ」
星が悪戯っぽく微笑みながら言った。何度となく見た、星らしい笑みだ。
「あう、ちょ、趙雲さん。そ、曹仁さんは、どうしていましゅたか? あぅ」
「ふふっ、鳳統殿は本当に愛らしいな。それに素直だ。どこぞの猪武者にも見習ってほしいものだ」
「くっ、星~~~!」
「どうした、愛紗? なにもお前のこととは言っていないのだがな?」
「貴様っ」
「はははっ、お主は本当に弄りがいがあるな。話すから、とりあえず落ち着け」
「むぅ」
その言い様に不満を感じながらも、ひとまず愛紗は星の言葉に耳を傾けた。
「もっとも、私も一度会って話をしただけだ。たいした話は出来ないのだがな」
曹仁は皇甫嵩の元で、今も兵法を習う日々だという。調練で実際に兵を率いることもしているし、かつて愛紗がそうであったように、武術を挑める相手もいる。そんな、充実した日々を送っているらしい。
「当人の口から聞いた話は、そんなところだな」
「そうか。……お変わりないのだな」
愛紗は、ほっと胸を撫で下ろした。伝え聞く洛陽の情勢は、血なまぐさい闘争と粛清の嵐であったのだ。先ごろ、ついに帝が廃され、新たにその妹である陳留王がその座についたという。廃帝の伯母にあたる大将軍何進の死が大きいのだろう。その政に不満を覚えながらも、いまだ漢室への尊崇の念が篤い桃香や朱里は、大きな衝撃を受けたようだった。曹仁の話は、彼女達の心をいくらか晴らしてくれるだろう。
「他にも、街で聞いた話だが、なかなか面白い噂話が流れていたぞ」
「うわさ?」
「ああ。曰く、天の御遣い曹子孝は、皇甫嵩将軍の情夫」
「なっ」
「あわわ」
「他にも、餌付けした女を連れて歩いているとか、いつの間にか子持ちの主夫になっていたとか」
「そ、曹仁殿。あなたは一体何を……」
愛紗は天を仰いだ。
積もる話も尽きかけた頃、どたどたと騒がしく人の通る気配がした。それが、役所の入り口の方へと抜けていく。愛紗が様子を伺うと、ちょうど督郵の男と供の者数人が、役所を出て行くところのようだった。桃香達も、見送りに出てきている。その背中に何か違和感を覚え、星を残して愛紗は桃香達を追い掛けた。
「いかがされたのですか、桃香様?」
「…………」
桃香は無言のまま、馬車に乗り込む督郵を見つめている。にらみつけていると、言ってもいいかもしれない。
「……朱里?」
「……はぅ、それが」
「これが最後だ! 本当に良いのだな、わずかなものを惜しみ、県尉の地位を失うことになっても!?」
車上の督郵が、恫喝するような調子で言った。それで、朱里が説明するまでもなく、愛紗にも合点がいった。辺りをはばかる事すらしない男の口調が、この国の腐敗をはっきりと物語っていた。
「わたしの答えは変わりません!」
桃香らしからぬ、苛立った声。督郵は一度舌打ちすると、御者に馬車を進めさせた。横目で桃香に送る視線には、軽蔑の色すら感じられた。
遠ざかる馬車を睨み付けて、愛紗は青龍偃月刀の柄を、きつく握り締めた。
「うう~~~! あいつ、むかつくのだ!」
鈴々が地団太を踏んで騒ぎ出す。手をあげていれば、官職を失うどころか、咎人として手配されていただろう。よくぞ耐えてくれていた。朱里と雛里も浮かない顔だ。そして桃香は、複雑な表情で、馬車の去った方を見つめていた。督郵個人に対する憤りよりも、もっと大きくて深いものを胸に抱えている。愛紗には桃香がそう見えた。
「志を遂げる道を求め、また、流浪の日々となりますね、桃香様」
努めて明るく、愛紗はその背に話しかけた。督郵に睨まれた以上、じきに新しい県尉が赴任してくるだろう。いつまでも桃香達が留まる事は無用の争いの元になりかねなかった。
「……うん、そうだねっ!」
一瞬の間の後、桃香は強く頷き返してくれた。
「朱里ちゃん、雛里ちゃん。険しい道のりになるけど、二人ともついて来てくれる?」
「はいっ、もちろんです!」
「がんばりましゅ! あぅ」
朱里と雛里も、強く返す。鈴々と2人、義姉妹の自分達には、桃香は問いかけることをしなかった。それが愛紗には嬉しく感じられた。1年前、黄巾の乱が起こり、義勇軍を組織し、曹仁と出会うことでつながった道。それは、ここで一旦途切れたが、得たものも多い。朱里と雛里、2人の軍師もそのひとつだし、名も得ていた。確実に、前へと進んでいるのだ。
「よーし、みんな、頑張ろう!」
桃香が微笑む。気付けば、沈んだ表情を浮かべる者はいなくなっていた。何故か、愛紗にはむしろ飛躍の時とすら思えた。この地に縛られているよりも、何か大きなことが出来るような気がする。
「よろしいのですか?」
そんな高揚感に水を差すように、言葉が投げかけられた。いつの間にやって来たのか、愛紗の隣に星がたたずんでいた。
「星ちゃん!? どうしてここに?」
「お答えください、桃香殿。わずかの間に、安喜県は驚くほど住みやすくなったと、すでに噂になっております。朝廷では、先頃あなたの師にあたる盧植殿も復職しています。このまま善政をしき続ければ、必ずや一郡を任される日も来るはず。本当に、これでよろしいのですか?」
「悪いことは、しちゃいけない。わたしは、当たり前のことをしただけだよ」
「それでは、不正を憎むものは出世の道を断たれ、いつまでもこの国が良くなることはない。より良き明日のため、ここは民に一度犠牲になってもらうべきでは? 安喜県はこの通り、あなた方の尽力で栄えております。少しぐらいの徴収には十分耐えられるでしょう。いま少し、民には苦しんでもらい、上を目指すべきでは? そうすれば、結果としてより多くの民を救えると言うもの」
口を挟もうとする朱里達と、自分自身を、愛紗はとどめた。星と桃香、二人で話させるべきだと、何となく感じていた。自分を茶化す言葉の中で、旅の終わりにと、そう星が言っていたのを愛紗は思い出していた。
「今、苦しんでいる人たちは、今しか助けられないから。…………星ちゃん、わたし、欲張りなんだよ。いま苦しんでいる人がいたら助けるし、いつか苦しむ人がいるなら、そんないつかなんて失くしちゃいたい。わたしは、どっちも助けたいの」
「出来ますかな、そのようなことが? あれもこれも全てを、つかみ取るようなことが」
桃香は一瞬、考え込むように顔を伏せた。再び顔が上げられたとき、愛紗は桃香の瞳に映り込む自身の姿を目にしていた。その視線ははっきりと自分に、自分達に向けられている。
「うん、きっと出来るよ。だって、わたしには頼りになる仲間が、みんなが、いるんだもん」
星は、満足気にひとつ頭を縦に振った。
出発は、それから5日後となった。騒ぎを聞きつけ集まってきた住民には、留まる様に懇願された。しかし最悪、せっかく作り上げたこの県の平穏を、自分達が原因で壊してしまうかもしれないのだ。それは、何としても避けたいことだった。
出発までの間、朱里と雛里は、今までの民政の成果を今後も維持できるように、有力者や商人達とともに策を講じていた。
愛紗と鈴々は、兵の調錬を重ねた。200の兵のほとんどと、若者を中心に多くの者達が、同行を願い出ていた。今回の流浪の旅は、兵を引き連れてのものとなった。これも、義姉妹3人で旅した以前とは違う、この1年の成果だった。安喜県だけでなく、近隣の県からはるばるやってきた者も多い。しかし、戦をして、終われば帰ってくるという軍ではない。行く当てもない旅路となるのだ。残される家族の生活や、本人の覚悟と資質。結局、朱里と雛里が認めた者を、さらに愛紗がふるいに掛け、500人ほどが兵として同行することとなった。
そして桃香は、住民たちとただ語らっていた。自分の出奔を嘆く民を励まし、時には逆に励まされながら、時を過ごす。星は、何をするでもなく、その様を見つめていた。
そして5日後、多くの民に見送られながら、500の集団がゆっくりと進んでいく。まずは中山国を抜ける。そしてそのまま州境を超えて、幽州まで北上するつもりだった。幽州では、張純という頭目が率いる賊徒が暴れ回り、公孫賛も手を焼いているらしい。困っている人達を助ける。その桃香の思いは変わることはない。
「いったいいつまで我らと共に来るつもりだ、星?」
先頭を行く桃香の後ろで、2人並んで馬を進めながら、愛紗は星に問いかけた。
「ふむ、そうだな」
「主探しの旅には戻らないのか?」
「ちょ、ちょっと、愛紗ちゃん。そんな言い方は」
桃香が、咎めるように口を挟んでくる。もちろん、愛紗も星を追い出したいなどとは思っていない。ある確信を持っての言葉だった。
「良いのです、桃香様。どうせこやつは――」
「待て、愛紗。その先は私の口から言わなくてはな」
星が、馬を駆けさせた。桃香を追い抜くと、馬を降りて、その正面に立つ。愛紗は全軍を停止させた。
500の兵が見つめる中、桃香はきょとんした表情で、星を見つめている。そんな桃香に、星はどこまでも真剣な眼差しを返す。その口が、言葉を紡ぎ出した。