張譲が董卓に与えた官位は、相国。漢朝開闢の功臣である簫何と曹参以来、400年空位であった行政の最高位である。といえば聞こえはいいが、その職掌は丞相に引き継がれた後、その丞相も廃止となって久しい。三公(司徒、司空、太尉)を最高職として、それぞれ行政、建設、軍事と役割を分担している現状では、実際にはただの名誉職に過ぎなかった。強権を発動させることも出来るが、それも帝の意に沿った形でなくてはならない。帝の意向あっての権威と言っていい。そして、今上帝の信頼は張譲にあった。先帝を擁した何進ら外戚の手から、自らを守ってくれた存在という思いが強いのだろう。皇子であった頃から英明であるとの評が高かった帝だが、まだ幼い。狡猾な宦官達の欺瞞を見破ることは不可能に近い。董卓の地位は、張譲の手の平の上にあるものと言って良かった。
董卓―――月が、天子の手を引いて廟堂に姿を現した。皇甫嵩は居並ぶ廷臣と共に、その様子を眺めた。
月は、玉座のある高みまで共に上り、腰を下ろした天子の横にそのまま侍る。廷臣が、一斉に拝礼する。
月が、一歩前に踏みだした。天子の前に立ち、廷臣を見降ろす格好だ。再び、一斉に拝礼する。今度は、天子にではなく月に対してだ。月が、一座を睥睨して鷹揚に頷いた。その視線が、皇甫嵩の顔の上で止まる。
「義真」
一人頭をさげずにいた皇甫嵩に、月が呼びかける。わずかに瞳にたまる涙を、皇甫嵩はただ立ちつくしたまま眺めた。皇甫嵩は、軍の調錬には欠かさずに顔を見せながらも、再三の朝廷への召集はこれまで病を理由に拒み続けていた。こうして朝議に顔を出すのは、先帝が廃されてからは初めてのことである。
「ぎ、義真」
「おお、これは失礼した」
皇甫嵩は、ようやく気付いたとばかりに拝礼した。魔王、と誰かが零した小さな声が耳に届いた。
その日を境に、皇甫嵩は閉門して屋敷にこもり、朝議はもちろん、調練にも姿を現すことをやめた。
曹仁は、息の詰まるような居心地の悪さを感じていた。
卓を挟んで向かい側には、賈駆と張繍。董卓の使者と、その護衛だった。これまでにも何度か、同じように皇甫嵩の屋敷を訪れている。そして訪れる度に、この居心地の悪さは増していくようだった。賈駆は難しい顔をしているし、張繍は曹仁に対する敵意を隠していない。唯一隣に座る皇甫嵩だけは、いつも通りの泰然とした様子だが、それがまた曹仁を苛立たせた。
朝廷内での皇甫嵩の扱いは、難しいものになっているようだった。かつて張譲は、十常侍内で唯一直接的戦力を有する、蹇碩への牽制として皇甫嵩を利用した。しかしその蹇碩も、先の廃帝の折りに罪を着せられ誅殺されていた。
さらに、復職した盧植が、帝に近付きつつある。廃帝には強硬に反対した盧植だが、実際に擁立されてしまえば、今上帝に対する忠誠心にも揺るぎ無いものがあった。それでいて、媚びというものとも無縁だった。まだ幼い今上帝は、大学者として知られる盧植に、守役に対する様な思いを抱いているようだった。朝廷の様子を曹仁に伝えてくれているのも、主に盧植である。
張譲や彼を後ろ盾にする者にとって、盧植と皇甫嵩は危険な存在となりつつあるのは間違いのないことだった。2人共、朝廷内での権力争いに興味を持つような類の人間ではない。しかし、自ら権力を欲する者達には、そうは見えないのだろう。旧知の間柄である2人が手を組むことで、帝の信望と武力が一体になることを恐れているはずだ。
「失礼します」
沈黙を破って、室外から声が掛けられた。高順が部屋に入ってくる。茶を持ってきてくれたようだ。まず、客人である賈駆と張繍の前に、次いで皇甫嵩、曹仁の前にも茶を並べていく。少々ぎこちない動作でそれをやり遂げると、高順は安堵の表情を浮かべた。
「順」
退室しようとする高順を、曹仁は呼び止めた。
「せっかくだ、名乗っていけ」
高順は緊張した面持ちでひとつ頷くと、2人の前に、ピシッと背を伸ばして立つ。
「私は、姓を高、名を順、字を子礼と申します。よろしくお願いします」
高順はそう名乗ると、礼儀正しく頭を下げた。2人も名乗り返すが、高順は気もそぞろな様子で曹仁を伺っている。曹仁が満足げに頷くと、高順はたちまち破顔した。
「次からはちゃんと、相手の名乗りも聞くようにな」
「うん、わかった」
今度は年相応な口調で答え、高順は部屋を出て行った。
「曹仁、今の字は?」
大きな音を立てて戸が閉まった。わずかに顔をしかめた曹仁に、皇甫嵩が尋ねた。
「ああ、俺が付けた。順って名は、どうも真名みたいだからな。いつまでもそれだけってわけにもいかないだろう」
「ふむ。なんというか、無難だな。お前と同じ子の字に、お前の願望で礼の字か」
「いいんだよ、無難で」
「どっかの誰かみたいに、名乗れないよりはいいんじゃない?」
賈駆が、実に楽しそうな笑みを浮かべ言った。
「むっ」
緊張感が解け、そのまま、しばし他愛もない会話が交わされる。
張繍は、会話に参加しつつも、やはり曹仁への警戒の構えを解いてはいない。初めて会った時、董卓に向けた殺意に気付かれたことが、今も後を引いているようだった。
智でもって董卓を支える賈駆とは対称的に、武でもって彼女を支え続けてきたのだという。董卓のものとして流れる武勇伝の数々を打ち立てたのも、張繍であるらしい。まさに、滅私奉公。己を捨てて主君に尽くしているわけだが、皇甫嵩に言わせると、妹二人を放っておけないお兄ちゃん、というのが実状らしい。3人はいわゆる幼馴染同士で、ひとり年上の張繍にとって、董卓と賈駆は可愛い妹分なのだそうだ。
ふと、自分に対して敵意を隠さないこの男が、存外嫌いでもないことに曹仁は気付いた姉妹から離れ、自分の好きなことをしている曹仁にとって、張繍は何となく気後れする相手だった。目の前にしていると、恥じ入る様な思いすら浮かんでくる。それが、不快ではなかった。
「さて、と」
賈駆が、仕切り直すような声を上げた。そして、再び真剣な表情を作ると、本題に入るわよ、と言葉を続けた。
曹仁にとって、宮中に入るのは初めてのことだった。とはいえ、通された一室は薄暗い小部屋で、想像していた煌びやかな宮殿とは程遠いものがある。広大な宮中の奥まったこの部屋までは、陽の明りも届かないようだった。
賈駆が、皇甫嵩だけでなく自分まで宮中に召し出した意味は何だろうか。皇甫嵩と二人きりの室内で、曹仁は考えを巡らせた。皇甫嵩は、特に気にもならないのか、いつも通り泰然としていた。大物然とした佇まいだが、彼女の場合、本当に何も考えていないだけのこともあるから性質(たち)が悪かった。
「おや、一人ではないのか?」
老人が、訪いも無しに室内へと姿を現した。老人とよく似た服装をした、若い男がそれに続く。
「これは、張譲殿」
「っ!」
張譲。これが、宮中に巣食う権力の権化か。
こちらの正面で立ち止まった張譲に、曹仁は視線を張り付けた。顔面に刻まれた、まるで傷跡の様に深い皺は、長い時を感じさせる。しかし背筋は伸び、足取りもしっかりとしていた。
張譲がひとつ顎をしゃくると、隣に控えていた若者が進み出た。装束からして、この男も宦官ということか。身のこなしに隙はなく、張譲の護衛といったところだろうか。男の手で皇甫嵩の眼前に、一振りの剣と、手のひらに乗る位の小さな壷が置かれた。
「陛下よりの賜りものだ」
曹仁は息を呑むと、皇甫嵩を見遣った。顔色からは、さして動揺の色はうかがえない。武骨な拵えの剣と簡素な作りの壷。宝剣と名器を下賜されているわけでは当然ない。自刃するか、毒をあおるか、好きな方を選べということだろう。
曹仁は、皇甫嵩に囁いた。
「どういうことだ? あの姉弟子殿は、何を考えている? まさか、その剣1本で、ここを斬り抜けろってことか?」
ここまでの皇甫嵩の行動は、全て賈駆の指示によるものだった。政争に乗り気ではなかった皇甫嵩も、弟子の頼みならと、渋々ながらに従っていたのだ。ここまでの董卓の動きは、盧植、皇甫嵩を敵とすることで、まずは張譲の信頼を勝ち取るというものだった。張譲に取り入るため、彼に代わって朝廷での怨嗟の声を一身に集めることまでしている。対して親しいわけではない曹仁にも、あの儚げな少女には荷が勝ち過ぎる役目のように思える。しかし、こうして張譲が勅命を操る様を見れば、ここまで賈駆がとってきた方針は、不満はあっても理解せざるを得なかった。
しかし、この状況。張譲は曹仁が来ることを把握していなかった。自分に、どうにかしろということなのか。剣を取って血路を開く。その程度のことしか曹仁の頭には思い浮かばなかった。
「あるいは、ここで張譲を道連れに死ねということかもな」
「おい、あんたの弟子だろ!?」
「あれは昔から、月のためなら手段を選ばんところがあったからな」
ここで皇甫嵩と張譲が共に死ぬ。董卓の権力を盤石のものとするには、それが最良に思える。張譲を殺させるために、自分も召し出されたのか。
室外からも人の気配がする。具足がぶつかりあう音が聞こえるからには、正規の装備を整えた兵が囲んでいるのだろう。
「何をしている? 勅命に抗うつもりか」
張譲が焦れた調子で言う。
やるしかないか。賈駆の思考を追うのはやめ、ただ生き残るために行動する。曹仁は腹を決めると、重心を移し、下肢に力を溜めた。皇甫嵩の眼前に置かれた剣をとり、一足で張譲を質に取る。理想はそれだ。実際には護衛の宦官の邪魔が入るだろう。そこに手間取れば、室外に控える兵が寄せてくる。槍もなく、白鵠もいない現状では、兵の包囲を斬り抜けるのは至難の業だろう。
ざわっと、喧騒が起こる。囲みの兵達の方からだ。何が起こったのかは分からない。ただ、張譲と護衛の宦官の視線が、皇甫嵩と曹仁から離れた。好機。
踏み出しかけた曹仁の足を止めたのは、愛らしい少女の声だった。
「張譲。そのような勅、わらわは、ち、朕は、発した覚えはないぞ」
「陛下!」
「陛下?」
張譲が、驚愕の声を上げる。
室内に、巨大な影が差した。影の主、見覚えのあるその姿は、盧植だった。そして、その巨躯に隠れる様にして、小柄な、というよりは単純に幼い、少女の姿があった。
「知っていたのか、将軍?」
特に驚いたそぶりも見せない皇甫嵩に、曹仁は問いかけた。
「詠が月の為に立てた策で私が死んだとなれば、月はそれはそれは悲しむだろうからな。何か手は打ってあるとは思っていたさ。まさか陛下まで己が策に組み込むとは思っていなかったがな」
部屋を囲んでいた近衛兵が、矛先を変え張譲を連行していく。少女は何か言いたげな表情で、それを見送った。張譲の姿が長い廊下の闇に消えてからも、その方角を見つめ続けている。
しばしの間、呆然としていた少女は、頭を大きくぶんぶんと振った。長い髪が揺れる。わずかに赤みがかった髪色が、桃香のそれと似ていることに曹仁は気付いた。
「お主が、曹子孝だな。わら、朕は、劉協と申す者じゃ」
少女は気を取り直したように曹仁に駆け寄ると、そう名乗った。
後になって話を聞いてみれば、あの日の曹仁は、帝を誘い出すための餌であった。政争のどさくさで天子に祭り上げられた今上帝は、戦場を駆ける天の御遣いに強い関心を持っていたらしい。実際に曹仁と交流をもつ盧植を傍に置いたことで、その思いはさらに強まっていた。後は、賈駆から曹仁が宮中に登っていることを知らされた盧植が、その耳元で囁くだけだった。公明正大で謀略などを嫌う盧植も、実際に曹仁が宮中に居り、皇甫嵩と共に命が危ういとなれば、動かざるを得ない。
張譲は獄に落とされることとなった。勅を偽るという、本来ならば死罪で当然の大罪を犯した張譲の命を救ったのは、董卓による助命願いだった。元より張譲に敬愛の念を持つ帝は、相国の願いを一も二もなく聞き届けていた。
「はめられましたね」
宮中での騒動から数日後、張譲に下された沙汰を曹仁が告げると、音々音が言った。朝の台所には曹仁と音々音の他に、恋と動物達もいて賑わっている。恋はそんな話には興味がないとばかりに、視線は料理をする曹仁の手元に釘付けになっている。
「はめられた? どういう意味だ?」
「張譲は暗殺をよくする部隊を抱えているのでしょう?」
残兵。曹仁は実際にそのうちの2人と手合わせをしている。両者とも、武人としても相当なものがあった。
音々音が言うには、賈駆の狙いは皇甫嵩と盧植を残兵に対する囮とすることらしい。2人を亡き者とすれば、まだ盛り返せると張譲は思っているだろう。残兵は組織として2人の暗殺に動くはずだ。それも、2人が権力を盤石なものとしてしまわないように、時を置かずに動くだろう。もし、今の時点で張譲が死罪となった場合、彼らは野に下ることとなる。中には復讐の機会を狙う者もいるだろう。そして張譲に代わって権力の高みに上る董卓が、裏で手引きしたことに気付く者もいるかもしれない。張譲が生んだ暗殺集団。恐らく、こと暗殺にかけては並ぶ者のないだろう組織を、あえて敵に回したくないと思うのは当然のことだった。残兵を始末するまでは、董卓達は張譲に従順な態度を崩さないつもりなのだろう。
「…………」
「何です? 馬鹿みたいな顔をして。あっ、すいません。いつものことでしたね」
呆然と話に聞き入っていた曹仁に、音々音が容赦のない悪態を飛ばす。
「……いや、お前が頭の良さそうなことを言うから。まるで軍師みたいだったぞ」
「ちんきゅーきーーーーっく!!」
「おっと。……お前な、包丁とか危ないから、料理中はやめろと言っているだろうが」
「私を何だと思っていたのですか!?」
音々音は慣れたもので、蹴り足を掴まれ、宙吊りの体勢のままに怒声を浴びせてくる。
「なにって、そりゃあ」
「うるさいチビ」
いつの間に現れたのか、高順が曹仁の言葉を継いだ。
「誰がチビですか、誰が! お前だって」
足を持った手を離してやると、勢い込んで音々音が高順に詰め寄った。高順と音々音の諍いを耳に、曹仁は一人の少女のことを思い出していた。
朕という一人称に慣れず、何度も言い直していた。あるいは慣れないだけではなく、恥じてもいたのかもしれない。お声を賜ったというべきなのか、わずかに会話しただけだが、ただ愛らしい少女という印象が強い。華琳の様な覇気も感じなければ、桃香ほどに気宇の大きさも感じなかった。
『また会おう』
最後に掛けられた、何気ない一言だけが強く頭にこびりついていた。それまで話していた少女の声と、同じようで、まったく異なる声。それは、幼い少女の声のようでも、しわがれた老人の声のようでもあった。そして、どこか聞き覚えが―――
「…………ん」
くいっ、くいっと袖を引かれて、曹仁の思考は妨げられた。
「手、止まってる。お腹、へったよ」
宮中での争いも、暗殺者の存在も関係無しに、皇甫嵩の屋敷は今日も平和だった。