総勢400騎からなる残兵討伐部隊が、洛陽城外を進軍していた。曹仁が率いる皇甫嵩軍の精鋭300騎と、張繍率いる董卓軍の精鋭100騎からなる混成部隊である。
守りに徹するのではなく、こちらから攻める。それが残兵に対する皇甫嵩の基本戦略だった。詠もそれには賛成だったし、張繍自身もそれしかないと考えていた。組織だった集団による暗殺を延々と防ぎ続けるよりは、こちらから攻めて殲滅する。皇甫嵩らしい作戦でもあった。
本来なら、皇甫嵩と盧植が始末を付けるまでは、月はもちろん、張繍や詠も表に出るべきではない。全てが台無しになる可能性もあるのだ。しかし張繍は今回、詠に無理を言って、討伐軍に加わっていた。
皇甫嵩が月や詠を裏切るようなことはない。張繍はその一点には疑念を差し挟む余地はないと思っていた。だが、曹仁はどうだろうか。
張繍は前を行く曹仁に視線をやった。見事な白馬に跨るその背は、小柄な身長の割には広い。相当に槍の修練を積んでいるものと見えた。重装備を好まないのか、具足は最低限のものだけをまとっている。
曹仁のことを、詠は気に入っているようだった。姉弟子として立てられることに、気を良くしたらしい。詠が嫌っていない以上、月も悪感情を抱いてはいないだろう。そして、皇甫嵩が認めている以上、能力も間違いないものなのだろう。
張繍は判断しかねていた。敵対関係に近い状態だったとはいえ、初めて会った時に月に対して向けられた真っ直ぐな殺意が引っ掛かっていた。それは、未だ矛も交わしていない敵将に向けられるものというよりは、もっと明確に指向性を持ったものに感じられた。それはすぐに覆い隠されたが、張繍の印象には強烈に残っていた。少なくとも、月を敵に売ることもあり得るのではないか、という疑念を持たせる程度には。
「二人の護衛に付いていなくて良かったのですか?」
曹仁が張繍を振り返って言った。
「ええ、信頼できる者に任せてありますので」
月と詠には、華雄が付いていた。董卓軍が大きくなっていく過程で自然と台頭してきた生え抜きの武将で、それだけに月に対する忠誠心は篤い。単純で軍略に欠けるところがあるが、その分かりやすさが兵達に慕われているようでもあった。張繍が月の護衛にあたり、詠が謀略を巡らせている時は、軍の調錬は華雄に任せている。実戦では華雄は歩兵の指揮を執ることが多かったが、ときに騎兵も含めた全軍を率いることもあった。その場合、張繍は月直属の旗本500騎を率いた。500騎は、戦場での月と詠の護衛のために張繍自らが鍛え上げた一団で、極めて精強である。張繍の意のままに動くし、それぞれが高い判断力を有してもいる。張繍は大軍を率いるよりも、この500騎と駆けることの方が好きだった。今回率いてきた100騎も、そこから選抜した者達である。
「あれか」
曹仁が声を上げた。洛陽城外のすでに使われなくなった練兵場。そこに併設する営舎が、目的とする残兵の本拠だった。
残兵の本拠は意外な形で明らかになった。張譲と連絡を取るため、彼らの方から月達に近付いてきたのだ。いかに優れた暗殺集団とはいえ、獄内の張譲と連絡を取り合うのは不可能なことのようだった。その際の交渉の中で、詠が本拠を聞き出したのである。
曹仁が、徐々に馬の足を速めていく。張繍もそれに合わせる。兵も自然に付いてくる。張繍の100騎だけでなく、曹仁が率いる300騎もさすがに調練が行き届いている。営舎からもすでにこちらが見えているだろう。しかし、普段の調練でも、この辺りを騎馬が駆けることはよくあることなのだ。異常に気が付くのはまだ先だろう。そして気付いた時には、営舎の包囲は完成しているはずだった。
「やあ、これは珍しい客人が」
「久しいな、美愛」
高順に来客を告げられ、皇甫嵩が客間に赴くと、そこには懐かしい顔があった。
「お久しぶりです、張奐様」
張奐。字を然明。かつて異民族の侵攻から北方の国境線を守った英傑である。皇甫嵩にとっては、これも名将の誉れ高い叔父の皇甫規の友人でもあった。もう一人の叔父、という思いもある。張奐と皇甫規に、段熲を加えた3名は、全員が涼州出身で字に明の字を含むことから、涼州三明と称された不世出の軍人達だった。張奐は軍務を離れて久しいが、いまだに匈奴や烏丸の兵はその名を聞くと恐れおののくと言われている。この国の歴史の中、戦場で一時代を築きあげた武人の一人と言っていいだろう。齢60に届こうとしているはずだが、筋骨隆々とした巨躯には、衰えをいうものが感じられない。
「今、盧植の奴も屋敷に滞在しています。呼んできましょうか? 確か、何度か会ったことがありましたよね?」
この一月ほど、盧植は皇甫嵩の屋敷に滞在していた。残兵に対する備えである。何と言ってもこの屋敷には、天下無双の呂奉先がいる。護衛としてこれほど心強い者もいない。武人としては相当な域にあるはずの曹仁が、恋を前にしては手も足もなくひねられる様を、皇甫嵩は何度も目撃していた。その様子は、無聊を囲っている最近では良い酒の肴でもあった。
「いや、よい。まずはお前と積もる話をしたい」
張奐に促され、皇甫嵩も腰を下ろした。
すでに亡い叔父の話、皇甫嵩がまだ幼かった頃の話などが、数語交わされる。しかし、結局は二人の話は戦の事へと帰結した。張奐が過去の異民族との戦の話を語れば、皇甫嵩は黄巾賊討伐の話をした。
「あの、張奐様」
「なんだ?」
「よろしければ、軍務に戻れるよう、私が手配致しましょうか?」
戦の話をするときの張奐の楽しそうな表情と、その顔色に時折混じる寂寥感のようなものに、思わず口を吐いて出た言葉だった。直後、皇甫嵩の心を後悔が襲った。幼少時からの、皇甫嵩の憧れの人物であったのだ。自分程度が口にして良い言葉ではなかった。
「……いや、いい。未練はない」
少しの間を置いて、張奐が答えた。
張奐は生涯唯一となる敗戦の後、軍務を解かれていた。それまでの張奐の功を思えば、ただ一度の敗戦で任を解かれることなどあり得ないのだが、同時に起こった政争の煽りを食らったのだった。
「……そうですか」
いまだに体を鍛え、そんなものまで持ち歩いているというのにですか? 再び口を吐きそうになった言葉を、皇甫嵩は今度は飲み込んだ。しかし視線は、張奐の背負う2本の大斧から外すことが出来なかった。
「それでは、盧植殿も呼んで、話そうか」
「はっ、それでは呼んでまいります」
「いや、天気も良い。先ほど少し覗いてみたが、庭も良く手入れがされているようではないか。亭(ちん=東屋、休憩所)があったようだし、そこで」
「わかりました」
「それと、この屋敷には天下無双と名高い呂奉先がいると聞いているぞ。私も10数年前は、最強と謳われたこともあったものだ。是非、会ってみたい」
「もぬけの殻、か」
集まってきた兵からの報告に、曹仁は呟いた。
速やかに包囲網を完成させると、曹仁は角と、特に腕の立つ兵30人を選んで営舎内に踏み込んだ。張繍も10人ほどを連れて続いた。反撃はまったくなかった。営舎内を一通り見て回ると、今度は兵を入れて細かく調べさせた。同じ造りの個室が4列に分かれて並ぶ、その一室一室を調べさせる。そうして上がってくる報告はどれも同じだった。
「聞き出した情報が偽りだったのか、あるいは」
すでに出兵した後なのか。
「っ!」
張繍も曹仁と同じ思考に行き着いたのか、馬に飛び乗るや、駆けた。曹仁も後を追った。白鵠が、ひと駆けで張繍の前に回り込む。
「邪魔をするつもりか、曹子孝っ!」
張繍が叫んだ。顔には焦燥がにじみ出ている。
ただ偽りの情報をつかまされた。その可能性ももちろんあった。しかし、ここが残兵の本拠であるにせよ、そうでないにせよ、誘き出された、その公算は無視出来ないほどに大きい。そして張繍をここまで焦らせているのは、この瞬間、この機が狙われたということだろう。情報を聞き出した董卓達が、それを皇甫嵩に伝える。それを見越しての計画だと考えないわけにはいかなかった。
「乗って行け。その馬も悪くはないが、白鵠ほどではない」
白鵠から飛び降り、言った。白鵠と鼻を突き合わせて、鬣を撫でる。白鵠は一点をじっと見つめた後、鼻を鳴らした。
「いいのか?」
張繍も馬を降り、白鵠の隣に立つ。
「大切な家族なのだろう、張繍? さっさと行け」
「…………」
張繍が、迷いを振り切る様に白鵠に飛び乗った。
「照だ。そう呼べ」
そう一言言い捨てると、張繍は曹仁に見向きもせずに駆け去っていった。
「…………良かったのですか? 屋敷にも何人か送られていると思いますが」
たちまち小さな点となった張繍―――照を見遣る曹仁の背に、角が声をかけた。
「問題ないさ。天下無双が守りについている」
そもそも皇甫嵩というのは、殺しても死なない類の人間だろう。心配するだけ馬鹿をみるというものだった。
「それにな。……どうやら因縁の相手というやつが、残っているらしい」
曹仁は、去り際に白鵠が見据えた先に視線をやった。営舎の脇の木立。背の低い灌木と、その中で一本抜き出た大樹。
「隠れ方に工夫が見られないぞ、お前ら!」
大樹から音もなく一人の男が降り立った。そしてもう一人、今度は対照的に、音を立てて木立をかき分けながら、男が姿を現す。隻腕の男と、両腕に巨大な鉄甲を身に付けた男。いつぞや屋敷に侵入した2人組は、まるであの夜を再現するかのように、よく似た場所から姿を現していた。
「俺がやる。角、手を出すなよ」
曹仁は静かに槍を構えた。
「あの白馬無しに、一人で我らを相手にされるお積りか?」
隻腕の男の手に、いつの間にか短刀が握られていた。あの日、白鵠の手を借りて打ち払った飛刀と同じものだ。もう一人の男も、構えを取った。上体を鉄甲で守る、馬上からの曹仁の突きを一度は弾いたあの構えだ。
「ああ、そのつもりだ」
曹仁は微笑んで見せた。あの日の虚勢を含んだ笑みとは違う、本心からの笑みだった。
「張奐様っ! なにを!?」
振り下ろされた大斧が、皇甫嵩の鼻先で辛うじて止まっていた。横合いから差し込まれた恋の方天画戟が無ければ、今頃皇甫嵩の体は真っ二つになっていただろう。
「残兵の隊長。それが今の私だ」
「…………っ、やはり、そうでしたか」
「ほう、その言い様からすると、勘付いてはいたようだな。―――っと」
恋が斧を弾いて、そのまま横薙ぎに戟を振るった。張奐は、それを飛び退って避ける。
「何故です、張奐様? 貴方は宦官による政治を嫌っていたはずだ」
残兵に対して反攻に出た、この機を狙ったかのような訪問に疑念を抱いてはいた。しかし、信じたくはなかった。恋をあえて呼んだ。だから、やはり思い過ごしであったのだと、そう安堵していたのだ。
「私に戦いの場を用意してくれる者は、張譲殿だけだった。ただ、それだけの話だ」
「やはり、戦場が忘れられないのですね」
「当たり前だ。全てを捨てて、戦場に身を投じて来たのだ。身を引けと言われて、それで簡単に忘れられるものか」
「……残兵は負傷兵ばかりを集めた隊だと聞きましたが」
「正確には、負傷などの理由で戦場に出ることの出来なくなった者達だ。私が、選び出したのだ。戦場を奪われ、なおも戦場を求めずにはいられぬ者たちを。私も、戦歴に傷を残したことで、戦場を去らねばならなくなった者だ」
「だからと言って、暗殺など―――」
「言うな、美愛。確かにここは本来私が求めた戦場ではないかもしれん。しかし、今の私は刺客、そしてお前はその標的。それだけのことだ」
「っ!」
突き放すような口調に、皇甫嵩を二の句を継ぐことが出来なかった。
張奐が斧を大きく振るった。遠心力の付いた大斧の一撃は、受けた戟ごと恋の体を吹き飛ばす。
「さあ、来い! 呂奉先!」
張奐の顔が生き生きと輝いた。筋肉が張り詰め、肉体も若々しく躍動する。やはり、暗殺者などしてはいても、張奐の本質は武人なのだ。暗殺などではなく、存分に腕を振るいたいはずだった。だから恋を呼び出した、ということなのだろう。そう思うと、皇甫嵩はわずかに救われたような気持ちになった。
「何事ですか!?」
音々音と高順が騒ぎを聞きつけ、駆けよって来る。盧植に音々音、高順、恋に自分。これで屋敷の者は皆、この庭に集まったことになる。
「張奐殿、一つお聞かせ願いたい! この屋敷を的としているのは、張奐殿お一人ですか?」
盧植が言った。言われて、皇甫嵩も感傷から抜け、はっと我に返った。
残兵は2,30人の部隊と言われていた。過去に彼らが関わったとされる事例から推測するに、少なくとも10人以下とは考えられない。しかし、張奐と同時に襲いかかっても来なかったし、援護に現れる様子もない。
「ああ。私だけで十分だし、本命は別にある」
張奐は一度構えを解いて、言った。皇甫嵩は恋を見遣った。
「……ん、たぶん、本当。……こーじゅん、敵いそう?」
恋は一度こくりとうなずいた後、高順へ問いかけた。獣同然の暮らしをしてきた高順は、敵意や殺気をいったものに恋以上に敏感らしい。
「うん。いないと思う」
高順はひとしきり周囲をキョロキョロと窺い、言った。それで何故わかるのか、皇甫嵩には理解の外だったが、恋と高順の2人が何も感じないというのなら、実際に敵はいないということだ。それでは、残る残兵はどこに行ったのか。
「本命が、別にあると言いましたね?」
問うまでもないことを、皇甫嵩は問うていた。
張繍が討伐隊に加わると聞き、一応の手は打ってあった。しかし、残兵のほぼ全ての戦力があちらに―――月達に回されるとなると。
自分の命を狙う暗殺者として立つかつての憧れと、弟子達の危機に、皇甫嵩の心は千千に乱れた。