「ふんっ!」
張奐は左の大斧を真っ直ぐに振り下ろした。斧の重量を存分に使ったその一撃を、呂布は最小限の動き、半身になることで避ける。
「せいっ!」
そこに右の斧を横薙ぎに振るった。呂布は方天画戟を真っ直ぐに立てて、それに対した。多くの敵兵をその武器ごと、具足ごと葬ってきた一撃が、戟の柄へと叩き込まれる。呂布の体が、吹き飛ぶ。
「っ、やるな」
派手に宙を舞って呂布が着地する。反して、張奐の斧にはほとんど打ったという衝撃が残っていない。
呂布の方天画戟は、まずは業物をと言っていい出来だが、張奐にはそれを断ち割れる自信があった。だが、実際にはそうはならない。呂布が巧みに斬撃の衝撃を逃しているのだ。一見派手に吹き飛ばしているようでも、その実、呂布自身が衝撃に逆らわずに跳躍しているようなものであった。
「しかし、どうした呂奉先! 守っているだけでは、私に勝つことなど叶わぬぞ!」
そう、呂布は一向に攻撃の手を出そうとはしなかった。ただ受けに徹している。そして一撃を見舞う度に、呂布の宙を舞う距離は増し、張奐の手に残る衝撃は減っていく。より完璧に、張奐の一撃を殺しつつあるのだった。
「…………」
呂布は何を思っているのか、答えず、ただ顔をしかめた。
「ならばっ!」
張奐は斧を持つ両の手を垂れ下げたまま、一気に間合いを詰めた。全身が、無防備にさらけ出されている。
戟の間合い。攻撃はやはり来ない。そのまま足を止めずに踏み込む。
「はあっ!」
両の斧を横薙ぎに振るった。左右からの挟撃。これなら先ほどまでのように威力を殺すことも出来ない。
呂布が飛び退る。斧の切っ先が、腹部を撫でた。赤い線が2筋、呂布の腹に走る。
「どうした? 絶好の機であったろうが。何故攻撃しない?」
「……いいの?」
困ったような表情で、呂布が言った。その視線は張奐を飛び越し、その背後にそそがれている。また、呂布が口を開いた。
「いいの、こーほすー?」
カッと頭に血が昇るのを、張奐ははっきりと感じた。
「こ、この、私も、舐められたものだ」
声が震えた。体も震えている。
張奐の心をかつてないほどの屈辱が襲っていた。生涯唯一の敗戦も、その後の軍人としての死も、今この時に比べればいかほどの事もない。自分が手心を加えられるとは。それも、戦友の姪に対する情けで。
張奐の震える手から、斧が離れようとした。
「恋!」
庭先に響いた声に、張奐はあわやというところで斧を握りなおした。
「残兵を率いる、敵将張奐に死を! 軍人として、武人としての死を与えよ!」
軍人の声だった。とたん、長閑な庭先が、血に染まる戦場に変わった。張奐が追い求めた、本物の戦場の空気が場に満ちていく。
「……わかった」
対するは千軍万馬。呂布が構えを変えた、その瞬間、確かに張奐は抗いがたい大軍の息吹にも似たものを感じた。
「美愛」
大軍を前にしながらも、張奐は一度後ろを振り返るという欲求を抑えることが出来なかった。百戦錬磨の将軍の顔が、そこにはあった。
「良い軍人になったな」
言ってすぐに、呂布に向き直る。自分の一言で、官軍の堂々たる将軍皇甫義真の顔が、かつて胸に抱いた幼子のものに戻ってしまうことを、張奐は恐れた。心温まるその顔を、今だけは見たくはなかった。せっかく生まれた戦場の空気が、霧散してしまう。
「さあ、来い! 呂奉先! 今度こそ本気の勝負だ!!」
張奐は千軍万馬の大軍へと身を乗り出した。
「馬鹿、な。これほどの腕だとは」
隻腕の男は驚愕の表情で膝を落とした。胸元に穿たれた傷穴からは、止め処なく血が流れ出ている。
「この数カ月、天下無双に修練をつけてもらっていたんでな。前より少しばかり強くなったのさ」
肩に刺さった飛刀を、曹仁は引き抜いた。鉄甲の男に、一度視線を向ける。男はすでに事切れているようで、地に伏せ微動だにしていない。
「頼みがある」
隻腕の男の声。口調は、意外なほどしっかりとしていた。曹仁は視線を正面へと戻した。すでに焦点の定まらない瞳が、それでも曹仁を真っ直ぐに見つめてくる。
「軍師殿の命を、お助け願いたい」
「軍師殿?」
「軍師殿は、我らに拾われて日も浅い。我らに言われるがままに策を練りはしたが、朝廷での諍いも知らぬし、張譲様とは会ったこともない。頼む、命ばかりは」
言い切った男の体から、力が抜けていく。膝立ちの体が、ゆっくりと前へ倒れた。曹仁は、その背をしばし見つめていた。
「……出てこい」
2人が隠れていた木立が揺れていた。曹仁の声に、それが収まる。そのまま、何の反応も返しては来ない。気付かれていない、そう思っているのだろうか。
「…………」
曹仁は無言で、槍の柄で木立を叩いた。木立が音を立てて揺れ動く。
「ひゃあっ」
そこから、影が一つ飛び出した。影はそのまま真っ直ぐに駆け―――
「ふぎゃっ!」
営舎の壁にぶつかって倒れた。
「はぁっ!」
「くうっ!」
呂布の振るう一撃を、両斧を叩きつけて弾く。柄を握りこんだ拳から肩まで衝撃が抜け、腕全体が痺れたようになる。
「ふっ!」
返す方天画戟に、斧を持つ両手は痺れたまま、動いてはくれない。
「っく!」
地面に転がって、その一撃を避ける。
どんなに見苦しくても構わない。まだこの空気を、待ち望んだ戦場の空気を吸っていたかった。だから立ち上がる。全身に刻まれた傷は、大小合わせて20以上。そのうちいくつかは、致命傷と言ってもいい。それでも立つ。痺れた両の腕も、決して握り込んだ斧を取り落としはしない。
気力を振り絞って、今度はこちらから踏み込んだ。斧を振り下ろす。呂布はそこに、真っ向から方天画戟を叩きつけにくる。柄ではなく刃の部分。断ち切れるか。
「ぐっ!」
打ち負けて体が泳ぐ。これでは武器を断つことなど出来ない。逆に張奐の斧の刃がひしゃげた。
些かの誇張も無く、目の前の武人は正しく天下無双だった。天下の武人全てを見比べたというわけではない。ただ、武人の本能が、コレより上はないと、そう告げていた。
だから、この時間をもっと。崩れた体勢のまま、もう一方の斧を振るった。狙いは粗く、威力もない。ただ追撃をかわし、少しでもこの時間を長引かせたい。その一心であった。
さらに10合、20合と打ち合った。限界を超えて、打ち合った。
全体重を乗せるように、体ごと両斧を叩き落とす一撃に、呂布が方天画戟を斬り上げて対する。
「あっ」
瞬間、斧の重みが両腕から消えていた。ここにきて、得物を取り落としたか。否、違う。振り下ろした両腕の、手首から先が失われていた。
返す方天画戟が振り下ろされる。それが、妙にゆっくりと感じられる。だが、体は動いてはくれない。
方天画戟の刃が、ゆっくりと体に入り込んでくる。張奐は他にすることも、出来ることもなく、戟を振り下ろす呂布を眺めた。その額に光る汗に、初めて張奐は気付いた。顔も、苦悶の表情を浮かべている。疲労の極致。そんな表情だ。
「なんだ。まだまだ私も捨てたものではない」
口を開いていた。その瞬間、時の流れが正常に戻った。だから、言葉の後半は、倒れながらだった。倒れ込んだ張奐の眼前に、跳ね飛ばされていた二本の斧が突き刺さる。
「張奐様!」
声が響いた。斧の刃に、こちらに向けて駆ける美愛の姿が映ったような気がした。泣き腫らした顔は、とても将軍のものではない。戦場の空気が晴れる。それでいい。もう、惜しくはない。
「ああ、満足だ」
斬り飛ばされてなお、斧を掴んで離さない己が両手を見つめ、張奐は呟いた。
白馬は風のように駆けた。遮る城門の守兵を飛び越え、城内に入っても速度を落とすことなく駆ける。洛陽の人ごみを駆け抜け、屋敷を目指す。
剣戟の音が張繍の耳に届いた。屋敷の門。開け放たれている。騎馬のまま中に突っ込んだ。
門前の広場。まず目に飛び込んできたのは、屋敷の護衛に当たっていた兵の亡骸。張繍が育て上げた、月の旗本の精兵達だ。そして、兵達に混じって見知らぬ者達の死体もいくつか転がっている。
馬足を落とさずに、庭先に点々と続く死体を追う。月の私室のある方へと続いている。剣戟も、その先から聞こえてきている。
「張遼殿!?」
3人を相手取り、大刀を振るう張遼の姿が、直ぐに張繍の目に飛び込んできた。
「はぁっ!」
一瞬、張繍に気を取られた1人を、張遼が斬り下げた。袈裟掛けにその身体が両断される。
「何人か抜かれた! ここはええから、はよう、行き!」
「はっ」
張遼の言葉に、張繍はその脇を駆け抜けた。彼女ならば、残る2人を相手に遅れを取ることもないだろう。
張遼は、元々は呂布と共に丁原の配下であった。何進と共に丁原が処断された際には、洛陽を離れ、十常侍と対抗するための徴兵に各地を回っていた。行き場を失った張遼は、皇甫嵩が張譲と対立していることを知って、彼女の元へとはせ参じてきたのだった。今ここにいるのも、皇甫嵩の指示だろう。
張繍はさらに馬を駆けた。中庭に面した一室の戸口に、人影が群がっているのが見えた。月の私室だ。馬蹄の音に何人かが振り返って、こちらに向かってくる。
「はぁっ!」
槍を振るった。その瞬間、白鵠が強引に馬体を傾けた。その力が槍先に乗った。寄せてくる3人は残らず、その一撃に飲み込まれていた。
槍を振った張繍自身が、一瞬茫然とした。白鵠は止まらず、月の私室目掛けて駆けた。張繍はもう一度槍を振るった。先ほどの一撃に警戒を強くしたのか、戸口に寄せていた敵が弾けるように散った。
「張繍殿、よくぞ来てくださった!」
入口を守る様に戦斧を構えて、華雄が言った。肩で大きく息をし、体中に無数の傷が刻まれている。
「華雄殿、よくぞ2人を守り抜いてくれた」
華雄の背後、室内に月と詠の姿を認め、張繍はほっと胸を撫で下ろした。
「月、詠、無事か?」
「遅かったじゃないの、照」
「は、はい、照兄さん。華雄さんが守ってくれました」
月を背にかばう様にして立つ詠と、逆にその詠を背後から支えるようにしている月。血の気の失せた顔色こそ蒼白だが、傷を負っているというのではなさそうだった。
「俺が来た。もう安心しろ。…………華雄殿。2人のそばを離れず、引き続き護衛を」
張繍は、中庭を向き直った。初めて、落ち着いた心地で敵を見据える。
残るは4人。遠巻きに構えたまま、じっとこちらを窺っている。槍が2人に、剣が2人。槍の2人は一見して大きな負傷のようなものは見受けられないが、剣の2人はどちらも片腕を欠いている。そして、それを補い合う様に、肩を並べて立つ。構えからは隻腕と侮り難い威容が漂っている。槍の2人も、相当に使うと見えた。こうして対峙してしまえば、先程のような奇襲も通用しないだろう。しかし。
「…………月と詠を殺す、か」
絞り出すように言った。憤っていた。なにより、猜疑心から2人の元を離れた自分自身に、張繍は憤っていた。何もない虚空に、一度、大きく槍を振るった。
「ならば、ここより先は貴様らの死線、そして我が槍の届くうちは、貴様らの死地と心得よ!」
月と詠を背に、張繍は大喝した。敵が、気圧されたように後退る。張繍は槍を高く構え、じりじりと馬を前に進めた。何かに圧されでもしているように、4人がさらに後退る。
すっと、槍を下げた。同時に、半歩馬も退く。槍の1人が、たまらず前に踏み出した。
「せっ!」
槍を撥ね上げた。合わせて、白鵠も退いた半歩分を踏み出していた。馬の勢いも乗せた一撃。打たれた敵の体は、馬上の張繍の頭上を越えるほどに跳ねていた。
残る3人が、さっと距離を取って構え直す。1人が討たれても、それで動揺は見られない。やはり、敵も相当な手練のようだった。こうした状況に慣れてもいる。それでも、負ける気がしなかった。愛しい者達を背に、千里の名馬を預けられた、この地、この時において、張繍は自身の勝利をほとんど確信しているといってよかった。
「さあ、死線をくぐり、死地を踏み越え、我に一手馳走して見よ!」
張繍は距離を詰めた。
「なんだ、一人で飲んでいるのか?」
庭の東屋で、皇甫嵩は一人、杯を干していた。いつもは大抵、曹仁や張遼―――霞が、誘われる。
「俺にも一杯くれよ」
「あの娘をどうするか、決まったのか?」
曹仁と角が屋敷に戻ると、董卓達をはじめ、今回の件に関わった人間が勢揃いしていた。首尾を話し合うべく、集まってきたらしい。心配された董卓と賈駆には、負傷らしい負傷もないようだった。皇甫嵩が霞を、2人の護衛に送っていたことも、曹仁はその時になって知った。照が討伐隊に加わると聞いての判断らしい。政争はともかく、闘争における皇甫嵩の勘どころはやはり大したものだった。残兵はこれでほぼ全員討ち取ったと見てよいだろう。
犠牲も出ていた。董卓の護衛に当たっていた兵30名ほどが死傷している。自ら鍛え上げたという照は、やはり口惜しそうにしていた。
各々の報告が済むと、角の陰に隠れるようにして屋敷までついてきた残兵の軍師だという盲目の少女―――間近で残兵2人を討ち、隠れていた彼女を脅しつけた曹仁は非常に怖がられていた―――の扱いが、その後の議題となった。皇甫嵩はそれには参加せず、好きに決めるよう言い残してその場を去っていた。
「ああ。姉弟子殿や照は、いかにも不満そうだったがな」
後顧の憂いを断つべきだという意見は、肝心の董卓によって却下されていた。
「いつもの夜の鍛錬は?」
「今日は実戦もこなしたしな。それに」
曹仁は、肩に巻かれた包帯を指差した。動き自体に支障はないが、傷口はふさがってはいない。明日もそう激しい鍛錬はできないだろう。
「そうか。……傷に障るぞ」
「じつは、傷が痛んで眠れそうにないんだよ。酔ってパッと寝てしまいたいんだ」
「そうか。……ならば杯を―――あっ」
皇甫嵩と卓を挟んで反対側、無人のその場所に置かれた杯を、曹仁は取った。なみなみと注がれた酒を一気に飲み干す。
「うん、あいかわらず良い酒を飲んでいるな。もう一杯」
何か言いたそうにしている皇甫嵩に、杯を突き出した。
「はぁ。…………まずは私からだ」
ひとつ深い溜息を吐くと、皇甫嵩が杯を振った。すでに杯の中は空だった。曹仁は卓の中央に置かれた器を取ると、うっすらと琥珀色をした液体を、そこに注ぎ込んだ。それを、皇甫嵩は一息であおる。
「おい、俺のは?」
「お前の方が一杯先に飲んだだろう。これで五分だ」
「あんたはそもそも先に飲み始めていただろうが」
言いながら、曹仁は自ら酒を注いだ。再び突き出された皇甫嵩の杯にも、悪びれないその顔を一度睨みつけた後、酒を注いだ。
「盧植にでも、聞いたか? それとも恋か?」
「何の話だ?」
「この私を気遣うなど、10年早いというものだぞ、曹仁」
「だから、何の話だ?」
「ふっ、まあ良い」
皇甫嵩は、また一息に酒を仰ぐと、曹仁に杯を突き付けた。曹仁は、皇甫嵩の杯になみなみと酒を注いだ。
獄中の張譲が、どこからか入手した毒をあおって自害したのは、その3日後のことである。