「これは」
轡を並べた照の口から、感嘆の声が漏れた。諸侯の軍。総勢20万を超す敵軍の進撃は、それほどに圧巻と言ってよかった。
「だが、隙も多いな」
混成軍だけあって、前方を行く敵軍は1つの陣形として機能しているとは言い難かった。それぞれの軍が、思い思いに移動しているに過ぎない。16人の諸侯と、他にも豪族から義勇軍の類まで終結しているのだ。指揮系統を一つにまとめるというのはほとんど不可能なことであろうし、兵の質も様々だった。しかし、それにしてもお粗末な進軍と言ってよかった。ただ並んで進んでいるだけにしか見えない。曹仁達に見える後軍は、自分達を後詰め程度にしか思っていないのか、弛緩した空気すら感じられる。実際、切り立った崖に左右を阻まれた虎狼関の地形を考えれば、戦闘に参加する軍は前軍の一部のみということになる。そこに、士気の高い軍は集中しているのだろう。
曹仁は後方に視線を送った。丘陵の陰に隠れるように騎馬隊が整然と居並んでいる。前方を行く敵軍と見比べれば、その士気の差は歴然だった。
「おい、曹仁。いきなり本陣まで突っ込もうなんてするなよ。こっちは2000しかいないのだからな」
「わかっているさ」
目的はあくまで兵糧。酸棗に集結した連合軍が進軍し、再び陣を布くまでの移動中を狙っての奇襲だった。移送隊は有難いことに最後方を進んでいる。それも、ただ輜重のために遅れているだけといった様子である。袁の旗が翻っている。総大将に就いたという袁紹旗下の武将か、あるいはその従妹にあたる袁術の軍だろう。30万の軍である。兵站の大事を考えれば、身内に任せたいと考えるのも当然だった。
「もう少し近付くぞ」
照が手を振った。草鞋を履いた騎馬隊が、音も無く丘陵の陰を縫うように進む。
2000騎は、黄河の流れに乗って秘密裏に運ばれた。2000というのは、作戦の秘匿性や、埋伏のための地形、補給の難を考えた上で出された最大の数だった。兵糧や武具の類も、船により運搬され、黄河の流域のいくつかの場所に分けて隠されている。2000の内、400騎が照の指揮で、全体の指揮官も照ということになっていた。曹仁は残る1600騎を率いる。
「あの娘のことが気になるのか?」
先程からずっと押し黙っていた角が、ハッとしたように顔を上げた。残兵の軍師であった盲目の少女のことを言っていた。
「ほとんど毎日、屋敷に通っていたのだろう?」
少女は、牛金の知人だという商人の屋敷に預けられていた。黄巾の戦乱の中で両親と光を失い、行き場もなくさまよっていたところを張奐に拾われたという。固く閉ざされた双眸から、本当に視力が失われているのかは判然としない。両親が暴徒の手に掛かる姿を目にし、それ以来両の眼が開かれることはなくなったという。そういった事情から、少女は黄巾賊討伐に功のある皇甫嵩や曹仁、牛金に対してほとんど恨みらしい感情を見せはしなかった。ただ、身を潜めた間近で残兵の2人を討ち取った状況が、かつての暴徒の姿に重なり、曹仁に対しての恐怖心は拭い去れないほどに大きかった。だから、皇甫嵩の屋敷に置くには問題があったのだ。
「ええ。張繍殿達から頼まれてもいますし、あの娘も、屋敷の子供達も俺を怖がりませんからね」
曹仁の問いに返しながら、牛金は顔面に張り付いた傷跡を指でなぞった。
屋敷の主は、麗羽が張譲に追われ洛陽を脱出する際、協力してくれた男だ。商人とはいっても、元々は漢朝の名家と言っていい家柄の者で、剛毅な性格と利を度外視した商人らしからぬ行動でも知られていた。戦災孤児などを多く養っていて、中には実際に養子とした者もいる。ゆくゆくはあの少女もその家の養子となるのではないかと、伝えられていた。
「……あの子は美人になるぞ。俺が保証する」
胡乱な視線をぶつけてくる角を無視して、曹仁は続けた。
「俺は、少女が絶世の美女へと育っていく様を、何人も見届けてきている。なかには発育思わしくなく、少女の姿のままで居続けている者もいるが、悔しいが美少女ではある。その俺の目が、そう告げている」
「軽口は終わりだ、曹仁」
さらに言い募ろうとした曹仁を、照が制止した。同時に、手を上げて進軍も止める。照が黙って馬を下りると、全軍も続いた。一斉に馬の草鞋を外し始める。曹仁と角も会話に執着することなく、それに倣った。元々、半分はこれから20万の軍勢に先制を掛ける兵達に、将の余裕を見せることで要らぬ緊張を解こうという気持ちがあった。もっとも、董卓軍、皇甫嵩軍から選び抜いたこの精鋭達に、そんな気遣いは本来無用でもあった。だから、半分はただの冗談だ。少女の角に対する懐き様は、曹仁にそういった冗談を言わせるだけのものがあった。
「出撃」
照の声が響いた。決して大きな声ではないが、それは2000の隅々まで響き渡ったようだった。一斉に動き始めた。同時に、旗も立てられる。“董”の旗。曹仁は、その旗にしばし視線を遣った。
反董卓連合20万。袁紹の檄文に、16の諸侯と、豪族、義勇軍が酸棗に終結していた。廃帝に、清流派の廷臣の排斥。亡き張譲の残した悪行の矢面に、月が立たされたという格好だ。
対する董卓軍も総勢20万。涼州より呼び寄せた元々の董卓軍と、相国の名の元に徴収した官軍。兵力は拮抗していた。月はなおも話し合いによる和解の道を模索していたが、時ここに至っては、どんな言葉も空しいだけである。
皇甫嵩は、汜水関の城壁から眼下を見つめた。視界の先に広がるのは、切り立った崖と崖がなす狭道。酸棗より敵軍が進軍を開始したと斥侯から報告されてはいるが、まだ視界の端にもその姿はとらえられてはいない。狭道の入口に着くまでに、通常の進軍で後半日はかかるだろう。20万の大軍、しかも連合軍である事を考えると、実際に到着するのは2日後といったところか。
「ウチも外に出て戦いたかったわ」
「私もだ」
「…………」
隣で、霞と華雄がつまらなそうに言った。無言でたたずむ恋も、これから始まる籠城戦に、あまり気乗りした様子はみられない。照と曹仁を別働隊として城外に送り出すと決めたのは、皇甫嵩と詠だった。理由はいくつかある。一つには、城内にいなくとも不審に思われないということ。照は、董卓軍の将として名を連ねてはいるが、その武功は全て月自身のものとして奏上されている。董卓軍の外では、その名を知る者自体がほとんどいない。曹仁は、あくまで客将であり、いつ皇甫嵩の元を去ってもおかしくはない立場だし、今回は相手が相手である。戦闘に参加しないという選択は十分にあり得た。また、別働隊は一度城外に出てしまえば、こちらとの連絡はほとんど取れず、独立した軍として動かなければならないということも理由の一つだ。恋や霞、華雄は優れた将ではあるが、今まで独自の判断で軍を動かすという経験をしてきてはいない。照は実質、董卓軍全体を指揮していたと言ってもいいし、曹仁は義勇軍とはいえ黄巾の乱で戦歴を重ねていた。その経験を買ったのだ。
「そろそろかな」
騎馬隊による奇襲。
連合軍は、狭道の直前に陣を敷き、数万単位の軍を攻城にあてると考えるのが妥当だった。全軍が狭道の中に進軍しても、実際に攻撃に投入出来る兵力は一部だ。かえって各軍の動きが妨げられるだけだし、状況によっては挟撃で一網打尽にされる可能性もある。そのような愚は犯さないだろう。陣を敷かれえしまえば、2000の兵力での奇襲は難しい。だから、奇襲をするなら進軍中の今しかなかった。
400騎をひとまとめにして、移送隊の中を駆け抜けた。敵兵はほとんど何の抵抗も示さずに、輜重を残したまま、ただ逃げ惑っている。400騎が斬り開いた道を、油壺と火矢で武装した曹仁率いる1600騎が続く。
張繍の率いる400騎は、月の旗本の騎馬隊である。残る100騎は、洛陽で月と詠の護衛についている。張繍自らが心血を注いで育て上げた董卓軍の中核をなす500騎である。良馬を産出する涼州でさらに選りすぐられた馬と、同じく騎馬隊の練度の高い涼州軍より選りすぐられた騎兵。その精鋭達をもってして5人に1人が脱落するというような、過酷な調練を課したのだ。少なくない数の死者も出ていた。月のみならず詠ですらそれには難色を示したが、張繍は決して譲らなかった。月と詠を守る旗本には、常に自分の納得のいく兵だけを置き、最強の部隊でなくてはならない。それが張繍の考えであり、妥協をするつもりはなかった。そしてそれはそのまま、兵の誇りにもつながっている。実際、本領の騎馬ではない状況下で、ひとりひとりが相応の武人であった残兵10人近くを見事討ち取ってもいる。現状、騎馬隊としては中華最強の部隊ではないかと張繍は自負していた。それだけに、残兵との闘争で欠けた30名ほどの補充は思うように進んでいないようだった。戦場においても、500名が一度にこれほど欠けることはなかったのだ。だから、張繍の率いている400騎は、より正確にはそれに少し足りていなかった。
移送隊の先頭まで辿り着いた。移送隊の端から端まで、一直線に駆け抜けたということだ。反転すると、炎燃え盛る道が出来ていた。張繍は、100騎ずつ3隊を副官に任せた。それぞれが無人の野を行くが如く、自由に駆け回る。70数騎を率いて張繍も敵軍をかき混ぜる様に縦横に駆けた。
袁の旗が見えた。旗の下、1500ほどの歩兵が堅く方陣を組んでいる。張繍は旗目掛けて真っ直ぐ馬を駆けた。ぶつかった。士気は決して低くはない。しかし、練度は天と地の差があった。突き崩す。
「っ!」
飛来した矢を、張繍は紙一重のところで弾き落とした。続けざまに射込まれてくる2矢目、3矢目も、弾く。凄まじい強弓である。弾く槍を握る腕が痺れた。
正面を見遣る。歩兵の陣の中心。そこに騎馬の一団があった。袁の旗もそこに立っている。矢はその中の一人が放ったものだ。長身の男だ。長大な鉄弓を構えている。男が、再び矢をつがえた。手には他に2本の矢が握られているようだ。
的を小さくするため、楔形の陣形から、1列の縦列へ移行させる。それを、蛇が這うかのように波打たせて進めた。
1矢目。弾いた。距離が狭まった分、先程より重い。見定める時間も短い。矢継ぎ早に射掛けてくる2矢目、3矢目を、ほとんど勘だけで張繍は捌いた。蛇行させていた縦列を、真っ直ぐに騎馬の一団目掛けて駆けた。一団が、小さくまとまった。次矢をつがえる間はないと判断したのか、弓の男が、鉄弓を槍でも使う様に構えた。
そこに、ぶつかった。張繍の槍と、男の鉄弓がぶつかる。槍と打ち合わされたところから、鉄弓がしなる。そのまま、駆け抜けた。敵の騎馬の一団を崩し、歩兵の方陣を抜ける。
振り返る。綻びを繕おうと、歩兵が陣を組み直し始めていた。
「振り抜けなかったか」
張繍は槍を握り直した。矢を弾き続けた腕の痺れが、振るう槍の勢いを殺いでいた。
「照!」
曹仁が、100騎程を率いて駆けてくる。
「見ていたぞ」
言って、曹仁は自身の髪を軽く撫でた。張繍も、自らの頭に手をやった。軽装を好み、元より兜を被らない曹仁と同じく、髪を撫ぜる。
「ああ、飛ばされた」
男のしなる鉄弓が、張繍の顔面に伸び、兜を飛ばしたのだ。
「火矢も油壺も尽きたぞ」
曹仁が、歩兵の陣を一度見遣った。退くか、それとも方陣を組む歩兵を突き崩して敵将を狙うか。視線で問いかけてくる。
騎馬の一団の中に、年端もいかない少女の姿を張繍はみとめていた。伝え聞く容姿からして、あれが袁術だろう。曹仁と2方向から攻めれば、弓の男の抵抗をかわして少女を討つのは容易い。
「退こう」
兵糧を失うという大失態を演じた袁術を、連合軍総大将である袁紹はどう扱うであろうか。厳しく糾弾するか、それとも身内に対しては甘い顔を見せるのか。いずれにせよ、火種にはなるはずだ。望むべく最高の戦果は得た。張繍は撤退の鼓を打たせた。敵陣を駆けまわっていた騎馬隊が、一斉に元来た丘陵地帯へと向けて動き出す。張繍も馬を駆けた。
「……太史慈と呼ばれていたな」
張繍は口中で呟いた。ぶつかり合いの中、恐れ慄く袁術がそう口にしていた。張繍はその名を胸に刻みつけた。
先陣を行く曹操軍に奇襲の報が入ったのは、すでに敵が去ってからの事だった。かなりの量の兵糧が、焼き払われたらしい。華琳は進軍を止め、続報を待った。
歯噛みする思いで、後方を睨みつける。意識して見ると、わずかにそこが煙を上げているように、見えなくもなかった。
難攻不落の城塞と名高い汜水関を前に、どこかで自身の考えが硬化してはいなかっただろうか。斥候の報告によれば、守将は黄巾の乱で大功を上げ、今や官軍最強の将軍と言っていい皇甫嵩。そこに、音に聞こえた猛将である呂布、張遼、華雄が補佐をしている。城塞を頼りと篭る大敵を、如何に突き崩すか。そこに思考の大半を奪われていたのではないか。あるいは、何の進展も見られない、無意味な軍議の日々に倦んでいたのか。だから、麗羽が袁術に兵糧の移送を一任すると言った時も、深く考えることもしなかったのか。
「……ふふっ」
自然、華琳は笑みを浮かべていた。
さすがは常勝将軍皇甫義真。それでこそ、戦いがいがある。さらに、前線にこそ出てきてはいないが、その背後には魔王董卓。董卓の名は、以前から聞いていた。戦死した父の後を継ぎ、常に外敵の侵攻にさらされる涼州の治安維持に尽力する良将。武勇一辺倒の人物ではなく、時には羌族と交わることで、彼らが漢民族に対して持つ敵愾心を抑えたという。歴戦の猛者と、まだ見ぬ強敵を向こうに回し、華琳の胸は高鳴った。
「さすがは華林様。素晴らしい慧眼です」
華琳の笑みを別の意味にとったのか、桂花が言った。連合軍である。各軍それぞれに、独自の輜重を有してもいた。曹操軍は、特に多くの兵糧を用意させていた。軍の生命線と言っていい兵糧を、他者に、それも袁術のごとき無能に任せたくないと思ったからだ。それが、功を奏していた。だが、刺史や太守である諸侯の軍とは違い、私財を投じて作り上げた軍だ。総勢5000に過ぎない。単独で戦い続けることなど不可能だった。連合軍の中で、華琳が使えるとみた劉備の義勇軍と、孫策の軍も、同じく小勢だった。しかも、各々の事情ゆえに完全に兵糧は袁術任せである。兵糧は、どれだけ燃え残ったのか。続報を待つしかなかった。
「おい、照」
「ああ、わかっている」
姿こそ見せてこないが、追って来る軍があった。当然騎馬隊。それもかなり速い。一定の距離を保ち続けている。つまり、曹仁の率いる1600騎と変わらぬ速さということだ。
「3つ先の丘」
言って、照がまっすぐ前方に右手を向けた。一斉に400騎の速度が上がる。旗手だけが残って、曹仁と共に1600騎の先頭まで下がった。400騎との間が広がっていく。3つ先の丘。埋伏のために、この辺りの地形は調べ抜いてあった。
1つ目の丘を駆け上がる。振り向くと、追いすがる騎馬隊の姿が、はっきりと目に映った。3000騎ほどか。
2つ目の丘。駆け上がって、今度はその頂で1600騎を反転した。ちょうど1つ目の丘の頂に姿を現した敵軍と、同じ高さでにらみあう形となった。こうなると、お互い容易には動けない。先に動いて丘を降りれば、相手の逆落しの攻撃を受けることになるからだ。ただ、両軍の旗が、風にたなびいていた。
「角」
400騎を前進させた。角率いるその部隊は、丘と丘の狭間、最も低くなっている場所で動きを止めた。さて、どう動くか。
「なにっ!?」
見極めるつもりの曹仁を嘲笑うかのように、敵3000騎全軍が一切の躊躇なく丘を駆け降りた。逡巡する間はなかった。旗を一振りすると、400騎が馬首を返し、丘を駆け戻ってくる。同時に、曹仁は残る1200騎と共に丘を駆け降りた。
敵3000騎が、400騎の最後尾に喰らいついた。敵軍の先頭で槍を振るう女。その槍の行くところ、ひとり、ふたりと味方の兵が馬上から姿を消していく。だが、逆落しの勢いはだいぶ失われている。そこに、曹仁は先頭切って突っ込んだ。
女と馳せ違う。瞬間、曹仁は肌が泡立つのを感じた。そのまま、3000騎を削り取る様に、斜めに駆け抜ける。勢いはこちらが上でも、兵力差がある。正面からのまともなぶつかり合いは避けたかった。
駆けながら、曹仁は確認するように自らの首筋を撫でた。十文字の刃を持つ槍が、曹仁の突きを払い除け、そのまま首を刈りにきた。白鵠の駿足無くば、今頃は胴と首が1つにつながってはいなかっただろう。
3000騎が反転して追って来る。角の400騎は、2つ目の丘の頂まで引いている。1つ目の丘に昇るのを阻まれたという形で、曹仁は1200騎を2つ目の丘の方へ引いた。当然、敵も頂の角の400騎を警戒している。丘から離れた位置を追って来る。それで、曹仁の1200騎と少し距離が開いた。そのまま曹仁は3つ目の丘の横を過ぎる。
「反転っ!」
小さな半円を描いて、1200騎を反転させる。後ろを取られた状況を嫌っての、わずかに開いた距離を恃んでの強引な用兵と見えたはずだ。精鋭達は指揮をする曹仁が驚くほどに見事な動きを見せてはいたが、それでも隙は隙だ。3000騎が押し寄せる。
曹仁の1200騎の斜め前方には、3つ目の丘。先の二つの丘と比べて険しく、頂の様子はつかめないが、そこには照が率いる400騎がいるはずだ。実際にはその5倍の兵力にも相当するほどの騎馬隊だ。
勝った、そう確信に近い思いを浮かべた瞬間、またも曹仁を嘲笑うかのように、敵騎馬隊が動きを止めた。そのまま転身し、駆け去っていく。曹仁は唖然とした思いで、その背を見送った。
照が、逆落しの備えを解いて、丘から下りてくる。敵軍の姿は、丘上からも見て取れないほどに離れたらしい。
「俺の400騎が先行していることに、気付けたとは思えないのだがな。さすがに、獣並に勘が良い」
勘。確かに、そうとしか考えられないところがあった。奇襲による混乱の中、こちらの総勢を正確に把握することなど不可能に近いことだろう。
「旗には錦とあったが、知っているのか?」
「錦とくれば、錦馬超だろう」
「錦馬超」
「ああ、中原ではどうだか知らんが、涼州では、呂布殿に勝るとも劣らぬほどの武名だな」
「……恋なみの武名」
十文字槍の女の姿が思い浮かぶ。おそらく、彼女が馬超だろう。確かに、こちらの意表を突く用兵は、恋に通ずるものがあった。兵も間違いなく精強。だが、騎馬隊は攻城戦においてはあまり用をなさない。紛れもなく精鋭でありながら後方を進軍していたのはそのためか。いずれにせよ、敵の後方を乱そうとすれば、今後もあの軍が出てくるだろう。
「厄介な相手だ」
騎馬隊が駆け去ったその先を見つめ、曹仁は呟いた。