「それでは、さっそく進軍しましょうか。兵糧も残り少ないことだし、時間が惜しいわ」
「ちょっと、華琳さん! そういった命令は総大将である、この、袁本初が、下すものですわ」
騒ぎ立てる麗羽を無視して、華琳は袁術を見遣った。
「なんじゃ、曹操? 妾の顔に何か付いておるか?」
「きっと、美羽様の可愛さに見惚れてしまっているんですよ」
「うむうむ、そうであろうそうであろう。苦しゅうないぞ。もっと見ても良い」
冷やかな視線も、袁術にはまるで効果がないようだった。袁術軍の武将で、彼女の守人でもある張勲が煽ることでさらに増長していく。
「本当に、素晴らしい面の皮をしているわね。感心するわ」
「うははー。妾は気分が良いのじゃ。蜂蜜水を持ってくるのじゃ」
「あら? 蜂蜜水は無事だったのね」
孫策が皮肉気に言った。彼女は袁術の客将という立場だが、思うところがあるのだろう。
「うむ。蜂蜜水の移送には太史慈をはじめ、妾の軍団の中でも精鋭を当てておる。妾に抜かりはないぞ。うははー」
「よっ、さすが美羽様。厚顔無恥! 大陸一の恥知らずめ!」
「うははー、もっと妾を褒めるのじゃー」
「…………」
あきれた思いで、華琳は袁術の傍らに侍る太史慈に視線を転じた。太史慈は、連合軍の軍議に席を与えられるような地位にはいないが、奇襲に立ち会った現場指揮官として参加している。黄巾の残党を相手に名を上げた人物で、弓の腕前は様々な逸話とともに広く聞こえていた。男であるという欠点に目をつぶってでも、旗下に加えたいと華琳に思わせる人材だった。こうして実際に目にしてみても、堂々たる体躯に似合わぬ寡黙さで、一歩引いた態度を崩そうとはしない。それは、華琳の好む軍人としての美徳のひとつだった。その生粋の軍人に与えられた任務が、蜂蜜の番である。
「……まさに宝の持ち腐れね」
華琳の呟きは、袁術の馬鹿笑いにかき消された。
「華琳様、いかがでしたか?」
諸侯との軍議を終え自陣に戻ると、本営の幕舎には主だった者達がすでに集結していた。秋蘭の問い掛けに、華琳は桂花に顎をやった。軍議には、軍師である桂花一人を伴っている。他の諸侯も供は一人で、麗羽だけが袁家の2枚看板と呼ばれる顔良と文醜の二人を伴っていた。考えようによっては総大将の立場を誇示しているととれなくもないが、恐らく本人は何も考えていないだけだろう。そもそも二人が二人とも軍議で役に立つような類の人間ではない。
桂花は一歩進み出ると、軍議の内容を説明しはじめる。
全軍の兵糧の、実に3分の2程度が焼き払われていた。元々は20万の兵が3ヶ月の滞陣に耐えられるだけのものが用意されていた。30日の間に汜水関、虎牢関2つの関を抜き洛陽を落とす。それはほとんど不可能と言っていい。軍議では、連合軍に参加しなかった諸侯や豪族達に兵糧の供出を促すという方針が決められた。袁家の声望と、今後の保身を考えれば、集まりは悪くないはずだ。同時に、新たに買い入れもする。その資金は兵糧を失った責任をとるということで、袁術が負担する。結局、兵糧は袁家の声望と財力に頼るしかないということだった。それで、表立って今回の袁術軍の失態を批難する者もいなくなった。せめてもの皮肉も、解する頭を持たない袁術を相手にしては、ただの徒労であった。
「それにしても、騎馬隊による襲撃ですか。……たぶん、そこにいますね」
幸蘭が言った。
「まあ、そうでしょうね」
襲撃を受けた袁術と追撃を掛けた馬超から、指揮官らしき2人についても報告されていた。その内の1人は、見事な白馬を乗りこなしていたという。後方で座して備えるという様な性格ではない。まず間違いないだろう。
「? 誰の話ですか、華琳様?」
「そういえば、桂花はまだ会ったこともなかったわね。……曹仁。家出中の我が家の天の御遣いよ」
自分に敵対する。それは許し難い行為だが、攻め込まれる洛陽を曹仁が見捨てるはずがないとも思っていた。それにそれは、華琳の美意識にも引っ掛かるものがあった。
「なっ! 華琳様の元に馳せ参じなかっただけでも許し難い不忠だというのに、まさか裏切ったのですか!? なんて恥知らずな! これだから男と言うのは下賤で下等で低俗で低能で!」
「―――桂花ちゃん」
まるで地の底から響き渡るような、そんな声がした。満面の笑みを浮かべた幸蘭が、桂花へと歩み寄る。
「いけませんよ、男の人をひとまとめにして侮辱するなんて。いいですか、およそ男性というものは、二種類に分類することが出来ます」
「な、なによ。低俗と低能?」
「いいえ。仁ちゃんと、それ以外の何か」
「なによそれ。結局、どっちも低俗で低能じゃない」
「……桂花ちゃんとは、一度ゆっっっくりと、話し合う必要がありそうですね。うふふふふっ」
蘭々が、何かに脅える様に身を震わせた。春蘭も、普段犬猿の仲の桂花に対して、珍しく同情的な視線を向けている。曹仁が絡むと、幸蘭は華琳にも御しきれないところがある。
「あの子のことはとりあえず、放っておきましょう。前線の私達と直接ぶつかるということもないでしょうし」
奇襲部隊は今後、連合軍の兵站線を切るために動くだろう。輜重隊には十分な護衛をつけ、そして遊軍として馬超が動き回る。北方涼州の英傑馬謄の長子で、錦馬超と呼ばれている。馬謄は、華琳が一度は会ってみたいと思う武人の1人である。国境線の緊張が高まっているという理由で、連合軍には名代として馬超を送り出してきた。病が篤いという噂も聞こえている。
「華琳さま、わたしがひっ捕らえて」
「駄目よ。あの子のために兵を割く余裕は、我が軍にはないわ」
「うう~、仁のやつ」
春蘭が不満気にうなり声を上げた。
5千という諸侯と比べ劣る兵力を、2分するわけにはいかなかった。だからと言って、後軍に下がるつもりもない。
ここは、自分が今後の乱世に如何に立つのかを決定づける分水嶺なのだ。曹孟徳の進むべき道は常に前にある。後軍に下がることで得るものがあったとしても、それは我が覇道には必要のないものだ。華琳は、そう自身に言い聞かせた。
連合軍は、汜水関へと続く狭道へと進軍を開始した。12万は狭道の手前5里のところで陣を布き、8万が実際に関の攻撃軍となる。
奇襲を警戒し、さすがに今回は隊列を組んで進んだ。とはいえ、先頭から曹操軍5千、袁紹軍3万、劉備率いる義勇軍1千を含む公孫賛軍1万5千、袁術軍2万、孫策軍1万の計8万。麗羽と袁術の、前後に盾となる軍を置きたいという願望が透けて見える隊列だった。その上、最大兵力を有する袁紹軍と、次に兵力の多い袁術軍が間に入ることで、前後の動きがかなり限定されてしまっている。一抹の不安を感じながらも、先陣を行く華琳は進軍を続けた。
2刻ほども進むと、汜水関が視界の先にうっすらと見え始めた。さすがは難攻不落と呼ばれるだけあって、遠目にも威容を感じさせる城塞だ。
「華琳様、城門が!」
初めに気付いたのは秋蘭だった。弓使いの鷹の目が、異常を捉えていた。言われて、注視することで、ようやく華琳の目にもそれとわかった。
「開いていく?」
ぞくり、と寒気が走った。直後、城門で何かがうごめき、あふれ出した。直ぐに、馬蹄の響きが耳に届いた。続いて喚声。真紅の呂旗。さらに張と華の旗もそれに並ぶ。
「呂布、それに張遼に華雄。いきなり3枚まとめて使ってくるなんてっ」
桂花が悲鳴のような声を上げた。
「鶴翼に陣を布く!左翼、夏侯惇2千! 右翼、夏侯淵2千! 残る1千と虎豹騎は中軍! 私自らが率いる!」
「華琳さまっ、危険です! せめて私をおそばに」
「時間がないわ、早く陣形を組みなさい!」
華琳はなおも縋ろうとする春蘭を追い立てた。
進軍隊形から陣形への移行は、何度も繰り返してきた。瞬く間に鶴翼が整えられる。
騎馬隊の勢いは凄まじいものがあった。見る間に距離が詰められていく。その数およそ3千。鶴翼は、後方に控えた中軍を餌に、前方に張り出した両翼で敵軍を包囲するための陣だ。包囲の成否は、中軍の踏ん張りに掛かっている。
ぶつかる直前、華琳は歩兵を左右二つに割った。そもそも、5千で受け止めるには無理があった。他の軍と比べて兵力の少ない曹操軍が功を上げるには、自軍の犠牲を如何に抑えるかが重要なのだ。麗羽の3万を巨大な中軍と見立てて、5千全軍で包み込む。初めからそのための鶴翼だった。200騎の虎豹騎と20騎の華琳の親衛隊だけが、元々の中軍の位置に取り残された格好だった。
「華琳さま、俺たちは退かないのですか!?」
叫ぶように言う蘭々を華琳は手で制した。蘭々には、華琳直属の精鋭重騎兵である虎豹騎の指揮を任せていた。まだまだ未熟だが、騎馬隊の指揮には光るものがある。華琳が直接虎豹騎を率いるときは、その副官だった。
さらに距離詰まる。華琳は、スッと息を吸い込んだ。
「―――我に続け!」
真っ直ぐ騎馬隊目掛けて駈け出した。親衛隊は、一騎も遅れることなく付いてきている。虎豹騎は、本来の指揮官である蘭々の戸惑いからか、わずかに遅れた。ただ愚直に華琳の身を守ることを任とする親衛隊との差だった。戸惑いが生じるのは、将として頭を働かせている証拠だった。悪いことではない。その後の判断の遅れは、蘭々にとって今後の課題だろう。
騎馬隊が迫る。華琳も、何も本当に騎馬隊とぶつかるつもりはなかった。遠目にも精鋭であることがうかがえる騎馬隊を、音に聞こえた猛将3人が率いているのである。如何に虎豹騎と言えど、まともにぶつかれば壊滅は免れようがない。ただ、重騎兵が直前でわきを過る。それだけでも騎馬隊の勢いは幾分殺がれるはずだった。
華琳の目が、騎馬隊の先頭を駆ける将の姿をはっきりととらえた。赤い髪に、漆黒の戟。
「―――っ!」
華琳は己の過ちを覚った。呂奉先。どこかで、曹家最強の武を誇る春蘭を基準に考えていた。天下無双とは言っても、自分とそれほどの差があるはずはないと。その考えが、一目見ただけで覆された。人の形をした武そのもの。その武威が、率いる騎馬隊全体を覆っているようだった。
たったの3万、それも麗羽の軍で、受け止められるはずがない。自軍の犠牲を恐れず、立ち向かうべきであった。麗羽が、総大将が、討たれる。この戦は負ける。
逡巡は、一瞬だった。華琳は“絶”を握り直した。間合いの内に入りし者の命を刈り取る大鎌、絶。鎌と戟。重騎兵と軽騎兵。我が天命と呂布の武威。いずれか勝るか。
呂布。視線があった。そこから、まともにぶつかろうとする意図を読み取ったのか、一瞬怪訝そうに眉をしかめる。そんな変化も見て取れるほどに、近い。背後で、蘭々が何事か叫んだ。
―――ぶつかる。
「はぁっ!」
絶を振るった。そのまま駆け抜ける。騎馬隊が、通り過ぎていく。
華琳は、手振りで虎豹騎を止めた。自身は馬を御し切れず、数歩進んでから、轡を握る季衣の手で止められた。くずおれ、馬に突っ伏しそうになっている自分に華琳は気付いた。
鎌と戟。ふれあう様に、わずかに掠めただけだった。それだけで、自分の中にある、何か闘志のようなものが打ち砕かれていた。
「……季衣」
「ご、ごめんなさい、華琳さま」
「いいえ、よくやってくれたわ。蘭々も」
本当なら、死んでいた。
ぶつかる瞬間、季衣に馬の轡を引かれ、華琳は方向転換を余儀なくされていた。蘭々の指示だ。それで、一命を取り留めたに過ぎない。
「負けたわね。……でも、生き長らえた。―――我が天命は未だ尽きず!」
自分に言い聞かせる言葉が、最後には叫びのような大声となって溢れ出していた。失われていた闘志も、一緒に湧き出してくる。
馬首を返した。3万の袁紹軍を騎馬隊が断ち割っていく。ほとんどぶつかる様な近さまで虎豹騎が迫ったことで、勢いはかなり殺げたはずだ。それでも、麗羽まで届く。それは確信に近い思いだった。ならば、どうするか。
沸々と湧き上がる闘志も、今度は華琳の思考を鈍らせはしなかった。華琳は努めて冷静に、最良の選択を模索した。
大軍を前にしても、気負いを一切感じさせることなく、恋は無造作に飛び込んでいく。霞は恋の背を追いながら、後方の曹操軍の動きに注意を払った。騎馬隊は、1つのかたまりのように見えて、3つの隊に分かれている。
第1隊は恋が率いる500騎。ただ総大将目掛けてひた駆ける。
第2隊は華雄率いる500騎。第1隊の切り開いた道を押し広げる。
第3隊が霞率いる1000騎。退路の確保と引き際の見定め。それが霞に委ねられた任である。後方にも常に気を配る。前方では華雄が、前へ前へと駆けていく。猪突猛進なところのある華雄には任せられない任務だった。
進軍隊形からの移行も済んでいなかったのか、3万の袁紹軍は、魚鱗ともただ縦列に兵を並べただけともとれる陣形をとっている。その、ほぼ最後方に袁の旗。恋が進むところ、面白いように敵兵が蹴散らされていく。
さすがに、袁旗に近付くにしたがって、兵の練度が上がってくる。百、2百単位で隊列を組み、それが連係した動きを見せる。騎馬隊の勢いを殺しに来る。大軍の中で勢いを失えば、騎兵は力を発揮できない。
「はあっ!」
だが、止まらない。恋が方天画戟を一振り二振りするだけで、兵だけでなく、隊列そのものが崩れていく。同じ将としてはゆゆしきことだが、恋が先頭を行くこの騎馬隊を止められるものなど存在していないとすら思えた。
袁旗はもう間近だった。金色の光を放つ派手な具足を身にまとった袁紹の姿も、旗の下にあった。第1隊、恋の牙が、届く。
「でりゃああああっ!」
「たああっ!」
左右から大剣と大金槌、2つの超重量が恋を襲った。袁家の2枚看板、顔良に文醜。
「はあっ!」
ただの一振りで弾いた。巧い。もちろん人並み外れた膂力あったればこそだが、攻撃に重さが乗る、その直前を狙っている。弾かれた得物の重量を支えきれずに、小さな悲鳴を上げて2人が馬上から姿を消す。それで、袁紹軍全体に衝撃が走ったのが霞には感じられた。方天画戟を振るうまでもなく、恋が駆けるだけで、向かう先の敵兵が潰走していく。
袁紹。その顔が恐怖と驚愕にゆがむのが、霞からでもよく見えた。恋が方天画戟を、振り上げ、振り下ろした。
―――戦場に金属音が鳴り響いた。
打ち消すように、今度は凛とした声が響き渡る。
「魔王董卓に与する義無き刃よ! 劉玄徳が一の家臣、関雲長がお相手致そう!」
龍を模った偃月刀が、袁紹を狙った恋の一撃を受け止めていた。
あり得ないものを見た。そんな思いにとらわれた霞は、偃月刀を手にするその黒髪の少女に目を奪われた。
「袁紹さん、こっちへ!」
桃香の声に、青龍偃月刀と方天画戟の下、呆然としていた袁紹が馬を返して後方に下がる。
潰走しつつある袁紹軍を押しのけるようにして、後方には義勇軍が陣を布いている。袁紹軍にしっかりと陣を組まれていれば、義勇軍のここまでの前進は不可能だったろう。それは不幸中の幸いと言ってよかった。
「逃がさない」
「貴様の相手は私だと言っている!」
追いすがろうとする呂布の無防備とも思える身体に、愛紗は青龍偃月刀を叩き込んだ。
「くっ! お前、邪魔」
呂布は、人間離れした反応でそれを防いだ。ようやく、愛紗と相対するように馬を向ける。
愛紗と呂布を置き去りにして、騎馬隊が駆け抜けていく。鈴々と星が、袁紹の後退を援護しているはずだが、それを確認している余裕は愛紗にはなかった。
対峙する呂布から、人間のものとも思えない強烈な武威が発せられている。濃密な空気がまとわりついてくるような錯覚を、愛紗は感じた。体も、いつもよりもずっと重い。
「はぁっ!」
それを吹き飛ばすように、自分から打ち込んだ。当然のように防がれる。だが、それで体は軽くなってくれた。
それでも、そこからは防戦一方だった。突きを弾き、払いを受ける。虚などなく、実のみの連撃。ただ、どの一撃をとってみても、速く、重く、正確で、なにより的確だった。攻めに転ずる機が与えられない。常に最悪を想定し、それに備えることで何とかしのいでいた。
首を突きにきた戟を、払いのける。横腹に隙。間髪入れず、そこに横薙ぎが飛んでくる。
「っく!」
受け止めた。 刃先がわずかに腹部に触れる。そんな紙一重を繰り返し、さらに十合、二十合と命をつないだ。
ふっと、攻撃の手が弛んだ。好機。
―――息を吸って、呼吸を整えろ。
生死の境に置かれ続けた体が訴えた。振り切って、攻めに転ずる。が、一瞬の迷いに好機は逸していた。
呂布の馬が、棹立ちになった。馬の体重、勢いものせた上段。
咄嗟に、愛紗は青龍偃月刀の峰に腕を当てて、担ぐように構えた。まさに天地が引っ繰り返るような衝撃が、その身を襲った。
気付けば、呂布を見上げていた。呂布の一撃に耐え切れず、馬が地に伏せている。馬が潰れなければ、間違いなく押し負け、斬り下ろされていただろう。
立ち上がり、馬から離れる。呂布からの追撃は来ない。その意思も感じられない。油断なく構えつつも、愛紗は初めて少し落ち着いた気持ちで、呂布の顔を見つめた。先程までの武威はなく、むしろ保護欲をそそる様な弱り切った表情がそこにあった。
「……しまった」
「しまった?」
「馬に、悪いことをした」
「はあ?」
気の抜けるようなその言葉に、張り詰めていた愛紗の緊張の糸もほどけた。その間隙を突くように一騎が駆けよってくる。
「恋、退くで! 曹操軍が汜水関に向けて進軍しおった。城門前に布陣されると、さすがに面倒や」
馬上の女が言った。隙のない身のこなしは、尋常の武人ではない。彼女が張遼、あるいは華雄か。女は、愛紗に視線を転じると、楽しそうに笑いながら口を開いた。
「あんた、やるなぁ。恋相手に、あないに戦える武人は初めて見たわ。関雲長ゆうたな。その名前は曹仁から聞いてるで」
「っ!」
―――なぜ、曹仁殿を。否、知っていて当たり前なのか。今はどこに。奇襲部隊を率いていたというのが、やはりそうなのか。なにより、なぜ、董卓に味方をするのか。
「ウチは張遼。字は文遠。次はウチとやろうやないか」
曹仁の名に思考を奪われた愛紗を残し、張遼と名乗った少女が駆け去っていく。呂布も、それに続いた。
「待てっ! 曹仁殿は―――」
その背は、直ぐに隊列を組み直しつつある袁紹軍の中へと消えていった。馬は、骨こそ無事の様だが、足を挫いたのか、直ぐには走れそうにない。追うことはかなわなかった。
―――曹仁殿は、なぜ董卓の元に。
もう一度思った。さらに、思いが募る。
呂布は、心気に澄んだものを感じさせる少女だった。張遼も、気持ちの良い武将と見えた。帝を廃し、硬骨の士を幾人も処刑した悪逆の魔王董卓。なぜ、曹仁や彼女達が味方するのか。
愛紗は、戦場にあってそんな思いにとらわれた。
汜水関前に、着々と攻囲陣が布かれていく。華琳は、本陣に築かれた高台からその様子を眺めた。
陣は3段に組まれ、それぞれの前面には騎馬隊による反攻を防ぐため、馬防柵が立てられている。その後方に本陣が控える形だ。
最も兵数の多い袁紹軍を2つに分けて、全部で6隊とする。各隊1段ずつの3隊で交互に入れ替わりながら攻撃を続け、約半日ほどで残る3隊と交代する。これで、1日の半分を兵達の休息に当てつつ、間断なく1日中攻撃を続けることが出来る。
兵力が少ない曹操軍に、袁紹軍あるいは袁術軍の兵を連合させるという話もあったが、それは華琳が断っていた。調練は十二分に積ませてある。下手に練度の低い軍と組めば、こちらの力まで殺がれかねなかった。曹操軍5千だけで、2倍、3倍の敵と対し得る自身が華琳にはあった。
しかし、劉備の義勇軍1千、あの軍の強さは一体何なのだ。
関羽は、あの呂布と百合近くも打ち合ったらしい。そして、その武勇もさることながら、軍としての働きはそれ以上だった。3千騎の精強な騎馬隊の突撃を、見事に受け止めている。
関羽が呂布の動きを抑えていた。袁紹の3万を抜けたことでかなり騎馬隊の勢いが落ちていた。後方に公孫賛の1万5千の圧力があった。そうやって、理屈はいくらでもつけられる。しかし現実として、旗下の5千から選び出した1千を率いて、同じ真似が出来るだろうか。華琳は自信を持って首を縦に振ることが出来なかった。
天下の義軍。いつ頃からか、そんな名が民の間で囁かれるようになっていた。黄巾の乱の鎮圧に大功を上げ、不正を憎み官を辞した清廉の士。悪を憎み、賊あるところどこにでも現れ、それを討つ義の軍。
民の噂などと言うものは得てして大袈裟に誇張されるものだが、華琳は幸蘭が全国に張り巡らした情報網を通して、義勇軍のかなり正確なところまでを把握していた。そこには、自分のすぐそばで育った曹仁が英雄と見た人物、劉玄徳に対する個人的な興味があったと言っていい。少なくとも、現状に置いては警戒を要するような勢力ではないのだ。
なんの報酬も無しに、賊徒の鎮圧に奮戦する義軍。その評判は概ね正しかった。そんな軍が餓えもせず戦い続けることが出来たのは、多くの民と、利で動く商人達までが、彼女らを支援したからだった。それが劉玄徳の魅力、あるいは能力と言い換えても良いものなのだろう。そして、もうひとつ言えることは、この1年ほどの間、将兵共にもっとも多く戦場に立った軍だということだった。
反董卓連合の先にあるもの、それを見据えたとき、最も注意を払わなければならないのは、劉備の義勇軍かもしれない。所詮は小勢と、そう思いながら華琳は、その考えを捨て去ることが出来なかった。
輜重隊襲撃から5日、洛陽からの伝令が張繍の元へと届いた。内容自体には特筆すべきことは何もなかった。こちらからの奇襲成功の報を確かに受け取ったという確認に過ぎない。連合軍による汜水関攻撃もすでに始まっているはずだが、そもそもこの伝令はそれ以前に発されたものだろう。黄河を使っての伝令の往復には、洛陽とでも丸4日は必要だった。
「董卓様と賈駆様より、張繍様にこれを預かってまいりました。忘れ物だということです」
最後に伝令兵から、巻き取られた一幅の布を手渡された。それが何なのかは、考えるまでもなく解った。
「曹仁、お前か?」
布を広げた。“張”の字の大旗。白地に黒で大きく書かれた張の字の縁取りは、金糸で縫い取られている。これは、“繍”の字を表しているのだろう。
今度の戦で掲げる様にと、月と詠から贈られたものだった。この戦に勝てば、乱世は一応の終息を見る。今後は、各地に散った連合軍の諸将を各個討伐するという、天下の主催者としての戦が続くことになるだろう。だから、これほどの大戦は今回で最後だ。最後に名を成せ、というのが2人の思いだろう。
しかし、将としては華雄が育ってきているし、今後の戦では呂布や張遼も使えるだろう。自分が名を成す必要など、どこにもないのだ。それならば、董卓軍としての武功を積み上げた方がいい。月が軍を発すれば、歯向かう者などいない。そういった状況を作り上げてやることが、自分の役割だと張繍は思い定めていた。
だから、張繍は2人の思いだけを胸に、旗は洛陽の軍営へと残していた。その張旗が、今、目の前にあった。
「ああ、そうだ」
曹仁は事も無げに答えた。その態度に、苛立ちが募る。隠してこそいないが、偶然2人の目に留まるような場所にも置いては来なかったのだ。曹仁からの連絡がなければ、2人が知ることもなかっただろう。
「余計なことをするな」
「お前はもっと自分のための戦をすべきだ。それに、お前が少しは名を成さないと、困るのはあの2人だぞ。釣り合いってものがあるからな」
「釣り合い? 何の話をしている?」
「はぁ」
曹仁は肩をすくめる大袈裟な動作で、演技がかった溜息を吐いた。
「まあ、お前のことだから本気で言っているんだろうな」
「? とにかく、余計なことだ」
言いながら、張繍は旗を見つめた。自然と、気持ちが安らぐ様だった。金糸の刺繍は、月が自ら針をとったという。きれいに縫いあげてある。そんな中、歪にゆがんだ部分もわずかにあった。本人は何も言わないが、多分詠が縫ったのだろう。昔から手先だけは不器用なのだ。
持つだけ持っておけ、そう告げて張繍は旗手に旗を渡した。旗を前に悪戦苦闘する詠と、柔らかい笑みでそれを見守る月の姿が、張繍の脳裏に浮かんでいた。
月と詠も、出会った当初から仲が良かったというわけではない。
元々、涼州は豪族が強い土地柄だった。洛陽の都からは遠く、常に異民族からの侵攻を受け続ける位置にあったことが、その原因だろう。民の根底には、中央から見放された存在だという気持ちがある。中央からも、時に反乱を企てる危険な地域と見られていた。お互いの折衝役というのが、月の父の役割だった。
涼州の裏切り者の娘。初めて会った時は、詠はもちろん張繍にも幼心にそんな不信感があった。月の愛らしい性格にも、むしろ懐疑心を抱いたほどだった。それでも、月の純心を前に、いつまでもそうしていられるものでもなかった。詠が月にほとんど骨抜きと言っていい程になるのも、時間の問題であった。
月の父は、豪族の反乱を鎮め切れず、逆に戦死する結果となった。残された月は、幼くしてその後を継いだ。多くの豪族を取りまとめていた馬謄や韓遂などは、月に従うことを良しとはしなかった。涼州には、味方も多いが、それ以上に敵が多い。月が中央で権力を握れるように詠が画策したのも、理の当然であった。
そして、今度のこの戦だ。詠は謀略だけで終わらせられなかったことを悔いているが、とにかく、これですべてが終わるのだ。勝って、月が治めるという形で乱世の終結をみる。その秋(とき)は、もはや目前まで迫っていた。