敵陣には“曹”の字や“劉”の字、“孫”、“公孫”など、曹仁にとって懐かしい旗印が居並んでいた。ひと際大きくたなびいているのは“袁”の牙門旗だ。他にも、つい数日前まで幾度となく矛を交えてきた“錦”の旗も見える。後軍として汜水関前に陣を布いていた諸侯達の旗も林立している。
虎牢関を失った董卓軍は、野戦による決戦を選択していた。東に汜水関と虎牢関、西に函谷関、南北に山岳と、要害に囲まれた平原の中心にそびえる洛陽の都自体は、防衛に適した城邑とは言えなかった。四方に城門をもつ開かれた都であり、攻めるに易く守るに難い。四方を要害に守られているとはいえ、簒奪の憂き目を経験した王朝がこのような城郭を築き上げたのは、後漢朝の祖、光武帝劉秀の稀有な人格の表れと言っていいかもしれない。あるいはその遺徳こそが、何にも増してこの都を守っていたのだろう。今日の状況を鑑みるに、その遺徳も外戚の重用や宦官の横行による政道の乱れにすり減り、黄巾の乱と言う大規模な民衆蜂起が発生した時点で底をついたと言えよう。
洛陽から二十里ほどの位置に布かれた陣に、すでに曹仁も合流していた。汜水関と虎牢関のある狭道と洛陽の中間地点より、やや洛陽寄りの位置だ。対して狭道寄りに陣を布いている連合軍とは、十里も離れてはいない。
別働隊の指揮は角に任せてある。錦を掲げた騎馬隊、馬超の軍勢が決戦のために狭道を抜けたことを確認したためだ。別働隊には千六百騎を残し、自身は先駆した照に代わって董卓の旗本の四百騎を率いての、黄河を船でさかのぼっての合流だった。馬超の騎馬隊さえいなければ、千六百騎で十分に対処できると判断してのことである。
旗本の四百騎はすでに照に返していて、曹仁の指揮下には新たに騎馬隊一千騎が置かれている。官軍の騎馬隊は他に、霞に三千騎、恋に一万騎が与えられている。他に一万の騎馬隊が官軍にはあって、それは皇甫嵩が直々に指揮するが、状況によっては恋の指揮下に入る。兵馬の質としては、曹仁の一千がもっとも高く、次で霞、恋、皇甫嵩と続く。数と質の違いはそれぞれの担った役割による。恋の一万は大勢を決し得るような大打撃を与えるための騎馬隊であり、曹仁の一千は細かく動き回って歩兵と歩兵のぶつかり合いを優位に進めるための騎馬隊である。
今は斥候も兼ねた調練として、その一千騎を駆けさせていた。
「よし、戻るぞ」
一度、敵軍の旗印が容易に確認出来るほどまで迫ると、曹仁は馬首を巡らした。騎馬隊による奇襲を数度経験しているだけあって、敵軍の警戒は厳重である。騎馬隊のみで敵陣近くに長く留まるのは得策とは言えない。
最後に振り返って、曹仁はもう一度たなびく旗印を視界におさめた。その胸の内に走る疼きを振り切る様に、騎馬隊は駆けた。
自陣に戻り、厩舎代わりに設けられた幕舎に曹仁が足を踏み入れると、そこには霞の姿があった。自らの愛馬に目を遣っている。
馬の世話を手ずからやるというのは、良い騎兵の条件であると曹仁は考えていた。騎兵を率いては神速の異名を取る霞も、その例外ではない。もっとも、曹仁の知る最高の騎兵隊長である恋は、その辺りぞんざいであった。可愛がっていることは確かだが、その扱いはセキト達と同じである。つまりは愛玩動物に対するそれに近い。屋敷では曹仁か、最近では高順がその世話を代わっていた。
「霞」
「なんや、曹仁か」
背後から声を掛けると、気の無い風に霞は言った。曹仁の方を見向きもしない。
「……虎牢関でのこと、気にしているのか?」
意外なことに、虎牢関の戦いでは恋の騎馬隊の損害が大きかった。奇襲より帰還する際に、城門という限られた空間の中で押し合う兵の波に機動力を失ったところを、孫策軍の歩兵部隊に襲われたらしい。袁紹軍の兵の間をすり抜ける様に駆けては攻撃を繰り返す、軽装かつ俊敏な隊だったという。恋の補佐として騎馬隊を率いた霞には忸怩たる思いがあるようだった。
「あいつ、甘興覇とか名乗とったな」
霞が愛馬の背を撫でやりながら、忌々しげに言った。鬣(たてがみ)が、わずかに斬り落とされている。二人いた将の一人にやられたらしい。馬体は傷ついてはいないようだが、少し見栄えは悪い。
「そういえば、曹仁は黄巾党鎮圧の時に孫策軍と共闘しとるんやったな。知っとる奴か?」
「いや、記憶に無いな」
甘興覇という名に聞き覚えは無かった。霞の乗る馬に白刃を迫らせるほどの者が、軍中にあって無名で居続けるとは思われない。最近になって孫策軍に加わった者か、あるいは今回の戦場には孫策の妹である孫権も参加しているというから、彼女の配下の将なのかもしれない。
霞に別れを告げて厩舎を後にすると、曹仁はその足で本営へと向かった。“漢”の大旗に、寄り添う様に“皇甫”と“董”の旗が立ち並ぶ。
「失礼します」
幕舎内には、皇甫嵩の他に副将である照と徐栄、幕僚扱いの音々音の姿もあった。徐栄が自ら組んでくれた床几に、礼を言って曹仁は腰掛けた。徐栄は、主君である董卓、上官である賈駆と照と親交の深い曹仁を立てる態度を崩そうとしない、落ち着きを感じさせる女性だった。年齢は曹仁や照よりもひとつふたつ上だろうか。軍議における発言の端々からは、皇甫嵩への強い尊敬の念がうかがえる。それも、曹仁に対する態度の一因であろう。
「で、どうであった?」
「ああ、やっぱり健在のようだ」
敵陣の動向を通じて麗羽の現状を探ることが、斥候の一番の目的だった。敵陣には動揺は見られなかった。それすなわち麗羽の健在を意味しているというわけではないが、総大将の不在を隠し切れるほどに、連合軍は一枚岩ではないだろう。名族袁家の当主である麗羽がいればこそと参加した諸侯も多い。総大将の討ち死は、元々士気が高かった汜水関虎牢関攻めに参加していた軍や、他のいくつかの軍を残しての、連合軍の瓦解へとつながる可能性が大きいのだ。
「やはり無事であったか。まったく、悪運の強い」
恋の報告と、大した混乱も無く虎牢関の占拠が成し遂げられたことから、予想はついていたのだろう。さして落胆した様子も無く皇甫嵩は言った。
恋の口から語られた事の顛末は、真面目に策を考えることなど馬鹿らしくなる様な、そんな内容であった。
突然の強風に負けることなく、恋の放った勁矢は狙い過たずに走った。しかし、それでいながら矢はむなしく空を切ることとなる。強風に煽られて身動ぎした馬から、麗羽が身を支え切れずに落ちたというのだ。さらには、落馬したことで周囲の騎兵に紛れてしまって、高みに登ったところでもう姿を確認することも出来ない。如何に恋といえども、それでは狙いようがあろうはずもなく、二矢目は断念するしかなかった。
これを悪運と言わずして何と言えようか。皇甫嵩の口調にこもる、驚きも呆れも通り越して感心したとでもというような響きに、曹仁も同意するほかなかった。
「そういえば、あやつは張譲による粛清の軍からも、残兵による暗殺の手からも逃れたのであったな」
皇甫嵩は他人事のように続けたが、麗羽の洛陽からの脱出行の成功には、曹仁や角の尽力はもちろん、彼女の力添えも大きい。とはいえ、恋や音々音、霞の主君であった丁原をはじめ、何進に加担していた者達ことごとくが誅殺の憂き目にあっている。唯一免れた麗羽は、やはり相当な悪運の持ち主と言っていいのだろう。
事情を聴かされている照はわざとらしい視線を皇甫嵩と曹仁に向け、徐栄はそれを不思議そうに眺めている。
「……それで、陣立てはどうだった?」
地図を広げながら、照が気を取りなおしたように言った。そこには、既に自軍と敵軍の陣容が書き込まれている。ほとんど起伏のない平地が続くため、地形に関する書き込みは少ない。ただ、風が吹くと黄砂が舞うため、実際に駆けてみると地図から受ける印象ほどに視界は広くは無かった。
「……地図の通り、変化はないな」
しばし地図をねめつけてから、曹仁は答えた。
連合軍は1つにまとまって、巨大な魚鱗の形で駐屯していた。総勢十八万の大軍である。恐らく進軍する時も各軍の配置に大きな変化は見られないだろう。
「総大将の前後を厚く固めた横陣、とも取れますね」
徐栄が、控え目な口を開いた。
「連合軍は指揮を執れる将が多い。横に大きく構えることで戦端を広げ、こちらの手が回らない状況を作りたいのだろうな」
皇甫嵩の言を皮切りに、しばし敵陣の解析が行われた。
魚鱗は通常の正三角形よりも、底辺の長い二等辺三角形に近く、横に広い。皇甫嵩の言う通り、戦端を広く取ることで、各軍が敵に当たる構えを作ったと見るべきだろう。連合軍の弱点と成り得る連係の甘さを下手に補うのではなく、最初から連係自体を切り捨てた構えとも取れる。
また、総大将を底辺に置く通常の魚鱗とは違い、“袁”の牙門旗は中軍中程に立てられていた。これは、後方からの騎馬隊による強襲に対する備えだろう。
「―――ふぅ」
話しの間隙を突く様に、皇甫嵩が蒼い吐息を漏らした。顔色も、蒼白と言っていい。
「……曹仁」
音々音が小声で囁いた。照と徐栄に視線をやると、二人も軽く頷き合う。
「将軍、今日はそろそろ休もうか」
「まだ、―――っ! 乱暴だな。私は一応怪我人だぞ」
有無を言わせぬ勢いで腕を取ると、曹仁は皇甫嵩を立ち上がらせた。
「怪我人なら、大人しく今日はもう休め」
そのまま、右肩の傷に触れない様に支えながら、幕舎の外へと連れ出す。皇甫嵩も抵抗しても無駄だとすぐに悟ったのか、大人しく身をゆだねてくれた。曹仁は、 皇甫嵩の私室代わりとなっている幕舎へと、足を向けた。
一応怪我人、などと言うものではなかった。
同士討ちと、その混乱に乗じた連合軍の攻撃に晒される中、皇甫嵩はまず董卓と賈駆を洛陽郊外に展開していた残存部隊まで退去させた。その後、董卓軍の将である徐栄と協力することで、混乱を最小限に抑えつつ、自ら殿軍に立っての退却を敢行した。皇甫嵩はそこで、恋の騎馬隊の威を武器として、兵をまとめ上げてからは追撃による被害をほとんど出さないという用兵の妙を発揮している。連合軍も、虎牢関の守備兵以外に十万以上の兵力を有する董卓軍を相手に深追いは避け、後軍との合流を選んだ。これが、虎牢関での敗戦の顛末である。
その後、皇甫嵩は徐栄と共に不穏な空気の流れ続ける董卓軍、官軍の慰労に努めた。賈駆の伝令で呼び戻された照が合流して董卓軍を掌握することで、ようやく一時の安寧を得ることが出来たのだ。
皇甫嵩の傷は相当に深く、治療の遅れも手伝って、右腕が元通り動かせるようになる可能性は低いということだった。加えて出血による体力の低下も深刻で、本来ならば安静にしていなければならない状態にある。
しかし、皇甫嵩が怪我を押して大将として立ち、それを副将として照と徐栄が支えることで、官軍と董卓軍がまとまりを取り戻しているという現状が、それを許さなかった。代わりに大将を務められる者としては、立場上董卓が適任ではあるが、それでは官軍の将兵は納得しないだろう。董卓と賈駆は、余計な混乱を招かないため、今は洛陽に戻っていた。
官軍の将としては恋と霞がいるが、二人が如何に将才優れた英傑とは言っても、元々は丁原の私兵に近い立場である。官軍の中では新参であった。その立場が大将に登ることを許さない。曹仁に至っては未だ皇甫嵩の客将に過ぎないのである。曹仁は自らの無力に歯噛みする思いであった。
「それでは麗羽、またね。……くふっ」
麗羽の口から軍議の終わりが告げられ、諸将が席を辞していく。華琳は麗羽に、別れ際の一言を投げかけた。
「……華琳さん、何か言いたいことがありまして」
「いいえ、何も。くふっ、ふふふっ」
「華琳さんっ、人の顔を見て笑うだなんて、失礼じゃありませんこと!」
「あははははっ」
麗羽が声を荒げた。合わせて、その金髪が揺れた。頭に巻かれた包帯を押しのける様にあふれ出る、その豊かな金髪が。華琳はこらえ切れずに、声を放って笑っていた。
落馬の折に打ったという麗羽の頭には、大袈裟に過ぎるほどに包帯が巻かれていた。落馬は、ひとつには麗羽の馬術の拙さによるが、それ以上に乗りこなせもしない悍馬をただ体躯が立派であるという理由だけで選んだ浅はかさによるところが大きい。それが故に一命を取り留めたことを考えれば、あるいはその悪運の強さを褒めるべきところなのかもしれない。とにもかくにも、袁紹軍が虎牢関を一番に抜くという名誉と共に、戦場に置いて落馬をして命を拾うという不名誉を得たというのが、今の麗羽であった。
「ははっ―――ふっ、くふっ。……いえ、ごめんなさい、麗羽。何でもないのよ。」
華琳は笑いをおさめると、あとには麗羽と自分、その供だけが残る幕舎を辞した。金切り声を背に、自陣へと足を向ける。
会戦は、使者を送って白日の下に堂々と行われることで決定された。当然、麗羽の言い出したことだが、華琳にも否やは無かった。桂花や、孫策の軍師である周瑜、劉備の軍師である諸葛亮には思うところもあるようだったが、天下の帰趨を占う一戦とはかくあるべきであろう。
なにより、相手はあの呂布を有する歴戦の名将皇甫嵩である。小細工を弄するのはもう十分だった。華琳は生まれて初めて、他者に挑むという感覚を味わっていた。結果として連合軍は汜水関、虎牢関の二つの要害を抜いてはいるが、兵糧を狙った奇襲と、麗羽の命を狙った二度の強襲には、華琳は完全に思考の虚を突かれたと言っていい。むろん負けるつもりはないが、もはや皇甫嵩が自身よりも格上の将であることを認めるに、華琳はやぶさかではなかった。
自陣に戻ると、騒然とした空気が流れていた。
「華琳様、ちょうど良いところに」
何事かと問い質すより先に、駆けよってきた蘭々が腕を取って華琳を引き摺り始めた。隣で桂花が色を成したのが分かったが、華琳はされるがまま蘭々に着いていった。従姉妹の中で唯一年下の少女である蘭々に対しては、華琳も多少甘くなってしまう自身を自覚していた。
「落ち着け、姉者」
「ええい、離せ、秋蘭。今ならまだ―――」
「春蘭!」
「っ! か、華琳さま」
抱き止める秋蘭の腕を振り解きに掛かっていた春蘭は、華琳の一喝で途端小さくなった。事のあらましは、引き摺られながら蘭々の口から聞かされていた。
物見の兵が、敵騎馬隊の接近を捕捉していた。遠目にも鮮やかに抜けた白色が、その隊を率いていたという。報告を聞くや出陣すると色めき立った春蘭を、秋蘭以下皆が引きとめた。さすがに華琳の不在中に無断で兵を動かすのは不味いと春蘭も理解したのか、今度は単騎でもって追い縋ると言い出したのだった。
「いい加減にしなさい、春蘭!」
「しかし、華琳さまぁ。仁のやつが……」
「あなた一人が行ったからといって、どうなるものでもないでしょう」
「ううぅ」
春蘭は目を潤ませて唸った。
春蘭が曹仁を必要以上に可愛がる理由ははっきりしていた。春蘭は従姉弟の中では幸蘭に次いで年長でもあるし、得手不得手はともかくとして生来の性格は姉御肌に近く面倒見もいい。一族の年長者として下の者の世話を焼くのは当然だと思っているし、それを好んでもいる。しかし、華琳自身も含め一癖も二癖もある女性陣の中では甚だ分の悪い話であった。最近では、従姉弟の中で最年少の蘭々も、一族の血を色濃く見せ始めている。春蘭がお姉ちゃんぶれる相手というのは、すでに曹仁しかいないのだった。
「うぅぅ」
「…………はぁ。しかたないわね。今は駄目だけれど、戦場で仁と対することがあれば、春蘭、あなたがその手で捕らえなさい。私の眼前に引き立ててくるのよ」
「っ、華琳さま! はっ、わかりました。必ずや引っ立ててまいります!」
泣く子と春姉には勝てない、とはかつての曹仁の言であるが、泣いた春蘭にはさしもの華琳も敵わないのだった。
「―――でも、そう、来ているのね、この戦場に」
血のつながりこそ無いとはいえ、蘭々と同じく年下の従弟である曹仁に対しては、やはり華琳もどこか甘いのだった。自軍に迎え入れたいという思いは、春蘭にも負けずある。もっとも曹仁自身は人一倍厳しく扱われ、ほとんど苛められているとすら感じているだろうが。
華琳は、迫る大戦へと思いを馳せた。